コロキウム3

近代仏教と教育をめぐる学説史的研究Ⅱ


    企画者:眞壁宏幹(慶應義塾大学)

    司会者:眞壁宏幹(慶應義塾大学)渡辺哲男(立教大学)

    報告者:マイケル・コンウェイ(大谷大学)、田中潤一(関西大学)、

        深田愛乃(慶應義塾大学大学院)

    指定討論者:山本正身(慶應義塾大学)

【概要】

 一昨年度の同名コロキウムの続篇である。一昨年度の報告以後も、企画者を中心とする研究グループ(眞壁、渡辺、山本、田中、深田)は、浩々洞が発刊してきた『精神界』の読書会を継続してきた。今回のコロキウムでは、この読書会で浮かび上がってきた、近代仏教と教育をめぐる諸問題について考えたい。

今回は、メンバーの田中、深田の両会員の報告に加え、研究の過程で知己を得た真宗学研究者であるマイケル・コンウェイ氏をゲスト報告者に迎える。コンウェイ氏からは、戦前、長野師範と石川女子師範で教え、戦後は信州を中心に親鸞の教えを講話して回った仏教思想家・毎田周一についてお話しいただく。田中会員からは、和辻哲郎や田邊元らが仏教思想を自説に援用した際、彼らが仏教思想の何を受容したかに着目することで見えてくる近代日本に固有な人間観を報告していただく。深田会員は、清沢満之の死後長きにわたって『精神界』を編集してきた暁烏敏と宮沢賢治の関係を取り上げる。もともと賢治は真宗の檀家である宮沢家に育ったが、『法華経』に目覚め教師を志すことを決心したちょうどその時期、暁烏への言及がある断章「復活の前」を書いている。これをてがかりに賢治教育思想と近代仏教の関係を考察する。

指定討論は、前回に引き続き、近世儒学の教育思想を研究する山本正身氏にお願いした。司会ではあるが、眞壁と渡辺もその後の研究進捗状況を資料紹介などを交え報告する予定。

【教育思想史学会第30回大会を終えて】

 本コロキウムについては、小野文生会員と下地秀樹会員のお二人よりコメントをいただきました。ご質問をいただいたわけではないのですが、コメントを参加メンバーで共有し、発表者、指定討論者から、下記のように応答させていただきました。コメントをお寄せくださった小野会員と下地会員に企画者・司会者としてお礼申し上げます。小野会員からはこの研究を進めていく上での大きな励ましをいただきましたし、下地会員のご指摘からは今後に生かすべき反省材料をいただいたと思っております。ありがとうございました。

(司会者:眞壁宏幹(慶應義塾大学)、渡辺哲男(立教大学))

発表者:マイケル・コンウェイ(大谷大学)

拙い発表に耳を傾けていただき、そして応答者へのこちらの長すぎる返答に付き合っていただき、誠にありがとうございます。また貴重なコメントをいただき、感謝しております。

 小野先生がコメントで語っておられる精神風土について、先生が仰る「対象化」ということと共に現代における「継承」ということも非常に重要な課題のように見受けられます。1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件以降に生まれた学生を相手に仏教入門の授業を担当させていただいていますが、その世代の子供が「宗教」という言葉を耳にした際、「カルト」と同義語として扱われていた場合が多いため、どうしても、彼等が自分たちの文化的背景から遊離している根無し草のようになっているように感じてしまいます。しかしやはりその継承がきちっと行われるためには、一旦、先生が課題とされている「対象化」も不可欠と考えますので、また今後ともご教示のほど、宜しくお願いいたします。

 また討論の時間を多く独り占めをしてしまい、議論が充分にできないようにさせてしまったことについて、改めてお詫び申し上げます。今後、そのような議論ができる機会を切に願っております。

発表者:深田愛乃(慶應義塾大学大学院)

この度は、事務局の皆様に大会の場を用意していただけたこと、企画者の先生方に発表の機会をいただけたことに心より感謝申し上げます。

 小野文生先生、コメントをいただきありがとうございます。真宗や農村の風土に肌感覚で親しんでおられた小野先生のご感想は、大変貴重で触発されるものでした。軽く調べた程度で誠に恐縮ですが、是山恵覚が社会貢献活動に従事されていたことを知りました。真宗でも実践に向かう思想が生まれてきたことに鑑みても、「実践」という次元の捉え方について考える必要があると思わされました。また、真宗的風土や是山恵覚のことに加え、ユダヤ思想や京都学派の哲学の観点などからも、ご教示いただければ幸いです。

発表者:田中潤一(関西大学)

私の拙い発表をお聞きいただきありがとうございました。またコメントをいただき、誠にありがとうございます。コメント中の「日常の暮らしと、教育的日常と、信仰生活とがどのように浸潤しあっているのかという観点」は、改めて仏教と教育を考える上で重要な視点をご教示いただいたと考えております。今回取り上げました道元では、対話という相対的な次元において絶対性が見られています。このような考えは、信仰はまさに日常的生活において存するものであるという主張につながっていき、真宗と共通の性質を持っていると思われます。いただきましたコメントをもとに今後も研究を続けさせていただきます。ありがとうございました。

指定討論者:山本正身(慶應義塾大学)

今学会にて小生が指定討論者をお引き受けしたのは、あくまでも戦前の国体思想が自らの立場の絶対性を演出するために、あらゆる思想を吸引するブラックホールとなっていたこと、しかも諸思想の方も自発的に自らをそのブラックホールに投げ入れていたことの問題性を、近代仏教を例にとって考えようとしたからでありました。

 結果として、近代仏教の負の側面ばかりを強調することになったわけですが、その点だけでは近代仏教の理解にはならないことをコンウェイさんから指摘されたものと考えています。真宗であれ日蓮宗であれ、その教説が戦前に多くの人々の心の安寧をもたらした面を決して無視しているわけではありません。

 しかし、そうした個々の人々の心の安寧という次元だけでは可視化されない思想的役割を担ってしまった面をも反省的に捕捉し直すことが、近代仏教へのアプローチには必要であることを強調したいというのが、指定討論者としての小生の立ち位置であったのです。このことをご理解いただきたく考える次第です。