学問の自由に対する抑圧はナショナル・アカデミーに対する政策の変調として現れます。このサイトでは関連する事例へのリンクと要約解説を掲載します。
連邦政府資金の減少により組織改編を余儀なくされた。
現行の5つのプログラム部門を2つのセンターに再編、1200人の職員のうち200人の解雇が成されるとの報道。
トランプ政権の好む分野(原子力、安全保障、人工知能分野は資金を確保)は予算を確保した。しかし関連委員会で解雇があり、資金削減の一貫性のなさが指摘されている。(2025年)
参考:https://www.science.org/content/article/can-smaller-u-s-national-academies-remain-relevant
学問の自由度指数(2025):0.40
※バイデン政権時代の数値
Nature他複数の記事によると、2020〜2021年にかけて、政権がBRIN(国立研究イノベーション庁)を研究の「司令塔」として設置し、ナショナル・アカデミーであるAIPI(Akademi Ilmu Pengetahuan Indonesia)や、LIPI(インドネシア科学院)、BPPT(技術評価応用庁)、LAPAN(航空宇宙庁)など、計39機関を統合した。あわせてAIPIがこれに強く反対していたことが伝えられた。
ただし、AIPI 自体は法律(1990年第8号法)に基づく機関としての独立性を保って存続しており独自のHPも確認出来る。HPは不思議なほどBRINとの関係について記載がなく、淡々と国際的な連携について記述している。
参考:https://www.nature.com/articles/d41586-021-02419-4
https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.2307213121
学問の自由度指数(2025):0.33
2023年に会則が改定され、綱紀粛正とともに、同院の研究者は自らの専門分野に関係のない学術的意見を公的に表明しないよう要請された。
中国共産党の政策に沿う発言をおこなうことも要請された。
参考:https://www.sixthtone.com/news/1013684
学問の自由度指数(2025):0.07
朝鮮民主主義人民共和国科学院は、旧ソ連科学アカデミーをモデルとして1952年に設立された。科学による国家建設を進める要となる組織という位置づけであり研究機能を有した。会員は総会において選挙で選ばれ、承認される。会員選出は自律的であるが、思想面では厳しい審査があると思われる。1958年の事件を受けて規約の改正がなされ、会員の称号剥奪等も定められた。同アカデミーは軍事研究にも従事したが、1964年には防衛科学アカデミーが別に設立され、軍事研究の中心はそちらに移った。
https://en.wikipedia.org/wiki/Academy_of_Sciences_of_the_Democratic_People%27s_Republic_of_Korea
学問の自由度指数(2025):0.04
1920年に帝国学士院が建議して設立された学術研究会議は、主に理工系学者を集めた独立のアカデミー組織であったが、会員任命権が1940年代に政府に取り上げられた。この学術研究会議は学術会議の前身にあたる。
学問の自由度指数(1943):0.27
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ファシスト政権期の1920年代に全分野を包含する「王立イタリアアカデミー」(Reale Accademia d'Italia)が設立され、会員はファシズムへの忠誠を誓うことが義務づけられていた。1939年には歴史ある科学のアカデミーであったアカデミア・デイ・リンチェイをも吸収してしまったが、ムッソリーニの失脚と共に閉鎖。
参考: John Whittam,ed., Fascist Italy, Manchester: Manchester Univ Press, 1995.
Wikipediaも詳しい。
学問の自由度指数 (1942): 0.06
1933-1935年 ヒトラーの「指導者原理」が高等教育と研究の領域に達し、諸アカデミーからユダヤ人が追放されはじめる。
1938年に、ベルリンにあるプロイセン科学アカデミーで、反ユダヤ主義的な「ドイツ数学」を提唱したカール・テオドール・ファーレン(Karl Theodor Vahlen)が異例の手続きで臨時総裁となり、1939年に正式な総裁に就任した。
同年、ドイツ学術アカデミー連合の主導的拠点がベルリンに固定され、プロイセン科学アカデミーによる学術界の中央集権化が進められた。
更にファーレンはドイツライヒ科学アカデミーという新組織を構想し、占領した各地のアカデミーを分院とする計画が示されたが、各地のアカデミーは自律性の喪失を恐れて抵抗した。1943年にファーレンは辞任し、最終的に構想は失敗に終わった。
学問の自由度指数(1944):0.04
(1944-49 指数無し)
ドイツ学術アカデミー連合に加入したアカデミーを抱えていたが、1940年2月以後、ウィーン科学アカデミーがベルリンの科学・教育・文化省の管轄下に置かれるようになる。形式的な従属関係を当時の総裁は受け容れた。
1940年から41年にかけて、プロイセン科学アカデミーに提案されたライヒ科学アカデミー構想を検討するが、分院の扱いになることを巡り反対意見が噴出。自律性の喪失を防いだ。
学問の自由度指数(1937):0.26
(1938-45 指数無し)
参考:J. Feichtinger et al. eds., The Academy of Sciences in Vienna 1938 to 1945, OAW, 2019