アッラーはどういう御方?

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

 I ‐アッラーは本当にいるの? ~この世界は偶然にできている!?~

私たちは、小さい頃から、学校で、この世界は、自然にできたのだ、と教え込まれてきたため、世界が自然にできたもの、ではなく、創造主がこの世界を創られた、といわれても、とまどいを覚えるかもしれません。しかし、ちゃんと立ち止まってよく考えてみると、この宇宙が自然にできた、という主張が、いかにおかしな理論であるか気が付きます。

宇宙の始まりは、ビッグバンだった、と言う人たちがいます。宇宙の初期には全ての物質とエネルギーが一ヶ所に集まる高温度・高密度状態にあり、この状態からの爆発的膨張をビッグバンと呼びます。では、その物質とエネルギー自体はどこから来たのでしょうか?それがないと、ビッグバンが起こりえなかった、物質とエネルギーは、どこから来たのでしょうか?誰が創ったのでしょうか?その答えは、神の存在を信じない人たちには、ありません。

そもそも、ビッグバン自体も、ビッグバン説、という、有力な仮説の中の一説であって、この科学が進む現在ですら、本当のところは、私たちのいるこの宇宙が、どうやって始まったのか?は、人間には未だにわからないのです。

考えてみると、ビッグバンとは、宇宙の始めが、何もない状態から、物質とエネルギーがある状態に変化した、ということです。では、「変化」ということは、そこに、何らかの力が働かないと、変化は起こりません。

「ある状態が、別の状態に変化した」、ということは、イコール、そこに何らかの力が加わった、ということです。

ない 状態から、 ある 状態へ、変化した、ということは、ない 状態に、何らかの力が加わった、ということです。天秤のはかりが、ちょうどつりあっていて、まっすぐな状態を想像してみてください。何も力が加わらない限り、それは、その状態を維持します。永遠に。でも、もし天秤が、右に傾いたら、それはどういうことですか?

それは、右に、何らかの力が加わった、ということです。はかりに、何の力も加わらず、どっちかに傾く事はありますか?

ありません。何もない 状態 というのは、そこに何も力が加わらなければ、そのまま、ない状態を維持し続けます、永遠に。ですから、ない 状態が、ある 状態に、外から何の力も加わらずに、変化する、ということは、ありえません。それは、不可能なことです。

ということは、この宇宙が、無であった状態から、外から、何の力も加わらずに、ある 状態へと変化した、という理論は、矛盾していて不可能です。

つまり、宇宙の始まりには、ない 状態 から ある 状態に 変化させた、何らかの力がそこに加わった、ということです。宇宙を ない 状態から、 ある 状態 に傾かせた、何らかの力があった、ということです。それを、人は、神、と呼び、私たちムスリムは、アッラーと呼びます。

Ⅱ‐アッラーの存在を証明できる?1 ~見えないもの=存在しないもの!?~

と人間が、神の存在を信じられない理由の大きなものに、神が目に見えないもの、見たり聞いたり、という五感で知る事ができないものだから、ということがあります。

しかし、考えてみると、存在するものすべてが、人間の五感で感じられるものではありません。例えば、命、魂、は、私たちは、こうして生きているのですから、魂が体に宿っている、と考えていて、命の存在、魂の存在を信じていますが、目に見えますか?目に見えないからといって、命や魂というものはないのでしょうか?眼には見えないけれど、その影響によって、私たちは命、魂、というものを信じています。

例えば、動いている人間は、生きていて、死んだら、動かなくなる、など、魂が他のものに与えるを見ることによって、その存在を確認し、信じています。また、何か物を落とすと、それは、地面に向かって落ちます。そこには、引力が働いているからです。引力は、目に見えますか?人間の五感で感じますか?引力は目に見えないからと言って、それは存在しない、と言ったら、小学生にだって馬鹿にされてしまいます。

人間の目には見えないけれど、存在するものが、この世の中には、たくさんあるのです。

引力や魂といったものですら、私たちは、見ることができない、限られた視力しかないというのに、では、私たちをお創りになられた神を見ることができるように、私たちの眼はできていると思いますか? 私たちの眼は、その能力がすごく限られていて、例えば、暗闇では見えません、光がなければ、何も見えないし、物があったら、その向こう側も見えませんし、ちょっと遠くのものも、数キロ先が見える一部の鳥のように見ることはできません。

人間の五感、見る、聞く、匂いを嗅ぐ、触感、味覚、で感じることができないけれど、存在しているものというのはこの世の中にはたくさんあり、例えば、超音波、電磁波、など、人間の5感では感じることができないけれど、存在すると誰もが信じています。こういった、アッラーがお創りになった創造物でさえ、人間の五感では知る事ができないのに、すべてをお創りになったアッラーの存在を、限られた私たちの五感で知る事ができるでしょうか。アッラーは、人間の五感を超えた存在です。

 Ⅲ ‐アッラーの存在を証明できる?2 ~アリは象が見える!?~

ある無神論者の先生が、小学校で、生徒たちに、「君たち、机は、見えますか?」と聞きました。生徒たちが「見えま~す。」と答えると、先生は、「では、机は存在します。」と言いました。そして、次に、「アッラーは見えますか?」と先生が聞くと、生徒たちは、「見えませ~ん。」と言い、先生は、「では、アッラーは存在しません。」と言いました。

先生の答えに生徒たちが、騒然となっていると、ある子供が、先生に続いて、「では、みんな、先生の知能は見えますか?」と聞きました。みんなが「見えませ~ん。」と言うと、その子は、「では、先生の知能は、ありません。」と言って、生徒たちは、大笑いになり、その子に拍手喝采が起こり、先生は、恥ずかしさのあまり、教室から出て行ってしまいました。

昔読んだ日本の作家の方が書いた本で、アリの認識力というのは、とても小さなものだという話があって、例えば、象の足もとにいるアリに認識できるのは、ただ目の前の象の足の皮膚のほんの一部のみだけなんですね。そこしか、アリには見えていないわけです。でも、実際には、象は、そんな小さなものではなくて、アリの何百、何千倍もある巨大なものをしています。でも、アリには、それはわからない。でもそれは、神の慈悲であって、もしアリが、自分の何千倍もあるそんな大きな象を認識できてしまったら、怖くて生きていけないし、まず、見た瞬間にあまりにもびっくりして、ショック死してしまうだろう、とその作家は書いていました。

人間も、同じだな、とムスリムになってアッラーを知ってから、思ったのですが、この大きな大きな宇宙よりも偉大なアッラーを、もし人間の目が認識できたら、どうやって生きていけるでしょう、そんな大きなものが認識できる目だったら、大変です。生きていけないでしょう。ショック死してしまうかもしれません。私たちがアッラーを眼で見ることができない、というのは、アッラーのご慈悲なのだと思います。

 Ⅳ ‐ どうやってアッラーを見るの?1 ~本能の正しい使い方!?~

思ある有名なアブージョウハルという預言者さま(彼に平安と祝福がありますように)のお孫さんのお孫さんの学者に、ある男が、聞きました。「崇拝行為をしているとき、あなたはアッラーを見ましたか?」と。すると彼は、「私は、見えない相手に向かって、崇拝行為などしません。」と言われました。男が、「どのように見たんですか?」と聞くと、彼は、こう答えました。

「視覚という眼では、彼を見ることができないが、信仰という真実の心で、私は彼を見た。彼は、五感で知られることもなく、人間にも似ていないが、そのアーヤ(証(あかし))によってよく知られており、印によってその 性質が顕われており、絶対にどんなことにおいても正しいことをなさる。それこそが、アッラー、彼の他に神はいないのである。」

人間には、アッラーを知るために、五感ではなく、他の手段を、アッラーは、私たちにお恵み下さっています。シリアのイスラーム学者の先生が書かれた本には、その手段が6つ挙げられています。

まず、一つ目が、本能です。本能、というのは、例えば、何もわからない生まれたばかりの赤ちゃんが、お母さんのミルクの飲み方を知っていますよね、誰が教えるわけでもないのに、知っています。また、人間は、おなかがすいたら、食べたいと思い、食べ物を食べます。食べることで、体の栄養になって、生きることができるのだ、ということを知らなくても、誰でもお腹がすいたら、食べます。それは本能です。また、人を好きになったり、嫌いになったり、怒ったりする、感情も本能のひとつです。

例えば、愛情、がある、ということを、目で見たり、耳で聞いたり、五感で感じることができますか?愛情、というのは、見えないし、聞こえませんが、私たちは、それが存在するのを知っています。

動物の本能というのは、それによって、彼らの生命が守られています。どうやって、鳥が、巣の作り方を知ったのでしょうか?誰に教えてもらわなくとも、鳥は知っています。どうやって、虫を食べて、例えば、虫の形の小さな小石を食べない、と知っているのでしょうか?本能です。アッラーがすべての動物にお与えくださった本能によって、彼らは、生きる術を生まれたときから知っていて、命を守って生きていくことができます。

人間も、同じです。アッラーが、お与えくださった本能、天性によって、人間は、何か大きな存在が、自分を見守っていてくれる、と感じることがあります。何の証拠もないけれど、とにかく、何か自分を超えた大きな存在が、いるのではないか、と感じることがあります。五感では説明がつきません。でも、そう思うことがあります。それが、アッラーがすべての人間にお与えくださった、アッラーを知る事ができる本能です。そして、この本能こそが、アッラーの存在を証明する大きな証拠のひとつなのです。

 Ⅴ ‐どうやってアッラーを見るの?2 ~溺れる者は!?~

あるとき、神はいない、と言っている無神論者が、サハーバ(教友)※1のジョウハルさま(アッラーのご満悦あれ)のところにやって来ました。ジョウハルさまは、その男に、「あなたは、船に乗ったことがありますか?」と尋ねました。すると男は、「はい。でも船が転覆して、木の板に掴まっていたら、しばらくしたら、その板も沈み、何も捕まる物がなくなって、おぼれかけました。」と言いました。

彼は、「あなたが船に乗っていたとき、あなたは、その船を頼っていて、それが転覆したとき、今度は、板を頼って、その板もなくなってしまったとき、あなたは、自分の死を覚悟しましたか?それとも、まだ自分が助かる事を望んでいましたか?」と聞きました。男は、「いえ、そのときもまだ、何とか助かりたいと望んでいました。」と言いました。ジョウハルさまは、「では、そのとき、誰に助けて欲しいと頼みましたか?」と尋ねました。男は、沈黙しました。

ジョウハルさまは、続けました。「あなたが、そのとき、助けて欲しいと頼んだ相手が、あなたを溺れ死ぬ事から助けてくださったのです。それが、アッラーです。」そう言うと、男は、ジョウハルさまの元で、ムスリムになりました。自分の中にある、神の存在を知る事ができる、天性に気付いたんですね。

人間の中は、忙しかったり、いろいろなものに邪魔をされて、その本能が、眠っている人もいます。でも、アッラーは、ちゃんとすべての人間に、アッラーのことを知ることができる本能を、お恵み下さったのです。なぜなら、私たち人間にとって、神を知ることが生きていく上で必要だからです。食べたり、人を愛したりする本能と同じように、神を知ることができる本能は、私たちが幸せに正しく生きていくために、どうしても必要な本能だからです。私たちが汚れていない本能を持っていれば、私たちは、誰に教わらずとも、アッラーの存在を確信する事ができます。

※サハーバ(教友):預言者さま(彼にアッラーの祝福と平安がありますように)を見たことがあり、イスラームを信じて亡くなった人。

 Ⅵ ‐ アッラーの存在 ~宇宙と人体の秩序に~

この宇宙は、太陽系のような星団が4000億個集まったもの、その4000億個ある星団が、1250億個集まった銀河から成り立っています。この数字は、現在の科学が憶測することができた宇宙の果ての大きさで、本当のところは、宇宙はもっともっと大きいのかもしれません。この人間の想像を超えた偉大な宇宙が、一ミリの狂いもなく、調和の取れた、この宇宙が、なんの意図もなく、動いているなどということがあるでしょうか?

この宇宙で、私たちが生きている地球上に、他の惑星から死んだ星が落ちてきたり、星の欠片が降ってきたり、流星が地球にぶつかったり、ということもなく、すべては、規則正しく運行していて、私たち人間が、住みやすいように配慮されています。この地球を取り巻くものだけを見ても、太陽は一定の時間に昇り、決められた時間が来ると沈み、この美しい地球上にある、山々や、海や、川や、空、そういった全てのものが、それを創り管理してくださるお方なしに、この整った秩序が保たれるはずがありません。

また、宇宙を見なくても、私たちの体ひとつ見ても、アッラーの存在を確信できます。例えば、内臓の中の腎臓という器官は、血液を洗ってくれています。まず、どのくらいの量の血液が一日に心臓から全身に流れるかわかりますか?一日何リットルくらいだと思いますか?一日に約6428リットルです。ドラム缶30本分の血液が、毎日心臓から全身に流れます。

私たちの腎臓というのは、そら豆のような形の、握りこぶしくらいの大きさのものが2つあるだけですが、腎臓機能は、1つだけで足りると言われています。その握りこぶしひとつが、一日に体中を流れる血液を1500リットル、ドラム缶にして7本分を毎日24時間、洗ってくれているのです。そのドラム缶7本分の血液が、腎臓でこしだされて、一日に約150リットルの原尿ができます。お風呂の浴槽一杯半です。そのうちの99%は、また体に戻されて、残りの1%約1.5リットルが、本当に私たちの体に不必要なものとして、尿になります。

私たちは、毎日当たり前のように、トイレに行きたくなったら行って用を足しますが、私たちがトイレに行けるということは、尿を出す事ができる、ということだけをとっても、そのことを私たちは、アッラーに感謝したことがあるでしょうか?

腎臓の機能が止まってしまうと、人工透析といって、機械で血液を洗わないといけなくなります。私の父はそれを一日置きに病院に行って、4時間寝たままで、自分の体よりも大きい機械を使って血液を洗ってもらいます。それでも、握りこぶしの大きさのアッラーがくださった腎臓にはかなわないので、老廃物が、血液中に取りきれずに溜まって、いろんな弊害が出たり、血液を抜くことで、血圧が極端に下がったりと、体にいろんな危険が起こります。

その自分の体よりも大きな機械がすることを、アッラーは、握りこぶしの腎臓を私たちに与えてくださって完璧にやってくれているのですね。それに対して、私たちは、感謝した事があるでしょうか?本当に私たちは、いつもアッラーのことを忘れてしまっています。

 Ⅶ ‐アッラーからの贈り物 ~私たちは実は大金持ち!?~

ある男の人が先生に自分が貧乏なことに不平を言いました。「アッラーは自分に何も与えてくれない」、と。先生は彼に尋ねました「あなたに1000万円をあげますから、両目を私にください。」

彼は「それは嫌です」と言いました。「では、あなたの手は、1000万円で売りませんか?」「いいえ」

先生は彼に言いました。「なんてあなたはお金持ちなんでしょう!!1000万円もらっても売りたくないものをたくさん持っているではありませんか!?」

私達はアッラーのお与えくださったものが、見えていないのです。全てはアッラーがお与えくださいました。食べ物、お子さん、だんな様、お友達、全てです。

誰か、この中で足の小指は、特に必要ないもので、誰かに売ってしまってもいい、と言う人はいますか?例えば200万円で買いたいという人がいたら、誰か自分の小指を売りたい人はいますか?

足の小指でさえお金に変えられない大切ものなのに、では、足1本、手、腕、又は食べ物を消化する胃、ものを見ることが出来る眼、これらのものは、どれほどの価値があるのでしょうか。これらのものはあなたが自分で手に入れたものですか?自分で作って使っているものでしょうか?

そんな大切なものをたくさんもらっておいて、私達はどうしてアッラーのことを忘れたりするのでしょうか。

嫌いな人に、アッラーは、こんなすばらしいものをたくさん与えてくれるでしょうか?私たちがアッラーに愛されている事をちゃんと思い出しましょう。アッラーが私達をいつも見守ってくださり、愛していてくださることを、いつも、いつも思い出し忘れないようにしましょう。

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