学術会議は当初、日本中の研究者が投票で会員を選ぶという、まさに「学者の国会」とも言うべき組織であった。この方式は世界でも類を見ないものであった。「学者の国会」という考え方自体は1795年に設立されたフランス学士院に由来すると思われるが、その実態は現行会員のみによる推薦と投票による選出、すなわちいわゆる「コ・オプテーション」と呼ばれる制限選挙方式であった。コ・オプテーションは現在もナショナル・アカデミーの会員選考のスタンダードであり続けている。時代に先駆けすぎていた日本学術会議の会員選挙は混乱が多く、評判があまりよくなかったと言われる。それでも1980年代までは続いた。
しかし、中曽根政権時代から急に会員選考方法への改革圧力が高まり、自民党の単独採決で選挙による選出自体がなくなってしまう。それでも収まらず、会員選出方法は二転、三転することとなる。
保守系政権から法人化を迫られることは創立以後ずっと続いていた。最初に「法人化」が言及されるのはなんと1950年代である。
1949年 「有権者」として登録された研究者による直接選挙で会員が選ばれた。任期(原則3年)ごとの全員改選、再任制限なし
1953年 11月23日付の東京新聞1面で政府(吉田茂政権)が「日本学術会議は民間に移し、特殊法人とする」ことを提案したとの報道(参考)
1983年 会員選出方法の変更が決定:登録有権者による直接選挙から登録学術研究団体からの推薦方式へ
学術会議側は選挙の維持を望んだが、衆議院では自由民主党の単独採決により日本学術会議法が改正された
(1985年から実施)
1998年 橋本龍太郎内閣の行政改革会議で学術会議廃止論が出る
→ 「総合科学技術会議」の設立とそこで学術会議の存続を論じることが決まる
2003年 総合科学技術会議が 報告書「日本学術会議の在り方について」を発表:会員・連携会員からの推薦によるコオプテーション方式を提案
→2005年から再び会員選出方法の変更が決定
→「欧米主要国のアカデミーの在り方は理想的方向」なので10年後に適切な設置形態を検討する提案がなされる
2015年 「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」が特に積極的に制度変更をする理由は見出しにくいとする報告書
→ 特に変えなくてよいとする判断だったが…
学術会議は当初、欧州のナショナル・アカデミーよりも比較的強い発言権を持つ組織として構想された。しかし設立間もない時期から保守系政権と対立し、時代と共に権限を少しずつ失っていった。その様子は学術会議が科学技術政策を協議する場への委員推薦枠を次第に失っていく様子からもうかがえる。
1949年 日本学術会議設立(日本学士院が傘下の組織となる)
同年 科学技術行政協議会(STAC)の半数を学術会議が任命
→ 吉田茂首相による任命拒否問題(学術会議が推薦した13名のうち2名を拒否)
1956年 科学技術庁設置、同年に学術会議傘下の日本学士院を分離独立
同庁の科学技術審議会委員の1/3を学術会議が推薦
1959年 総理府に科学技術会議の設置(〜2001年)
10人の議員の中に「日本学術会議会長」を含む
1967年 文部大臣の諮問機関として学術審議会の設置(後の「科学技術・学術審議会」)
2001年 総合科学技術会議設立(2014年から総合科学技術・イノベーション会議に名称変更)
14人の議員のうち「関係する国の行政機関の長」として日本学術会議会長を指定
https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1983/1983_09_0486.pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/27/1/27_1_85/_pdf
伊藤憲二「アカデミーの系譜と日本学術会議の創設」『日本の科学者』2021年4月 https://www.jsa.gr.jp/04pub/2021/JJS202104ito.pdf
日本学術会議「日本学術会議の設立と組織の変遷—地下書庫アーカイブズの世界—」日本学術会議創立70周年記念展示 パンフレット、2019年
池内了・隠岐さや香・木本忠昭・小沼通二・広瀬清吾『日本学術会議の使命』岩波書店、2021年