時間軸上における繊毛の意義
単細胞から多細胞までの繊毛の多彩な機能
ATPが供給され続ける限りゾウリムシは何時間でも泳ぎ続けこるとができることは記述した通りです。しかし、日常生活では、“犬も歩けば棒に当たる、ゾウリムシも障害物に当たる”と言うことが起こります。ゾウリムシなどを食べる天敵に襲われることもあります。そのようなことに遭遇しても、ゾウリムシは上手くやり過ごしています。障害物に突き当たれば泳ぐ方向を変え、後ろから天敵に襲われたときは急に速度を上げて逃げれば良いわけです。状況に応じて、図1に示すような、回避反応と言われる障害物に突き当った時に方向変換をする反応と後ろから天敵などに襲われたとき逃走反応と言われるの反応とで行動を決定すような機能が備わっているからです。回避反応とは、前に向かって泳いでいるときに障害物に突き当たると、後退しながら速度を緩め、やがて静止し、その場所でクルクルと体を回転させた後、別の方向に向かって再び前に動き出す行動反応です。逃走反応とは、デデニウムなどの天敵にお尻に噛みつかれた場合などに、スッと速度を速めて、前の方に一目散に逃げ出す行動反応です。[すべての動物の行動は、見かけは多少異なりますが、この二つの行動反応で決められると言うことです。]
図1.ゾウリムシの反応行動
A)通常の左螺線を描きながら前進する遊泳行動。B)障害物等に衝突したときの回避反応。C)天敵に襲われたときなどの逃走反応。 Nation & Sugimoto, 1984, を基に手直ししました。
そんなことができるのは、繊毛に、ATPが供給されて泳ぎ回るための動力発生装置だけではなく、外界からの物理的・化学的な刺激をキャッチして生物的な信号に変換する、情報処理装置も備わっているからです。体から突き出ていて、泳いでいる最中に真っ先に障害物や天敵に触れるので、アンテナとしての役割を担うのに最適であると言えます。繊毛は、細長く、表面積/容積比が大きいため、外部からの信号をキャッチする受容器を沢山配置することが出来ます。また、キャッチした外部信号を生物学的信号への変換に関与する分子群を狭い空間に高密度で集約できるため、生物学的信号に効率良く変換できます[しかも、最初の刺激から変換過程が進むにつれて関与する分子群の数がカスケード的に増大し、弱い刺激でもハッキリした信号に増幅できるようになっています]。繊毛は、動物として最も重要な機能である動力装置と情報処理装置とを担うのに、最適な構造であるといえます。ゾウリムシは、そんな繊毛を約1,000本も持っており、時々刻々変化する環境の中で上手な対応が出来る最も進化した原生動物(単細胞動物)であると言われています。
時折ゾウリムシは、個体にとって好ましい場所は他の個体にとっても好ましい場所であるため、集団を形成することがあります(図2)。これには、好ましい環境を自分達で更に好ましい場所に変えると言う効果があります。
図2.様々なゾウリムシ集団
B) 20mMのMgCl2の領域を負の化学走性(negative chemotaxis)で個体を避けている様子。この領域はゾウリムシには好ましくない領域だからです。A)、B)、はW. J. Van Wagtendonk 編、PARAMECIUM A current Survey、Elsevier、1974、Dryle著、S. P.189及びP.190より。
C) ゾウリムシの接合(生殖行動)前に見られる凝集塊。環太平洋大学、大学紀要、次世代教育学部教育経営学科、平松 茂著、
(ゾウリムにとって好ましいこととは何かが重要です。その時の最適な行動を決定するもので、ゾウリムに備わったidentityの問題です。本HPの重要なテーマの一つです。)
こういう事情は、ゾウリムに限らず全ての原生動物に当てはまります。集団でいる方が、個体がばらばらで生きるよりも有利な場合があり、その時は積極的に集団を形成します。集団が形成されると、例えば、集団の縁(へり)と真ん中では細胞を取り巻く環境が異なると言うことが生じます。そうした環境の違いは、繊毛の情報処理系を介して遺伝子発現系に伝達されます。その結果、均質な細胞集団であっても、細胞毎に遺伝子発現の仕方に不均一が生じます。集団形成が長時間に及ぶと、このような不均一は常態化し、やがて集団としての無駄を省くため、不必要な遺伝子部分は発現しないように抑制されるようになります。分化の始まりです。このような経緯で多細胞動物が誕生したと考えられます(ゾウリムシにはこう言うことが起こらないような遺伝的な仕組みが備わっていると思います)。
研究室の一年先輩に当たる宮田 隆 博士によると、カイメンの中に、海中を単独で動いている立襟鞭毛虫に非常に似た細胞群があることから、立襟鞭毛虫が群体(colony)を形成している内に、群体が再生出来るように、自己複製ができる「幹細胞」と、できない「非幹細胞」へと、分化が起こり、最も原始的な多細胞動物のカイメンが誕生した、と考えられるとのことです。(立襟鞭毛虫とカイメンの関係については、宮田隆の進化の話、生命誌研究館、古い遺伝子を使って新しい形を作る:カンブリア爆発と遺伝子の多様性:http://www.brh.co.jp/research/ formerlab/miyata/を参照下さい。生物誌ジャーナル、カイメンの幹細胞から見る多細胞化の始まり、船山典子、2011, 70号: http://brh.co.jp/seimeishi/journal/070/reseach_1.html、も参照下さい)。実際、カイメン中の襟細胞は、水流を作り出してカイメンに新鮮な海水と栄養分を届ける特定の機能を担うように分化しいるにもかかわらず、幹細胞としての性質も持っている(即ち、カイメンのすべての細胞になり得る)とのことです(図3)。カイメンを機械的にバラバラして放置しておくと、元のカイメンに戻ることは古くから知られておりました。一方、多細胞動物にしか存在しないと思われていた、チロシンキナーゼ(PTK: 蛋白質リン酸化酵素。多細胞生物で、細胞の分化,増殖、接着、あるいは免疫反応などに関わるシグナル伝達に関与する)やチロシンポスファターゼ(PTP:蛋白質脱リン酸化酵素。細胞の増殖、分化、接着、移動、癌化、神経系の維持など多細胞動物でPTKの逆機能を行う酵素)などの遺伝子が、立襟鞭毛虫に多数発見されたとのことです。宮田博士は、多細胞動物が持っている細胞間情報伝達遺伝子や形態形成遺伝子は単細胞の立襟鞭毛虫にかなり存在していたと思わざるを得ないと言っておられます。
図3
.立襟鞭毛虫とカイメン
ここで一言
ゾウリムシに関して、電気生理学的な研究が盛んに行われました。ゾウリムシに機械的な刺激を加えると神経細胞と同じようにな膜電位が発生します(下左図)。そのため、ゾウリムシは“動く神経細胞”と言われています。またゾウリムシを細胞膜と繊毛だけにしたモデルにCa2+を投与すると、(ある濃度以上になると)モデルの繊毛打の向きが反転します(下右図)。これらの結果は、ゾウリムは、細胞表面を素早く広がる電気現象で1,000本もの繊毛打の頻度と向きを制御しながら、動き回ることを示しています。このゾウリムシの行動を制御する電気生理学的な仕組みは、現存する多細胞動物の感覚細胞や神経に共有されています(下で詳しく記述します)。従って、多細胞動物の感覚受容や神経制御に携わる役者は、まず単細胞動物の行動を制御するのに登場し、それらが進化の時間軸に沿ってそっくり多細胞動物に受け継がれてきた、と言えると思います。即ち、動物として命を全うする上で不可欠な神経活動の最低限の機能は原生動物の時代に既に完成していた、と言う主張です。
左図: ロッシェル塩の「電気→機械エネルギー変換器」を使って、ゾウリムシに機械的な刺激を加えて記録された活動電位を示します。(A)は頭部、(B)は尾部に機械的刺激を加えたときの活動電位です。[Naitoh & Eckert, Science, 164, 963(1969)より)]。頭部に刺激を加えると、(刺激が加えられないときは約-30mVの静止膜電位になっている)ゾウリムシの膜電位は、(刺激の大きさに応じて、+側に変化する)脱分極電位を発生します。尾部を刺激すると、(-側に更に深くなる)過分極電位を発生します。上記図1と合わせて考えると、ゾウリムは、頭部に機械的な刺激が加えられると脱分極を起こして後退し、尾部に機械的な刺激が加えられると過分極電位を発生して前向きの速度を速める、と言うことが出来ます。 右図:ゾウリムシを洗剤(TritonX-100)を薄めた液に浸して細胞表面膜だけにした(核や細胞質等を取り除き、細胞膜に繊毛だけにした)Triton-モデルをATPとCa2+を添加した溶液に浸すと、中身がなくなって動くことができない筈のTriton-モデルが動き出すことを示しています。Ca2+濃度を増やしていくと、Triton-モデルは次第に速度を下げ、10-6mol以上になるとバックするようになります。Ca2+によって繊毛打の方向が逆転することを示しています。[Naithh & Kaneko, Science 176, 523 (1972)より]。
単細胞動物は時に集団(colony)を形成することがあります。それが常態化し、(カイメンで言われているように、)集団の中での役割分担が遺伝的に固定(分化)されて多細胞動物が誕生したと考えられます。その過程で、繊毛のセンサーとしての機能が多細胞動物の感覚器細胞へ、また細胞表面を活動電位が伝搬する仕組みが神経へ、と進化したことが考えられます。私が大学院に入学した頃既に、視細胞、聴覚細胞、嗅細胞、味蕾、等の多細胞動物の感覚受容器すべてに繊毛構造が見られることから、多細胞動物の感覚細胞は、単細胞動物の繊毛から進化したのではかと言われいました。近年に至り、感覚細胞のみならず脳内神経細胞の中にも繊毛があることが分かりました(図4)。この図から、多細胞動物の進化の過程で、外部からの信号の種類によってその信号を効率良くキャッチするために形態を変えてきた、繊毛がたどってきた壮大なドラマを想像して下さい。
図4.繊毛から進化した多細胞動物の感覚器官と神経細胞
外部からの信号を効率良くキャッチするためには、形態を進化させたばかりではありません。キャッチした外部からの物理信号を細胞内で生物学的信号(=電気信号)に変換する過程で、過程が進むにつれて関与する分子群の数をカスケード的に増大させる仕組みも進化させました。その例を下の図(図5)で、視細胞と嗅細胞について見てみましょう。
図5.視細胞及び嗅細胞の細胞内シグナルカスケード(図の上をクリックすると拡大されます)
生きている細胞では、絶えず(固有のチャンネルを通して)細胞外からNa+やCa2+等の陽イオンが流入し、細胞内からは主にK+が流出しています。それらをイオンポンプが汲み出したり汲み入れたりして、細胞内のイオン濃度を一定に保っています。その時の細胞膜内外の電位差も一定に保たれているため、静止膜電位と言われます。実際は、絶えず図に示すような暗電流と言われる電流が流れています。このような状態の時に、感覚細胞が外部からの光や臭いなどのシグナル分子(リガント)をキャッチすると、細胞内の情報伝達経路(シグナルカスケート)が活性化されて活動電位が発生し、その電気信号が脳に伝達されます。このシグナルカスケードの基本的な仕組みの前半部分、即ち、①受容蛋白質(G蛋白質共役型受容体または細胞膜を7回貫通する構造になっているため7回膜貫通型受容体などと言われます)が光を吸収したりリガントが結合したりすると活性化されて、②(GDPが結合して不活性型になっている)G蛋白質(GDP-GTP交換反応で活性化され、下流のcAMP合成酵素やcGMP分解酵素の活性を促進する)を活性化する、ところまでは、すべての感覚細胞で共通しています。後半部分の、 ③活性化されたG蛋白質は、視細胞ではcGMP分解酵素のフォスポヂエステラーゼ(PDE)を、視細胞以外ではcAMP合成酵素のアデニル酸シクラーゼ(AC)を、活性化して活動電位を発生するところが違っています。改めてそれぞれのシグナルカスケードの全体像を見てみましょう。(上図)視細胞におけるシグナルカスケード。 視細胞に、光(フォトン)が入射すると、「①光受容蛋白質(ロドプシンと言われています)→②G蛋白(視細胞ではトランスジューシンと呼ばれています)→③PDE」、と連鎖反応が起こり、活性化されたPDEによって1~10万個ものcGMPが分解されます。細胞内のcGMPが減少するので、(cGMPが結合すると開く)cGMP依存性イオンチャンネルが次々と閉じて行きます。その結果、外部から流入する陽イオンが減少します。この間もイオンポンプは働いているので、陽イオンが減り、陰イオンの比率が多くなって、過分極性活動電位が発生します。これが神経を介して脳で光として認識されるための、光シグナルトランスダクションの仕組みです。(下図)嗅覚細胞におけるシグナルカスケード。1個のリガント(匂い分子)が嗅覚受容蛋白質に結合すると「①嗅覚受容体 → ②G蛋白 → ③AC」と連鎖反応が続き、活性化されたACによって約2万個のcAMPが合成されます。その結果、多くの cAMP依存性イオンチャンネルが開き、流入する陽イオンが増大して、脱分極性膜電位が発生します。それが神経を介して脳で匂いが知覚されるための、シグナルトランスダクションの仕組みです。理化学研究所、プレスリリース(研究成果) 2013:www.riken.jp/2013 /20130807_3 及び上記大森らの細胞工学の論文を基に改変。
更に一言
長い永い繊毛の道
図4で示した感覚細胞の中で、キャッチした外部信号を生物学的信号として過分極電位を発生させるのは視細胞だけです。他は全て脱分極電位です。では何故視細胞で過分極が採用されたのでしょうか。
そのヒントはゾウリムシの行動を制御する活動電位に見られような気がします。上で示した内藤先生達の、ゾウリムシの頭部を刺激したときに生ずる脱分極性活動電位と下部を刺激したきに生ずる過分極性活動電位とを、刺激を加えた時点を揃えて重ね合わせて見ます。すると過分極の方が2割程速くピークが現れることが分かります(右図)。電気生理学的には、天敵から素速く逃れるには過分極の方が有利であると言えます。ぼやぼやしていると天敵に食べられてしまいます。少しでも速い反応が良いに決まっています。多細胞動物では、例えば野球の選手では、時速165Kmもの速さで飛んでくるボールを瞬間的に見定めて、打ち返すことが要求されます。恋敵をやっつけるにも素早い動きが必要です。この場合、活動電位だけではなく、脳や筋肉等の総合的な処理能力が重要であることは申すまでもありませんが、情報処理の初
期段階で過分極の方が有利であることに変わりはありません。視細胞では、刺激が無いときは、(cGMPが結合して)開いている陽イオンチャンネルが多く、常に陽イオンが細胞内に流入しています。しかしそれ等は絶えずイオンポンプで細胞外に汲み出されていて、静止膜電位が保たれています。感覚細胞が外部刺激をキャッチしたときに、細胞膜の内外の間で図5で記述した仕組みで過分極電位が発生します。これはトランジスターのスイッチング機能に似ていると言えます。トランジスターは、常に電圧が掛けられていて、刺激が与えられた時に電流を遮断する仕掛けになっています。一方真空管では、刺激があったときに電流を流してカソードを熱して電子を飛び出させるようになっています。トランジスターの方が速い応答を示すことはよく知られています。速い反応が要求される多細胞動物の視細胞では、真空管方式よりも、トランジスター方式の方が有利であることは明らかです。
一方、嗅覚などは視細胞ほど早い反は必要ありません。刺激を受容したときにcAMP合成を開始してイオンチャンネルを開き、イオン電流を流す、いわゆる真空管方式で充分なのです。ゾウリムシは、障害物に衝突したらゆっくりと方向変換をすれば良い訳です。しかし天敵に遭遇したときはそうはいきません。以上のことから、動物の感覚受容から活動電位を発生するまでの二つのカスケードの枠組みは、ゾウリムシなどの原生動物時代に繊毛のセンサーの中に確立されていた、といえるのではないでしょうか。多細胞動物になって、ゾウリムの素速い応答を引き出す仕組みが多細胞動物の視細胞で採用され、寸刻を争う必要のない他の感覚細胞にはゾウリムの脱分極を生み出す仕組みが取り入れられてきた、と言えると思います。この進化の絶妙さには唯々脱帽するのみです。信号の種類毎にキャッチするのに最適な形に変えて来たことにも驚嘆に値することは無論ですが。
[ゾウリムシを見ていると、実に上手な行動をするなー、と感心することがあります。動物の行動は速度と方向変換の頻度で記述することができると言われています。動物行動のこの二つの要素は、ゾウリムシなどの原生動物時代の繊毛のセンサーに既に備わっていたと言うことができると思います。そう考えると、二つの仕組み(繊毛の脱分極と過分極)で制御されるゾウリムシの行動に動物行動の本質は尽きているのではないか、と思います。]
二つのイラストは無料サイトより引用しました。但し香りのイラストは、http://www.city.sanjo.niigata.jpから転用したと記載されているものを複写しました。
繊毛の進化は上記した感覚器だけではありません。(放射光源加速器に加えて二次元画像を何枚も重ね合わせるコンピュータトモグラフ技術を利用するようになった)最新の電子顕微鏡の登場によって、ほとんどの脊椎動物の細胞には、“9+2”構造を保持し運動性を担う二次繊毛(運動性繊毛)と“9+0”構造となり運動性を失った一次繊毛(非運動性一次繊毛)とがあり且つそれらが思いもよらない多彩な機能を発揮していることが判ったのです。二次繊毛では、細胞の運動を司る精子鞭毛や気管支での繊毛等はご存じの通りですが、輸卵管上皮細胞や脳室等で外液の流動を担っていること、さらに驚くべきことに脊椎動物の初期胚似にあって臓器の左右非対称性の形成にも関係している、こと等も明らかにされました。一方運動性を失った一次繊毛に関しては、上記した外からの情報をキャッチする感覚受容器に加え、発生時に自分の周りからの信号をキャッチして情報処理する役割も担っていることが明らかにされました。尿細管上皮では尿の流量センサー、脳の形態形成や機能発現、更には動物の発生期の神経管、四肢・体節のパターニング、そして細胞分化、細胞増殖、細胞極性の確立、など様々な機能を担っていることも報告されるに至っています。その上それ等の異常がヒトの幅広い病変の原因となることも判ってきました(以上のことは、武田洋幸・廣野雅文監修、「動くだけではない!?繊毛の多彩な機能」、細胞工学、28(10), 2009、を参考にしました。恐らく最近はもっと多才な機能が明らかになっていると思います)。
一個の受精卵から激しく分裂している胚発生期の細胞でも、一個の細胞として完結している訳ですから、繊毛のセンサー機能がフル回転していることは当然です。急速に変化する自己の周りの状況を捉えて生物学的信号に変換して遺伝子発現系に伝達し、それを受けて遺伝子発現系は、その信号を基に、胚細胞に定められた運命に沿った予定調和(なるべくしてなる)の臓器や器官に細胞を仕上げていくと言う訳です。[卵には極性があり、卵の頭部から派生した娘細胞は将来成体の頭部の一部になって行き、尻部から派生した娘細胞は尻部分の臓器・器官になっていきます。娘細胞の細胞質中に蛋白質や小器官(ミトコンドリア、小胞体、ゴルジ体等)の分布が不均一だからです。不均一な蛋白質や小器官と発現中の遺伝子との相互作用により、娘細胞の運命が決められる訳です。]
個体として誕生した後も、繊毛は、外部環境からの情報をキャッチして今現在自分が置かれている状況を認識し、その時々の最善の策を編みだす上でも重要な役割を果たしています(例えば、多細胞の体内では、睡眠中2~3時間間隔で脳下垂体前葉から分泌される成長ホルモンが骨細胞や筋肉細胞の骨の伸長や筋肉の成長を促す際に、繊毛がホルモンを受容するアンテナとして活躍しています)。以上のことは、ゾウリムシや立襟鞭毛虫からカイメンやヒトまでの多様な動物が誕生してきた、進化の時間軸上で繊毛が一貫して重要な役割を果たしてきたことを物語っています。特に、ダイニンは、太古の昔から(全ての動物で)構造が変わらないで保存されてきたと言われています。時間軸の根底で時に状況に応じて、より有利な種を派生 (diverse)させ、確立(establish) させ、持続(sustain) させ、活けとし活けるものにとっての不変な基盤(common)として機能し続けてきたと思います 。[遺伝子がその時々の状況に応じて発現を選択する際の背景には、最も理にかなった論理があるのではないかと思います。それは無駄のない選択をすると言うことです。そのことを明確にすることが本HPの目的の一つです。]
以上、繊毛に対するATPの脱リン酸化が繊毛打の動力源であることを、前回の「ゾウリムシの動力装置」のページの補足として、思いつくままに(思い込み激しく)書いてみました。
前頁の冒頭に書きましたが、多くの教科書には、ATPは生命活動にとっての貨幣のようなものでる、と言われてきました。しかし私自身は、長い間ATPの加水分解と蛋白質の活性化の関係について具体的なイメージが湧かないままでしたので、自分なりに納得がいくように纏めることにしました。煎じ詰めれば、ATPの加水分解で解離した(電子を引きつける力の強い)PiとADPによって蛋白質の電子状態が変化し、それに基づいて蛋白質が変化する、そして蛋白質の構造変化が様々な生物活動の源である、ことです。またゾウリムシの行動について、その機構について簡単に纏めるつもりで、繊毛の分子生物学的研究の最新事情を調べたところ、モーター蛋白としてのダイニンの構造は太古の昔から殆ど変わらないこと、繊毛のセンサーとしての基本的な仕組みが人体も含み多細胞動物の中で当時は思いもよらなかった多彩な機能を発揮していること、それらの異常が人体の様々な疾患の原因となっていること、等を知りました。繊毛は、進化の時間軸上を自身の基本的な仕組みは変えずに真核生物の多様性を生み出し続けてきた、太古と今をつなぐ長い永い生命のひもであることに感銘し、つい深みに填まってしまいました。
A)視細胞:分化の際に繊毛から伸長して外節が形成され、その中に約1,000個もの扁平なディスク膜が積み重ねられ、さらにその一つ一つには104〜5個もの視物質であるロドプシン蛋白質が積み込まれています。ロドプシンがphoton(光量子)1個を受容すると構造変化を起こし、それが引き金になって下流にあるシグナルカスケード(情報伝達に関与する分子の連鎖)が活性化され、視細胞が過分極(静止膜電位よりさらにマイナス電位になる)を起こし、この活動電位が神経を介して脳に伝達され、光を受容したことが認識されます。B)内耳の有毛細胞:外耳、内耳を経由して内耳蝸牛に到達した音の刺激は、蝸牛に2層に分かれた満たされているリンパ液(外リンパ液と内リンパ液)を振動させます。それにつれて内リンパ液層に突き出ている繊毛(動毛)が振動します。内リンパ液は高濃度(150mM)のK+で満たされており、リンパ液が振動すると動毛にK+が流入して、(+イオンが増大するため繊毛が脱分極します。それが聴覚の信号として脳に伝達されます。C)嗅細胞:鼻腔内の嗅上皮で鼻腔表面に繊毛を広げている嗅細胞が、臭の原因となる分子をキャッチすると繊毛内のシグナルカスケードが活性化され、繊毛が脱分極を起こし、臭いの信号として脳(嗅球)に伝達されます。D)神経細胞:殆どの中枢神経ニューロン(神経細胞)には長さ5-10μmの繊毛があり、細胞の外部にあるリガンド(信号の基となる分子)が受容蛋白に結合すると、シグナルカスケードが活性化されてニューロン膜が脱分極を起こし、非シナプス性の神経伝達が行われます[シナプスとは神経と神経(或いは筋細胞など)の接触部位のことで、化学伝達物質が遣り取りされて信号が伝搬されるところ]。細胞工学、28(10)、網膜の視細胞における繊毛蛋白質の輸送機構と疾患、大森義裕、古川貴久、P.1037 (2009)より。