コロキウム5

語り示しの実践としての教育哲学研究の可能性

:レヴィナス、デリダ、ドゥルーズから


   企画者:安喰勇平(茨城キリスト教大学)

   司会者:鳶野克己(立命館大学)

   報告者:安喰勇平(茨城キリスト教大学)、松枝拓生(神戸市看護大学・

       非常勤講師)、李舜志(日本学術振興会特別研究員)

【概要】

 教育哲学研究において「語り方」や「論じる方法」に関する研究(物語論、事例を用いた現象学的研究、矢野智司氏の研究群等)が蓄積されてきている。これらの研究は、合理主義的・機能主義的な技術知として特徴づけられる教育学研究の用語や語法では十分に描き切れない教育の諸相を語り、かつ、その研究自身が一つの合理主義的・機能主義的な技術知に回帰しないため、またそのような技術知として読解されないための抵抗の姿勢を示していると総括できる。小野文生氏の表現を借りれば、語り示しの実践としての教育哲学研究の重要性が提起されつつあるのである。このような状況において、20 世紀後半に迂遠な表現や隠喩、造語などの様々な仕掛けを論述の中に組み入れたフランスの哲学者レヴィナス、デリダ、ドゥルーズは重要な参照項となりうる。彼らの哲学は、それぞれが既存の哲学の語法や用語の限界を越えて、しかしそれと同時に、哲学の範疇に留まって、論述を行うという狙いを有する。彼らの論述から、現況において、教育哲学研究は何を学ぶことができるか。この問いに本企画は取り組む。レヴィナス、デリダ、ドゥルーズの「語り方」や「論じる方法」に関する考察を通して、本企画は、語り示しの実践としての教育哲学研究の可能性を探究し、その意義及び限界の提示を試みる。

【教育思想史学会第30回大会を終えて】

コロキウム5は、教育哲学研究の語りのあり方及び語る方法に示唆を与えるべく、「語り示しの実践」というキーワードを軸にしつつ、レヴィナス・デリダ・ドゥルーズの哲学のパフォーマンス面に着目した企画でした。具体的には、安喰がレヴィナス、李会員がデリダ、松枝会員がドゥルーズを主たる考察対象とした報告が並びました。当企画に対して、貴重なご意見を多くお寄せいただけたことに心より感謝申し上げます。以下では、紙幅の都合上、お寄せいただいたご質問・ご意見に回答することがかないませんので、ご質問・ご意見をご紹介させていただいた上で、最後に当企画について簡単に総括させていただきます。

小野文生会員(同志社大学)からは、2点の質問をいただきました。1点目は、当企画ではレヴィナス・デリダ・ドゥルーズの共通する地平に光があてられているが、彼らの思想に存する微妙な違いが、教育や人間形成(もしくはそれらの理論や実践への意義・意味)を語る際の微妙な語りの違いに反映されるかもしれない、という見解のもと、当企画の三名の報告間の違いはどのようなものがあるか、というご質問です。2点目は、「あえて」と留保をつけていただいたうえで、この種のアプローチや問題設定に「まだ満足していない点」(あるいは抱えている困難な点)が仮にあるとしたらどのようなものか、というご質問です。

福若眞人会員(四天王寺大学)からは、3点の質問をいただきました。1点目は、「語り示す」主体は誰か、というご質問で、2点目は、「語り示し」に媒介する身体(性)をどのように考えればよいか、というご質問です。そして3点目のご質問は、「語ることができないこと(もの)」をどのように捉えるのか、というご質問です。この最後の質問は、1点目と2点目を踏まえた上でなされた質問であるように受け取りました。福若会員は、3点目のご質問を説明する文言の中で、虐待によって「思考」や「言葉」を「奪われた」者がそのことと向き合う事例を出されています。すなわち、「語り示す」主体として、虐待を受けた子供を想定した時に、心身に「傷」を抱えた子供が語ろうとしても語ることができない、という事例と、当企画はどのように関係しうるのか、というご質問だと解釈しました。

小玉重夫会員(東京大学)からは、安喰報告に対して次のご意見・ご質問をいただきました。安喰報告において言及されるビースタの「中断」がはらむ自己矛盾的なアポリアが、権力の構成と制御に関わる立憲主義的なアポリアと内的に連関しているように思われるというご意見をいただきました。そして、以上の文脈と、デリダがベンヤミンの暴力批判論に向かうこととの間にどのような関連性があるか、というご質問をいただきました。

森岡次郎会員(大阪府立大学)からいただいたご意見は、「語り示し」の主体(主語)をどこに設定するかによって、議論の内容に違いが出ることに関するものです。具体的には、研究者、親や教師、子ども(人間)が「語り示し」の主体(主語)として設定されうる可能性をご示唆いただきました。

野平慎二会員(愛知教育大学)からは、当企画が注目した中断、宙づり、疑似などに目を向けた教育哲学の語り方は、世界をよりよく描けるものの、機能主義的な語りに比べると訴求力が弱いように思われるが、機能主義的な語りと、教育哲学の語り方の双方のもつパフォーマティヴな力についてどのような見解を持っているか、というご質問をいただきました。

当企画が暗黙の前提としていた事柄を明るみに出したうえで、さらなる展開可能性をもご示唆いただくような、ご質問・ご意見を多くお寄せいただけたこと改めて感謝申し上げます。最後に企画者から課題を述べさせていただくと当企画は、語り示しの実践の三つのパターンを提示したものの、それが「教育についての」語り示しとして、どれだけ妥当であるかを十分に論じることができていないように思います。教育や人間に関する深い洞察から切り離された方法論に関する議論に傾斜してしまった点が当企画の問題設定の不十分だった点だと思います。ただし、語り示すことが読者を攪乱させる、変容させる、先導するなどの効果をもたらす可能性に言及できた点は、当企画の試みが単なる方法論を超えて、遠回りこそしたものの教育哲学研究に対してささやかな示唆を与えることにつながったかもしれないと考えてもいる次第です。

今大会開催のためにご尽力いただいた皆様、大変難しい状況の中、貴重な発表の場を与えてくださりありがとうございました。

(文責 安喰勇平)