第一次世界大戦後にドイツを排除して創設されたアカデミー連合、国際研究会議(International Research Council)において、各アカデミーに政府への科学技術助言機能を持つ組織を作ることが提唱された。手本とされたのは、1916年米国科学アカデミーの内部に設けられた全米研究評議会(NRC)である。NRCは第一次世界大戦に際し、非政府組織の立場から、戦時における軍民協力をするためのものだった。
学術研究会議は日本版NRCであり、帝国学士院の建議により1920年に創設された。ただし、既に存在したアカデミーである帝国学士院の内部にではなく、同院の外に別組織として創設された。しかも当初は理工系のみの陣容であった。会員選出は互選であり政府からの独立性も保たれていた。その設立の経緯は山中千尋氏による次の論文に詳しい。以下では同組織が独立を失う過程について述べる。
学術研究会議は1930年代末から1940年代にかけて「応用研究を増やす」「会員の若返り」「科学動員に対応」のため政府から改革を迫られ、最終的には独立性を失った。
先行研究[1]によると、その経緯は以下の通りである。
1939年 政府(科学振興調査会)が学術研究会議の拡充・改組を提言
1940年 学術研究会議(当時は独立性を保っていた)が改組提案に反発し、総会で否決、執行部メンバーの全員辞任
1941年 学術研究会議の改組が実現、科学研究費の実質的審査や国内研究の連絡統一が出来る組織になる(企画院、興亜院など技術官僚系の人々が外部から関与)
1943年 学術研究会議の更なる改組により、政府からの独立性が完全に失われる。会員は文部大臣の要請で学識経験者の中から内閣により命じるようになる。会長は政府による任命となる。その代わり会長権限が増大する。学術部の種類も会長が定めるものとなり、会員数は倍増した。その他、戦況悪化により基礎科学より戦力に直結する研究に集中すること、学術研究会議に委員会を設置し、大学にその支部を置く一元的な研究体制の組織化が実現
1940年には辞任して抗議する会員がいたが、結局は軍事研究の動員のために組織改編されてしまった。
しかも、そこまでしながら科学技術動員の成果には顕著なものがなかったとの評価が一般的であるようだ。つまり、改組された学術研究会議は適切な連携のための組織として機能しなかったことになる。機能不全の理由は定かではないが、仮説はある[2]。
有力な仮説は、戦後間もない時期になされたGHQの実態調査によるものである。それによると、日本には科学技術動員のための適切なコーディネーション組織がなく、陸軍と海軍の協力関係がなかったため、軍が科学者を効果的に用いることが出来なかったとされている。
先行研究は日本の科学技術動員における非効率性を指摘している。研究内容の重複や、小規模研究が多かったこと、セクショナリズムがあったこと、そして科学者のイニシアティブの弱さなどが指摘されている。そもそも行政と科学者が連携する経験自体が浅かった。
参考までにアメリカの場合について記述すると、全米科学アカデミー(独立した民間非営利組織)は科学技術動員のための組織とはなりえず、科学研究開発局など動員のための別組織が連邦政府に出来た。日本ではこれにあたるものが技術院という政府組織であったが、軍との連携はうまくいかなかった。
その他、補足までに日本の科学技術動員体制の副産物に触れておく。まず、それらは毒ガス兵器製造、生物兵器製造、人体実験など、後に戦争犯罪とみなされる倫理的ではない研究の事例を生んだこことも知られる。一方で、戦後の科学技術行政の原型がこの頃に作られたとの考え方も出来る。科学研究費交付金制度の充実はこの頃である。
[1] 青木洋「第二次世界大戦中の科学動員と学術研究会議の研究班」『社会経済史学』72-3(2006年9月)、331-353 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/72/3/72_KJ00005697928/_pdf/-char/ja
[2] 水沢光「展望:日本の戦時科学技術体制」『科学史研究』52巻(266)、2013年、65-69 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhsj/52/266/52_65/_pdf/-char/ja
注:本記事は管理人の研究ブログ記事に加筆修正した内容である。