やーぐまい映画祭と『これから二人で、ケアンを置きに』

投稿日: 2020/05/06 10:20:52

文 藤城孝輔

2020年5月2日から6日、沖縄県内の映像制作会社PROJECT9は「やーぐまい映画祭」という名の下、46作(テレビドラマはシリーズ全話で1作に換算)および予告編1本に上る沖縄の映像作品の無料配信を行った。「やーぐまい」(家ごもり)というウチナーグチが表すとおり、緊急事態宣言下で外出自粛が要請されたゴールデンウィーク中に自宅での映像視聴を可能にする企画である。先月の第12回沖縄国際映画祭が事実上の開催中止に等しい大幅な実施内容の変更を余儀なくされるなど、新型コロナウイルスの影響が沖縄映画界でも広く見られる中、やーぐまい映画祭は近年の沖縄の映像作品を一挙に鑑賞できる機会となった。

このような状況下で立ち上がった企画であるため、どうしても急ごしらえの寄せ集めという印象は拭えない。配信された映像は「琉球トラウマナイト」をはじめPROJECT9が制作した自主映画やテレビ作品、沖縄フィルムオフィスによる沖縄映像コンペティション支援作品、名護のシネマ・デイキャンプなごうららで上映された短編映画、その他企画の主旨に賛同したと見られる県内映像作家の作品が中心である。ほぼ全作が旧作であるため、既にオンラインやDVD等で視聴可能な作品も少なくなかった。また、配信にYouTubeを利用したことから、残虐描写の激しいホラー短編『山羊汁』(土田豪介監督、2019年)が再掲載の試みにもかかわらずYouTubeの利用規約に引っかかって削除されるなどの問題も発生していた。さらに42分47秒の『ヤドカリの嘘』(ダイナマイト平[平一紘]監督、2016年)が短編映画のページに掲載されている一方で、それよりも短い18分45秒の『Lost Sea』(土田豪介監督、2017年)が長編映画にカテゴライズされるなど、サイト上の分類にも未整理な部分が見られた。しかし、多少のぎこちなさはあっても、県内外の視聴者へ娯楽を提供し、沖縄映画・映像を広く紹介する本企画の意義は大きかったと言える。

やーぐまい映画祭のおかげで、私はこれまで見逃していた作品を今回の連休中に何本かキャッチアップすることができた。それらすべてを論じることはできないが、ここでは平一紘監督の短編映画『これから二人で、ケアンを置きに』(2018年)に注目したい。2018年1月27、28日に那覇市のバンターハウスで開催されたイベント「琉球トラウマナイト2017」の中で初上映された作品である(2018年開催なのにタイトルが「2017」となっているのは、当初2017年に開催予定だったイベントが年明けに延期されたためであるもよう)。人間をゾンビ化させるウイルスが蔓延した世界を描いた本作は、新型コロナのパンデミックの今日において奇妙なリアルさを感じさせるものがあった。

とある生物化学兵器によって、人が判断力を失って身近な者同士で殺し合うようになるウイルスがばらまかれる。市内放送やラジオは、外に出ないこと、集団でかたまらずに一人でいることといった指示を繰り返すばかり。そんな中、毎日のように虐待を受けて世界の破滅を望む混血の少女シーナと、顔を焼かれて職を失い、自殺を考える元女優のユヅキは二人で島を脱出しようと考える。「私たちは殺し合うよりも、一人になる方が怖かった」とシーナが英語のナレーションの中で語るとおり、タイトルにもある「二人で」いることと一人でいることの対照が本作の鍵となる。お互いと出会う以前、主人公の二人はハーフという出自や経済的な困窮のために社会の中で孤立した日常を送っていた。しかしゾンビウイルスが蔓延して島中の人間が一人にならなければいけない非日常のおかげで、彼女たちは皮肉にも二人になることが可能になる。

タイトルに出てくる「ケアン」は作中には登場せず、それについての説明も一切与えられない。なじみの薄い言葉であるが、ケアン(cairn、ケルンとも呼ばれる)は石を積んで作る塚を意味する。登山の目印や儀式的な用途など、石塚は多様な目的で作られる。仏教において死者が賽の河原で積むとされる石もまたケアンの一つだと言えるだろう。ストーリーの核心に触れることになるため詳述は避けるが、本作における「ケアン」はウイルスをめぐる日常と非日常が現世と死後の世界に対比することを示唆するものだと考えられる。だが、それまでの日常が不幸な日々だった主人公にとって、ウイルスの存在しない日常、またはこの世に再び戻ってくることが必ずしも幸福だとは断言できない。強く望まない限り日常には戻れないことが劇中で説明されるが、本当に主人公自身の意志で戻りたがっているのか、日常に戻った彼女がこの先どうなるのかはあえて曖昧にされている。それはまるで、彼女の意志とは無関係に日常が続き、その中で彼女が生きていかなければならないことを示すかのようですらある。

現在の新型コロナの現実は、この映画で描かれるような日常/非日常の対比として捉えられるものだろうか? 緊急事態宣言下にある今日はいわば非日常であり、いつかは来るであろうウイルスの収束は以前の日常に戻ることを意味するのだろうか? この点について私は懐疑的にならざるを得ない。私たちは政治の無力さに失望し、人々の間にある共感の欠如や匿名の攻撃性に気づき、国家や地域の間に存在する分断を目の当たりにした。コロナ以前から潜在していたであろうこれらの醜さを見なかったことにして再び平和な日常を演じるにはかなりの自己欺瞞が必要だろう。また、三つの密を忌避することが当たり前になった現在、以前のような接触や接近はもはや受け入れられないものになりつつあるのではないか? 例えば、コロナ以前の作品である本作では「二人でいること」の象徴として女性同士の抱擁が印象的に描かれる。だが、コロナ以降の私たちはこのような描写を自然な日常の一部として受容できるだろうか? 現在中断されている映画やテレビドラマの撮影が再開されたとき、出演者は以前と同様に濃厚接触を当たり前の日常として演じることに強い抵抗を感じるかもしれない。また観客である私たちも、スクリーン上のキスやハグに違和感を覚え、あるいは抗議の電話の一つもしてみたくなるかもしれない。

これらの憶測の数々がすべて杞憂に終わればそれに越したことはない。だが、現在の世界的な非常事態は決して一過性の非日常として終わるものではなく、私たちの日常そのものを不可逆的に変えてしまっているように思えてならない。やーぐまい映画祭はコロナ禍が二度と来てほしくないという思いを込めて「only 2020」と掲げているが、同様のオンライン配信イベントの需要はコロナが収束した後もいっそうの拡大を続けることになるだろう。望むと望まざるとにかかわらず、私たちは既に新しい日常を生きている。もう過去には戻れない。

やーぐまい映画祭ウェブサイト

https://project-nine.info/index.php

映像出典:「琉球トラウマナイト2017 これから二人でケアンを置きに 予告編2分」(PROJECT9)