読書・独歩 宇宙の間隙に移居するParⅠガイド 情

文明の衝突がげ厳然と現前

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≪01≫  日本には西洋音楽史がすらすら浮かぶ者はたくさんいるのに、東洋音楽史や日本音楽史を会話の中にはさむ者はめっぽう少ない。

≪02≫  いまさら目くじらをたてたところでせんかたないが、困ったことである。だいたい東洋音楽や日本音楽を教えられる者がごくわずかなのだし、そんな授業もないのだから、誰もそんなことに関心をもてなくなってしまうのは当然だった。

≪03≫  田辺尚雄が東洋音楽を論じたのは、昭和初期にまでさかのぼる。東洋音楽学会というものも1936年に設立されている。

≪04≫  その後も岸辺成雄のシルクロードを歴史的にたどった音楽史や楽器史や林謙三の東洋楽器論があったが、小泉文夫が世界の民族音楽の研究を一般化するまでは、ほとんどアジア音楽を語る者はいなかった。

≪05≫  ぼくは幸運にも杉浦康平の浩翰な民族音楽趣味の近くにいたため、それを通して小泉文夫と出会えて、多少は青年時代にアジア音楽にめぐりあえた。とくに杉浦さんが録音していた厖大な民族音楽のテープと、小泉さんが自宅の一室でさまざまな民族楽器に囲まれながら遊ぶように語ってくれる音楽談義が“ゆりかごの歌”になった。

≪06≫  東洋音楽の議論がながいあいだにわたって盛り上がらなかったのは、かつて兼常清佐が「日本音楽史は成立しない」と言ったことに端的に示されているように、楽譜がないことを問題にしすぎてきたからだった。

≪07≫  しかし、それは西洋的な楽譜がないだけのことで、読む気になればいくらも東洋的な楽譜はあったのである。いや、それは西洋的な意味での“楽譜”というものではなくて、むしろ人間の本来の記譜能力にもとづいたインター・ノーテーションだった。音楽家や音楽研究者たちは、それを読むのが面倒なだけだったのである。ぼくなどは、そのようなインター・ノーテーションのほうが五線譜などよりずっとおもしろい。

≪08≫  さらに別のことで言うのなら、アジアの中ではいまでもどこでも実際のアジア音楽が生きているのである。それをナマで体験すれば、楽譜など必要もなかったし、仮に楽譜にしたければ、それは研究者や音楽家がやってみればよかったはずだった。

≪09≫  もうひとつ、日本において東洋音楽の議論が盛んになれなかった理由がある。

≪010≫  それは、戦後に“大東亜戦争批判”の嵐が吹きまくったことだ。昭和前期の日本が「五族協和」をうたってアジアを蹂躙した記憶を拭いたかったからだった。

≪011≫  これは致し方ないといえば、致し方がない。しかも戦時中は、早坂文雄のような天才が東洋主義に走ったことが“利用”されて、かれらの音楽がながいあいだ葬り去られていた。早坂文雄がやっと脚光を浴びたのは、黒沢明が早坂を映画音楽の作曲者として起用してからのことである。

≪012≫  ぼくも、秋山邦晴に頼まれたサントリー音楽財団の仕事で、早坂文雄の散逸した“楽譜”を集め、これに解説や評伝を加えて一冊にまとめるという作業にかかわってみて、日本がいかに日本を忘れてきたかということに初めて気がついた。

≪013≫  本書はとくにすぐれた本ではない。ただし、アジア音楽史を通観できるものがないので、この本を推しておくことにした。

≪014≫  全体は共著形式になっていて、総論にもとづいて東アジア、東南アジア、南アジア、西アジア、中央アジア、日本が分担されている。年表もついているのだが、地域別に分断されているのがつまらない。

≪015≫ 参考¶いまは音楽之社の「東洋音楽選書」があって助かる。古くは、田辺尚雄『東洋音楽論』1929(春秋社)、田辺尚雄『東洋音楽史』1940(雄山閣)、岸辺成雄『東洋の楽器とその歴史』1948(弘文堂)、林謙三『東アジア楽器考』1973(カワイ楽譜)、吉川英史『日本音楽の歴史』1965(創元社)など。やはり小泉文夫の本から入られるのがいいと思う。

 そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせてていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。

『人間の土地』の最後は次の言葉でおわっている。もって銘ずべし。「精神の嵐が粘土のうえを吹いてこそ、初めて人間はつくられる」。

結論ははっきりしている。この名作は『人間と土地』の童話版なのである。ただし、ここにはサン=テグジュペリのすばらしい想像力とすばらしい水彩ドローイングの才能がふんだんに加わって、ついついファンタジックに読んでおしまいになりそうになっている。それがもったいないのである。

しかし、これもサン=テグジュペリが何度も体験して辛酸を嘗めたことなのだが、この内側と外側の関係を伝えようとすると、みんなは一緒の感じをもってくれない。そこで星の王子さまに登場してもらったのだった。

≪01≫  1944年7月31日、いまだ第二次世界大戦の戦火が激しいなか、サン=テグジュペリはコルシカ島から南仏グルノーブルおよびアヌシー方面の偵察飛行あるいは出撃に飛び立ったまま行方不明となり、そのまま大空の不帰の人となった。44歳だった。この年、ぼくが生まれた。

≪02≫  2年ほど前、この行方不明になったサン=テグジュペリを追ったテレビ・ドキュメンタリーを見た。なかなかいい番組で、手元にメモがないので詳細は伝えられないのだが、飛行ルートをずうっと追いかけてそのあいだに彼の生涯をはさみ、ついに推理の旅が北アフリカのダカールやコートダジュールの廃屋にたどりつくという映像だったとおもう。なんだが胸がつまって、しっかり見なかったような記憶がある。ついで「フィガロ」誌にその後の推測が出て、おそらくドイツ戦闘機に撃墜されたのだろうということになっていたが、死の謎は謎のままだった。

≪03≫  アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリを『星の王子さま』の作者として愛しているのは、それはそれですばらしいけれど、それだけではいかにももったいない。いまはあきらかにそう断言できるのだが、かくいうぼくも長いあいだ、この飛行家サン=テグジュペリの文学や生涯に疎かった。

≪04≫  それが急激に近しくなったのは、サン=テグジュペリが1900年の生まれで、稲垣足穂がやはり1900年の生まれで、二人ともがこよなく飛行機を偏愛していたという符牒に合点してからのことである。

≪05≫  サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていったという一線にぴったり重なって飛行している。なにしろ三歳のときにライト兄弟が初飛行をし、9歳のときにルイ・ブレリオが英仏海峡を横断し、13歳のときはローラン・ギャロスが地中海を横断したのである。中田がペルージャに入り、名波がヴェネチアに入っただけでも少年がサッカーに熱中するのだから、当時の飛行家の冒険は、もっともっと少年の胸にプロペラの爆音を唸らせたのである。

≪06≫  サン=テグジュペリは19歳で海軍兵学校の入試に失敗をして、やむなく兵服して飛行連隊に入隊、志願して飛行練習生になったのちは、行方不明になる44歳までひたすらに大空の夢を見る。

≪07≫  ところが運命はいたずらなもので、なかなか防空眼鏡に白いマフラーをなびかせた飛行士としての定席にめぐまれない。そこで地上でいくつかの勤務につくうちに、民間郵便飛行の仕事にありついた。それも有為転変が激しくて、なかなか一定の勤務にはならず、スペイン山岳地帯、ブエノスアイレス、ニューヨーク、北アフリカなどを転々とする。いつも危険をともなう飛行計画を好んだ。そのあいだに書いたのが有名な『南方郵便機』であり、『人間の土地』であり、アメリカで書いた『戦う操縦士』と『星の王子さま』である。

≪08≫  こうしたなか、サン=テグジュペリは大戦にまきこまれていく。けれどもそれは大空を滑空する最後の夢をかなえる機会でもあった。教官を薦められながらもつねに実戦部隊を選んだのは、そのせいだった。連合軍の北アフリカ上陸のニュースが伝わるとじっとしていられず、出撃飛行を申し出て、かくして四三歳、北アフリカの部隊に入ったサン=テグジュペリは当時最高の性能を誇っていた最新戦闘機P38ライニングの操縦訓練をうけて、実戦に突入していった。やきり撃墜してしまったのかもしれない。

「夜間飛行」 2團1列

≪09≫  本書『夜間飛行』は、そうしたサン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」を描いた感動作である。

≪010≫  物語はたった一夜におこった出来事で、そのわずか十時間ほどのあいだに、チリ線のアンデスの嵐、パラグアイ線の星と星座、パタゴニア線の暴風との闘いとの遭遇が描かれ、最後に主人公の飛行士フェビアンが方位を見失って彷徨し、それがおそらくは罠であることを知りながらも、夢のような上昇を続けていくという顛末を、もう一人の主人公であるリヴィエールが地上からずうっと瞑想のごとく追送しているという構成になっている。

≪011≫  サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに「精神の飛行」の物語なのである。航空文学の先駆と文学史ではいうけれど、そんな甘いものではない。なんとしてでも読まれたい。序文をよせたアンドレ・ジッドの文章も、こういうものを訳したら天下一品だった堀口大學の訳文も堪能できる。

≪012≫  この作品は実は400ページの草稿が181ページに切りつめられて完成した。三分の一に濃縮したエディトリアル・コンデンスの結晶である。その短い二三章にわたる映像的な「引き算の編集術」には、ぼくもあらためて学びたいものがいっぱいつまっている。

≪013≫  この作品でも十分に伝わってくるのだが、サン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」をさらに知りたいのなら、『人間の土地』を読むべきだ。堀口大學の訳で新潮文庫に入っている。不時着したサハラ砂漠の只中で奇蹟的な生還をとげた飛行家の魂の根拠を描いた。小説とはいえない。体験と思索を摘んだ文章の花束のようなもの、それらが「定期航空」「僚友」「飛行機」「飛行機と地球」「砂漠の中で」「人間」というふうに章立てされている。

≪014≫  そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせてていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。

≪015≫  『人間の土地』の最後は次の言葉でおわっている。もって銘ずべし。「精神の嵐が粘土のうえを吹いてこそ、初めて人間はつくられる」

≪016≫  と、ここまで書いてサン=テグジュペリの話をおえるわけにはいかないだろう。では、『星の王子さま』はどうなのかということだ。

≪017≫ 結論ははっきりしている。この名作は『人間と土地』の童話版なのである。ただし、ここにはサン=テグジュペリのすばらしい想像力とすばらしい水彩ドローイングの才能がふんだんに加わって、ついついファンタジックに読んでおしまいになりそうになっている。それがもったいないのである。

≪018≫ いまさら物語を紹介するまでもないだろうが、この童話には語り手がいて、その語り手が子供のころに「象を呑んだウワバミの絵」を外側から描いたところ、大人たちがみんな「これは帽子だ」と言う。それでウワバミの内側を説明しようとすると、そんなことより勉強しなさいと言う。この語り手が長じて飛行家になって、あるときサハラ砂漠に不時着すると、そこで子供に出会う。子供はヒツジの絵を描いてくれとせがむ。いろいろ描いても満足しない。そこで箱の絵を描いて「ヒツジはこの中で眠っている」と説明すると、やっとほほえんだ。この子供がどこかの星に住んでいた星の王子さまなのである。

≪019≫  ここまでですぐ見当がつくように、これは実際にサハラ砂漠に不時着したとき、灼熱のもとで飢えと渇きに苦しんだサン=テグジュペリが、三日目にベドウィン人に水をさしだされて助けられた体験にもとづいている。さらには、内側に本来のものがあるというサン=テグジュペリの思想にもとづいている。けれどもその内側がたとえ見えずとも、外側からでも感じられるものがあるはずで、それは大空から地球を眺めていたサン=テグジュペリ自身の視線なのである。

≪020≫  しかし、これもサン=テグジュペリが何度も体験して辛酸を嘗めたことなのだが、この内側と外側の関係を伝えようとすると、みんなは一緒の感じをもってくれない。そこで星の王子さまに登場してもらったのだった。

≪021≫  星の王子は一人ぼっちである。一人ぼっちだっただけでなく、一つずつのことに満足していた。ところがその感覚がくずれていった。たとえば星にいたころはたった一本の薔薇の美しさが大好きだったのに、地球にやってきてみて庭にたくさんの薔薇が咲いているのを見て悲しくなった。

≪022≫  自分はありきたりの一本の薔薇を愛していたにすぎないことが悲しかったのだ。では、この気持ちをどうしたらいいのか。それを教えてくれたのはキツネだった。サン=テグジュペリはここでキツネと王子の会話を入れる。王子はキツネと遊びたい。キツネは王子と遊ぶには「飼いならされていない」からそれができないと言う。そこで王子がだんだんわかっていく。自分が星に咲いていた一本の薔薇が好きだったのは、水をやり風から守っていたせいで、一本という数をもつ薔薇に恋をしたわけではなかったことを知る。

≪023≫  こうしてキツネの話から、王子はどこの星の世でもなにより「結びつき」というものが大切であることに気がついて、自分の星に帰る決心をする。飛行家にもこのことを伝えると、金色の砂漠のヘビにくるぶしを咬ませ、一気に軽い魂の飛行体となって飛んでいった。

≪024≫  御存知、物語はこういうハコビになっている。途中、地球に来る前にあたかもガリヴァー船長(第324夜)が訪れた国のように陳腐な星を旅するのだが、そこにはサン=テグジュペリの「人間の土地」に対する哀しいまでの観察が戯画化されている。この戯画は、子供のころはガリヴァーの話やトルストイ(第580夜)の『三匹のこぶた』やアンデルセン(第58夜)の『裸の王さま』同様に大笑いしたエピソードだったけれど、いつ再読したのかは忘れたが、長じてサン=テグジュペリを読むようになって『星の王子さま』をあらためて読んだときは、とても震撼としてしまったものだった。

≪025≫  サン=テグジュペリ。あなたの飛行精神こそ、ひたすらに胸中のプロペラをぶんまわします。

≪01≫  「氏について語ることは、日本の昔の、ある偉大な人物について語るのとひとしい」とプリンストン大学のアール・マイヤー教授の感想。これが辻井喬では「このような大きな包容力とでも呼ぶしかない叙述のスタイルは何故可能になったのだろう」というふうになる。 

≪02≫  また、「ついで比較の視野の広さであり、これは日本の国文学者の間では群を抜き、オリエントからケルト、ギリシャを貫き、フレーザー流の民俗学まで、洋の東西を縦横に駆けめぐって、日本の文学を世界のなかに位置づける」(伊東俊太郎)という評判。「仕事をきちんとあとづけてたどってゆくと、古代新羅の歌謡である郷歌や仏教歌謡がちゃんと視野にはいっている」(藤井貞和)という唸り声。 

≪03≫  このほか、「大変な専門家なのはもちろんだが、それ以上に文芸全般に対する目くばりの広さと良さに驚嘆する」(半藤一利)。「つねに清新にして切れ味のいい説を述べる」(丸谷才一)。「日本文学における〈私〉について述べた文章はたいへん示唆的で、ひろがりのある問題の指摘だった」(岩田慶治)。「いかに恵まれた研究者としての素質をもち、加えて刻苦清励の美徳を備えていたかは、たやすく想像できる」(大岡信)等々。 

≪04≫  いずれも中西進『万葉論集』全8巻(講談社)の月報に拾った言葉である。 

≪05≫  中西万葉学が他の追随を許さない浩翰な成果であることについては、いまさらいうまでもない。わずか30代半ばで大著『万葉集の比較文学的研究』を著して、読売文学賞と学士院賞を攫っていった早熟に対する驚きは、いまも斯界で残響しつづけている。 

≪06≫  しかし、中西さんの魅力はそれにはとどまらない。数年前にお嬢さんを事故で亡くされたのだが、そうしたときのエッセイは心に染みる。 

≪07≫  一方、中西さんは、ぼくが5年前から教職者として通っている帝塚山学院大学の学院長であって、理事長でもある。小・中・高・大を統括していて、帝塚山でいちばん偉い。5年前は新設の人間文化学部をつくるための準備委員長をしていて、そのときにぼくも東大の客員から帝塚山に引っ張られることになったのだが、その直後に大阪女子大の学長に移ってしまわれたので、ぼくとしては”主のいない大学”に通うような、どうにも心もとない事態となった。ぼくはそもそも大学のような機関が苦手で、中西さんの依頼だから引き受けたようなものの、そうでなければ遠慮していた。 

≪08≫  実際にも何度か辞退したのだが、ちょうどそのころに中西さんが『源氏物語と白楽天』(岩波書店)という大著によって大佛次郎賞を受けた。さっそくお祝いの葉書を出したところ「しばらく留守にするけれど、帝塚山のことはよろしく」とあって、これで逃げられなくなった。中西さんの源氏と白楽天の返しなら、これは文句のつけようがなかったのだ。 

≪09≫  さて、こういうぐあいに広くて深くて優しい中西さんなので、本欄にも、そのような中西世界の”どの中西本”をあげようかとおおいに迷ったのだが、以下のごとくに東西の文化の天空に羽ばたく翼の大きさを紹介したくて、ここでは本書『キリストと大国主』にしてみた。 

≪010≫  紹介にあたっては、ここからは”中西さん”から”中西先生”に戻っていただく。また、本書の翼が飛行する距離はたいへんに長いので、ここでは話を勝手にはしょって、つなげることにする。 

≪011≫  話は、先生が自宅近所のステーキ屋にポーランド人と一緒に入ったところ生ハムが出て、ポーランド人が「これは自分の国の味だ」というところから始まる。 

≪012≫  アメリカづくめのステーキ屋にポーランドの味があるのを訝って訊いてみると、店主はシカゴ出身で、シカゴにはたくさんのポーランド人が移植していたんだという。そこで先生は書く。世界にはこの生ハムのような「見えざる旅人」が多いのだろう。実は、日本の古代にもこのような旅人がたえまなくやってきていた。その話をしてみようというのである。 

≪013≫  先生は”見えざる旅人”の例として、最初に伊勢志摩の海女たちがつかう道具に、セーマンとドーマンといわれる奇妙な印がついていることに目をつける。しかし、ここから話はとんでもなく広がっていく。 

≪013≫  先生は”見えざる旅人”の例として、最初に伊勢志摩の海女たちがつかう道具に、セーマンとドーマンといわれる奇妙な印がついていることに目をつける。しかし、ここから話はとんでもなく広がっていく。 

≪015≫  いずれも迷宮を封じる役目をもっているらしいが、そうだとすれば、クノッソスの迷宮も「水中の女王の産物」だから、海女さんたちがこういう印をつけているのも頷ける。そこに糸を編んだような文様がつかわれるのも、テーセウスがアリアドネからもらった糸玉に頼った話とも呼応してくる。 

≪016≫  これはまた、通ってくる男の裾に糸を結んでおいてその後を辿ったら三輪山に行きついたという蛇体伝説にもつながるし、これらから、蛇体→うねり→糸巻→渦巻→迷宮という連鎖も窺われる。しかも、迷宮にはこれに関連して古代より「擦り足で特定のステップを踊るダンス」が各地に伝わっているので、禹歩や太極拳や足摺岬の名の由来とともに、人々が大事なことを迷宮に隠したり、これを解いたりしていたことが身体の動きとしても記憶伝承されていたことを想定することができる。さらには呪縛をかけられて脱出するオイディプスの足が弱かったことや小栗判官の伝承も遠望されてくる。 

≪017≫  ところがいろいろ調べていくと、セーマンは日本では安倍晴明の桔梗印とよばれ、その安倍晴明が呪術を競った相手は芦屋道満で、ここにセーメイ→セーマン(晴明)、ドーマン(道満)が突然に浮上してくる。 

≪018≫  この話は後世のことではあるが、どうも気になる。きっとセーマンとドーマンが並列された背景には、呪術とそれを解くという「謎と競争」をめぐる関係も含まれているにちがいない。そうだとすれば、ここには「結び目」の古代史こそがよこたわっているということになる。 

≪019≫  たとえばアレキサンダーがゴルディアスの結び目を剣で断った話、有間皇子が謀反の疑いをかけられたときに松の枝を結んだ話、『ダロウの書』に有名なケルトの組紐文様の起源の話、日本の注連縄や茶席に置かれている結界石の由来の話というふうに。ドーマンが9本の線で描かれているのも、忍術でよく知られている九字を切ることとも関係があるかもしれない。なにやらここには「世の初めから隠されていること」をめぐる謎と競争に関する根底的なものがあって、それがまわりまわって安倍晴明と芦屋道満に投影されたのかもしれない。 

≪020≫  つまりは、ここには「鬼の目」ともいうべき封印と解放を同時に担う表象がいろいろのかたちであらわれているのではないか。 

≪021≫  ついで先生は、謎と競争を代表する兎と亀の競争に目をつける。きっかけは海外のいろいろなところで兎の足がお守りとして売られていることだった。この兎と亀はそもそもどんなシンボル的なルーツをもっているのか。 

≪022≫  すぐに思い浮かぶのは因幡の白兎がワニの背中をわたったという出雲神話の話だが、この話は『塵袋』などによると、兎はもともと因幡にいたのだが、そこが洪水になって流されて隠岐島に漂着したことになっているから、兎がなんとか原郷に帰還しようとしている物語だということがわかる。  

≪023≫  しかし日本には洪水伝説はほとんど伝えられていないのである。そこでこの話の出身をさぐってみると、ポリネシアに鼠鹿が洪水のために川を渡れなくなってワニを集めたという話がある。兎も鼠鹿も、きっと水の災難に出会った部族のことなのだ。では利用されたワニのほうはどうかというと、これは浦島太郎が乗った亀の物語に象徴されるように、乗り物であり、しかも兎や鼠鹿が「行きたいところ」や「帰りたいところ」に向かうための乗り物である。乗り物ということは、そのような旅程や帰還を助けた者、あるいは助けた一族というふうにも考えられる。 

≪024≫  いずれにしても、順序をちょっと工夫して考えてみるとわかることだが、最初に何者かが試練にあって、これを解決する必要に迫られたのである。 

≪025≫  これがあとから「謎かけ」という物語のかたちになっていった。また、その「謎かけ」がはなはだ難しいのだという事態の強調として「結び目」や「迷宮」という奇妙に入り組んだ形がつかわれた。しかも、「問題」とか「難問」というものはそれを解く前に、そこに問題があったということに気がつくことが先決だから、その問題の所在自体が何者かによって伏せられていたという「異様の力」をここにもってくる必要がある。これが「鬼の目」のようなもの、すなわちそれに睨まれると石になってしまうような力として語り継がれることになる。 

≪026≫  このように整理してみると、実は出雲神話で大国主がいくつもの試練にあっていたことにおもいあたる。大国主の物語はまさに難問を解く物語なのだった。 

≪027≫  たとえばスサノオの娘のスセリヒメに求婚した大国主は、難題を迫られ、矢を探しにいかなければならなくなったりする。そこで大国主が野原に分け入ってみると、スサノオは周囲に火を放つ。するとネズミが出てきて、「内はほらほら、外はすぶすぶ」と謎々のようなことを言う。呪文である。最初は意味がわからなかった大国主がおもいきって大地をドンと踏みつけると、ぽっかり穴があいてそこから脱出できた。こういう話がいろいろある。 

≪028≫  この災難脱出の話は「おむすびころりん」と同じで、ネズミ浄土といわれている物語の型になっている。むろんネズミでも兎でも白雪姫でも落窪物語でもいいのだが、入口がすぶすぶすぼまっていて、内はほらほらと洞窟のように広い空間や土地や国のことをいう。そこは入口にヘビが待っているエデンでもある。そこは、どこにその所在があるのかわからないシャンバラやエルドラドや、竜宮やかぐや姫の行先でもある。 

≪029≫  簡単にいえば、入口はセーマン・ドーマンで意味ありげに封印されているけれど、その奥には海女が探り出す真珠のような世界がある。そういうことなのだ。 

≪030≫  こうして先生はいよいよ表題にもなったキリストと大国主の話に入っていく。 

≪031≫  大国主は出雲の国土の支配者であるとともに、赤裸になった因幡の白兎を癒したことからもわかるように、一種のメディカルパワーをもった巫医の役割を負っている。その大国主の言葉は出雲神話では言代主(コトシロヌシ)の物語になっている。おそらくは大国主のグループが、言葉やソフトウェアに長けた言代主グループの力と組んだのであろう。それを二人の神様に分けて物語にしたのだったろう。  

≪023≫  しかし日本には洪水伝説はほとんど伝えられていないのである。そこでこの話の出身をさぐってみると、ポリネシアに鼠鹿が洪水のために川を渡れなくなってワニを集めたという話がある。兎も鼠鹿も、きっと水の災難に出会った部族のことなのだ。では利用されたワニのほうはどうかというと、これは浦島太郎が乗った亀の物語に象徴されるように、乗り物であり、しかも兎や鼠鹿が「行きたいところ」や「帰りたいところ」に向かうための乗り物である。乗り物ということは、そのような旅程や帰還を助けた者、あるいは助けた一族というふうにも考えられる。 

≪032≫  古代では、この言代主グループがもっていた言葉の力は、言霊ともいわれるように、音や字や声のアヤを重視した。そのアヤを解く呪能そのもののことでもあった。言代主も鳥の声を判断したり、さまざまな文様を読み解いた。ケルトにも結び文様やその文字化であるルーン文字とともに鳥の声を占う鳥巫がいた。 

≪033≫  古代の言語というものは、それとともに雷鳴や稲妻の力とも深い関係をもった。そのすさまじい自然の力を言葉のアヤに編んだわけである。出雲神話にも天若日子(アメノワカヒコ)の伝承が入っていて、双子のようによく似ているアジスキタカヒコネとの出自混同から、その背後にしばしば言霊を解く物語が顔を出している。アジスキタカヒコネもそのルーツを問えば鴨一族で、その鴨一族は鳥巫として雷を奉る鴨神社の古代司祭たちだった。 

≪034≫  と、まあ、ここまでの話だけでも、ふたたび迷宮文様や結び目と雷や稲妻がつくる雷文(メアンダー)の形が関連してくるのだが、このことをもう一度、出雲神話に拾ってみると、実は大国主が木の俣で殺されたり、再生したり、そこから逃げたりという話がたくさん出でくることにめぐりあう。 

≪035≫  そこで、先生は木の俣の形が稲妻にも迷宮にも似ていることを示唆しつつ、実はキリストも十字架という木の俣で死と再生をしていたことを一挙に読者に促すのである。 

≪036≫  ここからキリストの復活と冬至の関係をはじめ、またまたたくさんの話が出入りするのだが、それらをいまは飛ばして結論に急ぐと、どうやら大国主をめぐる伝承の総体の根源には、世界にまたがる世界樹伝説や洪水伝説や迷宮伝説のすべてが、さまざまな断片でかかわっているということになり、その出雲が「根の国」とよばれたことも、さらに冒頭に引き戻っていえば、セーマンとドーマンの奇妙な印だって、その気になってめぐりめぐれば、どこかでキリストとも大国主とも出会えるはずだということになったのである。 

伊部英男 『開国を読んで 

≪01≫  著者については何も知らないのだが、書店で手にとってその視野が広そうだったので入手した。「世界における日米関係」というサブタイトルがついている。 本書が出たころ、「日本は再び鎖国をすべきか」といった議論と「日本はさらに開国すべきである」という議論がともに頭出しをしていた。「再鎖国論」はその後はジャパン・バッシング(日本たたき)やジャパン・パッシング(日本はずし)に対抗するナショナリスティックな議論となり、汎開国論はその後に騒がれたグローバル主義に膨張していった。 

≪02≫  この「ナショナルか、グローバルか」という両議論がいずれもたいしたものではないことは言うまでもないことで、こういう両極に走るところが日本の問題なのである。本書もこの両極に走る日本を批評して、その背後にしっかりした軸をもつべき日本の歴史的将来像を掴まえることを試みている。 

≪03≫  本書の視野は『開国』というタイトルから予想されるところとちがって、きわめて広い。最初こそ安政の開国を扱っているが、そこから先は日清日露による大陸進出によって拡大政策をはじめ、満州問題、ワシントン体制、昭和維新の意味、日米衝突と日米交渉の変遷、超国家主義や関東軍の思想と行動、太平洋戦争に突入していった狭隘な計画性、さらには天皇制と戦後社会に継承された開国問題というふうに、「近現代史を貫く開国」の意味を追っている。読んだ当時、ずいぶんヒントをもらったものである。 

≪04≫  そもそも日本にとって「外国」とは、畏敬と恐怖の、好奇心と劣等心の、同化感覚と排外感覚の対象だった。 だから日本はつねに「外国」を窺い、「外国」を取り込み、「外国」を避けてきた。いいかえれば、そこにはつねに「第二、第三の開国」をめざす方策、あるいはそれに代わる方策がたえず検討されてきたといってよい。このことは日本史を通じて一貫しておこってきた。 

≪05≫  たとえば、こうである。倭の五王の中華文化圏への参入、聖徳太子の三国対策、中大兄皇子にとっての新羅と唐、密教の導入、遣唐使の廃止、清盛や義満における宋や明との交易である。また、鎌倉期に流れこむ禅僧、渤海の外寇、モンゴル軍の襲来を前にしたときの態度である。 

≪06≫  ここまでは、それでも「外国」の何を入れるか、何を阻むかという方針がまがりなりにも決定されてきた。鎌倉五山や京都五山の確立は、こうした対処がなんとか内政に転じたことをあらわしている。 

≪07≫  それが秀吉の朝鮮征服構想、極端なキリシタン禁制、いわゆる鎖国体制、出島開設とオランダ風説書の読み方などとなってくると、極端から極端に走る傾向が出るようになっている。そろそろ日本の「外国音痴」が露呈されてきた時期なのだ。 

≪08≫  そこへもってきてロシアの南下、外国船打払令、黒船来航、日米通商修好条約の締結、五港の開港、下関条約と薩英戦争、生麦事件というふうに、予想もつかないことが連打された。これでかつての自信も吹き飛んだ。 

≪09≫  こうして明治の有志たちがやったことは、2年におよぶ遣米使節団であり、欧化政策と脱亜入欧であって、征韓論や大陸浪漫や日清戦争となった。 

≪010≫  それでも陸奥宗光らの粘りによって、条約改正だけにはようやくこぎつけた。けれども、そうした努力をへてやっと得た成果が三国干渉に踏みにじられ、満州鉄道敷設権をめぐる競争から日露戦争へと国の事態が拡張していくと、外交政策の骨格はとたんに怪しいものになっていく。韓国併合によって列強に追いつこうとする植民地主義が台頭し、その一方で移民問題や排日運動に悩まされ、そのあげくに満州国への期待と金解禁の迷いが一緒にやってきた。  

≪011≫  あとは知っての通りの、関東軍の奇策と南進政策の迷走である。また日中戦争の長期化と鬼畜米英の敵国視である。このあとは日独伊三国同盟と太平洋戦争の敗北だった。 

≪012≫  これらはふりかえってみると、いずれもが開国の問題か、その裏返しの事態の暴走か、その苦肉の代案というものである。しかもこれらが安定政策であったためしはない。徳川三百年の鎖国期間が太平の夢を貪った安定期だったと見えるものの、それにはそれで内部での強力な幕藩支配体制が必要だった。 

≪013≫  なぜこれほど外国対策に苦労するかといえば、日本が「海国」であるからである。 本来は、安心して「海国」であることを満喫するには、よほどの航海術と造船術と兵力に富んでいなければならない。ヴェネチアやイギリスのことを考えれば、これは当然である。ところが不思議なことに、日本はいっこうに航海術も造船術も発達させなかった。シーレーンを守る海防政策もろくなものではなかったし、海防のための兵力もまったくお粗末なままだった。ラックスマンが根室に、レザノフが長崎に来たとき、仙台藩の林子平が慌てて『海国兵談』や『三国通覧』を著したのも無理はない。 

≪014≫  子平の海防論は敵前上陸をしてくる連中を水際で次々に叩くというもので、「寛政のハリネズミ論」と揶揄されている。しかし、それまでは海防論すらなかったのである。子平はそこに気がついた。けれども、そのことに気がついたときはもう遅すぎた。 もうひとつ子平にすらあてはまることがある。それは、日本には専守防衛論ばかりが多いということである。海上権を制するという発想がない。著者はその点を何度も切歯扼腕する。 

≪015≫  それにしても、海国日本が海防に意識を集中できなかった不思議は日本史の大きな謎である。考えてみれば、海洋小説も少ないし、海洋美術もあまりない。海の神話すら海幸山幸、住吉三神伝説、宗像伝説、因幡の白兎などを見るばかりで、全般としてはほとんど目立たない。 

≪016≫  また、海を詠んだ歌は少なくないが、海に出て詠った歌は極端に少ない。遠洋漁業や鯨(いさな)とりは日本の大きな産業資源であったはずなのに、それらに関する重要な思想も政策も文学もとんと誕生しなかった。小林多喜二の『蟹工船』や野上弥生子の『海神丸』など、かなり珍しい。 

≪017≫  どうも日本は海に囲まれていながらも、海を適確に生かしてこなかった国なのだ。そういう意味では川勝平太の海洋国家構想など、まさに新たに挑戦すべきものである。が、はたしてそれができるかどうかというと、これまでは可能性があまりにもなかったと見るしかないだろう。 

≪018≫  結局、過去の日本は長期にわたる農本主義の国だったのである。一方、海国イギリスは商本主義であり、植民地主義であり、三角貿易主義である。清盛や薩摩藩などのいくつかの例外をのぞいて、日本はこういうことはしなかった。 

≪019≫  そのかわり日本は国内や領地内の治水に長け、産物を育て、それを加工する工夫に熱心だった。これがやがて時計やカメラやトランジスタや半導体技術の凱歌になった。これはこれですばらしい。しかし他方では、あいかわらず外交面や渉外面のダイナミズムを欠いてきた。 

≪020≫  理由はなんともはっきりしないのだが、法制度の研究者でもある著者が着目したのは、たとえば日本では「制定法」が機能しなかったということである。日本はつねに「判例法」や「慣習法」を重視してきた国で、どんなことも実態にあわせて法令をくみあわせて切り抜けてきた。  

≪021≫  これに対してアメリカなどは、制定した法がひとつの現実そのものを意味するようになっている。法は理想であって現実対処の方針なのである。それゆえべつだん褒める必要はまったくないけれど、アメリカで正義と義務の法が一つ通れば、それだけでイラクやアフガニスタンを攻撃できる。原爆も落とせる。たとえどんなに民間人を殺傷しても、それがアメリカにおける法の正義というものなのである。 

≪022≫  日本ではこういうことがない。したがって、たとえば尊王攘夷という国の外交政策になるかもしれない方針なども、幕末の四分五裂の動向が象徴しているように、何一つとして法的な制御力をもっていたわけではなかったのだ。それなのに、そのようななかで会沢正志斎の「国体」が浮上し、公武合体を通して天皇を「玉」と戴く立憲君主制が選択された。 

≪023≫  歴史をふりかえってみればわかるように、このような天皇を戴く立憲君主制は安政の開国を決定したときの方針にはまったく入っていなかったヴィジョンなのである。まず開国を余儀なくされ、尊王攘夷か公武合体かを争い、そのうち大政奉還と王政復古になだれこんだだけなのだ。 

≪024≫  いったい日本にとって「国」とは何だったのだろうか。国家とはどうあるべきだったのか。 

≪025≫  ところが意外なことに、日本がどのように「国家」という観念やシステムをもってきたかということは、あまり研究されていないのだ。藤原摂関政治や鎌倉幕府は日本国家だったのか、秀吉や家康はどのような国家意識をもっていたのか、はっきりしない。 

≪026≫  そこに突き付けられたのがペリーとハリスの要求である。『ペルリ提督日本遠征記』(岩波文庫)を読むと、ペリーは日本に国家意識などを要求しているのではなく、単にいっさいの譲歩を見せない断固たる交渉態度だけを示そうとしていたことがわかるのだが、そのペリーの軍事力を背景にした強圧的態度と、その後のハリスの通貨通商政策の強烈な提示は、結果的に日本に「国家」を要求することになった。  

≪027≫  したがって明治政府が「日本という国家」を“急造”しようとしたことは疑いえない。まさに急いだのである。大日本帝国憲法が制定された明治22年(1889)は、そういう意味では日本が初めて「国家」となった日であった。 

≪028≫  この国家は一言でいえば、議院内閣制度をもった立憲君主制である。体裁のうえではイギリスにほぼ近い。しかしながら、岩倉具視や大久保利通の幕末維新の構想が示しているように、この大日本帝国という国家は「玉」を抱くことによって成立した有司専制国家であった。しかしながら、もともと法制度と法意識が甘い日本において(第267夜を参照)、とりわけ超法規的な存在だとみなされていた天皇をもって近代国家をつくろうというのだから、これはいかにも「天皇制」のところが暗示的なのである。 

≪029≫  このこととはまったく別の事情と経緯の結果ではあるが、戦後の日本がGHQの強権によって「民主国家」を“急造”したときも、「天皇制」のところが暗示的なものになっていった。あまりに象徴的なことである(それだけではなく、日本国憲法すら日本は自分の手でつくりえなかった)。 

≪030≫  明治の時点で選択した立憲君主制がまちがった選択だったというわけではないだろう。そういう選択はあってもよかった。しかしながら、どのように天皇と議会の関係を機能させるかということについては、ほとんど明示的な展望をもっていなかった。 

≪031≫  だいたい岩倉使節団が条約改正のためにアメリカを訪れたとき、使節団が日本という国家を代表する者たちであるという天皇の認定書(全権委任状)を持ってきていないとグラント大統領に詰られ、大久保利通と伊藤博文が慌ててその文書を取りに帰ったのが、その後の「天皇制」のきっかけとなっているくらいなのだから、日本という最初の国家が立憲君主制であることは、決して盤石なシステムの上に成り立つものではなかったのである。 

≪032≫  この暗示的にすぎなかった立憲君主制の裂け目から生じてきたのが、とどのつまりは統帥権干犯という問題なのである。  

≪033≫  昭和5年(1930)、浜口雄幸内閣は海軍の反対を押し切ってロンドン軍縮条約を調印するのだが、これがあっというまに「統帥権を干犯している」という議論に拡大していった。 

≪034≫  日本国家の決定力がどこにあるかという問題が、ここで吹き上げてしまったのである。これをきっかけに、事態は軍部内の抗争を通して最悪の状態に向かってしまい、5・15事件、2・26事件、さらには満州事変に突入していった。 

≪035≫  明治憲法は第7条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第8条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及ビ常備兵額ヲ定ム」とうたい、編制の大権は政府が補弼することになっていた。 

≪036≫  これを無視して内閣が勝手に軍備規模をロンドン条約で調印してしまったというのが、統帥権干犯問題が躍り出た原因である。編制の大権を政府が補弼するという解釈は伊藤博文のものである。ところが満州問題が拡大してくるにしたがって、統帥権は軍部の掌握するところとなり、いわば軍部が「国家のなかの国家」ともいうべき状況をつくりだしていく。 

≪037≫  ここで軍部が持ち出したのは「天皇の軍隊」という金科玉条である。このような観念が日本史上で浮上したのは後醍醐時代と戊辰戦争のときくらいのもので、それも国家規模のものではなく、内乱制定のレベルにすぎなかった。日清日露ではむしろ徴兵制による国民皆兵の観念のほうが広がっていた。 

≪038≫  しかし、統帥権問題をきっかけに「天皇の軍隊」をどこが掌握するかというふうに問題が進められていく。これがしだいに、誰が戦争による開国のヘゲモニーを握るのかという問題となっていった。その最初の決断が昭和12年(1934)のワシントン海軍軍縮条約の破棄だった。 けれどもこのように軍事権を争うだけで外国と戦ったところで、それで日本が有利に導けるはずはない。 

≪039≫  著者も書いていることであるが、海国日本はシーレーン防備の体制感覚が欠如しているとともに、大陸諸国と諸国間の事情を知らない国であるため、輸送路の確保や補給路の確保という戦略感覚にも欠けていた。 海国イギリスが拠点確保主義であるのにくらべると、日本ははなはだ領域選択的なのである。 

≪041≫  結局のところは、日本は自国の「開国」をみずから進んで組み立てることも下手だった。この20年の貿易摩擦にもそれはあらわれている。日本はつねに日米経済交渉の外圧によって度重なる“経済開国”に踏み切ってきたわけである。 

≪040≫  考えてみれば、かの太平洋開戦にあっても、真珠湾を攻撃したうえで、何を拠点に仕入れるかというシナリオすら欠いていた。ペリーが黒船によって鯨油を求め、ハリスが開港を迫ったことをおもうと、どうにも此彼のちがいを痛感せざるをえない。  

≪042≫  また、相手に「開国」を迫る方法もヘタクソだった。韓国併合は日本が採るべき開国要請政策ではなかったし、満州国の樹立には国際社会を魅き付けるシナリオが欠けていた。 

≪043≫  日本は「開国」に苦労しつづけている国である。
 おそらくこれからも似たようなことが続発するにちがいない。
 それなら「開国」から「海国」へということになるのだが、どうやらそういう展望はまだ見えてはこない。
本書を読んだときもそういうことを感じたのだが、いまもってこの懸念は消え去らないままである。 

≪01≫  教養というものはダイナミックに動いていなければいけない。そうでない教養は死んだ知識である。 本書に高速で出入りする知は、一般に言われる教養とはおもえないかもしれないが、実はこういうものが生きた教養なのだ。本書は三人が三人ともその得意の教養を動かして自由に話しあっているのだが、やはり鶴見俊輔が一枚加わって、その地図を動かしているのが大きい。 

≪02≫  もうひとつ本書がおもしろいのは、1978年の時点で語られていることが、いまのグローバリズムの時代の議論よりよほど大きくて深くて、しかも真の意味でグローバルであって、かつローカルたりえているということだ。たとえば、冒頭、ドイツのエンツェンスベルガーがやっと「ヨーロッパも世界の辺境だった」ということを認識したという話があり、そんなことは近代日本が明治維新で最初に感じたことだったのに、その日本が「世界の中心」を意識したとたんにおかしくなったという感想を交わして、そういえば横光利一は昔は小説の神様といわれていたけれど、『旅愁』を読むと日本人はよく書けているのに、実は外国人がさっぱり書けていないんだねという話になっている。そこから四方八方に日本人と世界の「あいだ」をめぐる談話が始まっていくのだが、この枕の話など、いまこそ味わえる。 いくつか興味深いところを拾ってみたい。三人による得難い読書案内にもなっている。 

≪03≫  海外体験をした日本人が何を世界と感じ、何を日本と感じたかという話が頻繁に出てくる。 

≪04≫  片山潜・幸徳秋水・鈴木茂三郎といったところは、若い日にアメリカで皿洗いをしたことがのちの社会意識をつくった。そこには日系アメリカ人とはちがって、アメリカ系日本人ともいうべき見方が生まれている。内村鑑三など、アメリカ社会のひどさもちゃんと見ていた。たとえばアメリカの便所が汚すぎるところに問題を感じている。井上靖『わだつみ』、新藤兼人『祭りの声』などはそのへんを書いていた。  

≪05≫  これに対してヨーロッパに行った連中は森鴎外から吉田茂まで、皿洗いどころか、日本人エリートとして海外を体験した。うっかりするとヨーロッパを褒めたいだけになっている。  

≪06≫  外国に行かない日本人の外国癖というものもある。ロシア文学にあこがれた連中がその例で、二葉亭四迷はまだ最初だとしても、白樺派のようなトルストイ主義のようなものは、つねに日本に蔓延した。広津和郎や宇野浩二もトルストイに熱中したし、トルストイ全集やドストエフスキー全集を手掛けたのは直木三十五だった。その後やっと横光利一や正宗白鳥のように、実際にシベリア鉄道に乗る者が出てくる。けれども横光が「ここでは鉄道だけが国である」と書いたように、ロシアをロシアらしくしたいという汎ロシアふうの見方が多かった。 こういうことを視野にいれておかないと、日本のロシア型労農思想もちゃんとわからない。 

≪07≫  その後、日本が戦争するようになり、敗退するようにもなると、日本人にも捕虜になったり抑留されたりする連中が出てくる。高杉一郎の『極光のかげに』、長谷川四郎の『シベリア物語』、会田雄次の『アーロン収容所』にはそのへんの、もうひとつの世界体験をした日本人がよく染み出ている。しかし大岡昇平ですら『俘虜記』には相手の国の人間のことが書けていなかったのはなぜなのか。そこを解くことも重要だ。そのあたりを突破するのは、やっと五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』以降なのだろうという高畠の指摘は、当時、膝を打ったものだった。 

≪08≫  日本人は山田長政このかた、いろいろタイには親しんできたのだが、そのわりにタイに対するイメージが深まらない。   

≪09≫  結局、「その内在的な文化を理解しようとしないで、こちらから先入観を押しつけていく」ということだろうと鶴見は言う。 

≪010≫  たとえばキックボクシングという名称はタイにはない(タイではムエタイだ)。そのことをタイの坊さんすらもが怒っている。キックボクシングは日本人が勝手につけた英語流のネーミングで、なんでも英語にしてしまえば海外理解になる、海外のことを受け入れてあげたことになるという発想なのである(最近は日本でも抗議をうけてムエタイと言うようになったが、トルコ風呂の名称を在日トルコ人の青年に抗議され、それが新聞に出るまでほったらかしだったのと、よく似た話だ)。 

≪011≫  長田弘はそこを「商社的施思考式」とよんで心配する。日本人は外国をすぐ「寝技社会」のように読もうとしすぎるということである。そこにはル・クレジオが『逃亡の書』で書いたようなタイを見る目が養われていない。わずかに昭和9年にタイ(シャム)に行った木下杢太郎の『其国其俗記』くらいが例外的な見方をしているのだが、どうもそこからの深化が少ない。鶴見も、日本人には外交官のような海外の見方がはびこりすぎたと言う。海外に親切にするにしても、まさに鈴木宗男の北方領土やロシアに対するかかわりがそうだということを露呈したわけだが、ついついあのようになってしまうわけである。 

≪012≫  このような日本人の押しつけ主義は、実はアメリカ人によく似ている。アメリカにもそういうところがある。しかし、それが日本のばあいは、自分たちが西洋化したことでグローバルになったとおもいこんでいるという、とんでもない誤謬になる。 

≪013≫  他国の文化というものは、まず耳を澄まし、目を凝らさないかぎりは見えてこない。日本人にはそこが欠けている。萩原朔太郎は「まっすぐなもの」として竹をあげたが、東南アジアの竹にはそんなものはない。日本の竹は日本の竹はとして、東南アジアのバンブーはバンブーとして見なければならない。逆に、岩田慶治は『東南アジアの少数民族』でタイの山岳地帯の道がまっすぐなのに驚いている。日本の山道のように九十九折ではない。そういうことはひとつひとつ目を凝らさなければ、見えてこない。 

≪014≫  そうすれば山田宗睦の『ヤポネシアへの道』がそうだが、絣(かすり)の源流をたずねてティモールで絣に出会えることもおこってくる。 

≪015≫  日本人もそろそろ、もう少し黙ってものを見なければならない。黙って日本を見て考え、黙って人の話を聞かなければいけない。すぐチャチャをいれなければすまない大阪吉本的な"いちびり"だけでは文化はつくれない。 

≪016≫  ドナルド・キーンが最初に伊勢神宮の遷宮式に参列したときは、たいへん静かだった。それが20年後に参加したら、参列者がザワザワひっきりなしに喋っていて、終わるとすぐ帰ってしまう。鶴見がそのことを言うと、長田は「いまや石庭の前でも日本人は沈黙できなくなっているのではないか」と言って、今日ではパチンコ屋のなかにこそ沈黙があるのが日本だと、すごい指摘をする。 

≪017≫  では、排他的なナショナリズムでもなく、押しつけ文化理解主義でもなく、漂流的なコスモポリタニズムで対抗できるか、それでいいかというと、3人は口をそろえてそうでもないという。この議論もおもしろかった。 

≪018≫  日本のコミュニティやサークルのありかたもめぐっている。長田弘は長屋の原理がいいという。長屋の住人はみんな職業がちがっていて、奇人・変人も含んでいる。それでいて流れと結びがある。井伏鱒二の『多甚古村』や山本周五郎の『季節のない街』や佐々木邦の『アパートの哲学書』『奇人群像』がそういう明るい弁証法を書いた。 

≪021≫  ワルとアクとはちがう。そのあたりを長屋社会はちゃんと見分ける。そのてん、漱石は最初は『猫』『坊ちゃん』だったけれど、だんだん『こころ』『門』『明暗』になっていった。この逆だったらすごかった(長田)。そういう意味では野坂昭如の長屋的な『エロ事師たち』などはエポックメーキングだった。 

≪019≫  長屋のようなしくみにはワルを吸収する装置もある。川田順造や山口昌男は日本人としては先駆的にアフリカ社会やアフリカ文化を研究した人だが、そこでワルがどのように社会や文化に溶けこんでいるかを分析した。山口はそこからトリックスターという役割を引き出した。「いたずらもの」という意味だが、ワルでもある。学校社会にもこういうトリックスターやワルが必ずいた。 

≪022≫  三人はこういう話を次から次へとくりだして、とどまらない。しかも、それらの話の多くはいまこそ耳を傾けるべき話で、かつ、いまはめったに交わされなくなった「知のこんにゃく問答」なのである。武田泰淳が野坂昭如や永六輔のすぐ前にいる人だ(鶴見)という指摘など、たいへんに示唆に富む。が、この意味がわかる人、いまやほとんどいないであろう。 

≪020≫  しかし、これらを消毒して排除してしまうと、その社会や文化がツルツルになって衛生無害になる。大江健三郎の『ピンチランナー調書』や井上ひさしの『新釈遠野物語』はそうした山口昌男の私的の影響をうけていた(鶴見)。 

≪023≫  本書には巻末に言及された本についてのブックリストが掲載されている。その多様性が、いまの日本から欠落したままである。 

≪01≫  いつも書棚に見えているのになかなか手にとらない本がある。しかもその本は、かつて読んだのにその感想が剥落してしまっているので、あらためてちょっとだけでもいいからパラパラめくりたいと思っている本であることが少なくない。 

≪02≫  本書もそういう一冊で、赤坂稲荷坂に仕事場を移したときに、書斎の書棚のなかの比較的よく見えるところに備忘録のように入れておいたのだった。それなのに今日にいたるまで、一度もめくってみなかった。函入りだったせいだろうか。 

≪03≫  その前に少し説明しておかなければならないのだが、赤坂の仕事場というのは、松岡正剛事務所と編集工学研究所とが20人ほど入ったごく小さな4階建てのことで、各部屋に蔵書のだいたい4、5万冊くらいを仕分けした。ぼくはそのうちの3階の一角の部屋、8畳くらいのところに書机を入れ、そこを日本の近現史の書棚にあてたのだ。書斎というのは、そのことだ。自宅のものではない。本書は、この書斎の東洋学やアジア・ナショナリズムの一部に置き放されていたわけである。 

≪04≫  もうひとつエピソード。本書は、高校時代の友人の湯川洋が、防衛大学校に入ったころにやってきて、「おっ、いい本読んでるじゃないか」と言った、その本でもある。その後、30年以上確かめたことがないままだが、してみると、湯川も読んでいたのだろう。 

≪06≫  「今となっては福澤諭吉の脱亜論が不吉な予言の意味をもつ」という感想から説きおこし、今の日本(1950年代後半あたりの日本)がアジアの共感からすっかりはみ出してしまっているという観測のもと、その理由のあれこれを、白人優越思想の横流しで裏返した日本にさぐったり、「武力を超越して民族の自主性を考えうるような精神状況におかれたおぼえがなかったらしい」という日本人の感覚にさぐって、こういうものは戦前から受け継いだ非文化遺産なのだから、そろそろ転倒しなければいけないというふうに、しだいに深い問題に入っていく書きっぷりなのである。 

≪05≫  で、さきほど1時間ほど費やして、ついにパラパラやってみて、なるほど、これは当時としてはよくできた本だったということを思い出した。 

≪07≫  それにしてもすっかり内容を忘れていたというより、これは当時のぼくにはその突っ込んだ主旨がほとんど理解されていなかったのだろうと思わざるをえない。 迂闊(うかつ)なのではなく胡乱(うろん)だったのだ。 

≪08≫  なんとも語り口が玄人である。吉川幸次郎、青木正児、宮崎市定さんをはじめ、かつてはこういう人がごろごろいた。 

≪09≫  かつ、飯塚さんは歴史語りをしているのではなく、世界をアジアから見つめなおすための現在語りをしながら、そこに自在に歴史語りを入れこんでいる。それが滋味溢れるものになっている。たとえば「ジャワにはジャワの徳川がいた」「どの言葉を憚るかが歴史観というもので、だからといって帝国主義的な搾取というところをコロニアリズムと言ったところで、歴史そのものは万に一つも変わらない」「村落こそは中国の背骨だとはいえ、同じ思い出をもって日本と中国を比較するのは無理がある。だいたい日本人はそういう思い出をなくしてきた民族なのだし、しかも五里俗を同じうせず、十里規矩を異にす、というその規矩をバラバラに壊してしまった。それで民主主義もないのである」といったふうなのだ。 

≪010≫  こういう本をすぐに博覧強記とか視野が広いと評したがるが、そういうのはいけない。問題意識が深いわけなのだ。 

≪011≫  本書が何を説いたかというと、アジアにおける複合社会とは何かということになる。 が、その複合性がアジアの国々によってもちがうし、地方によってもちがう。しかもそこをヨーロッパが見るか、ロシアが見るか、アメリカが見るかでもちがってくる。著者はそこで、そのような外圧的な見方をいちいち排除したりいちゃもんをつけたりしながら、アジア的複雑性を解明し、返す刀でそのようにアジアを見られない 

≪012≫  日本という国の現代性におおいに疑問を投げかける。いったい、どうしたら安直に「アジアの一員」と言いつつアメリカの傘の中の安寧を貪る体質を打破できるのか、問題をそのへんに絞っていく。つまり、ヨーロッパ、アジアと振り払ってきて、日本を問題にする。そういう方法なのである。 

≪013≫  では日本を考えるにあたっては、何を「規矩」としているかというと、しばしば明治の日本人たちの考え方の長所と短所に立ち戻っている。しかもこのとき、福澤諭吉は短所の例として、渋沢栄一は長所の例として出てくるので、そこの意外性が読む者を考えさせるのである。 

≪014≫  著者の飯塚浩二さんは、いまではそのように言ってもすぐには専門性が見えなくなりつつある人文地理学者である。それとともに歴史学者だった。  

≪015≫  ぼくが注目したのは、ひとつには昭和13年に早々と『北緯七十九度』という著書を発表していること、もうひとつには、飯塚さんが戦時中最後の東洋文化研究所所長だったことで、このころにどれだけ深くアジアと日本を考えたかということだった。昭和7年からパリ大学の地理学教室にいたことが、のちの飯塚史学というと大袈裟で、むしろ飯塚歴史随想史観とでもいうべきなのだろうが、そういうものを築きえた基礎は、やはり世界戦争というものをヨーロッパから、北緯七十九度から、アジアから、そして敗戦日本から見つづけていたことが大きかったのだろうとおもう。 

≪016≫  日本研究も熱心で『日本の精神的風土』の著書もある。ルシアン・フェーブルを最初に試みた研究者でもあった。 

≪017≫  ところで、人文地理学という領域は、これからこそ脚光を浴びるべきである。いやいや、その基盤を思い返してから、次に脚光を浴びるのがいい。ぼくは正直なことをいうと、中学高校はずっと歴史より人文地理のほうが好きだった。 

≪018≫  それが大学でマルクス主義に出会って、歴史がバカでかくなってしまった。歴史というより「唯物史観」という特別製の化物のようなもので、そのころはこれが新鮮で夢中になったのだが、いまからおもうと、歴史学というものではなかった。けれどもそこでヘーゲルの歴史哲学からマルクス、バクーニン、レーニン、トロツキー、ルフェーブルの実践理論を通過したことが、のちのちのぼくには根付け・根回しの準備のようなものだったらしく、その後のアナール派の歴史やポストモダンな歴史観にも正面きっていけるようになったものだった。 

≪019≫  しかし、いまはどうももう一度、人文地理に戻ってみたい気がしている。さて、どうしようかな。