大会プログラム

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大会プログラム

【大会プログラム】

シンポジウム:プラグマティズムの思想史

フォーラム1:「教育目的」を「関係性」から問うことの意義

       ――「ケアリング」論と進歩主義教育が示唆する2つの系譜の検討――

フォーラム2:「まことの倫理」というアポリア

  ――和辻哲郎と勝田守一の倫理および道徳教育をめぐる思考を中心として――

コロキウム1:教育思想史と自然および自然主義

コロキウム2:教育思想家と歴史

コロキウム3:近代仏教と教育をめぐる学説史的研究Ⅱ

コロキウム4:高校生が考える思想、哲学

コロキウム5:語り示しの実践としての教育哲学研究の可能性

       ――レヴィナス、デリダ、ドゥルーズから――



【各コンテンツの概要】


シンポジウム

プラグマティズムの思想史

 アメリカ哲学としてのプラグマティズムの歴史を概観するならば、19世紀後半から20世紀前半にかけて提唱されたC. S. パース、W. ジェイムズ、J. デューイの思想 — いわゆる古典的プラグマティズム — を嚆矢とし、20世紀半ばから始まるW. v. O. クワイン、N. グッドマン、M. ホワイト、その次世代のH. W. パトナム、R. M. ローティ、R. J. バーンスタインらによるプラグマティズムの再興 — ネオ・プラグマティズムの興隆 —を経て、J. H. マクダウェル、R. B. ブランダムらが活躍する今日に至る、という一連の流れを描くことができる。近年では、ローティの解釈を批判しパースの真理概念の再評価を図るC. ミサックの動向が衆目を集めている。この間、プラグマティズムは、狭義の哲学を越えて、数学、言語学、美学(芸術論)、政治学、経済学、社会学、(環境)倫理学、そして教育学などのさまざまな学問領域に影響を及ぼし、また、J. デリダ、J. ハーバーマス、K.-O. アーペルといった欧州圏の哲学者や日本、韓国、中国を始めとする非欧米圏の哲学者・研究者にも評価され、受容されてきた。

 このように広くかつ多様な展開を見せるプラグマティズムの思想は、しかしながら、従来、進歩主義、科学・技術・論理への信頼、思考・行為の(形式)合理性モデル・機能主義モデルといった近代的なるものに親和的なかたちで受容される傾向にあった。だとするならば、右肩上がりの発展が頭打ちとなり、科学・技術の粋を集めた産業システムやグローバル化した社会システムが「想定外」のカタストロフィを引き起こし、予測も計画も不可能な不確実な未来に誰もが向き合わなければならなくなった今日、さらに言えば、歴代のプラグマティストが敬慕してきた民主主義の存立がポピュリズムの横行によって世界各地で大きく揺らぐ今日、私たちはプラグマティズムという思想の意義をいかに評価し、いかに批判的に継承し得るのだろうか。あるいは、思想史的観点からあらためて捉え直すことを通して、先述した近代性・合理性には回収されないこの思想のまた異なる水脈を掘り当てることはできないのだろうか。

 そこで、第30回という節目の年に開催される本シンポジウムでは、プラグマティズムの思想史をテーマとし、共同体形成という観点からプラグマティズムの可能性と限界を検討する生澤繁樹会員と、「劇化(dramatization)」という観点を打ち出し、シカゴ大学ではなくハルハウスに集った人々の活動や思想の考察からシカゴ・プラグマティズムの描き直しを試みる古屋恵太会員にご登壇いただく。生澤会員には、教育の世界ではあまり光が当てられてこなかった最晩年のデューイ、すなわちプラグマティズムの真価が最も厳しく試される原子力時代という状況に直面したデューイが科学・技術の問いにどう向き合ったのかを一つの切り口としながら、プラグマティズムの二元論批判がいったいどこまで重要な方途となり得るのかを共同体形成の課題と結びつけて論じていただく。古屋会員には、「劇化」に加えて「遊び(play)」という観点に着目しながら、デューイの盟友G. H. ミードの思想とインプロ(Improvisation 即興)の理論的・実践的展開を代表するV. スポーリンの師・N. L. ボイドの思想の考察を通して、教育人間学との対話へとつながるシカゴ・プラグマティズムの可能性について論じていただく。

両会員の報告の後、アメリカ政治思想史の領域でデューイを中心とするプラグマティズムの思想研究を展開しておられる井上弘貴氏、教育人間学の論者でありかつインプロの実践者でもある井谷信彦会員、そして第30回の節目にあたってポストコロナの思想史的課題をアマチュアリズムの視点から構想する小玉重夫会長からのコメントを皮切りに、フロアに議論を開きたい。



フォーラム1

「教育目的」を「関係性」から問うことの意義

――「ケアリング」論と進歩主義教育が示唆する2つの系譜の検討――

「教育の目的とは何か」という問いは、教育理論のみならず教育実践を規定する基盤として問われ続けてきた。様々な教育思想家たちが提唱する「教育思想」はまさに原理としての「教育目的」に顕現するともいえる。その一方で、当該の議論がもつ実効性に対する疑問もまた繰り返されてきた。教育の評価や説明責任を重視する言説は、それが過剰に強調される場合、いかに目的を達成するかという方途とその測定の正確さを問う議論に収斂する傾向をもつ。それゆえ「教育目的」を問う議論は、教育理論と教育実践の連環のなかで、また近代教育の問い直しの中で、常に揺れ動き続けていている。

 本報告では、「教育の目的とは何か」という問いを、「何を教育の目的とするか」という問いではなく「教育の目的はどのように捉えられるか」という問いとしてみなし、「関係性」を視点とすることで2つの系譜の提示とその意義とを検討する。一つの系譜は「個人を基盤とする教育目的」であり、もう一つは「関係性を基盤とする教育目的」である。当該の検討を行う際、ネル・ノディングズやジェイン・ローランド・マーティンの教育思想分析に基づく「ケアリング」論、及びジョン・デューイの教育思想分析に基づく進歩主義教育の実践を検討対象とする。特に後者では、進歩主義教育の実践としてなされたニューヨーク市の「リトル・レッド・スクール・ハウス」の教育実践からの示唆を引き出したい。

 本報告を通して、教育思想史から得られる知見の一つとしての「教育目的」論がもつ現代的な意義を提示することができれば幸いである。


フォーラム2

「まことの倫理」というアポリア

――和辻哲郎と勝田守一の倫理および道徳教育をめぐる思考を中心として――

まことを尽すこと、誠実であること、偽りのないこと――ほかに、おなじような意味をもつことばはいくらでもあげられようが、こうしたことがらの価値は、今日なおうしなわれていないようにおもわれる。誠実さやまことを尽すことの重要さが説かれるのは、なにもこの国にかぎったことではない。しかし、古代の清明心から中世の正直、近世の誠や至誠をへて今日にいたるまで、この国の倫理的な思想において、誠実さやまことを尽すことは、きわめて重要な位置をしめてきたかにみえる――この国の伝統において顕著な、心情の純粋さや無私性を重視するそれを、ここでは「まことの倫理」と名付けておく。

この「まことの倫理」は、倫理的・道徳的な心性を規定するとともに、近現代日本の教育にもふかく喰いこんでいるようにおもわれる。教育勅語体制下の忠孝はいうまでもなく、戦後においても、たとえば心情主義的な国語教育や道徳教育、また心の教育、そして近年の特別の教科道徳や、資質・態度の強調という事態にいたるまで、依然として教育のあり方を背後から規定しているかにみえる。心情の純粋さや無私性それ自体はけっして否定できるものではない。しかしながら、「まことの倫理」は、ときとして「理」を軽視し、他者との隔たりの自覚を欠落させる。この問題を直視することなしには、たとえば対話的な教育や、思考や判断が重視されようとも、それを貫徹することはできないようにおもわれる。そうであるとすると、「まことの倫理」がどのように教育に喰いこみ、それを規定しているのかを描きだすことは、今日欠かすことのできない課題であるだろう。

それゆえ、本報告では、「まことの倫理」がはらむ問題とことなる可能性とを、和辻哲郎と勝田守一という2人の思想家を介して描きだすことをこころみたい。和辻は、日本倫理思想史のなかに「まことの倫理」をみいだすとともに、伝統的なそれを西洋の諸思想を介しくみかえようとした当の人物であった。また、和辻の弟子の1人であった勝田は、差異をふくみながら同様の問題を論じていたとみることができる。勝田の思考は、戦後の教育学理論・教育実践におおきな影響をおよぼし、また和辻の思考は、――直接にはその学派をとおして――戦後の教育にもたしかにながれこんでいる。両者の思考を介すことで、「まことの倫理」が近現代日本の教育においていかなる問題をはらんでいるのかを描きだすことが可能になるとかんがえられる。その検討をとおして、今日「まことの倫理」の問題を超克するための糸口をみいだすことをこころみたい。


コロキウム1

教育思想史と自然および自然主義

「教育思想史」は、19世紀の国民教育の成立期において教員養成のテクストとして生まれた。そこで示された「教育思想家」の選択と系列化の視点は、今日の私たちの教育思想史認識、さらには教育一般に対する認識にも影響を与えているのであり、その検討は私たち自身の脱文脈化と再文脈化に欠くことができない。

教育思想史には教育学説の発展史として記述されてきた歴史があるが、そこで重視されたのが、とくにコメニウス、ルソー、ペスタロッチらが重視した「自然」であった。「自然」は、啓蒙主義の興隆を経て科学的探究の方法に回収され、今日の教育一般に対する認識や教育政策の暗黙の前提となっている。

本企画は、今井康雄氏が『思想』に連載した「世界への導入としての教育――反・自然主義の教育思想・序説――」に応答しようとするものである。今井論文では直接に扱われていない思想的文脈において自然主義がどのように問題化されているかを検討することで同氏の問題提起の再読を試み、教員養成における教育思想史の意義も視野に入れつつ、教育思想史(記述)の意義と可能性について活発な意見交換ができればと願っている。



コロキウム2

教育思想家と歴史

19世紀の国民教育の成立期において教員養成のテクストとして生まれた「教育思想史」は、今日の私たちの教育思想史認識、さらには教育一般に対する認識にも影響を与えており、その検討は私たち自身の脱文脈化と再文脈化に欠くことができない。

本企画では、ヘルバルトとデューイ、そして清末・民国期の中国をあつかう。ヘルバルトとデューイは、教育思想史において不可欠な位置を占めているが、ライプニッツのモナド論に通じるような「多様なる実在」を志向したヘルバルトにも、教育史講義のシラバスを残したデューイにも、それぞれに独自の歴史的関心があった。ところで、「教育思想史」は、最初に欧米で書かれ始め、アジア諸国ではその近代化ともに受容されたが、次第に単なる受容から「本土化」が試みられるようになった。中国がとりあげられることで、日本における同様の試みを相対化することが期待される。

歴史的対象としての思想家自身の歴史認識、教育思想史が教科書や講義というメディアに展開される背景にある歴史認識、これらに焦点を当てることで、「教育思想史」をメタの視点から再考することを試みられると考える。さまざまな関心をもつ皆さんと交流し、議論を深めていきたい。


コロキウム3

近代仏教と教育をめぐる学説史的研究Ⅱ

一昨年度の同名コロキウムの続篇である。一昨年度の報告以後も、企画者を中心とする研究グループ(眞壁、渡辺、山本、田中、深田)は、浩々洞が発刊してきた『精神界』の読書会を継続してきた。今回のコロキウムでは、この読書会で浮かび上がってきた、近代仏教と教育をめぐる諸問題について考えたい。

今回は、メンバーの田中、深田の両会員の報告に加え、研究の過程で知己を得た真宗学研究者であるマイケル・コンウェイ氏をゲスト報告者に迎える。コンウェイ氏からは、戦前、長野師範と石川女子師範で教え、戦後は信州を中心に親鸞の教えを講話して回った仏教思想家・毎田周一についてお話しいただく。田中会員からは、和辻哲郎や田邊元らが仏教思想を自説に援用した際、彼らが仏教思想の何を受容したかに着目することで見えてくる近代日本に固有な人間観を報告していただく。深田会員は、清沢満之の死後長きにわたって『精神界』を編集してきた暁烏敏と宮沢賢治の関係を取り上げる。もともと賢治は真宗の檀家である宮沢家に育ったが、『法華経』に目覚め教師を志すことを決心したちょうどその時期、暁烏への言及がある断章「復活の前」を書いている。これをてがかりに賢治教育思想と近代仏教の関係を考察する。

指定討論は、前回に引き続き、近世儒学の教育思想を研究する山本正身氏にお願いした。司会ではあるが、眞壁と渡辺もその後の研究進捗状況を資料紹介などを交え報告する予定。


コロキウム4

高校生が考える思想、哲学

高大接続改革の中で、高校での探究活動と、大学、大学院での研究活動をいかにしてつなげていくかが問われている。このような動きは、従来高等教育を中心に行われてきた知の生産システムのあり方に対する問い直しを突きつけている。初等中等教育における探究活動を起点として従来の知の枠組みを組みかえ、新しい知の創出につなげ、従来の学問的なディシプリンを刷新していく試みが、思想、哲学の研究においても強く要請されている。

以上の問題意識から、本コロキウムでは、昨年度に続き、高校生が考える思想、哲学について報告をしてもらい、できるだけ対等な立場で、高校生と大学の研究者との間での議論をしていきたい。本年度は特に、高校生が取り組んでいる哲学、思想的な課題をそれぞれのテーマと問題意識に即して深めることを目指したい。新型コロナウィルスの問題によって変化している今の状況をどうとらえるかについても、高校生と共に思考する場としていきたい。



コロキウム5

語り示しの実践としての教育哲学研究の可能性

――レヴィナス、デリダ、ドゥルーズから――

 教育哲学研究において「語り方」や「論じる方法」に関する研究(物語論、事例を用いた現象学的研究、矢野智司氏の研究群等)が蓄積されてきている。これらの研究は、合理主義的・機能主義的な技術知として特徴づけられる教育学研究の用語や語法では十分に描き切れない教育の諸相を語り、かつ、その研究自身が一つの合理主義的・機能主義的な技術知に回帰しないため、またそのような技術知として読解されないための抵抗の姿勢を示していると総括できる。小野文生氏の表現を借りれば、語り示しの実践としての教育哲学研究の重要性が提起されつつあるのである。このような状況において、20 世紀後半に迂遠な表現や隠喩、造語などの様々な仕掛けを論述の中に組み入れたフランスの哲学者レヴィナス、デリダ、ドゥルーズは重要な参照項となりうる。彼らの哲学は、それぞれが既存の哲学の語法や用語の限界を越えて、しかしそれと同時に、哲学の範疇に留まって、論述を行うという狙いを有する。彼らの論述から、現況において、教育哲学研究は何を学ぶことができるか。この問いに本企画は取り組む。レヴィナス、デリダ、ドゥルーズの「語り方」や「論じる方法」に関する考察を通して、本企画は、語り示しの実践としての教育哲学研究の可能性を探究し、その意義及び限界の提示を試みる。