人口と世界

グローバルサウスの動向

移民なき時代、世界で人材争奪

人口と世界 新常識の足音(1)

人口と世界

2021年12月5日 11:00 [有料会員限定]

ホモ・サピエンスが誕生の地アフリカから移住を始めた「出アフリカ」から約6万年。新天地を求める移民は増え続け、経済発展の礎になった。しかし少子高齢化で若者の人口は発展途上国でも近く先細りする。移民が来ない時代は間近に迫る。

高所得者にビザ、消費と定住期待

世界で「移民」争奪戦の足音が聞こえ始めた。アラブ首長国連邦(UAE)が3月に創設を発表したのは、外国企業にオンライン勤務する人が対象の「リモートワークビザ(査証)」。海外企業に雇用され月給3500ドル(約40万円)以上の人に1年間居住を認める。

UAE内の企業で働かなくても「稼ぐ人材」に滞在を許可する。エストニアなども同様のビザを創設した。経済協力開発機構(OECD)は「『デジタルノマド(遊牧民)』向けのビザで技術革新の中心になろうとする国が相次いでいる」と指摘する。

稼ぐ移民は国内で良い消費者となり経済を回す。将来は地元社会に根付いて国に貢献してもらえるかもしれない。移民=低賃金労働者という発想はもはやない。

移民争奪はコロナ禍の一時的現象ではない。少子化が世界で加速し、20世紀に世界人口を4倍にした人口爆発は近く終わる。今世紀半ば以降にも人口は減り始めるとみられる。インドの15~29歳人口は2025年がピーク。中国も今後30年で約2割減り、働き手が世界で枯渇する。

母国の外で暮らす人は20年に2億8千万人。多くが職を求め富める国へ移り住んだ。英国は50年に人口が9%増える予測だが、移民なしでは0.3%減。カナダも同21%増から4.4%減と、人口を維持できない。

コロナ禍による国境封鎖は移民が減る未来を先取りした。コロナ前は移民の純流入数が年間24万人だったオーストラリア。入国制限で人口増加率は0.1%と前年度の1.3%から急落した。

資源産業のほか看護師や介護士、調理師も人手不足だ。放置すれば移民は他国に流れかねない。15日から技能移民の受け入れ再開に踏み切る。

安易な移民依存から脱却を図る国もある。移民が人口比3割弱のニュージーランド(NZ)。特産品のキウイは熟し具合から収穫時期を一つ一つ見極める必要があるが「作業を低賃金労働者に頼り、機械化に足踏みしてきた」(NZ経済調査研究所のピーター・ウィルソン氏)。NZ労働者の時間当たり生産額はOECD平均を20%下回る。

NZの果樹農園で働くサモアからの労働者(NZME/Warren Buckland)

NZ政府は5月、移民政策をゼロから見直す「移民リセット」を宣言。低賃金労働者の入国を制限し高スキル人材を重視する方針を打ち出した。

日本はどうか。外国人労働者は20年までの10年間で65万人から172万人に増えたが、全労働者の約2%にとどまる。年間数千人が失踪する技能実習制度には人権侵害との批判も根強い。政府は在留資格「特定技能」について熟練者の長期就労や家族帯同が可能な分野を広げる方向で調整するものの、外国人から選ばれる国にならなければ労働者不足は補えない。

優秀な人材採用、国外からリモート勤務

移民が来なくても、デジタル時代には国境を越えた働き方がある。

10月下旬の朝、インド在住のジャラク・チョウダリさん(22)は自宅でパソコンを開き、会社のシステムにログインした。名門インド工科大を卒業したばかりの彼女が働くのは日本のITベンチャー「ディバータ」(東京・新宿)。「国境の壁を取り払わなければ今後は優秀な人材を獲得できない」(加藤健太社長)

日本のITベンチャーに就職したインド在住のジャラク・チョウダリさん

ジャラクさんの周りには韓国サムスン電子や米アメリカン・エキスプレスに遠隔勤務する友人もいる。パソナグループはリモートで働く海外人材を日本企業に紹介するサービスを始めた。

「スキルがあればどの国で働くか選べるようになった」。国際政治学者のパラグ・カンナ氏は指摘する。「人口が減る国は市場が縮む。若者を獲得する国は革新的でダイナミックでいられる」

摩擦を乗り越えて多様な人材と共生し、成長を引き出す社会に変われるか。覚悟が問われる。

人口増加が当たり前の時代には戻れない。「人口と世界」第2部は人口減社会の新常識を追う。


≪01≫  ヴィタ・アクティーヴァ。ハンナ・アレントが本書で提供するコンセプトである。「活動的生活」と訳す。

≪02≫  アレントは人間のもっている活動力を一つと見なかった。少なくとも3つ、広げれば4つの活動があると見た。労働(labor)、仕事(work)、活動(action)、それに思考(thought)である。こんな分類をしてアレントがどうしたかったというと、真の政治参加を呼びかけた。この政治参加は選挙に行くとかオンブズマンになるということではない。サルトルが重視したアンガージュマンでもない。かつて古代ギリシアに展開されていた”公共の生活”というものを新たに再生したいというのである。

≪03≫  これが難しい。何が難しいかというと、古代ギリシアにおける公共概念がわかりにくい。

≪04≫  そもそも古代ギリシアにはカオスとコスモスがあるのだが、カオスが自然で、コスモスが人工なのである。まず、それがわからなければダメである。

≪04≫  そもそも古代ギリシアにはカオスとコスモスがあるのだが、カオスが自然で、コスモスが人工なのである。まず、それがわからなければダメである。

≪06≫  ああ、そうか、と単純に納得してはいけない。ポリスは明るい地上性に富んでいるところだが、オイコスは暗い地下世界とみなされた。このことを説明すると長くなるので省くことにするが、オイコスはアジア的で未開拓な、土地に根付いた野蛮なものとみなされたせいだった。

≪07≫  そこでオイコスの代表(家長)がポリスをつくるメンバーになるという制度をつくった。これをノモス(制度)という。ということは、ポリスはオイコスという経済的な下部組織をもとにできあがった地上の楽園であるということになる。

≪08≫  このようにノモスが正当にはたらいたとき、このポリスを「公」とみなしたのである。逆に、オイコスは「私」だった。英語で私的性をあらわすプライベートという言葉は、ラテン語の”privatio”から来ているが、これはもともと「公が欠如している」という意味なのである。

≪09≫  一方、ポリス的なるものはラテン語の”publica”などをへて、英語のパブリックになった。そこから「公表する」という意味のパブリッシュ(出版)や、リパブリック(共和制)という言葉が生まれた。

≪010≫  このように、古代ギリシアの公共生活とは、オイコス(エコノミー)から出て公共領域に入るということだったのである。

≪011≫  アレントはこれらの考え方の根底に流れるものに注目し、そうしたギリシア的公共性を取り戻すべきだと考えた。アレントの見方では、そうしたものはすでに近代の国民国家の確立とともになくなってしまっていたからだ。

≪012≫  では、どうしたら新たな”公共の生活”をつくることができるのか。どうすれば、そのような公共領域で人々の労働・活動・仕事・思考が開放されるのか。 そこにこそアレントの考える「人間の条件」が問われた。

≪013≫  アレントの両親は典型的なユダヤの知識人で、ナチス制圧下の社会主義者でもあった。

≪014≫  そんな境遇に育ったアレントは、マールブルク大学でハイデガーやブルトマンに学び、ハイデルベルク大学ではヤスパースに、フライブルク大学ではフッサールに学んだ。これだけ哲人が並ぶと、それだけで惧れをなしたくなるが、1928年の学位論文が「アウグスティヌスにおける愛の概念」だから、ここはアレントっぽくなっている。

≪015≫  1933年、アレントはドイツからパリへ亡命する。亡命とは何か。国家を捨てた人間になることである。しかし、国を捨てようとアレントがユダヤ人であることは変わりない。アレントはパリでシオニストとかかわって、若いユダヤ人たちをパレスチナに移住させるための社会活動に携わった。

≪016≫  これは他者の中にひそむ「国家なき人間」のための活動である。アレントはそうした自分の活動に意欲を燃やし、「国家なき人間」とは近代国家システムが犯したものから離脱して、新たな何かに出ていくことをあらわしているのではないかと考えた。そうだとすれば、それは新たな公共性への第一歩ではないか。

≪017≫  しかし、ことはそう簡単ではない。アレントの移住者への支援は難渋する。そのうえアレントはナチスのパリ進攻とともに捕らえられ、強制収容所に放りこまれた。

≪018≫  そこでどんな体験があったのか、アレントはなかなか語らない。語ろうとはしない。おそらくはかなりの屈辱を体験したのだろうものの、それを沈黙の奥に秘め、アレントは戦後になって今度は自分自身がアメリカに移住して「国家なき人間」になっていった。そのような時期のアレントについて、師のヤスパースが『哲学的自伝』のなかで次のように書いていた。「アレントは法の保証を失って生国から放り出され、国籍喪失という非人間的状態に委ねられた場合の、われわれの生存の基本的恐怖をいやというほど知りつくしたにちがいない」。

≪019≫  自身が体験したであろう基本的恐怖を告白するのではなく、アレントはそのような恐怖を突破すめための政治哲学の樹立に向かっていった。その内容はシモーヌ・ヴェイユとは異なるものだが、その姿勢はヴェイユに連なるものがある。

≪020≫  ハンナ・アレントの思想の骨格は、世界の危機をどう救うかという点にある。 そのために、世界がどのような危機に見舞われているかをあきらかにする。ぼくが読んできたかぎりの知見でいうと、アレントが指摘する世界危機は5つほどにまたがる。いずれも20世紀の特質だとされる。

≪021≫ 
(1)戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機。 (2)大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機。 
(3)消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとする「保存の意志を失った人間生活」の危機。 
(4)世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえれば、世界そのものからも疎外されているという世界疎外の危機。 
(5)人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっているという危機。

≪022≫  これらの5つの危機を突破するために、アレントは「労働」「仕事」「活動」、およびそれらの源泉となる「思考」を原点に戻しなさい、それが「人間の条件」なのではないか、私はそう思うと問うたのである。

≪023≫  それがヴィタ・アクティーヴァという概念にもなった。

≪024≫  ここで「労働」というのは、原材料以外に買い物をせずに人間が何かを生み出すための労働をいう。できれば野菜を作りたい、そうでなくとも野菜を入手したらその先は自分で料理をしたい、わかりやすくいえばそういうことである。何でも買えるとおもいなさんなということだ。

≪025≫  「仕事」は、自分の考えを自分で生み出すことをいう。言葉でも絵画でもよいが、自分が時間をかけたことが世界に何らかのはたらきかけになることをいう。いわゆるホモ・ファーベル(工作人間)として仕事に徹することである。「活動」は自分がそのことにかかわっていることが何らかのかたちで外部化されていくことをいう。

≪026≫  アレントは笛吹きの例をあげて、笛を吹いているあいだだけが活動であるような、そのような活動をもっと徹底して自身の体で認識すべきだと言っている。

≪027≫  正直なところをいうと、このようなアレントの説明はかなり古っぽい。あるいは言うまでもないことをくだくだと説明しているようにも見える。カントもマルクスもハバーマスもこんなことはとっくにお見通しだった。そうも、思える。

≪028≫  それにもかかわらず、アレントを読むと何かのラディカルなリズムが胸を衝いてくるのを禁じえない。真剣であるからだろうか。それもある。目をそらしていないからだろうか。それもある。こんなに定形のない「公」というものにこだわった哲人もいなかった。そういうこともあるだろう。

≪029≫  が、ぼくが最も感じるラディカルは、アレントが「発生」を凝視し、その「発生」の再現を確信しきっているという点にある。そこなのだ。そのこと自体がアレントのヴィタ・アクティーヴァなのである。

≪030≫  その発生とは「公の発生」ということである。2500年前にギリシアに芽生えたことだ。アレントはその”遠い発生”を信じたがゆえに、その”近い再生”を恃んだ。そして、そのことを確信することがあらゆる人間活動の最も根本的な条件になると考えた。

≪031≫  世界中がG7のようなぬるま湯でお茶を濁している現在、20世紀の最後の政治哲学者としてのハンナ・アレントを繙く者は跡を断つまい。

≪032≫  追伸。ハンナ・アレントをNPOの先駆者とか、NPOの哲人として片付けるのは、よしたほうがいい。アレントはNPOは容易に結実しないということをこそ訴えているからだ。

≪033≫ 参考¶ハンナ・アレント(ハナ・アーレントとも表記)の著作は、順に『革命について』(合同出版社)、『イエルサレムのアイヒマン』(みすず書房)、本書、『過去と未来の間で』(歴史の意味・文化の危機・合同出版社)、『暴力論』(中央公論社)、『暗い時代の人々』(河出書房新社)、『全体主義の起原』(みすず書房)、『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局)、『パーリアとしてのユダヤ人』(未来社)というふうに日本語訳されてきて、だいたい出揃った。

≪01≫  世界は戦争の歴史である。戦争が世界をつくり、世界は戦争と暴力で成立してきた。世界は味方と敵に力をねじこまないかぎり成立できなかったのである。

≪02≫  戦争には憎悪や軽蔑が伴うこともあるが、実際に勝敗を決めるのは取引と駆引と差引である。戦争は相手をこてんぱんに打倒することなのに、そのプロセスの多くが頻繁な取引と巧妙な駆引と功利的な差引で埋まっている。

≪03≫  むろん軍事兵器と兵力がものを言う。かつては鉄砲があれば勝てたし、機関銃や戦車は戦争の様相を変えた。けれども核兵器や化学兵器をもっているからといって、これは使えない。戦場は限定されるのだ。限定される戦場は、第三者が見守るサッカーのピッチや野球のグラウンドや格闘技のリングのようなものではない。どこが戦場になるかは、ほぼわからない。おまけに戦場にはレフェリーはいない。「降参」だけがゲームオーバーの合図なのだ。しかしそこに到るまでに、勝敗の推移は次々に変わり、そのため敵国地か自国地かによって、ロジスティクスが大きく動く。

≪04≫  戦争には鉄の規律と地獄の訓練と、強靭な意志が必要だが、戦争の全容は不確実性と蓋然性との闘いなのである。攻めるところ、引くところ、占拠しつづけるところ、放棄するところはまちまちだ。飢えや寒暖とも闘わなければならない。軍事力が圧倒的なほうが勝つとはかぎらないことは、ベトナム戦争が証した。

≪05≫  こんなにリスクが多様にばらまかれていて、勝敗の「読み」は容易に成り立ちがたいのに、戦争は全歴史で必ずおこり、そのつど勝者と敗者を天地に引き裂いてきたのである。

≪06≫  こんなことだから、戦史や戦記はともかくも、理想的な戦争戦略論など、あるわけがない。それでも戦争論は、ビジネスマンが戦国武将の作戦に惹かれるように、どんな国でも読まれ続けてきたのだった。

≪07≫  いまの日本では何が読まれているのだろうか。リデル゠ハートの大著『戦略論』(原書房)やジョン・キーガンの『戦略の歴史』(上下・中公文庫)なのか、いまもってウィンストン・チャーチルの第二次世界大戦論なのか、あるいは松井茂の軍事学講座? 

≪08≫  ぼくが思うには、歴史的な戦争論は二つの記念碑的な労作に挟まれたままにある。カール・フォン・クラウゼヴィッツの古典的な『戦争論』とロジェ・カイヨワの新機軸の『戦争論』である。二つの戦争論のあいだに読みたい戦争論があるはずだが、そういうものはまだ世の中に生まれていない。

≪09≫  ただし二つの戦争論を同じように読むことはできない。カイヨワの戦争論は社会生物学あるいは遊びの哲学のように読むべきで、社会学者カイヨワの『本能』や『反対称』などとの併読はいくらあってもいいが、そこにカイヨワその人の人生を投影する必要はない。しかしクラウゼヴィッツを読むということは、戦争のプロフェッショナルを究めたクラウゼヴィッツその人の人生を、ドイツ人の宿命とナポレオンの時代とともに読むことなのである。

≪010≫  クラウゼヴィッツは一七八〇年のプロイセン王国のマグデブルクに生まれている。少年期にプロイセン軍に入ったのち、対ナポレオン戦争で皇太子アウグストの副官になった。ところが一八〇六年のイエーナの会戦でドイツ・プロイセンは決定的な敗北を喫し、皇太子ともども捕虜にさえなった。この屈辱が『戦争論』を書かせた。そういえばよくありがちな話に聞こえるが、そうではない。

≪011≫  クラウゼヴィッツが捕虜になっているあいだに考えたことは、フリードリヒ大王以来の歴史と栄光に輝くプロイセン(プロシア)軍が「雑兵でかためたとおぼしいナポレオン軍」に完敗したのはなぜなのか、いったい何がプロイセン軍の敗因であったのかという疑問だったのである。そこに「プロイセン軍」というイデアが生きていることがクラウゼヴィッツを読む鍵になる。

≪012≫  プロイセン軍とはどういうものか。だいたいプロイセンという国は何かというと、実はドイツではない。ドイツにはプロイセンという地方はない。すべての話はそこから始まる。

≪013≫  プロイセンはもともとは十世紀後半に神聖ローマ帝国が出現したときに、スラブ人の侵略に対するドイツ側の防壁として東北部に設置されたブランデンブルク辺境伯州が起源である。そこにブランデンブルク辺境伯が誕生し、一三五六年に選帝侯も登場した。

≪014≫  やがて十五世紀のコンスタンツ宗教会議の席上で、辺境伯と選帝侯の位がニュールンベルク城主のフリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルンに授与される。それがひとつのルーツになった。ただし、ここにはまだプロイセンという名称はない。

≪015≫  もうひとつの起源はドイツ騎士団にある。一二七八年に長きにわたった十字軍の活動が終わり、聖地エルサレムの防衛に活躍したドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝から功績を称えられて、バルト海東岸でヴィスワ河の東の領地を贈られた。これがプロイセンの発現となった。

≪016≫  ところがドイツ騎士団はそのころ東欧中部から勢力拡張を試みていたポーランド王国とぶつかるようになり、一四一〇年のタンネンベルクの戦いで敗れてしまう。このとき領土プロイセンの西半分が奪われる。そこでホーエンツォレルン家の支流の一族にあたるアルブレヒトが騎士団長となって、なんとか確立を急ぎ、一五二五年にプロイセン公が生まれたのだった。それでもまだ、このときのプロイセン公はポーランド王の承認を必要とした。すなわちポーランド王国が宗主国だった。

≪017≫  以上の二つのプロイセンのルーツはホーエンツォレルン家によって交じっていく。ここまでが前史にあたる。

≪018≫  次のステージは三十年戦争である。一六一八年のベーメン(ボヘミア)のプロテスタント反乱を発端に、ドイツのさまざまなキリスト教の新旧両派の内乱に各国の介入が入り乱れて、戦乱は一六四八年のウェストファリア条約まで続いた。

≪019≫  このときドイツの諸侯は旧教カトリックと新教プロテスタントに分かれて、全土を巻きこむ内乱がつづいた。三十年にわたる巨域の関ヶ原である。

≪020≫  全土が焦土と化しつつあったとき、いちはやく領土の復興に立ち上がったのがブランデンブルクの大選帝侯とよばれたフリードリヒ・ヴィルヘルムだった。ヴィルヘルムは領土に駐留していた神聖ローマ皇帝軍やスウェーデン軍をたくみに駆逐して、ウェストファリア条約で一挙に領土の拡張を勝ち取った。のみならずスウェーデン・ポーランド戦争でポーランドが敗れたのをきっかけにポーランドからの自立を獲得し、ここにブランデンブルクとプロイセンを合併した。

≪021≫  このヴィルヘルムの後を継いだのが、最初のプロイセン王となったフリードリヒ一世(軍人王)である。かくて一七〇一年、プロイセンの国家システムを決定する根本計画が発表される。これを歴史家はしばしば「プロイセン・プログラム」とよんでいる。

≪022≫  クラウゼヴィッツの戦争イデアはフリードリヒ一世の子であるフリードリヒ二世、すなわちフリードリヒ大王の姿にあった。読むべきものも多い。なにしろこの大王は著作だけでも二五巻にのぼっている。加えてヴォルテールとの交流、マキャベリズムへの反対の意思、近世国家というものに対する最初の壮大な構想など、クラウゼヴィッツを夢中にさせるにあまりある魅力をもっていた。この大王のもとにプロイセン王国は非のうちどころのない官僚制と完璧な行政機構とそして偉大な軍隊をつくりあげたのだ。

≪023≫  そうなったのはプロイセンに「民族性」というものがなかったか、もしくは希薄だったことに関係がある。プロイセンは合成国家であって人工国家なのである。ミラボー伯はこういうプロイセンをこう批評したものだった。「他の国々は軍隊をもっているが、プロイセンでは軍隊が国をもっている」。

≪024≫  しかし、プロイセンの自慢は長くは続かない。鉄のプロイセン軍の伝統が、ナポレオン軍にあっけなく敗退してしまった。愛国者クラウゼヴィッツにはショックだった。彼はイエーナの戦闘からワーテルローの戦闘まで、大半の対ナポレオン戦争に従軍していたのである。その中でプロイセン神話が崩れたのだ。

≪025≫  クラウゼヴィッツは休戦後に帰国して、士官学校時代の校長でもあった参謀総長シャルンホルスト将軍に接近し、軍制改革にとりくんでいくことにした。まだナポレオン戦争は続いていて、各国のいわゆる解放戦争が後段にくるのだが、なんとかそれまでに軍事態勢をたてなおしたかった。

≪026≫  まもなく戦争はセントヘレナに流されたナポレオンの凋落をもって終結した。反撃のチャンスはなかった。幸か不幸かはわからない。こうして終結後の一八一八年、クラウゼヴィッツはベルリン士官学校の校長に就任し、以後、十二年の長きにわたって著作に没頭したのである。

≪027≫  研究の眼目はフリードリヒ大王のプロイセン軍の戦史とナポレオン軍の戦史を徹底的に比較して、新たな戦争論と戦略論を起草することである。むろんドイツのためだ。ヘーゲルも読みこんで参照した。そして確信する、「戦争とは、他の手段をもって継続する政治の延長」であり、「自国の意志を相手に強制する暴力行為」であることを。

≪028≫  すでによく知られていることであるが、クラウゼヴィッツの戦争論の特徴は、「戦略」(ストラテジー)と「戦術」(タクティクス)を明確に分離させ、戦争準備としての「兵站」(ロジスティクス)を浮上させることにあった。このことを刻印するため、クラウゼヴィッツは多様な戦争の特性を定義づけていく。いろいろ書かれているが、少し順番を変えて、プロイセン人独特のクラウゼヴィッツの指摘だけを紹介する。

≪029≫  戦争には二種類があるという。ひとつは敵対者の打倒を目的とする戦争である。敵対者は外国や隣国であることが多いが、「内部の敵」もある。いずれにせよ、容赦なく相手を潰すための戦争だ。もうひとつは敵対者との国境でなにがしかの領土を占拠するための戦争である。権利を獲得するための戦争だ。のちにフランスとドイツがアルザス・ロレーヌの地を取り合ったのも、この方針に近い。

≪030≫  クラウゼヴィッツはこの二つはまったく別個の戦争であって、その折衷はありえないと見た。「敵軍撃滅」か「要城占拠」か、そのどちらかなのだ。この教えは、たとえば第二次世界大戦でドイツがソ連を叩くにあたって、レニングラード正面・モスクワ正面・ウクライナ正面の三正面作戦を採った失敗によって、クラウゼヴィッツの名を有名にした。二兎や三兎を追ってはいけない。

≪031≫  戦争の目的と終結についても、断定的な定義をくだした。戦争の目的は「敵の打倒」にあるけれど、その敵の打倒とは「敵の抵抗力の剥奪である」と見た。しかし、いくら敵の戦力を剥奪し、いくら占領しても敵の意志が屈服しないときがある(大日本帝国軍がそうだった)。そのときは「講和の強制」をもって戦争目的の達成とし、戦争を終結に導くべきだと考えた。逆に戦争に屈服したくなければ、絶対に講和条件を呑んではダメなのである。

≪032≫  この教えを実践したのがのちのちのチャーチルだった。チャーチルはヒトラーの講和の呼びかけを拒否することで戦争終結を避け、ついに逆転に成功してみせた。

≪033≫  この教えを実践したのがのちのちのチャーチルだった。チャーチルはヒトラーの講和の呼びかけを拒否することで戦争終結を避け、ついに逆転に成功してみせた。

≪034≫  戦争にともなう過度の摩擦には、相手の攻撃による打撃、つねに身体がさらされる危険、兵器調達にともなう摩擦、資金の遅滞による摩擦、戦争時における情報の不確実性、部隊の行動の狭隘性、戦争時に発生する偶然性(天候その他)など、いろいろがある。軍事上の天才とは、これらの戦争にともなう多様な摩擦をすべて克服するに足る異常な素養をもつ者のことだというのだ。異常であるしかない。それがクラウゼヴィッツが軍人や将軍に冠した才能というものだった。

≪035≫  この才能がどのように磨かれるのかというと、「守勢の徹底が才能を磨く」はずだと考えた。すなわち「防御は攻撃よりすぐれた手段なのである」。なぜなら、どんな守勢も、防御に徹しようとすれば必ず攻撃的諸動作を併発するはずで、それによって軍人や将軍はたえず敵の攻撃を読む姿勢に入れるからである。かつ、攻撃は想像力を鍛えないが、防備は想像力を鍛えてくれる。こうして「自発的な退軍は敵を消耗させる有効な戦術である」というテーゼが導き出された。このあたり、ディフェンスを重視する最近のプロスポーツにもあてはまる。

≪036≫  ぼくはクラウゼヴィッツの『戦争論』を古典読書として愉しんだ。大学生のころで、マルクスやレーニンやトロツキーを読む学生たちはたいてい読んでいたのではないかと思う。マキャベリの『君主論』やシェイクスピアの『マクベス』やメルヴィルの『白鯨』のような意味での古典だったのだ。

≪037≫  しかし、軍人たちにとっては本書はそういうものではなく、まさに実践に頻繁に応用された。とくにクラウゼヴィッツの一歳年上のスイスの戦略家アントワーヌ゠アンリ・ジョミニの戦争理論と比較して、どこがクラウゼヴィッツの有効なところかを決めこむことが流行した。書物にはそういう恐るべき実用力もある。

≪038≫  ところが戦争開始の計画はそれで立つのだが、実際の戦争が始まってみると、〝決戦戦争〟にはなかなか到達しないことがわかってきた。とくに二十世紀の戦争は大半が持久戦か総力戦になる。持久戦と総力戦が現代の戦争の特徴なのだ。これはクラウゼヴィッツが予想していなかったことだった。

≪039≫  こうしてクラウゼヴィッツ理論は立案には生かされるものの、しだいに戦争の進行途中からは軽視されるようになった。そして、「補給ルートの遮断」「軍需産業の拠点破壊」「策源地の機能喪失」といった新たな戦略が適用されていった。湾岸戦争でアメリカがイラクの軍需産業の拠点を徹底して爆破する攻撃に出たのは、クラウゼヴィッツにはなかった作戦だった。

≪040≫  もうひとつクラウゼヴィッツがまったく予想していないことがあった。当たり前ではあるが、情報戦である。「インテリジェントな戦争」だ。スパイを送りこみ、諜報をめぐらし、敵の内部を矛盾に追いこんでいく。きっとクラウゼヴィッツはそんな戦争ならしたくないと言ったことだろう。

≪041≫  クラウゼヴィッツの『戦争論』は今日の日本にはほとんど用無しのものになっているかもしれない。日本が戦争を放棄しているからではない。クラウゼヴィッツが「戦争は政治の本質である」とみなした理論が、日本にまったくあてはまらなくなっているからである。

≪042≫ 参考¶
 ぼくは徳間書店の『戦争論』で読んだのでほかの翻訳書のことは知らないが、おそらく最も手に入りやすく読みやすいのは岩波文庫版だろう。上中下の3冊になっている(篠田英雄訳)。ほかに現代思潮社が清水多吉訳で刊行している。『戦争論』解説書には、大橋武夫『「戦争論」解説』(日本工業新聞社)、井門満明『「戦争論」入門』(原書房)、マレー『戦争論・クラウゼヴィッツへの手引』(銕塔書院)などがある。防衛大学校や自衛隊では、陸軍中佐成田頼武の『戦争論要綱』を配布しているようだ。

世間はとっくに経済学者に期待しなくなっている。

そりゃまあ、そうだろうね。

論文を書き、ビジネススクールで教え、小泉改革に入りこんで、メディアに踊っても、結局はマッド・マネーもグローバリズムも新自由主義をも容認するだけだったんだから。

けれども、もちろん例外もいる。

金子勝はその一人だった。

たとえばタイトルに「反経済学」と打つ。

もっと早くに千夜千冊したかった人物だが、せめてスーザン・ストレンジの翌夜の席にお出ましいただいて、敬して評することにした。 

≪01≫  2007年8月のパリバ・ショック、2008年9月リーマン・ショック以降、グローバル経済と先進資本主義各国の国内経済の痛手はまだまったく癒えてはいない。

≪02≫  やっと国民医療保険の議案を成立させたオバマ・アメリカも、その実情はそこらじゅうで倒壊や火災がおきている。この2年で1万2000軒の店舗がクローズし、シャーパーイメージやリネンズ&シングスといった小売業が倒産していった。ソニーやパナソニック商品を扱ってきた最大手のサーキットシティが連邦破産法による手続きに入って事実上倒産したことも、まだ最近のニュースだ。

≪03≫  それなら日本はどうか。いったい「二番底」はどこにあるのか、それともひょっとして「底抜け」こそが待っているのか。それともゆっくりと回復していくのか。エコノミストたちの議論はいまだ右顧左眄がかまびすしい。すべてはマッド・マネーと金余りによる金融危機がもたらした傷痕である。いや、次から次への病巣の転移だった。資本があたかも意思をもったかのように自己増殖しつづけたことが、こうした異常事態をいまなお続行させているわけだ。

≪04≫  問題は、この事態は修復可能だろうと思いすぎていることにある。さまざまな手を打ちさえすれば、きっと元にあった状態に戻るはずだと想定していることにある。ヘッジファンドやプライベート・エクイティファンドが健康を取り戻せば大丈夫だと思いこんでいるのだ。えーっ、そんなわけはないじゃないか。これは資本主義が抱えた本質的なビョーキの露呈だったのだから、もっと根本的な問題を切開しなければならないはずなのだ。元に戻ってはだめなのだ。

≪05≫  それにしても、なぜこんなことが気がつかなかったのか。そんなにもグローバル・キャピタリズムの猛威はウィルス並みだったのか。

≪06≫  表題はいささか気負っていたが、金子勝の『反経済学』(新書館)にはそうとうの先見の明があった。刊行は1999年、所収論文はそれ以前の数年間のものだ。海外では主張こそあれこれ異なってはいたものの、スーザン・ストレンジ(1352夜)、ポール・クルーグマン、ハイマン・ミンスキー、ジョセフ・スティグリッツ、エマニュエル・トッド、ジョン・グレイなど、いくつかの先駆的研究は出ていたのだが、このころ、のちに市場原理主義と一括されることになった動向に、いちはやく批判的洞察をもたらした日本人はあまりいなかった。

≪07≫  ふーん、あっぱれだな。こういう経済学者が日本にも出てきたのかと思った。かつての岩井克人(937夜)とはまた別種の路線をつくりつつあるようだった。ぼくは慌てて『反経済学』の原型となったらしい『市場と制度の政治経済学』(東京大学出版会)をさっと読んでみた。やっぱり早い。その先見にまずは敬意を表したい。

≪08≫  その後、金子はたくさんの著書やエッセイをものした。かつて「朝まで生テレビ」で田原総一郎の乱暴をかいくぐって鳥めいた発言をしていた姿は、その後は自身で司会をするCS番組を持つようになった。はあ、はあ、ふーん、姜尚中(956夜)とは好一対だな。それにしてはいささか似た本を書きすぎじゃないか、焦っているのじゃないかと気になったが、読んでみるとそれぞれどこかにヒントが勃発していて、悪くない。

≪09≫  加えて経済学者としてはちょっぴり異端の香りがするのが、カワイくていい。それが“反経済学”というタイトリングにもあらわれたのだろう。異分野との接し方も好感がもてた。たとえば大澤真幸(1084夜)との対話『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)も脂が乗っていた。八面六臂の大澤君の見方に引きずりこまれていなかった。

≪010≫  ということで、いつか金子勝をとりあげようと思っているうちに、ここまで引っ張ってしまった。今夜はとりあえず記念すべき『反経済学』にしておいたけれど、この本がベストだということではない。もう少し最近のものならば、『閉塞経済』(ちくま新書)とか、アンドリュー・デウィットとの共著『世界金融危機』や『脱「世界同時不況」』(ともに岩波ブックレット)あたりのほうが、入門にはわかりやすいかもしれない。

≪011≫  とくに旧著『反グローバリズム』を改編した『新・反グローバリズム』(岩波現代文庫)は書き下ろしに近く、最近の金子の考え方を最もインテグレートしているようにも思う。というわけで、以下は金子の見解を上記のいろいろの本からまたいで、その先見の明のごく一角を紹介する。

≪012≫  金子がずっと訴えつづけていることは、日本経済が閉塞感をもっているのにその危機の正体が見えていないのはどうしてか、そのことはなぜ気がつきにくくなってしまったのかということだ。その原因は日本の経済社会にも政策にもあるが、グローバル経済が向かっている考え方や勢いそのもののなかにもある。

≪013≫  金子がそういう問題意識で「経済」を問いはじめたとき、日本はどういう状況にあったかというと、1997年11月に北海道拓殖銀行・山一証券・三洋証券などが連続的に経営破綻した直後だった。政府は翌年に1・8兆円の公的資金を導入したがまにあわず、中谷巌(1285夜)や竹中平蔵が主導した小渕内閣の経済戦略会議の中間報告にもとづいて、1999年に7・5兆円を注入し、日銀はゼロ金利に踏み切った。

≪014≫ むろんすべては焼け石に水。金融機関は粉飾決算にまみれ、日本経済が内部から腐っていることはあきらかだった。こうしてバブル崩壊の傷はとんでもなく深いものだということが知れてきた。そこで海外のエコノミストたちは、日本の金融機関がBIS規制型の自己資本率やペイオフ実施や時価会計制度を「グローバルスタンダード」として早急にとりこみ、不良債権を一掃すべきことを口を揃えて提案した。

≪015≫  これで日本はグローバル病院の患者になった。2002年末、小泉政権は不良債権査定をすることにしたけれど、株主価値を毀損しない程度の実質国有化の方針をとった。日銀は銀行から大量の国債を買いつづけ流動性を供給しようとしたものの、銀行は損失処理に追われるばかりで、結局、ゼロ金利による円安政策と雇用流動化政策がカップリングされて、輸出依存型の景気回復に走らざるをえなくなっていった。

≪016≫  金子の“反経済学”は、こういう状況の只中からアタマをもたげはじめたのである。

≪017≫  いまでもそうだが、財政再建か景気対策かという方針は、つねに右に左に揺れ動く(いまでも自民党は谷垣派と与謝野派で割れている)。小泉・安倍・福田・麻生時代は、景気のほうにとりくんだ。しかし、景気回復をするには体力がなければならないのに、そのときすでに日本企業は3つの変更を余儀なくされていた。

≪018≫  まずは、①国際会計基準(IAS)を導入していた。企業の所有資産は時価評価され、時価会計主義になってしまっていたのだ。これで、ときにはリーズナブルだったはずの過剰債務・過剰設備・過剰雇用のすべてが問題になった(IASはのちにIFRSに発展した)。

≪019≫  次に、②単独財務諸表から連結財務諸表の重視に慣らされていた。子会社に隠れていた不良債権がこれで次々に表面化した。これで、それまでケーレツ維持のために相互持ち合いになっていた株式は時価会計にさらされるので、「含み益」を自己資本に表面化させるには、自己資本そのものを急激に増加させるしかなくなった。

≪020≫  さらに、③キャッシュフロー表の提示が義務づけられて、四半期ごとに継続的なキャッシュフロー上の“改善”ばかりを、バカの一つおぼえのようにめざすようになっていた。キャッシュフローの最初の項目には「税引き後営業利益」があてられているのだが、これを引き上げるには在庫を削るか人員整理をするか、企業合併を模索するしかなくなったのだ。

≪021≫  そんな右往左往のもと、2007年には派遣労働者の数はまたたくまに320万人に達し、34歳以下のフリーターは200万人を前後した。この格差社会をどうするのか。問題は景気どころではなくなっていった。

≪022≫  こうして、真綿で首をしめつけられるようにして、日本の経済社会の全体がウォール街の市場原理主義と新自由主義の渦のなかにとりこまれるようになっていったのである。そんなところへ世界金融同時不況が直撃した。あとは、みなさんご存知のとおり。

≪023≫  ざっとは、こういう流れだ。いったい日本のエコノミストは何を考えるべきだったのか。

≪024≫  本来ならば、冷戦が終結し、バブルが崩壊した1990年代のはじめに日本はなんらかの“change”をするべきだったのである。ところが冷戦終結は自由主義体制による「市場原理の勝利」になったと勘違いした。

≪025≫  その後の「失われた10年」はずるずると「失われた20年」に向かって漂流することになった。これをさらに迷走させたのが、日本の場合は小泉構造改革である。ただし、そこには、日本経済がそれ以前から陥ってきた万年病があった。①輸出依存体質からの脱出をいつも失敗している、②政官財の癒着体質がなかなか変更できない、③国の予算組みと財政投融資政策と地方財政策がどうしてもちぐはぐになる、という症状だ。

≪026≫  これらを“清算”しようとして、たとえば小泉内閣による郵政民営化というおかしな決断がなされてしまったわけだったけれど、こういうビョーキは市場万能主義でもグローバリズムでもゼッタイに乗り切れない。乗り切れないのにもかかわらず、日本はこの時期に新自由主義のバスに慌てて駆け乗った。これではうまくいくはずがない。

≪027≫  金子はこのような日本の状態を「閉塞経済」とも言っている。その名もずばりの『閉塞経済』という著書もある。

≪028≫  閉塞経済がおこってしまったのは、経済がマネーを中心に動くようになり、マネーは「信用というしくみ」を利用して動くようになってしまったからである。金融資本主義である。あげくに時間を超えて未来の決算を取引するようになった。未来の利益を先食いし、未来のリスクを回避するような、そんな証券で経済社会がまわるようになってしまったのだ。その頂点にデリバティブ(金融派生商品)があった。

≪029≫  かくて、リスクを負わない逃げ足のはやい投資スタイルが大流行しまくった。本当のリスクから身勝手なリスクだけを切り離して、金融業界は逃げきろうとしたのだ。これで“信用バブル”がおこるようになった。1987年のブラックマンデー、1998年のLTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント社)の破綻、同じ年のロシアのデフォルト(債務不履行)危機、2000年末のITバブルの崩壊はその先駆けで、これがそのまま2007年のサブプライム・ローンの破綻に突入していった。いずれもマネーの過剰流動性が引き起こした病巣の転移であった。

≪030≫  まあ、ここまでの議論は市場原理主義批判というもので、いまではジョーシキになりつつあろうから、いまさら金子の先見性を感じないかもしれないが、金子が警鐘を鳴らしていた問題には、もうひとつ見逃せない指摘があった。今夜はそちらのほうのことを強調しておきたい。

≪031≫  それは、グローバリズムの受容とナショナリズムの高揚とは裏腹の関係にあり、社会民主主義ともリバタリアニズムの一部ともきわどい関係にあるという指摘で、かれらの「市場原理主義批判・グローバリズム批判・新自由主義批判」をめぐる議論にはそうしたナショナリスティックな偏向や社民やリバタリアニズムの傾向がまじっていることが少なくないので、そこに注意すべきだというものだ。

≪032≫  このような偏向は、日本ではすでに10年以上前から連打されていた。たとえば、1998年の佐伯啓思の「シビック・ナショナリズム」論、同年の経済戦略会議(樋口廣太郎議長)の「日本リベラリズム」論、1999年の二十一世紀日本の構想懇談会(河合隼雄座長)の「富国有徳」論、2000年の西部邁の「国民の道徳」論などなどだ。

≪033≫  これらは表向きは市場原理主義を批判していて、それに対するに道徳や徳を持ち出しているのだが、それはサッチャーが「強い国家」や「ヴィクトリア朝の美徳に戻れ」と主張したこととあまり変わらない。つまりは市場原理主義の対抗策になどなってはいない。まさにサッチャリズムやレーガノミクスの裏返しなのである。

≪034≫  思想戦線においてはもっときわどい議論もまかり通っていた。『反経済学』でとりあげているのは、たとえばイマニュエル・ウォーラースティーンの世界システム論の考え方だ。

≪035≫  1989年にベルリンの壁が崩壊して、近未来社会についての構想力の喪失がおこった。そうしたなか、ウォーラースティーンの世界システム論ははからずも社会学・経済学・歴史学の左派知識人たちに“安全なシェルター”を提供してきた。参加者にならずに観察者でいられるというシェルターである。

≪036≫  多くの知識人がアングロサクソン型資本主義、ライン型資本主義、日本的資本主義、はてはイスラム経済論や儒教資本主義などの多様性を、それぞれの国民経済の形状のもとに解こうとしているとき、ウォーラースティーンは資本主義のすべてを、世界システムという“たった一回のロングタームな出来事”のなかにフロートさせたのである。それが、現在社会に対するモラトリアムを許容するパスポートになってしまったのだ。

≪037≫  これはまずかった。金子は早くからそのへんのことについても警鐘を鳴らしていた。

≪038≫  EU諸国に社会民主主義が広がったことも、グローバリズム批判めいていて、実はそうではなかった。アメリカ民主党、イタリアのオリーブの木、フランス社会党、イギリス労働党といった政権力をもつ政党の動きのことだけをさしているのではない。「社民」という思想がケインジアン政策や所得再分配政策を謳っているようで、そうはなっていないところが問題なのである。これらは、ちっともリスクテイクなどしていないのだ。

≪039≫  さらに金子が問題にしたのは、『閉塞経済』第3章に詳しいのだが、「正義」と「社会」と「経済」をめぐる議論の仕方だった。

≪040≫  今日の日本もそうであるけれど、いま、格差社会や貧困問題が世界的にクローズアップされている。このとき格差の是正と所得の再分配が俎上にのぼる。ヨーロッパ近代社会にはこの問題を救済するロジックや制度はなかった。パターナリズム(父性的温情主義)や博愛主義があるばかりで、あとは「自由」と「正義」が論じられるだけだった。

≪041≫  主流派経済学もホモ・エコノミクスという架空の人間行為を“自由の単位”と見るのだから、それがおこす格差や貧困を吸い上げてはこなかった。むしろサッチャリズムやレーガノミクスは「新自由主義」を標榜することで反動ともいうべき政策に走ったわけである。

≪042≫  むろん経済学者が何も考えなかったわけではない。たとえばピグーをはじめとした「厚生経済学」という領域もあった。効用が可測性(計算可能性)をもっていて、個人間の比較が可能になるというロジックで、そう考えれば貧者のほうが富者よりも所得単位あたりの限界効用が高いので、富者から貧者への所得再配分をすることが社会全体の厚生を高めるはずだというものだ。

≪043≫  これは“功利主義の社会化”という実験性をそれなりにはらんでいたのだが、実際には効用を本当に測れるのか、個人間の効用を比較できるのかという疑問に答えきれず、ここからライオネル・ロビンズらの「パレート最適」の考え方にシフトした。パレート最適とは、「これ以上に誰かを不利にすることなく、誰かを有利にすることはできない」という最適点によって社会経済を見ようというもので、ここにおいて、所得の分配論は後退して資源の有効配分論になっていったのだった。「合理的な愚か者」ばかりが経済社会にまかりとおっていると見抜いていたアマルティア・セン(1344夜)が、これらの議論を見てさっそく「パレート伝染病が流行している」と非難したのは当然だった。

≪044≫  こうしたなかから、一方ではシカゴ学派型の「自由」が浮上して、これがネオリベラリズム(新自由主義)になっていき、他方ではアイザィア・バーリンの『自由論』(みすず書房)やノージック(449夜)やロスバードの自由論から、さらに多様なリバタリアニズムの議論になっていったことは、いまはとりあげない(このあとしばらくの千夜千冊で集中してとりあげる)。

≪045≫  そこへもうひとつ、浮上してきたのが、それなら社会にとっての「正義」とはいったい何なんだという議論だった。とくにジョン・ロールズの『正義論』(紀伊国屋書店)がもてはやされたのである。金子はこの議論にもはやくに注文をつけていた。

≪046≫  近代ヨーロッパはいろいろな難問を今日に積み残してきた。そのひとつに、「自由と平等はトレードオフなのか、どうなのか」という問題があった。

≪047≫  ヨーロッパのキリスト教民主党や保守党やアメリカの共和党は、市場の自由にもとづく「機会の均等」を重視して、そこに自由と平等があると言う。ヨーロッパの社会民主党や労働党やアメリカの民主党リベラル派は、「結果の平等」を重視して、格差の是正こそが必要であると説く。

≪048≫  しかし、誰もが同じスタートラインに立てる「機会の均等」がやがて「結果の平等」を踏みにじる格差社会になるなんてことは、説明するまでもないほど自明な歴史的現実だった。自由と平等はトレードオフを超えられない。

≪049≫  そこで、ここに「正義」の規準をもちこもうということになった。その先頭に立ったのがロールズだった。ロールズは社会の原初の状態を想定し、誰もが国家や政府や自治体と社会的な契約を結べばいいと考えた。そのばあい、二つの原理が順に作動する。第1の原理は「平等な自由の原理」というもので、すべての人間が政治的自由や精神的自由といった基本的自由を平等にもてるようにするというものだ。けれどもそのような権利が保証されたからといって、その後の社会経済的な不平等や格差が生じないとはかぎらない。

≪050≫  そこで第2の原理として「公正な機会均等の原理」が動きだす。不平等や格差については最も不遇な状態から是正されなければならないが、そこには機会均等を破るものがあってはならないというのだ。

≪051≫  詳しいことは省くけれど、このようなロールズの正義論に多くの社会学者や経済学者が足をとられてしまったのである。しかし、どう見てもこのような正義論にはアメリカ的な新自由主義を乗り越えるものはないし、グローバリズムの矛盾を突く考え方があるはずはなかった。金子はそのことも長らく指摘しつづけてきたのである。

≪052≫  そのほか金子の指摘には、ときに勇み足や過剰な発言があるとはいえ、いろいろ興味深いものが多かった。とくにセーフティネットによる社会経済については、いくつもの政策的提案もした。

≪053≫  たんなる公共経済論に陥らない提案もあった。たとえば『新・反グローバリズム』の第8章で、「第三者評価」の機能をもったアソシエーションの組み立てこそが重要であるという提案をしているのは、ぼくには共感できた。社会的な交換力をもったネットワークが、評価機能を発揮したほうがいい、そこから新たな独自の資格者や規準が生まれていったほうがいいという提案で、そこにマーケット・メカニズムに頼らない多元的価値の創生を期待したいという見方だ。

≪054≫  今日の産業社会や企業では、自身のコンプライアンスの金縛りにあって、新たな価値の創出はきわめて遅くなる。たいていは「合理的な愚か者」になって売上げと利益と株価上昇にばかり走っていく。それよりも、これらの産業界や企業や地域社会や自由業を、大胆に横断したネットワーク・アソシエーションが出現して、新たな評価基準や価値観をめぐるスコアをつくっていけば、どうなのか。このようなアソシエーションの動きと知と編集力が一定のレベルに達すれば、そこからはおそらく新たな才能も芽生えるし、そこには次世代の市場がほしがるようなビジネスモデルも胚胎するにちがいない。金子はそういうアソシエーションの必要性を説いたのだ。

≪055≫  ここで唐突ながら、少々おまけの話になるのだが、実はぼくが10年ほど前に、ISIS(Interactive System of Inter Scores)というしくみのありかたを思いついたときは、そこに、公民でも私民でもない“兼業的第三者”の登場と、相互に“インタースコア”しあう小さな評価創発機能の出現とを想定したのだった。

≪056≫ いまではそれがイシス編集学校という相互学習型のネットワーク・アソシエーションになっているけれど、そこには金子が提案しているようなアソシエート・ヴィジョンも含まれていたのである。

≪057≫  いやいや、こういうことを金子がどう思うかはわからない。しかも最近の金子がどのような思想的現在に立っているのかはちゃんとフォローしていないのでよく知らないのだが、なんとなくここには交わるものがあるのではないかと感じて、ここにISISの話を入れてみた。あしからず。

≪058≫  というわけで、とりあえずもっと早くに評価しておきたかった日本の経済学者のありかたのひとつとして、今夜は金子勝という先見の明の一端をごくかんたんに紹介をすることで、出し遅れの証文としたかったわけである。

≪059≫ 【参考情報】

≪060≫ (1)金子勝は1952年生まれ。東京大学大学院の経済学研究科で博士課程を終了したのち、法政大学教授から慶応大学教授へ。専門は財政学や地方財政論や制度経済学。著書はかなりある。『市場と制度の政治経済学』(東京大学出版会)、『反グローバリズム』『市場』(岩波書店)、『経済の倫理』(新書館)、『日本再生論』(NHKブックス)、『長期停滞』『経済大転換』『セーフティネットの政治経済学』『閉塞経済』(ちくま新書)、『粉飾国家』(講談社現代新書)など。

≪061≫  共著もいい。共著がいいのは実はめずらしいのである。大澤真幸と『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)、アンドリュー・デヴィットと『反ブッシュイズム1・2・3』『世界金融危機』『脱「世界同時不況」』(岩波ブックレット)、児玉龍彦と『逆システム学』(岩波新書)、高端正幸と『地域切り捨て』(岩波書店)など。

≪062≫ (2)上に書いたように新自由主義(ネオリベラリズム)についての議論や問題点についてはあらためてとりあげる。またリバタリアニズムについては、金子はかなり批判的であるようだが、いろいろ見るべきものは少なくない。いずれぼくなりにとりあげて、そのパースペクティブから紹介しておきたいと思っている。そのときロールズの正義論にもあらためて言及したい。ウォーラスティーンは、もういいだろうね。

≪063≫ (3)第三者によるネットワーク・アソシエーションの創成については、これから大きな課題と期待が寄せられると思う。さまざまな関連思想や関連制度、たとえば大澤真幸の「第三者の審級」や「新しい公共」論や金子郁容の「ボランタリー経済学」などとも関係してくるが、ぼくはそこにやっぱり“編集的アソシエイツ”を加えたい。そこからはきっと新しい「複業社会」や「ポリロール的才能」の出現がありうると思うのだが、さあ、どうなるか。そのうちちらちらご披露したい。

≪01≫  
「わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげるので、彼もいつのまにかいろいろなものに注意をむけるようになっていきます。」 

≪02≫  彼とは4歳のロジャーという少年のことだ。レイチェル・カーソンの姪の息子にあたる。レイチェルはこのロジャーをメイン州の森や海辺に連れ出しては、大きな自然や小さな生命の驚異を二人でたのしんだ。レイチェルはロジャーにはどうしてもそのことが必要だと感じたのである。「このようにして、毎年、毎年、幼い心に焼きつけられてゆくすばらしい光景の記憶は、彼が失った睡眠時間をおぎなってあまりあるはるかにたいせつな影響を、彼の人間性にあたえているはずだとわたしたちは感じていました」。 

≪03≫  本書はそのロジャー少年に捧げられた。原文は1956年に「ウーマンズ・ホーム・コンパニオン」に掲載された。ロジャーはその後、5歳のときに母を失い、それからはレイチェルに引きとられて育てられた。レイチェルはいつかこの原稿を膨らませて単行本にしたいと考えていたようだったが、それが叶わぬまま、1964年に56歳の生涯を閉じた。 

≪04≫  本書はレイチェルの死後、友人たちが惜しんで掲載原稿そのままに出版したものである。原書は大判でメイン州の森と海の写真入りだが、日本語版ではすばらしい翻訳に加え、八ヶ岳に住む森本二太郎のカラー写真が添えられている。 

≪05≫  センス・オブ・ワンダーとは、レイチェル自身の言葉によると「神秘や不思議さに目を見はる感性」のことをいう。「目を見はる」ところが大切だ。この感性は、これもレイチェルの説明によると、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然という力の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである。 

≪06≫  そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供をもつ親たちに知らせたかった。なぜなら『沈黙の春』(新潮文庫)の執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、自分の時間がなくなってしまう前に、なんとしても自分が生涯を懸けて感じた「かけがえのないもの」を次世代にのこしておきたかったからだった。その「かけがえのないもの」とは、地球を失ってはならないと感じられるセンス・オブ・ワンダーだったのである。  

≪07≫  レイチェル・カーソンの『沈黙の春』との闘いは4年間におよんだ。それまでのレイチェルはジョンズ・ホプキンス大学の大学院で生物学を修め、つづいてはアメリカ合衆国漁業局の海洋生物学者としての活動の日々のかたわら、つれづれに科学エッセイを書いていた。 

≪08≫  そうやって綴られた『潮風の下で』(岩波現代文庫)、『われらをめぐる海』(ハヤカワ文庫NF)、『海辺』(平凡社ライブラリー)などは、海洋生物学者としてのまさにセンス・オブ・ワンダーに充ちていた。ここまでのレイチェルの人生はきれいな人生だった。   

≪09≫  しかし1958年の1月のこと、友人オルガーからの一通の暗示的な手紙がレイチェルに届き、それがレイチェルを変えた。役所が殺虫剤DDTの散布をしてからというもの、いつも友人の家の庭にやってきていたコマツグミが次々に死んでしまったという手紙だった。きっとコマツグミはDDTに殺されたにちがいない。この日からレイチェルの4年間におよぶ闘いが始まった。 

≪010≫  レイチェルはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、この問題にトゲのように突き刺さっている人類の過剰技術問題のいっさいにとりくんだ。レイチェルはそのトゲを一本一本抜く覚悟だったのである。この研究調査のプロセスのすべてを綴ったのが、世界中で話題になった『沈黙の春』(Silent Spring)にほかならない。1962年の出版だった。 

≪011≫  全世界が驚きをもってこの一冊を迎えた。どんな環境汚染の研究調査より早く、どんな薬理科学者よりも洞察が深く、どんな自然愛好者のエッセイより慈愛のような説得力に富んでいた。 

≪012≫  ぼくが『沈黙の春』を読んだのはずいぶん前になるけれど、そのときの衝撃的な突風のような感触は、いまなお忘れない。こんなふうに、あった。「春が来ても、鳥たちは姿を消し、鳴き声も聞こえない。春だというのに自然は沈黙している」。心やさしい一文のようだが、なかなかこうは綴れない。何かが体の奥に向かってぐいぐいと食いこんできた。  

≪013≫  いま読めばひょっとすると古い議論も多いのかもしれないが、当時は、こんな清新な読み物はなかった。しかし、この本ができあがる前に、レイチェルは癌の宣告をうけたのである。そしてそれからは、レイチェルはその存在自身がセンス・オブ・ワンダーというものになっていった。 

≪014≫  本書は92歳で亡くなったスウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンが息子に残した次の言葉を引いて、静かに終わっていく。こういうものだ。
「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかというかぎりない好奇心だろうね」。 

≪015≫  われわれは、ときどきは目を見はる理科に没頭するべきなのである。  

≪02≫  ブルーノ・ムナーリの円の本と正方形の本が手元の本棚から消えていた。『円+正方形』という2冊セットだ。きっとだれかが持っていってしまったのだろう。ダネーゼのカッコいい灰皿は、もっと前にどこかに消えた。まあ、いいや。ムナーリから受けた影響はたいていは体に染みこんでいる。 

≪04≫  ムナーリは、想像力の基本的なはたらきには大きく3つあると考えてきた。第一に「ある状況を転覆させ、内容を反対にしたり対立させて考えること」である。第二に「ある事柄を内容を変えずに、それを一から多にすること」である。第三には「その特色を別のものに交換したり代用させること」である。まとめて「関係の中の関係」をまさぐっていくこと、それがムナーリのいう想像力だったのだが、これはぼくが編集的方法とか編集術とかと呼んできたもののごくごく根本方針にもなっている。編集術のABCといってもいいほどだ。 

≪03≫  発想力とか企画力とか創造力といった、いまは手垢がついてしまったけれど、本来はうんとナイーブなこれらの力のおおもとになるもの、つまりは「想像力」(これをムナーリは「ファンタジア」と呼んでいる)という得体の知れないものが生み出されてくる手立てなどについて、ムナーリがもたらした発想はいろいろ刺激に富んでいて、しかも適確で、ぼくはそれを忘れられないままにある。 

≪05≫  そんなわけだから、ムナーリはもうとっくにぼくの体の中に入っていると言いたかったのだが、ところが去年(2008)の正月に板橋区立美術館で(ここはたいへんユニークな企画展が多い)、ムナーリ生誕100年を記念した「ブルーノ・ムナーリ展・あの手この手」を見て、ちょっと待てよ、やっぱりムナーリはまだまだ未知だぞと、いろいろ考えなおしたのである。発想力や企画力や創造力の定義はともかくとして(これはあまりおもしろいとは言えないのだ)、やはりムナーリの想像力には変な羽根がいっぱい生えている。それがしみじみ、わかった。その変な羽根は、ぼくには少なすぎたかもしれないのだ。 

≪06≫  ムナーリはその名もズバリの『ファンタジア』(1977)という本で、想像力は気まぐれで不規則で、ちぐはぐででたらめで、出まかせで唐突で、妄想的で霊感的でありながらも、それが「これまで実在してこなかったもの、表現されてこなかったもの」に関する新たな発想への出奔であるかぎりは、すべて想像力と名付けられるべきだろうと言っている。 

≪07≫  たとえば『ファンタジア』の26ページには、「座りにくい椅子にできるだけ楽に座ろうとしている男の姿勢」が12の写真になって掲載されている。かなりの傑作だ。また31ページと32ページには、子供による独特の人体スケッチが載っている。ムナーリにとってはこれらが想像力の正体なのである。類例なのだ。ということは、想像力とは分解不可能な能力なんかなのではなく、たくさんの可能性が一緒にやってくる同時的な能力なのである。  

≪08≫  この「たくさんの可能性が一緒にやってくる同時」を、ムナーリは自身の想像力の羽根にしている。それを“ムナーリの翼”と言ってもいいけれど、そこには昆虫のや折紙の紙っぺらや薄いスプーンなどもまじっているので、もっと柔らかく“ムナーリのたくさんの羽根”と言っておいたほうがいいだろう。 

≪09≫  いったいこのような想像力の羽根がどこからやってきたのかと聞くのは、愚問だ。ムナーリは小さな頃から多くの物事に好奇心をもっていて、それを黙々と観察してきた。科学者の目ではない。少年のいたずらっぽい目で眺めてきた。それがすべての源泉だ。いちいち説明することもないだろう。そのいたずらっぽい目は、必ずやさまざまな共同体のための「つながり」の目になっていった。背信の遊戯のためではなかった。それがムナーリをして「デザイナーのデザイナー」たらしめたゆえんだ。  

≪010≫  そういうムナーリを、イタリアの美術批評家のラッギアンテは「精確なファンタジア」だと褒めた。ゲーテが至高の詩人に対して与えた言葉だった。ピカソは「ムナーリは20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチじゃないのかね」と言い、イタリアを代表するプロダクトデザイナーのアッキーレ・カスティリオーニは「ムナーリはデザインを、だれに、いつ、どうやって教えるかを知っている天才だ」と言った。 

≪011≫  で、ぼくが藤本由香里に頼まれて書いた『フラジャイル』(筑摩書房)の扉に入れたアレッサンドロ・メンディーニは、どう言ったのか。こう、言った。「詩人でなく、学者でなく、画家でなく、装飾家でなく、子供でなく、大人でなく、老人でなく、若者でもない、デザインのファンタジスタだ」。 

≪012≫  ぼくがブルーノ・ムナーリを知ったのは、1960年の東京デザイン会議の余波を日本のアーティストたちがそこかしこで曳航していたころ、瀧口修造さんにその名を聞いてからのこと、つづいて武満徹さんが《ムナーリ・バイ・ムナーリ》というソロ打楽器のための作曲をする現場に居合わせて、急速に親しみをおぼえた。奏者は異才ツトム・ヤマシタだった。 

≪013≫  その後、ずっとたってからレオ・レオーニと対話仕立ての『間の本』(工作舎)を作ったとき、レオーニがムナーリとは昔からの無二の親友だったことを知って、さらに親しみをおぼえた。どうりで2人の発想には似たところがあった。 

≪014≫  レオーニの3つ年上のムナーリは1907年にミラノに生まれ、幼児期は北イタリアのバディーア・ポレージネというところで育ったようだ。父親は給仕さん、母親は絹の扇子に刺繡をする仕事をしていたらしい。その後、叔父のエンジニアのもとで働くためミラノに戻ったのだが、本人は「裸のままミラノの都心に没入していった」と言っている。度肝を抜かれたのだろう。そのころのミラノというのは、ウンベルト・ボッチョーニの未来派力学が渦巻く工業都市だったのだ。 

≪015≫  案の定、ムナーリは18歳にして未来派の運動に身を焦がしていった。とはいえマリネッティの政治力学に冒されるほうではなくて、ボッチョーニやルイジ・ルッソロやカルロ・カルラたちの運動力学的感覚と構成力学の芳香を浴びたというほうだったろう。つまりムナーリはその作家活動の当初においてすでに、「中心から逸れること」を学んだのだ。それに、アレクサンダー・カルダーならモンドリアンの抽象力に惹かれたのだけれど、ムナーリはミラノの工業に「役に立たない機械」をぶっつけたのだ。それがかの有名な《役に立たない機械》と題されたモビール・アート群ともなった。カルダーよりもずっと早いモビール・アートだった。 

≪016≫  純然たるアーティストをめざしたわけではない。1930年にはリカルド・カスタネッティとスタジオを作り、しばらくグラフィックデザインに没入すると、イタリアがムッソリーニ傘下の戦時体制に入っていくなか、アートディレクターとして出版や雑誌にかかわり、わが子のための絵本づくりにも手を伸ばしていった。当時はモンダドーリ社から刊行された独創的な絵本の数々は、いまはコッライーニ社から復刻されている。 

≪018≫  1962年、ムナーリはオリベッティ社が催した「アルテ・プログランマータ展」を企画した。すでにレオ・レオーニがオリベッティにいて、ムナーリを引きこんだとも、ムナーリがレオーニを感化したともいえる。アルテ・プログランマータとはプログラミング・アートといった意味なのだが、このネーミングはウンベルト・エーコが付けた。 

≪017≫  ちなみにムナーリの絵本のようなものはたくさん制作されているが、なかで絶品なのは『本の前の本』(本に出会う前の本)である。文字はない。すべて素材と仕掛けだけでできている。白い毛が入っている本、透き通った本、白い円がだんだん大きくなる本、オレンジ色のスポンジでできた本などの12冊で、1979年にダネーゼから発売された。いまはやっぱりコッライーニ社から復刻されている。コッライーニ社がえらい。 

≪019≫  ムナーリは出版社ボピアーニでエーコと知り合うとすぐに昵懇になり、ここにムナーリ、レオーニ、エーコというとんでもなく発想自在の魅惑のトライアングルが動き出したのだ。エーコは『開かれた作品』(1962)や『不在の構造』(1968)でムナーリのことに言及している。 

≪020≫  その後のムナーリは、工業デザイナーやプロダクトデザイナーとして知られていくようになる。なかでもダネーゼの灰皿(ぼくが盗まれた灰皿)は有名だが、伸縮自在の布を竹の節のように重ねて延ばした1メートル60センチのフロアスタンド、ワゴンテーブル、ダネーゼやスウォッチの時計、「モルディブ」(1960)というトレイなどもある。とくに「モルディブ」はすばらしく、金属板に切れ目を入れて軽く折り曲げるようになっている。MoMAに収蔵されていた。  

≪021≫  そのほか、ムナーリが手掛けたものはものすごくたくさんの種族に及んでいる。小さな星座の形に穴をあけたジュエリー、「カナリア諸島」というペン立てセット、読めない文字ばかりでできている本、「マフィアの肖像」というレディメード接合型のオブジェ彫刻、ベッドとテーブルをメタルフレームで組み合わせた「ディヴァネッタ」という家具、モアレばかりがおこる2つのシェードによる照明スタンド、漢字の「木」を巧みにあしらったカリグラフィ……。紹介していくとキリがない。 

≪022≫  そのいずれもがキュートなのである。負担感をもたせていない。これはムナーリが、日本の室内空間や家具たちをいたく気にいっていたということに関係があるのかもしれない。ムナーリは生け花を嗜んでも、ごくごく小さく生けるのだ。これはエットレ・ソットサスにはない感覚だ。 

≪020≫  その後のムナーリは、工業デザイナーやプロダクトデザイナーとして知られていくようになる。なかでもダネーゼの灰皿(ぼくが盗まれた灰皿)は有名だが、伸縮自在の布を竹の節のように重ねて延ばした1メートル60センチのフロアスタンド、ワゴンテーブル、ダネーゼやスウォッチの時計、「モルディブ」(1960)というトレイなどもある。とくに「モルディブ」はすばらしく、金属板に切れ目を入れて軽く折り曲げるようになっている。MoMAに収蔵されていた。  

≪021≫  そのほか、ムナーリが手掛けたものはものすごくたくさんの種族に及んでいる。小さな星座の形に穴をあけたジュエリー、「カナリア諸島」というペン立てセット、読めない文字ばかりでできている本、「マフィアの肖像」というレディメード接合型のオブジェ彫刻、ベッドとテーブルをメタルフレームで組み合わせた「ディヴァネッタ」という家具、モアレばかりがおこる2つのシェードによる照明スタンド、漢字の「木」を巧みにあしらったカリグラフィ……。紹介していくとキリがない。 

≪022≫  そのいずれもがキュートなのである。負担感をもたせていない。これはムナーリが、日本の室内空間や家具たちをいたく気にいっていたということに関係があるのかもしれない。ムナーリは生け花を嗜んでも、ごくごく小さく生けるのだ。これはエットレ・ソットサスにはない感覚だ。 

≪023≫  今夜とりあげた一冊は『モノからモノが生まれる』であるけれど、どの本でもよかった。堅実にムナーリ・メソッドを学びたいのなら、ハーバード大学カーペンター視覚芸術センターで講義した『デザインとヴィジュアル・コミュニケーション』(みすず書房)がいいだろうし、シンボリックにデザインを論じたものなら『芸術としてのデザイン』(ダヴィッド社)がいいだろう。深澤直人の「偉大なデザイナーはたくさんいる。しかし、偉大なデザインの先生はブルーノ・ムナーリだけかもしれない」という帯が付いた『ファンタジア』(みすず書房)も、さきほど紹介したように、真の想像力の正体を知るにはもってこいだろう。   

≪024≫  が、本書は本書でちょっと見逃せない。冒頭に老子の引用がおいてある。「生而不有 為而不恃 功成而弗居」という一節だ。これは、「生じて有せず、為して而も恃まず、功成って而も居らず」と読む。なぜムナーリは老子を引いたのか。 

≪025≫  万物に美と醜を見いだしてから、人はおかしくなった。こういう美醜にとらわれていては、本当の仕事をすることはできない。仮にそのような仕事ができたとしても、そのことによって敬意を受けようなどと思わないことだ。そう、老子は言ったのだが、ムナーリはこれを、デザインが陥りがちなポピュリズムからの脱出のための惹句に見立てたようなのだ。そして、こうも書いたのである。「豪華さは愚かさのあらわれである」「家具は最小限のものでじゅうぶん」。 

≪026≫  そもそもムナーリのプロダクトは、「問題P」(problema プロブレーマ)をどのように「解決S」(soluzione ソルジオーネ)にもちこむかという配列で構成されている。 この意図をごくかんたんに紹介しておこう。ここでムナーリがデザイナーたちにぜひにと奨めているのは、PをSにするデザインワークの見当にはそもそも5つの仕上げ方があって、焦ってアイディアを出す前に、そのいずれに進むかという自由に自分をおく姿勢のことなのだ。   

≪027≫  とくに「近似的なS」が入っているところがムナーリらしく、ムナーリ自身もたいていは「近似的なS」をもって、Pを空想にも商業にも一時的なものにもしてみせたとぼくにはおもわれる。 以上、ごくごく気楽なムナーリ案内をしてみたが、もっと詳しくは数々の著書を見るとよい。ぼくの場合は「ブルーノ・ムナーリに関する100の事柄」というブログ・サイトを覗いたりもした。このサイトは「ブルーノ・ムナーリ研究会」が提供していたもので、とても温かくできている。 

≪01≫  玄人好みのする本だった。ずばり「わたしはこれから分子、生殖、そして進化のブリコラージュについて語る」と冒頭に書いている。 

≪02≫  眼目は、生命は高分子に発して代謝をくりかえし、分化と進化をしながらみずからブリコラージュ(修繕)してきたということにある。生命は分化と進化の途上のそのつど、設計図を変更してきた。やりくりしてきた。そういう生命を相手にしてきた生物学の考え方を、ジャコブが本書でブリコラージュしてみる、やりくりしてみる、つまり編集的に思索してみせた。 

≪03≫  20世紀末にまとまった一冊だが、ジャコブが言い残したいことは、よくわかる。最後の3行に端的に示されている。「わたしたち人間は核酸と記憶の、欲望とタンパク質の、とんでもない混合物である。20世紀は核酸とタンパク質に大いに関わった。21世紀は、記憶と欲望の解明に全力を集中することになるかもしれない。しかしはたして、そのような問題は解決できるであろうか?」。 

≪04≫  ジャコブは生物学者としては文章もうまいほうで、リベラルアーツの教養もあるようなので、それまでの1977年の『生命の論理』(みすず書房)も、少々自分の研究者としての変遷を回顧した『内なる肖像』(みすず書房)もそれなりに読ませたが、本書はそれらに勝る読後感だった。講演したものを素材にしたためだと思うのだが、入念にブリコラージュ(編集)されているのもよかった。 

≪05≫  日本ではジャコブの研究パートナーであったジャック・モノーのほうがはるかに有名で、とくに『偶然と必然』(みすず書房)が大きな話題になったのだけれど、ぼくはモノーの論法にはどこか違和感を感じてきたので、その後はジャコブのほうを主に読んできた。  

≪06≫  わざわざ言うほどのことではないが、同じ学派のメンバーが書いた著書でも当方の好き嫌いは必ず生じるもので、そういうことはよくあることなのである。 

≪07≫  フランソワ・ジャコブは遺伝子の発現のしくみを解明した「オペロン説」で有名な分子生物学者である。モノーとともに1965年にノーベル生理学賞を受けた。オペロン(operon)とはひとつの形質を発現させる遺伝単位のことをいう。 

≪08≫  ナンシーのユダヤ系の一人っ子に生まれ、7歳でリセに入るほどの神童らしかったらしいが、まあ、このへんはどこまで額面通りにうけとっていいかはわからない。医学を志してパリ大学医学部を選び、第二次世界大戦ではイギリスでド・ゴールの解放軍に参じ、軍医としては北アフリカに赴いて、そこで重傷を負った。この体験は大きかったろう。 

≪09≫  大戦後に卒業するのだが、外科医を断念して、アンドレ・ルヴォフのもとで微生物学を研究するようになり、モノーと組んで大腸菌の遺伝子発現調節のしくみの解明に没頭した。  

≪010≫  ぼくが感じるに、その才能は「モデルをつくる才能」にあったように思う。生物学ではこの才能は20世紀の途中から脚光を浴びるもので、以降は万能細胞研究(iPS細胞づくり)からアーティフィシャル・ライフ(AL)の研究にまで及ぶ。ジャコブの場合、そのモデリングの才能が発露して、mRNAを介した遺伝情報の転移、フィードバックが効いた発現調節(オペロン説)、タンパク質のアロステリックな調節機能などをみごとなモデルに仕立てて、説明することになった。 

≪011≫  研究はモノーのほうがリーダー格のようだが、ジャコブのほうが柔軟だった。 

≪012≫  著書もモノーの『偶然と必然』のほうが早く、出版界でも大きな話題になり、ぼくもさっそく読んだのだが、なるほど分子生物学というのはこういうものかと納得したものの、その唯物論や生気論を排斥しないではいられない思考性が読みにくく、また日本でのその後のモノー派の言説がつまらなくて(渡辺格の『人間の終焉』など)、すぐにモノーのものよりジャコブの本を味読するようになったのだ。  

≪013≫  その理由はウォディントンの『エチカル・アニマル』(工作舎)ではないが、モラルを科学観や技術の内側に捉える目をもっているところにあるように思われる。ジャコブには「モデルをつくる才能」とともに「モラルを深める才能」が、つまりは“二つのM”の才能があったのである。  

≪014≫  生物にとっては、ただひたすら「次の一瞬を生きる」ということがどんな場合でも一番の判断になる。行動もそれにもとづく。ポール・ヴァレリー(12夜)はそれを「未来をつくる行為」と名付けた。  

≪015≫  生物としての人間とて同じだ。わたしたちの体は「一種の予見マシーン」なのである。自動予測装置なのである。ただし、かなり不出来にできている。だから脳を発達させ、言葉や道具を使うようになった。 

≪016≫  動物の予測装置も不出来なのだが、その不出来ぐあいが生物それぞれの特色をあらわしてきた。そこでジャコブはこの不出来なところにこそ大事なものがあるとみなして、これを「予見不可能性」の大切さと呼んだ。同じことをほぼ同時代のルイス・トマス(326夜)は「取るか取らないかで、いったん取ったら好きなところだけ食うわけにはいかない。思いがけないことも不安材料も受け入れる」と述べた。 

≪017≫  科学技術も不出来な生物の歩みと変わらない。科学技術では出発点の実験結果がそこそこ不確実でなければ、研究の重要課題は見つからない。わからないところがないかぎり、科学も技術も前に進まないものなのだ。 

≪018≫  遺伝子生物学もそうやって出発した。「分子で生命のしくみを見る」なんてことは、誰もしていない。不確実で予測不可能なことばかりが待っている。費用もどのくらいかかるか、見当もつかない。 

≪019≫  フランスでのスタートにあたっては、1958年、ドゴールが科学技術特別委員会に12人の学識経験者を任命した。1年後、12人は特別予算の対象となるべき重要課題を挙げた。レイモン・ラタルジュは分子生物学を提案した。ドゴールは「わたしは得体の知れない分子生物学が気になる」と言って、大きな資金を投入することを決断した。  

≪020≫  ドゴールは次のようなことも言っていた。「フランスにおいて絶対に手をつけてはならないことが3つある。コレージュ・ド・フランス、パスツール研究所、そしてエッフエル塔、この3つだ」。ドゴールはいろいろ問題もある為政者ではあるが、日本でこういうことが言明できる価値観は、政府や官僚に備わっていない。 

≪021≫  分子生物学も黎明期だが、まして遺伝子工学がどう誕生するかは、誰にもわかっていなかった。こちらは生命情報に向かってエンジニアリングする必要がある。どこから工学の手をつけたらいいか。1950年代にバクテリオファージ(細菌を食べるウイルス)を調べていた研究者が、奇妙な現象を見つけたのがきっかけだ。 

≪022≫  ある種のウイルスをAというバクテリア株で培養されるようにしておくと、それとはちがうB株でも培養可能なのに、逆にB株で培養されるようにしておくと、A株では培養ができない。なぜ、そうなるのか、理由も原因もわからない。みんなお手上げだったが、スイスのヴァイグルとアルバーは数年間研究しつづけて、この現象の鍵が「ある種のバクテリア株にひそむ酵素」にあることをつきとめた。その酵素は自分とは異なるDNAを切断し、そのDNAがバクテリアに侵入して根付くのを妨げていたらいいのだ。 

≪023≫  その後、こういう酵素はいろいろありうることがわかってきて、そこに「遺伝子のハサミ」のようなものがあることもわかってきた。それでも、これらのことがのちの遺伝子工学をめざましく発展させることになるだなんて、誰も予想していなかったのである。  

≪024≫  未来を予見することも難しいが、過去を再構成することも難しい。かつてのオパーリンらによる「生命の起源体づくり」は、ことごとく失敗した。 

≪025≫  では、未来のために取り組むクローニングはどうか。実はクローンづくりも過去の再構成にあたるものなのである。しかも、それによって誕生した「羊のドリー」がどのような時空間のモデルを再現したのか、すぐにはわからない。羊で成功したことがマウスで成功するともかぎらない。 

≪026≫  これらのことは、宇宙のビッグバン直後やビッグバン直前に何がおこったかを再構成するときにも、直面する同じ問題だ。一兆分の一秒の単位で、きっと粒子と反粒子の生成と消滅がおこったのだろうけれど、そのあとたちまち生成が消滅曲線よりやや緩やかになったから、この正真正銘の「過去宇宙」が誕生したわけである。もし電子が反電子よりわずかでも多く、クォークが反クォークよりわずかでも多くなかったら、物質の基礎となる通常の素粒子はつくられていなかった。 

≪027≫  地球もまた、予測的にできたわけでなく、その時空モデルが宇宙のどこにでもあるものなのか、それとも特異なものかは、わかっていない。45億年前、地球はアクリエーションによって転び出たのだ。アクリエーションとは自然現象で物質や情報が集積拡大することをいう。 

≪027≫  地球もまた、予測的にできたわけでなく、その時空モデルが宇宙のどこにでもあるものなのか、それとも特異なものかは、わかっていない。45億年前、地球はアクリエーションによって転び出たのだ。アクリエーションとは自然現象で物質や情報が集積拡大することをいう。  

≪029≫  シアノバクテリアが登場する前には、おそらくDNAが情報高分子の「複製」をするようになっていたはずだが、そういうリプリケーションがどうしておこったかもはっきりしない。最近は、そのDNAの複製力をRNAワールドが先行して準備していたと考えられている。 

≪030≫  これはいわゆる「RNAワールド仮説」というもので、ジャコブはそういう仮説のなかで分子生物学を考えていきたいと思った。「最初に編集的な駆動があった」という仮説だ。 

≪031≫  とはいえ、当時はRNAがどういうものか、DNAとどんなかかわりをもっているのか、まったく見えてはいない状態で、そもそも遺伝のしくみの基本の解明が中途半端なままだったのだから、ジャコブはそうした不確実をめぐる仮説を抱きながらも遺伝子が実際にはどんなふるまいをするのか、その実験と研究に没頭していったのである。 

≪032≫  さかのぼれば、遺伝子生物学の前哨戦はメンデルのエンドウマメの交配実験にあった。交配後にどんな花の色や葉っぱの形が出てくるかということで、優性遺伝のしくみがわかった。 

≪033≫  エンドウマメの次はハエだ。コロンビア大学にいたトマス・ハント・モルガン(モーガン)が実験体にショウジョウバエを選んだ。1910年代にかかるあたりのことで、その何十万匹もがぶんぶんしている実験室は「ハエの部屋」と呼ばれた、ハエで何がわかったかというと、染色体上の遺伝子の位置が決まった。 

≪034≫  1930年代になると、ハエに代わって微生物、キノコ、酵母、バクテリア、ウイルスが分子映画の生きているスターになった。なかでもバクテリアをつかうと遺伝子の奥のDNAの役割が見えてきた。 

≪035≫  役割の見当はついたのだが、モノーとジャコブはそういう遺伝子がのべつはたらいているわけではないことを発見した。必要に応じてしかはたらかないのだ。 

≪036≫  「必要に応じて」というところが気になるが、しかし、それ以上のことはまだわからない。実験をバクテリアで試めすのか、ウイルスを用いるのか、その差も大きい。ふたたびハエが脚光を浴びたのはワトソンとクリックがDNAの構造を確定したあとの60年代半ばからのことで、胚発生でどんなふうに遺伝子が機能しているかを見るのに、ハエはうってつけだったからだ。 

≪037≫  モノーとジャコブがハエととりくんだのもここからで、とくに胚発生のメカニズムに注目した。二人は「必要に応じて」が「発現の調節」というしくみであろうことを仮説し、そこから遺伝情報をしるした塩基配列に変化がおこっていることを突きとめたのである。変化といえば聞こえがいいが、実際には遺伝テキストのプリントミスのことだった。 

≪038≫  遺伝子が「発現」(expression)にかかわっていることが見えてきたのは、画期的だった。遺伝子がもっている情報が、細胞の構造や機能に転換されるにあたって、「転写」と「翻訳」に続いて「発現調節」(つまりはgene editing)がおこっていたのである。 

≪039≫  遺伝のメカニズムをあきらかにするという研究は、生きているものたちがどのように成体の構造を何世代にもわたって維持していけるのかという解明につながる。それは一個の受精卵の中でプログラムされているはずのことである。 

≪040≫  何がプログラムされているのかといえば、情報がプログラムされている。やみくもな情報ではない。コーディングされた限定的な情報を、しかるべきモードに仕上げていくためのプログラムだ。  

≪041≫  いろいろの推断が可能だが、DNAの断片はあきらかにひとつのドメイン(分子の構造上あるいは機能上のひとつのまとまりをもつ領域)をプログラムとしてもっている。それによってひとつのタンパク質をつくりだす。ということは、その立体構造と静電荷が、認識能力と分子間の相互作用能力などを決めているということなのである。これが調節タンパク質として、生体を支えているにちがいない。 

≪042≫  そうであるのなら、そこにホメオティック遺伝子(HOM)などの作用を認めることもできる。そういうブリコラージュ的で編集的な遺伝子があるとすれば、かれらはおそらく状況対応型の遺伝子なのである。アントニオ・ガルシア=ベトリはそういうものを選別遺伝子とか遂行遺伝子とかと呼ぼうとしたが、ジャコブもそのような見方をすることにした。 

≪043≫  しかしこれらのことをさらに深く、かつダイナミックに考えるためにはハエだけでは限界があった。こうしたとき、モノーがパスツール研究所の所長になった。ジャコブもそこに移った。この研究所では以前からマウスが大量に飼われていて、一方では細菌学者がモルモットを、免疫学者がウサギを相手にしていた。 

≪044≫  当時、線虫を相手に悪戦苦闘していたジャコブは、ここでマウスを相手に根底的な遺伝メカニズムを考えるようになっていく。マウスは哺乳類のなかでは一番繁殖が速い動物なのである。ジャコブはマウスの胚発生に目を付けて、しばらく腫瘍をもったマウスを研究相手にした。癌の研究にとりくんだのだ。 

≪045≫  いったい、ハエやマウスを使って遺伝の秘密や生体の継承のメカニズムを調べるということは、それをヒトが解釈する場合にどんな有効力をもつのだろうかというと、これがなんともはっきりしない。  

≪046≫  ごくごく小さなメカニズムならハエもマウスもヒトも同じ機能で説明できるかもしれないが、はたしてそれをヒトという意識モニターをもった一個の巨大な個体にあてはめて、どこまで説明できるのか。難問である。  

≪047≫  ジャコブは自分たちの遺伝子工学研究が錬金術や機械工の部品彫琢に陥っていないのかどうか、いろいろ考える。これは生物学がどんな「モデル」を社会に提供したらいいのかという問題であるとともに、科学や技術にとっての「モラル」や「未来」の問題にもなっていく。 

≪048≫  そのあたりを議論すべく、第4章にこんな話が出てくる。ダイダロスとミノタウロスとテセウスとアリアドーネの話だ。有名なギリシア神話の中の話だが、それをジャコブが解釈する。 

≪049≫  ギリシア神話のなかでダイダロス(Daedalus)は格別な位置を占めている。ダイダロスは鍛冶屋であって建築家であり、彫刻家であって工人であって発明家である。工房にはとタロスという徒弟がいて、わずか12歳にして工具の発明をしていた。蛇の顎からヒントを得たノコギリがそうやって作られた。タロスは自分の発明をさかんに吹聴する。   

≪050≫  親方のダイダロスはそういう自慢気なタロスに困って、屋根から突き落とした。殺人の咎を受けたダイダロスはクレタ島に逃げた。そのクノッソスの宮殿で何でも作ってみせたので、ミノス王から絶賛された。王の信頼は絶大で、ダイダロスは王の女奴隷であったナウラティーとのあいだに息子イカロスをもうけた。 

≪051≫  ある日、ミノス王の王妃であるパシファエから相談を受けた。王妃は海神ポセイドンから贈られた雄牛に首ったけになり、自分を裏切ったミノス王に復讐をはたすため、その雄牛と思いをとげたいと言うのだ。さっそくダイダロスは木製の雄牛を作って内側を穿ち、そこに雌牛の皮を貼った。パシファエには、背中の折り畳まれた扉から中へもぐりこみ、牛の後ろ足へ自分の脚をすべりこませて待っているように教えた。 

≪052≫  案の定、雄牛がやってきて、パシファエは雄牛と交わることができ、数カ月後には牛頭半人の怪物を産み落とした。ミノタウロスである。この怪物は人肉しか食べなかった。 

≪053≫  妻の不義に怒り狂ったミノス王はダイダロスに牢獄を作らせ、そこにミノタウロスを閉じこめた。そこは通路が複雑な網の目状の迷路になっていて、一度入ったものは外に出られない。 

≪054≫  ミノタウロスの世話を仰せつかったダイダロスは、毎月アテナイから7人の若者と7人の娘を調達して、ミノタウロスに食べさせた。アテナイでは、優秀な若い男女たちがクレタに攫われていることが問題になった。どうもミノタウロスという怪物の餌食になっているらしい。そこで英雄テセウスが餌食となるべき男女にまじってクレタにやってきた。 

≪055≫  ミノスとパシファエの娘のアリアドーネがこのテセウスの勇姿に恋をした。しかし、よしんば迷路に入ってミノタウロスを打倒できたとしても、テセウスはどう牢獄を脱出できるのか。アリアドーネはダイダロスに相談をして、一巻きの糸を持ち、その一端を手にし、他端をテセウスに持たせて牢獄に侵入させた。みごとミノタウロスを屠ると、テセウスは「アリアドーネの糸」を手繰って脱出した。 

≪056≫  ミノス王はまたまた激怒した。すぐさまダイダロスと息子のイカロスを迷宮に閉じ込めた。ダイダロスは逃亡用の翼を作り、それを自分と息子の肩に蜜蝋で接着した。首尾よく上昇気流にのって二人は脱出したのだが、ダイダロスはイカロスに「霧や靄、水しぶきで翼が重くなるので、海面に近づかないように」と申し渡してあったのに、イカロスは自由飛行に酔い、自身の技量を過信して太陽に近づきすぎて翼を失い、墜落して死んだ。 

≪057≫  この話は、イカロスの「ヒュブリス」(Hubris)の戒めとして読み継がれてきた。傲慢、驕慢、過信の戒めである。ではダイダロスはどうだったのか。何の罪もないのか。これらの話では、いったい何があらかじめプログラムされていて、何が発現調節されているのか。ジャコブはそこを考える。 

≪058≫  ダイダロスは世界支配を可能にする技術の体現者だった。どんな難問にも挑み、なんらかの解決策があることを類いまれな技術によって見せつけた。しかもダイダロスは、その技術を依頼者の求めに応じて次々に提供しただけで、自分ではまったく権威も権力も握ろうしなかった。 

≪059≫  そういうところはダイダロスはすこぶるフェアであった。個人的な野心や役割の驕慢をもたず、ヒュブリスにも陥っていない。タロス殺しは犯罪ではあるが、タロスのヒュブリスを戒めてのことだった。ダイダロスは万人のためのプログラムが動く技術開発をしてみせたのだ。 

≪060≫  しかし、ダイダロスの技術を提供された者たちはどうしたかといえば、すべて自分たちの欲望を満たし、野心や復讐をとげるためにその技術を使ったのである。ミノス、パシファエ、テセウス、イカロスはヒュブリスのためにダイダロスの技法を使ったのである。 

≪061≫  こうしたことを綴ったうえ、ジャコブは当時の遺伝子工学の未来に照らし合わせ、ダイダロスの技術が「悪」を孕んでいたのだろうと指摘する。なかなかの指摘だった。 

≪062≫  いわば今日のダイダロスがクローン作物、遺伝子操作食物、試験官ベイビー、ドリー羊、キマイラマウスを生み出したと捉えたのだ。ジャコブはルイス・トマスによる「科学者のヒュブリス」の議論を引用しながら、この問題に深くかかわっていく。 

≪063≫  ジャコブが本書のなかで、ギリシア神話のプロットをもうひとつ使って考えこんでいたことも、紹介しておいたほうがいいだろう。第6章「善と悪」のところだ。今度はプロメテウスとパンドラの話である。  

≪064≫  プロメテウス(Prometheus)はエピメテウス(Epimetheus)と兄弟の関係にある。プロ(pro=先に・前に)+メテウス(metheus=考える者)と、エピ(epi=後に・あとで)メテウスする者という兄弟だ。 

≪065≫  ゼウスが神々と人間を区別しようとしたとき、プロメテウスはその仕事を任せてほしいと懇願し、区別の仕方をゼウスに差し出した二つの食べ物で決められるようにした。牛の肉と内臓を堅い皮で包んだもの、骨の回りを脂身で包んだもの、この二つだ。ゼウスが神々の食べ物として、きっと脂身に巻かれた骨を選ぶだろうと計画したのだった。ゼウスはまんまと引っかかった。怒ったゼウスは人間から火を取り上げた。 

≪066≫  プロメテウスはヘパイストスの作業場の炉から火を盗んで、これを人間にもたらした。これが「プロメテウスの火」というものだ。アテナイの女神はそんなプロメテウスに天文学、数学、建築術、航海術、医術などを惜しみなく与えた。それらはプロメテウスによってすべて人間に提供された。 

≪067≫  しかし騙されたゼウスの怒りはおさまらない。のみならず、そのようにして増長した人間を「野心が過大になりすぎている」とみなした。ゼウスは自分と神々を騙したプロメテウスを岩山に縛りつけて罰した。プロメテウスは縛られた身のまま人間たちを不幸の道連れにせざるをえなかった。  

≪068≫  ゼウスはまた、パンドラ(Pandora)という女を造り、彼女をして人間を罰するように仕向けた。パンドラはゼウスから格別な壷(パンドラの箱)を贈られた。そのパンドラの容姿にエピメテウスが惚れた。二人は一緒になった。しかし、ある日、パンドラは好奇心と誘惑に勝てず、壷を開けた。そこにはありとあらゆる厄災の要素が充満して詰められていた。こうして人類は厄災にさいなまれることになった。 

≪069≫  ジャコブはプロメテウスとパンドラの関係が裏表の関係にあり、パンドラが世界に両義性をもちこんだと解釈する。科学や技術もこの両義性をもっていると見た。 

≪070≫  もともと科学技術はいつも二つの世界像のあいだにいる。両方の世界にともに貢献できる。貢献できるが、その意味は異なってくる。マウスではわかりにくいだろうから、ジャコブは犬を例にするのだが、科学のミッションはひとつは「日常の犬」(我々の大きさの我々)に貢献すること、もうひとつは「分子の犬」(我々をつくる小さな我々)に貢献することなのだ。 

≪071≫  「日常の犬」を相手にするのは、たとえばコンラッド・ローレンツ(172夜)やE・O・ウィルソンや、応用化学者や多くの犬好きたちである。それに対して分子生物学者たちは「分子の犬」を相手にするダイダロスであって、プロメテウスであり、その成果はパンドラの壷なのである。 

≪072≫  ジャコブは自分たちが手にしている科学が、生命の内奥にかかわる両刃の剣であることに感づいていた。メッセンジャーRNAの中に遺伝子を転写できるかどうか、ペプチド連鎖の中にメッセンジャーの転記ができるかどうかを操作的に考えることを分子生物学はやってのけられるのだ。 

≪073≫  だが、それがどんな成果を人間社会の未来にもたらすかはわかっていない。それは原子力が新たな「プロメテウスの火」であることに似て、その善悪はむろん、効果の大小すら当初においてはほとんどわからない。 

≪074≫  かくて、どちらの犬がほんものかはわからず、科学や技術がどちらに貢献すべきか決定打はないのだが、科学者や技術者がすべてのプロセスを説明しようとすれば、おそらく「分子の犬」を想定するのが妥当だということになる。そうすれば、分子生物学ならばどの酵素もどのタンパク質も、それに見合うアミノ酸配列として特定できるからである。 

≪075≫  しかし「分子の犬」がダイダロスの牛かパンドラの壷になっているのかどうかは、科学技術の発展途上ではどうしてもわからない。しかも現代においては「ゼウスの怒り」がどこからくるのかも、はっきりしない。「ゼウスの怒り」は一人の患者の死であるかもしれないし、WHOの判定かもしれないし、科学者の過剰実験によるキマイラ出現かもしれない。  

≪076≫  ジャコブは本書の終盤にいたって、心する。自分は「分子のブリコラージュ」に徹するべきなのであると。科学的編集のプロセスに従事しつづけるのであると。 

≪077≫  なぜなら、冒頭にも引いておいたのだが、「わたしたち人間は核酸と記憶の、欲望とタンパク質の、とんでもない混合物」であって、「20世紀は核酸とタンパク質に大いに関わ」り、「21世紀は、記憶と欲望の解明に全力を集中することになるかもしれない」からである。「しかしはたして、そのような問題は解決できるであろうか?」。そう、言わざるをえないからだ。 

≪078≫  すでにヴィクトル・ユゴー(962夜)が言っていた、「科学とは真理の漸近線である。たえず真理に近づくが、真理に触れることはない」。ハエとマウスにあてはまることは、なるほど「分子の犬」にならあてはまるけれど、ヒトのすべてにあてはまるとはかぎらないのである。  

≪079≫  ハエ、マウス、ヒト。この並びにはどこかとんでもない飛躍か断絶かが、ひそんでいる。何もかもが予測できるなどと過信しては、まずい。そんなことをしていれば、どこかで翼が溶けるか、過剰な自己言及がたまった箱がひっくりかえるのだ。 

ついに「うんこ」の千夜千冊だ。

とうとうこの日がきてしまったかなどと、ゆめゆめ思わないでほしい。

以下に書くように、ぼくはフンベツにはけっこう愛着をもってきた。

でも、本格的にはとりくんでいない。

本書のウォルトナー=テーブズはそのてん、筋金入りだ。

「国境なき獣医師団」の創設者でもある。

このウンチクをお読みいただきたい。

ヒエラルキーに代わるホラーキーとパナーキーと、そしてレジリエンスとホロノクラシーについても、

フンフン感じてほしい。



≪02≫  懐かしい話からしてみたい。 ぼくが最初にテレビに出たのは、NHK教育テレビの「若い広場」という番組だった。『江夏の21球』や『スローカーブを、もう一球』で話題をふりまいていたスポーツライターの山際淳司(609夜)が司会をしていた。そこで「松岡正剛の世界」という特別番組が組まれた。 

≪03≫  スタジオ撮りだったので、自転車の部品や気圧計や鉱物標本や月球儀などをぐるりとグレーのサイコロ台の上に並べて、それらを順に手にとりながら話した。番組の最後はカメラに向かって若者たちに何かのメッセージを喋るというシーンになっていた。そこでぼくは、なんとウンコの話をしたのである。 

≪04≫  「われわれは自分が一個の生命をもった人間だと思っているけれど、そういう認識はたいへんおぼつかない。細胞はしょっちゅう入れ替わっているし、体の中にはたくさんのバクテリアも寄生虫もいる。だいいち何かを食べると、それは自分のものになっているように感じるが、そのうちウンコになって外に出る。そのウンコは出たばかりはひょっとしたら“私のウンコ”なのだろうけれど、水洗をジャーッと流したあとも、それを“私のウンコ”“私のウンコ”というふうに呼び続けるわけにはいかない。どうしますか‥‥」といったような話だった。 そんな話をしたせいか、その後テレビからとんとお呼びがかからなくなった(笑)。 

≪08≫  精神医学者の岩井寛(1325夜)は「真の美術教育にはウンコを写生させるといい」。そのころ岩井さんは精神障害者に絵を描かせていた。イラストレーターの長新太は「ぼくのウンコはコロコロしているから、手に乗せたい」。荒木経惟(1105夜)は「もっと太いウンコが出ないといけないなと、いつも思想している」。アラーキーは新入社員の面接試験でウンコのことを聞くといいとも書いてきた。山田風太郎は「一日一便、人類はみな糞友」。これは凄い。「ヤケクソの意味をもっと探求したい」とも言っていた。これも参った。うんこのおもちゃを作っていた岡本謙治は「あの握り具合の意外性に執着したかったのです」。 

≪010≫  民族音楽研究の小泉文夫(601夜)は「うんこは体調のバロメーターだから脈拍や血圧と同じように見るべきものでしょう」。「紙で拭く文化」と「水で洗う文化を交流させたい」とも言っておられたが、それは20年後、ウォシュレットで実現した。万人が認めるうんこ博士の中村浩は「セッチンや太古のままの糞の色」。中村センセイは白髪で美しい紳士だった。 

≪011≫  永六輔は「やっぱり野糞がとどめです」。天才おなら少年の松下誠司は「ぼくのおならは肛門から空気を吸い込むから匂わない」。数学者の森毅は「クソとともに生まれたヒトが、クソとともに死ねる環境をつくるべきだ」。岡山の怪人・能勢伊勢雄は「ウンコは魂の異性体だ」と言って、さらに「う~ん」という息み声の次元についても考察してくれた。  

≪09≫  マンガ家の秋竜山は「ウンコによって石油にかわる新エネルギーがつくりだせるような気がする」だった。この予感は最近では排泄物を再利用したバイオダイジェスターによる発電の工夫などとして検討されている。 

≪010≫  民族音楽研究の小泉文夫(601夜)は「うんこは体調のバロメーターだから脈拍や血圧と同じように見るべきものでしょう」。「紙で拭く文化」と「水で洗う文化を交流させたい」とも言っておられたが、それは20年後、ウォシュレットで実現した。万人が認めるうんこ博士の中村浩は「セッチンや太古のままの糞の色」。中村センセイは白髪で美しい紳士だった。 

≪011≫  永六輔は「やっぱり野糞がとどめです」。天才おなら少年の松下誠司は「ぼくのおならは肛門から空気を吸い込むから匂わない」。数学者の森毅は「クソとともに生まれたヒトが、クソとともに死ねる環境をつくるべきだ」。岡山の怪人・能勢伊勢雄は「ウンコは魂の異性体だ」と言って、さらに「う~ん」という息み声の次元についても考察してくれた。  

≪013≫  荒俣宏(982夜)はお尻に「肛門リング」をはめることによってウンコを自由な形に造作すべきだというアイディアを提案した。荒俣君らしい。とりいかずよしは「まるで我が子のように見つめます」。 

≪015≫  もっとある。雲古(ウンコ)に対して失古(シッコ)という綴りを提案する中国文化研究の中野美代子は「うんこは輪廻と循環の永遠のシンボルだ」。当時の上野動物園飼育課長だった小森厚は「動物のくそこそ多様な情報をもっている」。五味太郎は「宇宙は桃割れで、ぼくたちの星の生命体は母なる宇宙の排泄物なんです」。鎌田東二(65夜)は数句をひねった。「いい気持ち糞出(インダス)川にいびりぐそ」。 

≪016≫  ミイラを撮って話題になった写真家の内藤正敏は「もっともっとありがたいという気持ちを抱くべきです」。そして松岡正剛は「ウンコは凝集したアナキズムではないか」‥‥。 

≪014≫  そのころぼくに初の小説を上梓してほしいと頼んできていた草間彌生は「太くたくましく偉大なのが横たわっているとき、感嘆の声をあげる。水に流すのがもったいないくらい」。食料資源開発協会会長でトイレ学者の李家正文は「神話は日月の糞から派生したようなものです」。だから「ウンコを感じることは神話時代とともに生きることだ」と奨励する。この特別号に多大の努力を発揮した高橋秀元はこう書いた、「糞は全生物がとる最終的な色である」。 

≪020≫  最近では「国境なき獣医師団」の創設者として有名になった。だから、しょっちゅう世界各地の生き物を求めて歩いている。歩いてみて、いかに糞尿が重要な地域差や文化圏をつくってきたかということを思い知ったらしい。とくにタンザニアをくまなく歩きまわったことが著者を変えた。 

≪021≫  本書の原題は“The Origin of Feces”である。直訳すれば『糞便の起源』とでもなるが、これはダーウィンの『種の起源』をもじったものだった。冒頭に、「ウンコと肥料の区別がつかない連中は原子力の話をしないほうがいい」というすごい一文がある。痛烈だ。 

≪022≫  ウンコは科学と社会学にとって、ながらく「ウィキッド・プロブレム」(やっかいな問題)だった。たかがウンコではあるけれど、これが生態系や人間社会に及ぼす影響は途方もなく大きい。 

≪024≫  たとえばパリが文化都市として「花の都」と呼ばれたのは、オスマン市長らの悪臭・糞便・疫病対策が断行されてからずっとあとのことで、それまでは最悪だった。1608年には国王アンリ4世が「家の窓から糞尿を投げ捨ててはいけない」という奇妙な布告を出し、その100年後の1777年にもルイ16世があいかわらずの「窓からの汚物の投げ捨てを絶対禁止する」という法令を定めたほどだった。 

≪026≫  いやいや、19世紀のパリまでさかのぼることもない。ぼくの京都の家は中学3年まで水洗トイレがなく、ずっと汲取り式だった。その便所も冬はぶるぶる震えるような縁側のさきっぽにあった(昭和30年代のことだ)。 

≪023≫  人間社会にとって糞便が大問題だったことは、下水道と水洗トイレを完備していなかった歴史がべらぼうに長かったことを思えば、すぐに了解できる。 

≪027≫  ひと月に一度、汲取りのおじさんたちがやってきて、最初は天秤型の大バケツで、ついでは外に停車させたバキュームカーから延びてくる大蛇のようなホースで、わが家族の成果を蛇腹をぶるぶるふるわせながら運び去ってくれていた。「市中の山居」とはこのことだったのだ(笑)。 

≪028≫  自然界にとって、ウンコがもっている意味と意義は大きい。 本書の序章にはアフリカの生き物たちが何を食べて、何を排泄しているかが空の上の鳥の目のように一挙一瞥されているのだが、そもそも動物たちが何を食べているかが、とんでもなく多様なのである。食べ物が違えば体のしくみも違ってくるし、そのあとの排出物も変わってくる。  

≪030≫  それらの多様な食事の結末は、当然ながら多彩な排出糞便の生態をつくりだしている。食べたら、何かが出てくるのは当然なのである。金魚だってウンコをしつづける。 

≪032≫  循環はたんにぐるぐるまわっていれば成立するというものではない。捕食による食物連鎖だけでは循環しない。最終排出物を処理できる連中も必要だ。かくて、食物連鎖の各所に「菌食」と、そして「糞食」が加わった。糞食とはウンコを食べてくれる連中の食事のことをいう。 

≪029≫  動物の食事には、ざっと見ても「菌食・草食・屍肉食・肉食・雑食・腐食」などがある。みんながハンバーグやサラダ巻が好きなのではない。かれらの食品には賞味期限もない。腐ったものも平気で食べる。コンドルやハイエナだけではない。多くの微小生物は腐乱を腐乱とは思わない。 

≪031≫  この「食べたら出てくる」という自然の摂理は、しかしどこかで循環しなければならなかった。でなければ原子炉の廃棄処理物のように、とんでもないものが、どこかに累々とたまるだけである。それは生命自身と生態系の活動を脅かす。そこで生き物たちは「食べたら出てくる」をせっせと循環させていった。 


≪033≫  アフリカにはスカラベ(ふんころがし)のような糞食動物がたくさんいる。ウォルトナー=テーブズは夢中になった。 スカラベ(scarab)は偉大な生物である。コガネムシ科に属していて、太陽の光があたるとキラキラする昆虫だが、ファーブルが『昆虫記』に詳細な観察記録を綴ってその名を記したときすでに「スカラベ・サクレ」になっていた。「聖なるスカラベ」だ。ウンコを食べてくれる聖虫なのだ。和名はタマオシコガネとかフンコロガシになっているが、ファーブル先生同様、もっと敬うべきだろう。 

≪034≫  ファーブル以前、スカラベを最大級に敬っていたのは古代エジプト人だ。太陽神ケプリと同一視して、スカラベを「死と復活と誕生」のシンボルにした。象形文字にも印章にも彫像にもなった。いまでは100万円は当然のこと、3000万円をこえる宝飾品もある。 

≪035≫  スカラベは体長は平均26ミリくらいだが、アフリカの哺乳動物たちがウンコをすると独特のアンテナを利かしてどこからともなく飛んできて、ノコギリのような前脚でうんこを幾つかに刻み分け、これを巧みにまるくして転がしていく。アタマを下にして逆立ちするように、まるで運動会のように玉を転がしていく姿は、いまやドキュメンタリー映像でもおなじみだ。巣穴に持ちこんで保存食にするわけなのである。 こうして保存ウンコは食用だけでなく、土壌の生態系を活性化させる。 

≪036≫  それにしても驚くのは、スカラベのように糞食をする「糞虫」(Dung beetle くそむし・ふんちゅう)たちが、地球上にはざっと5000種から7000種ほどいるということだ。 

≪037≫  ゾウのウンコを食べる糞虫だけでも100種類以上になるらしい。『ふんコロ昆虫記』(トンボ出版)の編著がある塚本珪一さんによると、日本には145種類の糞虫がいるそうだ。こうした地球上の糞虫たちの個体数を言いだしたら、まさにガンジスの真砂ほどに数知れないだろう。  

≪038≫  むろんかれらにも好みがある。オーストラリアの糞虫はカンガルーなどの堅いウンコを好むので、びちゃびちゃのシュークリーム状にはちっとも見向きもしない。硬めのカリントウが好きなのだ。こうした糞虫には朽木や腐食植物をウンコとして食べるものもいる。そこには共生をこえる事態が進行してきた。  

≪039≫  ぼくがびっくりしたのは、オガサワラゴキブリにまつわる出来事だ。 このゴキブリは熱帯性昆虫で、鳥の糞(ふん)に寄ってくる。糞を食べるためではなく、植物を食べるためだ。鳥の糞と尿がまじったものは窒素とリンに富むためで、それだけで栄養満点なのである。 

≪041≫  次にこのゴキブリを鳥がパクリと食べるときがくる。ところがここで事態はおわらない。ゴキブリと一緒に食べられた寄生虫は温かい鳥の体内でまんまと孵化し、食道を伝わって咽頭まで上がってくるらしい。わずか5分で虫はたちまち涙管に達して眼に入り、今度は瞬膜にひそんで成長する。成熟した寄生虫はそこで交尾してちゃっかりと卵を産む。その卵が鳥の涙で流されて鳥の糞尿と一緒に排出される。  

≪040≫  糞まじりの土を掘り返して草木を齧るうちに、ゴキブリは寄生虫マンソン眼虫の卵をふくんだ鳥の糞を食べる。そうすると、寄生虫の幼生はゴキブリの体内で何度か変態をして、やがてシスト状態になっていく。シスト(syst)というのは微小生物がつくる包膜や包嚢のようなもので、細胞体や幼生が仮眠あるいは休眠状態になることをいう。ウンコ環境にはこのシストが重要な役割をもつ。   

≪042≫  こうしてその鳥のウンコに、またゴキブリが惹かれて寄ってくる。その繰り返し、その繰り返し‥‥。「行く春や鳥啼き魚の目は涙」(芭蕉)。 これは、糞尿生態系が寄生虫を循環させているとも、寄生虫が糞尿生態系を循環させているともいえる出来事だ。意外な「涙のチカラ」(1548夜)を感じさせる出来事でもあった。 

≪043≫  もともとバクテリアや菌類や糞虫や寄生虫のような微小生物にとっては、排泄物などという段階がない。土壌・草木・腐食・朽木はかれらと同態の環境であり、かれらの生き方そのものなのである。かれらこそが食物連鎖の断点や隙間をていねいに補ってくれているのだ。 

≪044≫  われわれの文明は糞尿と悪臭を生活の眼前から消し去って、なんとか下水道に流し、あとは済まし顔でいるけれど、これは自然と生き物の循環サイクルの片方だけを断ち切った対処だった。本書は、この片割れの文明、片肺飛行の文明に、いつしか排泄物が反撃を加えるだろうと予告する。   

≪045≫  糞食(ふんしょく)をするのはバクテリアや昆虫だけではない。シカは子鹿が生まれてから一カ月はそのウンコを食べる。 

≪046≫  動物たちにとっての糞食は上等な栄養なのである。ウサギはタンパク質と水溶性ビタミンを摂取し、ハツカネズミはビタミンB12と葉酸を摂る。実験用のハツカネズミに糞を食べさせないようにすると、すぐにビタミンB12とビタミンKの欠乏症をおこすことがわかっている。 

≪047≫  われわれはウンコを食べないが(オシッコを飲むという療法はあるらしいけれど)、人間社会でもそれなりにウンコは利用されてきた。窒素とリン酸が含まれているため肥料として活用できたことが大きい。鶏糞・牛糞・人糞が肥料すなわち下肥(しもごえ)になる三大ウンコなのである。 

≪048≫  もっとも人糞を下肥にほぼ完璧に活用してきたのはアジアが多く、それが社会制度にまでなったのは中国と日本くらいのもので、各国では成功していない。 

≪049≫  とりわけ日本は人糞を肥料にすることで、都市と農村のバランスを保ち、稲作や畑作という社会経済技術の水準を保ち、都市部における衛生力を高度に保った。著者はそこには日本人の世界に冠たる知恵が生きていると言う。 

≪052≫  アステカでは排泄物と有機廃棄物は集められて下肥(しもごえ)や皮なめしのために売られていたし、ペルーではインカ族がトウモロコシの栽培のために排泄物を乾かしてそれを粉末にしていた。12世紀にスペインに住んでいたアラブ人のイブン・アルアッワームは人糞を交ぜて堆肥をつくる技術を書きのこして、この堆肥をつかえばバナナ・リンゴ・桃・柑橘類・イチジク・ブドウがかかる病気が治ると記している。 

≪053≫  ヨーロッパでは排泄物と洗いものに使った雑廃水を園芸に使うのが一般的で、ミラノ近くのシトー修道会では1150年には排泄物と廃水を農業に利用し、ドイツのフライブルクでは1220年には住民がこの方法で牧草地の潅漑を工夫していた。 

≪054≫  欧米が日本と異なるのは19世紀の工業社会になって、未処理の排泄下水を肥料につかうようになったことである。 ニューヨークでも19世紀半ばの記録に、一部の市民が人糞を下肥として周辺の大型農場に販売する事業をしていたことが示されている。市民はその金で野菜などを購入した。 

≪055≫  20世紀になると、こうした下肥ビジネスをはじめ人糞の再利用が抑制されるようになった。ひとつには化学肥料が出回ったこと、もうひとつには公衆衛生がリサイクルより重視されたことによる。 

≪056≫  ちなみに下肥は英語では「ナイトソイル」と言う。人肥(じんぴ)は「ヒューマニュア」だ。なんとかかっこよく言おうとしているが、あまり定着していない。固体有機廃棄物を意味する「バイオソリッド」として十把ひとからげにされることが多い。 

≪057≫  グアノも利用されてきた。 グアノというのはコウモリや鳥の糞(ふん)のことだ。鳥の糞はペレットとしてその成分がかなりはっきりわかる。そこには窒素、アンモニア、尿酸、リン酸、炭酸、シュウ酸がたっぷり含まれている。

≪058≫  このため南米では土壌を肥やすためにつかわれてきたのだが、1840年代にヨーロッパ人がその戦略的価値を発見した。グアノは肥料にも火薬にもつかえる硝酸アンモニウムの原料となることがわかったのだ。とくにペルーやチリのグアノは硝酸塩が雨で溶脱することが少なく、その質がよく、大いに注目された。その鉱床をめぐって“グアノ戦争”がおこったほどだ。 

≪059≫  ロバート・マークスは『現代世界の起源』のなかで、18世紀から19世紀にかけて人口が爆発したのは、そして近代戦争がおこったのは、南米でグアノの大鉱床が発見されたせいだったという説を立てている。実際にも1865年にはスペインがグアノ採掘をめぐってチリとペルーと戦争をおこしている。 

≪060≫  アメリカはもっとちゃっかりしていて、連邦議会でグアノ島法を可決すると、どんなアメリカ人もグアノに覆われた無人島を合衆国のために領有することができるとした。ミッドウェイをはじめ、太平洋の50以上の島々がこうしてアメリカの手に落ちたのである。鳥の糞は硝酸となり火薬に変じて、世界を戦争に巻きこんだのだ。 

≪061≫  このように重要きわまりないウンコなのだが、その正体についてはまちがった知見も誤解も多い。 最もまちがっているのは、ウンコは食べもののカスだとか、消化しきれなかったものの残りカスだと教えられてきたことだ。これはおかしい。食べものの残滓はウンコの僅か5パーセントにすぎない。 

≪062≫  ウンコを構成しているのは、胆汁などの分泌物、腸壁細胞の死骸、細菌類の死骸、大腸菌などの腸内細菌、未消化の植物繊維、毒物、そして60パーセントの水分なのである。 

≪063≫  そもそもわれわれ温血動物の大半には、口(O)からお尻(A)まで管状の消化管が貫いている。口が外に開いて、肛門がまた外に開いているのだから、これは消化管が“外界”であるということである。すでに稲垣足穂(879夜)がいみじくも「AO円筒」と名付けたように、われわれは体内に「細い管状の外部環境」をもっているというべきものたちなのだ。 

≪064≫  だから消化管には、外から何でも入ってくる。食べものも入ってくるし、さまざまな菌も入る。これに対して筋肉や器官は内部組織であって、これらは無菌の組織たちである。そこで、消化管は外からとりこんださまざまなものを消化しつつ、必要な養分を血液とともに組織におくりこみ、残ったものを細菌・雑菌を含めて尿、ウンコ、胆汁、汗、呼気を介しつつ外に排出するようにしたわけだ。これがAO円筒がやっていることだ。 

≪065≫  もう少しウンコについてのジョーシキを書いておく。シキソクゼクー、シキクソゼクー。 われわれのウンコ、すなわち人糞が茶色や黄土色になっているのは、なぜか。残りカスのせいではない。胆汁のせいだ。胆汁の中のビリルビンが腸内細菌によって代謝されてステルコビリンになって、あの艶やかな茶色や輝かしい黄金色になる。  

≪066≫  むろん色調はいろいろ変わる。肉食などの動物性タンパク質を多く摂取していると褐色が強くなり、穀物・豆類・野菜が多いと黄色になってくる。 分量や形状も千差万別だ。食物繊維や炭水化物をたくさん摂っていると、便は大きく太くなり、高カロリー高脂肪のジャンクフード系ばかりを食べていると、細くなっていく。幼少時のウンコが比較的大きいのは括約筋の調節が利かないからで、年齢を重ねるうちにウンコは細く巻かれるようになる。 

≪067≫  成人男子は1日平均で100~250グラムを排便する(尿は一日平均1・2リットルを出す)。これで計算すると、人生およそ80年として、われわれはたった一人で約15トンのウンコを世界にもたらしていることになる。とんでもない量である。しかもこれは人糞だけで、ここに膨大な生物たちの排出量がかぶさってくる。 都市をつくり、下水道をつくった以上、せめて人間は人間の糞尿くらいはなんとかするべきなのだ。 

≪068≫  では、なぜウンコは毛嫌いされてきたのか。これまでウンコが嫌悪されたり禁忌されてきたのは、主としてあの臭いのせいである。臭いの原因はインドール、スカトール、硫化水素がまじっているからで、これでは臭い。 

≪069≫  しかし、われわれが少しでも草食動物に近づけば話はちがってくるし、ヒトのウンコだって陰干しのように放っておけばそのうち乾燥し、もっと放っておけばついには化石のようになっていく。鉱物学や化石学ではこれを「コプライト」と言っている。「コプロリス」というものもあって、こちらは腸内で固くなってしまったウンコ玉のことだ。いずれも堂々たる地質的産物に近いものであるが、問題はそこまで人間社会は待てなかったということなのである。 

≪070≫ 「自分の匂いは懐かしい」とは言うものの、われわれはなかなか自分の排出物にすら愛着をもてなかったのだ。 

≪071≫  その点、動物たちはウンコが平気だった。かれらのウンコは「種の本質」のまま今日までまっとうしてきた代物だったからだ。鳥のペレット、ウサギの円盤状ウンコ、シカやヤギの楕円状ウンコ、いずれも一貫してきた。  

≪073≫  ウォルトナー=テーブズは排泄物と人間社会とのあいだに、心理学的にあまりに曖昧で、どうにも歪んだ関係がディープ・インプリンティングされてきたことも、心配している。きっとフロイト(895夜)が肛門性欲や肛門禁忌を強調しすぎたことにも原因があるだろうと書いている。 

≪074≫  この歪んだ関係は「世界中でウンコの呼び名がなかなか決まらない」という、考えてみればそうとう異様な国際事情にもあらわれている。 

≪075≫  たしかに、そうだ。日本でだって決まっていない。うんこ、ウンコ、うんご、うんころ、雲古、ウンチ、うんちょ、うんにゃ、うんぴ、ふん、糞(くそ)、糞便、大便、便(べん)、糞尿、ばば(ばばさん)、ばっこ、まる、くそまる、まんぐー、ぽん‥‥云々。こんなふうに国内各地でつかわれてはいるけれど、どれも正式名称にはなっていない。 

≪077≫  世界中がそうなのだ。英語の“SHIT”も、とても市民権を得ているとは言いがたい。あれはウンコの名称というより、吐き捨てたような「糞ったれ!」なのだ。「クラップ」(crap)も投げ捨てたようなニュアンスである。 

≪078≫  そのほか、マニュア、ダング、オーデュア、フラスなどがあるようだが、いずれもアヤメにもカキツバタにもなれないでいる。イスラム社会の「ナジャス」だって、不浄物として当初の当初から避(よ)けてきた用語になっている。タイ語のウンコには「不潔な妖怪」という意味すらあるらしい。 


≪079≫  これでは科学者も社会学者もジャーナリズムも困る。論文にも記事にもなりにくい(笑)。それなのに誰も責任ある提案をしていない。みんながみんな、ウンコの呼び名を憚ってきたのだ。ウンコは歴史を通じての「憚りもの」なのだ。 

≪080≫  そこで、世界トイレ機構の創設者であるジャック・シムが大決心をして「エクスクレメント」(排泄物)とするのが一番だと提案したらしいのだが、広まらなかった。そこにはウンコ臭さがなかったのだ。著者もこの件に関してはお手上げのようだ。「ブルシット」(牛の糞)がぴったりした感じがすると言うのだが、自信はないらしい。 

≪081≫  一方、海洋生物学者だったラルフ・ルーウィンは排泄物をめぐる語彙をすべて収集して、その集大成本に「メルド」(MERDE)というタイトルをつけた。“Merde : Excursions in Scientific, Cultural, and Socio-historical Coprology”(メルド:科学的、文化的、社会歴史学的糞便学への旅)である。英語の言い回しをたくみにフランス語ふうに避けたようだが、これもさっぱり市民権を獲得していない。 

≪082≫  さて、本書は終盤にさしかかって、「いったいウンコは誰のものなのか」という問いを何度も発していく。また、ウンコは「文明のダークマターなのか」とも問う。そして、この問いを生態学や疫病学や、社会制度や政治政策だけで解釈するのも、解決するのも、限界がありすぎると述べる。 

≪083≫  たとえば森林生態学のボーマンやライケンズたちは「森にひそむ糞のネットワーク」を研究してはいるのだが、糞虫の実態ほどにはその他の糞ネットワークがまだまだわかっていないと言う。 

≪084≫  糞便がもたらす細菌やウィルスの感染経路の研究も、なかなか充実しない。鳥インフルエンザは渡り鳥の糞(ふん)と飼育ニワトリのあいだに原因があるのだろうが、それがどんな経路やどんな分量によって発症するにいたるのかは、ほとんどわかっていない。対策は家畜たちの発症を知ってから大量のニワトリを殺すだけなのである。 この問題を解くには、ではわれわれにとって「渡り鳥」とは何なのかという茫漠たるモンダイにまで心を広げていかざるをえないのだ。  

≪085≫  もっとめんどうなモンダイは、家畜たちが食べている飼料に、とっくに薬剤耐性菌が含まれていて、ここには「ウンコとクスリの複雑回路」さえできあがっているということである。 

≪086≫  イベルメクチンという駆虫剤がある。ヒツジ・ウマ・ブタ・ウシの消化管と肺にいる銭虫・シラミ・ダニ類・ウシバエなどを駆除する能力が抜群で、農家にも獣医師にもよろこばれている。しかし、イベルメクチンは糞を化学処理してきた虫やバクテリアも殺す。ウンコはたんなるウンコではなくなっているのだ。 

≪087≫  そこで、新たなリサイクルこそが構想されるべきだということになってきた。そしてここに「バイオソリッド」という糞尿有用システムが登場するのだが、これがまたなかなかの難問なのである。 

≪088≫  バイオソリッドは都市部の糞尿と下水を再処理して窒素・リン・銅・鉄・モリブデン・亜鉛などの有用成分を適量に精製保持しつつ、有害物質と過剰な重金属を慎重に取り除いて得られるものをいう。 

≪089≫  いま、バイオソリッドは世界中の都市の下水処理から生成されている。そこまではいいのだが、このバイオソリッド生成のために加えられている数々の薬剤がすでに新たな生態系にくみこまれているということに、かなり複雑なモンダイが潜在する。  

≪090≫  かくていまやウンコを今日の文明の課題にするには、かなりの学術理論やシステム工学が総動員される必要がある。そこで、ジェイムズ・ケイは生態系と社会システムとの高度な「混合」と「編集」の可能性をさぐり、そこに生命、エネルギー、物質、情報、廃棄物、価値観などのファクターがどのように入り乱れて関与するかをあきらかにしようとした。 

≪091≫  とくに畜糞処理が、子供の貧困、母子保健、人口抑制、クジラの減少、農薬汚染、鳥インフルエンザ、コレラ流行、サルモネラ症、子供の肥満、交通事故などとなんらかのチャンネルとルートによって響きあっていることをあきらかにした。  

≪087≫  そこで、新たなリサイクルこそが構想されるべきだということになってきた。そしてここに「バイオソリッド」という糞尿有用システムが登場するのだが、これがまたなかなかの難問なのである。 

≪088≫  バイオソリッドは都市部の糞尿と下水を再処理して窒素・リン・銅・鉄・モリブデン・亜鉛などの有用成分を適量に精製保持しつつ、有害物質と過剰な重金属を慎重に取り除いて得られるものをいう。 

≪089≫  いま、バイオソリッドは世界中の都市の下水処理から生成されている。そこまではいいのだが、このバイオソリッド生成のために加えられている数々の薬剤がすでに新たな生態系にくみこまれているということに、かなり複雑なモンダイが潜在する。  

≪090≫  かくていまやウンコを今日の文明の課題にするには、かなりの学術理論やシステム工学が総動員される必要がある。そこで、ジェイムズ・ケイは生態系と社会システムとの高度な「混合」と「編集」の可能性をさぐり、そこに生命、エネルギー、物質、情報、廃棄物、価値観などのファクターがどのように入り乱れて関与するかをあきらかにしようとした。 

≪091≫  とくに畜糞処理が、子供の貧困、母子保健、人口抑制、クジラの減少、農薬汚染、鳥インフルエンザ、コレラ流行、サルモネラ症、子供の肥満、交通事故などとなんらかのチャンネルとルートによって響きあっていることをあきらかにした。  

≪092≫  この見方には「レジリエンス」(復元力)という視点がいかされている。 文明が基準としたい状態を想定し、その状態がどの程度の毀損や過剰や欠乏を示しているかということから、その「復元力」を計測し議論しようというものだ。まだ始まったばかりの試みだが、すでにカナダの生態学者C・S・ホリングらの研究にもとづく「ネットワーク・レジリエンス・アライアンス」(NRA)なども活動している。 

≪093≫  NRAのメンバーのあいだでは「パナーキー」という合言葉が人気をもっている。われわれのあいだに見られる自然や社会における複合的で多層的な発展・崩壊・変化の総体を「パナーキー」と呼ぼうというのだ。すでにパナーキー力学が提唱されているらしい。 

≪094≫  かつてアーサー・ケストラーは、社会やシステムを「ハイアラキー」(階層秩序)と捉えるのではなく、入れ子型の「ホラーキー」と捉えるべきだと提案した。その主著はぼくが工作舎で刊行した『ホロン革命』に詳しく述べられている。  

≪095≫  ケストラーは、自然や世界は二つの顔をもつヤヌスのようなもので、生物・人間・家族・社会・領域・国家・民族・言語・価値観は、それぞれ独自の内部規則をつくりながらも、その全体とのフィードバックをもつ「ホロン」(関係的全体子)によって相互作用をおこしているという考え方を示した。ホロンがつくる構造がホラーキーなのだ。 

≪096≫  NRAの「パナーキー」はこのホラーキーをさらに発展させたものだった。元トロント大学の環境研究所の所長をしていたヘンリー・レギアーは、さらにケストラーのホラーキーとNRAのパナーキーを合流させた「ホロノクラシー」というシステム観を提案もした。 

≪097≫  そもそも生態系は生産者と消費者と分解者からできている。 自然界での生産者は太陽光と環境中の幾つもの要素をつかって、生産物、すなわち食物をつくりだしている。その生産物を利用しているのが他の生物と人間とバクテリアという消費者である。この消費者は生産物の利用・合成・転換が得意になっていく。しかしこれらはすべて死んだ生物となり、多くの廃棄物を出すことになる。そうすると、これを膨大な微生物たちが分解する。分解者がいなければ生産者も成り立たない。 

≪098≫  このような生産・消費・分解は、自然界だけでなく、社会のあらゆる場面でおこっている。途中に工場や市場が介在するのでわかりにくくなるだけで、全体としては社会も生産・消費・分解の多重サイクルの中にある。 

≪099≫  モンダイは、これらのどこに「レジリエンス」をおくかということである。そのためには通常科学の普及や知識の民主化ばかりをしていても、どうにもならないことが多い。ウォルトナー=テーブズは本気で焦っている。 そして、静かだけれど厳然として、こう告げた。「諸君、いのちのコストとウンコのコストはとても近いのだ!」。 

マイケル・ポーラン『欲望の植物誌』人をあやつる4つの植物 を読んで 

≪01≫  この本には4つの植物が登場する。リンゴ、チューリップ、マリファナ、ジャガイモだ。作物といってもいいけれど、植物学的には栽培種というものだ。 これらは、わがホモサピエンスの慎重な歴史よりもずっと以前から地球という庭のどこかで光合成によって勝手気儘に野生してきたものたちであるが、いつしかわれわれの社会と文化と生活の歴史とともに変質するようになった。21世紀の今日、この4つの作物はかつての姿をしているとはかぎらない。変質が過ぎたのだ。何がおこったのか。人間は何をおこしてきたのか。 

≪02≫  リンゴは知恵の実だったはずだが、いつしか「甘さ」が求められた。チューリップはその「美しさ」ゆえにオランダで投機の対象となった。マリファナは麻の一種でありながら、そのトリップが強調されてすっかり「快楽」の対象になった。ジャガイモにいたってはBtトウモロコシとともに、アメリカの遺伝子組み換えを代表する「特許管理植物」になった。 

≪03≫  なぜこうなったのか。マイケル・ポーランはこの変化を、4つの作物が人間の4つの欲望にコントロールされるようになったと見た。「甘さがほしい」「もっと美しく」「快楽に浸りたい」「いつでも大量に」の4つだ。だから『欲望の植物誌』という、ややあからさまなタイトルがついた。トコンドリアと生きる 

≪04≫  とはいえこの本は、植物や作物に人間社会の欲望が次々に投下されていったことや、GMO(遺伝子組み換え作物)をやみくもに告発するといった本ではない。そうではなくて、われわれという存在が「下水や屋根やネクタイやメガネや電話や自動車やコンピュータ」とカップリングされて、もはやそれらを切り離せなくなった体になってしまったように、そうした作物と人間とが「新たな共進化のフェーズ」に入っていることを、たいへんしなやかな見方と丹念な筆力で叙述した。 

≪05≫  マイケル・ポーランには、これまでいろいろ感じさせられてきた。最初に読んだ『雑食動物のジレンマ』上下巻(2006 東洋経済新報社)では人間を植物的文明観から読み直すという着眼点に刺激され、その後にPBSの番組でのコメントやTEDでの発言ではジャーナリストとしての執拗な探求力にちょっと驚かされた。 

≪06≫  その栽培者や料理者としての生き方は、本書(2001)や『ガーデニングに心満つる日』上下巻(1991 主婦の友社)や『人間は料理をする』(2013 NTT出版)に詳しいが、読んでいるうちに、母があれほどの愛園家であったのにぼくが園芸を一顧だにしてこなかったことが、しばしば悔やまれることになった。 

≪07≫  ぼくは庭は好きだが、園芸趣味はない。だから荒れた庭にだって興趣が慕る。泰山木にもダリヤにも、清流のワサビや土を破るキノコにも、あるいは苔やシダにも心が奪われることがあるけれど、それらを育てたいとは思ってこなかった。 

≪08≫  ポーランはそうではない。園芸が大好きで、植物たちととことん付き合い、収穫物をちゃんと料理もする。ふつうなら、そういう御仁の生き方がぼくを悔やませることなどないはずなのだが、それがそうでもなかったのだ。 

≪09≫  この本はそのポーランが植物についての多感な思想を、さしずめ植物的文明観ともいうべきものを、初めて本気で綴った一冊だ。執筆の動機は正鵠を射ていた。 

≪010≫  文化(カルチャー)は農作(アグリカルチャー)から派生したのだから、その栽培植物の変節をあれこれ追ってみることは、農耕資本主義のカセギには無縁の栽培者(=文化者)である自分のツトメであろうと、そう判断して綴ったのである。 

≪011≫  けれども百科事典ふうにはしたくない。また、自分がかかわった作物だけを話題にしてみたい(ここが憎い)。 

≪012≫  そこで果物からはリンゴを、花としてチューリップを、薬草からはマリファナを、基本食品からはジャガイモを選び、それらに社会が「甘さ」「美しさ」「快楽」「農業管理」という欲望を託した仕業をめぐって、まことに自在に綴ってみせた。 

≪013≫  ぼくが脱帽せざるをえないのは、この4つの文明的作物をポーランは自分の庭でなんとか育てようとしたということだ。なにしろこの男、町のスーパーマーケットのすべての品物を博物学者の目で観察できる男なのである。 

≪014≫ 【リンゴな男】 ヘンリー・デイヴィッド・ソローは「リンゴがどれほど緊密に人間の物語に組み込まれてきたか、驚くほどだ」と書いた。もっとも当時のリンゴは「やたらに酸っぱくて」「リスの歯は浮き、カケスは悲鳴をあげる」とも付け加えた。 

≪015≫  当時というのは、ソローが森の丸太小屋に住み、自給自足を試みて、その体験を『ウォールデン 森の生活』(岩波文庫・講談社学術文庫・小学館)にまとめた頃の1850年代前半のアーリーアメリカンな佳日のことだ。 

≪016≫  ラルフ・ウォルド・エマーソンはソローに影響をもたらした無教会派のトランセンデンタル主義(超絶主義)だが、リンゴこそは「アメリカの果実」だと書いた。リンゴが「アメリカの果実」であるのは、理由がはっきりしている。ジョニー・アップルシード(Johnny Appleseed リンゴのタネ)こと、ジョン・チャップマンのせいである。 

≪017≫ 【チャップマン・バッグ】 チャップマンは西部開拓期のアメリカでコーヒー豆用の麻袋をだぶだぶのコートにして、壊れた鉄鍋を帽子にしてかぶり、スウェーデンボルクの本を携えて、裸足で町を歩きまわっていたという伝説的な人物だ。 

≪020≫  1806年生まれであること、オハイオ州の各地に転々と伝承がのこっていること、そしてロバート・プライスによる伝記もあるにはあるのだが、しかしこの奇妙な人物の詳しいことはほとんどわかっていなかった。 

≪018≫  その伝説に肖(あやか)って作られた「ジョン・チャップマンのバッグ」は(ぼくの好みではないけれど)いまでも世界中で売られている(ぼくはボストンバッグさえ嫌いなのだ)。 

≪021≫  ポーランはそこに目を付けた。ジョニー・アップルシードの足跡を追ったのだ。なぜ、そんなことをしたのか。リンゴの種を撒いてもリンゴは育たないはずなのに、なぜアップルシードのタネ伝説がアメリカに残ったのかを調べたかったからだ。 

≪019≫  チャップマンがジョニー・アップルシードという端的な異名をもつのは、単身で西部開拓をしながらリンゴの種を撒いていったからだった。生まれ故郷のペンシルヴァニアのミンスターでせっせとタネを集め、これを毎年、麻のだぶだぶコートで西部に入っては撒いていったのだ。 

≪022≫ 【接ぎ木する】 リンゴはタネからでは「もの」にはならない。育たないのではない。タネから育ったリンゴは両親とは似ても似つかぬ野生の木になっていく。食用のリンゴを育てたいなら、必ず「接ぎ木」をしなければならない。 

≪023≫  リンゴを真っ二つに切ると、きれいに星形に並んだ5つの小部屋があらわれる。どの小部屋にも1個の(まれに2個の)タネが入っている。このタネには少量だがシアン化物が含まれて、動物どもにタネを食べられないようにしている。これがリンゴの野性味をつくり、生物学用語ではヘテロ接合性という変異に強い特性を発揮させてきた。  

≪024≫  接ぎ木は挿し木ではない。2固以上の植物を人為的な切断面で接着していく方法だ。枝がよく使われるが、目的とする植物の枝から根を生やさせるのではなく、別の植物の根の上に目的の植物の枝をつなぐ。この方法にリンゴのヘテロ接合性が対応する。リンゴは異種格闘技が好きなのだ。 

≪025≫ 【プロテスタントのリンゴ】 野生リンゴのルーツはカザフスタンの南部である。接ぎ木を発明したのは中国人で、これが「林檎」と綴られた。プリニウスの博物誌には古代ローマに23種のリンゴがあったと述べられているが、むろん野生リンゴだ。それなりに珍重されたのではないかと想像される。   

≪026≫  この珍重リンゴのうちの何かのタネ(接ぎ木後のタネ)がイギリスに渡って、たとえば「レディアップル」などとなり、それがピルグリム・ファーザーズかその末裔とともにアメリカに持ち込まれた。だいたいそういう順番になる。 

≪027≫  けれどもそのアメリカン・ドメスティックとなったリンゴは、ジョニー・アップルシードのようにタネを撒いているだけでは、甘いリンゴにならなかったはずである。ポーランはチャップマンが甘いリンゴを食べるのではなく、甘いリンゴ酒にしてこれを広めるために植えていたのではないかと推理した。 

≪028≫  チャップマンのリンゴは、ワインに対抗するハードサイダーのためだったのではないかというのだ。ブドウに対するにリンゴ、というわけだ。なるほど、そうだとすれば、「カトリックが作ったブドウ酒」に対して、チャップマンは「プロテスタントのリンゴ酒」を広めたかったということになる。それならジョニー・アップルシードが敬虔なスウェーデンボルクに従っていたという伝説の背景も読めてくる。 

≪029≫ 【医者いらず】 今日のリンゴはやたらに甘い。古代ローマでも中世中国でも、こんなに甘いリンゴを食べてはいない。いつからこんなに甘くなったのか。    

≪030≫  20世紀に入っても、すぐには甘くならなかったことがわかっている。むしろ「毎日1個のリンゴで医者いらず」というような医事的なキャッチフレーズが、長らく家庭のリンゴ幻想を守ってきた。リンゴは長いあいだにわたって健康果実と受け取られていたのである。  

≪031≫  では、いつ甘くなったのか。甘くしたのか。それがはっきりしない。スウィートアップルへの転換点がわからない。ゴールデンデリシャスの「元」は1950年代に育ったであろうウェストヴァージニアのクレイの丘の一本の木以前にはさかのぼれないし、レッドデリシャスの「元」もアイオワのジェズ・ハイアット牧場の大理石の記念碑が「ここにあった」と示しているだけなのだ。そのまた「元」にあたるであろうクローン・リンゴの木もあったろうが、1914年にポール・ストーンが500ドルで買ったという記事があるだけだ。 

≪032≫  ともかくもアメリカ人は戦後社会でリンゴを甘くしてしまったのである。モノカルチャー・アップルがこうして誕生していった。「ふじ」(世界で一番多く生産されている)も「ガラ」もこの甘い遺伝子にもとづいている。 

≪033≫ 【花と女生徒】 ぼくはチューリップにまったく気が向かない。あの色も形も花屋の店先での扱いも、いかにもアイ・キャンディ(eye candy)だ。お子ちゃま向けの人形を大人がいまだに愛玩しているようで、どうもいただけない。これはぼくが気づいたことなのだが、とくにサムライにはチューリップが似合わない(ということは日本的精神にはということだろう)。 

≪034≫  だが、ポーランは最初に植えた花がチューリップだという。両親が25個とか50個の球根を買ってきて、バキサンドラのあいだに植えていくのを手伝っているうちに、好きになったらしい。 

≪035≫  どんな花を誰が好きになるかというのは千差万別だ。こっそり何かの花を好きになったからといって、文句を言われる筋合いはない。ぼくは高校時代の女生徒Aが「私ね、花水木が好きなの。花水木のこと、知ってる?」と、女生徒Bか「ガーベラの深紅ってたまらないでしょ」と言ったとき、さあどっちの肩をもったらいいのか戸惑ったことを思い出す。「松岡さんは?」と言われて、「ダリヤか曼珠沙華かな」と言ったときは彼女らも困ったことだろう。  

≪036≫ 【花は比喩である】 花を愛でるのは習慣かもしれないし、生活文化なのかもしれない。『文明と未開』(岩波書店)のジャック・グディによれば、花を愛でる文化は古今東西どこにも生じたが、ただしなぜかアフリカだけには育まれなかったと書いている。アフリカ人は花を栽培することがめったにないらしい。貧しかったこと、そもそもアフリカの大地に花が乏しかったことが理由なのだろう。 

≪037≫  ということは、花は「文明の比喩」なのである。ユリは貴婦人、バラは情熱、アネモネは希望、コスモスは調和、フリージアは純潔、ポインセチアは高揚、アイリスは恋、ランは娼婦、ラベンダーは誘惑、シクラメンは嫉妬、そしてガーベラは神秘で、その花粉をはこぶハチたちは「空飛ぶペニス」なのである。 

≪038≫  これほどまでに人間の感情や美意識を花が代行できるとは、花のほうでも思ってもいなかったことだろう。とはいえこのことは、ダーウィンが「性選択」を思想したときから自然科学的な根拠さえもっていた比喩だった。ちなみにダリヤの花言葉は「エキサイティング」であるらしい。ま、いいか。 

≪039≫ 【トルコのチューリップ】 チューリップをヨーロッパに最初に紹介したのは、イスタンブールのスレイマン大帝のもとに派遣されていたハプスブルク家の大使だった。チューリップの球根はトルコからヨーロッパに入ったのだ。そもそもチューリップという名が「ターバン」を意味するトルコ語が訛ったものだった。  

≪040≫  オスマントルコではチューリップが変種を作りやすいことが知られていた。トルコのミニアチュール(細密画)を見ていると、やたらに先っぽが尖った花びらの赤いチューリップが好まれていたことが見てとれる。とりわけアフメト3世がスルタンだった時代(1703~1730)は「ラーレ・デヴリ」(チューリップ時代)と呼ばれるほど、チューリップが娟(けん)を競っていた。 

≪041≫  このチューリップの球根がオランダを大いに狂わせたのである。1634年からの3年間というもの、オランダはチューリップに投資することが狂気のように大流行し、あっというまにチューリップ・バブルに陥った。おそらくはカルロス・クルシウスによるものだ。 

≪042≫ 【投機とバブル】 クルシウスは植物学者だった。アイリス・ユリ・キンポウゲ・ヒヤシンスの新種を見いだし、球根博士としてウィーンの帝国植物園の園長として招かれ、当時の目ぼしい花を集めまくった。ここでチューリップに目覚め、1593年にオランダのライデンの植物園に招聘されたときは、もっぱらチューリップの喧伝大臣になっていた。

≪043≫  アンナ・パヴォードの有名な『チューリップ:ヨーロッパを狂わせた花の歴史』(大修館書店)によると、クルシウスには「珍しい花を独占したい」という欲望も長けていたらしく、おそらくはかなりのチューリップの種や球根をトルコなどから盗んできたのではないか、つまりは世界一の「花泥棒」だったのではないかと憶測されている。 

≪044≫  17世紀オランダにもっと異様なことがいろいろおこっていたことについては、『風景と記憶』で有名なサイモン・シャーマの『あり余る豊かさ:オランダ黄金時代の文化』(未訳)か、日本の研究書でタイトルがミもフタもないのだが、小山和伸の『不況を拡大するマイナス・バブル:恐るべきチューリップ・バブルの血脈』(晃洋書房)などに詳しい。 

≪045≫  オランダのチューリップ・バブルは各地に波及した。バブルというのはそういうものだ。たとえばお隣りのフランスでは「メーレ・ブリューン」という球根を手に入れるために水車小屋を手放す御仁がいたり、すばらしい球根を持参金代わりに花嫁に持たせた一族が登場したりもした。この花嫁代わりのチューリップはいまもその名を「マリアージュ・ド・マ・フィーユ」と言って高値を呼んでいる。 

≪046≫  最初にブレイクしたチューリップはいまでは「レンブラント系」と呼ばれているもので、赤い地に白い模様が出ているマーブル模様の花をもつ。ついでは「センペル・アウグストゥス」や黒いチューリップとしておなじみの「夜の女王」が圧倒的にブレイクした。  

≪047≫  チューリップにブレイクをおこしたのは、実はウィルスのせいだった。もともとチューリップの花の色は下地の黄色か白の色にアントシアニンの色素が乗って決まるのだが、このアントシアニンがウィルスによって発現を抑えられると、その度合いによって例の赤白まじりの「まだら模様」になっていく。このウィルスはモモアカアブラムシがはこんでいた。育種家たちはこの秘密に気が付いたのだ。 

≪048≫ 【禁断の植物】 植物が地球上に繁茂して、昆虫とともに「虫と花の惑星」ができあがっていったのは、白亜紀のことである。正確には被子植物が白亜紀をつくったのだ。 

≪051≫  コーヒーの発見も、ヤギがコーヒーの実ではしゃぎまわるのに気がついてからのことだった。キニーネは傷ついたピューマが知っていた。キナ(機那)の樹皮に含まれるアルカロイドはマラリア蚊のみならず、多くの毒虫の刺激を和らげたのだ。 

≪049≫  このとき植物は「誘惑」の本質をもつとともに、化学物質を内包させることによって「毒性」の本質をもつことになった。ニコチンもカフェインも、アヘンもキニーネも、花の美貌とはうらはらな強力な毒性である。 

≪052≫  それなら、動物たちはそうした麻薬の効用を知っていたのかというと、少しはそうだが、人間が純度を高めた麻薬とは根本的に異なっている。 

≪050≫  この植物の魔法のなかに、動物たちに「酔い」(トリップ)をもたらすものがまじっていた。わかりやすくはネコにとってのマタタビ(木天蓼)だ。マタタビには中性のラクトンと塩基性のアクチニジンの独特の臭気があって、これにネコが恍惚になる。 

≪053≫  念のために書いておくけれど、幻覚作用をおこすものがすべて麻薬だというわけではない。法的には「麻薬」(narcotic)とは、ケシ(芥子 opium/poppy)の実からとれるアルカロイドを合成したアヘンやモルヒネやヘロインやコカインのことをいう。 

≪054≫ 【赤く咲くのは芥子の花】 麻薬の“マザー”はアヘンである。アヘンはモルヒネを10パーセントほど含んでいて、少し工夫をすればケシの実から精製できる。このことは文明の開闢とともに知られていた。 

≪055≫  紀元前3400年のメソポタミアでケシ栽培採取は始まっていて、3000年頃のシュメール人は乳液の採取のことを記述した。古代エジプトでもアヘンを作っていたことを示すパピルスが残っているし、バビロニアのアッシュルバニパル王の宮殿でもケシの実を束ねたレリーフが彫られていた。 

≪056≫  その後の大半の民俗宗教でも、そこにシャーマンや霊媒師がかかわっているならたいていはアヘンの粉が何らかの寄与をしていたと思ったほうがいい。そのアヘンがさらに精製されて陶酔力と向精神剤としての純度を高めていったのが、いまは取り締まられているヘロインやコカインであり(あいかわらずどんどん精製されているが)、同時に鎮痛剤としての効能を高めていったのが、いまは医療にも応用されているモルヒネなのである。 

≪057≫  一方、大麻(たいま)は麻の花冠や葉を乾燥させ、さらに樹脂化や液体化をさせたもので、植物としてはカンナビスのことを、ドラッグとしてはマリファナ(マリワナ marijuana)のことをさす。五木寛之(801夜)がぞっこんだった藤圭子(宇多田ヒカルのお母さん)の『夢は夜ひらく』は「赤く咲くのは芥子の花」と始まっていた。  

≪058≫ 【マリファナを育てる】 マイケル・ポーランは自分の家の庭にマリファナを栽培していた。アメリカではマリファナ使用を合法化していた州がけっこうあったので、なんら気遣いもしなかったのだと思う。  

≪059≫  「マウイ」という種類のカンナビスだったようで、湿ったペーパータオルでタネを発芽させ、二つの苗になったところで庭に移した。数カ月で元気な2~3メートルになったその勢いに「雑草の熱意」を感じたという。マリファナの光合成力はそうとうなものらしい。 

≪060≫  マリファナがトリップをもたらすのはTHCというサイコアクティブ成分(デルタ9-テトラハイドロカンナビノール)による。ふつうは3パーセントほど含まれる。THCの含有量が一番多いのは「シンセミア」で8パーセントのものもあり、ほかにノーザンライト、スカンク・ナンバーワン、ビッグバッズ、カリフォルニア・オレンジなどのマリファナがある。 

≪061≫  日本の60年代にはサイケデリックなアンダーグラウンド文化が渦巻いていた。寄ると触ると、誰かがマリファナを回していた。「草、やってみる?」というのが合図だった。ぼくも某所で吸ったが、いまひとつおもしろくなかった。粗悪品だったのではないかと憶っている。 

≪062≫ 【アルタード・ステーツ】 瞑想、断食、ジョギング、遊園地の乗り物、ホラー映画、過激なスポーツ、感覚遮断、不眠続き、歌唱しまくり、音楽への耽溺、お酒による酩酊、スバイスのきいた食事、なんらかの危険を冒すこと‥‥。これらはわれわれがふだん選択しているトリップだ。いずれも意識の変成状態をつくれそうなもの、すなわち「アルタード・ステーツ」のための選択である。 

≪065≫  メスカリンはサボテンの一種のペヨーテから採取する。メキシコの原住民ウィチョル族が飲んで儀式に参加した。その後はヨーロッパに伝わって、このメスカリンこそは「知覚の扉」を開くと言ったのはオルダス・ハクスレーで、そのメスカリンによってすばらしい詩とドローイングをしてみせたのはアンリ・ミショー(977夜)だった。 

≪063≫  サミュエル・テーラー・コールリッジの『クラブ・カーンあるいは夢で見た幻影』は史上稀な詩の作品だ。デイヴィッド・レンソンが言うように、この詩を本気で「感じる」には、アヘンの介在を想定するしかないかもしれない。アルタード・ステーツは想像力を変質させるのである。 

≪066≫  こういうことは、どこででも密談のように広まっていった。日本でも同じだ。折口信夫(143夜)も、古代日本人の「妣が国」にトリップするため、しばしば向精神剤を常用していたことが知られている。 

≪064≫  いまさら言うまでもなく、トマス・ド・クインシーはアヘンこそが哲学的な意識の変成状態をつくるに最もうってつけののものだとみなし、シャルル・ボードレール(773夜)もこの意見に従って、この快楽による状態を「人工楽園」と呼んだ。19世紀のアメリカ作家フィッツ・ヒュー・ルドローはハシーシ(大麻の一種)のおかげで古代哲学がよくわかったと告白した。 

≪067≫  最近の研究では、ソクラテス、プラトン(799夜)、アリストテレス(291夜)、アイスキュロス、エウリピデスが「エレシウスの秘儀」に加わっていたらしいという証拠があがっている。おそらくは麦角菌に由来する薬物を使ってのエクスタシーがもたらされたものだった。 

≪068≫ 【リーガル・ハイ】 日本では脱法ドラッグとか脱法ハーブの名が躍ったが、これはもともとは合法ドラッグに対して違法ドラッグや危険ドラッグという名称が使われてきたことを総称したものだ。 

≪069≫  英語の総称ではマリファナは「リーガル・ハイ」(legal high)が一般的で、薬事的には新規向精神薬(new psychoactive substance)という。そのあたりの事情はレンソンの『ドラッグについて』が詳しい。 

≪070≫  いったい、こうしたドラッグは何を人間にもたらしたのか。レンソンは「自分が注目したいものが、その世界に属する代表のように感じられる」ということが最も効能的なことだったのではないかと言っている。 そうだとすると、快楽植物は人間に「快楽のミーム」をもたらしたのではないかと、マイケル・ポーランは書いた。 


≪071≫ 【脳と植物】 60年代の半ば、イスラエルの神経学者ラファエル・メコーラムは、マリファナからTHCを採り出して、その化学成分が痛み・引き付け・嘔吐・緑内障・神経痛・喘息・痙攣・偏頭痛・不眠・鬱病に効果があることをつきとめ、これらの作用をもつ物質をカンナビスに含まれる「カンナビノイド」と名付けた。 

≪074≫  ここまでくると、何が化学的な根拠なのかあやしい気分になってくる。とはいえ、植物が作り出したカンナビノイド・ネットワークのようなものが植物と人間の共進化のなかでつくられなかったとも言いきれない。われわれは結局はモルヒネによって激痛を和らげるしかないままなのである。 

≪072≫  1988年、セントルイス大学のアイリーン・ハウレットは脳の中にもTHCに特化できる受容体があると発表した。この受容体はニューロン・ネットワークにかかわって、ドーパミン、セロトニン、エンドルフィンの分泌に関与していると想定された。その後、カンナビノイド受容体は大脳皮質・海馬・扁桃体にもあることが報告され、記憶と想起と快楽に同時に作用することが仮説されるようになった。 

≪075≫  かくてポーランは言う。神がエデンの園でアダムとイヴから隠そうとした「知恵の木」は、ひょっとして「麻薬のなる木」だったのではなかったのか、と。 

≪073≫  ここでふたたびイスラエルのメコーラムが30年ぶりに動き出した。1992年、メコーラムはウィリアム・ディヴェインともに脳がつくりだすTHCのメカニズムの解明にとりくみ、脳が作るカンナビノイド系脳内物質に「アナンダミド」という名前を付けた。やりすぎのネーミングだが、サンスクリット語で「内なる悦び」という意味だ。 


≪076≫ 【モンサントのジャガイモ】 野生のジャガイモは苦く、ちょっとした毒をもっている。今日、誰もがおいしいと言っている「ニューリーフ」のようなジャガイモは、すべて遺伝子組み換えのジャガイモだ。 

≪079≫  さて、ここからが本書のクライマックスになるるのだが、こともあろうにマイケル・ポーランは、モンサント社から「ニューリーフ」を植える許可をとったのだ。こう書けばあとはあらかたのことが想像できるだろうが(だから手短かに書くことにするが)、ポーランはついに1代かぎりのF1交配種の正体を実感したのである。  

≪077≫  アメリカの5000万エーカーの農地には、ずらりと遺伝子組み替え作物が植わっている。干ばつに強いトウモロコシ、ビタミンAが豊富なゴールデンライス、油で揚げても脂肪分をあまり吸収しないジャガイモ、どんな色をも鮮やかな染め色にするワタ‥‥。みんなGMOである。 

≪080≫  その実感は最初からやってきた。ポーランがモンサント社から受け取ったジャガイモのタネは、EPA登録番号524-474というナンバーが付いたものだったのだが、それは農薬としてアメリカ環境保護局(EPA)に登録されていた! モンサントのジャガイモは農薬の同義語だったのである! 

≪078≫  アメリカの5000万エーカーの農地には、ずらりと遺伝子組み替え作物が植わっている。干ばつに強いトウモロコシ、ビタミンAが豊富なゴールデンライス、油で揚げても脂肪分をあまり吸収しないジャガイモ、どんな色をも鮮やかな染め色にするワタ‥‥。みんなGMOである。 

≪081≫  それだけではなかった。ポーランが受け取った「ニューリーフ」はBt遺伝子がまざっていたので、その遺伝子がもたらす知的財産の特許に守られたジャガイモだったのだ。Btとはいまはよく知られているだろうバキルス・トゥリンギエンシスという土壌バクテリアのことだ。 

≪082≫ 【GMOという名の怪物】 モンサントのジャガイモは工業的化学情報でつくられたジャガイモだった。その知識はもともとは有機農業者がもっていた。それらは大企業によって巧みに応用され、再解釈され、化学的検討が加えられて、GM化(遺伝子組み替えの作物をつくること)されてきた。GMとは
“Genetically Modified Organism”のこと、だからGMOとも呼ばれる。 

≪083≫  GMOの出発は育種学界が1973年以降にとりくんだことに始まった。胚の染色体に変異を導入した。放射線の照射、重いイオンの粒子線の照射、変異原性薬品の投与などによって、染色体に変異を導入した母本をたくさん作り、そこから有用な形質をもつ固体を選抜するという手順だった。 

≪084≫  最初に市場に送り出されたのGMOはトマトである。アンチセンスRNA法という、タンパク質の生合成を抑える技法を用いて誕生した。ペクチンを分解する酵素ポリガラクツロナーゼの産生を巧妙に抑制したトマトだった。他のトマトとくらべると熟成しても果皮や果肉がじゅくじゅくになりにくく、一気に市場での評判を得た。 

≪085≫ 【ゲノムを栽培している】 バイオテクノロジーの基本に問題があるのではない。多くの医療的な薬品にバイオテクノロジーが適用されてきたように、人間の活力の保持や回復には、また損傷や衰退からの逆転には、バイオテクノロジーは欠かせない。それが食品に適用されることと、医者からもらうクスリを服用することは、本質的には変わらない。 

≪086≫  そもそもパン、ビール、チーズ、ワイン、食酢、醤油、味噌、日本酒は、誰もが知っているように「発酵」というバイオテクノロジーがなかったら作れなかった。のみならず、ペニシリンもストレプトマイシンも、ガン治療のためのインターフェロンもインターロイキンも、多くの心臓疾患を救った遠藤章のスタチン薬(コンパクチン)も、すべてバイテクの産物なのである。 

≪087≫  けれども、モンサント社がGMO作物「ニューリーフ」にカップリングしているのは、そうしたバイオテクノロジーの効能ではなく、その「管理」なのである。ポーランは本書のなかで最も劇的な一文として、次のように書いている。 

≪088≫  「ついにゲノムそのものが栽培化され、文明という屋根の下に入ることになったのだ」。「これまで紹介してきた植物はいずれも、栽培化の対象であると同時に主体でもあった。かれらと人間とのあいだには対話があり、ギブ・アンド・テイクの関係が保たれていた。ところがニューリーフというジャガイモは、いわば人間からテイクするばかりなのである」。 

≪089≫  本書は、はたして作物にこれ以上の「遺伝子流動」があってもいいのかという問いかけでページを閉じている。遺伝子流動は近縁の種のあいだでしかおこらなかったものなのだ。 

≪090≫  マイケル・ポーランの本を読んでから、それなりの日々が過ぎた。この本の旧版は2003年に翻訳されたもので(だから今夜とりあげた2012年版とはカバーも異なっていたのだが)、とても身につまされた。そのため前夜にも紹介したけれど、ぼくもちらちらその手の本を読んで考えこむようになった。 

≪091≫  そのひとつが、パット・ムーニーの先駆的な『種子は誰のもの』(八坂書房)や野口勲(1608夜)の『タネが危ない』だった。そこからジェフリー・スミスの『偽りの種子』(家の光協会)、安田節子の『自殺する種子』(平凡社新書)といった「タネもの」を追うことになった。 

≪092≫  が、それとともにもう少し本格的なドキュメントも読んだ、A、B、二つの系列があった。  

≪093≫  興味をもたれる読者のためにメモっておくと、Aはたとえば、人類学者シドニー・ミンツの往年の名著『甘さと権力』(平凡社)、品種改良史にとりくんできた日本育種学界の大御所・鵜飼保雄の『トウモロコシの世界史』(悠書館)、自身でコーヒー焙煎事業もしていたアントニー・ワイルドが産地事情からスタバのしくみまでを紐解いた『コーヒーの真実』(白揚社)、若い女性ジャーナリストが巨大企業マーズとハーシーの秘密に挑んだエル・ブレナーの『チョコレートの帝国』(みすず書房)などなどの、つまりは歴史変遷ものだ。 

≪095≫  人類が「食」の争奪によって歴史をつくってきたのは、いまさら言うまでもない。隠しようもない。塩、砂糖、トウモロコシ、米、小麦、ジャガイモ、香辛料はとくに争奪が激しかった。 

≪094≫  Bは、今日のアグリビジネスとバイテクと食糧コングロマリットを追求した一連の本だ。前夜に挙げた『モンサント』や『モンサントの嘘』などの告発ものと、ポール・ロバーツの『食の終焉:グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(ダイヤモンド社)、ダニエル・チャールズの『バイテクの支配者:遺伝子組み換えはなぜ悪者になったのか』(東洋経済新報社)、クリスティン・ドウキンキンズの『遺伝子戦争:世界の食糧を脅かしているのは誰か』(新評論)、鈴木宣弘『食の戦争:米国の罠に落ちる日本』(文春新書)といった警告本で、どこまで現状を抉っているのか確かめようもなく、次々に手にしたものだ。 

≪096≫  それでもそれは、かつてバックミンスター・フラーが「ワールドゲーム」として石油資源から食糧資源におよぶ「資源の濃淡と移動」を示したように、そこには「過剰と過少の不平等」が繰り返しおこっていたとも言えるわけで、そこで生態系そのものに狂いが生じるとか、その生態系にアグリビジネスが食い込んだというほどではなかった。 

≪097≫  しかし、モンサント社が先頭を切ったのだが、遺伝子組み換えのGMO食品と除草剤ラウンドアップとBt遺伝子とを組み合わせてしまったということは、もはや食生活が「管理された情報を食べる」という生態系の段階に突入したことをあらわしていた。それなら、ここには文明思想としての新たな検討が加わる必要があったのである。 

≪098≫  けれどもモンサントをこきおろすだけでは、文明的な考察は生じないとも言うべきだ。植物や食物にひそむ情報を新たに取り出し、バイオテクノロジーだけでは語れない植物的文明観を、まずは散策すべきだったのである。マイケル・ポーランは、よくぞこの試みに着手した。 

≪01≫  この15年間ほど、ミトコンドリアの秘密とそのしくみが見えてくればくるほど、生命の独自活動にひそむインタースコア性を少しずつピックアップしたくなっていた。 いろいろ本を読み、絵も描いた。 こういう勝手な試行は、ぼくにはよくあることだ。 最近は、二冊のニック・レーンを読むうちに、新たな編集的生命像の解釈可能性が浮かんできて、ちょっとずつ妄想がふくらむことになった。 今夜は、その中間報告を話しておくことにした。 

≪02≫ べつに一冊だけじゃなくたっていいだろ? というか、ミトコンドリアを通した生命進化の謎の正体についてずっと書きたかったんでね。実はあれからいろいろ考えてきたことがあって、それは生命複合体とか編集的生命像というものなんだけれど、そういうことを考えるときにミトコンドリアをどう扱うかが気になってきた。そのうち少し見方を変えたくなってきた。そういうことがニック・レーンのものを2冊続けて読んでいるうちにピンときたんです。 

≪03≫ レーンの1冊目の邦題は『ミトコンドリアが進化を決めた』(みすず書房)という本です。原題が“Power,Sex,Suicide”というちょっと物騒なタイトルで、「生きる力」と「性の力」と「死の力」とが3つ並んでいる。タイトルとしてはうまいね。その3つの力の危うい関係を辛くもサブタイトルの「ミトコンドリアと生命の意味」(Mitochondria and the Meaning of Life)が支えている。いや、3つの力のパワーバランスをミトコンドリアが支えているというか、つなげているというタイトルだね。 

≪04≫ よく知らなかったんだけど、ロンドン大学の生化学者で、臓器移植や酸素フリーラジカルの研究が専門らしい。それがあるとき「ミトコンドリアが世界を支配している」ということに愕然として気づいたのだというんだね。ミトコンドリアがATPや有性生殖や多細胞生物の鍵を握っているのはもはやよく知られていることだけど、それだけじゃなく、レーンは「ミトコンドリアがなければ自然界に弱肉強食すらおこらなかっただろう」と言っている。 

≪05≫  うん、そう感じるよね。ミトコンドリアはたんなる寄生者じゃないというわけだ。でも、神じゃないよ。 

≪06≫ 檀蜜か。ハハハハ、そうでもないだろうけど、ややそれに近い視点から、レーンはミトコンドリアによる新統一理論”とでもいうべき構想“を温めてきたらしい。本書がその初の報告書ということになる。原著は2005年のイギリスのブック・オブ・ザ・イヤーに選ばれたほど有名で、欧米では話題になったようだけれど、実はぼくのほうはそのすべてに納得できたわけではない。この本を読んでいて、むしろミトコンドリアを“主語”にしないほうが生命複合体のスコープが見えてくるんじゃないかと思ったんです。 

≪07≫ これは、ぼくのミトコンドリア生物学についての知見が足りないせいだろうけれど、でも、ミトコンドリアを支配者という“主語”にして生命の発露を考えるという見方には、いささか問題がある。ぼくにとってミトコンドリアについて何かを考えるということは、ミトコンドリアめいた「そこへさしかかる来歴」をもったものたちを、どのように編集するかということなんですよ。

≪08≫ いや、そうではなくて、そもそも「共生」(symbiosis)って何かということを問いなおし、そこをむしろ「インタースコアのプロセス」として見るといいんじゃないかということです。化学的なインタースコア。情報化学的な、ね。  一方、レーンは『ミトコンドリアが進化を決めた』が当たったあと、わりと大掛かりなテーマで次の『生命の跳躍』(Life Ascending)を書いて、38億年の生命進化史を決定付けた10の“発明”を解説したんですが、そちらのほうではややインタースコアな視点を入れていましたね。こちらは2、3年前に発表された。この2冊を読んでいるうちに、ぼくもいろいろ触発されたわけだ。  

≪09≫  これはけっこう本気なもので、まずは、(1)どうして最初の生命が一見かなり悪条件のブラックスモーカーやロストシティなどの熱水噴射孔のような、変なところに誕生したのかということですね。ぼくはこれは「非平衡」によるものだと思っています。次は(2)DNAが出現して生命体の複製ができるようになったことと、(3)シアノバクテリアなどによって地球に酸素圏ができて、植物たちによる酸素と炭酸ガスをつかう光合成が始まって、光エネルギーが化学エネルギーに変えられるようになったこと。このへんは言うまでもないでしょう。 

≪010≫ それからこれも当然だけど、(4)核(nucleus)と細胞小器官(organelle)をもつ細胞が登場して、ミトコンドリアをとりこんだ真核細胞ができあがり、生命エネルギーの自家製の工場がつくれたことです。ATP工場だね。そして(5)が、生命体の多くがクローン生殖ではなくて「性」を媒介にした有性生殖(sexual reproduction)ができるようになったこと。この二つで、生命は進化を逆戻りしなくてすむようになったからね。オスとメスによる有性生殖はけっこうインタースコアっぽいよね。 

≪011≫  部分的にはね。パンダの親指とかフラミンゴの菌とかわれわれの盲腸みたいなね。 

≪012≫  (6)筋肉系が発達して運動するようになったこと、ようするに分子モーターを装着したこと、(7)視覚の機構ができてレンズ動物が世の中を仕切ったこと、(8)温血性の動物たちが有酸素型のスタミナをつけたこと。レーンはこれらを挙げていた。最初のレンズ動物が三葉虫だったことについては、リチャード・フォーティの『三葉虫の謎』(780夜)にも書いたし、目の進化論はアンドリュー・パーカーの『眼の誕生』(草思社)もおもしろい見方をしていたね。 

≪013≫ では、Qちゃんにぼくのほうからお題を出すけれど、最後の2つは何だと思う? 

≪014≫  ほう、そりゃなかなかのお題の設定だね。擬態や文様も利他行動も棲み分けも、けっこうな難問だしね。感心しました。ロジェ・カイヨワ(899夜)や今西錦司さん(636夜)やE・O・ウィルソンだったらそう答えるかもね。でも、残念ながらブーッです。(9)神経系が進化して意識が発生してきたこと、(10)死をプログラミングしたこと。この二つです。 

≪015≫  生殖と長寿をトレードオフすることが収支のうえでのメリットだったんだろうね。でも生物が死をプログラムしたのじゃない。個々の細胞が死ぬプログラムをもったわけだ。そのかわり種を存続させた。これはミトコンドリアをとりこんだときからの宿命でしょう。ま、この問題は大きすぎるのでいつか千夜千冊することとして(笑)、ともかくこういうわけで、ニック・レーンはミトコンドリアの主語力だけでなく、いろいろの生命ステージにおける“跳躍”に注目してはいるんだけど、さすがに各ステージの辻褄は合わせられなかった。でもね、これは辻褄を合わせて“新統一理論”にするよりも、“跳躍”(asending)をむしろ“編集”(editing)というふうにみて、それぞれをインタースコアして、そのインラクティビティの交差ぐあいを生命だとみなしたほうがいいと思うんだよ。  

≪016≫  それじゃ急ぎ足で大前提のところから話すとね、ぼくは生命の一番の特徴は「膜」(membrane)にあると思うんです。バイオメンブレン、つまり生体膜。その代表が細胞膜です。生体にはほかにも各種のオルガネラ(細胞小器官)を包む膜がある。これらが何をしているかというと、細胞の状態をホメオスタシス(恒常化)している。そうでないといつも動的事態が乱れてしまうからね。半透過性の膜があるから内側(生命)と外側(環境)が両立できるのだし、膜があるからこそ情報(栄養物・刺激)が出入りするわけです。福岡伸一君がいつも重視しているところだよね。 

≪017≫  膜は内層と外層になっていて、脂質とタンパク質が互いに流動的なモザイク状態をつくっています。つまり実は非対称なんだ。ここが重要だよね。とくに脂質は内と外とでフリップ・フロップになっている。回路的選択ネステッド。これ、コンピュータの基礎のフリップ・フロップ回路と同じ原理です。 

≪018≫  そういう膜が核DNAやミトコンドリアDNAを包んでいる。すべてはここから始まるわけだ。で、話をスタートに戻すと、そもそも地球上のすべての生きものは、核をもってないバクテリア(細菌)のような「原核生物」(プルカリオート)と、核やリボソームやゴルジ体のような細胞小器官をいろいろもっている「真核細胞」(ユーカリオート)とでできている。これで生命体のほぼすべてが構成されているわけだよね。ここまではいいよね。 

≪019≫ このうち、地球に最初にあらわれたのは細胞膜をもった原核生物です。これがしだいに変化して次々に、といっても一千万年のオーダーだったろうけれど、3つのタイプをつくっていった。第1のタイプは細胞膜をうまくとりこんで、新たな二重膜で覆った核をつくった原始真核細胞だよね。この核の中にDNAがしっかり確保された。 

≪020≫  第2は葉緑体(クロロプラスト)の祖先となったタイプで、ここからは光合成(photosynthesis)がおこって、二酸化炭素と太陽光ブドウ糖と酸素をつくった。進化生物学の最初のところに登場する有名な海中のシアノバクテリアがほぼ最初の活動体で、地球に酸素がたまっていくのはこのときからだよね。同時に、太陽の光エネルギーのほうはブドウ糖としての化学エネルギーに変わっていきます。 

≪021≫ ところが葉緑体がつくった酸素は、全元素のなかでもフッ素についで電子を引き付ける力が強かったので、周囲の物質と手当たりしだいに結合する。そういう恐ろしい酸素が生物体の中に入ると、生命活動に必要なDNAやタンパク質と酸化反応をおこして、生物体をぐちゃぐちゃにしてしまう。 

≪022≫  そうだね。有害だった。というわけで、葉緑体の祖先は地球圏に酸素を初めて発生させたんだけれど、多くの生物を絶滅の危機に追いやるものでもあったわけです。しかしこのとき、この酸素をたくみに利用してブドウ糖を二酸化炭素と水に分解して、ブドウ糖の中にたくわえられていた化学エネルギーを、たくみにATP(アデノシン三リン酸)の化学エネルギーに変える作業をやってのけたものがいた。これがミトコンドリアで、この外部者ミトコンドリアをとりこんだのが第3のタイプの真核細胞だったわけだ。 

≪023≫ ブドウ糖をATPの化学エネルギーに変えられるようにしたというのは、生物が酸素呼吸ができるようになれたということです。それがいわゆるTCA回路、つまりクエン酸回路だよね。このようなマジカルな作業をやってのけたのがほかならぬ外様(とざま)としてのミトコンドリアだった。けれどもミトコンドリアは真核細胞の中に入ることになって、細胞内共生したということになる。 

≪024≫ 水に変えた。でもミトコンドリアは有害な酸素を水に変えることができただけでなく、酸素呼吸ができるようにしたので、それによって莫大な生命エネルギーをまわしていく能力を獲得しつつあったわけです。そこで、これを“見ていた”原始真核細胞の一部の連中が、これを細胞内にとりこみ、有害酸素の処理をできるようにしたとともに、生命エネルギーの生産工場にした。そういう順番だ。 

≪025≫ たしかにそう見えるよね。有害酸素で覆われた地球に、このあと真核生物がアメーバやゾウリムシのような単細胞生物として躍り出ていけたのは、ミトコンドリアを真核細胞がとりこんだからだろうね。 

≪026≫ そうだね。細胞には核があって、そのほかにリボソームやミトコンドリアやゴルジ体といったオルガネラ、つまり細胞小器官が装填されている。核は何をしているかというと、生物のマスタープランのための設計図を収録したDNAを厳重に保管する金庫のような役目をはたす。核を覆う核膜(nuclear membrane)がさっきのフリーラジカルな活性酸素やさまざまな化学物質との反応でDNAが傷つくのを未然にくいとめているわけだ。  

≪027≫  そう、なかでも膜こそわが命だね。で、あとは知るべしで、DNAの中にある遺伝子が、必要な遺伝情報だけをRNAによってコピー(転写)され、細胞質にはこばれていく。こういう動きをするDNAが核DNAです。ところがQちゃんも知っているように、ミトコンドリアにもDNAがあった(mtDNA)。1963年にストックホルム大学のマーギット・ナスが発見した。これは核DNAとかなり異なるもので、いささか女っぽい。  

≪028≫ ふーん、そうか。ま、いいでしょう。で、核DNAのほうはみんなが教科書の図で習った通りのDNAのはたらきをする。両親からそれぞれ1コピーずつの遺伝子を受け継がせるようになっている。だから細胞内には計2コピーしかないわけですが、ミトコンドリアDNAのほうは、なんと母性遺伝だけができるようになっていた。これは衝撃的だよね。マトリズム。だって父親からの遺伝子はいっさい伝わっていかないということだからね。 

≪029≫ 奇人キャリー・マリス(72夜)が発明してノーベル賞をとったPCR法(DNA合成控訴連鎖反応法)が少量の標本から大量かつ高速にDNAを複製できるようにしてから、かなりテストされて、ほぼそうだろうということになったようだね。日本では『ミトコンドリア・ミステリー』(講談社ブルーバックス)を書いて出版文化賞をとられた林純一さんのチームが「ミトコンドリアDNAの完全母性遺伝性を確証した」と言ってますね。ただし、そのあとから何度か父親の遺伝子もあったという報告があって、けっこう揉めたんだけど、さらにもっと衝撃的なことがわかってきた。 

≪030≫ ミトコンドリアは父親の精子のmDNAを消してしまう仕掛けをもっていたというんです。 

≪031≫  アポトーシスというより、受精卵が精子のmtDNAを排除するしくみをもっていたということらしい。 

≪032≫  いろいろだね。大きくいえば、ダーウィンは進化の途中の“飛躍”を好まなかったけれど、実際にはいくつもの“飛躍”があったということです。それもまことに偶然におこって、生命体たちはその機会をみごとに活かしたのだろうということ、その偶然はもともとの単純なしくみに対してちょっと複雑なしくみが加わることでおこっただろうこと、それは生命がいつしかダブル・コンティンジェントなしくみになっていたからだということだろうね。だから、これは実は“飛躍”じゃなくてコンティンジェンシー(contingency)を解発させた“情報化学的な編集”だったのではないかということです。 

≪033≫ 最初からではないですよ。途中からそうなった。ぼくはそうじゃないかと思っている。たとえば葉緑体は、かつてはかなりの自由生活型の細菌だったろうけれど、それでシアノバクテリアみたいなことをして酸素をぼんぼん放出していたんだろうけれど、あるときそれがすべての藻類と植物の共通祖先にまるまる呑みこまれたわけです。けれども、それがなんらかの理由で、この祖先の細胞が自分の食べた御馳走を消化しそこねたんでしょう。でもそのおかげで、植物は日光と水と二酸化炭素だけでエネルギーをまかなう自給自足システムを開発できたわけだよね。 

≪034≫  で、これらのことは、ひとつには生命進化の連鎖にはいくつもの「空隙」(隙間)があったということを暗示しているとともに、それは次のインタースコア(interscore)がおこるための「カサネ・アワセ・キソイ・ソロイ」の踊り場だったということなんです。 

≪035≫ うん、そうだね。ぼくはそれをインタースコアだとみなしたほうがいいと思っているわけだ。 

≪036≫  そう、相互記譜状態になるということ。たとえば野球型の生命体があったとすると、その生命体が表裏でスコアを入れながら情報化学ゲームをしていたら、そこにテニス型の生命活動が割りこんできて、そのうちバットとボールで同じコートを“膜ネット”をはさんでゲームするようになったというようなことだね。 

≪037≫ あるいは途中でどちらかのコンティンジェンシーがチームゲームを包んでいったということだね。 

≪038≫  けっこうあると思うよ。ミトコンドリアの例でいえば、ミトコンドリアの利点は何かというと、細胞という相手のグラウンドに入って自分の活動をするようになったということだよね。サッカーをするにはそのピッチに入らなければならず、野球をするには野球場にダイアモンドを描かなければならない。ミトコンドリアはそういう相手のピッチや野球場の生命ステージに入ってきた。しかしミトコンドリアにも細菌時代からのゲームルールがあったし、収支勘定があったわけです。つまりスコアリングのしくみがあった。でも、これをただごっちゃにしたのでは、何が何やらめちゃくちゃになる。野球もテニスも壊れてしまう。そこでミトコンドリアは2枚の膜をつくった。外膜と内膜でマトリックス(基質)と空隙をつくって、呼吸鎖とATPアーゼのスコアは内膜に入れた。マトリックスからは空隙にプロトンを汲み出すことをスコアリングするようにした。こうして二つの活動ゲームが進行できるようになった。 

≪039≫ 経済学用語ふうにいえば、トランザクション・コスト(内部取引コスト)を同一ピッチにロケーションすることになった両方の生命体の活動がアワセ・カサネしているうちに、きわめて効率の高い生体活動力を得たということだろうね。 

≪040≫  何冊かの本を読んでいるうちに出てくるんだね。今夜はニック・レーンの2冊をもとにしたけれど、そのニック・レーン自身も、たとえば大好きなクリスチャン・ド・デューヴの『進化の特異現象』(一灯社)や、ジョン・メイナード・スミスの『進化する階層』(シュブリンガー・フェアラーク東京)、スティーブ・ジョーンズの『遺伝子:生老病死の設計図』(白揚社)、グラハム・ケアンズスミスの『生命の起源を解く七つの不思議』(岩波書店)といった本を気持ちをこめて読んでいて、むろん参考資料はその数百倍だろうけれど、そのコンテクストのあいだで思索しているわけです。だとしたら、われわれもその幾つかのあいだをレーンに沿って読むことは可能なんだね。 

≪041≫  編集的であろうと思って読みさえすれば、誰だってある程度の創発的なクリエイティビティに達するでしょうね。ただしぼくのばあいは、今夜のミトコンドリア生物学や進化論の本とともに、ニクラス・ルーマン(1349夜)のダブル・コンティンジェンシーの本やイアン・ハッキング(1334夜)の『偶然を飼い馴らす』『知の歴史学』やリチャード・ローティ(1350夜)の『哲学と自然の鏡』『偶然・アイロニー・連帯』や、あるいはヨゼフ・ニーダムの『理解の鋳型』やハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』を同時に思い出しているんです。 

≪042≫ そうだね。ほとんどどんな相手のテクストでもインタースコア状態になれるはずです。 

≪043≫  そう、そこだよね。同時にできないから、少しずつズレて注目コンテクストが編集的思考の途中に挟まってくるわけです。だからこそ、そのズレの模様ぐあいが妄想というか構想というか、新たな地と図の関係をつくっていくんです。そこが創発的編集が生まれるところなんだね。 

≪044≫ コツねぇ。ふだんの自分のクセを知るのがいいね。自分がどういうふうにゴハンを食べているか、どのような手続きやテンポで町を見ているか、そういう日常的な自分の言動のクセを使うといいと思う。誰にだって自分自身とゴハンと町とのインタースコア性があるわけだからね。その自分の体験的な交差手続きの感覚を忘れないで、そのままのテイストやアブダクションで、いま自分がさしかかっているところを読むんです。編集するんです。誰かと喋っているときに相手の気持ちを読むように、将棋の次の手を読むようにね。 

≪045≫  本って正しく読もうなんて思わないほうがいいんです。学者読みにとらわれないほうがいい。それに、ぼくにとっては学問的整合性なんて必要じゃないからね。こういう発想はダメ、そんな推理は受付けません、ということから解放されている。それより編集的なアブダクションが自在におこるほうがいいんだよ。 

野口勲著『タネが危ない』を読んで、ターミネーターテクノロジーを知り、今、採種テクノロジーは遺伝子を超えて、ミトコンドリアのハタラキにまで手入れし、自然界のメカニズムを変えるところにまで到達している。バイオ・キャピタリズムはF1種子を

≪01≫  この本に書いてあることはたいへん端的で、あまりに一途のことなので、この世の野菜市場的な事態があらかた著者が言っているようになっているのかどうか、ぼくには敷延のしようがないのだが、しかし数年前にこの本を読んだときの印象は、かつてレイチェル・カーソン(593夜)の『沈黙の春』やデボラ・キャドバリー(1073夜)の『メス化する自然』を読んだときとほぼ同質の共感に抉られた気分だった。 

≪02≫  話題はひたすら野菜と果物のタネのことに徹している。メッセージはただひとつ、世に出回っている野菜や果物がF1(一代雑種)になっている問題を問うことだ。そうではあるのだが、話は手塚治虫(971夜)からミトコンドリアにまで及ぶ。 

≪03≫  手塚が出てくるのは著者の野口さんの若い頃の最初の仕事が虫プロで、手塚のライフワーク『火の鳥』の完成に向けての道程やメディア化などにかかわったからだが、なぜミトコンドリアに及ぶのかは説明ぐあいによっては大事(おおごと)になるので、あとで紹介する。いまは、著者にとって火の鳥とミトコンドリアは同義に近いのだと思っておいていただきたい。 

≪04≫  ちなみに野口さんとは2011年の12月6日に「幹塾」(かんじゅく)にお招きしたとき、会っている。小野地悠さんを伴って、なぜ「F1のタネが危ない」のか、一時間ほど話してもらい、その後は長谷川眞理子さんや加藤秀樹さん、あとは林芳正・世耕弘成・河野太郎・古川元久・松本剛明などの政治家諸君を交えてディスカッションをした。 

≪05≫  野口さんは埼玉県飯能のタネ屋の3代目である。野口種苗園は、もともとは蚕のタネ屋(つまり蚕種の販売)をしていた本家から分家したおじいさんが昭和4年に始めたもので、おやじの代からは自給用野菜の固定種のタネを売るようになった。「みやま小かぶ」などを中心に、それなりに仕事ができていた。 

≪06≫  敗戦後の日本ではタネは配給制で粗悪だった。日本中のタネが配給本部に集められて全国に配分される。配給元がよいタネを取ってそこに古いタネを混入して都道府県に分配し、地方の役員はそこからまたよいタネを取って古いタネを混ぜて配布する。そんなことだから末端のタネ屋に来たときは、芽が生えないようなタネがけっこう混じっている。おやじはそんなタネを売ってはお客さんに申し訳ないからと、発芽試験器を考案した。このとき野口種苗園という名前を野口種苗研究所に変えた。 

≪07≫  それが昭和40年代になってF1(一代交配種ともいう)が出回り、そのうち固定種など売れなくなった。 固定種というのは品種として独立したもので、味や形はずうっと変わらない。交雑して雑種化した交配種とは区別される。生物学的には単一系統の遺伝子しかもっていないので「単種」とも言われる。 

≪08≫  F1(first flial generation)は一代雑種(一代目だけの交配種)である。雑種は英語ではハイブリッド(hybrid)というが、F1はたんなるハイブリッドではなく、メンデルの法則がもたらす一代目の優良な形質を保持するために作られた交配品種のことをいう。 

≪09≫  いくら優秀な親どうしを掛け合わせても、その子どうしの二代目以降の交配になるとばらつきが出る。そこで一代交配雑種に限ってタネが優良になるように工夫した。その工夫の技法には「自家不和合性」とよばれる改良技法や「雄性不稔」(ゆうせいふねん)という意外な技法があるのだが、このこともあとで説明する。ともかくこうやって、かなり人為的に作り出したのがF1である。 

≪010≫  F1にはばらつきがない。野菜や果物なら形も色も味も揃う。それを大手が売り出した。日本では京都のタキイ種苗、群馬のカネコ種苗、宮城の渡辺採種場などが大手だ。 

≪011≫  日本のタネ屋は江戸中期の滝野川(東京北区)に生まれた。いまもあるみかど協和の越部家、東京種苗の榎本家、日本農林社の鈴木家などだ。滝野川ニンジンや滝野川ゴボウが有名になった。そんなふうに江戸に最初の種苗店が誕生したのは元禄年間のことで、フランスでヴィルモラン種苗商会が創業したのが1742年で、これは享保2年にあたるから、ヨーロッパも日本もだいたい同時期にタネ屋ができたわけである。  

≪012≫  農民はそうしたタネ屋から野菜のタネを買って何年も自家採種して、その土地に合った野菜をつくっていった。これが「固定種」である。固定種は味はしっかりしているけれど、不揃いなことが多い。 

≪013≫  タネ屋が工夫したものは固定種だが、農民が自分たちで工夫して自家採種したものは「在来種」という。  その後、明治以降になると日本の種苗(しゅびょう)を海外に販売する横浜植木や「サカタのタネ」などが登場し、やがて多くの大手タネ屋がF1を売るようになった。これで固定種の人気が落ちた。野口種苗はピンチになった。 

≪014≫  その後、明治以降になると日本の種苗(しゅびょう)を海外に販売する横浜植木や「サカタのタネ」などが登場し、やがて多くの大手タネ屋がF1を売るようになった。これで固定種の人気が落ちた。野口種苗はピンチになった。 

≪015≫  おやじは「おまえはタネ屋なんだから千葉大の園芸学部に行け」と言った。野口さんは受験勉強が嫌いだったので国立大なんてとんでもない。タネ屋を放棄してどこかの出版社でマンガ雑誌の編集でもしたいと思った。 それで私大の国文科に入って児童文学でも専攻しようかと迷っていたところ、大学2年のときに新聞で虫プロ出版部の募集広告を見た。狂喜して試しに受けてみたら合格した。 

≪016≫  野口さんは筋金入りの手塚フリークだった。それも、かなりのフリークだ。少年期に貸本屋に通い、折から連載が始まった『鉄腕アトム』に夢中になった。ぼくと同い歳なので、このあたりの事情はよくわかる。 

≪017≫  ただ、野口さんは最初からSF感覚にも富んでいたようで、月刊の「おもしろブック」の別冊に手塚の読み切りマンガが付いていたりすると何度も読み返すという少年だ。たとえば『白骨船長』などを夢中で読みこんだ。地球に人間がふえすぎたため、子供を抽選で間引いて白骨船長のロケットに乗せて月の裏に捨てるという話だが、てっきり子供たちは捨てられているもんだと思っていたら、月の裏ではたくさんの子供が元気で暮らしていた。白骨船長は「このことを知っているのは大統領と俺だけだ」と呟く。野口少年はギョッとした。 

≪018≫  いまは初期の名作として知られる『来たるべき人類』にも、けっこう唸らされた。超大国が世界中の反対を押し切って42GAMI(死に神)という新型核兵器のための核実験を日本アルプスの上空で炸裂させるというSFマンガだが、野口少年は「そこから人類は平和のためにこんなバカなことをやるのか」という強烈なメッセージを教わった。 

≪019≫  手塚ワールドで世界と人間についての考え方を学んだ野口さんは、進学校の川越高校に入ってはみたものの、高校2年のときに第1回日本SF大会(1962)に参加して、ますます想像力の世界のほうにのめりこんでいった。 

≪020≫  この通称MEG-CONの大会に高2の生徒が行っていたというのは、よっぽどだ。目黒公会堂(清水記念館)でおこなわれた大会はその後のギョーカイ伝説になっている。そこには、星新一(234夜)、光瀬龍、福島正実、半村良(989夜)、眉村卓、紀田順一郎(517夜)、筒井康隆、小野耕世らにまじって、マンガ家として初めて手塚、石森章太郎らが顔を出したのだ。ぼくもそのモノクロ写真を何度も眺めて「そうか、ここから始まったのか」と溜息をついたことがある。その記念写真に高校生の野口さんが写っていたとは、本書を見るまで知らなかった。いやはや、とんでもない。 

≪021≫  野口さんはさっそく雑誌「火の鳥」の初代担当編集者になった。編集長は山崎邦保である。けれどもこれもよく知られていることだが、虫プロはあえなく倒産した。昭和48年(1973)のことだ。野口さんはしばらくマンガ出版社の子会社で編集をしていたようだが、新しい「センス・オブ・ワンダーを提供するようなマンガ」が理解されなくなったことを感じ、30歳を機に家業のタネ屋を継ぐことにした。 

≪022≫  タネ屋になるにあたって、これが自分の応援歌だと思ってブラザーズ・フォーの『七つの水仙』に肖(あやか)って、家の庭に水仙の球根を七つ植えた。 

≪023≫  見合い結婚をして子供が生まれてからは、地元の青年会議所に入り、何か町のためにしたくて2年をかけて300万円の資金を集め(マンガ家やSF作家の色紙をオークションして)、そのお金で町に鉄腕アトムの銅像を建てた。手塚センセーが来てくれた。新しい店の看板には火の鳥をあしらった。 

≪024≫  しかし商売のほうは芳しくはない。野口さんは農薬にも肥料にもF1にも気乗りがしない。手塚センセーも『火の鳥』の現代篇を描けないまま60歳で亡くなってしまった。 

≪025≫  いったい火の鳥とは何だったのか。野口さんは大いに考えた。センセーは未来篇で火の鳥にこう語らせている。‥‥「でもこんどこそ」と火の鳥は思う。「こんどこそ信じたい」「こんどの人類こそ、きっとどこかでまちがいに気がつくだろう」「生命を正しく使ってくれるようになるだろう」。  本書はこの手塚治虫の“人類に遺した予言”のようなものに従っている。 

≪026≫  というわけで、いま野口さんは農薬も肥料も苗もF1のタネも園芸用具も売るのをすっかりやめている。固定種のタネをインターネットで売るだけだ。まさに火の鳥の後塵を拝するということなのだろう。 

≪027≫  日本がF1天国になったのは、野口さんによると戦争が終わって平和になったからだった。 敗戦後、日本は極端な食糧難になり、GHQは農地改革を進めた。このとき大量の化学肥料とDDTが日本に入ってきた。もともとはアメリカが戦争化学を農薬や肥料に転換するシナリオを転用したもので、一言でいえば毒ガスが農薬に変わったようなものだった。アメリカが窒素肥料などをつぎこんだのは日本だけではない。世界中に入れ込んでいった。 

≪028≫  東南アジアやフィリピンでは雨季と乾季があって、田畑には雨季に肥沃な水が流れてくるから肥料に頼らずとも農業が成立する。二毛作も当たり前で、年に三回も作物が収穫できるところもある。そんな国にも窒素肥料や化学肥料を入れるものだから、コメもムギも背丈が高くなりすぎて葉数がふえ、その葉から窒素を抜こうとしてしまい、結局は収穫が落ちていった。  

≪029≫  アメリカは抜け目がなかった。そういう国にも、たくさんの肥料をやっても収穫だけがふえる品種改良を奨励するようになった。これがのちに「緑の革命」と言われた実態だ。窒素肥料をふやせば虫も集まってくるから農薬も必要になるという悪循環が、ここに確立した。日本の大手タネ屋もこの路線に乗った。 

≪030≫  ビニールハウスが安価に作れるようになったことも事態を変えた。塩化ビニールに囲われた温室は周年栽培がどこでもできるようになったのだ。農協もビニールハウスに融資した。  

≪031≫  かくして一年中いつも同じキャベツやタマネギばかりを作る「モノカルチャー農業」(単一作物生産主義)が跋扈した。長野のキャベツ、熊本のトマト、高知のピーマン、静岡のイチゴは一年中作られている。 

≪032≫  モノカル農業の元凶になったのは、昭和46年(1971)の野菜生産出荷安定法である。このとき野菜の指定産地制もスタートした。豊作になると価格が暴落するので、価格調整のためにトラクターが余った作物を踏み潰すようになったのも、このときからだった。  

≪033≫  日本の農業のなにもかもがF1で悪くなったというのではない。世界の食糧事情を救ったのも大量F1による。しかしこのあとに野口さんの仮説を紹介するように、いったい人類のためのタネはどうあるべきかということを(手塚センセーに成り代わって)考えると、これはどう見てもF1をめぐる産業技術を問題にせざるをえなくなる。 

≪034≫  F1(一代雑種)の作り方は花の構造によって異なる。ナス科のトマトは、花が開くと自分の雄しべの花粉で雌しべが受粉してタネを稔らせる。これは自家受粉である。トマトはもともとあまり交雑しないから形質はほとんど変わらない。そのためトマトの種類は世界中に何千とある。 

≪035≫  けれども自家受粉はF1には都合が悪い。雑種にならないからだ。そこで雄しべを除くようにする。これを「除雄」(じょゆう)という。そうしておいて別のミニトマトなどの雄しべの花粉を取って、指先にくっつけて、雌しべばかりの除雄トマトの花に押しつける。最も基本的なF1技法がこうしてできる。 

≪036≫  ナスの除雄を最初にやったのは埼玉県の農事試験場だった。真黒ナスと巾着ナスを掛け合わせて埼玉交配ナスにした。埼交ナスと言われた。 

≪037≫  スイカのF1は奈良が試みた。日本のスイカのもとになっている品種は奈良で生まれた旭大和で、なかなか甘いのだが、皮が弱くて傷みやすい。縞もない。これでは出荷して東京に運ばれていくうちに傷ものになる。そこで海外から味はまずいが、縞があって皮の丈夫なスイカをもってきて、これを父親にして掛け合わせた。これが熊本をはじめ全国に広まった。最近のおいしい縞スイカはすべてこのF1スイカだ。「縞王」などというべらぼうにおいしいスイカもある。 

≪038≫  除雄よりも進んだ技法は「自家不和合性」を利用したやりかただ。タキイ種苗はアブラナ科野菜の自家不和合性という性質を利用してF1を作った。ヘッドハンティングした禹長春(ウ・チョーユン)による独自の技法だった。 

≪039≫  アブラナ科の野菜は自分の花粉でタネをつけられないという自家不和合性がある。いわば近親婚を嫌がる。他の株ならば受粉する。この性質は蕾のときははたらかず、花が成熟してからはたらく。禹長春はこれを逆手にとった。蕾をピンセットでむりに開かせ、すでに咲いている自分の成熟した花粉をその蕾につけるようにした。これでクローンができることになる。この作業をすべての蕾にほどこせば、たった1株のクローンが何百何千のクローン野菜になっていく。  

≪040≫  こうしてできたアブラナ科の野菜、たとえばカブのタネを、今度は同じアブラナ科の白菜と隣り合わせに交互に撒いておくと、受粉してくれる。受粉後は花粉を出す役目をおえたカブをブルトーザーで潰してしまえば、カブの花粉のついた一代雑種をもった白菜のタネばかりがとれる。F1白菜の誕生だ。   

≪041≫  この技法は一言でいえば「植物の生理を狂わせる」ということにある。最近はそのためビニールハウスで二酸化炭素(炭酸ガス)を使うようにもなった。人間の文明はこのように自然の生理を変えることで繁栄してきたのである。マット・リドレーの大作『繁栄』(早川書房)は、「歴史を駆動するものは何か。それはアイディアの交配(セックス)だ」と書いている。  

≪042≫  いまは自家不和合性よりも「雄性不稔」(ゆうせいふねん)という方法が格段に一般化した。雄性不稔とは、植物の葯(やく)や雄しべが退化して受粉が機能不全になることをいうのだが、これを利用すると優性品質のF1を安定的に作れることがわかったからだ。 

≪043≫  最初は赤タマネギの雄性不稔がきっかけで、アメリカの農園でさまざまなバッククロス(戻し交配)をしているうちに、花粉の出ない黄タマネギができた。これを母親役にして畑に撒き、そばに雑種強勢がはたらく父親役の野菜を撒いておくと、あとはミツバチたちに交配を任せておけばすばらしいF1タマネギが得られた。「雑種強勢」(heterosis ヘテロシス=ハイブリッドビガー)というのは、純系どうしの雑種には性質か強くなったり成長が早まったりすることをいう。 

≪044≫  雄性不稔がどうしておこるのか、長らくわかっていなかった。母系遺伝だけするのだから、これは説明がつかない“非メンデル遺伝”だろうなどと言われていた。ところが、実はほんとうの原因はミトコンドリア遺伝子の異常にあったのである。 

≪045≫  すでに「遊」や千夜千冊で何度かにわたってとりあげてきたように(1177夜『ミトコンドリアと生きる』、1499夜『生命の跳躍』など)、ミトコンドリアは生命の歴史において、外から入りこんだ闖入者である。 

≪046≫  すなわちミトコンドリアは、きわめて劇的ないきさつによってわれらが原始細胞の中に入りこんだ“外部侵入器官”であって、きわめて重大な生命活動の機能を担っている細胞内小器官(オルガネラ)なのである。呼吸活動の根幹を担い、ATPのもとを用意して生命エネルギーのもとを支え、「性」を司り、そのくせ活性酸素(フリーラジカル)を出してヤバイこともする。活性酸素は癌の要因にもなっている。 

≪048≫  46億年前に地球が生まれ、38億年ほど前に最初の生命が誕生したとき、この最初の生命は単細胞のバクテリアのようなものだった。バクテリア時代は数億年以上続いたろうが、その中から海中のシアノバクテリアに代表される光合成をする藍藻型のバクテリアが生まれた。 

≪047≫  なぜミトコンドリアのような外部者がわが生命系の中に入ってきたかということも、これまで千夜千冊で説明してきた。かんたんにいえば、次の事情によっている。 

≪049≫  それまで酸素をもっていなかった地球はこのシアノバクテリアが作り出す酸素を大気圏にとじこめて、次の生命系を準備することになった。しかし、それまでのバクテリアは酸素がない状態で生まれていたので嫌気性である。嫌気性のバクテリアにとっては酸素は猛毒だ。そこで多くの嫌気性のバクテリアは海底の深いところや地中の奥深いところで生きのびた。 

≪050≫  こうしてあるとき、好気性のバクテリアと嫌気性のバクテリアが出会うことになった。ここで劇的なことがおこったのである。嫌気性の生命体が好気性の生命体を取り込んで、酸素呼吸をする生命システム(真核細胞の生命体)に進化した。この好気性のバクテリアこそミトコンドリアになったものだった。 

≪051≫  この驚くべき“細胞内共生”(endosymbiosis)という出来事は、リン・マーグリス(414夜)によって仮説予想され、最初はみんなあっけにとられていたのだが、その後は誰もが認める事情になった。生物はクローン生殖ではなくて「性」を媒介にした有性生殖ができるようになったのだ。 

≪052≫  こうしてわが生命系は、この外部からの侵入者ミトコンドリアの機能をフルに使って、エネルギーに満ちた多細胞生物に向かっていった。ミトコンドリアが呼吸やエネルギーの工場として機能しているのはそのためだ。 

≪053≫  その後、生命の歴史はミトコンドリアによって乗っ取られたのではないかというテイクオーバー説や、われわれの生命はミトコンドリアの寄生体ではないかというパラサイト説などが出た。ミトコンドリアがアポトーシス(細胞死のプログラム)の鍵も握っているせいでもある。けれども、このあたりの議論の決着はまだ見ていない。ぼくはニック・レーン(1499夜)のミトコンドリア新統合仮説がおもしろいと思っているが、このへんの結論は出ていない。 

≪054≫  しかしミトコンドリアの特別なところは、それだけではないのである。遺伝的に注目すべきなのは、その遺伝子が母親だけから子供に伝わっていくという母系遺伝をすることにある。われわれの細胞にひそむミトコンドリアは1万年、10万年、100万年以前りミトコンドリアと“母伝い”につながっているのだった。動物や植物でもそうなっている。われわれはすべて「ミトコンドリア・イブ」から生まれたのである。 

≪055≫  そのミトコンドリアの遺伝子の異常にかこつけて、F1種が作られていたとすると、さあ、どうか。何かとんでもない「過誤」がおこっているのかもしれなかった。野口さんはそう考えた。 

≪056≫  かつてキャベツは自家不和合性を利用してF1を作っていた。F1キャベツには父親役の株と母親役の株がある。この母親役のタネをハウスに撒くのだが、ハウスにはあらかじめ雄性不稔のダイコンが植えられている。そこにボンベから炭酸ガスを吹き出してダイコンの生理を狂わせる。花が咲いたらミツバチを放つ。 

≪057≫  ミツバチは血中のヘモグロビンをもっていないから、酸欠をおこさない。ハウスでちゃんと働いて、母親キャベツの花粉をせっせと雄性不稔のダイコンにつけていく。キャベツとダイコンはゲノムが違うから混ざらないはずなのに、二酸化炭素の濃度が高められているので生理が狂い、キャベツ50パーセント、ダイコン50パーセントの合いの子のタネを生む。 

≪058≫  ゲノムが異なる異種間に受粉がおこってタネができるメカニズムは、正確に生物学的に説明しようとすると難解になるが、わかりやすくいえば、強いストレスが植物を焦らせてタネ作りに向かわせたのである。 

≪059≫  こうした作られたタネは母親譲りの雄性不稔のキャベツになるが、自分には子孫を作る能力はない。そこでまわりに父親役の野菜を配して、ミツバチなどに交配させる。このプロセスをうまく組み立てればF1キャベツができあがる。 

≪060≫  いま、「サカタのタネ」が圧倒的シエアをもっている春キャベツの金系201号も、タキイのSPキャベツやEXキャベツも、雄性不稔のF1キャベツである。 四国の南国市は全国一のシシトウの産地であるが、現在発売中のシシトウの99パーセントは雄性不稔の葵シシトウだ。多くの病気(乾腐病など)に強いツキヒカリというF1タマネギは、固定種の札幌黄から改良したF316にアメリカのW202を掛けた雄性不稔タマネギから得たフラヌイを、さらに病気抵抗の強いタネを求めて作り上げたものであるらしい。 

≪061≫  これらのF1野菜は、短絡すればすべてミトコンドリアの遺伝子の異常を利用したものだった。わが生命系が継承してきた母系遺伝の狂いを利用したものなのだ。ここに問題がないなどというはずがない。野口さんはこの問題を訴えたくて、この本を書いたのだ。「幹塾」で加藤秀樹が「野口さんを呼ぼう」と決めたのも、政治家たちにこの警告を聞かせるためだった。 

≪062≫  このところCCDとかVBSという用語が入った事件がニュースになることがある。CCDは“Colony Collapse Disorder”の略で「蜂群崩壊症候群」と訳され、VBSのほうは“Vanishing Bee Syndromeで「ミツバチ消失症候群」と訳されている。数十年前のアメリカで数万匹の大量のミツバチが各所で消えてしまったという異様な現象を報じるニュースだ。 

≪063≫  さまざまな推測が出ていて、すでにローワン・ジェイコブソンの『ハチはなぜ大量死したのか』(文春文庫)や岡田幹治の『ミツバチ大量死は警告する』(集英社新書)、船瀬俊介『ミツバチが消えた「沈黙の夏」』(三五館)などという本もある。ジェイコブソンは物理学と英文学を引っさげた食環境ジャーナリスト、岡田は朝日の論説委員と「週刊金曜日」の編集長の歴任者、船瀬は環境問題や食品問題について夥しく本を書いているジャーナリストだ。 

≪064≫  CCDについてはいろいろな原因が憶測された。 ハチに免疫不全がおこっている、農薬ネオニコチノイドが原因だろう、ダニ(ヘギイタダニ)のせいだろう、地球温暖化の影響だ、ケータイ電話の電磁波によるものだ、遺伝子組み換え(BT)の作物がおこしたことだ、ノゼマ病菌による、単一作物のストレスがハチを去らせたのだろう、抗生物質の作用が過剰だった‥‥等々。どうも正解はないらしく、おそらくは複合的な事情が重なったのだろうということになっている。 が、野口さんは独自の仮説を立てたのである。そもそもミツバチが何のために野菜や果物の受粉をしてきたのか、そこに目をつけた。仮説は次のようなものだった。 

≪065≫  (1)1940年代、タマネギやニンジンなどの雄性不稔野菜にミツバチを使って受粉させてF1種子を採るようになった。 (2)ミツバチはミトコンドリア遺伝子の異常な野菜の蜜や花粉を集めるようになった。これがローヤルゼリーになって次世代の女王バチの幼虫に与えられるようになった。 (3)やがて次世代の女王バチたちは他のコロニーのオスバチと交尾して、たくさんの働きバチを生むとともに、次の女王バチと数匹の雄バチを生む。この雄バチは未受精卵だから女王バチの遺伝子しかもっていない。 (4)養蜂業者は一定の農家と契約しているから、雄性不稔のF1種子の受粉のために使われたミツバチは、世代が変わっても同じ季節に同じ採種農家の畑に行く。それゆえ、この養蜂業者が所有するミツバチは代々にわたって雄性不稔の蜜と花粉を集め、さらに次世代の女王バチと雄バチを育て続けることになる。 (5)こうしてミトコンドリア異常の蜜で育った女王バチの体には、世代を重ねるごとに異常なミトコンドリアの蓄積が多くなり、あるときに無精子のオスバチを生むことになったのではないか。 (6)こうした事情が重なってくると、巣の中のオスバチがすべて無精子症になってしまうことがおこりうる。 (7)巣の中に無精子のオスバチしかいないことに気が付いたメスの働きバチはパニックをおこすにちがいない。集団で巣を飛び立っていってもおかしくない。 (8)この異常が最初におこったのが1960年代だったとすると、オスバチが無精子化するのに約20年という継代が必要だったのだろう。そうだとしたら、ミツバチの大量疾走事件はきっと1980年代にもおこっているはずだが、まだその記録は調査されていない。 (9)以上の仮説が妥当だとすれば、2020年代にはもっと大きな規模でCCDやVBSが発生するはずである。 

≪066≫  はたしてこの野口仮説がどれほどのエビデンスを得るか、いまのところはわからない。しかし、手塚治虫はこのことをこそ警告したのだったろう。 現在、世界にF1ハイブリッドライスが出回るようになった。7、8年前で中国では58パーセント、アメリカでは39パーセントがハイブリッドライスになった。日本ではまだ1パーセントに及んでいない。ちなみに中国のF1ライスのうち、インディカ米は80パーセント、ジャポニカ米は3パーセントだ。 野口さんは次のように綴って、本書を締めている。「人間は本来やるべきではないことをやっているのではないだろうか。すべての植物を子孫が作れない体にして、人間がそれを食べていくことで世界中がお返しを受けているのではないだろうか」と。 

≪067≫  その後、ぼくもいろいろ知ったし、いろいろ読んだ。F1犯人説というより、食糧ビジネスが採り込んだ技法の数々が、けっこう忌まわしかった。 とくにモンサント、デュポン、シンジェンタ、バイエルクルップなどの巨大アグロバイオ企業の食糧戦略は、卑しいほど恐ろしい。本書はF1種子を主題にしているが、GMO種子(遺伝子組み換え種子)はさらに凄まじい世の中をつくっている。まとめて「ターミネーター・テクノロジー」と称される。 安田節子の『自殺する種子』(平凡社新書)、ヴァンダナ・シヴァの『食料テロリズム:多国籍企業はいかにして第三世界を飢えさせているか』(明石書店)、マリー=モニク・ロバンの『モンサント:世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業』(作品社)、ブレット・ウィルコックスの『モンサントの嘘』(成甲書房)、船瀬俊介の『モンスター食品が世界を食いつくす:遺伝子組み換えテクノロジーがもらたす悪夢』(イーストプレス)などを覗いてみることを薦めたい。 

≪068≫  いま、日本を含めて太平洋沿岸国はアメリカのTPP戦略にほぼ包囲されていしまっている。TPPは農作問題や食糧問題だけではない貿易戦略だが、その仮面はすでにニュージーランドのジェーン・ケルシーの『異常な契約:TPPの仮面を剥ぐ』(農文協)をはじめ、多くの識者が問題点を訴えている。 なかで農作・食糧・食品技術に関しては、TPPの仮面を剥ぐ程度ではおさまらない「過誤」がもっと進んでいる。マイケル・モスの『フードトラップ』(日経BP社)、ジョナサン・サフラン・フォアの『イーティング・アニマル』(東洋書林)、ラジ・パテルの『肥満と飢餓』(作品社)、スーザン・ドウォーキンの『地球最後の日のための種子』(文藝春秋)などは、背筋がゾッとするというより、もうこれ以上読みたくないという気にさせられる告発本である。 手塚治虫の予言は当たりすぎていたのだ。 

ドローンと環境汚染

ドローンは地球環境問題の解決に貢献できるか? - 総合地球 ...

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本研究では、無人航空機(UAV)を、地球研のプロジェクトで活用する際の具体的な手法について検証する。近年、. UAVは急速な技術革新によって、環境研究や災害被害調査、インフラ点検など様々な分野への応用が期待 ...


ドローンを使った環境問題解決の新しい試み!海ごみ削減を ...

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2020/08/03 — 深刻化するゴミ問題。ドローンの活躍が期待されます! DRONE FUND(本社:東京都渋谷区、代表:千葉 功太郎、大前 創 ...


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ドローンの空撮画像を利用して、精密農業の実現を目指すドローン・ジャパン代表取締役社長勝俣喜一朗(かつまたきいちろう)さん。日本で古来から営まれてきた環境調和型の農業を伝承するため、 ...

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[小林啓倫のドローン最前線]Vol.34 ドローンを使って環境問題 ...

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2019/11/28 — 懸念が高まるマイクロプラスチック問題プラスチック、すなわち合成樹脂は19世紀に研究が始まり、20世紀初期に製品化が進んだ。史上初めて人工的に誕生したプラスチックであるフェノール樹脂は、1907年に工業化され、 ...


環境問題 | テラドローン株式会社|terradrone japan

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News 環境問題. テラドローンアンゴラ、大手国際石油メジャーと共同で、油流出事故の現状把握を目的とした実証実験に成功 ドローンを活用することで 油流出に対する迅速な対応を実現. テラドローンアンゴラは、大手国際石油メジャーと ...


ドローンで除草剤散布に賛否 「地獄」解消か環境破壊か ...

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2020/10/06 — 佐賀県は、人材不足が深刻化する林業の省力化を図ろうと、ドローンで除草剤を散布する試みを進めている。夏場の過酷な草刈り作業の負担を軽くし、担い手の確保につなげたいためだ。しかし実証実験を知った人たちか…


ドローンによる大気環境調査の有用性と課題の検討 - 日本環境 ...

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ドローンを使用して簡易的に有害大気汚染物質の測定を行った結果、公定法との比較やポンプの汚染の可能. 性等の改善の必要性が考えられた。また、バッテリーによる飛行時間の制限とペイロードの制限があることを確認し. た。更に、専門家に ...


ドローン環境調査サービス | 環境調査・環境測定分析・環境 ...

greenblue.co.jp › ... › 環境調査分析・アセスメント

 

グリーンブルーがお届けするドローンを利用したサービスは、大気・水質・土壌などの環境モニタリングに携わってきた長年 ... 大気環境におけるPM2.5などの汚染物質の実態は、これまで地表での測定で把握することが試みられてきました。


メリットも問題点も多いドローン

www.sv-comm.com › sub258

 

マイナス面の報道も多いが、ドローンの活用には、たくさんのメリットがある。 ... 天気もよく、障害物も何もないところでは問題なく飛ぶドローンも、ひとたび環境が悪くなると、まだまだそれに対応できるところまでは来ていない。深刻な ...


ドローンは地球環境問題の解決にいかに貢献 ... - CiNii 論文

ci.nii.ac.jp › naid

 

ドローンは地球環境問題の解決にいかに貢献できるか (特集 環境分野で広がるドローンの活用). 渡辺 一生. 著者. 渡辺 一生. 収録刊行物. 生活と環境. 生活と環境 61(12), 18-21, 2016-12. 日本環境衛生センター. CiNii利用者アンケート. Tweet ...


ドローン技術の現状と課題および ビジネス最前線 - J-Stage

www.jstage.jst.go.jp › article › johokanri › _pdf

 

最後に,既存の千葉市ドローン宅配プロジェクトの現状と課題について言及する。 ドローン,ミニサーベイヤー,完全自律制御飛行,自律飛行,非GPS環境,SLAM技術,ガイダンス,ナビゲーション,制御 ...


ドローンを利用した生産環境の精密観測と運用 - J-Stage

www.jstage.jst.go.jp › article › hokurikucs › _pdf

 

その一つが雑. 草問題であり,稲麦大豆の輪作体系の中で特に大豆生産に. おいて,全国的に帰化アサガオ類の蔓延による生産性の低. 下が生じている.大豆作では土壌処理や茎葉処理の組み合. わせ,水田との輪作など体系的に雑草管理が進め ...


考えてもみなかった商用ドローンの4つの利用方法 | HPE 日本

www.hpe.com › japan › insights › reports › 4-commerc...

 

ただし、動画制作はドローンによる撮影でAIがサポートする役割の1つにすぎず、UAVの操縦では、飛行の制御と安定化、 ... ィング容量を搭載できるようになっており、より迅速かつ的確に周囲の環境と飛行状況を把握することが可能です。


農業用ドローンの普及に向けて - 農林水産省

www.maff.go.jp › kanbo › smart › pdf › hukyuukeikaku

 

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農業分野においても、現場の人手不足. が深刻な問題となっている中、水稲をはじめとした土地利用型作物の防除機として普及が進みつつあ. るように、従来ほかの手段で行ってきた農作業をドローンで効率的に実施することに加え、操作が簡単.


ドローンで環境保護!熱帯雨林のモニタリングソリューション ...

techable.jp › archives

 

2017/04/26 — しかしながら、20世紀以降、農地の開発や伐採などによって森林破壊がすすみ、南米アマゾン川流域に広がるアマゾン熱帯雨林では、過去50年間で約17%が消失したという。 ・熱帯雨林の現状を可視化するドローン ...


航空法のドローン規制、絶対にはずせないポイント総まとめ!

viva-drone.com › ドローンの規制と資格

 

2019/10/30 — 確かに、ドローンを飛ばすときには、重量や飛行場所、飛行させる際の環境など、チェックしなければならないポイントがいくつもあります。だから、どうしても「法律や自治体の条例はよくわからないし、自分の知らない ...


生態系観察におけるドローン活用、具体事例と現状|ドローン ...

dronebiz.net › use › ecosystem

 

2016/02/05 — また、絶滅に瀕している動物の健康状態を管理し、問題があればその治療をいち早く行うこともできるようになると考えられます。 豊田市では、環境省と共同で「アカミミガメ対策推進プロジェクト」の一環として、“ドローン ...


市民団体、ドローン監視の続行訴え 基地の環境破壊指摘 | 沖縄 ...

www.okinawatimes.co.jp › 政治

 

2019/06/04 — 【東京】小型無人機ドローンの基地周辺飛行を原則禁止する改正ドローン規制法施行を前に、基地を上空から監視する市民団体「沖縄ドローンプロジェクト」と同法対策弁護団は3日、参院議員会館で、辺野古新基地建設の ...


武装ドローンの使用による環境への影響 - 戦争を超えた世界 ...

worldbeyondwar.org › environmental-consequences-us...

 

しかしながら、武装ドローンの使用と環境被害との間のいかなる可能な関係についても、ほとんど研究が行われていない。 ... 多くの種類のターゲットは、ダメージを受けたり破壊されたりすると、環境や人間の健康に害を及ぼす可能性が ...


沖縄ドローン規制で市民らが防衛省を追及(週刊金曜日 ...

news.yahoo.co.jp › articles

 

2020/10/14 — 沖縄・辺野古の新基地建設工事での環境破壊や違法作業の監視を進めてきた市民団体「沖縄ドローンプロジェクト」(藤本幸久代表)は9月17日、東京の衆議院第1議員会館で防衛省と交渉、罰則付きの禁止区域指定の ...