学問の自由に対する抑圧はナショナル・アカデミーに対する政策の変調として現れます。このサイトでは関連する事例へのリンクと要約解説を掲載します。
1920年に帝国学士院が建議して設立された学術研究会議は、主に理工系学者を集めた独立のアカデミー組織であったが、会員任命権が1940年代に政府に取り上げられた。この学術研究会議は学術会議の前身にあたる。
学問の自由度指数(1943):0.27
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ファシスト政権期の1920年代に全分野を包含する「王立イタリアアカデミー」(Reale Accademia d'Italia)が設立され、会員はファシズムへの忠誠を誓うことが義務づけられていた。1939年には歴史ある科学のアカデミーであったアカデミア・デイ・リンチェイをも吸収してしまったが、ムッソリーニの失脚と共に閉鎖。
参考: John Whittam,ed., Fascist Italy, Manchester: Manchester Univ Press, 1995.
Wikipediaも詳しい。
学問の自由度指数 (1942): 0.06
1933-1935年 ヒトラーの「指導者原理」が高等教育と研究の領域に達し、諸アカデミーからユダヤ人が追放されはじめる。
1938年に、ベルリンにあるプロイセン科学アカデミーで、反ユダヤ主義的な「ドイツ数学」を提唱したカール・テオドール・ファーレン(Karl Theodor Vahlen)が異例の手続きで臨時総裁となり、1939年に正式な総裁に就任した。
同年、ドイツ学術アカデミー連合の主導的拠点がベルリンに固定され、プロイセン科学アカデミーによる学術界の中央集権化が進められた。
更にファーレンはドイツライヒ科学アカデミーという新組織を構想し、占領した各地のアカデミーを分院とする計画が示されたが、各地のアカデミーは自律性の喪失を恐れて抵抗した。1943年にファーレンは辞任し、最終的に構想は失敗に終わった。
学問の自由度指数(1944):0.04
(1944-49 指数無し)
ドイツ学術アカデミー連合に加入したアカデミーを抱えていたが、1940年2月以後、ウィーン科学アカデミーがベルリンの科学・教育・文化省の管轄下に置かれるようになる。形式的な従属関係を当時の総裁は受け容れた。
1940年から41年にかけて、プロイセン科学アカデミーに提案されたライヒ科学アカデミー構想を検討するが、分院の扱いになることを巡り反対意見が噴出。自律性の喪失を防いだ。
学問の自由度指数(1937):0.26
(1938-45 指数無し)
参考:J. Feichtinger et al. eds., The Academy of Sciences in Vienna 1938 to 1945, OAW, 2019