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チェーン店の社員があいさつに来てから一ヶ月後、あなたが店の定休日に仕込みをしているとJ氏が一人で訪れます。

「先日はどうもありがとうございました」

あなたは笑顔で迎えます。

「実は、今日はお願いがありましてお伺いしました」

話の内容はあなたにとって驚くべきことでした。

「あなたを店長として迎えたい」

もちろんJ氏はすぐに返事を求めてはいませんでした。

J氏によれば「会社が急成長しているため人材が不足している」そうです。企業の一番大きな財産は人であり「我が社は従業員を大切にしている」と熱心に語ります。あなたはJ氏の話を聞きながら奥さんのことを考えていました。

その日の夜、晩ご飯の後片づけも終わりテレビを見ていた奥さんに話しかけます。

「今日、Jさんが来たんだ」

奥さんは最初、Jという名前を思い出せないでいました。

「この前来たショッピングセンターのラーメン会社の人」

「ああ、…で、なにしに来たの?」

あなたはJ氏から説明を受けた話をします。あなたは奥さんの表情が変わって行くのがわかりました。

「あなたどうするつもり?」

「どうしようか…」

あなたは答えながら、奥さんが前にファミレスで言っていた言葉を思い出します。

「十年後、どうなってるかなぁ」

あなたは不安を持っています。それは「組織で働く」ことに対する不安です。十年間も「お山の大将」でやってきた自分がプライドを捨てられるか…。小さいながらも一国一城の主でした。組織で働くということは一従業員になることです。上司の命令に従うことです。あなたは悩みます。

店で働いていても「店長の誘い」が頭から離れません。揺れ動いている気持ちが態度にも出るのでしょう。あなたがチャーシューを切っていると奥さんが聞いてきました。

「決まった?」

あなたは返事をする代わりに奥さんに聞き返します。

「おまえはどうしてほしい?」

奥さんは意見を求められるのを待っていたのでしょう。お店の現在の状況、将来に対する不安、とどまることなく奥さんは自分の気持ちを話しました。

「私は受けてほしい」

あなたはJ氏に連絡をとります。

J氏は会社が就職案内用に作成したパンフレットを持ってやって来ました。前回と重複した話もありましが、会社に対する好感度は増しました。あなたは「是非、お願いします」

と言います。

その日の夜、奥さんは明らかに上機嫌でした。自営業の妻から解放されることがうれしいのです。

「会社員のほうが絶対得よね。だって年金だって倍以上違うのよ」

奥さんは就職案内用パンフレットを見ながら福利厚生についてあなたに細かく説明します。実は、あなたも社会保障や退職金、夏季冬季長期休暇などについて関心を持っていました。今の生活では考えられないような好条件の待遇でした。

あなたたちは廃業に向けて準備を始めます。J氏から決定の連絡が届いたらすぐに実行に移せるようにするためです。一口に廃業と言っても簡単なことではありません。大家さんには一ヶ月以上前に通知をする必要がありますし、内装は解体して元の状態にして返す条件になっているからです。解体について調べてみますと料金にかなりばらつきがあることがわかりました。業者によって数十万円の差があったのです。安い料金の解体業者を探すのも一苦労でした。また、廃業してから大家さんに引き渡すまでに約一ヶ月はかかります。その間は収入がありませんので生活費についてのやりくりも考えなければなりませんでした。

しかし、大変とは言え将来に展望が開けたことはうれしいことでした。奥さんは言います。

「あなたもまだ十年以上働けるし、それに退職金もあるし年金も多くなるし。うれしい」

「前に『十年後どうなってるかなぁ』って言ってたもんな」

あなたは奥さんの喜ぶ顔を見て安心した気分になりました。

J氏からの連絡を待ちながら日々を送っていたある日、テレビをつけると「脱サラ、独立で自分流の人生を」というタイトルの番組をやっていました。番組の中で脱サラした人が語っています。

「独立することが夢でした。ノルマに追われることもなく自分のペースで仕事ができるのが一番幸せですね」

奥さんは画面を見ながら言います。

「そんなに甘いもんじゃないわよねぇ」

「そうだよな」

と答えながらあなたは心の中でつぶやきます。

「夢…か」

翌日、午後の空いている時間に電話がかかってきました。相手は会社員時代の同僚Kでした。久しぶりに会うことになりました。

次の定休日、あなたは待ち合わせ場所に行きます。そこはあなたが独立をするときに仲間たちに送別会をしてもらった店でした。

「おお、ここ」

右手を大きく振るKは昔と変わっていませんでした。頭は少し薄くなったようには思いましたが、もちろん口には出しません。

「俺、会社を辞めるんだ」

Kは落ち込んだ声色で言います。まだ定年には十年以上はあるはずです。あなたは理由を尋ねました。

「簡単に言うとリストラ」

自嘲気味に答える表情には疲労感が滲み出ていました。会社は正社員を減らし非正社員を増やす方針になったそうです。マスコミなどでは聞いていましたが、現実に耳にするとやはり驚きがあります。Kは会社の愚痴をさんざんあなたに語ります。そしてあなたに言います。

「おまえはいいよな。リストラされることがなくて…」

あなたは現在自分に進んでいる状況を話す気持ちになれませんでした。Kは続けます。

「おまえは偉いよ。自分の夢を実現させたんだから…」

帰りの電車の中であなたは思い出します。十年前、完成した自分の店を初めて見たときの喜びを…。

「やったぁ。念願かなった自分の城だ!」

そう、あの店はあなたの夢だったのです。自分の親と奥さんの親、両方の反対もありました。会社の上司の反対もありました。それらを乗り越えての独立だったのです。あなたは今、それを手放そうとしています。

家に着くと奥さんがテーブルに向かい白い紙を広げ右手にはペンを持っていました。あなたに気がついた奥さんは聞いてきます。

「Kさん、どうだった?」

「うん、元気でやってたよ」

あなたは奥さんに本当のことは言いませんでした。奥さんが落ち込むような気がしたからです。あなたは奥さんに聞きます。

「なにしてんの?」

「うん、店をやめるときに周りの人に出す挨拶状…」

あなたはKについて事実を話さなくてよかったと、安堵します。

翌週、J氏から「明日、訪問したい」と連絡がありました。奥さんは言います。

「いよいよね」

約束通りJ氏は午後三時ピッタリに来訪しました。そして席に着くなり両手をテーブルの上に置き頭を下げたのです。

「申し訳ありません」

奥さんは厨房の中からその様子を見て驚いています。

J氏は頭を上げるなりあなたに謝罪の言葉を述べそして採用キャンセルを告げます。

J氏は帰り際にも何度も何度も頭を下げていました。奥さんはJ氏が座っていたテーブルに力無く座りつぶやくように言います。

「Jさんのほうから誘ってきたのにね…」

「しょうがないよ。上のほうで決まったことなんだから」

「でも…」

奥さんはそれ以上言葉になりませんでした。

その日の夜、あなたは考えます。会社が若い人材を求めるのは当然です。もし自分が社長でも当然そうするでしょう。Kがリストラされる理由もKの年令が会社にとって不必要な年代だからです。あなたは納得していました。ただ…。

それから一週間、奥さんは以前にも増して落ち込んだようすで働いていました。あなたも励ます言葉が見つかりません。あなたたちは惰性で働いていました。今後のことはお互い触れないようにして…。

奥さんがその日十六回目のため息をついたとき電話が鳴ります。奥さんが出てあなたに言います。

「解体業者の人からだけど…」

あなたは「いない」と答えるようにメモ用紙に書きます。電話を切ったあと奥さんが聞きます。

「どうするの?」

解体業者から「詳細を決めたい」という連絡でした。しかし就職の話は途絶えてしまいましたので解体業者に依頼する必要はなくなっていました。あなたは「もう少し時期をずらしてから解体業者に話をする」と奥さんに言います。

その日の夜、あなたはなかなか寝つけませんでした。何度目かの寝返りのあとお水を飲みに台所に行きます。電気を点け冷蔵庫から冷水ポットを取り出しコップに注ぎます。一気に飲み干すととても気持ちのよいものでした。冷水ポットを冷蔵庫に戻し扉を閉めたとき、あなたは「挨拶状」に気がつきます。ドアにマグネットで張り付けてあるラックに「挨拶状」が入っていたのでした。

あなたは一枚を取り出します。奥さんの書いた文章を読みます。

奥さんは丁寧にきれいに一字一字書いていました。あなたは、奥さんが文字に「店をやめられることのうれしさ」を込めていたことを感じます。そして同時に、あなたは十年前自分が夢を実現したときの喜びを思い出します。

数日後、お客様が一人もいない店内であなたは奥さんに尋ねます。

「解体業者の電話番号っていくつだっけ?」

洗い物をしていた奥さんはその手を止め、奥に解体業者の案内パンフレットを取りにいきました。奥さんはパンフレットを見ながら電話番号を言います。あなたは言われた数字を押します。

奥さんは数字を言い終わったあとパンフレットを見ていました。

あなたは電話に向かって話します。

「日取りなんですけど来月の十六日でどうでしょうか?」

あなたの言葉を聞いて奥さんはあなたの横顔を見ました。奥さんはあっけに取られた顔をしています。

電話を切ったあなたに奥さんは少し強めの口調で言います。

「あなた今、なんて言ったの?」

あなたは何食わぬ顔で答えます。

「来月の十六日にこの店解体するから」

奥さんは言葉を失ったままあなたを見つめています。

その日は店を閉店したあと久しぶりにファミレスで食事をすることにしました。

奥さんはテーブルに座るとあなたに問いかけます。

「どうして?」

「この店、今日も空いてるよな」

あなたはメニューで顔を隠すようにして質問とは関係のない返事をします。あなたの返事を聞いて奥さんもメニューを見ます。あなたはメニューに視線をやりながら奥さんに言います。

「ここ一、二ヶ月でいろんなことがあったよな。俺、いろんなこと考えたんだ」

奥さんは黙ったままメニューを見ています。

「店をやめようと思ったり続けようと思ったり…揺れ動いてさ。我ながら優柔不断な男だなぁって。結局、駄目になったけど店長になる話のときも実はね、決心がついてなかったんだ…。今の店って俺の夢だっただろ。それを思い出したとき、廃業するのやめようと思ったんだ、ホントは。でもね、冷蔵庫のラックで「挨拶状」を見たときやめる決心がついた。おまえも自営業の妻を何年もやってて辛そうだったし、いや、別におまえのせいにするつもりはないんだ。やっぱり俺自身の中で気持ちが冷めた、って言うのが正直な気持ち…かな。商売をやる人間が、その気持ちに燃えるものがなくなったら商売をやる資格がないよな。でもこれが今の正直な気持ち。こんな俺、男として情けないよな。自分でもわかってるけど…」

奥さんはあなたが持つメニューが小さく震えているのに気がつきます。

「これからのこと、なんも決めてないんだ。でもなんとか生きていくから…。それでいい?」

奥さんはメニュー越しにあなたから聞こえてくる途切れ途切れの言葉に何度もうなづいていました。

しばらくして奥さんが言います。

「私が注文するね…」

あなたはこうやってラーメン店に失敗します。

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