四季と農業

四季と農業へ(自然・気節・食事・健康・生活)Ver2.0

 気候変動と遺伝子編集

読書・独歩 目次 フォーカシング

生きられる世界を感得するために

DX・AI革命に具えて

あるがままに語る   第41回先達に問う  


≪01≫ 新村出の『南蛮更紗』の一冊がすべてを暗示していた。『南蛮更紗』は「雪のサンタマリヤ」「吉利支丹文学断片」といった洒落た南蛮趣味の随筆をまとめたもので、一世を風靡した随想集である。そこには「日本人の眼に映じたる星」「星に関する二三の伝説」「二十八宿の和名」「星月夜」「昴星讃仰」「星夜讃美の女性歌人」という6篇の星に関する言及が収められていた。

≪01≫ 新村出の『南蛮更紗』の一冊がすべてを暗示していた。『南蛮更紗』は「雪のサンタマリヤ」「吉利支丹文学断片」といった洒落た南蛮趣味の随筆をまとめたもので、一世を風靡した随想集である。そこには「日本人の眼に映じたる星」「星に関する二三の伝説」「二十八宿の和名」「星月夜」「昴星讃仰」「星夜讃美の女性歌人」という6篇の星に関する言及が収められていた。

≪02≫  日本の天文談義の歴史では、最初の「日本人の眼に映じたる星」がとくに有名で、当時の日本言語学を牛耳っていたチェンバレンの「日本文学には星辰の美を詠じたものがない」という説に、新村出が華麗に反旗をひるがえした。アマツミカホシから北辰北斗をへてヨバイボシ(夜這い星)までがずらり並べられたのだ。

≪03≫  この一冊に若き天体民俗学の野尻抱影がすこぶる感応したのである。大正末年のことだった。それもそのはずで、「星夜讃美の女性歌人」では建礼門院右京大夫の歌集を「日本文学絶無の文学」といった調子で格調高く綴ってあるのだから、天体において「和」を打ち出してみたい青年には武者ぶるいのする挑戦だったにちがいない。さすが、新村出である。

≪04≫  すでに抱影少年は、神奈川一中時代に獅子座流星群の接近に遭遇して以来の天体少年だ。中学四年の修学旅行では急病になり、残念な数日をおくるのだが、そのとき病室で見たオリオン座が忘れられなくなっていた。

≪05≫  その後、早稲田大学の英文科で彼の地の文芸の修養をつみ、ラフカディオ・ハーンに習って日本の心を教えられ、東西の意志を結ぶには「きっと天体をもってこそ答えたい」という使命に燃えていく。それには「日本の星にも歴史がある」ということをなんとしてでも証明しなければならなかった。

≪06≫  24歳のときに見たハレー彗星も目に焼きついた。そのころ抱影青年は山岳に憧れ、南アルプスに夢中になっていたのだが、そこから星は手にとれるようだった。ただ、それらの星々を日本の名前で指さしてみたかった。こうして星の和名の収集が始まったのが大正末年である。

≪07≫  24歳のときに見たハレー彗星も目に焼きついた。そのころ抱影青年は山岳に憧れ、南アルプスに夢中になっていたのだが、そこから星は手にとれるようだった。ただ、それらの星々を日本の名前で指さしてみたかった。こうして星の和名の収集が始まったのが大正末年である。

≪08≫  さっそく各地からは「スバルは一升星という、ヒヤデス星団は釣鐘星という」といった報告がよせられてきた。そのことが次々に新村出ふうというか、ラフカディオ・ハーンふうというか、抱影独得の文体で雑誌に発表され、ラジオで紹介されていった。その成果が昭和11年、『天文随筆・日本の星』として研究社から刊行された。本書の前身にあたっている。

≪09≫  野尻抱影の「抱影」の名は、学生時代に島村抱月と演劇研究をしたときに名付けた星名である。抱月はスペイン風邪で急逝し、先妻もスペイン風邪で亡くすのだが、抱影自身は小さな鶴のように長寿を全うし、まさに星に届くほどに星影を抱きつづけた。

≪010≫  英文学から演劇へ、そこから山岳をへて、星辰へ。そういうコースだったけれど、なんであれ、気にいればどんなことにも打ちこんだ。だから研究社の「英語青年」の初代編集長も、「中学生」誌上の「肉眼星の会」の主宰もつとめたし、そのかたわらで透徹した好奇心をもって自然や天体を眺め、漢籍や和綴本を渉猟しまくった。

≪011≫  そのひとつに昭和9年からの、牧野富太郎が植物を、自分は天体を担当して小中学生のための旅行合宿をしつづけた「自然科学列車」という企画もあった。元祖環境体験学習である。ちょっとした物語(たとえば『土星を笑ふ男』)を文学誌に載せて、評判をとったりもした。志賀直哉とは志賀の一家が野尻邸を訪れて北斗七星のミザールを見てからの昵懇の仲で、終生の心の友となっている。抱影と直哉の一対は、意外な連星の一対だ。その抱影の実弟が、これまたぼくが大好きな『鞍馬天狗』の大佛次郎なのである。

≪012≫  本書は春夏秋冬の順に、星の和名だけで天体をほとんど覆っていった一冊だ。まことに爽快、胸がすく。

≪013≫  胸がすくだけではなく、和の星の光条に射られるかのように、眼も眩む。次から次へと繰り出される日本の無数の星言葉には、日本各地の民俗習慣風俗が縦横無尽に織りこまれ、これらを双六の賽の目を読むようになんとなく読んでいるだけで、ふと気がつくと和風の天体模様に自分の全身が染まっているのを感じる。そんなエキゾチックな風情が味わえる。

≪014≫  日本の星の話が、いったいどうしてエキゾチックなのかなどと問うてはいけない。すでに新村出の『南蛮更紗』がそうであったように、北原白秋の故郷柳川の詩がそうであったように、日本の山水や天体は、これをちょっと魔法にかければたちまち異国の風情がペパーミントの香りのごとくたちあらわれてくるものなのだ。異国の風情で悪ければ、天空の情緒といいかえればいいだろう。

≪015≫  たとえば43の星である。舵星である。剣先星である。これらはいずれも北斗七星の異名であるが、43の星は天にサイコロをぱっと振ったら43の目が出て、それが北天に開いて北斗になったというもの、なんともカッコいい。舵星は天空を疾走する船の舵のこと、剣先星は北斗の柄の先の鋭い見立てである。両方ともが、伊予水軍や村上水軍が波濤をこえて自身の船団を北へ進めるときにつかっていた用語であった。

≪016≫  ガニノメという星がある。ふたご座のαとβのことである。「蟹の目」が訛ったもので、愛媛地方でカニをガニというところから派生した。

≪017≫  ヨーロッパではこれをジャイアント・アイという。それが日本ではカニの2つの目になっている。そこで調べていくと、茨城ではカニマナク、熊本ではカニマナコになっていた。さらに調べると、壱岐あたりの漁師たちはカレーンホシという。何のことか最初はわからなかったが、やがて魚のカレイの2つの目であることが判明する。抱影さんは書く、「カニ以上に生な強い見方であろう」。では、各地がそれぞれ海中生物に見立てているのかというと、そういうこともない。播磨ではカドヤボシ、安芸ではニラミボシなのだ。角を曲がれば2つの目。「まことに俗曲のようである」。

≪018≫  抱影さんはこんなことを綴ったうえで、星の和名は庶民たちの天候予想にも関与していたことをあげ、最後に「月のないのに二つ星キラキラ、あすはあなたに雨投げる」という俗謡をそっと出し、これらの星がときに投げ星と愛称されてもいたことをもって、なんだか全部の星を天空に返してしまうのだ。ぼくはこの手順に「星の仁義」を感じてしまった。

≪09≫  野尻抱影の「抱影」の名は、学生時代に島村抱月と演劇研究をしたときに名付けた星名である。抱月はスペイン風邪で急逝し、先妻もスペイン風邪で亡くすのだが、抱影自身は小さな鶴のように長寿を全うし、まさに星に届くほどに星影を抱きつづけた。

≪010≫  英文学から演劇へ、そこから山岳をへて、星辰へ。そういうコースだったけれど、なんであれ、気にいればどんなことにも打ちこんだ。だから研究社の「英語青年」の初代編集長も、「中学生」誌上の「肉眼星の会」の主宰もつとめたし、そのかたわらで透徹した好奇心をもって自然や天体を眺め、漢籍や和綴本を渉猟しまくった。

≪011≫  そのひとつに昭和9年からの、牧野富太郎が植物を、自分は天体を担当して小中学生のための旅行合宿をしつづけた「自然科学列車」という企画もあった。元祖環境体験学習である。ちょっとした物語(たとえば『土星を笑ふ男』)を文学誌に載せて、評判をとったりもした。志賀直哉とは志賀の一家が野尻邸を訪れて北斗七星のミザールを見てからの昵懇の仲で、終生の心の友となっている。抱影と直哉の一対は、意外な連星の一対だ。その抱影の実弟が、これまたぼくが大好きな『鞍馬天狗』の大佛次郎なのである。

≪012≫  本書は春夏秋冬の順に、星の和名だけで天体をほとんど覆っていった一冊だ。まことに爽快、胸がすく。

≪013≫  胸がすくだけではなく、和の星の光条に射られるかのように、眼も眩む。次から次へと繰り出される日本の無数の星言葉には、日本各地の民俗習慣風俗が縦横無尽に織りこまれ、これらを双六の賽の目を読むようになんとなく読んでいるだけで、ふと気がつくと和風の天体模様に自分の全身が染まっているのを感じる。そんなエキゾチックな風情が味わえる。

≪014≫  日本の星の話が、いったいどうしてエキゾチックなのかなどと問うてはいけない。すでに新村出の『南蛮更紗』がそうであったように、北原白秋の故郷柳川の詩がそうであったように、日本の山水や天体は、これをちょっと魔法にかければたちまち異国の風情がペパーミントの香りのごとくたちあらわれてくるものなのだ。異国の風情で悪ければ、天空の情緒といいかえればいいだろう。

≪015≫  たとえば43の星である。舵星である。剣先星である。これらはいずれも北斗七星の異名であるが、43の星は天にサイコロをぱっと振ったら43の目が出て、それが北天に開いて北斗になったというもの、なんともカッコいい。舵星は天空を疾走する船の舵のこと、剣先星は北斗の柄の先の鋭い見立てである。両方ともが、伊予水軍や村上水軍が波濤をこえて自身の船団を北へ進めるときにつかっていた用語であった。

≪016≫  ガニノメという星がある。ふたご座のαとβのことである。「蟹の目」が訛ったもので、愛媛地方でカニをガニというところから派生した。

≪017≫  ヨーロッパではこれをジャイアント・アイという。それが日本ではカニの2つの目になっている。そこで調べていくと、茨城ではカニマナク、熊本ではカニマナコになっていた。さらに調べると、壱岐あたりの漁師たちはカレーンホシという。何のことか最初はわからなかったが、やがて魚のカレイの2つの目であることが判明する。抱影さんは書く、「カニ以上に生な強い見方であろう」。では、各地がそれぞれ海中生物に見立てているのかというと、そういうこともない。播磨ではカドヤボシ、安芸ではニラミボシなのだ。角を曲がれば2つの目。「まことに俗曲のようである」。

≪018≫  抱影さんはこんなことを綴ったうえで、星の和名は庶民たちの天候予想にも関与していたことをあげ、最後に「月のないのに二つ星キラキラ、あすはあなたに雨投げる」という俗謡をそっと出し、これらの星がときに投げ星と愛称されてもいたことをもって、なんだか全部の星を天空に返してしまうのだ。ぼくはこの手順に「星の仁義」を感じてしまった。

≪022≫  それからぼくは、抱影翁の本づくりにとりかかり、『大泥棒紳士館』(工作舎)という一冊を出版することになる。けれどもまもなく抱影さんは亡くなった。1977年10月30日のことである。そのときの遺言がものすごいものだった。「ぼくの骨はね、オリオン座の右端に撒きなさい」。その5日前の10月25日に、稲垣足穂が亡くなった。これらはぼくがフランスとイギリスに行っているときである。

≪023≫  急いで日本に戻ったぼくは必死で「遊」の特別号を「野尻抱影・稲垣足穂追悼号」として構成し、「われらはいま、宇宙の散歩に出かけたところだ」という追悼の辞を表紙に散らした。デザインは羽良多平吉に頼んだ。たった1ヵ月くらいの作業だったが、工作舎のスタッフは誰も寝なかった。毎晩が星集め、ホーエイ彗星集め、タルホ土星集めの日々だった。抱影語録も徹底的に集めた。

≪024≫  たとえば、「真珠色の夜ともなれば、私の想像は、この満目ただ水なる河谷の空に、熱国の星々を、やがて更けてはシリウスの爛光を点じてみたくなる」……「オリオンが初冬の夜、東の地平から一糸乱れぬシステムでせり上がって来た姿は、実に清新で眼を見張らせる」……「北斗七星は金色のクランクで、北極を中心に、夜々天球をぶん廻してゐる」……というふうに。

≪025≫  そこへ最後になって、ご子息の堀内邦彦さんが原稿を寄せてくれた。ぼくは編集担当の田辺澄江と相談して、こんな文句をタイトルにした。「お父さん、今夜は旅立ちには絶好の、星のこぼれる夜ですよ」。

≪013≫  胸がすくだけではなく、和の星の光条に射られるかのように、眼も眩む。次から次へと繰り出される日本の無数の星言葉には、日本各地の民俗習慣風俗が縦横無尽に織りこまれ、これらを双六の賽の目を読むようになんとなく読んでいるだけで、ふと気がつくと和風の天体模様に自分の全身が染まっているのを感じる。そんなエキゾチックな風情が味わえる。

≪014≫  日本の星の話が、いったいどうしてエキゾチックなのかなどと問うてはいけない。すでに新村出の『南蛮更紗』がそうであったように、北原白秋の故郷柳川の詩がそうであったように、日本の山水や天体は、これをちょっと魔法にかければたちまち異国の風情がペパーミントの香りのごとくたちあらわれてくるものなのだ。異国の風情で悪ければ、天空の情緒といいかえればいいだろう。

≪015≫  たとえば43の星である。舵星である。剣先星である。これらはいずれも北斗七星の異名であるが、43の星は天にサイコロをぱっと振ったら43の目が出て、それが北天に開いて北斗になったというもの、なんともカッコいい。舵星は天空を疾走する船の舵のこと、剣先星は北斗の柄の先の鋭い見立てである。両方ともが、伊予水軍や村上水軍が波濤をこえて自身の船団を北へ進めるときにつかっていた用語であった。

≪026≫ 参考¶野尻抱影翁の著書はそうとうに多い。なぜ全集にならないのか不思議なほどだ。全部は紹介できないが、主なものをあげると次の通り。だいたいは刊行順である。『星座巡礼』『星を語る』『星座神話』『星座春秋』『日本の星』『星と東西文学』(研究社)、『星恋』(鎌倉書房)、『星まんだら』(京都印書館)、『天体の話』(講談社)、『星の神話伝説』(白鳥社・縄書房)、『星座の話』『星と伝説』(偕成社)、『新星座巡礼』(角川書店)、『星と東西民族』『星座歳時記』『星と東方美術』『星座』『星・古典好日』『星座遍歴』『星三百六十五夜』『星座見学』(恒星社厚生閣)、『日本星名辞典』(東京堂)、『三つ星の頃』(北宋社)、『星アラベスク』(河出書房新社)、『大泥棒紳士館』(工作舎)、『山で見た星』『星空のロマンス』『星の文学誌』(筑摩書房)、『山・星・雲』(沖積舎)、『星の民俗学』(講談社学術文庫)などなど。

≪01≫  ドストエフスキーの『罪と罰』(岩波文庫・新潮文庫ほか)に、老婆を殺害したラスコーリニコフが自室に戻ったところ、部屋に月の光がキラキラと満ちていて「大きな丸い銅紅色の月」が窓から覗いていたという場面が出てくる。ラスコーリニコフは呟く、「月はいま、きっと謎をかけているんだ」。 

≪05≫  オシリスとイシスに大きく月がかかわっていることが印象的で、そのわりに日本のツクヨミがあまり活躍していないのが残念だった。 

≪06≫  ロマンチックな話ばかりではない。最後にやってきたのが「月の科学」全般で、こちらはケプラーからツィオルコフスキーまで、ニュートンの林檎からエルンスト・マッハの回転バケツまで、お月さまはなんであんなふうなところで回っているのか、いろいろ調べたり考えたりしたかったのだが、突然に「話の特集」から連載依頼がきて、「松岡さん流の月の話をエンサイクロペディックに自由に広げてほしい」と言われた。それで翌月から一年間にわたって、『月の遊学譜』を毎月書くことになった。 

≪08≫  『ルナティックス』はぼくの「月狂い」の集大成となった。自分で言うのもなんだけれど、そうとうにユニークな構成の一冊だろうと思う。できるかぎり多彩な角度から「月知学」(ルナティシズム)というものがありうることを強調した。 

≪09≫  月球派宣言をすべく、古今東西の月知感覚をこれでもかこれでもかというつもりで磨ぎ澄ませて仕上げたものだ。文庫になったときは鎌田東二君がキラッとした解説を書いてくれた。鎌田君はかつてぼくがまりの・るうにい、長新太、楠田枝里子らとともにジャパン・ルナソサエティを催していたときのメンバーでもある。  

≪010≫  しかしいくら上等とはいえ、一連のフェチな執筆のなかで「月の科学」については少ししか取り組めなかったのである。なにしろぼくが加担した月知学は「太陽は野暮で、月だけが極上である」という、ひどい偏見にもとづいたものなのだから、太陽系をベースにした自然科学からは逸脱していたのだ。けれども月を科学するとなると、そうは言ってられない。太陽と地球と月の「関係」を公平に見なければならない。 

≪011≫  というわけで、今夜はちょっぴり「月の科学」を補うことにしたのだが、さてそうなると、話はやはり二〇〇七年に日本が勇躍打ち上げた「かぐや」以降の話題が中心になってくる。今夜とりあげた佐伯和人の『月はすごい』(中公新書)をはじめ、青木満の『月の科学』(ベレ出版)、渡部潤一の『最新・月の科学』(NHK出版)などは、いずれも「かぐや」以降の太陽と地球と月の関係を追っている。 

≪012≫  JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打ち上げた「かぐや」はとても日本らしい月探索観測衛星だった。二〇〇七年九月十四日十時三一分一秒に打ち上げられた。主衛星と二つの子衛星、リレー衛星「おきな」とVRAD衛星「おうな」を引き連れ、小粒ながらも一六種類の最新機器を稼働させてかなりのミッションに挑んだ。 

≪014≫  二一世紀の月探査はリモートセンシング主導になっている。すでにNASAの「クレメンタイン」や「ルナ・プロスペクター」に始まっていて、「かぐや」の一ヵ月後に打ち上げられた中国の「嫦娥」一号、その一年後のインドの「チャンドラヤーン」一号、さらにはアメリカの「ルナー・リコネサンス・オービター」などがこれらに続いて、時ならぬルナティック・テクノロジー競争期(激戦期)にも突入している。 

≪017≫  規則一の「自然を解明するには現象を説明するために必要な説明以上のものを求めてはいけない」から、「帰納的に推論された実験哲学の命題はそれがくつがえされるまでは真理とよばれるべきである」とした規則四まで、のちの科学の大道はここで決まったようなものだった。しかし、命題二二・定理一八の「月のあらゆる運動、およびそれらの運動のあらゆる不平等性は、提示された諸原理から既決される」あたりから、俄然、セレノグラフィックになっていく。  

≪018≫  命題二五・問題六は「太陽が月の運動を乱す力を見いだすこと」で、命題二七・問題八が「月の時運動により、月の地球からの距離を見いだすこと」、そして命題三七・問題一八になると「海を動かす月の力を見いだすこと」となり、ついに命題三八・問題一九で「月の本体の形を見いだすこと」に向かうのである。とくに命題三九の補助定理として「彗星は月よりも上にあり、惑星の領域内に運行すること」について切り込んでいくあたり、読んでいるだけでキリキリと興奮させられた。 

≪020≫  ニュートンの自然哲学の意図はセレノグラフィからだけで導かれたものではない。十八世紀に特有なトマス・バーネットの創造自然、アンソニー・シャフツベリの神格自然、ジョセフ・バトラーの自然道徳、デヴィッド・ヒュームの精神自然の要請に応えるものでもあった。月のことを考えるとは、人類の自然哲学をどう考えるかということと同義だったのである。 

≪021≫  加えて、デヴィッド・ハートリーの振動にもとづく自然教育のありかた、ジョゼフ・プリーストリーの月光共鳴型の敬虔自然の波及にも応えていた。プリーストリーはルナ・ソサエティの提唱者でもある。   

≪022≫  だから、その後の「月の科学」にはこうしたニュートンの自然哲学的配慮がずっとつきまとってよかったはずなのだが、残念ながらそうならなかった。ぼくは凧と月が好きなヴィトゲンシュタインと、最初期のロケット工学者のツィオルコフスキーにはその後も継力を瑞々しく感じたけれど、多くの「月の科学」はそういうスピリットを忘れていったようだ。 

≪023≫  それでどうなったかというと、ルナティック・セレノグラフィではなくて、すこぶる実用的なプラクティカル・セレノグラフィが確立していった。おそらくぼくが好むような本格的なルナティック・セレノグラィは今日ではニール・カミンズの『もしも月がなかったら』『もしも月が2つあったなら』(東京書籍)くらいにしか横溢していないのではないかと思われる。 

≪024≫  今夜の本書もそのプラクティカル・セレノグラフィのほうの一例だ。サブタイトルに「資源・開発・移住」とあるように「月をめぐる実学」にとりくんでいる。著者は惑星地質学の研究者で、すでに『世界はなぜ月をめざすのか』(講談社ブルーバックス)の著書もあり、ホリエモンらを興奮させた。JAXAの「はやぶさ」や「かぐや」の世代にあたる研究者だ。 

≪026≫  月は地球から三八万キロのところに浮かんでいるナチュラル・サテライト(衛星)である。地球のまわりを公転周期二七・三日で回っている。自転もまったく同じ周期なので、地球からは裏側(ファーサイド)が見えない。これを「月の動きが地球にロックされている」と言うのだが、その詳しい理由を科学はあきらかにしていない。 

≪027≫  月が地球の子供なのか、兄弟なのか、それともどこかからやってきて地球の重力圏にとらえられた他人なのかも、まだわかっていない。 

≪028≫  兄弟説は、地球ができたときに月も一緒にできたという説で、地球は直径一〇キロくらいの小天体が集まってできたと想定されているのだが、同じように月もそのときに別にできたのだろうというものだ。そうだとすると地球と月は同じ材料でできたということになり、それなら密度も同じになるはずなのだが、地球の密度は五・五一g/㎤、月は三・三四g/㎤なので、月が小さすぎる。 

≪029≫  月が三八万キロのところまで遠のいた理由もうまく説明できない。いっとき岩波新書に古在由秀の『月』という本があったものだが、そこでは月は三〇億年前には地球から一万八〇〇〇キロほどのところにあったのが、潮汐力によってしだいに遠のいて、重力バランスでいまのところに落ち着いたと書いてあった。この説では、地球はいまなお少しずつ遠のくことになる。実際にも一年に三センチずつ遠のいているはずだ。 

≪030≫  親子説は、かつて地球の回転が不安定だった時期に地球の表面から月がちぎれて飛び出したというものである。地球にそんな回転不安定があったかどうかが疑問視されているが、この説だと密度のちがいは説明できる。表面がちぎれて月になったのだから、マグマやマントルでできている地球の密度とちがうのはリクツにあうのだが、ただし月の各所にマスコン(質量集中)がおこっているのに、その理由が説明できない。 

≪031≫  他人説は月がどこからか来たのだから、生まれた場所がちがう他人どうしだという説である。どこからかといっても太陽系の中だろうから、太陽系としては地球と月は兄弟なのである。ただし、どうやって月を捕獲できたのか、うまく説明できていない。絶妙のタイミングで捕えたのか、それとも地球の重力圏に網のような枝状の状況が生まれたのか、そこがわかっていない。 

≪032≫  最近流行の定説はジャイアント・インパクト説である。初期の地球に火星ほどのでっかい天体(テイアという名前がついている)が衝突して、その破片がしだいに集まって月になったというものだ。一九八四年にハワイのコナで「月の起源に関する国際会議」が開かれ、ぼくも耳をそばだてていたのだが、そのころすでにジャイアント・インパクト説が有力になっていた。 

≪034≫  月の出生についての定説がまだかたまっていないのに対して、はっきりしていることはいくらもある。たとえば月には大気がないし、水もない。大気がないのは月が大気を放逐してしまったからである。これは月の重力値が地球の六分の一に満たないところからきていることでまあまあ説明がつく。仮に太古のできたての月に空気があったとしても、表面重力が低ければとどまってはいられなかったはずなのだ。空気の分子が放逐されたように、水の分子もとどまっていられなかった。 

≪036≫  そういえば、アポロ一一号の月面到達のあと、宇宙シューズの足跡がくっきり掘り込まれている画像を見たときは、びっくりした。最初のうちはどうしてあんなに彫刻刀で象ったような足跡がつくのかわからなかったが、月面の砂がとてもこまかいからだということで納得した。月面はレゴリスと呼ばれる砂でおおわれていて、それらが〇・一ミリ以下の粒になっているのである。小麦粉みたいなものだ。 

≪038≫  かつて月には水があると信じられていた。日本でも午前三時ころに井戸から汲んだ水は月の特別の力を反映させていると思われていたので、神事の水はこの「おちみず」(変若水・若水)をつかった。いまでもそう信じられている。ニコライ・ネフスキーの『月と不死』(平凡社東洋文庫)がその意味を証した。 

≪039≫  月の科学は月の水を否定してきた。もし水があればとっくに微生物が見つかっているはずであるからだ。しかし、かつてはどうだったのか。クレメンタインやルナ・プロスペクターの調査が「氷」を思わせる反射光をキャッチしたと言い出してから、新たな議論が始まった。ルナ・プロスペクターは中性子分光計を搭載していたので、水素原子の分布から「月氷」を割り出したのだ。これはひょっとすると「昔の水」の名残りなのかもしれない。ただし水素原子は太陽風にも含まれているため、月氷の反射光かどうかは、まだわかっていない。 

≪040≫  それより月氷は永久影にありそうだった。地球は回転面に対して二三・四度傾いているのだが、月は一・五度しか傾いていない。そのため月の北極と南極のクレーターの底部には太陽光が届きにくい。これが永久影となり、そこに月氷をつくっている可能性がある。「かぐや」で地形観測チームの主任をした春山純一や本書の著者の佐伯は、クレーターの形状データをもとに月面温度の研究をすすめて、クレーター底部の温度が最高でもマイナス一九〇度にしかならないことをあきらかにした。これなら月氷は永久凍土のように保存されてもおかしくないのだが、この仮説はまだ認められていない。 

≪041≫  アポロ一一号が持ち帰ってきた月の石は玄武岩そっくりだった。ちょっとがっかりした。その後の調査でも玄武岩と斜長石がほとんどで、他には輝石、かんらん石、チタン鉄鉱(イルメナイト)が認められた程度だ。もっともこれらの中には鉄、チタン、マグネシウム、アルミニウム、珪素などの元素は豊富に含まれている。いずれも酸素とむすびついているので、酸素を引きはがしさえすれば、使いやすい原材料は得られる。 

≪042≫  チタン鉄鉱は酸素を引きはがしやすいから、将来、月面工場をつくることになれば、月の海のレゴリスから鉄とチタンを選別生成することはたやすくなるかもしれない。話が急にとぶが、機動戦士ガンダムの装甲素材が月で採取したチタンから作ったルナチタニウム合金だというのは、なかなかよくできた発想だった。 

≪043≫  しかし、月の資源の確保と活用を各国が争うようになる未来を描くのは、よしたほうがいい。地球上のレアメタルの確保すら、戦争を(いまのところは経済戦争だが)招きかねないのである。それより太陽エネルギーを月面で確保して地球に配分する計画のほうが、将来的には重要になる。 

≪044≫  地球の大気表面に入射してくる太陽エネルギーは一平方メートル当たり約一三六六ワットになる。この値を太陽定数という。地球と月は太陽からの距離がほぼ同じだから、月にも太陽定数があてはまる。月には大気がないので、これがまるごと降りそそいで地球の一・三倍になる。地表に届くエネルギーは大気で散乱吸収されるから、一〇〇〇ワットほどに低減されるのだが、月ではこれがまるまる使用可能なのだ。これを活用してうまく太陽電池をつくれるようにすれば、その電気エネルギーは月面でも使えるし、地球に送電することもできる。 

≪046≫  本書にはそのほかいろいろな「月を活用する可能性と条件」が述べられている。総じて楽観的で、意欲的で、たいへん賑やかである。こんなふうに研究者たちが月を資源として開発をめぐって元気に語っているのを読むと、さきほども書いたようにまさに隔世の感に襲われる。なにしろ本書の帯は「人類が月面で生活する日にむけて」というものなのだ。 

≪047≫  ずっと前にフリーマン・ダイソンの『宇宙をかき乱すべきか』(ダイヤモンド社→ちくま学芸文庫)を読んだとき、さまざまな感慨をもった。ある種の粛然とした感慨で、宇宙観というものの思考原則のようなものを教わった。『多様化世界』(みすず書房)を読んだときも、科学が確実なものを探そうとするのではなく、「ありそうもないもの」に出会うことの重要性を教わった。 ダイソンは有名な「ダイソン球」を提案したり、海王星より遠いカイパーベルトやオールトの雲に生命の可能性を感じているとさかんに主張したりした。しかし、それはコンティンジェントな「別様の可能性」なのである。 

≪048≫  ダイソンは量子電磁力学が専門で、朝永振一郎、シュウィンガー、ファインマンがそれぞれ別に提示した理論が数学的に等価であることを真っ先に証明してみせた物理学者であった。そこにはすでにわれわれはつねに「別様の可能性」の中にいるんだというメッセージがこめられていた。そういうダイソン博士に、ぼくはニフティサーブの依頼で公開ネットミーティングを開催したときにネット参加してもらったことがある。そのときのテーマは複雑系についてのことだったのだが、博士は「複雑系は僅かなことに注目することから始まる」と言っていた。 

≪01≫  福島県は太平洋側の浜通り地域、奥羽山脈と阿武隈高地にはさまれた中通り地域、越後山脈と奥羽山脈のあいだの会津地域に分かれる。行政的にもこれらは、かつては磐前県・福島県・若松県に分かれていた。 

≪02≫  自然環境も違っている。浜通りと中通りには、古くから数年間隔でオホーツク海高気圧の影響で冷たいヤマセ(偏東風)が吹き、しばしば夏の冷害をもたらした。ぼくが40年前に出会った写真家の英伸三には『ヤマセに吹かれた村』(家の光協会)という渋い写真集がある。 

≪03≫  冷害に悩んだ福島の農民たちは江戸時代から、温かい水を利用するための潅漑、田畑に水を多く流さないための排水、森林の落ち葉や家畜糞尿を活用する肥料、農具の工夫と改良などに知恵を絞ってきた。それはこの地域に「有畜複合家族農業」を育ませてきた。 

≪04≫  一方、会津地域は朝晩の寒暖の差が大きく、晩秋から早春には霜がおりる。そのため病原性の微生物や昆虫が生育しにくく、そのぶん病原菌や害虫の発生が少なかった。それゆえ明治時代後期には約60種のイネが育った。1684年に著された佐藤与次右衛門の『会津農書』(農山漁村文化協会「日本農書全集」第19巻所収)は、そうした地域特性をいかした農業を早くから奨めていた。 

≪09≫  さっそく日本有機農業学会を母体にした現地調査団が組まれた。5月6日、著者たちは澤登早苗を団長として相馬市・南相馬市・飯舘村・二本松市東和地区に入った。ちょうどぼくが吉村昭などの本をカバンに入れて、被災地を寂寞とした気持ちで巡っていた時期だ(1410夜〜1414夜)。 

≪011≫  相馬市山上では、水田土壌の放射性セシウムが1キログラムあたり640ベクレルを示した。南相馬市では積算空間放射線量が20ミリシーベルトになるおそれがあった。福島県有機農業ネットワークの前代表をしていた小高区の根本洸一さんを訪ねると、あの日から茫然自失の状態で、学校避難のあとは喜多方に一時避難し、その後は相馬市の親戚の空き家に暮らしていた。 

≪010≫  これらの地域では、水田面積12600ヘクタールのうち、津波で冠水して塩害を受けた水田が4321ヘクタールになっていた。畜産家は364戸のうち僅か101戸が残っただけだった。牛や豚もあわせて4864頭がいたのだが、その後は2200頭を切った。 

≪012≫  著者はさまざまな調査をしたうえで、二本松市東和地区の「ゆうきの里」を拠点に支援と調査と対策にとりかかることにした。本気で取り組むべきだった。いまこそ「農と言える日本人」にならなければならないと覚悟した。 

≪013≫  ゆうきの里東和は「道の駅ふくしま東和」の立ち上げと維持発展のために組織された。最初は青年団の数人の発案から始まり、2005年には会員260人がNPO法人ゆうきの里ふるさとづくり協議会をつくって有機農業で結束した。 

≪014≫  有機農家と畜産農家と企業が連携するようになった。牛糞・籾殻・おがくず・食品残渣・飴玉など14の資材をまぜた「げんき堆肥」を作り上げ、「ボカシ堆肥」も配慮した。こうして互いに「土の声」を聞くことを誓い合ったのだ。 

≪015≫  5つの取り決めもつくった。①畑の土壌診断を欠かさない、②げんき堆肥と有機質肥料を使う、③農薬と化学肥料は慣行栽培の半分以下にする、④栽培記録を相互が見る、⑤葉物野菜の硝酸イオン残留値に留意して基準1キログラムあたり1ミリグラム以下にする。  

≪016≫ ゆうきの里東和の理事長は大野達弘さんである。たくさんの新規就農者を育ててきた大野農場の育ちだ。農場にある民宿の前の看板には「ぶれず、めげず、しびらっこく」とある。大野さんは「しびらっこく、がんばっぺ」が合言葉なのである。大型ハウス7棟でミニトマト、キュウリ、小松菜、ホウレン草のほか、原木シイタケ13000本、水稲1・5ヘクタール、ネギ4アールなどを栽培する。   

≪017≫  3・11直後、浪江町から二本松市に3000人が避難したときは、大野さんたちの決断で東和が1500人を受け入れた。数日後、大野さんは黙って小松菜とホウレン草をトラクターで踏み潰した。シイタケはその後セシウム値が高く出荷制限の対象になった。 

≪018≫  ゆうきの里の東和の専務理事の武藤正敏さんは農家民宿「田ん坊」をやっている。武藤さんにとって「有機はジョーシキ(常識)」「土地はショージキ(正直)」だ。一方では白鳥神社の太々神楽とベンチャーズと寺内タケシを愛してきた。しかし3・11以降は、「真相を知ることの怖さ」と「真実を知ることの勇気」を体感した。 

≪019≫  副理事長の武藤一夫さんはなめこの空調栽培をするかたわら、農家民宿とレストラン「季の子工房」を営んでいる。その入口には「注文のきかねえ料理店」と書いてある。「原発事故は人災だ。土地が汚染されたのは自然災害だ。この二つとずっと闘う」という信条が一貫している。 

≪020≫  そのほか著者は、「ななくさ農園」の関元弘さん、「あぶくま農と暮らし塾」の中島紀一さん、沖縄から来た民宿「ゆんた」の仲里忍さん、りんご農家の熊谷耕一さん、二本松有機農業研究会の大内信一さんたちと交わってきた。あれから著者が福島に通ったのは250回を超えたのである。 

≪021≫  福島有機ネットの菅野正寿さんはゆうきの里東和の初代理事長である。一家は放射能汚染度の高い太田の布沢集落に暮らしてきた。水田2・5ヘクタール、野菜・雑穀2ヘクタール、ハウストマト14アール、もち・おこわを作って、代表的な複合農家になっている。本書には「田んぼのトンボ」という自然賛歌の詩も引用されている。 


≪022≫  長女の瑞穂さんはセパタクロー(足のバレーボール)の元日本代表で、日本女子体育大学を卒業してから地元に戻って有機農業を始めた。  

≪024≫  2011年8月、毘沙門チームが発足した。新潟大のアイソトープセンターの内藤眞センター長が南相馬の出身ということもあり、この地域の農家と汚染マップを作成しようということになった。毘沙門はその共同チームである。著者は大学研究者、JAそうま、復興会議などをつないでいった。 

≪025≫  2013年9月、福島大学で飯舘村大久保集落の長正増夫組長と目黒欣児生産部長を囲んで、うつくしまふくしま支援センターの面々、農学者たち、菅野さんなどが集まって、今後の計画や調査方法や村おこしをめぐって議論した。飯舘村をどうするかということが「この村の問題」ではなく、すべからく「日本の難問」であることがすぐわかった。  

≪026≫  著者のチームはこの難問がネットワークにこそなるべきだと感じて、博士山ブナ林を守る会のメンバーで奥会津大学を発足させた菅家博昭さん、福島有機ネットの理事の浅見彰宏さん、郡山の野菜ソムリエで郡山ブランド野菜協議会あおむしクラブを活動している藤田浩志さんらとの結び付きを、強めていった。 当初は茫然自失だったあの根本洸一さんも、いよいよ日中だけは小高区に戻って農事を再開した。 

≪027≫  こうした著者の活動を見ていると、あくまで農家の生き方に沿いつつ、測定や調査が前進エンジンになってさまざまな活動者たちがみごとにつながっていく様子が伝わってくる。そこには「知ることは生きることである」というモットーが貫かれている。 

≪029≫  たとえば「耕作することでセシウムの空間線量率が下がっていく」「落ち葉を食べるミミズにはセシウムがかなり濃縮される」「表面剥ぎ取りは土壌侵害をおこして水系の二次汚染をすすめる」「牧草の汚染は地上部に集中して根には至っていない」といったことは、ぼくのような素人から見ても画期的な観察結果なのではないかと思われた。著者の活動と研究は「農による知の統合」なのである。 

≪030≫  本書の後半には、足尾銅山の汚染問題や水俣病の公害問題についての詳しい見解も述べられている。著者は栃木県葛生に生まれ育ったのだが、小学校の校舎の入口には田中正造の写真が掲げられていたのだそうだ。 

≪031≫  著者はやがて荒畑寒村(528夜)の『谷中村滅亡史』や『土から生まれた思想家』、林竹二の『田中正造の生涯』、東海林吉郎・布川了の『足尾鉱毒・亡国の惨状』などを読み耽って、日本の農事・山村・漁村を襲う「侵害」に立ち向かえる研究者になろうと決意したようだった。  

≪032≫  本の終わり近く、著者は次のことを明言している。①国は被害者の味方にはならない。②県は被害者を説得しようとする。③しばしば「偽りの科学性」によって真実が歪められる。④「疑わしきは罰せず」によって科学的因果関係の決着が延ばされる。⑤「疑わしきは認めず」によって人命は軽視されていく。 

≪033≫  本書の「あとがき」は安達太良山の山麓の岳温泉「喜ら里」で綴られた。ぼくが好きな温泉である。 40年前、ここで高村光太郎の『緑色の太陽』や『開墾』を読んだ。読み了ってから湯に浸かり、さあ、どうしようかと思ったものだ。『開墾』にはこんなふうな文章が入っている。 

≪034≫ ‥‥私自身のやつてゐるのは開墾などと口幅つたいことは言はれないほどあはれなものである。小屋のまはりに猫の額ほどの地面を掘り起して去年はジヤガイモを植ゑた。今年は又その倍ぐらゐの地面を掘り起してやはりジヤガイモを植ゑるつもりでゐる。 

≪035≫ ‥‥北上川以西の此の辺一帯は強い酸性土壌であり、知れ渡つた痩せ地である。そのことは前から知つてゐたし、又さういふ土地であるから此所に移住してくる気になつたのである。野菜などが有りあまる程とれる地方では其を商品とする農家の習慣が自然とその土地の人気を浅ましいものにするのである。  

≪036≫ ‥‥太田村山口の人達は今の世に珍しいほど皆人物が好くてのどかである。その代り強い酸性土壌なのである。(略)太田村には清水野といふ大原野があるが、此所に四十戸ばかりの開拓団が昨年から入り、もうぼつぼつ家が建ちかけてゐる。私は酪農式の開拓農が出来るやうに願つて、なるべくそれをすすめてゐる。そして乳製品、ホウムスパン、草木染に望みをかけてゐる。 

≪01≫  4人の男女が登場する。それ以外は性交ないしはレズビアンを含む同性愛に耽る男女をのぞいて、登場しない。でも、それらの男女はある手法によって語られる。舞台はシリアのダマスカス。時はまさに現代である。 

≪02≫  キンダ・カヤーリは1990年にアメリカのウィスコンシン大学で女性研究の博士号をとったのち祖国のシリアに帰った30歳半ばの女性で、すでにアラブ・イスラム社会の女の生き方をテーマにした小説や随筆で名を馳せはじめている。 

≪03≫  ナディーム・カナワーティはキンダの夫で、ウィスコンシン大学で歴史学教授をしているとき、まだ学生だったキンダを知って1年後に結婚した。イスラム史学の第一人者だが、『我、異端者』などという風変わりな自伝も書いている。 

≪04≫  ウィサーム・ヌーラディーンは、このナディームとキンダ夫婦の隣に住む隣人で、結婚してまだ日が浅い。ハッサン・アジルクリーがこの物語の主人公にあたるはずだが、異常に嗅覚が鋭いという体質をもっている以外はとくに特徴もない青年である。ただし、この異常な嗅覚は女性たちのメンスの匂いに特別に過敏になっているため、ハッサンはつねにその嗅覚から逃れたいと願っている。 

≪05≫  作者のアマール・アブダルハミードは1966年にシリアのダマスカスに生まれた。父親が映画監督、母親が女優。3歳でカトリックの全寮制の学校に預けられ、長じてダマスカスの私立学校に入った。1983年に卒業すると宇宙飛行士になりたくてモスクワに行くが、ソ連の空気になじめず、8カ月で挫折した。  

≪06≫  帰ってきたアブダルハミードは、やがてイスラム原理主義に惹かれるようになり、その信念を抱いたままアメリカに渡ってウィスコンシン大学に入った。アメリカに行ってみて、あまりにアラブ・イスラム社会に対する偏見が強いことにショックをうけ、イスラム共同体にとけこみながらも、イスラム思想やイスラム文化を欧米に叩きつけることを好むようになる。 

≪07≫  ところが、1988年に発表されたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が“死刑”を宣告したことをきっかけに、イスラム原理主義にも疑問をもつようになった。その後はアメリカからダマスカスに戻り、小さな出版社をおこしているうちに、小説を書くようになった。この作品が処女作である。 

≪08≫  カトリック、イスラム原理主義、シリア、ソ連、アメリカという現代を象徴する文化を跨ぎながら、しかもセックスというテーマに挑んだこの若い作家は、いまやたらに注目されている。それにしてもぼくは、『月』というタイトルに騙されてこれを買ったのだが、それが月経のことであるとは、書店の近くの喫茶店で紅茶を頼んで読み始めるまで、まったく想像もしていなかった。  

≪09≫  ともかく普通の小説ではない。登場人物の名前が冠された小見出しが最初から最後まで入れ替わり立ち代わり続いていて、そのつど「抜粋」「心情」「出来事」「ささやき」「想念」「独白」「記憶」「予見」「注釈」といった別々のコラムが、まるでウェブマガジンのサイトに切り貼りされているかのように構成されている。 

≪010≫  これはどうみても安直な手法だし、英語から翻訳されたかぎりの文章を読むかぎりは、お世辞にもうまいとはいえないのだが、それなのに、この小説にはこれまでわれわれがまったく知らなかった魅力が詰まっている。 

≪011≫  むろんイスラム社会において「性」がどのようになっているかという“内部告発”が、これだけ手にとるようにわかるという小説がほかにないという事情が一番大きい。ヴェールを被った女性たちは大半が欲求不満で、おそらくはその多くがレズビアンをこっそり楽しんでいるらしいということも暗示されている。 

≪012≫  ラマダーンに入ったときの男たちの性欲もたいへんなもので、そのためたいていの妻たちが暴力的ともいえる夫の性欲に喘いでいるか、うんざりしているらしいことも伝わってくる。ともかくもイスラム社会では異常性欲こそが“陰の常識”なのである。 

≪013≫  しかし、こんなことが“告発”されているだけでは文学にはならない。このことが文学の中で何に吸収され、何に飛び散り、何に暗示されるかということが表現される必要がある。どうも作者はそのように“文学する”ことにまだ慣れていないだろうに、ところが読者は作者が用意した“文学の装置”にまんまとひっかかる。とくにハッサンの嗅覚が読者を幻惑する。 

≪014≫  では、それなら、この小説は第453夜に紹介したパトリック・ジェースキントの『香水』のような嗅覚記号に満ちた小説なのかというと、そうではない。ひたすらダマスカスの半径1キロ以内の人物たちの性愛の葛藤が描かれるだけなのだ。 

≪015≫  正直いえばぼくとしては読みはじめてすぐに、第161夜のウラジミール・ナボコフ『ロリータ』か、第395夜のピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』ほどのキリキリと絞りあげられた作品の質感を予想したのだが、そういうものではなかった。 

≪016≫  むしろこの小説では、官能、良心、背徳、惧れ、性愛、期待、哀感、思索、反省、喜悦というものが、ごくごく平凡に、できるだけ淡々と語られていくのである。どこにも加速装置はなく、どこにも過剰な表現は用意されていないのだ。そして、そうであるがゆえにかえって、イスラム社会にひそむ闇のように深い「性」と「人間」と「社会」の関係がイスラミック・カリグラフィーか、シリア絨毯か、アラビアンタイルのモザイクのように浮かび上がってくるのだった。 

≪017≫  きっと、これは『存在の耐えられない軽さ』のような映画になるといいのではあるまいか。そこで初めて、この作品のもつ意味が多くの社会に普遍的に共通するテーマを扱っていながらも、しかしイスラム社会が長期にわたってひたむきに醸造してしまった密造酒のような味と香りを発揮するのではないか。 

≪018≫  さいわい作者の両親は映画関係者である。『月』というタイトルも悪くないし、作者がこの作品のなかで使った「毒と蜜」もいい。それにぼくはハッサンの演技が見たいし、『コーラン』の流れるなかのレズビアンの場面も見てみたい。できればナディーム・カナワーティとキンダ・カヤーリは夫婦がもうちょっと暗殺の標的になっていて、これをたとえばシリア政府が苦々しく保護せざるをえないという矛盾した緊迫が“その映画”に付け加わっていれば、申し分がないだろう。 

≪01≫ この著者のことは何も知らない。
 歌人であったこと、いまも金曜日には短歌を詠んでいるらしいこと、
父親が農家であること、当人は何が動機で農業を始めたかということ、
そういうことの何も知らなかったが、読んでみて、感じるところが多かった。 

≪02≫  標題がいい。百姓の一筆。 一町八反、天下御免の百姓一匹、世の頓珍漢に、一筆参上つかまつる。まさにそういう気概が伝わってくる。 

≪03≫  開いてみると、その一筆ずつが百筆に分けて並んでいる。「埼玉新聞」に1985年から145回にわたって連載された。それを編集して並べ替え100本に仕立てたようだ。連載中についていたタイトルかどうかは知らないが、1筆ずつにタイトルがついている。1筆目が「電柱」、百筆目が「大草原の小さな家」。途中、「ひとり遊び」「農業批判」「ウンコ製造機」「土埃」「カラス神聖論」「なぜ農民から税金を取るのか」「半値の米もある」「百姓の資産」などと踵を接していく。 

≪04≫  農家の話が珍しいわけではない。農事、とりわけ有機農法に投じていった者なら、ぼくのまわりに何人もいた。 ぼくの友人には農作者、漢方関係者、鍼灸師が意外に多いのだ。セイゴオさんもそろそろ畑をいじったらどうですか、と勧められたことも何度もある。40代から農事に携わって成果をあげ、その作物をいつも送ってくれる友人もいる。水耕栽培で一本の巨大なトマトを稔らせたハイポニカの野沢重雄さんともよく話しこんだ。 

≪05≫  また、新農業思想とでもいうべきを著述した本も何冊か読んできた。岐阜で直耕をしている中島正の『みの虫革命・独立農民の書』など、なかなか読ませた。「都市を滅ぼせ」というのである。山下惣一の『土と日本人』も考えさせられたし、福岡正信の本は第1冊目から読んでいる。 

≪06≫  いずれにしても、農事農業派の連中にはそれぞれ味わうべきものがある。が、本書の著者の発言(著述というより発言に近い)は、そういうものとはどこかちがっていた。 

≪07≫  日本の農事については近世から農政学というものがあり、宮崎安貞このかた、さまざまな議論が噴出してきた。二宮尊徳のように村おこしと結びついたものもあり、橘孝三郎のように農事とテロルが結びついたこともあった。農事は広大なものであり、そこにかかわる思想も多様である。 その根底には「日本はコメの国である」というまことに大きな前提もある。 

≪08≫  それはその通りだ。ぼくもかなりのコメ派だ。 意外な人物がコメ派であることも少なくない。あるとき三宅一生がこんなことをポツリポツリと話しはじめたことがあった。「ぼくはさ、コメをたいせつにする日本が好きなんですよ。ぼくのファッションの原点はコメですよ」。あまり日本とか日本人ということを口にしない一生さんにしては珍しいことだった。まさに日本はコメである。細川首相がカリフォルニア米やタイ米の導入を決めたときは、反論が沸いた。 

≪09≫  しかし、実際には日本はコメだけの農業国だったわけではない。また、コメだけではとうてい農業は成り立たない。いろいろ作る必要がある。その一方、いくら各種の農作物をつくっても、海外から安い野菜やフルーツを大量に入れていくと、作物の価値も変わり、作物をつくる者たちの意識も変わってくる。  

≪010≫  この本の著者はその価値や意識の変質に対して、数々の警告を発する。その警告には一見すると逆説めくものもないではないが、そこを含めて「感じるところ」なのである。 

≪011≫  百筆に分かれてある文章の中身を、ぼくが言葉を補ってひとつづきにしてしまうのは忍びないが、たとえば、こんなふうな発言だ。 

≪012≫  土にかかわるというのは、母親の腕のなかに来たということなのである。その土はネギを作るだけではなくネギの泥、ダイコンのひげ、キャベツの虫とともにある。都会や消費者はこのうち、土を切る。だからといって、百姓が自然のすべてをよろこんで受容するわけじゃない。百姓は自然の何を嘆き、夏の何を怒り、冬の何を呪うかを知っているだけなのだ。 

≪013≫  この土によって成り立ってきたのが村である。村は基本的には村自体で食っていけるものである。そこには牛がいた。いま、多くの農村から牛が消えている。酪農のラクノウからラを取るとクノウの苦農や苦悩になるが、村は本来は酪と農でできている。 

≪014≫  こうした本来の村が解体していったのは、生産性、工業性、都会性があまりに膨張したからだった。 

≪015≫  しかも一方ではコメ不足が問題になり、他方では減反が問題になる。ダイコンをカメラにして、工業製品でカネを儲けたくせに、やたらに農業に難クセをつけようとする。あげくに円高になったとたんに、喚いている。こんな批評を百姓が容認する必要はない。円高とはこれまでの日本の経済社会がしてきたことのツケが、どこかにたまってしまったということなのだ。  

≪016≫  どこに? 農業に、である。円高の原因は日本の農業が壊れたということなのである。工業社会は農業社会と関係のない解決策をとろうとして、ただただ失敗を重ねているわけなのだ。 

≪017≫  だいたい日本は空前の食糧輸入国なのである。ソバも天麩羅のエビもトロのマグロも外国からの輸入もので賄っている。 飽食を求めれば、当然そういうことになる。しかし、輸出する側も輸入する側も、それで国民生活がコントロールできたなどと思うべきではない。農業というものは文化と同じで、それによって他国を制覇したり、されたりしてはならないものなのだ。 

≪018≫  だから食料と食糧がどのようになっているかという国民生活の基盤を、その食料食糧の経済で律しようとすれば、しだいに国はおかしくなっていく。そもそも農業は経済に立っているのではなく、風土に立つものだ。風土がそこに住む人間の食べものを決めるはずである。いま日本人の食いものが狂乱しているとすれば、風土をメチャクチャにしているということなのだ。 

≪019≫  まず工業者と都会者と消費者が出しているゴミを自分のところへ戻しなさい。駅前大通り、住宅地の公園、市役所の屋上、工場の敷地内にゴミ処理場をつくりなさい。 

≪020≫  まあ、こんな発言が一筆ごとに立ち上がっている。文章は屈託なく書いてあるが、歌人のせいか、さすがにときおりピリッとした文体が襲ってくる。その視野は広く、日本の問題の多くに"接地"している。百姓というものは、本気な話をしはじめると怖いものだという気もする。 

≪021≫  ちなみに、そういう著者がどんな農事にかかわっているかというと、作付け面積は一町八反である。東京ドームをこえる。そのうちヤマトイモが一町四反、ゴボウ二反、サトイモ一反、モロヘイヤ一反。そのほか自家用の作物が少々ある。これで1984、5年の年間収入が600万円くらいになる。そこから機械費や肥料費や厚生費などを引くと、残りが88万円。働き手は著者と母と妻。昔のどんな年貢よりも割りは悪い。 

≪022≫  いつかは家族で食べるコメは自分で作らなければならないとも考えているそうだが、本書が書かれた時点では、その試みは進んでいない。その考えの裏で、減反政策とぶつかったせいもある。 こんな歌が本書のところとごろに挟まっている。 

≪023≫ 

忘れてしまったことだらけなり  
           時が流れひとり遊びの百姓している
自然なるもののすべてはおどけたる
       恰好をしてほれそこにある
 どん百姓田中佳宏、自然より掠めとり
       せっせとじゃがいも運ぶ 

ハイロ・レストレポ・リベラ『月と農業』 が示唆すること 

世界システムモデルが破壊する農の多様な未来を

 著者のハイロ・レストレポ・リベラはコロンビアの環境学や農学の専門家で、中南米の農業指導にもあたっているらしい。すでに14冊の有機農業についての著作があるという。インカ文明論やマヤの月暦学をはじめ、中南米毒毒の自然哲学にも詳しい。本書も一種の啓発書で、月と農業の関連を多くの図版で説明している。それを翻訳者の福岡正行さんと小寺義郎さんが解説もしている。二人とも南米やケニアやバングラディッシュに農業ボランティアをしていて、内外の有機農法に大きな役割をはたしてきた人だ。 

 本書は天体が及ぼすさまざまな影響のうち、とくに月齢が植物にもたらす効果をとりあげて、ふだん気がつかないような「ルナティック・アグリカルチャー」ともいうべきに焦点をあてた。「ルナティック・アグリカルチャー」というのは、ぼくの命名だ。かつて『ルナティックス』(作品社・中公文庫)を書いたときは、農業との関係にふれなかったのだが、その後、だんだん気になっていた。 

月光と雨とが関係しているという仮説は、すでにルドルフ・シュタイナー(33夜)が持ち出していた。1924年にバイオダイナミック農法に講演をしたとき、雨は降っているときが雨だけなのではなく、大気にひそんでいる雨こそが地上に影響を与えていると主張して、そこに月齢が関与していることを示唆していた。 

≪013≫  地球にはいろいろの「やりとり」がおこっている。そのうちのひとつに、もともと「炭素循環」がある。植物の光合成によって二酸化炭素が吸収され、植物の呼吸や微生物による土壌中の有機物分解によって二酸化炭素が放出されているし、海水面でも二酸化炭素の吸収と放出がくりかえされている。 化石燃料の使用がこの炭素循環をさまざまに左右していることはあきらかだ。ただし、それが地球温暖化に直結しているかどうかは、実はまだよくわからない。地球規模の気温の上昇がこの炭素循環に影響を与えていることまでは事実で、気温が上昇すれば大気中の二酸化炭素の濃度がふえ、さらに気温が上昇する。これは「正のフィードバック」というもので、たしかに地球温暖化にかかわっていく。 

 これは今日の科学からすると、炭素循環に関する水蒸気の多大な役割に言及したもので、その先駆性があらためて注目されるのだが、それが月齢に関係することについては、有機農業の実際を通して確かめられつつあるらしい。 

 本書によると、月齢が植物に与える影響がはっきりしてきたのは、植物の樹液の流れの変化があきらかになってきたからであるという。とくにツル性の植物、ブーゲンビリアなどの夏の植物、バラ科やマメ科の植物、フジなどで観察が明確になった。月と植物がつながっているということは海水の活動とも関係があるわけで、上げ潮のときに樹液がたくさん出るということになる。 

≪024≫  では一例だけ、紹介しておく。ぼくにはこれが実際の日本の農作者にとってどんな関心をよぶのかはわからないけれど、こういう指南書にもとづいて日々をおくる姿を想像すると、低炭素社会というものはむしろこちらにあるのではないかと思えてくる。 柑橘類の栽培について。まず種子をとるには二十六夜を選ぶ。こうしてオレンジやレモンの種子を得たら、まず三日月のときに生物肥料の液にこれを漬ける。ついでこの種子が発芽してある程度育ったら、これを三日月から満月のあいだに接ぎ木する。定植は新月から満月のあいだにおこなうのがよい。時間帯は午後の夕暮れ前である。これで移植のダメージが少なくなる。 

≪07≫  過去100年間で世界の平均気温が0・74度上がり、海面が17センチ上昇したというのだ。グリーンランドと南極の氷床も減少し、アルプスの氷河で後退がおこり、ハリケーンや台風がやたらに大型になり、シロクマ(北極グマ)も少なくなり、各地で熱波現象がおこって、熊谷や多治見が40度を越えているというのだ。それが人為的な二酸化炭素の放出が原因だというのだ。このままではいまはオリンピックで沸いている北京は黄砂に襲われ、やがては砂漠に包囲されるだろうというのである。なぜ、こんな理屈になったのか。 

≪023≫  本書はこうしたことを、かなりことこまかく指南する。コーヒー豆をどうするか、サトウキビならどうなのか、果実をシロップ漬けにするときはどうすればいいか、これらがまるで月の恩恵に従うかのように、厳密に指示されているのである。ぼくは観念的農本主義者だから、実際の農業体験などまったくないのだが、なぜかこのようなルナティック・アグリカルチャーに惹かれる。

世界システムモデルが破壊する農の多様な未来を

 高谷さんが異を唱えた普遍主義とは、資本主義経済システムが世界システムのモデルだという考え方のことをいう。たいてい科学や合理の仮面をかぶっている。エマニュエル・ウォーラスティーンの「近代世界システム論」などがその代表的な見解のひとつだが、アメリカという国家自体もそうした普遍主義を自国の安定のためのロジックにつかう。 

 高谷さんの故郷は近江である。生活のいちばん小さな単位は「村」ではなくて「字」(あざ)である。行政村の下の単位が字になる。高谷さんの故郷の字は約130戸でできている。 この字にオモシンルイがいる。字に住む濃い親類のことだ。父が死んだという知らせをうけるとすぐにオモシンルイが駆けつけるついで同年が駆けつける。小学校の同級生だ。同年は青竹と杉の若葉をつかった葬儀用の籠を作り、そこに餅を飾る。こういうことが冠婚葬祭のたびにおこる。そこに祝儀や宴や進物や年賀や盆が組み合わさる。 この字が取水のための井堰をもち、それらがいくつか連なって水利郷をつくり、さらにさらに大きな「村」をつくる。そこに神社や寺や祭りの範囲が組織されていく。これが日本の農業共同体のひとつのモデルなのである。 

 こうした趨勢のなか、日本の農業も近代化の波をうけることになったのである。しかし幕藩体制の日本は頑としてイギリス型の産業的農業を受け入れなかった。それが日本の農業文化の今日までつづく基盤をつくった。 

 イギリスが綿花や毛織物を資本主義のモデルにしつつあったとき、日本は国を富ませる基本を徹底して農業においた。幕府は農民を土地に縛りつけ、農業生産を上げさせた。農民には苛酷な労働が課せられたが、これを国の方針とみると、イギリスが植民地を利用してとった方針とはまったく異なるものだった。 

 このようになってはいない共同体は世界中にいくつもある。しかし、それらを比較し整理していくと、高谷さんのいうアジア的な世界単位の母型はそんなに多様ではないことがわかる。絞れば、①生態適応型の世界単位、②ネットワーク型の世界単位、③大文明型の世界単位になる。①は東南アジア文明の山地やジャワ文明やかつての日本文明の農村部にある。②は海の民や草の民がつくっている。③は中国やインドの社稷共同体やカースト制度のなかにある