入信体験談

〜 アッラーのお導きにより、 これをお読み頂いている皆様へ 〜 

何らかの形でイスラムに出会い、アッラーに出会い入信を決意された皆様。結婚を機にされた方も、そうでない方も多くの入信があればその分、それにたどり着くまでの経緯は様々。入信に至ったということは、ご慈悲深いアッラーがお導きをされた証拠です。それまでの罪を御許しくださり、新しい人生を授けられました。そんなきっかけとなった皆様の入信に至るまでの経緯を是非、他のモスリムの皆様とご共有頂けませんか。 

 

アッラーの御光のある体験をされた皆様のお話にはそれ自体に御光があります。それによって貴方の体験談を読んだ人が新たに入信の決意をするかもしれない、それを読んで初心に戻りがんばれる人もいるかもしれない、信仰心が高まる人がいるかもしれない。それも崇高なるアッラーのお力。 

是非、入信した頃の事を思い出して、皆さまにご紹介ください。 

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H姉妹

パリからアッサラームアライクム!

留学、海外就職、起業をヨーロッパからマレシア、ドバイ、そして今パリで結婚・育児中のヒンドです。

仏教徒として16歳頃から生きることへの疑問ずっともっていました。今思えばその頃から答えを探し続けていたようです。

イスラムへの帰依は7年前のマレーシア滞在中でした。日系企業に就職し、普通の日本人のOLをしていたつもりでしたがいつの間にか私の周りはイスラム教徒ばかりでした。

まだ改宗前の頃、3度のラマダンに挑戦しました。

3度目のラマダンは丸一ヶ月、他のムスリムと共にしましたが、始めはほんの根比べで遊びのつもりが、それを通してラマダンをする意味もわからなかった自分の髪や肌の調子がよくなって余分なものが体から落ちていることから身体的な利点に気づきました。

そして、私が断食をしている事を知ったある人との会話で私のイスラームへの興味はその頃から少し高まり始めました。

Aさん:‘何故、君はムスリムにならないの?’

私:‘礼拝とか髪を隠したり大変そうだし。。。’

Aさん:‘そんな事は後からついてくるんだよ。’‘君は神を信じるか?’

私:‘何か大きな力に支配されている事は知っているし、それが神だというのなら私は神を信じている。’

Aさん:‘じゃーもう君はムスリムだ。’

私:‘え??? それだけなの?’

Aさん:‘そうだよ。それだけの簡単なことだよ。’

 

目から鱗が落ちたように、私の目の前は広がりだしました。ある日、放置しっぱなしになっていた翻訳版のコーランを手にとり、以前から興味のあった事‘マリア様って誰?、キリストって誰?’この答えが見つかるかもしれないと思いマリアム章から読み始めることにしました。そこから読むのが止まらなくなったほど夢中になりました。そこには私が長年もっていた疑問

*    運命ってあるの?

*    死んだらどこへ行くの?天国と地獄はあるの?

*    神って何?

*    幽霊って何? 天使って何? 悪魔って何?

などなど、全ての疑問の答えが見つかりました。‘これが真実でなければ、何が真実だというのか’というほど驚き、この本(聖典コーラン)を信じられずにはいられなくなり、同時にアッラーの存在にも気づきました。

アッラーは‘あ’といえば、‘い’というくらい近くにいる。神はいた、すぐ側に。今も昔もずっと側に。

それが感覚で分かった時、もう私はシャハーダする以外選択の余地はないことを確信していました。

ある日、男性の友人2名の前で自分の一生とその後の身を神に委ねる事を決意しシャハーダをしました。

シャハーダした後の私の生活は大きく変化し、今まで好きだったものが嫌いになり、今まで嫌いだったものや人が私の側へ集まってきました。

アッラーは私にふさわしいものを与え、ふさわしくないものを去らせたのだと思います。

礼拝をするたびに、アザーンを聞くたびに、アッラーの事、預言者様(彼の上に平安あれ)のことを考える度に涙があふれ、まるで心が浄化されていくような感覚でした。

マレーシアを出てドバイへ移住し起業をしながら、機会あって良い先生方に恵まれ、シャリアの勉強やイスラームの基礎、ハディース・コーランの勉強に時間を費やしました。

今はフランスに拠点を移し結婚して育児、仕事も続けながら日々、心と精神の浄化を心がけアッラーの側にいられる人間になりたい、いつかアッラーに会いたい、アッラーのことをもっと知りたいと願いイスラームの心髄を追求している最中です。

 

‘…アッラーを唱念する者としない者は、生きている者と死んでいる者のようだ。’(Al bukhari)

‘…われに歩いて近づいてくるものにはわれは走って近づく。’

(ハディース クドゥスィー al bukhari/Muslim他)

13:28.【これらの信仰した者たちは、アッラーを唱念し、心の安らぎを得る。アッラーを唱念することにより、心の安らぎが得られないはずがないのである。】

29:45.【あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の務めを守れ。本当に礼拝は、(人を)醜行と悪事から遠ざける。なお最も大事なことは、アッラーを唱念〔ズィクル〕することである。アッラーはあなたがたの行うことを知っておられる。】

(聖典コーラン)

 

H (パリにて)

注:ハディース・ル・クドゥスィー(「至高なるアッラーは仰せられた」という預言者さまのお言葉が記されているハディース)

聖典コーラン 聖クルアーンとも表記されます。

入信記

ウンム・アーダム・阿部優子

光陰矢の如しと申しますが、早いもので、私が、1988年の5月に、オーストラリアのシドニーで、イスラームに入信してから、20年以上の歳月が流れ、私も四十を超えてしまいました。人生の半分近くをムスリムとして過ごしてきたと思うと、とても感慨深く、アッラーに感謝いたします。

何故かと聞かれても、理由はよくわかりませんが、子供の頃から、私は、唯一絶対の神様の存在を信じていました。小学生の頃には、テレビの「大草原の小さな家」というドラマの主人公達が、寝る前にベッドの横にひざまづいて、「天にましますわれらが神よ」と祈るのに感化されて、布団に横になってから眠りにつくまで、神様に祈っていたこともありました。

日本の宗教には、ほとんど思い入れがなくて、日本の宗教は、信仰というよりは、お金儲け、職業の一種のようにとらえていました。というのも、親戚のお葬式や法事の時に、いかにお金がかかるかという大人達の話を小耳にはさんでいたからです。良い戒名を得るため、お坊さんに緋の衣という衣装を着てもらうため、それだけのお金を払わなければならないなんて、それこそ、地獄の沙汰も金次第ではないかと思っていました。

又、母の実家に来ていたお坊さんはかなりお酒を飲む人で、私の父はお酒を飲まない人なので、子供ながらに、こんなただの酔っ払いが、そんなに偉い人なのだろうかと思ったりもしていました。父に、

「優子、時代が変わったんだよ。昔は、お坊さんといったら、お酒どころか、肉だって魚だって食べなかったし、結婚だってしなかったんだから」

と言われ、そんな時代が変わったで済まされる問題なのだろうかという疑問も持ちました。

神道には、あまり縁なく過ごしていたのですが、高校一年生の時に、生まれて初めて同級生と初詣に行きました。釧路の大晦日から元旦にかけての深夜は、とんでもなく寒かったのですが、非常に沢山の人が神社に来ているのに仰天しました。初めてのことで勝手がわからず、友人に、

「お賽銭っていくら払うの?」

と聞くと、

「いくらって決まってはいないけど、多いほどご利益があるからケチケチするのはよくない」

と言われ、私は

「そんなものは、全部神社のたぶらかしだ!このお賽銭が神社の収入源だから、神社に来て、お賽銭を払って、お願いしろ、お賽銭が多いほどあなたのためになりますよ、ご利益ありますよって言うんでしょ?本当の神様だったら、わざわざ神社に来なくても、家にいても、どこでも、お賽銭なしでただで願いを聞いてくれるはずだ!」

などとわめいて、大憤慨してしまいました。そして、わずかな小銭をちゃりんと投げ込み、お願いなんぞをする気持ちは消え失せ、隣にいる友人をふと見ると、長々と何かを祈っていて、後で聞いたらお賽銭もかなり出したと言うので、唖然としました。その友人とは、一緒に教会で英会話を習っていたので、彼女に、

「阿部ちゃんってキリスト教の方が好きでしょう。この前、英会話で、ゴッドはグレイトだとか言ってたもんね」

と言われました。(今、気がつきましたが、ゴッドはグレイト-神様は偉大である-は、イスラームのアッラーフアクバルと共通するものがあります)

それから、私が日本の習慣で絶対受け入れられなかったのが、火葬です。小学校に上がる前に、初めて火葬場に行き、死んだ人を火で焼くということに、大きな衝撃を受け、拒絶反応を示し、人を焼いた臭いに吐きそうになりながら、私は死んでも絶対にこんな風に焼かれたくないと、強く心に思いました。

前述のように、高校一年生の時に、ルーテル教会で、アメリカ人宣教師夫妻に英会話を習うようになりました。私は初級者クラスで奥さんに教えてもらっていました。その時間に、英語の聖書の簡単なところを少しずつ読まされました。そして、私が子供の頃から神様と思っていた御方は、この聖書に出てくる神様だったんだと思うようになりました。決して英語が堪能だったわけではなく、お経を聞いても、音の羅列でまったく意味は理解できませんが、それよりは、英語の聖書の方が、まだ理解できたのです。  

でも、馬鹿な十代の娘だったので、それについて深刻に考えたりするよりは、楽しい高校生活を送ることが一番大事だったので、キリスト教徒になろうとか、日本語で聖書を読んでみようとか、そんなことは全く思いもしませんでした。

キリスト教の聖職者は結婚できないはずなのに、どうして、このご夫婦は結婚できたのだろうかなどと疑問に思ったりして、プロテスタントとカソリックの違いもわかっていなかったし、ルーテル教会で読んでいた聖書には、目鼻のついていないのっぺらぼうの線画ではありましたが、イラストが付いていたので、聖典にイラストが描いてあるなんて、なんと不謹慎な、などとも思っていました。

高校を卒業してから、札幌のドイツ系カソリックの女子短大に進学したので、学校で、聖書学、宗教学、聖書文学、などという科目が必須科目としてあり、それらを取らないと卒業できないので、強制的にキリスト教のことを勉強させられました。私は、神様のことも、イエス様のことも大好きだったのですが、現在のキリスト教は、知れば知るほど矛盾点や解けない疑問がありすぎて、理解できませんでした。

イエス様のせいではないけれど、キリスト教が、本来の彼の教えとはすっかり違うものになってしまって、イエス様、可哀想などと、同情を覚えたりもしました。ある時、宗教学の時間に、一人の同級生の女の子が、手を上げて、神父に質問しました。私達の世代はシラケ世代などとも呼ばれ、授業中に誰かが質問するなどということは皆無だったので、それはちょっと驚くべき出来事でした。彼女は、キリスト教を批判してやろうとかそういう態度ではなくて、純真に心から質問しているようでした。

いわく、「聖書を読んでいると、同じことについて場所が違うとまったく違うことが書いてあるのは何故ですか。」それに対して、神父は、へらへらと笑って、「いやあー、ほら、聖書は、古い本だから」と言ってのけたのです。私はその答えを聞いて、私がキリスト教徒になるのは、絶対無理だという結論に達しました。信じられない回答だったため、その神父の名前は今でも覚えています。

初詣には、その後二度と行きませんでしたが、一緒に初詣に行った友達とはその後も付き合いが続きました。一度、彼女の乗った飛行機が、悪天候のために着陸できない事態となりました。

「もう、機内は大パニック。私も、もう死ぬんだと思って、お母さん!お母さん!と泣きわめいていた。今でも毎晩、その悪夢にうなされる」

と言われました。私が、

「本当にお母さんって叫んだの?あんたのお母さんに何ができるっていうのよ?」

と言うと、彼女は、怪訝な顔で、

「じゃあなに、あんたは、お父さんって言うわけ?!」

と言います。私が、

「そういう時は、神様を呼ぶものだ」

と言うと、

「本当、キリスト教の学校出ましたって感じだよね」

と隠れキリシタン扱いされました。

さて、日本にいると、

「あなたの宗教は何ですか」

などと、質問されることはありませんが、海外では、よく聞かれました。そういう時私は、

「私は特定の宗教には入っていませんが、唯一絶対の神様はいると思っているので、無神論者ではありません。カソリックの学校に行ったので、一番わかる宗教はキリスト教ですが、キリスト教は知れば知るほど、何かが違うと思って、キリスト教徒にはなれませんでした」

と答えていました。それを聞いて、

「君は、ムスリムのようだ」

と言ったのが、十一年前に癌で亡くなった、前の夫です。私はイスラーム教のことは何も知らなかったので、

「ちょっとあなたは何を馬鹿なことを言っているの。あなた達は、アラーの神様とかいう神様を信じているんでしょう?私の信じている神様は、聖書に出てくる神様で、あんた達の神様とは違うのよ!」

と言いました。当時の私は、「アラーの神」というのは、イスラーム教徒だけがあがめる多神の一つで、日本の山の神とかそういうのと同じもので、偶像かなにかを拝んでいるんだろうくらいにしか思っていなかったのです。すると彼は、

「アラビア語の聖書に出てくる神様の名前は、アッラーだ。だから君の信じている神様はアッラーなのだ。アッラーというのは、アラビア語で、唯一絶対の全能の神様のことなのだ」

と言いました。私はアラブ人というのは、全員イスラーム教徒なんだと思っていたので、

「なんで、アラビア語の聖書なんてあるのよ?アラブ人って皆、イスラーム教徒でしょう」

と言いました。すると、

「エジプト、レバノン、シリア、パレスチナ、イラク、アラブ人だってキリスト教徒は沢山いる。だから、アラビア語の聖書があっても全然おかしくないのだ」

と言われました。

自分の無知をさらすようで恥ずかしいですが、そんなことは初耳だったので、私はなんだか頭がぐらぐらしてきました。それにはおかまいなく、彼は、

「キリスト教のどういうところが納得できなかったのかを教えてくれませんか」

と聞いてきたのので、私は、はっと我に返って、べらべらと疑問点を並べ立てました。

「三位一体というのは何だ?私には全く理解できない。

神様は一つでいいじゃないか。何で三つになるんだ。

神様がどんな姿をしているかは、誰にもわからないし、イエス様やマリア様だって本当はどんな顔だったかなんて、わからないのに、今のキリスト教は、ただの偶像崇拝者でしかない。

偶像は崇拝しないというプロテスタントの人だって、十字架崇拝者みたいなもんだ。

カソリックの人は、何で神父様に罪を告白して懺悔するんだろう。

赦すか赦さないか決めるのは神様だけで、神父に罪を赦す権限なんてないし、赦しを乞うなら、人間なんか通さずに、神様に直接乞えばいいじゃないか。

日本では、コメディアンが、テレビで笑いものにしているくらいだ。(俺たちひょうきん族の懺悔の部屋のこと)

イエス様は、私を崇拝せずに神のみを崇拝しなさいって言ってるのに、なんで今のキリスト教徒はイエス様を崇拝するんだろう。

そして、聖書は矛盾点ばかりだ。辻褄が合ってない。

こっちには、十字架の上でイエス様が 『私は全てをあなたにお任せします』とかなんとか言ったって書いてあるのに、あっちには、『神よ、あなたは今私をお見捨てになるのですね』と言ったとか書いてあるんだよ。なんでイエス様ともあろうお方が、そんなこと言うんだ。

私の短大の神父なんて、聖書は古い本だから仕方ないって笑ってたんだから。

どうしてそんな信憑性のない本を聖典だなどと信じられるのか。

それに、私は、イエス様が十字架の上で死んだなんて、絶対、信じられない。

あんなに神様に愛されていたお方なんだから、神様が絶対助けたはずだ!キリスト教は宗派が多すぎる。

もし、私がキリスト教徒になろうと思ったとしても、どこにいけばいいかわからなかっただろう。

宗派によって聖書も違うというのもおかしい。

私の学校のシスター達は、シスターだから結婚できないので、中には、結婚するために黒装束を脱いで普通の人となって、結婚した人もいた。それって変だ。どうして、普通に家庭を持ちながら信仰も持ち続けることができないのだ。などなどなど。」

すると、黙って聞いていた彼が、

「驚きだ。君は、本当に、ムスリムみたいだ」

と言うので、再度私は、

「私は、イスラーム教などとは全く何の関係もない!」

と強く否定しました。しかし、

「いいから、黙って僕の話をちょっと聞きなさい!」

と、今度は彼がイスラームの観点から話し始めました。

「イスラームは三位一体を否定する。神様は一つ、これが、イスラームの教えである。

イスラームは偶像崇拝を完全否定する。イスラームでは、赦しは直接神様に乞う。仲介者はいない。

君とアッラー、一対一である。

ムスリムは、預言者ムハンマド様を預言者として尊敬しているが、彼が神様とか、彼が神の子などとは信じていない。神として、崇拝するのはアッラーだけである。

クルアーンは、千四百年前から一字一句、全く変更はなく、矛盾点はない。クルアーンは、神の言葉であって、どこの誰が書いたんだか著者不明の聖書とは全然別物である。

ムスリムは、イエス様が十字架にかけられたなどという、おぞましいことは信じていない。

イエス様は、アッラーに助けられ天にあげられ、終末の時が近くなった時に、また天から降りてくる。

十字架にかけられたのは別人で、アッラーがその人物の見かけをイエス様のように変えられたので、皆がそう錯覚しただけなのだ。

イスラームにも、シーア派とスンニー派とかあるけど、キリスト教みたいに、私はこの教会所属とかいうのはない。たとえば、僕はスンニー派だけど、シーアのモスクで礼拝しても、問題はないし、シドニーでも、スンニー派のモスクにシーアの人達が来てお祈りしてる。

イスラームには、聖職者はいない。学問を究めた偉い学者さんだって、結婚して家庭を持っているし、学者さんだけが、一日五回お祈りするけど、一般人はしなくていいということはない。などなどなど。」

彼の言ったことは全て驚きだったのですが、その中でも、なんでイエス様の話が出てくるのか全くわかりませんでした。それで、

「なんで、イスラームにイエス様の話が出てくるんですか?!」

と質問すると、

「イエス様を預言者と信じていなければ、その人はムスリムではない。イエス様は神の子とか、神とかそういうことは信じてないけど、イエス様は父親なしで生まれてきたマリア様の息子で、普通の人間で、神の預言者だったのだ。僕らの預言者ムハンマド様がそう教えてくれて、そう信じるようにと言われたのだ」

と言われました。それは、衝撃的な答えでした。私は、イスラームが、ユダヤ教、キリスト教とつながった宗教だなどとは全く知らなかったからです。

「じゃあ、あれですか。あなたもアダムが人間の祖とか、ノアの箱舟とか、モーゼの出エジプトとか信じてるんですか?」

と尋ねると、

「もちろん。クルアーンに彼らのそういう逸話も出てくるし、他の預言者達のことも書いてある」

と言うではないですか。私はキリスト教徒ではありませんでしたが、最初に、これが私が子供の頃から信じていた神様に違いないと思ったのが、聖書に出てくる神様だったので、もし、イスラームがイエス様や、他の預言者を否定していたら、ムスリムになるのがもっと難しかったかもしれません。

「ところで、イスラームでは火葬なんですか」

と問うと、

「とんでもない!土葬!土葬!遺体を火で焼くなんて、遺体に対する冒涜だ!絶対禁止!!」

と言われました。それから、彼が、

「ムスリムになるためには、神様はただ一つ、ムハンマド様は神のみ使いであるという二つのことを証言すればいいんだが、君は、すでに一つは信じているから、半分は、すでにクリアされている。後は、ムハンマド様を預言者と認めればいいだけである。ところで君は、ムハンマド様について、何かを知っているか」

と聞いてきたので、

「何も知りません」

と答えました。すると、

「君は読書が大変好きなようだから、ムスリムになるとかならないとかいうのはおいといて、趣味の読書の一環として彼についての本を読んでみたらどうか」

と提案されたので、

「それは良いアイディアだ」

と答えました。その後、彼が、モスクから英語の本を借りてきてくれたので読んでみました。預言者様のことについて書いてある本に、

「彼は文盲だった」という一文があり、それを読んだ時、私は、この人は本当に預言者だったに違いないと直感的に思いました。

私は、理論的な人間ではないので、理由は説明できません。今なら、文盲者にクルアーンは作れないとかなんとか言えますが、その時はクルアーンも読んだことがなかったし、ただそう感じたのです。

イスラームについての本も読んでみて、非常に納得し、疑問点にも全て答えがあるので、心の中では、これは正しいに違いないと認めていましたが、いったん口に出してしまったら、後戻りできないというか、人に、あれをしろ、これをするな、などと命令されたりするのも嫌だなと思ったりして、口に出せずにいました。

そのくせラマダーンに断食してみたりもしたのですが。断食することがどれほど大変なことなのか、それとも、そんなに大変ではないのか知りたかったし、何故断食するのかも、自分でやってみれば少しは意味がわかるかなと思ったのです。

断食してみて思ったことは、食べなくても結構人間は平気なものなんだということと、食事前にアッラーの御名を唱えて食事を始め、食後はアッラーに感謝するというのが良く理解できました。どうして断食するのかなどという大問題の答えは得られませんでしたが、断食中にこんなことがありました。

ある日の夕方、鍋でご飯を炊いていた私は、もう炊けたかなと無意識に一口ご飯を食べてしまいました。無意識で食べたので、三十分くらいしてから、

「あ!しまった!断食してたのに、忘れてさっきご飯食べちゃった!」

と気が付きました。今日一日の努力は水の泡となったのだろうか、やり直ししないとだめなんだろうかと気になった私は、故・前夫に連絡しました。すると彼が、

「食べようと思って食べたわけじゃなくて、その後何も口にしていないなら、断食は無効とならない」

と自信を持って断言するので、

「それはあなたがそう思うというあなたの意見なんですか」

と聞くと、

「いいや、断食の法規定でそう決まっているのだ」

と言われ、イスラームって本当に全てに答えがあるよなあ、と感激しました。

しかし、当時の私のような不信仰者は、崇拝行為や善行をなす前に、まずは信仰を持つことが第一で、信仰なしで、断食などをしても本末転倒で意味がありません。

さて、そんな隠れムスリムな日々を送っていたある日のことです。

ある出来事があり、ムスリムになる決心をしました。当時のことを思い出すと、あんなこともあった、こんなこともあったと、色々と不思議なことなどもあったのですが、全部書くわけにもいかないので、はしょります。シドニーの中央駅の近くに、サリーヒルズモスクというモスクがあります。当時、インドネシア人のラティーフというおじさんが管理人のようなことをされていました。彼は温厚な人で、私が、普通の日本人の格好でモスクに行っても、にこにこと中に入れてくれました。

今思い返すと、あれでよかったのだろうか、と思わないこともないのですが、当時の私には良かったです。もし、強面の怖いおじさんに、

「そんな格好でモスクに来るな!何?お前、ムスリムじゃないのか?汚らわしい不信仰者め!帰った!帰った!」

なんて言われていたら、きっと落ち込んでいたと思います。女性セクションに行くと、「あなたはムスリムなの?」

と皆に聞かれ、

「イスラームに興味があって勉強中です」

と答えるのが常でした。

「アッラーが正しい道に導いてくれますように」

と見ず知らずの私のために、皆がアッラーにドゥアー(祈願)してくれたものです。

ボーンムスリムには、日本人の常識や感覚とは違いすぎて、どうしてこうなんだ、と思うことも時にはありますが、ラティーフおじさんといい彼女達といい、なんだかんだいっても彼らは寛容だと思います。几帳面な日本人と足して二で割ると、ちょうどいいのかもしれません。居心地が良かったので、図々しくも、そのモスクには、たまに遊びに行っては、皆が礼拝しているのを後ろで見学したりしていました。意味がわからないのは、お経と一緒でしたが、邪悪な印象しか持てなかったお経とは違って、モスクで聞く礼拝の呼びかけのアザーンや、クルアーンの響きは、なんと美しいんだろうと思って聞いていました。

その日、女性セクションには誰もいなくて、私が一人で、座っていると、小さな女の子が二人やって来ました。アメリカ人のブラックムスリムのお父さんと一緒にモスクに来たけど、お父さんは男性セクションに行ったということでした。そのうちに、スピーカーからアザーンが流れ、男性セクションのイマーム(礼拝を導く人)の声も聞こえてきましたが、私は、まだ、シャハーダ(イスラームの信仰告白証言)も言う前ですから、礼拝の仕方も知らないし、そのまま座ったままでいました。

女の子達もお姉ちゃんが五歳、妹が三歳くらいとまだ小さかったので、礼拝せずに、そのまま走り回ったり、私に抱きついたりして、遊んでいました。すると突然お姉ちゃんが私に、

「お姉さんは、ムスリムなの?」

と聞いてきました。もし、大人の人に聞かれていたら、きっと、私はいつものように、「イスラームに興味があって勉強中です」

と答えていたと思います。だって、大人の人に

「はい、私はムスリムです」

と答えたら、

「じゃあなんでそんな服装してるんですか?どうして礼拝しないんですか?礼拝しないのにどうしてモスクに来るんですか?」

などと質問されるでしょうから。でも、その時は、相手が子供だったので、ふっと「うん、そうだよ」と答えてしまったのです。すると彼女は、

「うーんとね、私も、ムスリムだよ」

と言って、にかーっと笑いました。私もにかーっと笑いました。そして、私は悟ったのです。

「そうだ、私はムスリムだ!」

と。そこで、故・前夫に、

「どうしたらムスリムになれるのか」

と尋ねると、

「シャワーをして体を清めてから、シャハーダを言いなさい」

とアラビア語の文句を教えてくれました。本当は、二人の証人が必要だったと後で知りましたが、その時は知らず、家で一人でマッカの方を向いて言いました。

さて、晴れてムスリムとなったので、故・前夫に、結婚しないかと言われました。イスラーム教徒の女性は、イスラーム教徒のの男性としか結婚できないので、私もイスラーム教徒の男性としか結婚できなくなったわけです。(イスラームでは未婚男女の交際は禁止なので皆結婚します)私は国外でイスラームに出会い、国外でムスリムとなったので、日本人のムスリムがいるとは知らず、自分が日本人初のムスリムなのではないかとすら思っていたほどだったので、北海道に帰ったら一生独身のままかもしれないと思って、かなり迷いましたが、親には事後報告で、彼と結婚することを一人で勝手に決めてしまいました。

結婚契約をして下さったシャイフ(師)が、

「もし彼女がまだ礼拝していないのなら、今あなたができることで一番良いことは、彼女に礼拝の仕方を教えることです」

と故・前夫に言ってくれたので、早速、礼拝の仕方を教えてもらい、紙に礼拝中に言う言葉をカタカナで書いて、その紙を手に持って見ながら、礼拝を始めました。シャハーダを言って三週間くらいだったかと思いますが、自分でも、礼拝していないことに、一日で五回、二日で十回と借金がかさんでいくような気持ちでいたので、見よう見まねではありましたが礼拝をするようになって、ほっとしました。

そして、外出する時は、スカーフを持参するようになりました。礼拝する時は、顔と手以外は覆う必要があるので、外出中に礼拝の時間を逃さず礼拝するためです。でも、こんなことをするより、家からスカーフをして出かける方がいいと思い、家を出る時からスカーフをするようになりました。

というわけで、最初に私がヒジャーブをし始めた理由は、あくまで礼拝のためで、見知らぬ男性から自分を覆うとか、そういう恥じらいの意識は当初はあまり持っていませんでした。でも、今となっては、友人宅で女ばかりでいても、頭を覆わずにいると、頭がスースーとあずましくない(北海道弁で、吾妻しいは「具合が良い」「すごく落ち着く」「居心地がいい」「快適」)ですし、夢の中でまで、自分が高校生で学生服を着ていても、ヒジャーブをしていたりします。

丁度その頃、あるオーストラリア人のムスリムが、どこからか、私のために日本語のイスラームの本を見つけてきてくれて、その本の後ろに書いてあった日本のイスラーム団体に、日本語訳のクルアーンを送ってくださいと手紙を書きました。

そして、送っていただき、初めてクルアーンを読みました。ずっしりと重く、厚いクルアーンを読んで、最初に思ったことは、随分ユダヤ人のことが書いてあるんだなあでした。

あれから二十年以上も過ぎたなんて、なんだか信じられません。こんな私が、今もムスリムでいられるのは、奇跡です。アッラーの御慈悲を感じます。

昨今の日本の悲惨な事件のニュースを耳にするたび、日本の人達がイスラームについて知っていたらな、と強く感じます。戦後、日本人は、焼け野原の貧乏生活からなんとか豊かに国を再興させようと、この世の暮らしをよりよくすることだけを追い求めて、それだけを生きる目的として、がむしゃらに働き続け、その結果世界第二位の経済大国となりました。

しかし、その目標を達成してしまった今、確たる信仰もない日本人には、心にぽっかりと開いたむなしい穴を埋めるものがありません。空腹だったおなかはふくれましたが、心が空っぽです。皆、何のために生まれて、何のために生きているのかもわからず、ただ惰性で、日々をやりすごしているだけのような気がします。

何が善で何が悪なのかの基準も曖昧となり、人々の道徳心や礼儀作法もなくなりつつあり、何でも、「時代が変わった」で済まし、皆、自分の欲望の声に従って、獣のように生きているだけです。

毎年三万人の人間が自殺をする国というのは、どう考えても異常です。人生は一度きりです。また、生まれ変わったりなんかしません。クルアーンの中で自殺は禁止されています。なおかつ、死んだら人生おしまいではないのです。

全くその逆で、この世の暮らしはほんの一時の戯れのようなもので、あの世こそ、永遠に続く真の暮らしなのです。この世は、来世で楽園に行くか、獄火に行くかの、試験の場所にしかすぎません。

ずるいことをして上手いことやった人が得をしたように見えても、正直者が損をしたように見えても、それでおしまいではありません。誰よりも、最も公平であられるアッラーは、正義を全うされ、審判の日に、全てを裁かれ清算されます。

歌の文句に、「誰かを愛するために僕らは生まれ、誰かに愛されながら僕らは生きてく」とか、「君を守るためそのために生まれてきた」などとありますが、ムスリムである私から言わせれば、そんなものは真っ赤な大嘘です。

その歌詞を替え歌するならば、私達人間は、「アッラーを愛するために生まれ、アッラーに愛されながら生きていく」のです。ムスリムは、はるか昔に、アッラーが全ての終末の日までに生まれてくる予定の魂を創造したと信じています。

クルアーンの7番目の章、高壁章の172節で、言われていますが、アッラーはその全ての魂を前に、

【我がお前たちの主ではないのか】

と問われました。すると、全ての魂は、

【はい、まことに、あなた様が、私達の主です】

と、答えました。

ですから、私達が、アッラーを信じることは、ごく当たり前のことなのです。日本には、善行をなして生きている善良な人々が沢山います。でも、アッラーを信じていないということが既に大罪なのです。自殺をしなくても、私達はいつか必ず遅かれ早かれ、絶対間違いなく死にます。今が楽しければそれでいいわけではないのです。手遅れになる前に、考えなければならないことがあるのです。

クルアーンの10番目の章、ユーヌス章の100節に、

【アッラーのお許しなしには誰も信じることはないのである】とあります。一人でも多くの方に、アッラーからの導きがありますようにと、アッラーに祈る次第です。


ファッちゃんからのコメントです。 

「韓国のムスリム事情に関しましては、韓国人ムスリムは3万人だという言葉がでまわっていますが、 実際にはどうかわかりません。もっと少ない気がします。海外に引っ越した人が多いのかなと思います。 

ソウルのイテウォン マスジドを中心にして、ダワ目的の講座とか勉強会などが行われています。 

男性よりも女性が多いらしく、中学生や高校生、大学生、社会人など幅広い年齢層の人たちが 入信しています。アルハムドゥリッラー。 

ネットで偶然外国のムスリムとしゃべったのをきっかけでイスラムに興味を持つ人が多くて、 海外に留学してムスリムと仲良くなってイスラームを見直したという人も多いです。 

実は私もその一人です^^。ウェブのムスリム コミュニティーもいくつかあり、お互いの苦情を話し合ったり、 イスラームの知識を教えあったりしています。ハディースとかは必ずどこから持ってきたかを書くようにします。」 

私の入信記  ファッちゃん

私は2009年から1年間日本に交換留学していました。そのとき留学生寮の同じフロアにアラブの国から来たムスリムが住んでいて、 彼が私が始めてしゃべったムスリムです。 前も空港でヒジャーブをかぶったムスリマとその夫らしい人をみたことはありますが、女性はひとりで旅行にいけないのかな、やはりイスラームって厳しいな’とふと思っただけです。 そのアラブの友達はいつもにこにこと笑っていて、好奇心が深く、人の話をなんでも丁寧に聴いてくれる人でした。たまに廊下で友達と一緒にお祈りをしていたり、断食をしていたりしました。(ラマダンじゃないときにも)共同キッチンで時々話をしただけですが、彼のポジティブな態度で癒されたりしました。

  どうして彼はそんなにいつも気楽なのかな、それはイスラームのおかげなのかな?と思い、 他の友達に

「私、ムスリムになることを考えてるよ。」

と相談したところ、

「キリスト教とイスラームとなにが違う?」

と 返ってきて、そのときはそのまま

「そうだね…」

と納得してしまいました。(アホー!) 私の過去の宗教はキリスト教だったです。

 

1年が過ぎて私は韓国に戻りました。

留学時代の自由な日々が終わり、私はとても落ち込みました。 例のアラブの友達とはたまに連絡をしていて、宗教についても話すようになりました。私は当時、宗教はなかったです。 それを誇らしげに思っていたりしました。(神に頼らずに理性的に考えてるよと)

親はクリスチャンだったけど私は中学生になってから教会には行かなくなりました。どうしても信仰というのが心の中に芽生えなかったからです。

彼は、

「人間と知性は神の命令に従うためにあるものだと思う」

と一言いいました。その週末わたしはソウルのマスジドに行ってイスラームについて調べました。そのときは韓国人とムスリムは両立出来るのかをすごく気にしていました。 何人かの韓国人ムスリムに会って、

「イスラームで恋愛はダメじゃないですか?それって無理じゃないですか?」

など、 色んな質問をしました。イスラーム書籍を取り扱う店によって英語のクルアンを買ったら、店でバイトしていた韓国人の ムスリムから他の小冊子もたくさんもらえて嬉しかったです。韓国のムスリム コミュニティーのウェブサイトのアドレスも教えてもらいました。

初めて読んだクルアーンは難しい言葉が多くて読みづらかったけど、

 【the most merciful, the most gracious(慈悲あまねく慈愛深き)】(2章163節、59章22節)

というアーヤがいいと思いました。

 それから例のウェブサイトでイスラームの資料を読んでいたら、ある韓国人のムスリマさんが話しかけてくれたので、色々聞くことができました。

 

一週間後、私はまたマスジドに行ってあのムスリマさんに実際に会うことが出来ました。彼女はニカーブをかぶっていたので最初はびっくりしましたが、実はとても優しくて話しやすい人でした。

彼女との長い話のあげく私はシャハーダをしました。10人位のムスリムたちがその場にいて、なみだ目になって

「おめでとう」

と言ってくれました。その日、ヒジャーブも何枚かもらって早速つけてみたら、自分の姿が気にいってたまりませんでした。頭にスカーフをかぶって出かけることだけは無理だと思っていたんですが、ムスリム初日からヒジャーブをかぶり始めるようになったわけです。大学の友達や先生たちももちろんびっくりしましたが、数ヶ月たったら誰も何も言わなくなりました。(笑)

その後、一人で暮らして、大学に通って、親戚の集いに参加したりする中で色々と大変なこともあったのですが、今は例のアラブの友達と結婚して日本で幸せに暮らしています。今の夢はクルアーンを全部暗記すること、大好きな家族がムスリムになることです。ドゥアしてください。

イギリス人司祭の入信記


私は主教のところへ行き、司祭になるために一歩踏み出したいと伝えました。ローマでの訓練を終えイギリスに戻ると、私はローマカトリック教区教会で司祭として働き始めました。善い人々と共に働くことができ、大変恵まれた時期でした。ご存知のとおり、人々の生活へ介入する特権的な機会にも恵まれました。赤ちゃんに洗礼を施し、結婚式を執り行い、告解に耳を傾け、ミサを挙げ、病者に塗油し、深夜に電話を受けて死の床にある母親に塗油するため出向くよう頼まれることもありました。司祭となる機会が与えられたことを大変光栄に思います。教会時代を振り返ると、全能なるアッラーへの深い感謝でいっぱいになります。 

人々は私に言います、「イドリース兄、何という人生の方向転換でしょう!こちらへ進んでおられたかと思ったら、突然こちらへ向きを変えられて…。」しかし私には何の変化も感じられません。人生を振り返ると、そこには一本の真っ直ぐな道が見えるだけです。今はよく分かりますが、ローマの講堂に座って聖トマス・アクィナスや聖書、教会史について学んでいたとき、私は司祭になるために訓練を受けていたのではありません。今日あなたにムスリムとして話しかけるために訓練を受けていたのです。私がムスリムとなり、今日ここに座ってあなたにイスラームについて語ることは、全能なるアッラーが最初からご計画されていたことだったのです。

 

では、どのようにしてムスリムになったのでしょう?なぜ司祭職を離れたのでしょう?教会で何か問題を抱えていた訳ではありません。そんなことは全くありませんでした。カトリック教徒であることに満足していましたし、自分の宗教を離れるつもりなど全くありませんでした。しかし全能なるアッラーは、これはとても重要なことです、全能なる神は私たち一人ひとりに様々な方法で語りかけて下さいます。神は私たちをご自身のもとへお連れになりたいのです。スポーツを通して語りかけて下さることもあれば、美しい朝日を通して、クルアーンの言葉を通して、あるいは科学を通して語りかけて下さることもあります。そして、神は私の心を通して語りかけて下さいました。

 

ご存知のように、司祭は結婚しません。私は大変孤独でした…。それで、とても難しい決断を下したのです。カトリック教会を離れたくはありませんでしたが、司祭職を離れることにしたのです。それで、教会をあとにしました。司祭職を離れたのです。司祭職を離れるというのは、死のようであり、離婚のようであり、焼け落ちた家のようであり、その全てが一緒くたになってしまったようでした。本当に大変な決断でした。司祭職を離れた自分を励ますために、何かが必要でした。それで私は旅行に行こうと決めました。でもお金がなかったので、インターネットで一番安い旅行を探しました。そして見つけた旅行先がエジプトだったのです。

 

私はエジプトについて何も知りませんでした。砂、ラクダ、ピラミッド…。そして1つ問題がありました、ムスリムです。当時の私は、人生で一度もムスリムに出会ったことがありませんでした。ムスリムについて知っていることといえば、テレビで見たことだけで、手を切り落としたり、自爆したり、女性を打ったり…。ですから「あぁ、これはちょっと危ないぞ、エジプトへ旅行に行ったら、誘拐されるかもしれない。捕らえられて首を切り落とされるかも知れない」と思いました。でもお金がなく他に選択肢がなかったので、私はエジプトへ旅行に行きました。

 

そしてエジプトで過ごした最初の1週間が、私の人生を変えました。人生で初めてイスラームに出会ったのです。私が初めて出会ったムスリムは、偉い先生方ではありませんでした。私がイスラームについて知ったのは、イスラームについての本を読んだからでも、テレビ番組を見たからでも、ムスリム伝道者の説教を聞いたからでもありません。私にイスラームを紹介してくれたのは、通りで靴磨きをしている小さな少年でした。ある日、彼のそばを歩いて通り過ぎたとき、少年は私の白い肌を見ました。少年は痩せていて、小さなプラスチック製のぞうりを履いていました。少年は私の白い肌を見てこう言ったのです、「アッサラームアライクム(あなたの上に平安がありますように)」。それは心からの言葉でした。少年は心を込めて「あなたの上に平安がありますように」と声を掛けてくれました。

 

カイロにいた一週間、私はホテルの近くの通りにいる少年のそばを毎日通り、少年に話しかけるためにアラビア語も少し覚えました。「ザイク、ザイク、ハビビ、ザイク、ヤー、ジャミール(元気?)」すると少年は「アルハムドリッラー(全ての称賛はアッラーに)」と答えてくれました。私にイスラームを紹介してくれたのは、この小さな少年の挨拶言葉「アッサラームアライクム」と「アルハムドリッラー」です。一週間のエジプト旅行を終えて家に戻ったとき、私はイスラームについてまだ何も知りませんでしたが、ムスリムはテレビが報道しているような人たちではないということが分かりました。

 

旅行から戻ったとき、私には仕事がありませんでしたので、まず仕事を探す必要がありました。以前、修道会で教えていた私は、学校で教える仕事を見つけました。こうして私は公立の学校(state school)で仕事に就きました。アメリカやカナダではpublic schoolと呼ばれていると思います。これがとても大変な学校で、そこの生徒は非常にやんちゃで、アラブ人でもありました。そして多くがムスリムでした。

 

私の仕事は、学校の子供たちに世界の6大宗教について教えることでした。仏教、ヒンズー教、シーク教、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム。さて、私はキリスト教については知っていました。ユダヤ教についても十分知っていました。しかし、他の4つの宗教については何も知りませんでした。子供たちの統一試験対策のため、またムスリム子弟にイスラームを教えるため、私は毎晩、本を取り出してはイスラームについて勉強しました。こうしてさらに時が過ぎ、イスラームについて読めば読むほど、その内容がどんどん好きになりました。

 

この旅が3~4か月ほど過ぎた頃でしょうか、授業で預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の名を口にしたとき、目に涙があふれ 喉を詰まらせている自分に気づきました。でも私はそれを急いで隠さねばなりませんでした。乱暴な子供たちをそのままにしておくことはできなかったからです。

 

そして、ラマダーンが来ました。ムスリムの子供たちが私のところに来てこう言いました、「先生、ラマダーン中、礼拝するところがないんです。先生の教室だけ床が絨毯なので…」偶然にも、この学校で絨毯が敷かれていて、礼拝前の清めに必要な流し台もあるのは私の部屋だけでした、「先生の教室で礼拝してもいいですか?」。子供たちが礼拝したこのラマダーンも、長くて短い旅の一部でした。私は教室の後ろに座って本を開き、授業の準備をしていましたが、数日後には、子供たちが礼拝する姿を観察するようになりました。(両手を耳のところに当てるしぐさをして)「あぁ、今子供たちはこうしているな…」、(立礼のしぐさをして)「そして今度はこうしているな…」。そのしぐさに魅了され、私は子供たちに伝えることなく、インターネットで彼らが礼拝で口にしていたアラビア語を暗記しました。それでラマダーンが終わる頃には、礼拝の仕方を知っていました。あの子供たちが礼拝の仕方を教えてくれたのです。

 

また、ラマダーンの初めのある日、子供たちが「先生の部屋で礼拝してもいいですか?」と聞いたとき、私は「いいですよ」と答えただけでなく「私はムスリムではないけれど、ラマダーン中、君たちを応援するために一緒に断食しようと思います」と伝えました。それでラマダーンが終わる頃、私は礼拝の仕方を知っていましたし、アッラーのためでなく子供たちの信仰を励ますためでしたが断食もしていたのでした。

 

そしてさらに数ヶ月が過ぎた頃には、私はムスリムがどんな人たちなのか知っていました。また、ムスリムは良い人たちだということも知っていました。ムスリムと一緒にいると心地がよいので、自分自身のためにもっとイスラームを学ぼうとロンドン・セントラルモスクへ通い始めました。子供たちに教えるためではなく、自分自身の心と理性のためです。講演会で最後にスピーチをしたのはユースフ・イスラーム氏(有名な歌手キャット・スティーヴンス)でした。ユースフ氏がスピーチを終えたとき、私は彼のところへ行き「兄弟、ムスリムになるにはどうするのですか?」と聞きました、「私がムスリムになりたい訳ではないのですが、もし誰かがムスリムになりたかったら、何をするのですか?」。彼は言いました、「まず、ムスリムは皆、唯一の神を信じています」。私は言いました、「私はいつも唯一の神を信じてきました」。彼は言いました、「ムスリムは一日5回礼拝します」。私は言いました、「実は、私もアラビア語での礼拝の仕方を知っています」。彼は戸惑った顔をし、「そしてムスリムはラマダーンに断食をします」と言いました。私は言いました、「実は私もラマダーンの1ヶ月間、断食をしました」。すると彼は、私の目を真っ直ぐ覗き込んで言いました、「兄弟、あなたはもうすでにムスリムですよ。誰をごまかそうとしているのですか?」。ユースフ氏がそう言ったとき、マグリブの礼拝への呼びかけがモスクの中で響き渡りました、「アッラーフアクバル…」。そして、皆が席を立って上階の礼拝堂へ向かいました。私は酔った気分でした。頭の中で「兄弟、あなたは誰をごまかそうとしているのですか?あなたはすでにムスリムです」と言う声が聞こえ、外では「アッラーフアクバル」と言う呼びかけが聞こえていたからです。そして、我々は礼拝堂へ上がりました。

 

兄弟たちは礼拝堂で、姉妹たちは上のバルコニーで礼拝しました。マグリブの礼拝が始まったとき、私は後ろの壁にもたれて座りました。まるで無数の天使たちがモスクの中に入ってきたようでした。クルアーンの読誦が始まったとき、それはもう、とにかく最も美しいものでした。私は泣き始め、泣いて泣いて、赤子のように泣きました。そして私は心の中で悟ったのでした。私の人生で起きたすべての旅は、私をこの瞬間に導くためのものであったと。礼拝が終わると、私はユースフ・イスラームのところへ行き、「兄弟、私はムスリムになりたいのです。どうすればよいか、教えて下さい」と言いました。彼は言いました、「私の後についてこの言葉を言ってください。アシュハド・アッラー・イラーハ・イッラッラー。ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー。(私はアッラーの他に崇拝に値するどのような被造物も存在しないと証言します。そして、私はムハンマド(彼の上に平安あれ)がアッラーの使徒であると証言します)」。そしてもちろん、兄弟たちが皆、私に挨拶してくれました。本当に素晴らしかったです。

 

Idris Tawfiq - My journey to Islam

http://youtu.be/w3jntHgqbHY

 

             I went to the bishop, and I told him that I'd like to take a step forward to become a priest. After my training in Rome had finished I returned back to the UK. I was working as a priest and I worked as a Roman Catholic priest in a parish. And that was a very privileged time too, I was working with good people. And it was a privileged occasion, you know, for people to let you enter their lives when their babies were born to baptize them, to marry people, to hear the confessions, to say mass, to anoint the sick, to get a phone call in the middle of the night, I'd be asked to go and anoint your mother who's dying. Very privileged occasion to be a priest.          And so when I look back at my time in the church, I have deep gratitude to Allah Almighty.

 

And people say to me, brother Idris, you know, what a change in your life! You were going in this direction and all of the sudden it changed. I see no change. I look back on my life and I see a straight line. And I see, you know, when I was sitting in those lecture halls in Rome learning about St Thomas Aquinas and the bible and church history, I can see now that I wasn't training to be a priest, and I was training to be talking to you today as a Muslim. I know now that it was Allah almighty's plan from the beginning of the time that I will be Muslim and I will be sitting here today talking to you about Islam.

 

So how did it happen? Why did I leave the priesthood? Not because I had any problem with the church, none at all. I was happy being a Catholic and I had no plan to leave my religion. But Allah almighty, this is very important, God almighty speaks to us in different ways. He wants to bring us to Him. Some people He speaks to them through sport or through a beautiful sunrise or through the words in the Qur'an or through science. He spoke to me through my heart.

 

Because as a priest, you know the priests in the church, they don't marry. And I was very lonely. I was lonely. And I made a very difficult decision. I didn't want to leave the Catholic Church, but I decided I would leave my job as a priest. So I left the church, I left the priesthood. And leaving the priesthood is like a death and a divorce and a house burning down all rolled into one - it's a big deal. So I needed something to cheer me up, having left the priesthood. So I decided that I needed a holiday. But I had no money. So I went to the Internet and I looked for the cheapest holiday I could find. And the cheapest holiday I could find was a holiday to Egypt.

 

I knew nothing about Egypt. Sand, camels, pyramids or a just one other problem, Muslims. I never met a Muslim in my life. All I knew about Muslims was what television told me that they chop your hands off and they blow themselves up and they hit the ladies so I thought to myself, 'Oh this is bit dangerous if I go on a holiday to Egypt maybe I will be kidnapped. Maybe these Muslims will seize me and chop my head off.' But in the end I had no money no choice so I went.

 

And that week on holiday in Egypt changed my life because for the first time in my life I encountered, I met Islam. The first Muslim I met in my life was not some important Sheikh. My introduction to Islam was not to reading about book about Islam or watching a TV program or listening to a sermon by a Muslim preacher, my introduction to Islam came from a little kid in the street cleaning shoes. And I walked passed him one day and he saw my white skin this little boy he was thin, now, he was wearing a little plastic flipper-flops on his feet. And he saw my white skin and he said to me 'Assalamu alaikum' (peace be upon you). And he meant it, you know, he meant this little kid he meant ‘peace be upon you’.

 

And for the week I was in Cairo I would walk passed the boy every day near my hotel. And I learnt some words in Arabic to say to him, I learnt to say 'Zaik, zaiki habibi zaiki ya jameel, ' And he would reply to me 'alhamdulillah' (all praise be to Allah). So my introduction to Islam came from a little kid greeting me with a word 'Assalamu alaikum' and 'alhamudlillah (All praise be to Allah)'. So when I went home from Egypt the end of the week I knew nothing about Islam. But I knew that Muslims weren't what the television told me.

 

So I went back home I was without a job. I needed to get a job so I got a job teaching in a school and my background was teaching order. So I got a job in a state school. I think in the US or in Canada you call it a public school, and this was a very naughty school the kids in the school were very very naughty kids but they were also Arab children. So a lot of them were Muslims.

 

So my job was to teach the children in the school about the six major world religions, Buddhism, Hinduism, Sikhism, Christianity, Judaism and Islam. Now I knew about Christianity, and I knew enough about Judaism but the other four I knew nothing about. So to teach Islam to these Muslim kids and I was teaching them for public exams I had to get the books out each night and read about Islam to teach them. And the more and more time went on, the more I read, the more I liked what I read I liked what I was reading.

 

Until it came maybe three four months into this journey. And I found myself I was mentioning the name of Prophet Muhammad (Upon him be peace) and tears would come in my eyes while I was teaching the kids, or a lump would come in my throat which I quickly had to disguise because these were rough kids you know you couldn't let anything away with them.

 

Ramadan came. And they approached me and they said 'Sir, we've got nowhere to pray in Ramadan. And your classroom is the only room in the school with a carpet.' Coincidence hey, my room was the only room in the school with a carpet and a wash basin they needed to wash basin to perform the ablution before prayer. So they said, 'Can we use your classroom to pray?' So this was part of the journey, the long and the shortest, during Ramadan they prayed. And I sat at the back and my books and prepared to my lessons, but basically after a few days began to watch them pray. And I looked up and said, 'oh they are doing this now' and ‘now they are doing this'. And I became fascinated and I went to the Internet and without telling them I learnt off by heart the Arabic words they were saying. So the end of Ramadan, I knew how to pray. These kids had taught me how to pray.

 

And one of the beginning of Ramadan, when they said 'Can we pray in your room?' I said 'Yes' but also I said 'in solidarity with you I'm not a Muslim but I'll fast with you during the month of Ramadan.' So the end of Ramadan, I'd learnt how to pray and I fasted not for Allah's sake but I'd fasted to encourage the children's faith.

 

So more and more months went by, and by this time I knew what Muslims were like, and I knew they are good people, I felt comfortable with Muslims. So I began to go to London Central Mosque to learn more about Islam for myself. Not to teach but for my own heart and for my own mind. And the final one of the talks was given by Yusuf Islam, Cat Stevens, the famous singer. And at the end of his talk, I went up to him and I said 'brother, what do you do to become Muslim?' And he said, well I said 'I don't want to be Muslim but if someone wanted to be Muslim what would you do?' He said 'well, first of all Muslims believe in one God.' I said 'I've always believed in one God.' he said 'Muslims pray five times a day.' I said 'well, actually I know how to pray in Arabic.' And he gave me a very puzzled look and he said 'And Muslims fast during Ramadan.' I said 'well, actually I fasted in Ramadan for the whole month.' And he looked me directly in the eyes, and he said to me 'brother, you are Muslim already. Who you trying to fool?' And when those words 'brother, you are Muslim already. Who you trying to fool?' the call to prayer sounded in the mosque. 'Allahu akbar' for salatul-Maghrib. And everyone got up to go and pray in the prayer hall above, and I was like a drunken man. Because I could hear in my mind, 'brother, who you trying to fool? you are Muslim already.' And outside I could hear 'Allahu akbar' and we went up to the prayer hall.

 

And the brothers prayed in the hall and sisters above the balcony. And I sat on the back against the wall when salatul-Maghrib began. And it was as if angels beyond number came into the mosque. It was just the most beautiful thing when the Qur'an began to be recited. And I began to cry and I cried and I cried and I cried like a baby. And I knew in my heart that the whole journey of my life had led me to the moment. When the prayer was finished, I went to Yusuf Islam and I said 'Brother I want to become Muslim. Tell me what to do.' He said 'say these words after me, say Ashhadu Allah ilaha illallaa. wa ashhadu anna Muhammadan rasulullah.' (I bear witness that there has no created being worthy of worship but Allah, and I bear witness that Muhammad peace be upon him is His messenger.) And of course all the brothers greeted me and it felt wonderful. ■

さあらの入信記

私が「神さま」という存在を意識し生きるようになったのは、小学校高学年の頃だったと思う。小学生の頃から原因不明の腹痛発作を繰り返し、1か月に1度は入退院を繰り返していた。私の入る病室は面会制限のあるいわゆる免疫が低下している小児科の病室であり、自己免疫疾患や白血病などの子供たちが一緒の部屋になることが多かった。

ある日、同じ部屋に入院していた私よりも幼い子が私に聞いてきた。

 

「ねぇ、どうして私たちはこんなに辛い病気になったのか知っる?」

 

「わからない。どうして??」

 

そう答えると彼女は驚くべきことを言った。

 

「かみさまがね、私たちはこの病気が耐えられると知ってるから

この病気をくれたんだよ。私たちは神さまに選ばれた子なんだよ!」

 

その夜私は「かみさま」についてたくさん考えた。どこにいるのか、どんな方なのか。結局私には何の知識もなかったので、とにかく「かみさま」がいて、そして「私なら耐えられる病気なんだな」と思うことにした。

そして「選ばれた」という言葉がなんとも特別な感じがして、かみさまが自分をいつも見てくれているように思え、ちょっぴり嬉しかった。そのことをもう一度話そうと思っていたのだが、その子は別の部屋に移ってしまったようで会えなかった。

しばらくたって亡くなったのだということを知った。

 

私はこのことを誰にも話さなかった。誰にも話さず、どんなに辛く苦しい状態にあっても、いつもこの言葉を思い出し、ただただ耐えて過ごした。「かみさま」に選ばれたのだという思いが母や他の人を責めずにすんだ。しかしなんのために、そしてどうなるのかということを知らぬままだった。

病名がはっきりし私の免疫に関連した遺伝子が正常の3分の1に満たないことがわかると、主治医はこのままだと15歳までは生きられないだろうという見通しを両親に伝えていた。私にはそれは知らされず、ただ新しい薬を飲み始めるという話だけだった。が、原因と病名がわかったこともあり、半ばほっとしたと同時に「死」というものはいつも頭の中にあった。

「人はいつか死ぬ」という考えではなく「いつ死ぬかわからない」という数時間、または数分単位での恐怖が私の中にはいつもあった。

事実、さっきまで元気だったと思ったら発作が起き、瀕死の状態で運ばれることが当たり前のように毎月起き続けていたからだ。

 

「死んだらどうなるんだろう?」

 

私は毎晩恐怖と「かみさま」を思い耐える日が続いていた。朝目覚めないかもしれない。それならそれでもいいが、発作を起こしませんように・・。

仏教やキリスト教の本なども読んでみた。でもどの宗教も実に人間的な派閥が起きていて、子供ながらに大人のやっていることが滑稽でばかばかしく思えて、「宗教」というものを信じる気持には到底なれなかった。

 

そして大人になり、ある時私は別な時期にふたつの大切な命を亡くした。ひとつは将来結婚したいと思っていた人。もうひとつは妊娠4カ月の自分の子供だった。これは入信記なので、この詳細は特に書かない。でも私にとってこのふたつの死は私の人生にとても大きな意味をなした。

私自身は病気があり、いつ死んでも仕方ないと思って生きていた。医者は15歳と言ったが私は恐らく25歳くらいではないか・・・と思っていた。だからもういつ死んでもおかしくないし、それなりにやり終えたと思っていた。

しかし、彼は病気ひとつなく元気で何の罪もない人だった・・・・そう思っていたのに、なぜ今死ななくてはならないのか、なぜ私ではなく彼なのか。わからなかった。

また、自分の子供に関しては本当に順調に育っていた。医者は、

 

「赤ちゃんはもうすでに人となっており、おしっこもしていますよ」

 

と私に伝えた。が、同時にそれとは逆に私の体は生気を完全に子供に吸い取られるかのように、日々「死」に向かっていた。私は自分の中に「生」と「死」を同時に感じながら過ごしていた。しかし、それも3カ月が過ぎ、

「このままでは母体がもたず、妊娠の継続は難しいでしょう。」

 

そういう医者の言葉にずっと抵抗していたが、もうこれ以上は危ないと感じ手術を決心した時に、私にはもう自力で歩くことも座っていることもできなくなっていた。

かくして私は手術を受けたが、子供が私の体からその死をもって消えた直後から、私の生はまた始まり、それまでの体の負担は全くなくなった。とても不思議な感覚だった。

しかし見知らぬ「あの世」とやらに大切な人、子供を送らなければいけない哀しみは言葉では到底表現できない。そしてその子を火葬にしなくてはならない時、私は恐らく人生で初めて大声で泣き叫んだと思う。

なぜ焼かなくてはならないのか、あんな小さな子供にどうしてそのような辛い思いをさせなくてはならないのか。可愛くたくさんの花で飾られた小さな棺を抱えながら、私は周囲のことなど全く目に入らずに泣き叫び、相手の男性に引き離され、抱えられながら待合室に連れられて行った。本当に胸が引き裂かれるような・・というのはこういうことなのか・・・という思いだった。それ以来、

 

「私は土葬がいい。」

 

そう思った。死ぬことでさえ辛いのに、死んでなおなぜ焼かれるという責め苦を味わなくてはいけないのか!私は焼かれたくない!!そう強く思い、また彼らがいる「天国」に早く逝きたい。行ってまた会いたい。そう強く思うようになると同時に、天国へはどうやったらいけるのか、また、なぜ私がまだ生きていなくてはならないのか・・・

という疑問が心の底から強く、強くわき出るようになっていた。

 

それからしばらくして、私は実家を出て同棲していた。

 

それなりに幸せだと思っていたがそれでも時々私など生きている必要もないし、もう何もかもやり終えたのだから亡くなった彼らに会いに逝ってもいいだろう・・・・。

そう思い幾度となく自殺未遂を繰り返した。そのたびに人が通りかかったり、同棲相手が発見してしまったりで失敗に終わった。私の意思とは無関係に生き続ける自分の身体が不可思議で仕方なかった。しかし、最終的に私がもう自分で死ぬことができないのだな・・とあきらめたのは、本当に多くの良き友人や恩師などに恵まれていたからだ。彼らに一言も挨拶や感謝もせず、このまま死ぬことなど許されないな。

どうやって感謝しようか・・・そう考えたとき、

 

「それにはまず『生きる』しかないな。」

 

そう思えた時からもう自殺ということは考えなくなった。その代わり、生きている間、いったい何が私の使命なのか。そんなことを考えながら日々生活していた。

それから数年は勤務先が病院ということもあり、治療しながらしばらくは入院もせずに仕事をしていたが、それでも徐々に体調を崩すようになり点滴につながれながら、寝たり起きたりの生活をするようになっていた。外出といえば通院する程度だった。

そんなある日、親友が海外に永住することが決まった。英語ができない私は非常に困ってしまった。何かあるごとに相談していた彼女だが、電話に出るのがどこぞの外国人・・ということも多く、そのたびに私は何も言わずに電話を切っていた。それが永住となったのであれば電話のひとつもかけられるようにならなくてはな・・・。

そう思い、どうせ寝てばかりで時間はたっぷりあるのだから・・と、英語の勉強をすることにした。

「もしもし」をなんていうのかさえ知らないほどの英語力だったが、彼女と話したいという気持ちで数行の英語を書けるようになり、彼女の勧めもあってメールフレンドを作ることにした。

日本語を教える代わりに英語を教えてもらう・・というサイトで募集したのだが、最初に連絡がきたのがエジプト人だった。全く英語圏ではない国の人と、なぜ交流しようとしたのかわからない。ただの興味本位だったと思う。ラクダとピラミッドの国の人がメールできるのか・・という完全に無知丸出しの私は数行の英語でのメールのやりとりを始めた。

そんなある日、このエジプト人の学生を自宅に呼ぼうという話になった。その後英語力が増すにつれて数カ国の人とやりとりしていたが、とはいえ寝たきりに近い私に、もはや世界旅行には行けないけれど、いろいろな国の人と交流するのはまるで旅行に行ったようでいいだろう・・そんな彼の優しさでもあったようだ。

早速日時を送り家に招待した。まぁでもアラブの人は時間とかルーズらしいから、その日に着くかどうか・・。などと思っていたのだが、驚くべきことにその学生さんは約束の時間通りにやってきたのだ。そして年上である私たちへの誠実で紳士的な挨拶も非常に好感が持て、お茶の合間に聞く話もとても多くの知識があり興味深かった。

 

「いったいどんな社会が彼のような立派な若者を育てるのだろう?」

 

そう思い、その子と会ったあと、早速エジプトについて調べてみた。そもそもその学生さんは自分の宗教について話すことはなかった。しかし、私がエジプトはイスラム教という宗教の国なのか?と尋ねると、

 

「そうだよ。そしてイスラームを信仰している人のことをムスリムと言うんだよ。」

 

とだけ教えてくれた。

さらに興味がわいた私は通院で外出した際に無理をして図書館に行き、イスラーム」と書いてある本を探して手に取った。それを開いた時に目に飛び込んできたのが、アラビア語の文字だった。

 

「 まるで楽譜みたい! 」

 

私は音大を受験した経験があったが実は楽譜はなんとなくしか読めない。なんとなくしか読めないのだが、楽譜から感じるものを頼りにずっと弾いてきていた。だからその見たこともないような「楽譜」の音を聞きたい!!そう思ったのだ。

 

帰宅後すぐに音を探した。どうやって探していいのかもわからず、ただひたすらアラビア語とかイスラームというようなキーワードで探していたように思う。Youtobuでやっと音が聞けた。

 

そう。

 

その時生まれたて初めて聞いたアラビア語の音が「 アルファーティハ 」だったのである。

その瞬間私の「魂」はここにあるのか!!!!と思ったほど、まさに「魂が震える」感動を覚え、なぜか意味もわからないその音を聞きながら号泣してしまった。これは人が作れるような音ではない・・・。

そしてその瞬間的に「私はムスリムになる!」そう思ったのである。

その時の私はイスラームとは何か、クルアーンのことはもちろん、「アッラー」という言葉すら知らなかったのである。

 

こうしてムスリムになる!と決めた私はどうしたらムスリムになれるのか・・・ということも含めてイスラームについて書かれた本、クルアーンの日本語訳などを寝る間も惜しんで読みあさった。

もうすでにあの音が「神業だ!」と思っていた私にとって、その神業の言葉を送ったのが「アッラー」であり、アッラー、その御方が預言者としてムハンマド様(彼にアッラーの祝福と平安がございますように)を使徒として送ったのだと読んでもそれはもう何の抵抗もなかった。むしろ、私がずっと疑問に思っていた「かみさま」の存在と、なぜこの世に生きていなくてはならないのか、死んだらどうなるのか・・などなどすべての答えがクルアーンの中にあった。

 

【 ・・・ムスリムにならずに死んではならない 】(第3章102節)

 

クルアーンの中のその言葉が胸に響き、約半年後、東京のレストランでシャハーダした。経典も何の教えもない時代に神について知ったイブラーヒームを尊敬していたので、その奥様の名前である「サーラ」をムスリマ名にと自分で選んだ。しかし、この時の私はシャハダをしたということに何も感じなかった。

 

「おめでとうございます!」

 

と言われたが、実のところ喜びも何も感じず、もっと感激で飛び跳ねてしまうのかと想像していたそのイメージとは全く違っていた。

とにかく具合が悪かった。だから、ただただ人前で倒れまいという気持ちだけで必死にその場に出向き、無事に家に帰れるかどうかということばかりを考えていた。当時証人の一人となってくださった方にその後にお会いする機会があったが、本当に青白い顔で横になっていないと倒れてしまうのではないかと思ったほど、具合が悪そうで顔はうつむいたまま、覇気が全くなかったとおっしゃっていた。

 

自宅に戻った後初めてした祈りは、私を清め、今までの罪のお赦しを請うと共に、死ぬまでにどうか親孝行をさせてくださいというものだった。本当に私はいつも両親に、家族に心配ばかりかけ無茶苦茶な人生を歩んできたからだ。

すでに婚前交渉や未婚の男女が共にいることがハラームであることを知っていた私は、同棲中の彼にその日のうちにムスリムになったことを伝え、

 

「ムスリムとなり、私と結婚することはできますか?」

 

と聞いた。彼の答えはきっぱりと「NO」だった。そして、たとえムスリムとならずとも結婚はしないという返事だった。

それでは・・ということで、事情を家族に話し私は彼と別れ実家へ帰った。私に後悔は全くなかった。ずっと私にとってこれも定めと思っていた生活だったが、クルアーンによって正しい知識を知り過ちを認めた今、もうその生活にこだわる必要はなくなっていた。

本来なら喜びに満ちたシャハーダなのだろう。でも私は違っていた。むしろあらゆるものを失くしたスタートだった。友人や家族にも別れた経緯を話し、私がムスリムになったことも伝えると、宗教を理由にだなんて・・と責められた。もちろん、実際には宗教が問題ではなかった。長年一緒に暮らしたが、彼にはもう長く別居している妻がいた。年も私よりかなり年上だった彼は結婚を望んでおらず、あくまでずっと結婚にこだわっていた私とは根本的なところでうまくいっていなかった。家族は彼との同棲をよく思っていなかったため、帰宅は喜んではくれたが、宗教に入ったという、それもイスラームということで心配し猛反発された。

母に至っては毎晩うなされるほどに苦しませてしまうこととなってしまったのだ。

私は仕事も失くし、周囲の信頼も失い、地位も名誉も失った上に両親を悲しませ、およそアッラーがお望みになっていることとはまったく別の、遠く軌道を離れた誤った道へと入り込んでしまったのではないか。そう思い、クルアーンを読んでいても地獄の業火の部分や罪の部分しか目に入らず、恐怖と悲しみでいっぱいだった。見よう見まねでする礼拝も自室で隠れて泣きながらする日々だった。

イスラームに関して勉強するにも周囲に誰も知り合いのムスリムはいない。もっぱら本やネットで勉強するしか手立てがなく、その頃の私は今振り返ってみても、非常にストイックに「勉強」していたと思う。

それは「信仰」をしているというよりも、まるで学生のように文献を読むという感じだった。サイトで質問できる場所に礼拝の方法から何から細かく聞きすぎるほど質問していた。

 日々心が辛くてたまらなかった私だが、ある日ネットで日本語の勉強会を聞く機会があった。なぜだかその勉強内容が非常に心に響き、質問等を送ってもよいとしていたそのシャイフに簡単な自己紹介と共にメールを送った。

そしてこのシャイフから驚くべき言葉をいただいたのだ。

 

そう。それは苦境にある私を、

 

「アッラーが愛しておられるからですよ」

 

ということだった。

 

「慰めでもなんでもなく実際に預言者さま(SAW)やその他アッラーに愛された方たちほど、みな苦境にあったのです」

 

と。さしたる内容を送ったわけではないのだがシャイフが送ってくれたこの言葉によって、それまでアッラーのお怒りと地獄への恐怖に縮こまっていた私に、まっすぐアッラーの方へ向かう強い光のようなものを感じた・・・。

そして、

 

「愛されているのか・・」

 

そう思うと涙があふれ、感謝するためにいったい何をすればいいのか、もっともっと知りたい、アッラーに近づいていきたい・・そう思うようになった。

悲しみの涙は感謝と謝罪の涙へと変わっていた。こうしてようやく信仰というすなわち「アッラーを想う」気持ちにたどり着いたのである。

 

「もう一度シャハーダしたい。」

 

そう思った私はエジプトでシャハーダするべく準備を始めた。なぜエジプトを選らんだか。もちろん始めに出会った動くムスリムはエジプト人だったし、

イスラーム法においてもエジプトのアズハル大学は私でさえ知っているほど有名だ。海外の宗教と思っていた家族や友人もいたため、そこでシャハダしたと言えば誰も文句ないだろう。それにアラビア語の証明証ももらえるのもちょっといいかな、というミーハーな考えもあった。

そうして一人でエジプトへ行き、アズハル大学で2度目のシャハーダをしたのである。行く前にほんの少しの間アラビア語を教えてくれたエジプト在住のエジプト人の先生が、そのすべてを助けてくれた。先生にとっても初めての証人ということで、私よりも緊張していたように思う。

そして、シャハダする前に、なぜイスラームを選んだのか?とイマームに聞かれた。

その時、最初の時と違い、多くの雑念がザザザザーーーと取り除かれていくのを感じた。それまでだったらあれこれ理由を説明しただろう。考えたのは数秒だったか・・。

 

英語だったが私ははっきりと、

 

「アッラー以外に私に全てを与えてくれる方はいないと分かったからです」

そう答えた。イマームはとても嬉しそうに

 

「スブハーナアッラー」

 

と言い、

「あなたはサーラという名前を希望していますね、サーラという意味を知っていますか?」

 

と聞いた。

 

「イブラーヒームの奥様の名前です。」

 

私がそう答えると、イマームは、

 

「そうです。そしてサーラには「幸せ」という意味があります。あなたの人生がこれからずっと幸せで恵まれたものでありますように」

 

この言葉を聞いた瞬間私は涙してしまった。なぜなら、私の名前は「幸恵」だったからだ。そう。自分で選んだと思っていた「サーラ」という名前は実はそうではなく、私が生まれた時私の父がつけてくれた名前であり、そしてそれは私が生まれる前からアッラーが私に選んでくださっていた名前だったのだと知った瞬間だった。

涙する私にこのことを聞いた先生もまた一緒に涙した。

 

「本当にアッラーはなんでもご存じだね。」

 

そう言いながら・・・

 

アルハムドリッラー。エジプトでシャハダ後の私は本当にすべてが変わった。やっと心底ムスリマになれた・・という喜びでいっぱいになれたのである。会う人会う人が「マブルーク(おめでとう!)」と喜びの言葉をかけてくれ、

私が買い物をするとお金を受け取ってくれない人もいたほどだった。あの地で感じた感動は今も鮮明に覚えている。

先生のお父様はサウジでイマームをされていた方だった。私の入信を聞き、すでに高齢で体調が思わしくなかったが、起き上がりベットに座ったまま、

 

「何かクルアーンは読めますか?」

 

と聞いた。とても恥ずかしかったがたどたどしくファーティハ章を読むと、とても優しく微笑んで、そっと先生に何かを手渡した。持ち運びがし易い小さなクルアーンだった。

先生のお母様はというと、それはもう私の息が止まるのではないかと思うほどに喜びながら抱擁し、その後私のために礼拝をささげてくれた。足が悪く椅子に座ったままの礼拝だったが、その礼拝はまさにアッラーへと向けられており、やり方ばかりにこだわっていた私のそれとはまったく違っていた。

 

これこそが礼拝なのか・・そう思わせてくれるすばらしい祈りだった。

 

こうして私は暖かな家族に囲まれて、本当に私は幸せだった。そして2週間という短い滞在中多くのモスクへ出向き礼拝した。

 

「日本に帰りたい。日本でイスラームを広めていきたい」

 

なぜかわからないが、礼拝するたびにその思いが強くなっていった。エジプトの料理も国も人々も大好きでたまらなかったが、そこに残るという選択は私の中にはなかった。

エジプトから帰国するまで全くといっていいほどトラブル一つなかった。

何事もスムーズで聞く人皆が驚くほどとても楽しいことばかりな人生初の一人旅だった。

これ以来、エジプトは私の第二の故郷となった。

 

それまでとちがい、恐怖に満ちていた物事が、しっかりとアッラーを見据え希望をもって感謝できるようになった。心からムスリムになれたという思いが、私の行いにニーヤを持たせてくれ、驚くほどに体調が回復し、仕事にも復帰、それから1年もしないうちに結婚もすることができた。

そして日本でイスラームを・・と望んだ私に、アッラーは日本人の夫を授けてくださった。住む場所は実家からずいぶんと離れてしまったが、結婚後ヒジャーブをし、仕事もイスラームの勉強もしながら夫と共にとても穏やかで楽しい日々を過ごしている。

もちろん病気が無くなったわけではないし今でも体調を崩すことは多々あるが、ムスリマになる以前のような先の見えぬ恐怖で眠れぬ夜を過ごすことは全くなくなった。

身体は苦痛を感じているのだが、むしろ不思議とその心の中は穏やかで、アッラーにズィクルできるという喜びで満たされるようになった。

あんなにイスラームについて猛反発していた両親も私の信仰を受け入れてくれつつある。

そして世界中に本当に多くの家族と思えるムスリム、ムスリマの兄弟姉妹たちと知り合い、日々助けられながら、その一員として共に祈れる喜びと共にウンマの力強さを感じている。

私が生まれてから忘れてしまっていたアッラーについて、こうしてやっと思い出し、感謝できるしもべとなれたことに2年たった今も心の底から喜び、感謝している。

アッラーのもとに帰り逝くその日まで、私がムスリムとして生き続けられますように。

 

全ての人たちにアッラーのお導きと祝福がありますように。

 

アーミーン。

ジャアファルさんの入信体験談

私 は仏教徒の家庭で育ち、21歳で新興宗教に入信し、27歳になる年にクリスチャンになり、病気になり、入院生 活を余儀なくされました。


 病院を退院してからはずっと教会の集会に行き、「ノンアルコールビールを飲んでいいか?」と聞いたら牧師先生に怒鳴られ、それに、集会に行ってい なかったので「行きなさい!!」と言われた事がありました。「日曜日が聖日」で自由がなく「押し付け」なような感じがして嫌気がさしていました。


 転機は3年前(2010年)に日曜礼拝の時にちょうど趣味のアマチュア無線の集会があるのでその集会に参加してから、教会に行かなくなり、たまたまクルアーンを読みたくなり、「イスラーム圏料理とイス ラーム文化の会」や

「イスラーム相談室」のあるイ スラーム組織の相談電話で相談するとカウンセラー(女性)が 「赤ちゃんにも罪があるのはおかしいでしょう」と言 いました。

2冊の小冊子をもらい、私は今でも病院に通っているので「病気療養中」と自己紹介していました。


 そして、代表の先生と東京のトルコレストランでランチを共にして私が「入信したい」と言ったら「主治医に相談しなさい」と言われました。それで、なぜ、「主治医に相談しなさい」と言うのかを相談電話に問いただしたら「外部の医師に相談して決めた事です。」と言われました。


新興宗教とクリスチャンは勧められて入信しましたが、イスラームは「自分の意志」で決めました。話を戻しますが、その事を主治医(女医)に話したら「そんなことは私が決める事ではないわ、自分で決めなさい。」と言われ、入信が許されました。その事を「相談電話」へ連絡して、その間は豚肉関連の物を口にしなくなり、イスラーム教のホームページで日本ムスリム協会の「聖クルアーン」を買って読み、サウジ アラビアの留学生とチャットで色々と相談し、メールで「入信一日前に沐浴しなさい。」と届きました。


 そうしているうちに、イスラム教のHPで地元のモスクで入信式直前に「研修合宿」の案内があり、即座に連絡し、それで、モスクの門をくぐり、チャ イ(お茶)をいただき授業を受けて、入信式の会場に行き、「シャハーダ(信仰告白)」して、イマームから「ジャアファル」というムスリムネームを もらいました。


 「礼拝用のじゅうたん類」 をいただき、病院の施設と障害者団体では礼拝が許されたのですが、出張販売で行った県庁で礼拝をしたら管財課の人に止められ、大変な思いをしました。又、主治医はラマダーン月のサウムは(薬を服用している理由で)「断食禁止」といわれ、クルアーンは読んでいます。毎月のモスクの「研修合宿」 が楽しみで、今は担当者が代わりましたが、サウジアラビアのカウンセラーとほぼ毎日30分色々と話し合っています。


 障害者団体では食事の配慮はしてもらえますが、病院の施設では配慮してもらえないです。食材を選ぶ時も原材料の部分を注意深く見て買っています。薬を飲んでいる関係で「研修合宿」以外の外泊は母から許してもらえないです。体調を崩す恐れがあり、現に、あるモスクで薬を飲み忘れて苦しい思いをした事があるからです。


 障害を持っていていますが、礼拝と ズィクルは欠かさず行い、カウンセラーとのチャットを終えたら床に就く生活を しています。

私のような障害者ですが、私の体験談とさせていただきます。

                                                           2012年8月4日投稿 


改宗記                                                                                           

東京都 ワルダ

ッサラームアライクム ワラフマトゥッラーヒ ワバラカートゥフ


私は北海道に生まれ、新潟県出身の高野山真言宗の敬虔な仏教徒である祖母に3歳まで育てられました。なので、4歳にして般若心経を暗唱していたのだそうです。

祖母は真言宗の開祖空海の事を崇拝していて、毎日空海の話を聞かされていたのですが、空海はとても立派なお坊さんだったんだろうなとは思うけど、真言宗を信じている人はたくさんいるのに、昔のお坊さんがどうやって死後自分を崇拝する人全員を助けるんだろう?と、なんか納得が行かず、モヤモヤしていました。


今は亡き私の母はアルコール依存性でした。

お酒を飲んでは私に暴力を振るい、「死ね!」と叫んで出刃庖丁を振り回して追いかけられる。

私は母の暴力を逃れて押入れや外の物置に隠れて眠りました。

ひどい時は、近所の公園で野宿しました。

「お前なんか要らなかったのに、なんで生まれてきたんだ!」と、毎日言われました。

「私は親に望まれない命なのに、なぜこの世に産まれてしまったのか」といつも思っていました。

中絶されるにしろ、生まれてから殺されるにしろ、どちらにしろ私は母に殺される運命だったんだと、子供の頃から人生を諦めていました。


ある日いつものように押入れに逃げ込んでいると、頭の上からバイブルが落ちてきました。

父が高校で世界史を教えていたのでその関係の書籍の一冊でしょう。

懐中電灯の光で照らしながら、創世記を読んで感動しました。

神が世界と全ての命をおつくりになったんだ、だから私は神様に作られたんだから、私はこの世に生きていていいんだ!と。

それは家庭の中で暴力の恐怖に怯えて暮らしていた私に与えられた、一筋の光のように思いました。

そして、私は家族に隠れてプロテスタントの教会に通い、洗礼を受けました。


ただ一つ心から納得出来なかったのが三位一体説。

しかし、私はとにかく自分が生きている理由が欲しかったから、藁にもすがる気持ちで教会に22年間通いました。

神様が私を作った!と信じなければ、母の私に対する心身への暴力を耐えられそうに無かったので。

その22年間の間に結婚し、母とも家を出てから20年かかって、やっと母に私が辛かった気持ちを伝えて和解し、その後も暴言があったりしたものの、心穏やかに母と話せるようになった頃、

遅くなりましたが結婚13年目にやっと一人娘が産まれて、私にとっては、実家の家庭内の内戦が終結し「藁にもすがる思いで信じていた」キリスト教の教えについて考える心の余裕が出て来ました。


ある日曜日の礼拝で教会に、アメリカのグリーンカードを持っていて、アメリカの大学でキリスト教神学を教えている日本人の先生がやって来て、スピーチをしました。

その先生はイスラームの事を「インチキ新興宗教」みたいな言い方をしました。また、クルアーンの事を「インチキ経典」みたいな言い方をしました。

イスラームに対するあまりのひどい言い方に、私はクリスチャンだったのにとても憤慨しました。


私の父は歴史の教師でしたから、家には歴史に関する書物がたくさんあり、それらを読んで育った私は、イスラーム帝国の中でどんなに医学や数学や天文学が発展したか、美しい文学もあったし、化学の基礎も作られたし、どんなにムスリムの学者達の研究が優秀だったかを知っています。

また、十字軍がエルサレムを占領した時にムスリムを皆殺しにしたけど、サラーフッディーンがエルサレムを占領した時はクリスチャンを殺さなかった事を知っています。

13世紀の神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世は、十字軍を率いて戦うようローマ教皇から命じられましたが、アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと勝手に平和条約を締結して、ハインリヒ2世は教皇から破門されてしまいました。


彼のイスラームに対する深い理解は「改宗してないサラセン人(ムスリムの事)」と揶揄されたぐらいだったそうです。

私はハインリヒ2世が大好きなので、彼のようでありたいと思っていました。

そして、教会にクリスチャンのイラン人女性がやって来ました。彼女ととても意気投合したので、私はイランという国の事を知りたいと思い、国教であるイスラームについて調べはじめました。

そして、日亜対訳クルアーンの「言え『彼はアッラー、唯一なるお方であられる。アッラーは自存されお産みなさらないし、御生れになられたのではない。彼に比べ得る、何ものもない』」というイフラース章にとても心を打たれました。


クリスチャンはイエス様を通してじゃないと神様につながれないと言う。

私はイラン人の友人と出会う前に、お腹の中の子供が亡くなってしまったという悲しい出来事があり、一生懸命祈ってたのですが、残念ながらあまり癒しを感じる事が出来ませんでした。

だけど、イスラームでは慈悲深いアッラーが直接私たちの事を赦し、癒してくださる。神様をすごく近くに感じた瞬間でした。

また、預言者様がお子様を次々に亡くされてとても悲しまれた事を知りました。

私はお腹の中で何人も子供に死なれで深い悲しみを感じているので、1400年の時を超えて、預言者様に親しみを感じました。

敵に迫害されても、お子様を次々に亡くされても、それでもアッラーの使徒としての使命を果たそうとされた。

もっと預言者様の事が知りたいと思いました。

それで、少しハディースを読みましたが、預言者様のお姿も知らないしお声も知らないけど、生き生きととても人間味にあふれたイメージが伝わって来ました。


ただ、私の中にはまだ「イスラームは男尊女卑だ」という偏見が根強くあって、改宗までは考えていませんでした。

そんなある時、ドバイに旅行する機会が与えられました。

外国人には義務付けられていないけど、アバーヤとヒジャブを日本で買って、現地で身につけていました。

アバーヤとヒジャブを身につけると、なんだか自分がとっても守られているように感じ、とても心地良く感じました。私はアバーヤとヒジャブが大好きになりました。


そして、驚いたのが夫と娘と一緒に地下鉄に乗ると、私が前に立つと、座っていた男性がさりげなく別の席に移ってくれたりして、私と娘が座れるようにしてくださるのです。

また、ショッピングモールでは、二カーブ姿の現地の女性が前をスタスタ歩いていて、ご主人が幼い子供達の面倒を見ながら、なんか疲れたような表情で奥さんの後ろをトボトボとついて行っているのです。

私は、アラブの男性はきっと威張っているに違いないと偏見を持っていたので、かなりのカルチャーショックでした。

イスラームは男尊女卑の宗教だという、私の中に根強かった偏見が一気に吹き飛んだ瞬間でした。


夕暮れの旧市街バスタキヤ地区を家族で歩いている時の事でした。

「あなたは日本のムスリムですか?」とガードマンのおじさんに聞かれました。

「まだ違います」と答えると、おじさんは

「私には分かるよ。あなたと私は同じ心を持っている。あなたはもうムスリムだよ!」

とにこやかに言いました。

その時、私の心にあたたかな灯りがともりました。「よし!シャハーダして改宗しよう!」

帰国してから、真剣に改宗について考えて調べました。

夫にもその考えを話しました。

しかし、夫はムスリムにはならないと言います。

私が改宗するためには離婚するしかないのか?でも、私にとって家族はとても大事だし、離婚はしたくない。

とても悩んで、イスラミックセンター・ジャパンに相談しました。

そうしたら、「離婚はしなくて良いです。それよりも、旦那さんを大事にして下さい。旦那さんは必ず変わります」と。

私は改宗出来るんだ!「ラーイラーハイッラッラー」って言って、これからの人生をアッラーに従って生きていけるんだ! アルハムドリッラー!とっても嬉しかったです。


そして、大好きだったお酒を飲まなくなりました。

アッラーが私を深い慈愛で包んでくださるから、お酒が無くても生きて行けるからです。

これには夫も驚きました。

母に似て私は大酒飲みだったからです。お酒飲むのは毎日ではなかったし、ベロンベロンになって奇行に走るような事はありませんでしたが、大きなストレスを感じるたびにお酒を飲んで心を麻痺させて耐えていたので、いつか私もアル中になってしまうのではないかと心配していました。

でも、もうその心配は無くなりました。

夫は「本当に変わったよね。ビックリした。改宗してもいいよ。でも俺は改宗しないけど。」と言いました。

インシャーアッラー、どうかアッラーが彼をイスラームに導いてくださいますように。


大事にすべき人は?と聞かれて預言者様が「あなたの母親である」と3回答えられた。

私の母は、お酒を飲んでは私に暴力を振るいましたし、私が流産して悲しんでいても、悲しみのどん底の私に暴言を吐いてまもなく病気で亡くなりましたが、私は母の弱さを赦そうと思いますし、「どうか母のした悪い事を数えず、良い事を数えて下さい」とドゥアーしています。

なぜなら、母もきっと好きでアル中になったのではないし、自分の子供を虐待してやろうと思って虐待していたわけではないと思うからです。

本当は、母も平和な家庭を作りたかったと思います。

それがとうとう叶わないまま亡くなって、とてもかわいそうだと思います。

そして、幼い頃の経験を通して、夜安心して寝床で眠れるって、毎日暴力に怯えずに済むって、それだけとても幸せな事だと知ったから、私の目は世界で戦争という究極の暴力に怯えている人々を見つめ、その苦しさに思いを馳せます。

なので、わずかなお金ですが家を追われた人々のためにUNHCRを支援しています。


2015年2月21日、私はシャハーダしてムスリマになりました。

生きてて良かった!と心から思いました。人生で最も幸せな瞬間の一つでした。

アルハムドリッラー!

改宗の2年前にお腹の子供が死んでしまって、その時は半年間毎日泣いて暮らしました。今でも妊婦さんや小さな赤ちゃんを見ると辛い気持ちになります。

でも、亡き子が来ていなかったら、私は改宗しなかっただろうなと思います。

どうしてかというと、悲しみのどん底にあって、心の底から「何かが違う。私は本当の救いを求めたい!」という気持ちが起こらないと、イスラームについて真剣に調べなかっただろうと思うからです。

辛かったけど、これもきっと私をイスラームに招いてくださった、アッラーのご計画なんだと思います。


今の私の夢は、インシャーアッラー、いつかハッジに行くことです。

そして、インシャーアッラー、今4歳の娘も良きムスリマとなり、夫も改宗して、結婚25周年には夫とニカーの結婚式が出来るようになる事です。

ムスリマになれて、私はとても幸せです。礼拝の時間を意識して生活していると、宇宙の中で地球が自転してる事を感じます。

礼拝でサジダしていると、宇宙の全てと一緒にアッラーにサジダしているように感じ、

アッラーが私の身近におられて、いつも慈愛に満ちて力強く守ってくださる事を感じます。

誰かを仲介に置かなくても、アッラーが私をいつも直接ご覧になっておられるし、深いご慈悲で守ってくださる。

どんなに辛い時も私はひとりぼっちじゃない。

今、私は人生で初めての深い平安な気持ちの中にあります。

アルハムドリッラー!

この喜びをお伝えしたく、改宗までの道のりをお話しさせていただきました。


兄弟姉妹の皆様にアッラーのご加護がありますように!

そして、アッラーからイスラームへ招かれている方々が、インシャーアッラー、ふさわしい時にこの素晴らしい平安へと導かれますように。


2015.3月