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ラーメン店の店主としてベテランと言われるようになった十年目の秋。

奥さんと二人で朝は九時から夜の零時過ぎまで働いていますと、普段自分たち家族が食べる晩ご飯は店の残り物か、もしくは店に残っている材料で作るものになってしまいます。当然、種類も限られたものになり二、三日起きに同じおかずがテーブルに並ぶことになります。奥さんも仕事のほかに食事を作るのが面倒になり最近ではファミレスで外食をすることも珍しくなくなりました。

ある日、ファミレスで食事をしていたとき奥さんが空中に投げかけるようにつぶやきます。

「私たちいつまでこんな生活してるのかなぁ」

あなたはファミレスのお客さんの入り具合を見るために店内を見渡していた顔を奥さんに向けます。

「どうかなぁ…」

あなたは軽い感じで答えはしましたが、心の中では奥さんの言葉に驚いていました。

「私たち、最近外食すること多いじゃない…」

「そうだな…」

本心では、あなたは外食する回数が多いことを日頃から気にはかけていました。ラーメン店でそこそこは儲かっていましたが、余裕のある暮らしができるほど利益が出ていたわけではなかったからです。そうした状況で外食をするということは生活を圧迫することにつながります。しかしあなたは奥さんの大変さを思うとついつい外食をしていたのでした。

「外食ばっかりしてたら儲けも少なくなるよね」

「確かに」

奥さんは自分が怠け者になったようで「気が引ける」と言います。

「仕方ないよ。だって時間的に料理作るの難しいじゃない」

あなたが言葉を継ぐと奥さんは言います。

「ねぇ、十年後私たちどうなってるかなぁ」

あなたがなんと答えようか考えているとウェイトレスが料理を運んできました。

料理を置き終えたウェイトレスにあなたは話しかけます。

「こんな深夜まで大変ですね」

ウェイトレスは笑顔で「ええ、まぁ」と答えます。あなたはさらに質問します。

「この仕事長いんですか?」

「一年ちょっとなんですよ。ただ今月で辞めるんですけど」

「そうですか。ごくろうさまでした」

「ありがとうございます。私の本職は演劇なんですけど今度公演があるのでそれで…」

「それは素敵ですね。頑張ってください」

ウェイトレスの後ろ姿を見ながら奥さんが言います。

「夢があるっていいよね」

「こういう深夜に働いている人たちって音楽とか演劇とかやってる人多いらしいよ」

奥さんはそれ以上話を続けませんでした。

翌日、午後三時頃同じ商店街で和菓子店を営んでいるご主人とその奥さんが訪れます。

二人揃って来たことは今までになくあなたは入口まで出迎えます。

「和菓子店を廃業する」あいさつでした。ご夫婦二人とも年令が七十才を越え「肉体的にきつい」というのが理由でした。和菓子店には息子さんが二人いますが二人とも会社勤めをしているそうです。あなたが「継がせる気持ちはなかったのですか?」と尋ねると「とてもじゃないが今の息子たちの給料ほどは儲からない」と笑っていました。

ご主人の話を聞くと、会社員のほうが休みは必ずあるしボーナスもあるし厚生面でも個人商店よりも数段恵まれているようです。店舗は誰かに貸し自分たちは郊外に住むことにしたようです。二人とも人生において仕事に対する達成感、満足感を得たようです。それとともに安堵感も漂わせていました。

その日、閉店後のあと片づけをしていると奥さんがお昼に来た和菓子店のことで話しかけてきました。

「あの二人羨ましいよね」

「店を貸店舗にして自分たちは悠々自適に暮らすなんて店舗が自分の所有だからできることだよな」

「私たちとは別世界の話ね」

次の定休日、奥さんは学生時代の友だちと数年ぶりに会うことになっていました。あなたは店のテーブルの具合が悪いところがありその修理に一人で店に行きます。

修理の途中で部品が足りないものがありあなたは厨房の奥にある小さな机の引き出しを開けます。引き出しの中は長い間整理をしていないので乱雑になっています。不要になったネジや釘、そして昔の領収証、はじめた当初使っていたゴム印なども出てきました。あなたはそれらの中に混じっていた小さな手帳を発見します。

あなたは懐かしさを覚えます。その手帳はあなたがラーメン店をはじめる前に自分の人生スケジュールを書いていたものでした。

ページをめくると最初のページにこう書かれていました。

「脱サラは根性だ!」

当時、あなたが自分に言い聞かせていた言葉です。いくら頑張っても資金が貯まらず、また借り入れもうまくいかず、仕方なくラーメン店開業を諦めようとしたこともありました。そういう弱気な自分を奮い立たせるために書いた言葉です。

あのころのあなたの夢はラーメン店を開業することでした。

夜になり奥さんが帰ってきます。奥さんは昔の友だちと会ったことで上機嫌でした。奥さんの話が途切れるとあなたは奥さんに手帳を見せます。

「なあに?これ。やけに古いけど」

「思い出さない?」

「えっ?」

あなたは手帳をつけていた当時の思い出を奥さんに話します。奥さんは懐かしそうな表情をしてページをめくりはじめます。しばらくすると声を出さずに読んでいた奥さんは最後のページをじっと見ていました。

<きっと必ずラーメン屋>

視線はそのままに奥さんは言います。

「私たちの夢ってラーメン店を開くことだったのね」

そのまましばらく沈黙がありました。そして奥さんは口を開きます。

「実はね。今日、昔の友だちと会っていろいろなこと考えたの」

奥さんは手帳を閉じながら続けます。

「こんなこと言うとあなたに怒られるかもしれないけど友だちが羨ましかった」

あなたは返事をするでもなくただ聞いています。

「私は朝から晩まで働き通しだけどダンナがサラリーマンをやってる友だちは買い物に行ったりスポーツを楽しんだりしてたの。…なんかね」

「でも、俺は脱サラして自営業になったんだから仕方ないよね」

あなたの言葉を聞いた奥さんは返事をすることなくゆっくり立ち上がりお風呂に向かいました。ひとりになったあなたはつぶやきます。

「十年後か…」

その後、あなたと奥さんは別にどうということもなく普段と変わらない生活、仕事を続けています。ただ、二人の心の中に以前と比べ活気がないことを除けば…。

そんな日々を送っていたある日の午後、スーツで身を固めビジネスバッグを持った青年が来店します。

「大将、お久しぶりです」

あなたは青年の顔を見つめます。すると奥さんが大きな声で言います。

「あら、鈴木君じゃない。久しぶりぃ。懐かしいわねぇ。立派になって」

奥さんは鈴木君を上から下まで眺めながら母親のような表情になっています。あなたも鈴木君のことはよく覚えています。あなたが初めて雇ったアルバイト学生だったからです。しかも一番長い期間働いてくれました。明るく働き者な青年でした。

二時間ほど昔話に花が咲き、あなたと奥さんは楽しい時間を過ごすことができました。鈴木君はすでに結婚をして子供も一人いる、とのことでした。今の会社は有名な大企業ではありませんが、広告代理店として名前が通っているところでした。あなたは鈴木君が卒業するときに励ましたことを思い出しました。

「鈴木君は明るいし真面目だし社会に出ても絶対通用するから…」

あなたは自分の「人を見る目が正しかった」ことを喜びました。

しかし少なからずショックを受けたこともあります。それは収入が今の自分たちと大して変わらないことでした。脱サラをして十年の自分たちと三十才前後の若者が同じ収入なのです。しかも自分たちは夫婦二人での収入に対して鈴木君は一人で得ている収入です。実質的には鈴木君のほうが多いことになってしまいます。

鈴木君が帰ったあと奥さんは言います。

「鈴木君、偉いね。近くに来たからってちゃんとあいさつにくるなんて」

その日の夜、あなたがお風呂から上がってくると奥さんが言います。

「もしあなたがサラリーマンのままだったらどうだったかなぁ」

あなたは頭を拭いている手を一瞬止めます。

「どうかな…。たぶん鈴木君みたいに出世はしなかったと思うよ」

「でも私、サラリーマンの奥さんやってみたかったなぁ」

あなたはお水を飲みに台所に向かいました。

気分が乗らなくてもお店は開店しなければなりません。最近はお昼のピークタイムもピークとは言えなくなっていました。混みあう時間が短くなっていたのです。以前ですと十二時から一時過ぎまでは満席が続いていましたが、今では十二時半には空席もできるようになっていました。

ある日の午後二時半頃、五十代前半と思われる女性が二人入ってきました。

「ごめんなさいね。一人分だけの注文なんだけどいいかしら?」

一人だけお昼を食べそこねたそうです。もちろんあなたたちは笑顔で注文を受けます。貴重な一人分の売上げですから。

店内にはほかにお客様がいなかったせいもあり二人の会話は自然と耳に入ってきました。話の内容から察すると二人は生命保険のセールスの仕事をしているようです。

「今の時代、昔と違って商売している人は大変よ。あんまり保険入ってくれないから」

「昔はサラリーマンより稼いでいたけど今はサラリーマンのほうが稼ぐわね」

「ウチの息子、『自分の好きなことやる』って言って就職しないって言うのよ」

「サラリーマンのほうが安定していていいのにね」

あなたは決して二人のほうを見ていたわけではありません。しかし二人はあなたの心の耳の気配を感じていたのでしょう。あなたに話しかけてきました。

「社長、商売って大変ですよねぇ」

あなたは笑顔とも言えない笑顔で答えます。

「ええ、まぁ」

さらに奥さんにも聞いてきます。

「奥さんも偉いわねぇ。商売人の奥さんって大変でしょ」

奥さんはあなたのほうを見ながら戸惑い気味に答えます。

「ええ、まぁ」

二人が帰ったあと奥さんは微笑みながらあなたに言います。

「私、偉いって」

商店会の集まりは二ヶ月に一度会議所であります。あなたはこうした集まりが好きではありませんが、『つき合いも大事かと思い』毎回出席していました。

その日はいつもより出席者が多いようでした。その日の議題が来年建設されると噂されているショッピングセンターについてだったからです。古株と思しき人たちが三々五々集まって不安を口々にしています。あなたは他人事のように話を聞いていました。

やはりショッピングセンター建設の噂は本当のようでした。あなたは家に帰ると奥さんに話します。ショッピングセンターには二百台を収容する駐車場も完備しており飲食店街もあるそうです。その中にはラーメン店もあるようでした。奥さんは言います。

「ウチにも影響あるね」

約三ヶ月後、反対運動などもありましたが、ショッピングセンター建設の計画は行政によって決定されました。行政としてはショッピングセンターを地域の活性化に役立てる構想を持っていたようです。

それから数週間後、スーツを着た男性二人が訪ねてきます。

「来年オープンしますショッピングセンターのごあいさつに参りました」

二人の男性はショッピングセンター内に開店するラーメン店を経営する会社の人でした。二人のうち上司らしき人物は物腰も柔らかく丁寧にお辞儀をすると名刺を差し出しました。名刺には本部長Jと書かれています。J氏は最近の業界情勢を世間話に交えて話したあと自社について説明をしました。

店の経営形態は、今流行っているフランチャイズではなく全て直営店だそうです。すでにラーメン店を六十店舗あまり出店しているそうでその中でも今回の店は一番大きな規模の店舗だと言っていました。帰り際にJ氏は言いました。

「こちらの店に影響もあると思いますが、できたらお互いが成長できれば、と思っています」

あなたは素直な気持ちで答えました。

「よろしくお願いします」

あなたが素直に答えたのには理由があります。それはこの会社の経営形態がフランチャイズシステムではなく、直営店でチェーン化していることでした。あなたは個人事業主として店を一店舗経営している経験から複数店舗を経営することの大変さがわかっていました。あなたは直営店形態で展開している会社に対して尊敬の念を感じていたのです。あなたは奥さんによく言っていたものです。

「一店舗でもこんなに大変なのに十店舗も二十店舗も経営するなんて偉いよなぁ」

会社の人が帰ったあとも奥さんに「ああいう会社を尊敬するね」と言いました。しかし奥さんの気持ちはこれからの不安感のほうが強かったのです。ショッピングセンターができたなら自分たちの店が潰れるかもしれないからです。

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