はじめに
地球の1日の長さの変遷
下図は上図の緑線で囲った部分の拡大図
Abe, et al, Proc. 30th Intern. Geol. Congr. 26. 1-26
左の文は、鴨長明の「方丈記」の有名な書き出しの一節です。神官への任官の夢が絶たれ、55歳のころ京都から奥深い日野に方丈の庵を結んで、この世のはかなさと無情を書き表したものと言われています。長明が生きた時代は、平安から鎌倉へ移行し、また平安末期の「五大災厄」といわれる、大火、辻風(竜巻)、遷都、飢饉、大地震,等が起こった激動の時代でした。この一節には、消えては生まれる命のはかなさを移ろう時間の無情とみる、長明の深遠な時間に対する考えを汲み取ることができます。今までに幾度もどうすることもできない自然の猛威に晒されてきた日本人が心の奥底で共感して受け継いできた、時間に対する想いでもあると思います。一方向にしか流れない川の流れを時間の矢に、消えては生まれる泡(うたかた)を命の矢に喩えると、現代科学(非平衡系)の時間の概念に通じる先見的な考えであると言えると思います。
生物は自らが自然の法則に従う存在です。24時間周期で自転する地球上で日々時を刻みつつ、しかし一方では、過酷な自然が命ずるままに、時には自らの身を変えるなど、様々な工夫を凝らして、一方向にしか進まない時間の矢に沿って今日までたどり着いてきました。
私は、北里大学大学院医療研究科でゾウリム及び線虫を使って体内時計の研究を行ってきました。また、1999年から2004年の5年間、総合研究大学院大学・グループ研究「新分野の開拓」の「生体における時間秩序発現機構」班で、「生体のエントロピー蓄積遅延機構と自己組織化」をキーワードに生物における単純から複雑への時間の矢についての討論を重ねました。そこでこのHPでは、まずゾウリムシ集団がムクドリやヒトと同じように、昼セッセと働き夜は静かに休むことを示し、次いで、24時間周期で体内時計が刻む時間と、老化しやがて死に至るしかし新しい命が再生するという一方向にしか進まない、生物における時間の意義についてシリーズで考えていきたいと思います。
体内時計の研究は、1997年に時計遺伝子群が発見されて以来、分子生物学的研究が急速な進歩を遂げました。時計遺伝子異常と疾病との関連や時間薬理学等、臨床への応用の進歩にも目を見張るものがあります。しかし私には、限られた時計遺伝子群がフードバック機構を形成し、主体的な存在として多くの生理現象を牽引している、という少数の要素に還元する考え方に違和感を持っておりました。蛋白質合成には、必要量に達したら合成を停止する調節機能が備わっています。これらの多くはフィードバック機構です。問題は、これらのフィードバック機構が何故~24時間なのか、24時間という通常の生化学反応から考えると途方もなく長い周期現象を限られた生化学物質群のフードバックで説明できるのか、と言うことです。
一方、地球の自転周期は、例えば、シアノバクテリアが誕生した32億年前頃は約15時間(左図参照)、カンブリア紀の5.5億年前は約21時間、と徐々に遅くなって現在の24時間に至っています。生物は、その時々の一日の中で、無駄なく生きてきたはずです。そこで私は、生物が一日無駄なく生きることを熱力学で言うエントロピーのようなものの最も小さい状態(=完全性: integrity)に擬えて、生物の一日の生理機能を総合的(interactive)に理解しようと考えておりました。また一日が長くなれば、一日として獲得できるエネルギー(元を質せば太陽の光です)が増えることになります。そのことと生物の完全性との関係にも関心を持っていました。そのような折り、総合研究大学院大学の「複雑系」をキーワートとした上記グループ研究で、生物学の立場からの問題提起が依頼されたので、時間生物学者及び非平衡開放形熱力学研究者に声を掛け、また集まってきた他の様々な分野で複雑系科学を推進している方々と共に、生物が無駄なく生きるという総合的生命論とも言うべきテーマについて5年間に亘り討論し続けました。
その要旨を簡単に纏めますと、
① ミトコンドリアでのATP合成に付随して必ず産生されるフリーラジカル(NOXやHO*など)が遺伝子に損傷(エラー)を起こす。遺伝子中に蓄積されるエラーの増大が、生命力低下、寿命の短縮や突然変異、等の要因となります。そのため生物は、遺伝子中に蓄積されるエラーを極力少なくするために様々な機能を進化させてきました。生物の中にその痕跡を多く見ることができます(具体例は後で詳しく説明します)、
② 遺伝子の中に不可逆的に蓄積されるエラーを、生物の完全性を崩壊させる(不可逆性の)指標と見なして、生物学的エントロピーと定義し、生物が無駄を少なくすることを、非平衡開放形熱力学的な極小エントロピー生成と対比して考える、そして、
③ 利用できる物質とエネルギーがあれば自己増殖し続ける生物は、エントロピーが増大する方向にしか進まない時間の矢の制約の中で、様々な工夫を凝らしながら、エントロピー生成を極力少なくする生命の矢を突き進んできた、
と言うことです。これらのことを順次シリーズとして詳しく説明して参ります。総合研究大学院大学の上記グループ研究を推進するに当たって、安易にエントロピーと言うことを使うべきではないと言う忠告を受けました。無論、ここで主張する生物学的エントロピーを熱力学エントロピーと同じように使うと言うことでは決してなく、あくまでも既に成功を収めた概念を思考の発展や理論構築の参考にしようと言うものです。
この挿話に記したようなソフト場での自己組織するダイナミカルシステムの理解の足掛かりを求めるために、総合研究大学院大学で、北原和夫氏(東京工業大学→国際基督教大学教授、日本物理学会会長)、吉川研一氏(名古屋大学→京都大学教授)、佐藤哲也(核融合科学研究所教授→地球シミュレーターセンタ長)、山口智彦(産業総合技術研究所主任研究員)及び湯川哲行(総合研究大学院大学教授)等(所属は全て当時)を中心に多くの方々に集まって戴き、生物学的エントロピーを基盤とする‟soft non-equilibrium thermodynamics” を構築しようと研究会を重ねました。明確な形として纏める前に定年になってしまいましたので、本HPシリーズを通して、生物学や生物物理学を志す若い方々が更に発展させてくれることを願って、我々が話し合ってきたことを理解して貰う努力をして行きたいと思います。
これから書こうと思っていることは、自身の研究成果や多くの人々と議論したことの基にしていきますが、記憶が曖昧であったり、間違って記憶していたことが多々あると思います。可能な限り調べ直すことに努めますが、それでも勘違いや見逃しは避けられないと思います。老化と戦っている最中ですので、少々のことは大目に見てください。言い訳をしておきます。
ここで、このシリーズを公表するに当たり、研究を推進するに当たって惜しみなく協力してくれた方々、活発に議論に参加して頂いた方々及び陰日向で支援してくれた多くの方々に感謝いたします。折に触れそのような方々の名前を付して行きたいと思います。取り分け、研究当初から二人三脚に近い形で研究用電子機器製作を担当してくれた、元北里大学大学院医療研究科准教授・田仲舘明博氏に心から感謝致します。氏は癌に見舞われ壮絶な闘病の末人生を全うされました。共に人生を歩んだ分身としてここに氏の冥福を祈りつつ、氏と一緒のつもりで本シリーズを公表し続けて行きたいと思います。
次回は、ゾウリムシも人と同じく、昼間せっせと歩きまわり、夜になると仲間が集って休み、時には愛(?)を育む、ことを解説したいと思います。