『辺野古抄』が描く日常の中のアメリカ

投稿日: 2019/12/22 8:59:42

文 藤城孝輔

夜明けの海辺の光景にゆっくりとフェードイン。東海岸の空に太陽が上がっている。どこからかアメリカ合衆国の国歌「The Star Spangled Banner」のメロディーがかすかに聴こえてくる。曲が最後まできっちり演奏されると、続いて「君が代」に切り替わる。どこかでサッカーの日米試合でもやっているのか? だとしても、おそらくこの近くではないだろう。二つの国歌をかき消すかのように早朝のセミがけたたましく鳴き続けている。堤防のコンクリートに絶え間なく打ちつける波の音も容赦なくサウンドトラックに覆いかぶさる。自然は人間の作った国家とその象徴たる国歌に対してどこまでも無関心だ。

このように幕を開ける『辺野古抄』(2018年)は八島輝京(あきひろ)監督の長編ドキュメンタリーデビュー作である。普天間基地移設のための新基地建設をめぐって注目を集める沖縄本島北部の辺野古を日常生活という視点からとらえた点が新鮮だ。なので『戦場ぬ止み』(三上智恵、2015年)のように基地問題に真っ向から取り組んだ映画だと思って観ると大きく意表を突かれることになる。地元の漁師が運転するトラックの助手席に座った八島のカメラは、路肩に並ぶ埋め立て反対派のテント村をさらりと通り過ぎて西海岸側にある漁協で行われる競りに向かう。車内でハンドルを握る漁師が話す内容も反対運動とは関係のないスク漁の話だ。映画のオープニングにおける日米の国歌など気にも留めないセミの合唱や波音と同様、辺野古の生活者は賛成派と反対派が繰り広げる喧騒とは別次元に生きているかのようにすら見えてくる。

本作が注目するのは基地問題で取りざたされるアメリカと日本の政治ではなく、辺野古の日常生活の一部に溶け込んだアメリカの存在である。綱引き大会に参加するTシャツ姿の軍人たち、辺野古ハーレーで他のチームと競い合う海兵隊の女性チーム、お盆に親戚を訪ねてくる混血の少年といった具合に、基地のある町においてアメリカ人は身近な存在だ。キャンプ・シュワブの高官が平和之塔で催された沖縄戦の戦没者慰霊式に参列して見よう見まねで焼香をする様子や、運動会で地元の人間と軍人たちが共にスポーツを楽しむ光景がカメラに収められる。その一方で八島は辺野古で暮らす退役軍人や、かつて米兵と結婚していた地元の女性にもインタビューを行い、基地のすぐそばに位置する生活の場としての辺野古の歴史を掘り下げる。アメリカ人との結婚を「お金と結婚した」と認めるあっけらかんとした様子とは裏腹に、女性は夫の写真や彼の遺した医学書を八島に見せて今は亡き夫を愛おしげに懐かしむ。彼女の姿は、アメリカという隣人に対する地元の住民の両義的な感情に相通じるものであると言えよう。

本作で描かれる米軍の身近な存在感とそれを日常の一部分として受け入れる地元住民の態度は率直でリアルなものだ。しかしそれだけに新基地賛成派のイデオロギーに容易に回収され得る危うさも持っているように見える。実際、地元で開催される種々のスポーツ大会に参加する米兵や防衛局職員の様子は、在日米海兵隊が地元との友好的な共存や日米親善の実例としてたびたびYouTubeやフェイスブックで取り上げてきた。さらに、抗議活動として基地のフェンスに貼られたテープを青年有志が剥がしに行く「フェンスクリーン」の場面は、いわゆる「サヨク活動家の抗議に迷惑を被っている地元住民の姿」として保守系メディアではおなじみのものだ。

八島の映画は賛成派にも反対派にも傾かないように注意深くバランスを取っており、米軍と地元の平和的な共存関係という一面のみを恣意的に切り取った言説とは一線を画している。あるシーンでは牛飼いの男性が軍の演習場を通過してきた農業用水の汚染を疑う。別のシーンでは辺野古の海水をにがりとして使って豆腐作りを続けてきた女性が「辺野古の海、今までは大丈夫だけど埋めたら、どうかな?」と不安の言葉を口にする。しかし価値判断を加えることなく「ありのままの日常」をスクリーンに投じる本作のスタイルには踏み込みの浅さも感じた。目の前で起きている出来事をただそのまま提示する行為さえも政治性と無縁ではいられない。普天間基地の移設候補地として挙がって以来20年以上に及ぶ経緯を持つ辺野古においては特にそうだろう。主義主張ばかりを前面に押し出したドキュメンタリーの数々には食傷ぎみだが、かといって映画作家が観察に徹して個人としての意見を表明しないスタイルは、意図的なものだとしても物足りない気がする。

立命館大学映像学部映像学科出身の八島は在学中に一年間休学して辺野古に住み、本作の撮影に取り組んだという。本土の頼母子講に相当する模合の会合のシーンでは、参加者の一人が「ヤマトゥンチュがよ、こんなん見たことないって撮影してるばーよ」と冗談めかして言い、八島が素朴な興味と好奇心を持ったアウトサイダーとして地元の人間と接していたことがうかがえる。イデオロギー抜きで辺野古の現実に飛び込もうとする映画作家の真摯さが全編にわたって感じられた。政治的な場として注目を集めてきた辺野古という地に実際に身を置き、若い映画作家が何を考え、感じたか? ないものねだりになってしまうが、私はありのままの彼の内面を映画を通してもっと直接的な形で受け取りたかった。

『辺野古抄』には立命館の卒業制作として2017年2月19日にTジョイ京都で上映された42分版、2018年12月2日に東京ドキュメンタリー映画祭で上映されて観客賞を受賞した132分版、再編集を施して2019年10月4日に一般上映されたと見られる60分版の三種類が存在する。私は2019年11月19日に岡山大学で行われた上映会で132分版を観た。異なる版の存在は、映画作家の試行錯誤の過程を如実に示すものであるだろう。機会があれば、いつか複数の版を見比べてみたいと願っている。

画像提供:八島輝京

映像出典:『辺野古抄』予告編(東京ドキュメンタリー映画祭 neoneo)