フォーラム2
「まことの倫理」というアポリア
――和辻哲郎と勝田守一の倫理および道徳教育をめぐる思考を中心として――
報告者: 桑嶋晋平(東京大学大学院・研究員)
司会: 小野文生(同志社大学)
――和辻哲郎と勝田守一の倫理および道徳教育をめぐる思考を中心として――
報告者: 桑嶋晋平(東京大学大学院・研究員)
司会: 小野文生(同志社大学)
【概要】
まことを尽すこと、誠実であること、偽りのないこと――ほかに、おなじような意味をもつことばはいくらでもあげられようが、こうしたことがらの価値は、今日なおうしなわれていないようにおもわれる。誠実さやまことを尽すことの重要さが説かれるのは、なにもこの国にかぎったことではない。しかし、古代の清明心から中世の正直、近世の誠や至誠をへて今日にいたるまで、この国の倫理的な思想において、誠実さやまことを尽すことは、きわめて重要な位置をしめてきたかにみえる――この国の伝統において顕著な、心情の純粋さや無私性を重視するそれを、ここでは「まことの倫理」と名付けておく。
この「まことの倫理」は、倫理的・道徳的な心性を規定するとともに、近現代日本の教育にもふかく喰いこんでいるようにおもわれる。教育勅語体制下の忠孝はいうまでもなく、戦後においても、たとえば心情主義的な国語教育や道徳教育、また心の教育、そして近年の特別の教科道徳や、資質・態度の強調という事態にいたるまで、依然として教育のあり方を背後から規定しているかにみえる。心情の純粋さや無私性それ自体はけっして否定できるものではない。しかしながら、「まことの倫理」は、ときとして「理」を軽視し、他者との隔たりの自覚を欠落させる。この問題を直視することなしには、たとえば対話的な教育や、思考や判断が重視されようとも、それを貫徹することはできないようにおもわれる。そうであるとすると、「まことの倫理」がどのように教育に喰いこみ、それを規定しているのかを描きだすことは、今日欠かすことのできない課題であるだろう。
それゆえ、本報告では、「まことの倫理」がはらむ問題とことなる可能性とを、和辻哲郎と勝田守一という2人の思想家を介して描きだすことをこころみたい。和辻は、日本倫理思想史のなかに「まことの倫理」をみいだすとともに、伝統的なそれを西洋の諸思想を介しくみかえようとした当の人物であった。また、和辻の弟子の1人であった勝田は、差異をふくみながら同様の問題を論じていたとみることができる。勝田の思考は、戦後の教育学理論・教育実践におおきな影響をおよぼし、また和辻の思考は、――直接にはその学派をとおして――戦後の教育にもたしかにながれこんでいる。両者の思考を介すことで、「まことの倫理」が近現代日本の教育においていかなる問題をはらんでいるのかを描きだすことが可能になるとかんがえられる。その検討をとおして、今日「まことの倫理」の問題を超克するための糸口をみいだすことをこころみたい。