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さあ、一歩前へ

止まっていた時計の針を始動させる時が来た。いつも聴いている朝日新聞ポットキャストで富名越隆さんが「一歩前へ」を

雨の思い出

3月も半ばに差し掛かり、春の兆しを感じることはありつつも、いまだ冬の寒さが続いている。ダウンコートを手放すには、もう少しの辛抱が必要である。それでも、この冬の寒さは、終わってしまうのが残念に思えるくらい、私にとっては、いとおしい時間であった。今日も雨の帰り道に、そんなことを考えていた。

晴れていると「いい天気」、英語では「beautiful weather」。でも、「weather」には風雨を耐え忍ぶ、というニュアンスもあって、どちらかといえば、強い雨風のイメージが伴う。ちょうど、今日の帰り道のように。

何もない平穏な日常だけでなく、困難を伴う時間や空間を共有することが、記憶に深く、刻まれることがある。いやおうなく降る雨は、それを受け入れるしかない私たちの無力さを、思い知らされる一つの体験となる。それを共有できたことは、かけがえのない静かな輝きをもって、心の中に刻まれる。

古い建物が醸し出す風合い(weathered)が心に迫るのは、そんな風雨を想起させるからだろうか。決して知ることのない自分以外の領域を想像し、思いを馳せる。雨には、そんな不思議な魅力がある。

(2024.3.12)

雪の日に思う

雪国で生まれ育った私は、雪がたまらなく好きである。その冷酷さ、残忍さ、あらがえない不条理もすべて飲み込んだうえで、それでも、雪が降ると、心がどこか別の世界に誘われるように、ただ雪のことだけを思ってしまう。日が暮れ始める頃、しんしんと降り積もる雪が、連なる屋根を白く淡い光で包み込んでいく風景を眺めながら、10年前の2月の、雪の日のことがふと心に蘇る。

Nさんは研究室の先輩で、明るい笑顔が印象的な人だった。正直、あまり直接的な接点はなかったが、いつか親身になって話せるときがくるといいな、と漠然と憧れていたのかも知れない。おおらかで、茶目っ気があって、学生からも慕われていただろう。本当は真面目で繊細で神経質な人、と聞いたこともあったが、人は見かけによらないものである。

熱心に卒論の指導していた最中に、急に倒れ込んだようである。そのまま、別の世界にいってしまった。そのときNさんは50歳だったから、私はもうその歳を追い越してしまったことになる。自分に置き換えて考えてみると、まだまだやりたいことは沢山あったはずで、もし、死の直前に意識があったならば、さぞかし無念であっただろう。そう思うのは私の邪念であろうか。

いつか終わるとわかっていても、生きることに情熱を燃やしてしまうのはなぜか。すべてが無に帰すとわかっていても、つい目の前のことを追いかけてしまう。そんな自分の、大いなる無駄な努力と、その小ささと、無力さを、束の間の白い世界が静かに覆い隠していく。この雪が融けた頃、再び笑うことができるだろうか。

(2024.2.5)

なぜ、何を保存するか?

建築の保存と活用について日々、考える中で、常に自問していることがある。保存と活用の「なぜ」である。活用については単純で、既にあるものを使わないのは「もったいない」からである。これは特に説明は不要であろう。その一方で、保存については、これが案外難しい。建築は本質的に、そもそも保存を目的につくられるものではないからである。

人間の生活を支えるためにつくられる建築は、時が流れ、生活のスタイルや使う人が変われば当然、変化する。物質としての建築も時間とともに風蝕し、劣化し、やがて崩壊するのが自然である。建築を保存することは、それ自体が時間の流れに抗う「不自然な行為」ではないだろうか。延命や再生のための治療も、その尊厳に関わる重大な問題であろう。

建築保存の難しさは、こうした時間への抵抗、自然への抵抗に加えて、人間の忘却の希求への抵抗という側面も大きい。ひとりの人生のなかにも、集団としての社会にとっても、過去の出来事は、その全てが良かったものとは限らない。忘れたい記憶は、物証を抹消することで忘却する方が精神的安定を得やすい。断捨離という言葉が流行したように、過去を捨てて身軽になりたい現代人は多いのではないだろうか。

かくいう私も、重荷を抱えて生きるよりも、いつも身軽でいたい。自由でいたい。そういう気持ちで生きている。だが、私たちはいつも過去からしか学べない。変わり続ける時間の中で、何一つ変わらないものがあることを、芭蕉は東北の荒れ果てた歌枕をめぐる旅を通して歌に残した。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」。ここに、私にとっての保存のヒントがあると思う。

先週、久しぶりにお会いした恩師に「保存とは愛惜だよ」と言われ、改めてそんなことを考えた。その翌日に、高岡に小さな空き家を購入した。ささやかでも、私にとっては初めての一歩である。

(2023.11.5)

石ころ談話

日本には「石ころ」という言葉がある。ドラえもんの道具にも「石ころ帽子」というものがあった。山本有三『路傍の石』などを考えても、日本人にとって「石ころ」とは概して、目立たず、誰にも気づかれない存在で、つまらないもの、取り立てて価値のないもの、といったような意味をもつのではないだろうか。

神社の祠の扉を開いたら、中に「石ころ」があった。これは福沢諭吉や柳田國男のエピソードなどで有名な話で、民間の中にある「迷信」に対して、どのように向き合ったか、という姿勢の違いとして語られることも多い。つまり、日本が近代化を目指していた時代に、古くから残る民間信仰に対して、「石ころ」が鎮座する祠を、それを知らずに祭りを行う民衆の愚かさと笑うのか、あるいは、民俗的な研究対象として興味をもつのか、といった違いである。

ところで、この「石」について、世界に目を向けると、全く異なる印象がある。古代エジプトの神殿がなぜ石で造られたか。同じく古代ギリシャでも、木造建築のかたちをわざわざ石造で表現した神殿が、「石」という材料の特別さ、神聖さを物語っている。中国ではお経を石に刻んで洞窟の中に保管したというから、石には時間を超えて形を記憶し続ける「永久保存記録媒体」としての役割があったに違いない。

一方で、阿部謹也「石をめぐる中世の人々ー西洋世界の石の伝承」読んでいると、ヨーロッパでは日本のように家の中に自然石を飾っていることは大変少ない、とある。しかしこれが「石に対して無関心」なのではなく、反対に、「石というものがヨーロッパの古代、中世の文化のなかであまりに大きな意味をもっていたために手軽に石を扱えなくなっているのではないか」と述べられていることが、大変に面白い。

「石の中には無限の力が隠されているという考えはすでに古代世界以来中・近世にいたるまで広く信じられており」、と同書には、石をめぐるさまざまな事例が挙げられている。これを読むと、石は、ときに病気を治癒したり、心を快活にしたり、魔術や占いに用いられたり、奇蹟を起こしたり・・・、人間にとっては底知れぬ謎の存在であったことがうかがえ、死との関連も深いことがわかる。

では、このような石と人間との関係が、ヨーロッパにはあって日本にはないかといえば、やはりあるのだろう、と思う。だからこそ、宝石でも隕石でも巨石でも奇岩でもない、なんでもない小さな石を「石ころ」と呼ぶのだろう。福沢や柳田が見つけた祠の石は、どこにでもある、ごく普通の石だった。それは石に無限の期待があるからこそ、という、無意識の前提と偏見があったから、なのかも知れない。

(2023.3.5)

コルビュジェの建築

先週末に実施された大学入学共通テスト2023国語の第1問として、ル・コルビュジェの建築が取りあげらていた。柏木博『視覚の生命力  ー イメージの復権』呉谷充利『ル・コルビュジェと近代絵画  ー  二〇世紀モダニズムの道程』の抜粋からの出題で、後者にはサヴォア邸の写真も掲載されている。普段から建築のことばかり考えている身としては、こうした試験を通じて全国の高校生や諸先生がコルビュジェの建築を知ってくださると思うと、とても嬉しい。問題文を読み、出題した側も受けた側も苦労しただろうと想像したが、建築的な観点からは正直、物足りなさも感じてしまう。

「視覚装置」としての窓と壁の構成、「動かぬ視点」からの風景の切り取り、どちらも異論はないし、その通りだと思う。しかし、「横長の窓」が西洋建築史において、なぜ革新的であったか。コルビュジェがここで挑戦していたものとは何か。その最も大事な核心の部分が、ここには言及されていないと思う。

私はコルビュジェの専門家でもないし、西洋近代建築の専門家でもない。それなので、これはあくまでも一般論だが、サヴォア邸のデザインを見てみて欲しい。この窓は、単に壁をくりぬいたものではなく、壁の端から端まで、限りなくぎりぎりまで水平にのび、一枚の壁を上下にわかつものである。そしてこの壁もまた、地面から柱で高く持ち上げられた、四角い白い箱の一面をなしており、ここでも建築(箱)は地面から軽々と切り離されている。

建築とは、重力の中で成立する構造体である。西洋建築における従来の窓とは、屋根の荷重を地面に伝える壁に穿たれるもので、重力の流れを考えると、その形は縦長でしかあり得なかった。しかしコルビュジェは、そのデザインで重力からの解放を、そして同時に従来の常識からの解放を、力強いメッセージとして提示した。空中に浮いたシンプルな四角い箱を上下にわかつ「横長の窓」は、その上部を浮かせて見せる効果を狙ったことが明らかに見てとれる。

同じように、子規にとっての「ガラス障子」も、日本の住宅史の中で捉えると、さらにその重要な意味が見えてくる。現代の目や頭ではなく、歴史的な視点で考えること。4月に新入生を迎えたら、改めてこの問題について話し合う時間を作ってみたい。

(2023.1.17)

ポットキャストの収録

学内研修でお会いしたグローバル学部日本語コミュニケーション学科の神吉宇一先生とのおしゃべりを収録して、ポットキャストで配信しました。前職で知り合った中島満香さんが準備から録音、編集、配信まで全てを行なってくださり、タイトルも中島さんが「インクルーシブカフェ(仮)」と名付けてくれました。こちらはただ気楽におしゃべりするだけ、というつもりが、いざ話してみると頭の回転が追いつかずしどろもどろ、聞いてみると自分の相槌の「うんうん」がとてもうるさく耳障りで、話し方も非常にスローペース。これは訓練が必要だと痛感しました・・・お聞き苦しい点、ご容赦ください。

これから定期的に色々な人とのおしゃべりの輪を広げていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

(2022.12.22)

様式の名前

どんな文脈だったかは忘れたが、食事中の会話で次男が「建築の呼び方って『悪口』から来ているのは面白いよね」といい、その後、「ロマネスク」や「ゴシック」などの話題で盛り上がった。『悪口』かどうかはともかく、確かに「ロマネスク(ローマ風の)」には「古く荒廃した」というニュアンスがあったり、「ゴシック(ゴート人の)」には「野蛮・未開」といった侮蔑的な意味が込められているそうで、もちろん「ルネサンス」など中立的な(?)呼称もあるが、「マニエリスム(マンネリズム)」や「バロック(いびつな真珠に由来)」、近代絵画の「印象派」など、同様の例は幾つも思いつく。同時代の蔑称や皮肉が、次第に一般的な呼称として定着し、そのうち当初のニュアンスは失われて、「正式な様式の名前」として伝えられていくというのは、面白い現象だと思う。

そこで改めて建築の様式の名前について考えてみたが、地名地域名、王名や王朝名、代表的な建築の名前などが多く、必ずしも侮蔑的なものばかりではない、と思う。おそらく、それらは同時代の呼び名ではなく、後世になってから学術的な意図で、分類と体系化のため名付けられたものであろう。そして日本の寺院建築の場合は、『悪口』どころか、大陸からもたらされた新しい様式に、むしろ憧れをもって、「唐様」や「天竺様」と呼んだのではなかったか。

建築に限らず、何かの物事が一定のスタイルとして広まり、定着していく現象と、これを様式として名付け、理解していくことの背後に、さまざまな人間の思いが見え隠れする。歴史は言葉とともに作られるものだが、西洋建築史と日本建築史における「様式の名前」の違いについても、改めて考えてみたいと思った。

(2022.11.23)

わが心の建築

朝日新聞朝刊の「声」欄で「わが心の建築」という特集があり(11.6〜7)、しみじみと読んだ。投稿者の大半は高齢者で(10の記事のうち、20代・30代・40代がそれぞれ1、70代が6、90代が1)、子供の頃に住んでいた長屋や茅葺きの家、遊び場だった庭や通学路、駅舎、建設や解体の現場に立ち会った思い出、建築を通じた出会いなど、どれもが「私的な体験」として、個人の記憶に深く刻まれていることがわかる。

「私たちは建築なしで記憶することはできない(we cannot remember without her [architecture])」とはラスキンの言葉だが、実際に自分自身を振り返っても、古い記憶の多くは建築を伴っている。もちろん、自然の風景だけの記憶もあるが、生活の大半は建築とともにあった。自己形成の場所の記憶は、おそらく脳内の奥底に埋め込まれていて、たとえば夢の中にも繰り返し登場する。

ただ、不思議なのは、いつも夢の中「だけ」に登場する建築もあることで、これが自身の体験に基づくものか、そうでないのか、判断することができない。ときどき(定期的に)夢の中に出てくる、あの家は何だろうか。どこかで見たり、体験したものを、脳内で繋ぎ合わせて再現しているのだろうか。それは広い家で、使っていなかった(忘れていた)部屋を発見して、「こんなところに、こんな部屋があった!」「この部屋を、どう使おう?」と考える、というパターンで、出てくる家の構成や部屋も、だいたい決まっている。これが一体何なのか、いずれわかる日が来るのだろうか。

歳を重ねて、70代くらいになったとき、どんな建築を心に思い描くだろうかと、今から楽しみに思う。それはたぶん、その時には失われてしまっていて、心の中だけに生きている建築ではないかな、と想像する。そう思うと、心の建築とは、現実世界を超えて存在する建築のことで、これが一体どういう意味なのかを、また折りをみて考えてみたいと思う。

(2022.11.9)


学問としての「建築史」について

建築史研究室のHPを立ち上げるにあたり、最初に書いておかなければならないことは、学問としての「建築史」に対して、自分自身がこれまでどのように向き合ってきたか、そして今後、どのように向き合っていくつもりかという抱負である。

今から30年前の大学進学にあたり、なぜ建築学科を選んだか、ということを改めて自分に問うてみても、特に強い意志やこだわりがあったわけではなく、偶然という要素が大きかったと思う。デッサンの授業があること、また、西洋では建築は技術と芸術(アート)の頂点に立つことを知り、漠然と憧れた。しかし大学では、実践的な学びよりも、「建築とは何か」といった哲学的な問いが多く、未熟ゆえに戸惑うことも多かった。

建築とは何か。建築を知るためには、まず、その歴史を知らなければならない。身の回りの建築がすべて過去につくられたものと気づいたこと、内包された時間の蓄積を紐解くことで「現在地」を確認しなければ、未来の建築はつくれないと考えたこと。そんな単純な理由で、しかし直感的に建築史を選んでから、語らない「モノ」に向き合い、その背後にある「存在の理由」を考えてきた。

博士課程に入り直した2004年から、今までの20年間を振り返ると、世界が大きく変化していると思う一方で、もっと昔から変わらないものが確かに存在する。建築に向き合うことは、時空を超えた見知らぬ人間との対話であり、当時の空気や「世界」との対話である。目に見えない、モノやカタチになる前の、精神や理想(アイデア)との出会いを通じて、互いに影響し合う関係性や想像(創造)の世界に光をあて、未来への道筋を見出していくことが、建築史学の使命ではないだろうか。

2022.11.7)