ページ作成日:2022年3月17日(2023年7月28日サイト移行に伴い一部修正)
第9回のWeb展示は「芥川龍之介と川端康成 ~2022年は2人の記念年~」です。
2022年(令和4) は2人の文豪の「記念年」。芥川龍之介は生誕130年(没後95年)、川端康成は没後50年に当たります。第9回のWeb展示は「芥川龍之介と川端康成 ~2022年は2人の記念年~」です。今回はお二人のちょっとしたエピソードを紹介していきます。
それぞれの代表作、および川端康成と美術の関連図書をページ最後のリストで紹介しています。
芥川龍之介の命日を「河童忌」と言います。
芥川龍之介は1892年(明治25)3月1日東京に生まれ、1916年(大正5)「鼻」で夏目漱石に認められて作家として登場します。新技巧派の代表作家とされ、代表作は「羅生門」「地獄変」「侏儒の言葉」「歯車」「或阿呆の一生」、そして「河童」という作品があります。
「河童」のストーリーは、河童の国を見たと信じる精神病患者の妄想を借りて、社会や作者自身を辛辣に戯画化した内容です。河童の国には独自のルールがあり、その中の1つに「仕事の無くなった河童は肉にして食う」というものがあります(衝撃的ですね…)。「餓死したり自殺したりする手数を減らすために当然の判断だ」と、肉にして食べることに疑問を抱かない 河童に主人公は異を唱えます。それに河童が「あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になつてゐるではありませんか?」と返す下りは、実に風刺的な内容です。
そんな芥川ですが、生前好んで河童の絵を描いていました。 日本近代文学館編『芥川龍之介の書画』二玄社 , 2009年
芥川が河童に関心を持ったのは、彼の育った隅田川の河童伝説が影響しているかもしれません。芥川は1920年(大正9)頃から河童を書き始めたと言われています。同年の9月に親友の洋画家・小穴隆一に宛てた書簡では
「この頃河童の画をかいていたら河童が可愛くなりました 故に河童の歌三首作りました 君の画のお礼に僕の画をお目にかけ併せて歌を景物とします」
と書いています。河童の落書きは、いつしか芥川自身を映していくようになります。中でも亡くなる前に描かれた「娑婆を逃れる河童」という落書きは、芥川自身が抱えていた「ぼんやりとした不安」から逃避する様子を映しているようにも見えます。
芥川竜之介の忌日は1927年(昭和2)7月24日。河童の頭のお皿も干上がるくらい、夏の暑い時期でした。
「河童忌」は夏の季語とされ、芥川の友人であった小説家「内田百閒」が「河童忌」の俳句を読んでいます。
・内田百間著『内田百間全集 第2巻』講談社, 1971年
・内田百間著『百鬼園俳句』青磁社 , 1943年
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川端康成は1899年(明治32)、大阪に生まれました。「新思潮」に発表した「招魂祭一景」で認められ、横光利一らとともに「文芸時代」を創刊。新感覚派として出発。日本ペンクラブ会長。文化勲章受章。1968年(昭和43)に日本で初めてノーベル文学賞を受賞しました。アカデミーが発表した授賞理由は、「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」でした。
名作「雪国」の中身は知らなくても、冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった 」を知らない人はいないでしょう。
川端康成は批評家としても優れ、その批評眼に認められて世に出た作家に三島由紀夫がいるのは有名な話ですが、その「眼」の確かさは「作家」だけでなく「美術」にも及びます。
川端は類まれな美術品のコレクターでした。例えば、個人で所有していた浦上玉堂『凍雲篩雪図』、池大雅・与謝蕪村『十便十宜図』は、所有後に国宝に指定されています。『凍雲篩雪図』が市場に売りに出されたことを知った川端は、夫人に宛てた書簡で「買へれば買いたい。何としても買ひたい」と書いているのが残されています。
『凍雲篩雪図』は一時焼けたと言って隠され、戦後に売られたという事情がありました。川端は、作品を個人所蔵にして行方知れずにするのではなく、金策に苦労してでも自分が購入することで作品を世に取り戻したいと強く考えていました。この強い思いが、先の書簡の言葉に表れていると考えられます。
近代日本美術家に関しても、まだ若く無名の頃の草間彌生の作品を購入するなど、いち早くその才能を見出したエピソードが残っています。
日本美術家では、とりわけ戦後を代表する日本画家の東山魁夷は、東山が川端の本の装丁をしたことから、深い交流がありました。
そんな2人には重なる部分が多くありました。川端が孤児であったのは有名な話ですが、東山もすべての肉親を失った過去がありました。そして幼き頃、川端は画家を志し、東山は文学に関心を寄せていたのです。
川端が「京都は今描いといていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいて下さい」と頼み、東山が描いたのが『京洛四季』という画集です。川端はノーベル賞が決まった直後の超多忙な中、京都に赴き、作品に描かれた場所を訪ね、『京洛四季』の序文を書いたエピソードがあります。
また川端は大変マメに手紙を書く人であり、東山との間の書簡が多く残されています。それらのやり取りからは、中年以降に出会ってから、互いに尊重し、影響をあたえながら、互いの分野で美を追求していった姿が伺えます。
東山魁夷の『北山初雪』という絵画は、川端のノーベル賞受賞を記念して贈られた作品です。美しい作品ですので、興味がありましたら是非ご覧になってみてください。展覧会や画集で目にしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。