「ライト、ついてますか?」
問題について何らかの共通理解がなかったら、
解答を出したところで、まず間違いなく間違った問題に対する解答に成り終わる。
たいていの場合それは、
一番大声を出した人の問題、または一番上手にしゃべった人の問題であるにすぎない。
最良の手がかりは、
精神的に単数形から複数形への切り替えをすること。
つまり問題解決者であることをやめて、
問題群解決者になるのである。
精神的に切り替えの練習をするには、
早い時期から次の問に答えようとしてみるのがよい。
「問題を抱えているのは誰ですか?」
それを自分だという人ごとに
「あなたの問題の本質は何ですか?」
「問題とは、望まれた事柄と認識された事柄の間の相違である」
「幻の問題は本当の問題」
もともと"家の中が寒すぎる"という形で定式化された問題は、
たとえば"なぜ自分は家の中が寒すぎると思ったのだろうか?"とか"私の体はどうしたのだろうか?"
とかいった、違う形をとることになる。
「ユーモアのセンスにない人のために問題を解こうとするな」
規則についてほんのちょっと知っていれば、総計算量をたとえば10分の1程度に減らせるだろう
「彼らの解決方法を問題の定義と取り違えるな」
「彼らの問題をあまりやすやすと解いてやると、彼らは本当の問題を解いてもらったとは決して信じない」
「道徳的問題点は、とかくおいしい問題の熱にとろける」
「解法を問題の定義と取り違えるな。ことにその解法が自分の解法であるときには注意」
「問題の正しい定義が得られたかどうかは決してわからない、問題が解けた後でも」
「結論に飛びついてはいけないが、自分の第一印象は無視するな」
関係者みんなが間違ったのは、問いが重要なら答えも重要であるはずだ、と思いこんだため。
問題を扱う上で本当に大事なのは、問いは決して答えられることがないと覚悟すること。
だがそれは、問い続けている限りは、どうでもいいこと。
だまされて究極の解答を得たと思いこむのは、まんまとだまされて究極の問題定義、つまり究極の、真の答えを得たと思い込んだときに限る。
で、そう思ったとしたら、それは必ず間違い。
なぜなら『究極の解答』なんてものはそんざいしない。
「正しい問題定義が得られたという確信は決して得られない。
だがその確信を得ようとする努力は、決してやめてはいけない」
「すべての解答は次の問題の出所」
われわれは決して問題を追い払うことはできない。
問題と、解答と、そして新しい問題は、終わりのない連鎖を織り出している。
期待できるのはせいぜい、解いた問題がよりやっかいさの少ない問題で置き換えられることだけ。
この技法は問題の転嫁と呼ばれ、意識的にまたは無意識的に実施されてきわめて有用であることが多い。
だがたいていの場合は、新しい問題は無意識的にに作り出される。
「問題によっては、それを認識するところが一番難しいということもある」
「キミの問題理解をおじゃんにする原因を三つ考えられないうちは、キミはまだ問題を把握していない」
「うまく行かない理由を三つ考えよう」
たいていの不適合は、認識されさえすれば容易に解ける
人間は実に適応力に富んだものだから、ほとんどどんな種類の不適合にも身を合わせてしまう
「結論に飛びつくな、だが第一印象を無視するな」
視点の新鮮さが問題だとすればほとんど誰を連れてきても"コンサルタント"として役立つ
自分たちの方針を予備知識のない人々に説明することによって、
われわれはものごとに対する新しい視点を自分たち自身に強制することになる。
そして新しい不適合に気づくことになる。
「新しい視点は必ず新しい不適合を作り出す」
"この図はきわめて見慣れないものを示している。
それは何であるか、出来るだけ突拍子もないものを考え出せ"。
こちらは"正解"を求めているのではなくて、彼らの意見を求めているのだ、という風に見えるので、
威x的雰囲気の大部分が消滅するのである。
意見なら誰でも、またはほとんど誰でも持っている。
そして自分の個人意見ということになったら、誰でも大家なのだ
「問題定義のうんざりするような道筋をさまよっているときは、
ときどき立ち止まって、迷子になっていないか確認しよう」
いあわせた人が全員、同じ言葉を同じように理解しているという保証は決してない
「他人が自分の問題を自分で完璧に解けるときに、それを解いてやろうとするな」
彼らの解答は"自分たちの"解答だったから、それを実施していく上での気の入れようが違っていた。
もし教師が同じ提案を、権威の座からたれたとしたらどうであったろうか?それは受け入れられないか、
またはたとえ受け入れられたとしても真に熱意を持って実行されはしなかったであろう。
「もしある人物が問題に関係があって、しかもその問題を抱えていないなら、何かをやってそれをその人物の問題にしてしまおう」
・・・問題は体感するまで必要性を感じないので、必要性を感じるような状況にして"解決しなければと"と思わせる
彼の問題を彼らの問題ではなく、むしろ彼ら一人ずつの問題に変えることによって、解決したのだった。
"分割して統治する"というのは"われわれの問題"方式のちょうど反対であり、
したがって問題解決を狙もうとする者にとってもっとも有用な手法である
"私の問題"という考えは、「われわれの問題」という考えの反対であるとは限らない。
それはほかの連中が悪いことを証明しようと急ぐあまり、
われわれが見落としているかもしれないことに気づかせてくれる、という効果がある
問題をあたかもわれわれだけの問題であるかのような視点から見るなら、
"環境汚染"についてなにかやることを思いつくかもしれない
問題を幻の問題と見なし、
次に状況に対するわれわれの認識を変えるという道筋をたどって、
われわれを問題から解放する
もし人々の頭の中のライトがついているなら、ちょっと思い出させてやる方がごちゃごちゃいうより有効なのだ
"自然"ゆえに起きる問題は二つの理由によって最悪である。
第1にわれわれは、問題がそんなにかけ離れたところから生じてきたのではどうしようもない、という気持ちに陥り勝ちである。
実際、解決のために何かをする責任を逃れたいとき、われわれはしばしば問題を自然のせいにする。
"つい食べすぎたり、手に入らないものをひどくほしがったり、経費を水増ししたりするには人の本性さ。"といった具合である。
第2の理由は"自然"の無関心さである。"自然"は、まさにその本性ゆえに、いかなる動機も持たない。
"自然はずる賢いが、悪意はもっていない"
ピーターの法則
官僚は組織の中で、その無能の水準に達するまで昇進する。
ポールの法則
現代の組織の中では、仕事のむずかしさはすべての官僚の有能さの水準を超える点まで増大する
大学の学部長や、銀行の副頭取や、その他各種の中級官僚と同等、無能さゆえに選ばれたに違いない。
あの人がする仕事と、あの人が上の人の首をおびやかさないことの両方によって、ボスたちに気に入られるのだ
公僕に、彼らの人間らしさと有能さへの礼節と敬意をもって接することは、たいていの場合に人間らしさと有能さを呼び起こすもととなる
「問題の出所はもっともしばしばわれわれ自身の中にある」
著者の経験によれば、問題が実は問題解決者自身に起因する割合は53.27%に及ぶ
問題をずばり出所に送り返すのだ。
手柄はすっかり学部長にお回しする。こちらとしても、それでいくらか仕事が片づいたことになる
問題の出所はしばしばその解決にとって鍵になる要素を含んでいるものだからだ
15週のうちどこからきたのかわからない
・・・何がバグの原因かわからないともいえる
特性を適切に利用すれば、
考えなければならない問題の定義の数を大幅に減らすことができる
たいていの人は、問題が何であるか知っていると思っているものだが、
彼らはその点ではたいていの場合に間違っている。
多くの場合に、問題を解決すること(ないし解消すること)は取るに足りない作業である
ひとたび問題が何であるかわかってしまえば
若い元気すぎる問題解決者たちに自分たちの平和な平衡状態をかき乱されて、楽しみを台なしにした経験をもっている
手持ちの解答に合う問題に対する彼らの情け容赦ない探求
そういう探求をわれわれは"解決問題"と呼ぶ
「ちょっと見たところと違って人々は、くれといったものを出してやるまでは何がほしかったか知らぬものである」
人間は計算機を、それが何をしとげるかによってではなく、それがどれだけ時間を食うかによって評価するのである。
2,3分しかかからない問題はそんなに重要であるわけないというのだ
「あとから調べてみれば、本当に問題を解いてほしかった人はそんなにいないものだ」
急いで解かなければならない問題は確かにたくさんあるが、
急がせようとする連中には気をつけなければいけない。
問題解決のあとの方の段階で急ぐことは間違いの元になる。
だがその最初の数分で急ぐとこは災厄のもとになる
「本当にほしいか考えるひまはないもの、後悔するひまはいくらでもあるもの」
人が問題について考えるとき、順応した事物は考慮から除外されやすい。
"解答"が順応した要素を取り除いたとき、はじめてわれわれは飛び上がって驚く
他の関係者が無意識にその中に泳いでいる"水"を見ようと努力しなければならない
解答に、いや問題定義にすら、近づいて感受性が鈍り出す以前に、
その道徳的側面について考えてみる必要がある。
そのために使う時間は決して無駄にはならない。
なぜなら問題解決は決して道徳的に中立的な活動ではないからである
(Don't be evil. 邪悪になるな。)