石井さんが実際行ったクリエーションについてのお話しとても興味深くお聞きしました。私自身幼い頃からクラシックバレエを習っており、衣服や文化的背景の違う日本の古典舞踊の特徴的な動きには以前から興味がありました。中でも石井さんは土着的要素に重きを置き、文化的要素とより結びつきが強く作品に落とし込んでいることがわかりました。フィリピンという地で現地のダンサーと共に作品を作り上げるということは、その土地で踊る意味や歴史的背景についても掘り下げる必要がありました。この舞踊作品が成功された要因としてやはり石井さんの文化に対する深い理解とダンサー同士での結びつきが関係していると考えます。はじめにコンセプトとしてバイバインと書道という文化的に重なる部分を用いたものおもしろいと思いました。その中でフィリピンではダンサーが日本とはまた違った役割を持ちよりボーダレスな存在であることがわかりました。また歴史的背景として抑圧された過去がありながらこの作品に参加するダンサーたちの向き合う姿勢やそこから解き放たれる自由な世界にとても惹かれました。しかしそこにはルーツや継承される文化との葛藤があったと思います。だからこそこのクリエーションを通して石井さんとダンサーさんたちの結びつきは強くなり素敵な作品が生まれたのだと感じました。様々な権利の問題などがあるとのことでしたが、ぜひご機会がありましたら拝見したいです。
今回の授業では、作品制作におけるリサーチのアプローチ視点に印象を受けた。特に宗教や神話、民間信仰など、土着の文化にある価値観や世界観に目を向けることで、作品に深みと説得力を与えるという考え方は、表象文化を学ぶ自分にとっても非常に共鳴するものであった。また、日本との神話や信仰を比較しながら共通点を見出すことで、それを観客が「既視感」として感じられるように作品に織り込むという手法にも惹かれた。異文化の物語が、どこか懐かしく感じられ、最後にその由来が明かされることで両者の間に新たな親近感が生まれる。このような共感ができる演出は、アートにおける異文化理解の手段として非常に驚いた。
加えて、フィリピンと日本が太平洋戦争という悲しい歴史的背景を共有しながらも、現代舞踊という文化的営みによって再びつながり直せたことにも心を打たれた。戦争による傷は決して軽いものではないが、それを乗り越える一つの手段として、身体表現や舞台芸術が持つ力の大きさを改めて感じた。芸術は過去を忘れるのではなく、それを包み込み、異なる立場にいる人々を再び対話の場へと導く力を持っているのだと思う。将来的に自分が何かを発信する立場になったとき、この姿勢を忘れずにいたいと強く感じた。
本日の石井先生の講義はとても興味深い内容でした。先生が実際に経験されたことに基づいて話されてましたが、どの内容も驚くことばかりで興味深々で聞いていました。私は、昨年、短期留学でセブ島に行きました。その際に学校で多くのダンスレッスンが開催されていたり、多くのフィリピンの人たちがダンスを踊って、SNSに投稿していたりしました。その印象と相まって、私自身の実体験と重ね合わせて、本日の舞台芸術に関する講義を聞いてとても興味深かったです。その話されていた中で特に印象に残っているのは「家族やパートナー、大切な人に身体中を使ってダンスを自由に表現して」とされた時、カラフルな世界が広がってフィリピンの方特有のエネルギーを感じたというのが大変素晴らしく感じました。日本にはない、緑が多くあって自然と近い環境で暮らしている方特有のエネルギーがあるというのが見てとれたのも魅力的だと感じましたし、それを身体で表現したいと実際に多くのダンサーが必然的に表現したのが、素晴らしいと感じました。なので反対に日本では、どんなエネルギーが秘められていて同じ状況になった時に、どんな表現がなされるんだろうと興味が湧きました。書道を題材とした作品なのに、フィリピンの方が表現した作品がどんなものになっているのかとても気になります。
今回のコンテンポラリーダンスに関連した授業の中で、「フィリピンと日本に登場人物の名前や環境が少し異なるが、どう考えても同じ内容の類似神話が多く存在している」というお話をお聞きして、私は、大学一年次に私が所属する文学部日本文学科の日本文芸研究特講の中の上代Cという授業で、神話を研究したことがあったのでそのお話をお聞きして、日本は日本の独自の時代背景や文化的な背景から生まれた神話の構成であると考えていたので、とても驚きました。イザナミとイザナギの日本に古くから伝わっている代表的な神話も、レイヤーをつけることで、海外の方に向けた講演でも、そこの地域の臨床神話であると認識していただくことができるとおっしゃっていて、その部分に対してもとても驚きました。また、「サンチャゴ要塞」に訪れた際、日本人が戦争中にフィリピンを占領し、そこで現地の人々を捕虜として扱った負の遺産の一つとされていますが、私は約2週間前にベトナムのハノイに行きました。ハノイで「ホアロー刑務所」を訪れました。ホアロー刑務所は、ベトナム人をフランス人が捕虜として扱った場所ですが、私はそこに訪れた際に、刑務所で生き延びていく様子や今に残されているものを見てとても印象に残りました。この講義の中で、先生のフィリピンの友人が一番最初に連れてきたいとおっしゃられた場所でもあるということで、日本人とフィリピン人にとって良くも悪くも特別な場所であると私も講義をお聞きして、強く感じました。
今回の講義を受けて、現代舞踊の可能性の大きさを知ることが出来ました。講義内では、フィリピンが過去に置かれていた状況によって、上の代が探し求めてきたルーツを生きた形で継承する事が難しく、若手のアーティストはこの点をコンプレックスに感じているとの内容が紹介されていました。しかし、「Speak, Body: Fly! 」の公演後に、上の世代が自分たちの代の役目を終えたと感じていた事から、公演を通じて「Speak, Body: Fly! 」における戦争や過去、ルーツに対する解釈が正しかったことが上の世代に伝わっていたと言えます。そして、この事から、生きた形でのルーツの継承が現代舞踊を通じて可能なのではないかと感じました。今回の事例では、下の代から上の代に伝えた形となりましたが、同じような公演を更に若い世代に向けて行うことで、生きた形でのルーツの継承をこれからの世代にも出来るのではないかと思いました。石井先生の「踊りの場合だと、抽象化する部分や空白が多いため、その部分を観客に保管してもらって、各々の記憶や気持ちがのっかったものが正解になる」という発言を受けると、上の世代が受け取ったものと同じものを下の世代も受け取るとは考えにくいですが、上の世代の人々にとって納得した形での「ルーツ」をこれからの世代にも伝えていく事で、彼らがルーツを探し求める際に、舞台芸術の存在が必ず手掛かりになると感じました。
また、「Speak, Body: Fly! 」の公演にあたって、石井先生がフィリピンの歴史や日本との関わりついて深く学ばれていた姿勢から、私もフィールドスタディとしてフィリピンの現地に向かう前により一層フィリピンについての知識や日本との今までの関わりについて学びを深めたいと思いました。
石井氏の、リサーチからパフォーマンスの流れを、フィリピンで発表された舞踊作品「Speak, Body: Fly!」の制作を中心に聴講した。
フィリピンという異国の地で日本の書道と古代文字バイバインを表現するにあたり、石井氏はフィリピンの風土、信仰、神話、民謡など、多岐にわたる文化的要素を丹念にリサーチすることから始めた。日本とフィリピンの風土や文化の中に共通点を見つけることで特に、バイバインという古代文字に着目し、日本の書道との共通点を探る中で、異国の観客であってもパフォーマンスを自分事として感じることができる。また、書道における濃淡の世界や正しい型、哲学などの精神性にも理解をした上で、技術の習得にとどまらず、メンバーとの対話の中で生まれた想いを落とし込むことで新しい表現に昇華することができる。表面的な異文化交流ではなく、一対一の人間の深層的な対話するからこそ言葉を介さず共鳴することができるのだと感じた。
こうした探究を踏まえて生まれたのが、ダンス作品「Speak, Body: Fly!」である。パフォーマンスで用いられる身体表現は、まさに普遍的なコミュニケーションの手段として機能している。また、フィリピンと日本の関係性にも目を向け、特に戦争の記憶がフィリピン側に深く刻まれているという歴史的背景を踏まえたうえで、「つながり」をテーマに据えることの意義が強調された。石井氏のサンチャゴ要塞や被爆者の親族などのパーソナルな部分をさらけ出すことで、両国の人々がパフォーマンスを通じて結びつくことができたのかもしれない。
この作品には、石井氏自身の祖父が被爆者であるという個人的な体験も深く織り込まれている。戦争の記憶に向き合いながらも次世代への希望をつなぐ意図は、芸術が表現者のパーソネルな経験を普遍的なメッセージへと昇華させる力を実感した。感情のパワーを共有し、生の共鳴を通じて観客とつながる体験は、身体表現における舞踊の根源的な力を再認識させると同時に、国籍を超えた繋がりの可能性を感じた。
戦争の過去が、今なお国と国、人と人との交流の隔たりになっている――この事実が、私の身の回りから意識されなくなっていることに気づかされ、改めて“戦争”と日本、そしてフィリピンとの関係について考えるきっかけとなりました。
私たちと同世代の若者の多くは、戦争を直接体験していません。そして、その体験を語れる世代の方々も年々少なくなっています。私たちの日常から“戦争”というものが遠くなっているからこそ、今回の授業で感じた衝撃は大きかったのだと思います。
印象に残ったのは、石井さんのエピソードの中で、フィリピン人の方が日本人と一緒に働くことに対してためらいを感じていた、という話です。かつて日本人がフィリピンの人々にしてしまった過去の行為を、私たちはどれほど知っているのでしょうか。そして、今もその出来事を心のしこりとして抱えている人がどれだけいるのでしょうか。
石井さんの活動は、そうしたしこりを「共同の作品」という手段を通して和らげていく取り組みだと感じました。過去の歴史そのものを変えることはできません。しかし、「時間」が記憶や記録を少しずつ薄れさせていくのも事実です。けれど、その経験をした人たちの心には、今もなおその傷やしこりが残っているはずです。
そのしこりを和らげる方法は、「忘れること」ではなく、「知り、学び、理解し、その上で分かり合うこと」だと思います。そして、そのための手段の一つが舞台芸術なのではないかと感じました。きっと、他にも様々な手段があるはずです。
8月には実際に現地を訪れます。その中で、フィリピンの人たちとどのように向き合い、歴史を分かち合っていけるか、自分なりに探していきたいと思います。
お話しくださった舞台を生で見てみたいと強く感じた。作品に込めた思い等の解説付きで内容を伺うことができネタバレは十二分に食らってしまったが、動画の中でおっしゃっていたように作品は、見る人によって受け取り方が変わり正解が舞台上にないことを前提としていて補完して完成品になるものだとしたら、私はまだ自分でその作品を補完できていないので知らない話だといえるのではないかと思った。マルチエンディングというとチープで少し違った意味になってしまうのかもしれないが、作品を見る人が増えれば増えるほど受け取るメッセージが増えていき、同じ作品を上演し二回目見に来た方がいたとしても、演者側の空気感も、お客さんが一回目から二回目の観覧までに体験した経験も変わり、二度と同じ感情を抱かないのだろうと思うと舞台は芸術のはかなさが色濃く詰められてると思い、素敵だなと思った。お客さんが自分の思い出を基に舞台を見ながら劇中の出来事を自分事として受け止めるために、まず舞台を作る側が自分の体験や自身に関わりが深いことから考えていくというのが即席の劇でなく味わい深いものになるのではないかと考えた。
また冒頭のお話でフィリピンと日本や、日本とギリシャ神話で似ている話があると聞いたとき驚いた。何千年も前から思考が同じだったのか同じ話を伝えることができたのかどちらにしても不思議だなと思った。昔の伝承方法が今の芸術につながるようなボディラングエッジだったとしたら人によって話が変わったりしないのだろうか。そもそも芸術と呼ばれるような自己表現はいつから始まったのだろうかなど様々な疑問がわいた。
わたし自身が演劇サークルに所属して活動しており、卒業論文のテーマとしても演劇に関係することを選んでいるのでフィリピンにおける舞台芸術がテーマの授業に強い関心を持っており、受けられてよかったなと感じています。ありがとうございました!
特に石井さんが作品制作を始めるにあたって必ず現地の神話や民話、踊りなどをリサーチするところから始められて、共通点を見つけてそれをモチーフにされるという話が印象的で、そもそも共通点が見つかるものなのかという点でも驚きでしたし、それを使うことでより深い部分で繋がることのできる作品制作になるのだという納得感もありました。また、そのリサーチにあたってアメリカンな生活スタイルのすぐそばに歴史的な建造物や植民地時代の名残があったことなどの発見を共有していただけたことがフィリピンを訪問した際の街歩きの視点になりそうだなと感じました。
渋谷の喧騒音とマニラの喧騒音を同時に流して多言語の喧騒を創り上げたという音響の作り方がかなり興味深く印象に残りました。たぶん現実ではなかなか起こり得ないことだと思うのですが、それが許される舞台演出がいいなと感じました。舞台芸術というものは国や民族を超えてつながりを持って何かを感じたり考えたりするきっかけを生むことができるのだと感じることができました。私自身は演劇に触れていられる時間がもう限られてきているのですが、舞台芸術の良さを感じ続けたいなと思います。
今回の「舞台芸術から見るフィリピン」の講義では、言葉を使わずに伝える“舞踊”の力について、改めて深く考えさせられました。石井武先生が紹介してくださった「Speak, Body: Fly!」という作品は、日本の書道とフィリピンの文化や歴史が重なり合った、とても印象的なものでした。
私は普段、バレエを教えています。バレエは「形」がすごく大事で、ポーズ一つ一つが決まっていて、それをいかに正確に美しく再現できるかが求められます。でも、今回見た現代舞踊は、動きに完璧な“正解”があるわけではなく、観客が自由に受け取る余白をあえて残しているのが新鮮でした。石井先生が「現代舞踊の良さは、未完成さにある」とおっしゃっていて、なるほどと思いました。観る人が補って、想像して、作品が完成するという感覚は、バレエとは全然違う世界だなと感じました。
作品では、書道の精神性、迷いなく書く、静けさ、集中、といった部分を身体でどう表すかが追求されていて、自分の名前を書く動作をダンスにするなど、すごく興味深かったです。石井先生が「フィリピンのダンサーは直感的な動きが得意」と話していたのも印象的で、そういう身体感覚がこの作品の表現力を支えているんだなと感じました。
また、日本とフィリピンの歴史にも触れられていて、サンチャゴ要塞の話や、戦争の記憶が作品の中に盛り込まれていたのも心に残りました。平和への願いや、アイデンティティへの問いかけが、動きと言葉にならない感情で表現されていて、胸にくるものがありました。
この講義を通して、バレエとは違う舞踊の在り方や、自分の表現の幅についても考えるきっかけになりました。完璧を目指すバレエに加えて、あえて余白を残す表現や、見る人との対話で完成する舞台という考え方も、自分の中に取り入れていきたいと思います。
その国の伝統的なものと芸術の融合というテーマはとても興味があった。それは、世界的に近代化や情報化が進んでアートにも国ごとの差がそこまで見られなくなった現代からして伝統が遠い昔の非現実的なもののように感じられると同時に、その国の歴史や価値観を表していて、アートにおいてそれを表現・継承するべきだと考えているからである。そのため、石井さんの和服を着た日本人の動作を取り入れたパフォーマンスや、フィリピンの伝統的な書道を取り入れたパフォーマンスは、新しさの中に懐かしさを見出すことの出来る面白い表現のように感じられた。現代舞踊については、授業以外に観たりそれについて聞いたりしたことがなく、正直何を表現しているのか、がつかみにくいところがあったが、完全に新しくない動作を取り入れることは、観ていて「何かを感じる」ことに繋がるんだと思った。また、フィリピンの伝統的な何か、についてもまだ知識がないが、書道の他に、装飾文化や音楽文化など調べて自分の作品に取り込みたいとも思った。お話の中で、何か力を感じ取ることの出来るパフォーマンスというようなことをおっしゃっており、舞踊に限らず、現代アートは鑑賞者に何を感じさせるかをテーマにしているようなところがあり、何か正解を作るのではなくそれぞれの正解を抱いてもらうところに面白さがあるのかなと考えた。
本日のフィリピン講義では、芸術がいかにして異なる文化や歴史をつなぎ、新たな価値を創出するかについて、深い学びを得ることができた。とりわけ印象に残ったのは、日本の伝統的な芸能や美意識が、フィリピンの人々の持つエネルギーやカラフルな感性と交わることで、驚くほど新鮮で生命力あふれる表現へと変容していた点である。書道の「わびさび」や濃淡の世界が、南国の鮮やかな色彩感覚と融合し、まるで新しい言語のように生き生きと立ち上がっていた。文化の融合は単なるミックスではなく、相互の感性が刺激し合い、予想を超えた創造に至る営みなのだと感じた。
この気づきは、自分自身がフィリピンで取り組む予定の作品づくりにも大きな影響を与えた。私は“音”をテーマに作品を構想しているが、これまでは「現地の音を収集すること」に主眼を置いていた。しかし今日の講義を経て、フィリピンの音だけでなく、自分が日本人として持ち込める「日本の音」──都市の喧騒、神社の鈴の音、あるいは日常の生活音──をも組み合わせてみたいと思うようになった。日比両文化が交差する「音の地図」を描くような作品に挑戦したい。
もうひとつ重要な学びは、「正解」や「完成形」をあえて提示しないという姿勢である。講義で紹介された舞台作品「スピークボディフライ」は、日本とフィリピンの戦争という極めてナイーブなテーマを内包しながらも、観客に解釈の余白を与えたことで、両国の観客から愛されていた。その構成は、断定的な表現ではなく、象徴や抽象によって観る者の記憶や感情にそっと語りかけるようなものであった。
このアプローチは、自分の作品においても大いに参考になる。たとえば、音の重なりや空白を意図的に用いることで、観客自身が「耳をすます」体験を通じて作品に能動的に参加できるような構成が考えられるだろう。作品が一方的に語るのではなく、観客が意味を見つけ出していく。そのような余白や解釈の自由こそが、異なる文化をつなぐ鍵となるのではないかと感じた。
作品制作におけるリサーチの部分で、踊りを創る際に、フィリピンの民謡を調べて、日本とフィリピンとの共通した物語を見つけて、抽象化するというお話が興味深かったです。フィリピンと日本は同じアジアでありながら、現代における文化は全く異なるものだと思いますが、民謡を探して過去に遡る中で、同じ歴史とかいうか、同じ出来事を記していることがあるというのは、世界史において、1人の人物が遠い国で全く違う名前として描かれているみたいな、「この人ってこっちの国ではこんなふうに記されてるんだ」みたいな面白さがあると思いました。ヨーロッパで公演をするときにギリシャ神話の中に似た話がある日本神話を選ぶと話されていましたが、共通の言語を持たないヨーロッパの方々にとって、日本舞踊の入り口としてとても親しみやすいものだと思いますし、そこから日本舞踊や日本神話、日本の文化に興味を持たれるきっかけになって素敵だと感じました。
「バイバイン」はそのこと自体初めて知りましたが、日本でも書道だったり昔の文字はその国に住む人のルーツに繋がる部分だと思っていて、フィリピンでのそれにあたるバイバインを創作活動において用いることは凄く意味のあることだなと思いました。私もフィールドスタディのまとめをする時に、バイバイン文字の書道をするみたいなことも面白そうかもなどと考えました。
今回の講義を受けて、演劇の持つ力について考えさせられました。演劇というよりも、生の演奏や生の演出などの舞台芸術の方が近いのかもしれないが、内容が完全に伝わっていなくとも、言葉・国・背景など、全てが全く違う人とも繋がる手段はなんだろうとなった時、この生の経験、同じ瞬間の共有というものは大きなものになるなと再確認することができました。今、バーチャルリアリティや、感覚を擬似的に体験させるものが発展を遂げているが、ただ作品を鑑賞するというだけでなく、その作品が公演されたその瞬間を同時に共有し繋がる感覚こそが舞台芸術のよさであり、生だからこそ表現できるのではないでしょうか。それだけでなく、石井さんと現地のダンサーたちの間に生まれた繋がりがあったからこそ、とても良い作品ができたのだろうし、言葉と写真だけで今回作品の内容を知ることになりましたが、聞いていてとてもグッとくるものがありました。動画が公開できるようになったらぜひ見てみたいです。また作品内でお話のあったキノコ雲に関係して、私も日本の戦争に関する学習やイメージというと、原爆のイメージが大きいです。被害者がいることも、これからも原爆に対してはNOを突きつけなくてはいけないこともわかっていますが、日本国がというより、国民側が被害者としてそれ以外の面をあまり見ようとしていないように感じていました。そのため原爆に関する作品を、斜めに見てしまう節があったのですが、今回お話を聞いて、真の意味で繋がる、わかりあうためにも、共通点という言葉で正しいのかわからないけれど、自分自身を伝え合うことの必要性をひしひしと感じました。
私自身ダンスをやっていて、普段ロックダンスというストリート系のジャンルをやっています。技系の振り付けが多く、型にハマらずにどこまで崩すのか、崩しつつどのようにロックダンスとして成立させていくかというところが面白くて好きで続けています。今回、名前を体で表現だったり、伝えたいことを体で表現だったり、そこから動きって作れるんだという感動があり、作品制作の過程のお話も面白かったです。視点のつけどころも参考になることが多く、いいお話を聞くことができてよかったです。
提出が遅れてしまい申し訳ありません💦私自身、コンテンポラリーダンスの定義がわかっていなかったのですが、今までのダンスのジャンルに当てはまらないダンスであればそれら全てがコンテンポラリーダンスだと聞き、もしかすると私もコンテンポラリーダンスの踊り手になれるのかもしれないなとワクワクしました!また、私自身演劇を見るのもやるのも大好きなのですが、ノンバーバルの演劇の表現ですらも、コンテンポラリーダンスと呼んでよいのだと知り本当に嬉しくなりました。
作品のリサーチの足がかりになるのが、さまざまな文化の間の共通項探しというのは思いもよらず、一気に引き込まれました!確かに、私自身が他の文化の神話や伝承を知るときに、自分の知っている慣れ親しんだ話と似たものと触れた際には、急にその話が身近なものになり、よりその神話や文化を知りたくなります。先生の「同じ月を見ていたのかもしれない」という言葉は、海外の人と一緒に表現作品を作るzoomでのワークショップに参加した際に、私自身も、空に浮かんでいる雲を見上げて感じたことだったため、特に胸が熱くなりました。授業の中で聞いていて特にどきりとしたのは、先生の実体験のお話にあった、「日本人がフィリピン人に何をしたのか知っているかい」という問いかけです。私自身も、何をしたのか具体的にすぐ答えられない負い目があるため、いざ自分がもしその場で聞かれたら絶対に言葉に詰まってしまいます。韓国の友達と話してる時にも、そのような負い目や無知への恥ずかしさが急に胸によぎることがあったのも思い出しました。
そして、授業映像の下に添付されていた、芸術祭2024の舞も試聴させていただいたのですが、本当に美しいの一言につき、目が離せないほど素晴らしかったです!!"