[現在、エントロピーとして認知されているのは、熱力学的エントロピーと情報エントロピーのみです。総合研究大学院大学時代に生物学的エントロピーと言う言葉を使ったときに、「無闇にエントロピーと言う言葉を使うべきではない」と厳しい忠告を受けたことがありました。その場面にいた東大比較文化の金子邦彦教授(当時)から、「ガチガチな還元主義者を相手に無意味な波紋を起こすことは避け、今のところは不可逆過程の指標ぐらいにして置いたらどうですか」という親切な忠告を頂きました。その当時は成る程と思い忠告に従っていたのですが、本HPでは時効と言うこともあり、啓蒙書として分かりやすさを優先して、厳密さは犠牲にして生物学的エントロピーと言う言葉をあえて使いたいと思います。熱力学的エントロピーと情報エントロピーを足したようなものという漠然と思っています。当時、吉川研一氏(京大教授)から、これをSoft Non-Equilibrium Thermodynamics として発展させようと言う提案があり、その積りになりました。しかし、何分小さな研究室で何もかも一人でやらなければならなかったので、準備をしているうちに定年になってしまいました。力不足です。Excuseをお許し下さい。]
総合研究大学院大学プロジェクト、新分野の開拓「生物における時間の意義」を担当していた頃、ミトコンドリアは単なるATP合成工場ではなく、例えば、多細胞動物の分化初期に、生殖細胞と体細胞に振り分ける機能を果たしていることを知りました。しかし近年は、ミトコンドリアはもっと多彩で多能であることを示す、様々なことが明らかにされています。そうした中、ATP合成の副産物であるフリーラジカルの攻撃を受けてダメージを受けても直ちに修復する仕組みを持っている、つまりミトコンドリアは老化しない、と言われるようになりました。ミトコンドリアにはある時期になって若返ると言う仕組みは必要がないということです。またミトコンドリアは核膜を覆っていることも明らかにされました。図8を御覧ください。この図からは、核に大量のATPを供給するばかりではなく、老化しないミトコンドリアが酸素やROS/RNSから核を守っているようにも見えます。更に、形態は我々が従来教科書で目にしてきた米粒のような形をしたものとはかけ離れています。細胞内のミトコンドリアは一個しかなく、細長い繊維のように自在に形を変え、ATPを必要としている部位へあたかも触手のように手を伸ばして(時には千切れたりして)ATPを届けている、と考えられるようになりました。
ミトコンドリアは、「個が確立した状態」のまま単に宿主にATPを供給すると言う共生ではなく、自身がその細胞の一部となり、細胞の生命維持に不可欠な機能を積極的に制御していると言う、単なる共生という概念を超越した、自身が作り出すATPを無駄なく消費してもらい、同時に産出してしまうことが避けられないフリーラジカル(改めて図9参照下さい)の脅威から細胞を守る、と言う2つの使命を果たしているように思います。いわば「河豚は食いたし命は惜しし」と言う二律背反的な役割を果たしていると言えます。皮肉なことに、この招かざるフリーラジカルとの付き合い方が、生物のその後の命運を決定することとなりました。上手な付き合い方を会得したものは生き残り、失敗したものは滅んで行きました。しかし、生き残っても、招かざる客に常に生存を脅かされる事態は少しも変わりません、常により良い付き合い方を模索しなければなりませんでした。そして運良く模索に成功したもの(たどり着くべくしてたどり着いたもの)には輝かしい未来が約束されることになりました。(総合研究大学院大学で我々は、生体は多くの要素が複雑に絡まったシステムと捉えて、上述したことの基盤となったものは、非平衡熱力学で議論されるシステム全体の極小エントロピー生成(や工学で言う最適値)のようなもので、生物の時間軸の底流を貫いている一方向にしか進まない生物における時間の矢の本質である、との議論を続けしました。本HPはその纏め直しということです)。
ゾウリムの行動の概日リズムを測定実験中、無心に動き回るゾウリムシを眺めていると、しばしばそこに動物の行動の真髄が詰まっているとの思いに駆られることがありました。昼は動き回って餌をかき集め、夜になると行動が鈍くなり、結果的に大勢仲間がいる所に集まります。そこで自身が性的に成熟していれば同じく成熟した相補的な相手(異性)と接合(生殖)をして若返る(次世代が始まる)からです。動物の一日の行動の縮図を見る思いでした。
餌となるバクテリアは昼も夜もほぼ同じように分布している筈です。それでも真昼に最も活発に動き回り、夜になると鈍くなって真夜中では寝ているように見えます(前頁「一匹のゾウリムシも昼速く夜遅い」で見た通りです)。本HP「時間軸上における繊毛の意義」の頁で述べたように、光を受容すると繊毛膜は過分極になって、繊毛打が速く打つようになりますが、それでも最も速く泳ぐのは真昼の時間帯です。決して、光が当たった瞬間から一様に速くなる訳ではありません。体内時計が体内の生理現象を制御しているからです。昼間は沢山餌をかき集めることに専念し、夜はそれらを消化することに専念します。沢山かき集めればいいというわけではありません。沢山かき集めて消化すればするほど、有害なフリーラジラルを多く放出してしまいます。エネルギーとフリーラジカル放出の最適なバランスが重要です。そこには、たどり着くべくしてたどり着いた生物としての必然がある筈です。それが極小エントロピー生成と言う訳です。このことについて次回はもう少し掘り下げて考えたいと思います。
[このHPを計画してからもう2年も経ってしまいました。その間の小生自身の生物学的時間の進行が甚だしく、この分では始め思っていたことを全部網羅することは不可能であると思うようになってきました。出来るだけ早く上記した「生物学的エントロピー」についての記述を始めたいと思います。ただ総合研究大学院大学時代に話をしていたことを大分忘れているのではないかと危惧をしています。]