島の生と死 ―照屋年之監督『洗骨』評

投稿日: 2019/02/11 9:44:46

文 世良利和

ゴリ(照屋年之)監督はこれまで短編を中心に10本の映画を撮り、キャリアを重ねてきた。もちろんすべてが秀作というわけではないが、随所に北野武を思わせるような独特の「間」があって、普通なら鼻につくようなギャグでも、なんとなく苦笑させられてしまう。『税金サイボーグ・イトマン』(2013)しかり、『選ばれた男』(2017)しかり。ただ私はこの監督のセンスが勝負の早い短編では活きても、じっくり撮る長編には向いていないのかと思っていた。というのも、唯一の長編だった『南の島のフリムン』(2009)では、素人に近い出演者の力量不足もあって、ストーリーやテーマがギャグの「間」について行けず、消化不良のまま中途半端な映画に終わっていたからだ。

一方、第8回沖縄国際映画祭で発表された30分ほどの短編『born、bone、墓音。』(2016)は、粟国島を舞台に洗骨の風習を描いた佳品だった。亡くなった肉親を火葬ではなく風葬もしくは土葬し、何年か後に棺を開いてその骨を海水や酒で洗い清め、改めて納骨する-洗骨の風習はかつて奄美や沖縄で広く見られたが、現在では粟国島や与那国島、与論島などの一部にかろうじて残るに過ぎない。この風習を通して新しい家族関係を見つけるというのが、『born、bone、墓音。』の骨格だった。

島に暮らす頑固な兄役の山城智二をはじめ、自ら主演を兼ねたゴリや太った妻役の佐藤仁美(後にRIZAPのCMに登場)が好演しており、兄の幼なじみに扮したうどんちゃんのベタな放屁ネタも見事だ。ゴリは本作で洗骨という沖縄ならではのテーマに出合い、自身の新しい可能性を開いたと言えるだろう。この好短編をベースに、配役とストーリーを新たにした長編第二作が、第10回沖縄国際映画祭で先行公開された『洗骨』だ。それまでのゴリという芸名ではなく、本名の照屋年之名義で監督しており、内心手応えと期するものがあったに違いない。

短編の出来がよくても、長編化されると凡庸な(とまでいかなくても物足りない)作品になってしまうことがある。短編の歯切れの良さや展開のテンポが、長編では間延びしたり、尺に対する物語の密度が薄くなったりするためだ。だが『洗骨』は長男役の筒井道隆らが母親の死と向き合う物語に、新しい命の誕生というもう一つの物語をうまく絡めることで、そうした弊害を免れていた。筒井の妹の恋人役として登場する鈴木Q太郎に驚く人も多いと思うが、あれは作品をどこかで壊しておきたいという照屋監督の欲求の表れだ。

この映画には島の生と死をつなぐ象徴的な場面がある。未婚のまま妊娠した妹の丸い腹に伯母が椿油を塗ってやるのだが、それは洗骨の時に母親の頭蓋骨を清めるための油なのだ。ともすれば押しつけがましくなるテーマに対し、照屋監督は笑いによってうまくバランスを取っている。ただし最後の場面は語るのではなく、黙して観客に委ねた方がよかったかも知れない。また沖縄のダメ親父に扮した奥田瑛二とパワフルな伯母に扮した大島蓉子の演技は素晴らしいが、この二人を含む主要キャスト四人がすべて本土の役者というのは、ちょっと寂しくないだろうか。特に山城智二を活かし切れなかったのはもったいない。

それはともかく、これまでに沖縄国際映画祭で公開されてきた沖縄関連の新作映画は、長編・短編併せて40本以上になると思う。ちょうど10回目という区切りの年を迎えて、ようやく頭一つ抜けた作品が登場したと言えるだろう。本作の評価によって照屋監督の活躍の場がさらに広がり、娯楽性と沖縄で撮る意味を併せ持つ新たな作品が生まれることを期待したい。

(せらとしかず/映画批評、沖縄映画史)

映像出典:『洗骨』予告編(PHANTOM FILM)