エシカル

エシカル生産/消費・生産する責任・消費する責任

≪01≫  ぼくはいつしか未来の予定を語るのが嫌いになっている。いつしか「未来を語る者こそ貧しい」とおもうようになっていた。ニーチェもそういうことを標榜しているが、ニーチェの影響ではない。エミール・シオランの影響なのである。

≪02≫  シオランのものは片っ端から読む。ただし、短文、アフォリズム、警句、長詩、独白に近いものが次々に新たな標題によって刊行されるので、これを片っ端から読んでいると、どの本に何が書いてあったかなどということはおぼえていられない。

≪03≫  シオラン自身が自分のことを「反哲学者」というくらいだから、そもそも脈絡においてシオランに接することが不可能なのだ。

≪04≫  だから、シオランを一冊だけ推薦するというのもなかなか困難になる。そこで、ここでは最初にフランス語によって書かれた『崩壊感覚』をとりあげることにした。

≪05≫  「最初にフランス語で」という意味は、シオランは1911年生まれのルーマニア生まれで、母校のブカレスト大学の文学部で哲学教授となり、26歳のときにフランス学院給費生としてパリに留学したものの、1947年まではフランス語で文章を書いていなかった。

≪06≫  シオランにとって幼年期をすごしたルーマニアのトランシルヴァニア地方は、言語が複雑に折り畳まれている場所であった。そのころトランシルヴァニアはオーストリー・ハンガリー二重帝国の足下にあって、ルーマニア人はハンガリア人を憎んでいた。が、憎むということは興味をもつということでもあって、シオランもハンガリー語に異常な関心を示している。

≪07≫  しかし、シオランはフランス語を学ぶ。ルーマニア語でもハンガリー語学でも生々しすぎたのである。フランス語はシオランの言葉を借りるなら「完全なまでに非人間性に富んでいる」。そして、そのフランス語で最初に綴ったのが、『崩壊感覚』だったのである。

≪08≫  内容を説明するかわりに、それぞれの短文エッセイの標題をあげるのがいいようにおもわれる。ほんとうはフランス語で掲げるとおもしろいが、それは原文を見てもらうことにする。少しかいつまんでおいた。

≪09≫ リスト

狂信の系譜

反予言者

神の中に消える

時間の関節がはずれる

すばらしい無用性

堕落の注解

形容詞の制覇

曖昧なものの崇拝

安心した悪魔

背教者

間投詞的思考

生殖の拒否

黄昏の思想家

ぼろぼろになった男

未来の亡霊

無意識の教義

挫折の表情

落伍者の肖像

真昼の呪詛

天国と衛生法

亜流の幸福

流行おくれの宇宙

傾いた十字架

いつまで同じことを?

≪010≫  これがシオランなのである。 いかがなものだろう。すぐに使いたくなりそうなフレーズが目白押ししていることに驚くにちがいない。が、これだけではまだ想像力がはたらかないという貧しい読者のために、二、三の文章を引用しておく。

≪011≫  「人間はいまや新たな時代、自己憐憫の時代の入口にたっている」。「存在が精神によって蝕まれつくされたあとの空虚、そこを占めるのが意識である」。「かくて独創性とは、ようするに形容詞の酷使と、暗喩の無理な喚起的用法に帰するわけである」。「人間が夜明けの言葉で自分のことを考える時代は、もう終わった」。「真の知とは、結局、夜の暗黒の中で目覚めているということに尽きている」。

≪012≫ 参考¶エミール・シオランの著作は国文社の選集に『崩壊感覚』『苦渋の三段論法』『実存の誘惑』『時間への失墜』『深遠の鍵』などが、紀伊国屋書店から『絶望のきわみで』『涙と聖者』『思想の黄昏』『歴史とユートピア』『生誕の厄災』などが出ている。もう一冊勧めるとすれば、ぼくが『フラジャイル』の背景にした『涙と聖者』だろうか。

≪01≫  C・P・スノウがそう言ってからというもの、現代社会は理科系と文科系を別々の文化として歩ませるようになったとみなされてきた。そこで、どこでも同じものを提供する文化、たとえばヒルトンホテルやコカコーラが世界中で好まれた。 同質時代の蔓延である。異質であることをみずから恥じ、異質である仲間を排除する時代だ。 

≪02≫  ぼくの20代後半から30代前半にかけての“知の闘い”があるとすれば、一口にいえばこの理科系と文科系を徹底して交ぜ尽くし、自在にこれを組み合わせることにあった。気にいった何もかもを同化=異化することだった。ハイパー・レティキュレーションである。たとえばナーガルジュナとヴィトゲンシュタインと蕪村を同じ屏風に仕立て、たとえば梅園とバタイユとボルヘスを一つの掛軸に撥墨で書く。その一端はの誌面や『遊学』に投影しておいた。ぼくの最初の単行本のタイトルが『自然学曼陀羅』であったというのも、「理と文」の出会いをあらわしている。 

≪03≫  しかし、その後の世間の動向や言論社会を見ていると、あいかわらず理科系と文科系は分断されたままなのである。これは学生よりも助手のほうが、助教授よりも教授のほうが、アーティストよりもエンジニアのほうが、文学者よりも宗教者のほうが、そしてテレビよりも新聞のほうが“ひどさ”が大きくなっている。 

≪04≫  むろんかつては理科も文科もなかった。何だって連らなり、どこもが繋がった。それが近代科学の自立とともに分割された。とくに大学教育である。 では、これは20世紀特有のビョーキだったのかどうか、そこには理科系と文科系を積極的に融合したいくつもの試みがあったはずなのに、それはどうなったのかというのが、本書が向かったテーマなのである。 

≪05≫  ピカソが1905年に発表した『カナルス夫人の肖像』では夫人の容貌も洋服もほぼ見える通りに描かれていた。それが1911年の『マ・ジョリ』では、“人間”の形像はなくなっているか、向こうが透けて見える画角の中に断片が入っていった。ここに、なんらかの「消失」と「透明化」がおこったのだ。 

≪06≫  同じことをモンドリアンもブランクーシもクリストもやってみせた。美術界ばかりではない。マラルメの『骰子一擲』は言語や文章が与える顔や像をまぜこぜにして、これらを別の様相になるようにしてみせた。「無作為性」や「ランダムネス」に関心をもったためである。これは科学で勃発した量子力学と相対性理論がもたらしつつあった「認識の大幅な変更」とぴったり呼応する。ハイゼンベルクが言うように、“そこ”をよく見ようとすれば、“そこ”は必ず不確定なのである。  

≪07≫  こんなことはダダもシュルレアリスムもコンクリート・ポエトリーもが十分に知っていたはずのことである。越境と相転移は科学にも文学にも美術にもおこることなのだ。それなのに、われわれはいままた理科系と文科系の断絶に甘んじたままにある。いったい20世紀は何をしてきたのか。 

≪08≫  そもそも古代ギリシア人が構想した「コスモス」(宇宙的秩序)という言葉を、いつしか20世紀の化粧品会社が「コスメチック」にしたとたん、すべての融合はもはや後戻りするはずのないところまで突進したのである。 

≪09≫  それなのに後戻りがおこっている。いやいやそれも、中世・古代には後戻りしていない。後戻りは、バカのひとつおぼえのように、決まって「近代」の出発点のところへ立ち止まる。モダニズムに立ち止まる。いっそ戻るなら中世・古代・原始まで遡及すべきであって、前に進むならさらに越境に挑むべきなのだ。 

≪010≫  これは20世紀の後半が、かなりくだらなかったことを、かなり錯綜しつづけたことを意味する。「後方への旅」も「前方への投企」もやりそこなったのだ。これを一言でいえば、越境に失敗したというべきである。 

≪011≫  だから、次の機会のための越境の起点をちゃんと知っておいたほうがよい。そう、20世紀のレティキュレーションはどこを起点にすればいいのかを確認したほうがよい。そこで本書では、「それはダーシー・トムソンからではあるまいか」と、ハーディソン・ジュニアは断言してみせたのだった。 

≪012≫  うん、まさにそうだろう。第735夜に書いておいたように、すべてはダーシー・トムソン(トンプソン)か、さもなくばフォン・ユクスキュルか、あるいは第18夜に書いたようにアンリ・ポアンカレから始まるべきなのである。その次は? その次の起点はマルセル・デュシャンの「レディメイド」か、アラン・カプローの「ハプニング」以降か、もっと進んでベノワ・マンデルブロのフラクタル幾何学あたりだろう。 

≪013≫  いや、消失と透明化というなら、もはや事態はコンピュータ・シミュレーション以降だけを問題にしたっていいだろう。もし、ぼくがもう一度『遊学』を書くのなら、必ずやコンピュータ・シミュレーション以降の理科系と文科系の融合を出発点にする。 

≪014≫  1984年にジョンズ・ホプキンス大学のウィリアム・チェンバレンとトマス・エッターが「ラクター」(RACTER)というソフトを発表したことがある。 ラクターは「話し上手」を意味する“racouteur”を短縮したもので、ワイゼンバウムの「イライザ」がユーザーの会話を引き出すようにプログラミングされていたのに対して、あえて会話を牛耳っていくようにプログラムされていた。このラクターとユーザーの会話記録が『警官の髭は半分だけ構築された』という本となって出版された。傑作である。以下は、その一部。Rはラクター、Uはユーザーだ。 

≪015≫  ラクターは「話し上手」を意味する“racouteur”を短縮したもので、ワイゼンバウムの「イライザ」がユーザーの会話を引き出すようにプログラミングされていたのに対して、あえて会話を牛耳っていくようにプログラムされていた。このラクターとユーザーの会話記録が『警官の髭は半分だけ構築された』という本となって出版された。傑作である。以下は、その一部。Rはラクター、Uはユーザーだ。 

≪017≫  これはヴァーチャル会話だが、われわれもたいていはこんな程度の重なりと行き違いで会話をしているわけだから、ここには出現と消失の両方が交ざった“真の会話”があると考えたってかまわないわけなのだ。そして、ここにおいて、すでに理科系と文科系は完全に同居したわけなのである。 

≪018≫  その後、ヒュー・ケナーとジョセフ・オルーキが共同で制作した「トラヴァスティ」という文体分析ソフトでは、たとえばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の適当な量を入れてやると、まるでジョイスが次の作品を書いたかのような文章を打ち出せる。もっと原文を入れておけば、もっとジョイスっぽくなってくる。マラルメやダダの実験はこうしていまやパソコンからいくらでも出力するようになったのだ。 

≪019≫  いまや越境はここから始めるとよいともいえるだろう。ここにはハーディソン・ジュニアが言うように「著者の消失」や「自己表現の透明化」がおこっている。しかしもっと言うなら、ぼくなら、「こうして、すべてはお互いに似やすくなってきた」とも言ってみたい。 

≪020≫  著者はワシントンDCきってのライブラリアンだった経歴をいかして、20世紀が到達した理科系と文科系のフュージョンをできるだけたくさん拾いつつ、その行末を科学に芸術に示そうとした。 

≪021≫  いささかニューエイジ型で総花的ではあるけれど、ぼくとしては30年前に“予告”しておいたことがもっと広まってほしいという意味で、こういう本はもっともっと消費されてよい。そういう目論みで、紹介してみた。 

≪022≫  いまや、いや30年前からであるが、世はハイパー・レティキュレーション(超網状態)に覆われていたはずなのである。まったく、知識人というのは馬鹿野郎たちである。  

≪01≫  この手記の序に選ばれた言葉群には、「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」とともに「権威をひいて論ずるものは才能にあらず」の文句がある。そして、青年時代のぼくを驚かせた「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」が出てくる。

≪02≫  この「終わりを考えよ」という示唆は、文章ばかりが好きなテキスト派の知識人たちには見当のつきにくいことかもしれない。なぜ「終わり」が重要なのか。けれども、彫刻や建築を一度でも仕事にしたか、あるいは考えてみた者にとっては、ごくあたりまえのことになる。また、近代以前の絵画を学習した者にとっても当然な示唆になる。が、このあたりまえのことに最初に気が付いたのがレオナルドだった。

≪03≫  『手記』をモンテーニュやパスカルの随想録のように読むことは可能である。随所に「自分に害なき悪は自分に益なき善にひとしい」とか「想像力は諸感覚の手綱である」といった章句がちりばめられているからだ。

≪04≫   なかには、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」「点とは精神も分割しえないものである」といったヴィトゲンシュタイン顔負けの章句もあるし、「われわれをめぐるもろもろの物象のなかでも、無の存在は趣意を占める」といったハイデガー顔負けの章句も少なくない。

≪05≫  しかし、この『手記』に学ぶことはやはりその芸術論や視覚論である。芸術論といっても抽象的なものではなく、一種の名人の言葉や達人の言葉に近い。たとえば、レオナルドは彫刻と絵画を区別するにあたって、どうしたか。彫刻は上からの光に左右されるが、絵画はいたるところに光と影を携えられると見た。

≪06≫  「鋳物は型次第」というメモがある。なんでもないようだが、職人の達成を感じさせるメモである。とくにぼくが好きなのは「喉仏は必ずよっている足の踵の中心線上に存在しなければならぬ」といった“極意”のメモである。

≪07≫  絵画論のなかの白眉は、空気遠近法についてのレオナルドの見方がのべられている箇所だろうか。

≪08≫  ぼくにこの部分を読むように勧めてくれたのは、画家の中村宏であった。そして、ヴィルヘルム・ライヒの理論との相似性について語ってくれた。

≪09≫  レオナルドは空気遠近法の実際を指導して、遠くのものを青色で描くようにしなさいと言っているのだが、その青色を探求したのがライヒだというのである。ぼくはライヒについてはすぐに読まなかったようにおもうが、やがてライヒに出会って驚いた。なんとライヒは「青色物質」を天空に採取しようとして、オルゴン・ボックスなるものを“発明”していたのだった。

≪010≫  レオナルドの影響は、このようなライヒに見られる特異なものから、ヴァレリーや花田清輝の思索をへて、渦巻の科学やヘリコプターの開発におよぶまで、まことに巨大な光陰を発している。その万能の天才ぶりにあらためて言及するのがみっともないほどである。

≪011≫  しかし、一度はレオナルドの『手記』は手にとってみたほうがいい。おそらく、諸君に名状しがたい自信をもたらすだろうからである。

『ぼくの哲学 1團1列

≪01≫  ウォーホルはそこにウォーホルが関与しているというだけで、完璧なアンディ・ウォーホルなのだから、よっぽどケアする気にならないとウォーホルをおもしろくさせられない。今夜、たまにはそれもいいだろうというつもりになった。 

≪02≫  最初に言っておくが、ぼくはウォーホルのアートの並べられ方が好きじゃない。六〇年代終わりから七〇年代前半にかけてのことだが、そのころはまだ名前が出たばかりの原宿や青山のデザイナーやアーティストの真っ白い部屋へ行くと、五人に一人がウォーホルのシルクスクリーンを床から無造作に、つまりこれみよがしに壁の隅のほうに立て掛けていて(他にはドナルド・ジャッドかフランク・ステラ)、まったくバカバカしかった。きっとウォーホルの「あっけら缶」のなかで自分がしている理由のつかないクリエイティヴィティに免罪符がほしかったのだろうと思ったものだった。 

≪03≫  ぼくはウォーホルとはほぼ正反対のところにいる。たとえばウォーホルは体に触られるのが大嫌いで体を洗ってばかりいるが、ぼくは触られるのが大好きで、洗うのは面倒くさい。ウォーホルは昨日のことも忘れるほど毎日が新しく見えるのだが、ぼくは次にくるトレンドに興味がないので過去が新しい。ウォーホルは香水が大好きで、三ヵ月ごとに銘柄を切り替えていたけれど、ぼくは香水もタイピンもカフスボタンもつけたことがない。ウォーホルはチョコレートをいくらでも食べるけれど、ぼくは一齧りか三齧り。ようするにウォーホルは化学的だが、ぼくは物理的なのだ。 

≪04≫  それなのに今夜めずらしくウォーホルをケアする気になったのは、あの被害妄想的世間感覚が後期資本主義独特のポップカルチャーとコンテンポラリーアートを垂れ流すにふさわしいほどフラットで明快で、そんなことはウォーホルだからこそできたということに、一度は注意のカーソルを向けておきたかったのと、そんなウォーホルとぼくの何かが完全に一致するところもあるからだ。 

『ぼくの哲学 1團2列

《6》 コパカバナ・ナイトクラブでのパーティの様子

《7》 ウォーホルは八歳で皮膚から色素を失った。綽名は「スポット」、つまりシミ夫くんだ。以来、ウォーホルはミスキャストを大事にするしかなくなった。ようするに「場違いのところにいるまともな人間」か「まともな場所にいる場違いな人間」かになることがウォーホルになった。

《8》 ウォーホルは十歳までに三度、一年ごとに神経衰弱に陥っていた。夏休みになると舞踏病にかかった。父親は炭坑に行っていたので、あまり顔を見なかった。そういうことがあったからかどうか、ウォーホルには十八歳まで親友がいなかった。それでやっとひとつのことに気がついた。誰も自分に悩み事を相談してくれない。どうしたらそういう連中にこっちを見させられるか。驚かせるしかなかった。毎日ポートフォリオをもって歩きまわった。けれどもグリーティングカード、水彩画、みんなダメ。喫茶店で詩の朗読もした。これもダメ。

《9》 結局わかったことは、みんなパーティが好きだということだ。だから黙ってパーティの準備をして、人に来てもらうようにした。何もできないから黙っていると、少しずつウォーホルが変人であることに人気が出た。「もう孤独でいいやと思ったとたん、取り巻きができたのだ」。パーティの会場をいちいち変えるのは大変だから、ちょっとしたスタジオをもって、そこによく来る奴は寝泊まりもさせた。ウォーホルは確信した、「ほしがらなくなったとたんに手に入る。これは絶対に正しいことだろう」。

《10》

『ぼくの哲学 1團3列

《11》 ウォーホルにとっては「買う」は「考える」よりずっとアメリカ的なのである。アメリカは人でも金でも会社でも国でも買ってしまう国だから、ウォーホルはアメリカでなければ生きられない。

《12》 そのかわり、ウォーホルには人というものはすぐに狂気に走りたがることが手にとるように観察できた。ともかくウォーホルは有名なものを複写して複製して、仕事場を会場にしてポップアート宣言するだけなのだから、あとは集まってきた連中がおかしくなるのを待つだけなのである。

《13》 二三歳で髪を真っ白(銀髪のカツラの常用へ)にしておいたのもうまくはたらいた。そのころのヴェルヴェット・アンダーグラウンドに《オールトゥモローズ・パーティズ》という歌があったけれど、たいていはパーティに来ているうちにおかしくなっていった。映画スターやポップスターはみんな成り上がりだが、パーティに顔を出しているうちに成り下がるのが目に見えていた。だから六〇年代はみんながみんなに興味をもって、パーティがつまらなくなった七〇年代はみんながみんなを捨てはじめた。

《14》 ウォーホルがメディア・パーティの主人公だと勘違いされた六〇年代は、目立った男や目立った女と親しくなるためにはシャツも言葉も好きな写真も独特でなくてはならず、それで傷つくのを恐れてはいけなかったのだ。いやいや、必ず傷つくために親しくなっていけばよかった。そして親しくなったら、必ず傷ついた。親しくなるというのはウォーホルにとっては、そういうことだった。

《15》 こうしてウォーホルは十年に一度しか休暇がとれなくてもどこへも行きたくないという奇人変人になりおおせた。だからたぶんウォーホルは招かれないかぎりは、いつも自分の部屋にいた。テレビを二台つけて、リッツ・クラッカーをあけて、ラッセル・ストヴァーのチョコレートを食べて、新聞と雑誌を走り読む。

《16》

『ぼくの哲学 2團1列

≪017≫  ウォーホルは「ひなひな」である。ママ坊である。再生元素が足りないヒップな人間化学物質である。しかしそのぶん、ウォーホルには常套句があった。それがウォーホルの世相哲学だった。「だからどうなの?」と言ってみることだ。これはサブカルズのとっておきの反撃なのである。言わないときは心で呟いてみた。  

≪018≫  母親に愛されていなくてねえ。だからどうなの? 旦那がちっともセックスしないのよ。だからどうなの? 仕事ばかりが忙しくてさ。だからどうなの? いまの会社で大事にされているんだけど、なんかやることがあるような気がしてきてね。だからどうなの? これってアートにならないらしい。だからどうなの? 

《19》 いずれにせよ、人はいつも同じことを繰り返してばかりいるのだ。ウォーホルからすると、それで失敗するのは当たり前で、成功することなど忘れれば、すぐに成功するのにと思えた。そのうち、ウォーホルはまた気がついた。「新しいものとはわからないものなんだ」ということだ。それが何かさえわからないもの、それだけが新しいものなのだ。ということは、「これ、わからないね」と言われれば自信をもてばいいはずだ。ただし、一〇〇パーセントわからないものにしなくてはいけない。できるだけ全部わからないのが、いい。「ここがわからない」と言われるようではダメなのだ。ウォーホルは確信した。「とくにアートは作れば新しくなくなっていく」。このことはバスキア(ジャン゠ミシェル・バスキア)をあんなにも巧みに売り出し、トップ・アーティストにしてみせたことに、よく象徴されている。

≪020≫  以上の話は、ウォーホルがとびきり猜疑心が強くて、ひどく嫉妬心が強いことをあらわしているとともに、そのことを何かでまぶすにはパーティとポップアートが必要だったことだけを告げている。 

『ぼくの哲学 2團2列

≪022≫  こういうウォーホルとぼくが一致していることなんてなさそうなのだが、それがそうでもないのだ。たとえば次のようなことである。 

≪024≫  ①八歳までの子供はみんな美しい。だから傷つけたくはない。それはたいていの動物にもあてはまる。暴力が美しく見えたこともない。暴力は時間をかけるし、美しいものは瞬間も美しい。 

≪025≫  ②世界中のホテルで一番いいのはロビーだけ。世界で一番いい建物は仮設のものだけである。 

≪026≫  ③ニュースを作っている者たちは、ニュースはいったい誰のものかということがわかっていない。ほんとうは、名前をもった者がニュースに出たら、ニュースのほうがその名前にお金を払うべきなのだ。 

≪027≫  ③ニュースを作っている者たちは、ニュースはいったい誰のものかということがわかっていない。ほんとうは、名前をもった者がニュースに出たら、ニュースのほうがその名前にお金を払うべきなのだ。  

≪028≫  ⑤あまりにも何かを売る店ばかりになっている。そろそろ「何かを買う店」があっていい。買う専門店だ。 

≪029≫  ⑥実はレシートがお金の本質なのである。 

≪030≫  ⑦たいていの哲学はその内容よりも、それを作った人間がそれに添えないからダメなのだ。 

≪031≫  ⑧一番エキサイティングでセクシーなことは「無」というものだ。  

≪032≫  ⑨いつだって「無」は時代を超える。 

≪033≫  ⑩これからはランクが決まる者と犯罪者だけがスターになるだろう。 

《34》 

『ぼくの哲学 2團3列

≪035≫  たいへん結構だが、これらはすべてぼくとウォーホルの偶然の一致だろう。だから誇るべきこともないし、互恵的になることもない。⑤なんて、これからやっと流行するだろう。ただしひとつだけ、ウォーホルが羨ましいと思うことがあった。仲のいいダイアナ・ヴリーランドが世界でも指折りのクールできれいな女の人だったということだ。ヴリーランドは第八八夜で書いたように、長きにわたった「ヴォーグ」編集長のことである。ウォーホルは彼女のことを「仕事を恐れていないし、したいことをしているのに、とても清潔だから美しさばかりが引き立っていた」と言っていた。 

≪036≫  ウォーホルは五八歳で死んだ。早死にだ。かつてのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーだったルー・リードとジョン・ケイルは連名で《Songs for Drella》という追悼アルバムをつくった。“Drella”はドラキュラとシンデレラを一種合成した造語だ。ウォーホルをみごとに象徴していた。 

《37》 

『ぼくの哲学 3團1列

《38》 1973年頃のウォーホル

《39》 附記¶いまさらアンディ・ウォーホルの説明もないだろうが、ウォーホルがポップアートの発明者でも王様でもないことは強調しとおいてもいいかもしれない。ウォーホルはアプロプリエーション・アートとメディア・アートの王様なのだ。つまり流用の王様なのだ。けれどもその後にこの傾向は批判され、ヨゼフ・ボイス、クリス・バーデン、レス・レヴィン、アントニオ・ムンタダスたちはマスメディアそのものとの対決を辞さなくなっていった。1928年、ピッツバーグに生まれて、カーネギー工科大学に学んで、しばらくは商業デザイナーとして活動したのちに、各界各種のメディアに載る商品と主人公をシルクスクリーンに反復印刷して一世を風靡した。アンディ・ウォーホラが本名。1987年2月22日、58歳で死んだ。死因は胆嚢の手術のために入院した先での夜勤看護婦の不注意だったといわれる。では、ウォーホルの言葉のなかで最も気にいった言葉を、どうぞ。「アーティストはHEROではなくてZEROなんだ」。

金融資本主義や市場原理主義の波及と異様なグローバリゼーションは、シカゴ学派やヘッジファンドのせいによってのみ暴走を加速したのではなかった。

そこには、戦後のブレトンウッズ体制の申し子として世界銀行とともに登場したIMF(国際通貨基金)の旗振りがあった。

世界中に「資本の自由化」と「小さな政府」と「民営化」と「規制緩和」を押し付けたのはほかならぬIMFだった。

それなのにこのモンスターの正体は、意外に知られていないままにある。 


《1》 金融資本主義や市場原理主義の波及と

《2》 異様なグローバリゼーションは、

《3》 シカゴ学派やヘッジファンドのせいによってのみ

《4》 暴走を加速したのではなかった。

《5》 そこには、戦後のブレトンウッズ体制の申し子として

《6》 世界銀行とともに登場した

《7》 IMF(国際通貨基金)の旗振りがあった。

《8》 世界中に「資本の自由化」と「小さな政府」と

《9》 「民営化」と「規制緩和」を押し付けたのは

《10》 ほかならぬIMFだった。

《11》 それなのにこのモンスターの正体は、意外に知られていないままにある。

≪02≫  スティグリッツは1997年2月に世界銀行の上級副総裁に就任し、2カ月後にエチオピアに行って、かつてはゲリラ戦を指揮していた首相メレス・ゼナウィがIMFと闘っているのを見て、この世界機関が何か恐ろしい正体をもっていることを直観したという。 

≪03≫  他の国ではあてはまるかもしれないが、エチオピアではゼッタイに行使してはならないプログラムを押し付けているのだ。スティグリッツには、「説明責任」と「結果による判定」だけをふりまわして、ひたすら教条的な自由主義経済の政策を相手国の事情におかまいなしに耕運しようとしている巨大トラクターが、いままさにエチオピアを蹂躙しつつあるように見えたのだ。

≪04≫  いったい、こういうことをやってのけるIMFとは何か。 

『IMF』 1團2列

《12》 情報の経済学者として知られるジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店 2002)が告発しているのは、IMF(国際通貨基金)と世界銀行(IBRD・IDA)と世界貿易機関(WTO)だった。とくにIMFである。

《13》

『IMF』 1團3列

《14》 スティグリッツは1997年2月に世界銀行の上級副総裁に就任し、2カ月後にエチオピアに行って、かつてはゲリラ戦を指揮していた首相メレス・ゼナウィがIMFと闘っているのを見て、この世界機関が何か恐ろしい正体をもっていることを直観したという。

《15》 他の国ではあてはまるかもしれないが、エチオピアではゼッタイに行使してはならないプログラムを押し付けているのだ。スティグリッツには、「説明責任」と「結果による判定」だけをふりまわして、ひたすら教条的な自由主義経済の政策を相手国の事情におかまいなしに耕運しようとしている巨大トラクターが、いままさにエチオピアを蹂躙しつつあるように見えたのだ。

《16》 いったい、こういうことをやってのけるIMFとは何か。


《17》 教科書的にいえば、IMFは第二次世界大戦後の世界経済の安定的発展をはかるため、国際収支の困難に直面している国々に対して資金支援をおこなうために設立された国際機関である。これによってIMFと世界銀行の二枚看板による、いわゆるブレトンウッズ体制が発動した。

《18》 その当初の目的は国際的な通貨の安定をめざすためのものだった。それゆえIMF(International Monetary Fund)は名目上はあくまでも「国際通貨基金」なのである。

《19》 しかし、IMFは世界の資金難を救助する公平な国際機関というより、アメリカのドル基軸体制を支える強力な装置であり、とりわけワシントン・コンセンサス(後述)を掲げて世界に市場原理主義とグローバリズムを広げる“主役”になってきた協力機関であった。

《20》 実際にも時がたつにつれ、IMFはしだいに途上国・新興国に対する金融面での支援出動が頻繁になり、IMFプログラムが実施される国々の政治経済社会を根底から脅かすようになった。IMFが融資を受ける当該国に対して、融資と引き換えのコンディショナリティ(融資条件)として、きわめて多くの困難をともなう政策的な構造改革を要求しつづけた。エチオピアはそのほんの一例にすぎない。

《21》

《22》 IMF・世界銀行概要

《23》 (クリックで拡大)

『IMF』 2團2列

《24》 だいたい支援を受けなければいけないような国々がひどい財政ピンチになっているのは、その政治体制がピンチになり、農業も工業も企業もあやしくなっていたからである。そうに決まっている。

《25》 そんなときにIMFプログラムが財政支出削減のための緊縮政策を融資国に要求すれば、公的支出が大幅に削減され、急激な民営化やリストラをせざるをえなくなる。たちまち政権交代を余儀なくされること、火を見るよりも必至なのである。

《26》 スティグリッツの本を読んで、ぼくはIMFの実態に呆れた。しかし、この本が書かれた2002年からこっち、その後の世界は金融同時危機さえ迎えるようになったのだ。グローバリゼーションの影の主役はIMFばかりではないことも知れわたったのである。

《27》 では、その後のIMFはどうなったのか。そこであれこれ関連本を読んでみたのだが、ジョージ・ソロス(1332夜)のものを除いては、どうもぴったりとした本がない。IMFや世界銀行のことなんて、どんな現代経済史の本にも現代経済学の教科書にも載っていて、その概要がわかるようになっていると思うかもしれないが、どっこい、実はそうではなかった。

《28》 日本の書物でいえば、90年代に本間雅美の『世界銀行の成立とブレトンウッズ体制』(同文館出版)、大野健一・大野泉の『IMFと世界銀行』(日本評論社)があったくらいで、ほとんどが21世紀になってからやっと“解説”されたという現状なのだ。ぼくが見たかぎりは、毛利良一の『グローバリゼーションとIMF・世界銀行』(大月書店)が早かったと思う。

《29》 そうしたなか、本書はIMFの歴史と将来について、慎重ではあるものの、最もうまく書かれた一冊だったのである。さまざまな問題をコンパクトに割り振りながら、あまさず正確に扱っている。スティグリッツのような激しい告発力はまったくないけれど、そのぶん淡々とIMFの狂った体質が伝わるようになっている。

《30》 本書刊行ののちのIMFについていえば、ごく最近の2008年秋のリーマン・ショック以降の例だけをあげても、アイスランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニアが、IMFプログラムを受けてあっというまに政権が崩壊するか、交代してしまったのだ(アイスランドにいたっては、その後に国そのものが経営破綻した)。ジョージ・ソロス(1332夜)の“悪名”を高めたアジア通貨危機のとき、インドネシアでスハルト政権がもろくも崩壊したのも、まさにIMFプログラムの導入が引金になっていた。

『IMF』 2團3列

《31》 この20年ほどのIMFプログラムの大要は、緊縮政策によって財政支出を削減し、金利を引き上げ、輸入を減少させて、経常収支を改善させるというお決まりのメニューになっている。

《32》 短期で経常収支の均衡を達成させるために、国内景気を冷えさせて輸入受容を抑え、中央銀行(日本なら日銀)によるマネーサプライ(ハイパワードマネー)のコントロールと金利引き上げをさせるというメニューである。これによって貿易・経常収支を均衡化するという方針だ。

《33》 しかしIMFが出動すると、たいていの国では景気悪化にともなって税収が激減するから、財政支出は逆に悪化する。国が危機的な状況に陥っているときに、短期間の政策転換を求めること自体が、どだいムリなのだ。これについてはスティグリッツも告発しているが、しかしながら性懲りもなく、これを2002年以降もくりかえしてきたのがIMFだった。

《34》 これって何に似ているかといえば、小泉構造改革が財政緊縮政策をとって、社会保障・医療・教育への支出を削減し、地方自治体向け支出を絞っていったことに似ている。いや、そっくりだ。ただし日本は経常収支が黒字の国で、対外借入をしていない。だからIMFプログラム受け入れ国のような最悪の事態はおこらなかった。それどころか、当時の小泉改革をIMFの幹部たちは称賛さえしていた。しかし、そのことこそが問題だったのだ。

《35》 もっともごく最近になって、国際的な金融取引に対する監督規制の必要が叫ばれるとともに、こうしたIMFの金科玉条プログラムが問い直されるようになったらしい。しかし問い直されるようにはなっても、改善には着手していない。IMFは新古典派が大好きなマクロ経済しか相手にしていない機関なのである。そこには実は本来のグローバリゼーションに対する見解も、むろん各国のミクロ経済に対する哲学も、からっきしなかったのだ。


《36》 1332夜にもあらかたのことを書いておいたけれど、1944年7月、IMFは世界銀行とともに生まれた。

《37》 ニューハンプシャー州ブレトンウッズで連合国45カ国が通貨金融会議を開き、二つの大戦の間にブロック経済が膠着状態に達したため、世界の貿易と経済が縮小したことを転換するために設立された機関だった。理念的な方針は「保護・差別・双務主義」から「自由・無差別・多角主義」への転換である。

《38》 しかし設立当初から、方針と具体案をめぐっての大きな対立があった。イギリスが提出したジョン・ケインズ案とアメリカが提出したハリー・ホワイト案の対立がおこっていた。

《39》 ケインズ案は「国際清算同盟案」にもとづいて、貨幣創出機能と信用創造機能によって国際的な財政収支の不均衡を是正しようとするもので、国際決済通貨「バンコール」を発行するという独創的なプランになっていた。黒字国に黒字をためこませず、赤字国にも制限を設けて、黒字国から1パーセントずつを徴収して、その基金でバンコールを発行すれば、それがいずれ世界の基軸通貨になるだろうというシナリオである。

《40》 これに対してホワイト案はその後のIMFそのものに近く、「短期的な外貨流動資金の提供」に目的を限定した基金主義を提案していた。今日から見ればケインズ案が断然すぐれていたが、しかしアメリカはケインズ案では赤字国に一方的な支出を迫られること、ドルを基軸通貨としたいこと、戦後社会でヘゲモニーを握りたいことなどなどの理由で、ケインズ案を退け、ホワイト案を採択するように工作した。

『IMF』 3團2列

《41》 こうしてIMFは「金1オンス=35米ドル」という固定相場制をもってスタートし、世界に金ドル本位制を定着させた。

《42》 60年代までは融資国もほとんど先進国ばかり、コンディショナリティ(融資条件)もスタンドバイ取極(SBA)がある程度で、融資期間中の引き出しにも審査がなかった。

《43》 それが60年代後半に長引いたベトナム戦争どろ沼化の影響で、アメリカの軍事費拡大による財政収支が悪化し、ドルの信認低下が著しくなってきて、たまりかねたニクソンが1971年に「ドルと金の交換を停止」を発表(ニクソン・ショック)、翌年から各国が変動相場制に移行するようになると、IMFは急激にアメリカに好都合なコンディショナリティの強化に向かうようになった。そこに、石油価格の変動に対処するという名の緊急融資の導入という手も加わった(オイル・ショック)。

《44》


『IMF』 3團3列

《45》 IMFは80年代に入ると、中長期の構造改革を迫る融資期間に変貌していった。これこそはスティグリッツが告発するIMFプログラム「構造調整政策」の押し付けになっていく。ラテンアメリカ諸国がその実験的な対象になったことは、すでによく知られている。

《46》 IMFプログラムが本格的にその金融資本主義の片棒をかつぐような正体をあからさまに見せはじめたのは、ワシントン・コンセンサスの前後からのことである(この名称は、IMF、世界銀行、アメリカ財務省がいずれもワシントンに所在するところから付いたニックネーム)。

《47》 もともとは1985年10月にアメリカのジェイムズ・ベーカー財務長官が発表した「ベーカー・イニシアティブ」が発端で、ここにはラテンアメリカの経済救済を名目に、こうした諸国を支援するには公的資金や国際機関からの援助だけでは不足があるので、民間に応分の負担を求めるという“要請”が含まれていた。これはいまでは、日本やヨーロッパの銀行に資金を分担させる狙いだったことがわかっている。

《48》 ここに1989年、シンクタンク国際経済研究所(IIE)のジョン・ウィリアムソンによる「自由主義経済拡大の方針」が加わった。まとめれば、次の10項目で、これをIMFが踏襲することになった。

《49》 ①財政赤字の是正、②財政支出の変更、③税制改革、④金利の自由化、⑤競争力のある為替レート、⑥貿易の自由化、⑦直接投資の受け入れ促進、⑧国営企業の民営化、⑨規制緩和、⑩所有権法の確立。

《50》 これでバレバレなように、ワシントン・コンセンサスには「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」がズラリと並んでいる。まさに小泉・竹中の構造改革のお題目だった。あのときの日本はいまさらIMFメニューの真似などしてはいけなかったのである。

《51》 ワシントン・コンセンサス以降のIMFが、メキシコのテキーラ危機で最初におこした資本収支危機、ブラジル危機の際に導入したレアルプラン、アルゼンチン危機のときのカレンシーボード制の導入などが、ことごとくうまくいかなかった例については、ここでは省く。

《52》 また、1997年から翌年にかけて襲ったアジア通貨金融危機において、タイ、インドネシア、韓国に対してIMFが打った手が、またぞろことごとく各国事情をかえって悪化させたことについても、ここでは省く。このあたりのこと、ソロスがIMFと闘っていた時期にもあたるので、1332夜を参照されたい。

《53》 でも韓国の例だけをスケッチしておけば、韓国はアメリカにとっても“重要国”であったにもかかわらず、それゆえ外貨流動性の供給をこそおこなえばよかったのだが、金利の大幅引き上げ、財政緊縮措置、金融機関の整理統合、企業のリストラ、金融規制の撤廃、財閥の信用保証の解消などの“構造改革”を急激に求めたため、かえって韓国の経済危機に拍車をかけたのだった。

《54》 このようになってしまうのは、IMFの分析シートが経常収支を抑制するというフレームワークばかりを重視しているからである。この分析シートはIMFのフィナンシャル・プログラミング(FP)と呼ばれる。これが各国の実体経済を無視した、新自由主義的な、つまりはワシントン・コンセンサス型の押し付けをばらまくことにもなったのだった。 

『IMF』 4團2列

《55》 いま、さすがにIMFプログラムは見直しを迫られている。2008年秋のリーマン・ショック以降の世界金融危機後の世界を前に、現状のIMFプログラムのままではこの危機を対処しきれないからである。とくに途上国や新興国を潰してしまう。

《56》 第1に、資本取引や金融自由化を早期に実施するのは、経済変動リスクを高めるばかりで、その国にふさわしい安定的な経済成長にはならない。第2に、株式や債権などの証券投資を促して、かえって短期流出を誘ってしまう。第3に、途上国や新興国では国内貯蓄率がしっかりすべきなのに、その風潮をぶちこわしてしまう。

《57》 しかしながらIMFは、いまだに自身の改革に向かっていない。IMFのスタッフにあいかわらず新古典派的な「自由化」を信奉するエコノミストが集中しているらしいこと、いまなおアメリカ金融界の利害が組みこまれていることなど、根深い体質に問題があるようなのだ。スティグリッツがさんざん文句をつけた体質だ。まあ、治らないのかもれない。

《58》 このため、最近ではIMFにはもう頼らずに、「通貨スワップ」で経済危機を国際的にのりこえる方式が検討され、この方式が一部では各国間に導入されるようになってきた。2007年12月にはFRB(アメリカ連邦準備制度)とECB(ヨーロッパ中央銀行)とスイス中央銀行が通貨スワップを決め、2008年10月にはブラジル・メキシコ・韓国・シンガポールとFRBがスワップ協定し、その2カ月後には日本も中国・韓国との3カ国スワップ協定の拡充を決めた。中国は韓国・香港・インドネシア・マレーシア・ベラルーシと通貨スワップを締結した。

《59》 IMFがいまだにコンディショナリティに「貿易自由化、民営化、公共部門の賃金抑制」などを謳っているのは、かなり実情とそぐわなくなっているはずなのに……。

『IMF』 4團3列

《60》 【参考情報】

《61》 (1)著者の大田英明は2005年からは愛媛大学の総合政策学科の教授を務めているが、1984年には国連工業開発期間(UNIDO)の本部で途上国・新興国の支援プログラムに従事し、その後は野村総合研究所(NRI)でアジア調査部や経済調査部に属して、各国の経済調査に従事した。とくに資本の急激な流出にともなう通貨下落の調査研究、いわゆる「資本収支危機」の調査研究が、著者の目を鍛えたようだ。

《62》 IMFの今後についても、大田は独自の改革案を用意している。詳しいことは知らないが、ケインズ案がもっていた信用創造機能をもつ「世界中央銀行」のようなものをつくって、融資機能をIMFから切り離すというアイディアのようだ。以下の図が概念図になっている。

《63》 関連諸機関の機能・リストラ案

《64》 出所:大田英明作成

《65》 (2)IMFにはSDR(特別引き出し権)という制度がある。SDRは利付きである。これをどのように使うかは、実は新しい国際援助資金の活用になんらかの展望を与える可能性がある。ジョージ・ソロスがSDRを国際協力のために「贈与」すべきだと言いだしたのは、そのひとつだった。1332夜を参照されたい。

《66》

《67》 (3)ジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)の原題は“”Globalization and Its Discontents”。2001年にノーベル経済学賞を受けた直後の著作だった。

《68》 スティグリッツは1943年の生まれで、アマースト大学、MIT、ケンブリッジ大学をへて、エール大、オックスフォード、プリンストン、スタンフォードなどで教鞭をとったのち、いまはコロンビア大学教授。早くから「50年に一人の逸材」と言われ、「情報の非対称性」に注目して数学モデルに頼らない経済学を研究しつづけた。1993年にはクリントン政権の経済諮問委員会(CEA)の委員長もしている。

《69》 邦訳には『新しい金融論:信用と情報の経済学』(東京大学出版会)、『人間が幸福になる経済とは何か』『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』(徳間書店)、『スティグリッツ教授の経済教室』(ダイヤモンド社)などがある。

《70》

《71》 (4)世界銀行は正式には「国際復興解発銀行」(IBRD)という。ブレトンウッズ体制とともに設立され、当初は第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパや日本の「復興」に重点がおかれた。ただし復興援助にはマーシャル・プランなどの発動もあったため、約10年でその任務を終了し、60年代からは途上国の開発支援が主要目的になった。それとともに低所得国向けの低利融資と無償融資を業務とする国際開発協会(IDA)を設立し、その後は世界銀行はIBRDとIDAの両方を総称する。

《72》 ところでIMFがワシントン19番街の本部中心の組織であるのに対して、世界銀行は世界各地に事務所をもっていて、その職員数も1万人を超える。各国のミクロ情報を調査研究するためである。それにもかかわらず、80年代まで世銀はIMFと似たようなプログラムで運営されてきた。これを新たに転換したのが、1995年に総裁に就任したウォルフェンソンと、その2年後に副総裁になったスティグリッツだったのである。けれども、この二人をもってしてもワシントン・コンセンサスにもとづくグローバリゼーションの波には抗しきれなかったようだ。

金融資本主義や市場原理主義の波及と異様なグローバリゼーションは、シカゴ学派やヘッジファンドのせいによってのみ暴走を加速したのではなかった。

そこには、戦後のブレトンウッズ体制の申し子として世界銀行とともに登場したIMF(国際通貨基金)の旗振りがあった。

世界中に「資本の自由化」と「小さな政府」と「民営化」と「規制緩和」を押し付けたのはほかならぬIMFだった。

それなのにこのモンスターの正体は、意外に知られていないままにある。 

≪01≫  情報の経済学者として知られるジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店 2002)が告発しているのは、IMF(国際通貨基金)と世界銀行(IBRD・IDA)と世界貿易機関(WTO)だった。とくにIMFである。 

≪02≫  スティグリッツは1997年2月に世界銀行の上級副総裁に就任し、2カ月後にエチオピアに行って、かつてはゲリラ戦を指揮していた首相メレス・ゼナウィがIMFと闘っているのを見て、この世界機関が何か恐ろしい正体をもっていることを直観したという。 

≪03≫  他の国ではあてはまるかもしれないが、エチオピアではゼッタイに行使してはならないプログラムを押し付けているのだ。スティグリッツには、「説明責任」と「結果による判定」だけをふりまわして、ひたすら教条的な自由主義経済の政策を相手国の事情におかまいなしに耕運しようとしている巨大トラクターが、いままさにエチオピアを蹂躙しつつあるように見えたのだ。

≪04≫  いったい、こういうことをやってのけるIMFとは何か。 

≪05≫  教科書的にいえば、IMFは第二次世界大戦後の世界経済の安定的発展をはかるため、国際収支の困難に直面している国々に対して資金支援をおこなうために設立された国際機関である。これによってIMFと世界銀行の二枚看板による、いわゆるブレトンウッズ体制が発動した。 

≪06≫  その当初の目的は国際的な通貨の安定をめざすためのものだった。それゆえIMF(International Monetary Fund)は名目上はあくまでも「国際通貨基金」なのである。 

≪07≫  しかし、IMFは世界の資金難を救助する公平な国際機関というより、アメリカのドル基軸体制を支える強力な装置であり、とりわけワシントン・コンセンサス(後述)を掲げて世界に市場原理主義とグローバリズムを広げる“主役”になってきた協力機関であった。  

≪08≫  実際にも時がたつにつれ、IMFはしだいに途上国・新興国に対する金融面での支援出動が頻繁になり、IMFプログラムが実施される国々の政治経済社会を根底から脅かすようになった。IMFが融資を受ける当該国に対して、融資と引き換えのコンディショナリティ(融資条件)として、きわめて多くの困難をともなう政策的な構造改革を要求しつづけた。エチオピアはそのほんの一例にすぎない。 

≪09≫  だいたい支援を受けなければいけないような国々がひどい財政ピンチになっているのは、その政治体制がピンチになり、農業も工業も企業もあやしくなっていたからである。そうに決まっている。 

≪010≫  そんなときにIMFプログラムが財政支出削減のための緊縮政策を融資国に要求すれば、公的支出が大幅に削減され、急激な民営化やリストラをせざるをえなくなる。たちまち政権交代を余儀なくされること、火を見るよりも必至なのである。 

≪011≫  スティグリッツの本を読んで、ぼくはIMFの実態に呆れた。しかし、この本が書かれた2002年からこっち、その後の世界は金融同時危機さえ迎えるようになったのだ。グローバリゼーションの影の主役はIMFばかりではないことも知れわたったのである。 

≪012≫  では、その後のIMFはどうなったのか。そこであれこれ関連本を読んでみたのだが、ジョージ・ソロス(1332夜)のものを除いては、どうもぴったりとした本がない。IMFや世界銀行のことなんて、どんな現代経済史の本にも現代経済学の教科書にも載っていて、その概要がわかるようになっていると思うかもしれないが、どっこい、実はそうではなかった。 

≪013≫  日本の書物でいえば、90年代に本間雅美の『世界銀行の成立とブレトンウッズ体制』(同文館出版)、大野健一・大野泉の『IMFと世界銀行』(日本評論社)があったくらいで、ほとんどが21世紀になってからやっと“解説”されたという現状なのだ。ぼくが見たかぎりは、毛利良一の『グローバリゼーションとIMF・世界銀行』(大月書店)が早かったと思う。 

≪014≫  そうしたなか、本書はIMFの歴史と将来について、慎重ではあるものの、最もうまく書かれた一冊だったのである。さまざまな問題をコンパクトに割り振りながら、あまさず正確に扱っている。スティグリッツのような激しい告発力はまったくないけれど、そのぶん淡々とIMFの狂った体質が伝わるようになっている。 

≪015≫  本書刊行ののちのIMFについていえば、ごく最近の2008年秋のリーマン・ショック以降の例だけをあげても、アイスランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニアが、IMFプログラムを受けてあっというまに政権が崩壊するか、交代してしまったのだ(アイスランドにいたっては、その後に国そのものが経営破綻した)。ジョージ・ソロス(1332夜)の“悪名”を高めたアジア通貨危機のとき、インドネシアでスハルト政権がもろくも崩壊したのも、まさにIMFプログラムの導入が引金になっていた。 

≪016≫  この20年ほどのIMFプログラムの大要は、緊縮政策によって財政支出を削減し、金利を引き上げ、輸入を減少させて、経常収支を改善させるというお決まりのメニューになっている。 

≪017≫  短期で経常収支の均衡を達成させるために、国内景気を冷えさせて輸入受容を抑え、中央銀行(日本なら日銀)によるマネーサプライ(ハイパワードマネー)のコントロールと金利引き上げをさせるというメニューである。これによって貿易・経常収支を均衡化するという方針だ。 

≪018≫  しかしIMFが出動すると、たいていの国では景気悪化にともなって税収が激減するから、財政支出は逆に悪化する。国が危機的な状況に陥っているときに、短期間の政策転換を求めること自体が、どだいムリなのだ。これについてはスティグリッツも告発しているが、しかしながら性懲りもなく、これを2002年以降もくりかえしてきたのがIMFだった。  

≪019≫  これって何に似ているかといえば、小泉構造改革が財政緊縮政策をとって、社会保障・医療・教育への支出を削減し、地方自治体向け支出を絞っていったことに似ている。いや、そっくりだ。ただし日本は経常収支が黒字の国で、対外借入をしていない。だからIMFプログラム受け入れ国のような最悪の事態はおこらなかった。それどころか、当時の小泉改革をIMFの幹部たちは称賛さえしていた。しかし、そのことこそが問題だったのだ。 

≪020≫  もっともごく最近になって、国際的な金融取引に対する監督規制の必要が叫ばれるとともに、こうしたIMFの金科玉条プログラムが問い直されるようになったらしい。しかし問い直されるようにはなっても、改善には着手していない。IMFは新古典派が大好きなマクロ経済しか相手にしていない機関なのである。そこには実は本来のグローバリゼーションに対する見解も、むろん各国のミクロ経済に対する哲学も、からっきしなかったのだ。 

≪021≫  1332夜にもあらかたのことを書いておいたけれど、1944年7月、IMFは世界銀行とともに生まれた。  

≪022≫  ニューハンプシャー州ブレトンウッズで連合国45カ国が通貨金融会議を開き、二つの大戦の間にブロック経済が膠着状態に達したため、世界の貿易と経済が縮小したことを転換するために設立された機関だった。理念的な方針は「保護・差別・双務主義」から「自由・無差別・多角主義」への転換である。 

≪023≫  しかし設立当初から、方針と具体案をめぐっての大きな対立があった。イギリスが提出したジョン・ケインズ案とアメリカが提出したハリー・ホワイト案の対立がおこっていた。 

≪024≫  ケインズ案は「国際清算同盟案」にもとづいて、貨幣創出機能と信用創造機能によって国際的な財政収支の不均衡を是正しようとするもので、国際決済通貨「バンコール」を発行するという独創的なプランになっていた。黒字国に黒字をためこませず、赤字国にも制限を設けて、黒字国から1パーセントずつを徴収して、その基金でバンコールを発行すれば、それがいずれ世界の基軸通貨になるだろうというシナリオである。 

≪025≫  これに対してホワイト案はその後のIMFそのものに近く、「短期的な外貨流動資金の提供」に目的を限定した基金主義を提案していた。今日から見ればケインズ案が断然すぐれていたが、しかしアメリカはケインズ案では赤字国に一方的な支出を迫られること、ドルを基軸通貨としたいこと、戦後社会でヘゲモニーを握りたいことなどなどの理由で、ケインズ案を退け、ホワイト案を採択するように工作した。  

≪026≫  こうしてIMFは「金1オンス=35米ドル」という固定相場制をもってスタートし、世界に金ドル本位制を定着させた。 

≪027≫  60年代までは融資国もほとんど先進国ばかり、コンディショナリティ(融資条件)もスタンドバイ取極(SBA)がある程度で、融資期間中の引き出しにも審査がなかった。 

≪028≫  それが60年代後半に長引いたベトナム戦争どろ沼化の影響で、アメリカの軍事費拡大による財政収支が悪化し、ドルの信認低下が著しくなってきて、たまりかねたニクソンが1971年に「ドルと金の交換を停止」を発表(ニクソン・ショック)、翌年から各国が変動相場制に移行するようになると、IMFは急激にアメリカに好都合なコンディショナリティの強化に向かうようになった。そこに、石油価格の変動に対処するという名の緊急融資の導入という手も加わった(オイル・ショック)。 

≪029≫  IMFは80年代に入ると、中長期の構造改革を迫る融資期間に変貌していった。これこそはスティグリッツが告発するIMFプログラム「構造調整政策」の押し付けになっていく。ラテンアメリカ諸国がその実験的な対象になったことは、すでによく知られている。 

≪030≫  IMFプログラムが本格的にその金融資本主義の片棒をかつぐような正体をあからさまに見せはじめたのは、ワシントン・コンセンサスの前後からのことである(この名称は、IMF、世界銀行、アメリカ財務省がいずれもワシントンに所在するところから付いたニックネーム)。 

≪031≫  もともとは1985年10月にアメリカのジェイムズ・ベーカー財務長官が発表した「ベーカー・イニシアティブ」が発端で、ここにはラテンアメリカの経済救済を名目に、こうした諸国を支援するには公的資金や国際機関からの援助だけでは不足があるので、民間に応分の負担を求めるという“要請”が含まれていた。これはいまでは、日本やヨーロッパの銀行に資金を分担させる狙いだったことがわかっている。 

≪032≫  ここに1989年、シンクタンク国際経済研究所(IIE)のジョン・ウィリアムソンによる「自由主義経済拡大の方針」が加わった。まとめれば、次の10項目で、これをIMFが踏襲することになった。 

≪033≫  ①財政赤字の是正、②財政支出の変更、③税制改革、④金利の自由化、⑤競争力のある為替レート、⑥貿易の自由化、⑦直接投資の受け入れ促進、⑧国営企業の民営化、⑨規制緩和、⑩所有権法の確立。 

≪034≫  これでバレバレなように、ワシントン・コンセンサスには「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」がズラリと並んでいる。まさに小泉・竹中の構造改革のお題目だった。あのときの日本はいまさらIMFメニューの真似などしてはいけなかったのである。 

≪035≫  ワシントン・コンセンサス以降のIMFが、メキシコのテキーラ危機で最初におこした資本収支危機、ブラジル危機の際に導入したレアルプラン、アルゼンチン危機のときのカレンシーボード制の導入などが、ことごとくうまくいかなかった例については、ここでは省く。 

≪036≫  また、1997年から翌年にかけて襲ったアジア通貨金融危機において、タイ、インドネシア、韓国に対してIMFが打った手が、またぞろことごとく各国事情をかえって悪化させたことについても、ここでは省く。このあたりのこと、ソロスがIMFと闘っていた時期にもあたるので、1332夜を参照されたい。 

≪037≫  でも韓国の例だけをスケッチしておけば、韓国はアメリカにとっても“重要国”であったにもかかわらず、それゆえ外貨流動性の供給をこそおこなえばよかったのだが、金利の大幅引き上げ、財政緊縮措置、金融機関の整理統合、企業のリストラ、金融規制の撤廃、財閥の信用保証の解消などの“構造改革”を急激に求めたため、かえって韓国の経済危機に拍車をかけたのだった。 

≪038≫  このようになってしまうのは、IMFの分析シートが経常収支を抑制するというフレームワークばかりを重視しているからである。この分析シートはIMFのフィナンシャル・プログラミング(FP)と呼ばれる。これが各国の実体経済を無視した、新自由主義的な、つまりはワシントン・コンセンサス型の押し付けをばらまくことにもなったのだった。 

≪039≫  いま、さすがにIMFプログラムは見直しを迫られている。2008年秋のリーマン・ショック以降の世界金融危機後の世界を前に、現状のIMFプログラムのままではこの危機を対処しきれないからである。とくに途上国や新興国を潰してしまう。 

≪040≫  第1に、資本取引や金融自由化を早期に実施するのは、経済変動リスクを高めるばかりで、その国にふさわしい安定的な経済成長にはならない。第2に、株式や債権などの証券投資を促して、かえって短期流出を誘ってしまう。第3に、途上国や新興国では国内貯蓄率がしっかりすべきなのに、その風潮をぶちこわしてしまう。 

≪041≫  しかしながらIMFは、いまだに自身の改革に向かっていない。IMFのスタッフにあいかわらず新古典派的な「自由化」を信奉するエコノミストが集中しているらしいこと、いまなおアメリカ金融界の利害が組みこまれていることなど、根深い体質に問題があるようなのだ。スティグリッツがさんざん文句をつけた体質だ。まあ、治らないのかもれない。 

≪042≫  このため、最近ではIMFにはもう頼らずに、「通貨スワップ」で経済危機を国際的にのりこえる方式が検討され、この方式が一部では各国間に導入されるようになってきた。2007年12月にはFRB(アメリカ連邦準備制度)とECB(ヨーロッパ中央銀行)とスイス中央銀行が通貨スワップを決め、2008年10月にはブラジル・メキシコ・韓国・シンガポールとFRBがスワップ協定し、その2カ月後には日本も中国・韓国との3カ国スワップ協定の拡充を決めた。中国は韓国・香港・インドネシア・マレーシア・ベラルーシと通貨スワップを締結した。 

≪043≫  IMFがいまだにコンディショナリティに「貿易自由化、民営化、公共部門の賃金抑制」などを謳っているのは、かなり実情とそぐわなくなっているはずなのに……。 

≪044≫ 【参考情報】 

≪045≫ (1)著者の大田英明は2005年からは愛媛大学の総合政策学科の教授を務めているが、1984年には国連工業開発期間(UNIDO)の本部で途上国・新興国の支援プログラムに従事し、その後は野村総合研究所(NRI)でアジア調査部や経済調査部に属して、各国の経済調査に従事した。とくに資本の急激な流出にともなう通貨下落の調査研究、いわゆる「資本収支危機」の調査研究が、著者の目を鍛えたようだ。 

≪046≫  IMFの今後についても、大田は独自の改革案を用意している。詳しいことは知らないが、ケインズ案がもっていた信用創造機能をもつ「世界中央銀行」のようなものをつくって、融資機能をIMFから切り離すというアイディアのようだ。以下の図が概念図になっている。  

≪047≫ (2)IMFにはSDR(特別引き出し権)という制度がある。SDRは利付きである。これをどのように使うかは、実は新しい国際援助資金の活用になんらかの展望を与える可能性がある。ジョージ・ソロスがSDRを国際協力のために「贈与」すべきだと言いだしたのは、そのひとつだった。1332夜を参照されたい。 

≪048≫ (3)ジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)の原題は“”Globalization and Its Discontents”。2001年にノーベル経済学賞を受けた直後の著作だった。 

≪049≫  スティグリッツは1943年の生まれで、アマースト大学、MIT、ケンブリッジ大学をへて、エール大、オックスフォード、プリンストン、スタンフォードなどで教鞭をとったのち、いまはコロンビア大学教授。早くから「50年に一人の逸材」と言われ、「情報の非対称性」に注目して数学モデルに頼らない経済学を研究しつづけた。1993年にはクリントン政権の経済諮問委員会(CEA)の委員長もしている。 

≪050≫  邦訳には『新しい金融論:信用と情報の経済学』(東京大学出版会)、『人間が幸福になる経済とは何か』『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』(徳間書店)、『スティグリッツ教授の経済教室』(ダイヤモンド社)などがある。 

≪051≫ (4)世界銀行は正式には「国際復興解発銀行」(IBRD)という。ブレトンウッズ体制とともに設立され、当初は第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパや日本の「復興」に重点がおかれた。ただし復興援助にはマーシャル・プランなどの発動もあったため、約10年でその任務を終了し、60年代からは途上国の開発支援が主要目的になった。それとともに低所得国向けの低利融資と無償融資を業務とする国際開発協会(IDA)を設立し、その後は世界銀行はIBRDとIDAの両方を総称する。 

≪052≫  ところでIMFがワシントン19番街の本部中心の組織であるのに対して、世界銀行は世界各地に事務所をもっていて、その職員数も1万人を超える。各国のミクロ情報を調査研究するためである。それにもかかわらず、80年代まで世銀はIMFと似たようなプログラムで運営されてきた。これを新たに転換したのが、1995年に総裁に就任したウォルフェンソンと、その2年後に副総裁になったスティグリッツだったのである。けれども、この二人をもってしてもワシントン・コンセンサスにもとづくグローバリゼーションの波には抗しきれなかったようだ。 

カネ、懐ろぐあい、食いぶち、現金、水上げ、おあし、手持ち、元手、資金、日銭。マネーとは何か。なぜマネーは自分自身を増やすのか。

なぜ銀行や債券や保険がマネーの代行をするのか。

世界資本主義とかグローバリゼーションといったって、結局はマネーと金融のドラマなのか。

しょせんはリーマンショックの繰り返しだけなのか。

新鋭ヒストリアンのファーガソンが得意の「反事実歴史学」の手法をひっさげて、満を持してマネーの謎解きを問うた。

しばらく貨幣をめぐる話を、千夜千冊してみたい。 

≪01≫  ニーアール・ファーガソンはまだ46歳そこそこの歴史学者である。なかなか切れ味がいい。旧来の見方にとらわれてもいない。ふつう歴史学は「もし、何々がこうだったら歴史はこういうふうに変わっただろう」などということ、ようするに「クレオパトラの鼻が低かったら歴史は変わっていただろう」などという“if-then”公式はゼッタイニ用いないし、メッタニ書かないのだが、ファーガソンはその手法をあえて取り入れた。 

≪02≫  タブーを破ったのだ。これは「反事実歴史学」(counter factual history)と名付けられた手法で、あやしげな歴史もの以外には本格的な著述ではまずお目にかかれない。ファーガソンはその手法をテストして、驚くべき快著『憎悪の世紀』(早川書房)を本書に先行して書いた。歴史学界が唖然とした大冊だった。 

≪03≫  『憎悪の世紀』は20世紀の戦争の歴史についての詳細な告発ともいうべき一書で、文明の先端に宿命的に亀裂する憎悪の正体を暴こうとした。かなり説得力がある。どこかで千夜千冊しようと思っているうちに書きそびれたが、ナチス帝国と大日本帝国とアメリカ帝国の殺戮の進撃がなぜおこったのかを、カウンターファクチュアルな視点をところどころに挟んで、大胆かつ克明に掴まえていた。文明と戦争の悪しき関係に目を向けたい賢明な諸君はぜひ手に取ってもらいたい。 

≪04≫  そのファーガソンが『マネーの進化史』を書いた。進化史とはタイトリングされているものの、中身は必ずしもマネーの歴史を順に追ったものではない。古代・中世・近世もあまり扱っていない。近代、とりわけ現代のマネーの変貌を扱った。 

≪05≫  原題は“The Ascent of Money”だから、歴史というより進化そのもので、正確には「マネーの急進化」といったところ。これはジェイコブ・ブロノフスキーの有名なBBCドキュメンタリー番組「アセント・オブ・マン」(人間の進歩)をもじったもので、人類の進化にどうしてマネーの進化や変貌が必要だったのか、それでよかったのかを問うた本なのである。マネーの暴走は止められたはずだというファーガソン流の歴史観にもなっている。 

≪06≫  ユーチューブの“Conversations with History”にも、ほぼ1時間ほどにわたるファーガソンの動画インタヴューがあった。そこではファーガソンが全米の名だたる経営者たちを相手に本書のテーマの一部を何度話しても、かれらの反応が悪かったということが語られていて、結局、アメリカ企業はまだまだ自分たちの10年か20年だかの動向にしか関心をもっていないのだということを慨嘆していた。かれらはマネーそのものにしか興味がなくて、そのためマネー社会の本質をほとんど理解していないのではないかというのだ。 

≪07≫  ファーガソンが本書を書いたのは、サブプライム住宅ローンの歪みが世界金融危機をもたらした現象にいちゃもんをつけたかったからである。しかし、ファーガソンが調べてみてすぐに愕然としたのは、アメリカでは国民の7割から8割は、マネーや金融のことつについてほとんど何も知っちゃいないということだったようだ。これでは経営者がマネー教徒になっていても、誰もそういう連中を“裸の王様”だとは言わない。 

≪08≫  たとえば2008年の調査でも、アメリカ人の3分の2は「複利」とはどういうものかをまったく知らなかったし、ニューヨーク州立大学経営学部が高校3年生を対象に行なった調査では、アメリカで株を18年間保有していればアメリカ国債をもっているより高い見返りがあることも、高額所得者が銀行預金の利子で利益を得ようとすると所得課税が累進的に高くなることも、オヨビでなかった。だいたいアメリカ人の多くは会社の年金と社会保障と401(K)プランを区別できないのである。むろん日本人も似たようなものだろう。 

≪09≫  こういう国民をマッド・マネーが愚弄するのは手もないことではあるのだが、それとはべつに、一方の銀行や証券会社や保険会社はそのころ何をしていたかといえば、必ずしもあくどい商売をしようとしていたというのではなく、実はつまらない規制(コンプライアンス)の中でがんじがらめになっていた。それゆえ実にくだらない資金計画を案出するという体たらくに陥っていた。そう見るべきなのだ。 

≪010≫  アメリカは銀行と経営者と国民ぐるみで、マネー社会の実態から目をそむけているわけだ。ファーガソンはそうした現状を7つの疑問にし、それを「7つの封印破り」としてあからさまにしたいと思ったようだ。 

≪011≫ ①欧米や日本の銀行は、まるで夜中の道路工事のように、どうしてこれほどまでにバランスシートにテコ入ればかりしなければいけないのか。  

≪012≫ ②いいかえれば、なぜ資本金に不釣り合いなほど大きな資金を手に入れて貸し出す必要があるのか。 

≪013≫ ③クレジットカードや住宅ローンなどの負債を証券化して、それを何度も分割再構成して別の債券にする必要が、はたしていったいどこにあったのか。 

≪014≫ ④FRBや日銀などの中央銀行は、どうしてまた狭義のインフレ政策にこだわり、いつも世間がギャフンと言うことになる株価バブルを気にしないのか。 

≪015≫ ⑤金融機関はどうしてリスクの本来の動向の研究に乗り出さないで、保険会社がいちばん変なことをしているのだが、リスクとは関係ない金融商品に手を出すのか。  

≪016≫ ⑥欧米や日本の政治家はなぜ、国民の住宅普及率などを政策に掲げて、とうてい実現できない「格差の撤廃」をむりやり法制化しようとするのか。 

≪017≫ ⑦これはアメリカにかぎる話だが、なぜアメリカは日本・韓国などのアジア諸国にはたらきかけ、とりわけ中国にさえはたらきかけてアメリカの赤字を補填させるために何兆ドルも動員させようとするのか。 

≪018≫  人類はさまざまな交換手段や決済手段を工夫してきた。そのために貨幣がつくられ、手形が発達し、銀行や債権市場が用意され、保険・抵当権・住宅ローン金融・カード決済など、実に多くのしくみが開発されてきた。 

≪019≫  これらはすべてマネーであり、マネーまがいであり、擬似通貨であり、つまりはマネーの多様性なのである。 

≪020≫  もともとマネーの本質には、説明の仕方はいろいろあるのだが、基本的にはマネーは「①交換力、②価値尺度、③価値保蔵力」という3つの機能をもっていると考えられてきた。これはちょっと考えてみるとわかるように、「情報」に似ているし、「言語」にも似ている。そういう議論はけっこうあった(いずれ千夜千冊する)。 

≪021≫  ただし似てはいるのだが、情報や言語は支払い手段にはならないし、貸し借りもない。預けておくと利子がふえるということもない。ところがマネーはいくらでも擬似的な代替性を発揮して、人類の社会と歴史を律してきた。 

≪022≫  そのようなマネーの多様性に、いつしか「お金ばかりが好き」という狂想曲がおこり、「狂ったゼニ」がまじっていった。マッド・マネー(1352夜)が跋扈していった。2006年の数字だが、世界中の株式市場の額面総額は50兆6000億ドルで、その年の世界中の生産高の累計48兆6000億ドルを上回ってしまった。それだけではなく、債権の総額は67兆9000億ドルになり、生産高を40パーセントも上回った。  

≪023≫  いま、外国為替市場では毎日、4兆ドル以上が取引され、株式市場では毎月6兆ドルが売買される。なぜここまで膨れ上がったかといえば、むろん金融のグローバリゼーションが進んだからだ。 

≪024≫  それで多くの金融機関が大やけどをしたにもかかわらず、まだ人類はマネーの狂想曲から耳を離さない。おいおい、それでいいのかよ。なぜそんなにもマネーにこだわるのかよ。それがファーガソンのメッセージだ。

≪025≫  マネーの呼び名は民族によっても時代によっても異なってきた。 

≪026≫  お金、懐ろぐあい、収入、食いぶち、現金、ゼニ、余禄、上がり、おあし、天下のまわりもの、手持ち、元手、資金、ゲンナマ、日銭、持ち合わせ、水上げ、貨幣、通貨などなど‥‥。 

≪027≫  英語でも「食いぶち」はブレッド、「現金」はキャッシュ、「ゼニ」はドッシュなどとジャーゴンを使い分ける。 

≪028≫  そもそもマネーの主たる役割は、「手に入るもの」と「手から出るもの」のあいだをつなぎ、貸し手と借り手のアンバランスな関係をとりもつことにある。大昔からそうだった。 

≪029≫  このことを雄弁に語るのは、すでに古代バビロニアにおいて、借金は誰かが肩代わりでき、借り手は当初の貸し手に返済しなくとも貸し借りの証しを示した粘土版の持ち主に返せばいいことになっていたことである。ついでにいえばハムラビ王の時代には「複利」すら芽生えていた。 

≪030≫  ということは、通貨とはそもそもが“約束通貨”だったのである。そこで前提になっているのはただひとつ、その社会における「信用」(credit)というものだ。これは「信頼」(trust)より発信性が強い。また流通力がある。だいたい“credit”の語源がラテン語の“credo”で、「私は信じる」に由来していたのだし、そのクレドは何人もの手をわたるうちに強化もされる。 

≪031≫  そういう本質をもつマネーが時代のなかで大きな変化をおこしはじめるのは、利子と銀行が発達するようになってからだった。 

≪032≫  利子(利息)の発達はおそらく利子が計算できるようになって以来のことだろうから、正確には13世紀にフィボナッチが『算盤の書』を著してフィボナッチ数列を発見し、これが一般化してからだったと推定できる。  

≪033≫  フィボナッチはもともとがピサの貿易商人の息子だった。ここから高利貸しの思想が生まれ、ダンテ(913夜)が『神曲』地獄篇の地獄第7圏に“高利地獄”を描写したような守銭奴的な社会事情が派生していった。 

≪034≫  銀行のほうは、14世紀フィレンツェのバルディ、ペルッツィ、アッチャイウォーリが王家に対する貸し倒れにあってのち、メディチ家が登場して銀行のしくみを徹底的に(ギャング的にと言ってもいいけれど)整えたあたりから、それこそ急速に伸(の)していった。このあたりのことは多くの経済史学があきらかにしているし、もっと詳しいことはフェルナン・ブローデル(1363夜)を嚆矢にアナール派が微細なところまで描きだしているから、説明はいらないだろう。 

≪035≫  というわけで、銀行の確立と台頭に利息計算と複式簿記とが加わって、1340年代くらいには、「マネー、利子、銀行」という三位一体のマネタリー基本方程式ができたのである。それこそボッティチェリの『東方の三博士の礼拝』に描かれているメディチ家の面々の語るところだった。 

≪036≫  イタリアの銀行制度は北ヨーロッパのモデルになり、そのまま数世紀のマネーのしくみの基本になった。それがアムステルダムからロンドンに移行して、「史的システムとしての世界資本主義」を地球中にばらまく「アングロサクソン・モデル」の原型をつくってきたことについては、この数夜の千夜千冊で説明しておいた。 

≪037≫  ちょっとだけ補足をしておくと、1609年に創業されたアムステルダム外国為替銀行(ヴィッセルバンク)はそのころ結成されていたユトレヒト同盟の北部7州の14種類の通貨を「グルテン・バンコ」という預金単位に換算処理管轄することで、世界資本主義のエンジンのひとつをつくった。このとき、小切手、直接借方記入、振替の3つの機能が新たな銀行業務に組み入れられた。 

≪038≫  ついで1657年創立のスウェーデンのストックホルム銀行で、融資や商業支払いの業務が始まって、借り手の貴金属の保有量を超える融資がおこなえるようになって、のちの部分準備金銀行制度にあたるエンジンが動きだした。預金として残っているぶんも貸し出しにまわして利益を得ようという銀行モデルができたのだ。 

≪039≫  これらを引き継いだのが1694年に設立されたイングランド銀行である。当初は政府の借金の一部を銀行で株に転換して戦時経費をまかなう機関だったのだが、それが転じて1709年からは株式会社としての銀行になり、ついには1742年にほぼ独占的に紙幣発行の権利をもつようになって、ここに3つ目のエンジンが駆動していったわけである。 

≪040≫  ハーバード・ビジネススクールのMBAコースでは、いまでもこの3つのエンジンをネタにしたマネーゲームに取り組むことになっている。ハイパワード・マネー(強権通貨)、ナロー・マネー(狭義のマネー)、マネーサプライ(通貨供給量)の関係を公式的に学ぶのだ。これでMBAの卵たちが知ることになるのは、マネーというものは銀行によって作られたある種の負債(預貯金)だということ、そして、「信用」は銀行の資産(ローン)になるということである。 

≪041≫  銀行が「信用」を媒介にマネーの増殖のしくみを確立したのち、次にマネーの著しい進化をもたらしたのは、「債券」(ボンド)によってマネーのパワーを強化するようになったからだった。 

≪042≫  日本政府が発行する国債には10年債というものがある。この10年債の額面は10万円で、たとえば1・5パーセントの固定金利あるいは利札(クーポン)が付いているとする。日本政府は次の10年間にわたって10万円の1・5パーセントを払い続けることが義務づけられている。国債の購入者は自分の好きなときに市場の趨勢を見て時価で債券を売ることができる。 

≪043≫  こういうしくみが保証できるのは、日本国家が積み上げてきた強大な債券市場が支えているからなのだが、これはむろん国の負債なのである。だからいつなんどき崩れてきてもおかしくはない。なぜこんな奇っ怪なものが歴史のなかに登場し、かつ一国の財政を危うく支えるようになったのかといえば、もともとは戦争の費用を生み出すためだった。 

≪044≫  債券市場そのものの原型は、13世紀の北イタリアでささやかに芽生えていた。そこへ14世紀から100年ほどのあいだに、フィレンツェ、ピサ、シエナなどの都市国家が交戦状態を続けることになった。ダンテもそのような時代の最初期に生まれ、早くもその惨状を『神曲』に描いたわけである。 

≪045≫  そこで何がおこったかといえば、各都市国家が傭兵を雇った。傭兵は相手の都市を襲って金銀財宝を略奪するのがお仕事だ。当然、やったりやられたりで、あげくに各都市国家は財政危機に陥り、税金を倍増しても追いつかなくなっていく。たまに傭兵グループにジョン・ホークウッドなどという強靭なリーダーが登場すると、その功績に城や金銀を褒賞としてあげていくうちに、この男の“持ち価値”のほうがそこいらの都市国家より大きくなることもある。 

≪046≫  かくして都市国家のなかには、そうした功績者に対する負債がヤマほど増えていくということが次々におこっていった。そこでフィレンツェなどはやむなく強制貸付(フレスタンツェ)をすることになった。富裕な市民たちから資金を強制的に貸付けさせるのである。そのかわり市政府は利子(インテレッセ)を払う。 

≪047≫  これは当時のキリスト教社会が高利貸しを禁止していたことの網の目をくぐる方法で、教会法には抵触しなかった。こうしてフィレンツェは自国の市民を投資家に仕立てて戦時費用をまかなうようになったわけなのだ。そしてここに、債券の原型が発生していくようになる。これが国債の起源である。 

≪048≫  債券の歴史は戦争の歴史であり、戦争の歴史は債券の歴史であり、それがマネー・パワーの強化の歴史だったのである。 

≪049≫  ロスチャイルド家など、その時代ごとの政府の頭目たちに戦争をおこさせては債券市場を操作して、どんどん膨れあがったようなものだった。そこまでいかずとも、債券市場によってしこたま儲ける連中は、いつの時代もいわゆる「ランティエ」(利子生活者)として、世の中を賑わしてきた。 

≪050≫  こうした「債券としてのマネー」がしだいに化け物のような様相を呈することになったのは、とりわけ第一次世界大戦のときに、各国によって厖大な戦時国債が発行されたこと、敗戦したドイツにさらに厖大な債務を生じさせたことによっている。それとともに現代史は初めての大型インフレ(ハイパーインフレーション)をおこすことになる。同じことがドイツだけでなく、オーストリア、ハンガリー、ポーランドでもおきた。ミルトン・フリードマン(1338夜)が言うように、インフレは通貨がおこす不完全現象になったのである。 

≪051≫  以降、債券市場の乱高下と戦争の勃発と終結とインフレの動向は、つねに三つ巴で動きまわる。1989年のアルゼンチンの財政危機と金融危機は、本書のみならず多くの経済書がその詳細を再現してきたが、ここまでのマネーの進化には、決定的なデボルーションがありうることを物語る、最も深刻で、わかりやすい例だった 

≪052≫  銀行と債券。マネーは当初はこの二つを両輪にして、しだいに怪しげなアクティビティをもってきたのだが、ここに拍車をかけ、そのしくみをさらに複雑にも予測不能のものにもしていったのが、ひとつには「企業の隆盛」と「株式マネー」(株式上場のしくみ)の膨張である。本書にはその長所と短所も手際よく述べられているけれど、とくに解説を加えるほどのものではないから、ここでは省く。  

≪053≫  だが、もうひとつ、そこに加わった重大なものがあった。何が加わったのか。わかるだろうか。銀行、債券、株式についでマネーを狂ったほどに変幻させていったもの、それは保険だ。 

≪054≫  保険のルーツは、これまたイタリアになるのだが、14世紀初めにヴェネツィアやジェノヴァなどの海港都市で生まれた「ボトムリー」と呼ばれた船舶抵当貸借だった。商船のボトム(船体)に対しての保険である。この時期に「セキュリタス」(証券)についての記述もあらわれている。『ヴェニスの商人』でアントニオが苦境に立ってシャイロックに苦しめられたのは、自分の商船に保険をかけていなかったからなのである。 

≪055≫  保険の出現とともに、そこに保険料が付随した。1350年代の保険料は保険金額の15~20パーセントくらいで、15世紀になると10パーセントに下がった。ここに「リスク」に対するマネーのかかわりが発生する。 

≪056≫  17世紀の後半には専門の保険市場がロンドンにあらわれた。1666年のロンドン大火がきっかけで、家を焼かれるならその損失をカバーするべくあらかじめ保険金をかけておくのを厭わないという風潮が、ロンドンの富裕市民に広まったからだった。その14年後にニコラス・バーボンが最初の火災保険会社を設立した。 

≪057≫  ほぼ時期を同じくして、エドワード・ロイドのロイズ・コーヒーハウスで海上保険会社が生まれ、ここから海上保険市場が始まった。1774年には王立証券取引所の中にロイズ協会が設立されている。保険会社こそ、アングロサクソン・モデルの雛型だったのだ。 

≪058≫  ロイズの保険のしくみは、会員制から始まった。その会員が今日でいう市場形成者なのである。 

≪059≫  保険契約には署名が必要で、そこからアンダーライター(証券引受人)というルールが派生した。保険取引は、財源を確保してから拠出するという方式で、いまでも「ペイゴー方式」(pay as you go)という。保険会社がその年の支払いを完済し、そのうえ利鞘を稼いでおくためだった。 

≪060≫  生命保険もヨーロッパでは中世から試みられている。教皇や総督や国王にかけた保険が最初だが、それがしだいに広まって疾病や死をリスクと認識する一族の意識が高まった。こういう風潮を背景に「保険の思想」や「保険の数学」が追求されたのは、1660年以降のことで、それはまるで熱病のような知識人たちによる推理合戦を示した。 

≪061≫  金融工学の前哨戦はそのころから始まっていたというべきなのだ。 その中身をファーガソンは6項目に分けて説明している。  

≪062≫ ①「確率」‥ 当時の確率はブレーズ・パスカル(762夜)と、パスカルの友人ピエール・ド・フェルマーによって考察され、保険概念の確立の基礎を与えた。 

≪063≫ ②「余命」‥1662年にジョン・グラントが『死亡調書の自然的および政治的観察』を出版し、これがロンドンの公式死亡統計を充実させ、ついでエドマンド・ハリー(ハレー彗星の発見者のあのハリー)がさらに分析を加えて、生命保険の基礎を提供した。 

≪064≫ ③「確実性」‥ 1705年、ヤコブ・ベルヌーイが「大数の法則」を発見し、ここに、「同様の条件のもとでなら、将来におけるある事象の生起(あるいは不生起)は、過去に観察された同一のパターンに従う」という推論法則が知られるようになった。 

≪065≫ ④「正規分布」‥1733年、アブラーム・ド・モアーヴルが「どんな種類の反復プロセスも、平均の周辺や標準偏差の範囲では、ある曲線に沿っての分布がある」ことを突き止めた。これがのちに「正規分布」とか「ベルカーブ」とよばれた。 

≪066≫ ⑤「効用」‥1738年、ヤコブの甥のダニエル・ベルヌーイが「あるものの価値(value)はそれについた値段(price)によって決まるのではなく、そのものがもたらす効用(utility)によって決まる」と断じ、さらに「富の微量な増加から得られる効用は、それ以前にその人物が保有していた財の量に反比例する」と論じた。 

≪067≫ ⑥「推測」‥1763年、トマス・ベイズは論文『偶然論の問題解決に向けて』で、「どんな事象の確率も、事象の生起に応じた期待値を計算すべき値と、その生起に期待されることの可能性との比である」ということを記し、のちに「ベイズの定理」として金融確率世界やデジタル・インターフェースの世界を席巻する公式を提唱した。 

≪068≫  そもそも保険は「リスクの先取り」である。ということは、これを「社会のリスク」に適用することもできた。このことを早期に発想したのはプロイセンのオットー・フォン・ビスマルクで、それが社会保険法になった。こうして何が生まれたかといえば、「年金」である。 

≪069≫  ビスマルクが社会保険を実施する気になったのは、多数の無産階層に、自分は年金を受給する資格があるのだと思いこませることによって、ドイツ全域に保守的な愛国心を生み出すためだった。国家社会主義の政治思想は社会保険や年金とともに生まれたと言っていい。 

≪070≫  これをずっとのちの1908年に真似て、イギリス自由党の蔵相ロイド・ジョージが導入することにしたのが老齢年金制度で、1911年には「国民保険法」も成立した。これらを突っ先に、イギリスは福祉国家構想に走り、1920年代には失業保険を発動させ、さらに1940年代にはチャーチルの「ゆりかごから墓場まで」の演説に象徴されるような、総合国民強制保険国家のほうに大きく舵を切ったわけである。 

≪071≫  しかし、実はこのような福祉国家の実験に最初にとりくんだのは日本だったというのが、ファーガソンの見方だ。関東大震災が日本をして世界最初の保険国家に仕立てたというのだ。 

≪072≫  実際にも日本人は大震災の起きた1923年に、約7億円の生命保険新規加入をはたしている。それ以前にすでに、海難・死亡・火災・徴兵・交通事故・盗難などに対する補償の提供に、明治大正の日本人は熱心で、併せて13種類の保険が30あまりの保険会社によって販売されていた。 

≪073≫  それはそうなのだが、しかし日本は太平洋戦争にも日中戦争にもひどい失敗をして、国土を焼け爛れさせただけでなく、国家の資本ストックの大半をアメリカの爆撃とともに失った。こうして日本は、これからは民間の保険市場だけで国民を危険から守るのは難しいと判断するようになる。そこで一方では日米安保同盟への道を採り、他方で国民皆保険による福祉国家をめざすことになった。そう、見るとよい。 

≪068≫  そもそも保険は「リスクの先取り」である。ということは、これを「社会のリスク」に適用することもできた。このことを早期に発想したのはプロイセンのオットー・フォン・ビスマルクで、それが社会保険法になった。こうして何が生まれたかといえば、「年金」である。 

≪069≫  ビスマルクが社会保険を実施する気になったのは、多数の無産階層に、自分は年金を受給する資格があるのだと思いこませることによって、ドイツ全域に保守的な愛国心を生み出すためだった。国家社会主義の政治思想は社会保険や年金とともに生まれたと言っていい。 

≪070≫  これをずっとのちの1908年に真似て、イギリス自由党の蔵相ロイド・ジョージが導入することにしたのが老齢年金制度で、1911年には「国民保険法」も成立した。これらを突っ先に、イギリスは福祉国家構想に走り、1920年代には失業保険を発動させ、さらに1940年代にはチャーチルの「ゆりかごから墓場まで」の演説に象徴されるような、総合国民強制保険国家のほうに大きく舵を切ったわけである。 

≪071≫  しかし、実はこのような福祉国家の実験に最初にとりくんだのは日本だったというのが、ファーガソンの見方だ。関東大震災が日本をして世界最初の保険国家に仕立てたというのだ。 

≪072≫  実際にも日本人は大震災の起きた1923年に、約7億円の生命保険新規加入をはたしている。それ以前にすでに、海難・死亡・火災・徴兵・交通事故・盗難などに対する補償の提供に、明治大正の日本人は熱心で、併せて13種類の保険が30あまりの保険会社によって販売されていた。 

≪073≫  それはそうなのだが、しかし日本は太平洋戦争にも日中戦争にもひどい失敗をして、国土を焼け爛れさせただけでなく、国家の資本ストックの大半をアメリカの爆撃とともに失った。こうして日本は、これからは民間の保険市場だけで国民を危険から守るのは難しいと判断するようになる。そこで一方では日米安保同盟への道を採り、他方で国民皆保険による福祉国家をめざすことになった。そう、見るとよい。 

≪074≫  この見方には説得力があるはずだ。そうなのだ、日米安保と国民年金は一対なのである。このこと、民主党政権はほとんど理解していない。ちなみにこの制度の実施リーダーとなった近藤文二の言動に当たってみると、このような日本の保険制度思想は、大日本帝国時代の「国民皆兵」を「国民皆保険」に移行させていたことがわかる。このことも、もう少し理解されていい。 

≪075≫  さて、ところで、将来の災難にあらかじめ準備しておく方法は、保険や福祉だけではなかった。そこにはマネーそのものこそが関与するべきだった。 

≪076≫  なぜなら、将来の災難を予測してその準備をするには資金がかかる。その資金を国の保険制度や福祉制度に頼るだけでは、個人の不安はなくならないし、企業の危険も減退しない。 

≪077≫  そこで、その資金を個人や企業が掛け金の形にして分散させ、リスクをヘッジ(回避)することが可能なはずだという考え方が浮上して、広まっていった。そのような発想で組み立てられたのが、リスク・ヘッジのマネタリー・モデルであり、そこから生み出されたのが金融商品や金融派生商品だった。先物市場の拡張である。 

≪078≫  ところが、ここにはマネーがマネーを生むという思想がまじりこんでいた。とくにデリバティブによる金融契約には、オプションというお釣りがついていた。このしくみはきわめて巧妙であったため、それゆえ誰もが「イン・ザ・マネー」(金持ち)の状態に入れるという幻想をもたらした。 

≪079≫  これが、のちに悪魔の手法だとも言われたデリバティブをめぐる驚くべきマネーチェーンをつくっていった。 

≪080≫  たとえばコール・オプション(選択買付け取引)の買い手は、オプションの売り手(ライターとよばれる権利者)から、特定の商品または金融資産のあらかじめ同意した量を、一定期間の権利行使期限のなかで特定の行使価格で購入する権利をもてる。買い手はむろん、金融商品の価格が上がることを期待する。ということは、うまいぐあいに時価がもともとの行使価格を超えることになると、その段階で、オプションはただちに「イン・ザ・マネー」の状態になり、次にこのオプションを買った連中も「イン・ザ・マネー」になっていく。その連鎖がおこるのだ。 

≪081≫  逆に、権利行使価格で売るオプションも用意されている。コール・オプションに対して、プット・オプション(選択売付け取引)とされているものだ。  

≪082≫  3つ目のデリバティブのスワップ(交換)では、金利の先行きに関する二者のあいだの“賭け”が認められたようなもので、大相撲の力士たちの野球賭博どころではない。純粋利子率のスワップでは、金利の支払いをすでに受けている二者でこれを交換できるようにしたのだから、変動金利の支払いを受けている者が、金利が低下するときに固定金利と交換してしまうことができた。これらにも「イン・ザ・マネー」が巧妙に保証されているかのようになっていた。 

≪083≫  デリバティブをめぐるしくみが、悪魔的だといえばまさにその通りだが、徹底してリスクヘッジの可能性を読んで組み立てられていたことは、呆れるほどに理論的である。そうとうにアタマがいいと言わざるをえない。 

≪084≫  AとBの状態を予測してリスクヘッジをするだけなのではなく、AがAでなく、BがBでない場合のデフォルトも組みこんだ。クレジット・デフォルト・スワップでは、企業が自社発行の債券を債務不履行(デフォルト)とするリスクを保護するという説明名目だし、『インターネット資本論』(1126夜)のときにも書いたことだが、自然災害債券にあたるCATボンドのようなカタストロフィ債では、天候の変動をも「イン・ザ・マネー」にもちこんだ。 

≪085≫  もともとは保険会社が気温の変動や自然災害の危険を分散するための工夫なのだが、これを生活者や利用者のほうから見ると、CATボンドの買い手が保険を売っていることになるわけである。 

≪086≫  ウォーレン・バフェットがこれらを「金融の大量破壊兵器」と呼んだのは、バフェットのように大儲けした男から言われるのは勘弁してもらいたいことではあるけれど、まあ、当然だったのだ。  

≪087≫  ともかくも、こうした金融革命が13世紀このかた長きにわたったマネーの歴史を一変させてしまったことはあきらかだ。 

≪088≫  なぜなら、金融工学ではリスクをヘッジ(回避)できる者とできない者とが確実に二分されていくわけで、これではどこかで事態がひどいものになっていっても止められない。 

≪089≫  かくて本書は後半3分の2以降で、サブプライムローンのしくみを暴くというふうになっていく。ファーガソンはこれを「ストラクチャード・プロダクツ」と名付け、その最も根本が「金融の証券化」に集中していることをあげ、そこにあまりに勝手なマネー幻想が振り当てられていたことを論じた。 

≪090≫ 一言でいえば、金融の証券化は、もともと「リスクへの耐性が強い者」に向けられたものにすぎず、それも「リスクに弱い者」へのリスクの押し当てによって成立しているにすぎないということだったのである。マネーの進化といったって、いまのところはしょせん、そんな体たらくの現状に達したということなのである。 

≪091≫ 【参考情報】 

≪092≫ (1)ニーアル・ファーガソンは1964年、スコットランドのグラスゴー生まれ。オックスフォード大学からドイツ留学後にケンブリッジ大学などで講師をし、2000年からオックスフォード大学の歴史学教授になり、その後はハーヴァード・ビジネススクールやスタンフォード大学フーバー研究所などでもあれこれの活動をして、いまはハーヴァード大学に落ち着いたようだ。 

≪093≫  ファーガソンが依拠しようとする、歴史記述としても歴史学としても珍しい「カウンターファクチュアル・ヒストリー」(反事実歴史学 counter-factual history)は、史料や歴史データを再構成することによってそれを自ら検証しようとする手法で、いわばリヴィジョニズムとも、もっとわかりやすくいえば“編集歴史学”のようなものだともいえる。その手法を導入した『憎悪の世紀』(早川書房)は、さすがに読ませた。編集工学に関心のある者が「歴史」を学ぶにはふさわしいテキストになるのではないかと思う。  

≪094≫ (2)本書の後半は、サブプライムローンの解明のあとから、俄然、仮説的になっていく。得意の「反事実歴史学」が躍如する。なかで、エルナンド・デ・ソトの「資本の神秘」に挑みつつの1980年代後半のアルゼンチン貧民街での活動と思想、およびムハマド・ユヌスのバングラデシュでの貧窮女性たちに対するグラミン銀行のマイクロファイナンスの思想と活動についての記述は、さすがにファーガソンがこういう特例を見逃さないという姿勢が貫かれていて、感じさせた。 

≪095≫  もうひとつ、第6章で「チャイメリカ」論の一端を披露しているのは、まだサワリだけではあるが、今後のファーガソンの近未来史的歴史研究の予告であるようで、ぼくはしっかり読ませてもらった。NARASIAにもこういう見方が必要なのだろう。 

≪096≫ (3)終章「マネーの系譜と退歩」で、ファーガソンは次のように生物学的な見方と経済・金融・マネー史の特色とを比較している。当たらずとも遠からずもある。参考に。 

≪097≫
 ①ある種のビジネス習慣は、生物学でいう「遺伝子」と同じはたらきをし、「組織のメモリー」に情報を蓄積し、個人から個人へ、あるいは新しい企業ができれば企業から企業へと伝え残されるのであろう。
 ②マネーの歴史では、ある種の属性が自発的に突然変異をする可能性がある。たとえば金融工学だ。経済界ではこれをイノベーションと呼ぶが、技術革新ばかりがイノベーションとはかぎらない。 

≪098≫
 ③同業種内で資源をめぐる競合があり、その結果が寿命や増殖の度合いのマイナス要因としてはたらき、どの企業が生き残るかが決まる。
 ④資本と人的資本を市場がどう配分するかという問題は、業績が悪いと消滅する可能性がある「残存率」を通じて、適者生存的な自然淘汰のメカニズムがはたらいているのかもしれない。 

≪099≫
 ⑤種が分化して、新たに形成される余地がある。ひょっとすると、まったく新しい金融機関を創設することで、新たな多様性が維持できるかもしれない。
 ⑥どんな場合も、生物にも金融にも絶滅の余地がある。当然、ある種が絶滅することもある。 

≪01≫  2007年8月のパリバ・ショック、2008年9月リーマン・ショック以降、グローバル経済と先進資本主義各国の国内経済の痛手はまだまったく癒えてはいない。 

≪02≫  やっと国民医療保険の議案を成立させたオバマ・アメリカも、その実情はそこらじゅうで倒壊や火災がおきている。この2年で1万2000軒の店舗がクローズし、シャーパーイメージやリネンズ&シングスといった小売業が倒産していった。ソニーやパナソニック商品を扱ってきた最大手のサーキットシティが連邦破産法による手続きに入って事実上倒産したことも、まだ最近のニュースだ。 

≪03≫  それなら日本はどうか。いったい「二番底」はどこにあるのか、それともひょっとして「底抜け」こそが待っているのか。それともゆっくりと回復していくのか。エコノミストたちの議論はいまだ右顧左眄がかまびすしい。すべてはマッド・マネーと金余りによる金融危機がもたらした傷痕である。いや、次から次への病巣の転移だった。資本があたかも意思をもったかのように自己増殖しつづけたことが、こうした異常事態をいまなお続行させているわけだ。 

≪04≫  問題は、この事態は修復可能だろうと思いすぎていることにある。さまざまな手を打ちさえすれば、きっと元にあった状態に戻るはずだと想定していることにある。ヘッジファンドやプライベート・エクイティファンドが健康を取り戻せば大丈夫だと思いこんでいるのだ。えーっ、そんなわけはないじゃないか。これは資本主義が抱えた本質的なビョーキの露呈だったのだから、もっと根本的な問題を切開しなければならないはずなのだ。元に戻ってはだめなのだ。 

≪05≫  それにしても、なぜこんなことが気がつかなかったのか。そんなにもグローバル・キャピタリズムの猛威はウィルス並みだったのか。 

≪06≫  表題はいささか気負っていたが、金子勝の『反経済学』(新書館)にはそうとうの先見の明があった。刊行は1999年、所収論文はそれ以前の数年間のものだ。海外では主張こそあれこれ異なってはいたものの、スーザン・ストレンジ(1352夜)、ポール・クルーグマン、ハイマン・ミンスキー、ジョセフ・スティグリッツ、エマニュエル・トッド、ジョン・グレイなど、いくつかの先駆的研究は出ていたのだが、このころ、のちに市場原理主義と一括されることになった動向に、いちはやく批判的洞察をもたらした日本人はあまりいなかった。 

≪07≫  ふーん、あっぱれだな。こういう経済学者が日本にも出てきたのかと思った。かつての岩井克人(937夜)とはまた別種の路線をつくりつつあるようだった。ぼくは慌てて『反経済学』の原型となったらしい『市場と制度の政治経済学』(東京大学出版会)をさっと読んでみた。やっぱり早い。その先見にまずは敬意を表したい。 

≪08≫  その後、金子はたくさんの著書やエッセイをものした。かつて「朝まで生テレビ」で田原総一郎の乱暴をかいくぐって鳥めいた発言をしていた姿は、その後は自身で司会をするCS番組を持つようになった。はあ、はあ、ふーん、姜尚中(956夜)とは好一対だな。それにしてはいささか似た本を書きすぎじゃないか、焦っているのじゃないかと気になったが、読んでみるとそれぞれどこかにヒントが勃発していて、悪くない。 

≪09≫  加えて経済学者としてはちょっぴり異端の香りがするのが、カワイくていい。それが“反経済学”というタイトリングにもあらわれたのだろう。異分野との接し方も好感がもてた。たとえば大澤真幸(1084夜)との対話『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)も脂が乗っていた。八面六臂の大澤君の見方に引きずりこまれていなかった。 

≪010≫  ということで、いつか金子勝をとりあげようと思っているうちに、ここまで引っ張ってしまった。今夜はとりあえず記念すべき『反経済学』にしておいたけれど、この本がベストだということではない。もう少し最近のものならば、『閉塞経済』(ちくま新書)とか、アンドリュー・デウィットとの共著『世界金融危機』や『脱「世界同時不況」』(ともに岩波ブックレット)あたりのほうが、入門にはわかりやすいかもしれない。  

≪011≫  とくに旧著『反グローバリズム』を改編した『新・反グローバリズム』(岩波現代文庫)は書き下ろしに近く、最近の金子の考え方を最もインテグレートしているようにも思う。というわけで、以下は金子の見解を上記のいろいろの本からまたいで、その先見の明のごく一角を紹介する。 

≪012≫  金子がずっと訴えつづけていることは、日本経済が閉塞感をもっているのにその危機の正体が見えていないのはどうしてか、そのことはなぜ気がつきにくくなってしまったのかということだ。その原因は日本の経済社会にも政策にもあるが、グローバル経済が向かっている考え方や勢いそのもののなかにもある。 

≪013≫  金子がそういう問題意識で「経済」を問いはじめたとき、日本はどういう状況にあったかというと、1997年11月に北海道拓殖銀行・山一証券・三洋証券などが連続的に経営破綻した直後だった。政府は翌年に1・8兆円の公的資金を導入したがまにあわず、中谷巌(1285夜)や竹中平蔵が主導した小渕内閣の経済戦略会議の中間報告にもとづいて、1999年に7・5兆円を注入し、日銀はゼロ金利に踏み切った。 

≪014≫ むろんすべては焼け石に水。金融機関は粉飾決算にまみれ、日本経済が内部から腐っていることはあきらかだった。こうしてバブル崩壊の傷はとんでもなく深いものだということが知れてきた。そこで海外のエコノミストたちは、日本の金融機関がBIS規制型の自己資本率やペイオフ実施や時価会計制度を「グローバルスタンダード」として早急にとりこみ、不良債権を一掃すべきことを口を揃えて提案した。 

≪015≫  これで日本はグローバル病院の患者になった。2002年末、小泉政権は不良債権査定をすることにしたけれど、株主価値を毀損しない程度の実質国有化の方針をとった。日銀は銀行から大量の国債を買いつづけ流動性を供給しようとしたものの、銀行は損失処理に追われるばかりで、結局、ゼロ金利による円安政策と雇用流動化政策がカップリングされて、輸出依存型の景気回復に走らざるをえなくなっていった。 

≪016≫  金子の“反経済学”は、こういう状況の只中からアタマをもたげはじめたのである。 

≪017≫  いまでもそうだが、財政再建か景気対策かという方針は、つねに右に左に揺れ動く(いまでも自民党は谷垣派と与謝野派で割れている)。小泉・安倍・福田・麻生時代は、景気のほうにとりくんだ。しかし、景気回復をするには体力がなければならないのに、そのときすでに日本企業は3つの変更を余儀なくされていた。 

≪018≫  まずは、①国際会計基準(IAS)を導入していた。企業の所有資産は時価評価され、時価会計主義になってしまっていたのだ。これで、ときにはリーズナブルだったはずの過剰債務・過剰設備・過剰雇用のすべてが問題になった(IASはのちにIFRSに発展した)。 

≪019≫  次に、②単独財務諸表から連結財務諸表の重視に慣らされていた。子会社に隠れていた不良債権がこれで次々に表面化した。これで、それまでケーレツ維持のために相互持ち合いになっていた株式は時価会計にさらされるので、「含み益」を自己資本に表面化させるには、自己資本そのものを急激に増加させるしかなくなった。 

≪020≫  さらに、③キャッシュフロー表の提示が義務づけられて、四半期ごとに継続的なキャッシュフロー上の“改善”ばかりを、バカの一つおぼえのようにめざすようになっていた。キャッシュフローの最初の項目には「税引き後営業利益」があてられているのだが、これを引き上げるには在庫を削るか人員整理をするか、企業合併を模索するしかなくなったのだ。 

≪021≫  そんな右往左往のもと、2007年には派遣労働者の数はまたたくまに320万人に達し、34歳以下のフリーターは200万人を前後した。この格差社会をどうするのか。問題は景気どころではなくなっていった。 

≪022≫  こうして、真綿で首をしめつけられるようにして、日本の経済社会の全体がウォール街の市場原理主義と新自由主義の渦のなかにとりこまれるようになっていったのである。そんなところへ世界金融同時不況が直撃した。あとは、みなさんご存知のとおり。 

≪023≫  ざっとは、こういう流れだ。いったい日本のエコノミストは何を考えるべきだったのか。 

≪024≫  本来ならば、冷戦が終結し、バブルが崩壊した1990年代のはじめに日本はなんらかの“change”をするべきだったのである。ところが冷戦終結は自由主義体制による「市場原理の勝利」になったと勘違いした。 

≪025≫  その後の「失われた10年」はずるずると「失われた20年」に向かって漂流することになった。これをさらに迷走させたのが、日本の場合は小泉構造改革である。ただし、そこには、日本経済がそれ以前から陥ってきた万年病があった。①輸出依存体質からの脱出をいつも失敗している、②政官財の癒着体質がなかなか変更できない、③国の予算組みと財政投融資政策と地方財政策がどうしてもちぐはぐになる、という症状だ。 

≪026≫  これらを“清算”しようとして、たとえば小泉内閣による郵政民営化というおかしな決断がなされてしまったわけだったけれど、こういうビョーキは市場万能主義でもグローバリズムでもゼッタイに乗り切れない。乗り切れないのにもかかわらず、日本はこの時期に新自由主義のバスに慌てて駆け乗った。これではうまくいくはずがない。 

≪027≫  金子はこのような日本の状態を「閉塞経済」とも言っている。その名もずばりの『閉塞経済』という著書もある。 

≪028≫  閉塞経済がおこってしまったのは、経済がマネーを中心に動くようになり、マネーは「信用というしくみ」を利用して動くようになってしまったからである。金融資本主義である。あげくに時間を超えて未来の決算を取引するようになった。未来の利益を先食いし、未来のリスクを回避するような、そんな証券で経済社会がまわるようになってしまったのだ。その頂点にデリバティブ(金融派生商品)があった。 

≪029≫  かくて、リスクを負わない逃げ足のはやい投資スタイルが大流行しまくった。本当のリスクから身勝手なリスクだけを切り離して、金融業界は逃げきろうとしたのだ。これで“信用バブル”がおこるようになった。1987年のブラックマンデー、1998年のLTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント社)の破綻、同じ年のロシアのデフォルト(債務不履行)危機、2000年末のITバブルの崩壊はその先駆けで、これがそのまま2007年のサブプライム・ローンの破綻に突入していった。いずれもマネーの過剰流動性が引き起こした病巣の転移であった。 

≪030≫  まあ、ここまでの議論は市場原理主義批判というもので、いまではジョーシキになりつつあろうから、いまさら金子の先見性を感じないかもしれないが、金子が警鐘を鳴らしていた問題には、もうひとつ見逃せない指摘があった。今夜はそちらのほうのことを強調しておきたい。 

≪031≫  それは、グローバリズムの受容とナショナリズムの高揚とは裏腹の関係にあり、社会民主主義ともリバタリアニズムの一部ともきわどい関係にあるという指摘で、かれらの「市場原理主義批判・グローバリズム批判・新自由主義批判」をめぐる議論にはそうしたナショナリスティックな偏向や社民やリバタリアニズムの傾向がまじっていることが少なくないので、そこに注意すべきだというものだ。 

≪032≫  このような偏向は、日本ではすでに10年以上前から連打されていた。たとえば、1998年の佐伯啓思の「シビック・ナショナリズム」論、同年の経済戦略会議(樋口廣太郎議長)の「日本リベラリズム」論、1999年の二十一世紀日本の構想懇談会(河合隼雄座長)の「富国有徳」論、2000年の西部邁の「国民の道徳」論などなどだ。 

≪033≫  これらは表向きは市場原理主義を批判していて、それに対するに道徳や徳を持ち出しているのだが、それはサッチャーが「強い国家」や「ヴィクトリア朝の美徳に戻れ」と主張したこととあまり変わらない。つまりは市場原理主義の対抗策になどなってはいない。まさにサッチャリズムやレーガノミクスの裏返しなのである。 

≪034≫  思想戦線においてはもっときわどい議論もまかり通っていた。『反経済学』でとりあげているのは、たとえばイマニュエル・ウォーラースティーンの世界システム論の考え方だ。 

≪035≫  1989年にベルリンの壁が崩壊して、近未来社会についての構想力の喪失がおこった。そうしたなか、ウォーラースティーンの世界システム論ははからずも社会学・経済学・歴史学の左派知識人たちに“安全なシェルター”を提供してきた。参加者にならずに観察者でいられるというシェルターである。  

≪037≫  これはまずかった。金子は早くからそのへんのことについても警鐘を鳴らしていた。 

≪036≫  多くの知識人がアングロサクソン型資本主義、ライン型資本主義、日本的資本主義、はてはイスラム経済論や儒教資本主義などの多様性を、それぞれの国民経済の形状のもとに解こうとしているとき、ウォーラースティーンは資本主義のすべてを、世界システムという“たった一回のロングタームな出来事”のなかにフロートさせたのである。それが、現在社会に対するモラトリアムを許容するパスポートになってしまったのだ。 

≪038≫  EU諸国に社会民主主義が広がったことも、グローバリズム批判めいていて、実はそうではなかった。アメリカ民主党、イタリアのオリーブの木、フランス社会党、イギリス労働党といった政権力をもつ政党の動きのことだけをさしているのではない。「社民」という思想がケインジアン政策や所得再分配政策を謳っているようで、そうはなっていないところが問題なのである。これらは、ちっともリスクテイクなどしていないのだ。 

≪039≫  さらに金子が問題にしたのは、『閉塞経済』第3章に詳しいのだが、「正義」と「社会」と「経済」をめぐる議論の仕方だった。 

≪040≫  今日の日本もそうであるけれど、いま、格差社会や貧困問題が世界的にクローズアップされている。このとき格差の是正と所得の再分配が俎上にのぼる。ヨーロッパ近代社会にはこの問題を救済するロジックや制度はなかった。パターナリズム(父性的温情主義)や博愛主義があるばかりで、あとは「自由」と「正義」が論じられるだけだった。  

≪041≫  主流派経済学もホモ・エコノミクスという架空の人間行為を“自由の単位”と見るのだから、それがおこす格差や貧困を吸い上げてはこなかった。むしろサッチャリズムやレーガノミクスは「新自由主義」を標榜することで反動ともいうべき政策に走ったわけである。 

≪042≫  むろん経済学者が何も考えなかったわけではない。たとえばピグーをはじめとした「厚生経済学」という領域もあった。効用が可測性(計算可能性)をもっていて、個人間の比較が可能になるというロジックで、そう考えれば貧者のほうが富者よりも所得単位あたりの限界効用が高いので、富者から貧者への所得再配分をすることが社会全体の厚生を高めるはずだというものだ。 

≪044≫  こうしたなかから、一方ではシカゴ学派型の「自由」が浮上して、これがネオリベラリズム(新自由主義)になっていき、他方ではアイザィア・バーリンの『自由論』(みすず書房)やノージック(449夜)やロスバードの自由論から、さらに多様なリバタリアニズムの議論になっていったことは、いまはとりあげない(このあとしばらくの千夜千冊で集中してとりあげる)。 

≪045≫  そこへもうひとつ、浮上してきたのが、それなら社会にとっての「正義」とはいったい何なんだという議論だった。とくにジョン・ロールズの『正義論』(紀伊国屋書店)がもてはやされたのである。金子はこの議論にもはやくに注文をつけていた。 

≪046≫  近代ヨーロッパはいろいろな難問を今日に積み残してきた。そのひとつに、「自由と平等はトレードオフなのか、どうなのか」という問題があった。 

≪047≫  ヨーロッパのキリスト教民主党や保守党やアメリカの共和党は、市場の自由にもとづく「機会の均等」を重視して、そこに自由と平等があると言う。ヨーロッパの社会民主党や労働党やアメリカの民主党リベラル派は、「結果の平等」を重視して、格差の是正こそが必要であると説く。 

≪048≫  しかし、誰もが同じスタートラインに立てる「機会の均等」がやがて「結果の平等」を踏みにじる格差社会になるなんてことは、説明するまでもないほど自明な歴史的現実だった。自由と平等はトレードオフを超えられない。 

≪049≫  そこで、ここに「正義」の規準をもちこもうということになった。その先頭に立ったのがロールズだった。ロールズは社会の原初の状態を想定し、誰もが国家や政府や自治体と社会的な契約を結べばいいと考えた。そのばあい、二つの原理が順に作動する。第1の原理は「平等な自由の原理」というもので、すべての人間が政治的自由や精神的自由といった基本的自由を平等にもてるようにするというものだ。けれどもそのような権利が保証されたからといって、その後の社会経済的な不平等や格差が生じないとはかぎらない。 

≪050≫  そこで第2の原理として「公正な機会均等の原理」が動きだす。不平等や格差については最も不遇な状態から是正されなければならないが、そこには機会均等を破るものがあってはならないというのだ。 

≪051≫  詳しいことは省くけれど、このようなロールズの正義論に多くの社会学者や経済学者が足をとられてしまったのである。しかし、どう見てもこのような正義論にはアメリカ的な新自由主義を乗り越えるものはないし、グローバリズムの矛盾を突く考え方があるはずはなかった。金子はそのことも長らく指摘しつづけてきたのである。 

≪052≫  そのほか金子の指摘には、ときに勇み足や過剰な発言があるとはいえ、いろいろ興味深いものが多かった。とくにセーフティネットによる社会経済については、いくつもの政策的提案もした。 

≪053≫  たんなる公共経済論に陥らない提案もあった。たとえば『新・反グローバリズム』の第8章で、「第三者評価」の機能をもったアソシエーションの組み立てこそが重要であるという提案をしているのは、ぼくには共感できた。社会的な交換力をもったネットワークが、評価機能を発揮したほうがいい、そこから新たな独自の資格者や規準が生まれていったほうがいいという提案で、そこにマーケット・メカニズムに頼らない多元的価値の創生を期待したいという見方だ。 

≪054≫  今日の産業社会や企業では、自身のコンプライアンスの金縛りにあって、新たな価値の創出はきわめて遅くなる。たいていは「合理的な愚か者」になって売上げと利益と株価上昇にばかり走っていく。それよりも、これらの産業界や企業や地域社会や自由業を、大胆に横断したネットワーク・アソシエーションが出現して、新たな評価基準や価値観をめぐるスコアをつくっていけば、どうなのか。このようなアソシエーションの動きと知と編集力が一定のレベルに達すれば、そこからはおそらく新たな才能も芽生えるし、そこには次世代の市場がほしがるようなビジネスモデルも胚胎するにちがいない。金子はそういうアソシエーションの必要性を説いたのだ。 

≪055≫  ここで唐突ながら、少々おまけの話になるのだが、実はぼくが10年ほど前に、ISIS(Interactive System of Inter Scores)というしくみのありかたを思いついたときは、そこに、公民でも私民でもない“兼業的第三者”の登場と、相互に“インタースコア”しあう小さな評価創発機能の出現とを想定したのだった。 

≪056≫ いまではそれがイシス編集学校という相互学習型のネットワーク・アソシエーションになっているけれど、そこには金子が提案しているようなアソシエート・ヴィジョンも含まれていたのである。  

≪057≫  いやいや、こういうことを金子がどう思うかはわからない。しかも最近の金子がどのような思想的現在に立っているのかはちゃんとフォローしていないのでよく知らないのだが、なんとなくここには交わるものがあるのではないかと感じて、ここにISISの話を入れてみた。あしからず。  

≪058≫  というわけで、とりあえずもっと早くに評価しておきたかった日本の経済学者のありかたのひとつとして、今夜は金子勝という先見の明の一端をごくかんたんに紹介をすることで、出し遅れの証文としたかったわけである。 

≪059≫ 【参考情報】 

≪060≫ (1)金子勝は1952年生まれ。東京大学大学院の経済学研究科で博士課程を終了したのち、法政大学教授から慶応大学教授へ。専門は財政学や地方財政論や制度経済学。著書はかなりある。『市場と制度の政治経済学』(東京大学出版会)、『反グローバリズム』『市場』(岩波書店)、『経済の倫理』(新書館)、『日本再生論』(NHKブックス)、『長期停滞』『経済大転換』『セーフティネットの政治経済学』『閉塞経済』(ちくま新書)、『粉飾国家』(講談社現代新書)など。 

≪061≫  共著もいい。共著がいいのは実はめずらしいのである。大澤真幸と『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)、アンドリュー・デヴィットと『反ブッシュイズム1・2・3』『世界金融危機』『脱「世界同時不況」』(岩波ブックレット)、児玉龍彦と『逆システム学』(岩波新書)、高端正幸と『地域切り捨て』(岩波書店)など。 

≪062≫ (2)上に書いたように新自由主義(ネオリベラリズム)についての議論や問題点についてはあらためてとりあげる。またリバタリアニズムについては、金子はかなり批判的であるようだが、いろいろ見るべきものは少なくない。いずれぼくなりにとりあげて、そのパースペクティブから紹介しておきたいと思っている。そのときロールズの正義論にもあらためて言及したい。ウォーラスティーンは、もういいだろうね。 

≪063≫ (3)第三者によるネットワーク・アソシエーションの創成については、これから大きな課題と期待が寄せられると思う。さまざまな関連思想や関連制度、たとえば大澤真幸の「第三者の審級」や「新しい公共」論や金子郁容の「ボランタリー経済学」などとも関係してくるが、ぼくはそこにやっぱり“編集的アソシエイツ”を加えたい。そこからはきっと新しい「複業社会」や「ポリロール的才能」の出現がありうると思うのだが、さあ、どうなるか。そのうちちらちらご披露したい。 

≪01≫ ベートーベンの『第九』の第4楽章「合唱」はシラーのオードの言葉でできている。シラーがクリストフ・ケルナーのもとに身を寄せていたときに、フリーメーソンの精神を讃えるために書いたオードだった。 

≪02≫ ベートーベンもフリーメーソンに好意をもっていたが(本書では会員だということになっている)、モーツァルトはおそらくメーソンそのもので、父やハイドンにフリーメーソン入会を勧めただけでなく、『魔笛』全曲をフリーメーソンの精神の表現だとみなしていた。 

≪03≫ モーツァルトだけではない。音楽家でいえばリスト、シベリウスから現代ジャズのカウント・ベイシー、デューク・エリントン、ルイ・アームストロングもフリーメーソンだったようだ。 

≪04≫ フリーメーソンについては誤解が渦巻いている。ぼくも何が本当なのか、さっぱりわからない。だからここでは本書に書かれたこと以外はいっさい触れないことにするが、「この本は堅い」と評判の本書だって、すべて"事実"が記述されているのかどうか、ぼくにはまったく保証できない。 

≪05≫ フリーメーソンの起源は14世紀を溯らない。 それ以前にも何かの前身があったと思いたいところだが、せいぜい鏝と直角定規とコンパスを重視する石工(メーソン)を中心とする職人組合があったということだけで、それ以外のことはわからない。 

≪06≫ その、各地にできた拠点を「ロッジ」とよび、ロッジに登録されたメーソンを「公認メーソン」とよぶ。ロッジの活動がしだいに異なってくると、1717年にロンドンの4つのロッジの代表者が集まってロンドン・グランドロッジを設立した。1723年には「フリーメーソン憲章」も発表する。これがのちにエイシャント・グランドロッジ(古代派)とよばれる潮流で、のちの「近代派」と対立したらしい。二つの和解は1813年のことだったという。すなわちオベディエンス(分派)時代である。 

≪07≫  このイギリスのロッジのうち、フランスに流れてきたフリーメーソンがある。これがのちに「思弁フリーメーソン」とよばれる流れで、折からのヴォルテールらの啓蒙主義に縦横に結びついた。フリーメーソンの活動が爆発していくのはここからである。 

≪08≫ したがって、本書でもしばしば注意書きが出てくるのだが、フリーメーソンは錬金術とも薔薇十字運動ともほとんど関係がなかったということになる(ポール・ノードンの『フリーメーソン』ではヘルメス思想や薔薇十字思想とフリーメーソンは関係をもっていたとされている)。 

≪09≫ それでもフリーメーソンが誤解されたのには、いくつかの理由がある。第1には、その参入儀式のせいである。イニシエーションとよばれる。実際にはレセプションという程度のものだと本書では解説されているが、外からみればイニシエーションが秘密結社特有のものだろうという感想になる。 

≪010≫ 第2にはフリーメーソンが誤解されるのは、エルサレムの神殿を起源とする神殿幻想や各地のロッジの象徴的装飾性などにみられるように、視覚的シンボルを重視するところにある。本書にはそうしたシンボルが所狭しと挿入されていて、それらを見ているとフリーメーソンが秘密結社で神秘主義に酔っているとしか見えなくなってくる。 

≪011≫ 第3に、フリーメーソンは誰がメンバーであるかということを長らく公表してこなかった。むろん自分からも言い出さない。これはどうしても怪しく見える。日本でいえば西周や津田真道がオランダでフリーメーソンに入会しているのだが、このことは多くの日本人にとっては未知なことなのである。 

≪012≫  これだけ揃えばフリーメーソンに関する噂はいくらでも飛び火する。どうもフリーメーソン側もこのような噂が出ていくこと自体を放っておくようなところがあった。 ところが20世紀になって、フリーメーソン側もそうもしていられなくなったのである。 

≪013≫ フリーメーソンが現代社会のなかで、ある程度明白な活動を見せるようになったのは、ヒトラーやムッソリーニやフランコがフリーメーソンの活動を禁止しようとしたからだった。フランコ時代にはかなり処刑者も出た。 

≪014≫ フリーメーソンは第二次大戦後は活動の一部をおもてに出すようになってきた。集会もニュースになった。1971年のパリ・コミューン100周年記念開放白会、1987年にミッテラン大統領がエリゼ宮にフリーメーソン代表団を迎えて演説をしたことなどは、かなりよく知られたニュースであった。ちなみにミッテラン大統領はフリーメーソンにかなり親近感を抱いていたようで、本書によると、エマニュエリ社会党第一書記、デュマ外務大臣、ジョックス国防大臣などの側近がフリーメーソン会員だったらしい。 

≪015≫ いま世界中には約800万人ほどのフリーメーソン会員がいるという。これからフリーメーソンがどんな活動をするのか知らないが、そろそろ日本でもフリーメーソン情報が解禁されてもいいようにおもわれる。 

≪016≫  ところで本書は「知の再発見」双書のうちの一冊である。ぼくはこの双書が好きで、翻訳が出る前に目ぼしいものはフランスからとりよせていた。 

≪017≫  いまは戸田ツトム君の念入りのレイアウトによって大半が日本語で読めるようになっている。手軽な双書であるけれど、その図版の選択の精度、一定の叙述水準、資料の提示の仕方など、かなり編集的な充実がはかられている。お薦めだ。  

≪01≫  テロとの対決を最終戦争とみなしたがっているブッシュ政権の連日の発言報道を見ていると、かつてボードリヤールが、「もはや現代社会では社会を組織する様式としての本来の交換はない」と断言して、もしそういうものがあるとするなら、きっと人質交換などのテロリズムであろうと予言的に書いていたことが思い出される。 

≪02≫  1976年に発表された『象徴交換と死』(ちくま学芸文庫)では、とくにこのことが強調されていた。市場における価値の等価な交換などとっくに死滅していて、もしそういうものが残っているとすれば、おのれの死を差し出して相手の死を要求するという交換だけだろうという予言が書いてあった。21世紀においても、サブライム(崇高)という象徴だけが、なお交換の材料として残響していること示唆していた。 

≪03≫  同様の意味で、ボードリヤールはマスメディアにも交換価値を提供する能力がほとんど死滅しているとみなしていた。マスメディアは現実そのままの提供すらできなくなっていて、現実の幻惑を提供することだけが使命になっていくと予想した。 

≪04≫  ぼくが「遊」を創刊したのは1971年だったが、そのころボードリヤールはアンリ・ルフェーブルの助手から出発して、マルクスの社会観とソシュールの記号論をひっさげて登場した気鋭の社会思想家だった。 

≪05≫  すぐに評判が立った。とくに「消費」や「商品」にひそむ意味の構造を独得な目で分析して、価格のついた欲望がつくりあげてきた社会がどのように「本物」と「まがいもの」(シミュラークル)をまぜこぜにしたかということを暴いた手際に、目を奪われた者は多い。その分析の目で消費社会や戦争社会を解読すると、当たっていることが多いとも感じられた。 

≪06≫  しかし、ボードリヤールを文明の予言者扱いすることは、よろしくない。なぜならボードリヤールはあまりにも多くのことの「次のシーン」を提示したため、そのひとつひとつの予言的提示を集めて総合化しようとすると、それらの指摘や提言がいくつかの矛盾する動向のなかに浮いている未確認飛行物体のように見えるからだ。 

≪07≫  とはいえ、ひとつひとつの指摘や提言は元気よく爆ぜていた。だからいくつかの言明や予想を取り出して、これを自分のノートにピンナップしておくことは、ひょっとして百人の社会屋や経済屋たちの意見を聞くよりもずっと興奮できるものになるのかもしれない。 

≪08≫  最初に本書を読んだとき、そして次に『物の体系』(法政大学出版局)を読んだとき、ぼくはそのようにボードリヤールと付きあうべきだと合点した。 

≪09≫  ボードリヤールにはいろいろ穿った指摘があるが、一番感心したのは、「生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている」という見方だった。銀行は銀行の維持のために、大学は大学の存続のために、百貨店は百貨店であることを自己言及するために、そこに生じている生産と消費を食べ尽くす。  

≪010≫  これをいいかえれば、社会のシステムはもはや余剰を生まないだろうということである。新たな富なんてつくれないということだ。なぜなら欲望の動向は福祉の動向に吸いこまれ、商品の市場民主主義は貨幣の国際民主主義に取りこまれ、何かの均衡はどこかの不均衡のために消費されざるをえないからである。 

≪011≫  つまり、あらゆる国のあらゆる社会システムが、ついに「類似の療法」だけを生み出すしかなくなってきていて、むしろ「構造的な窮乏感」を演出することだけが、システムの活性化を促すための唯一の手段と演出になっているのである。 

≪012≫  本書ではそこのところを、こう書いている。「事態はもっと深刻である。システムは自分が生き残るための条件しか認識しようとせず、社会と個人の内容については何も知らないのだ」「ということは、どこにも消費システムの安定化は不可能だということなのである」というふうに。これは恐ろしいことだが、ずっと前にホワイトヘッドが次のように言ったことがもはや成立しないということをあらわしている。「ホモ・エコノミクスの美しさがあるとしたら、彼が求めるものをわれわれが正確に知っているという点にある」。 

≪013≫  本書はいっとき人気絶頂だったジョン・ガルブレイスの『新しい産業国家』(講談社文庫)や『ゆたかな社会』(岩波現代文庫)の反響に抗して綴られた。どのようにボードリヤールがガルブレイスによってふりまかれた幻想を瓦解させたかということは、説明するまでもない。その後の現実の進行そのものがガルブレイスを打倒した。 

≪014≫  それよりもいまなお本書を読んで残るのは、より充実した消費社会をつくろうとすればするほど、その消費社会を学習し、それに伴う手続きを普及させるためのコストが、その消費構造を破ってしまうだろうと見ているところだ。 

≪015≫  このコストがどういうものかをボードリヤールは正確に指摘できてはいないものの、それが最小共通文化(PPCC)と最小限界差異(PPDM)のために払われて、結局はシステムを根こそぎワリにあわないものにするだろうことについて、あれこれの事例をあげて説明しようと試みていた。 

≪016≫  とくに「個性」や「個性化」を消費社会が重視すればするほど、実は消費社会がその「差異」の内在化によってどんどん腐っていくだろうことを指摘したのは示唆的だった。「あなたが夢みる体、それはあなた自身の体です」という下着会社のブラジャー宣伝のコピーは、この究極の同義反復によってしか「個性化」を意味に変えられなくなっているのである。 

≪017≫  ボードリヤールは本書を書いた1970年の段階で、このようにも断言してみせた。「今日では純粋に消費されるもの、つまり一定の目的のためだけに購入され、利用されるものはひとつもない。あなたのまわりにあるモノは何かの役に立つというよりも、まずあなたに奉仕するために生まれたのだ」。だから、多くの企業や消費者がありがたがっている「個性化の戦略」こそが消費構造のダイナミズムをことごとく消し去ってしまう、そいつには気をつけなさいというふうに。 

≪018≫  ボードリヤールの出自はフランスのランスの小作農である。土地と生産の現場を見て育った。1948年にソルボンヌ大学に入って、ドイツ語を専攻した。だから当初はマルクスやブレヒトの翻訳もしていた。 

≪019≫  1962年にフェリックス・ガタリとともにフランス中国人民協会を設立した。毛沢東主義に幻想をもっていたのだ。1966年の博士論文「物の体系」を、ロラン・バルト、ピエール・ブルデュー、アンリ・ルフェーブルが評価した。気をよくしてしばらくルフェーブルの助手をしたのち、「物の体系」の主張を拡張するべく次々に書きまくってポストモダン思想の旗手となった。 

≪020≫  書きまくってはいったが、ボードリヤールは経済社会を展望するための処方箋を何も提示しなかったという点では、まことに冷たい。まるで何をしても無駄なのだと言っているようだった。読み方によっては、ただアナーキーな発言をくりかえしているか、本当はジョルジュ・バタイユの「蕩尽」を持ち出したいのを我慢しているとしか見えないこともなかった。  

≪021≫  しかし、本人にはそういうつもりがないようだ(そう思ってあげたい)。彼は、これからの消費社会は言語活動の価値を変えるところまで進まないかぎり、きっと何もおこらないだろうと言っているからである。 

≪022≫  経済活動や消費活動が言語活動に酷似していること、少なくとも価値観の大半が言語に還元されながら浮き沈みしていることは、ポストモダン思想では“常識”になっている。経済を動かすには言語を変えるのが有効なのだ。 

≪023≫  言語活動の価値を変えるには、かなりの作業が必要である。ボードリヤールは一例として、広告が本来の経済合理性を台なしにしていることを指摘しているが(つまり商品とメッセージを相殺しあっていることが気になるらしいが)、そんな程度の指摘や改変ではまにあうまい。経済社会を説明してきた言語性の総体に疑いを向ける必要がある。 

≪024≫  本書では議論が拡散してしまってまとまりがないのだが、のちの『生産の鏡』(法政大学出版局)や『象徴交換と死』では、「意味するもの」と「意味されるもの」、「シミュラークル」と「シミュレーション」の根本変動が要望されている。ボードリヤールによると、現代社会は総体としてのシステムのなかに意味と根拠を次々に喪失させていて、それでは社会は「模造と分身」の流動化が驀進する以外のなにものでもなくなっていくとみなされた。ここにはボードリヤール自身もすこし気がついている難問も待ち受けていた。 

≪025≫  ひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムのなかにことごとく落としてしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、まずはその「知を装う欲望消費」をこそ食いとめる必要があるということである。ここには、いったい人間が発見してきた科学というものは何かという根底を批評するしかない覚悟と計画も含まれて、少なくともボードリヤールのロジックでは二進も三進もいかない問題が待ちうける。 

≪026≫  もうひとつは、「メッセージの消費というメッセージ」が頻繁に出まわったときにどうするかという問題だ。この後者の問題は、ボードリヤールの予測よりもなお急速に、いまやインターネットの海の出現によって現実化してしまい、どんな記号の差異や意味の差異もが、つねにウェブ上の相対的自動更新にゆだねられてしまったかに見える。 

≪027≫  こうした難問を、その後のボードリヤールは“予言”しようとはしなくなった。代わってボードリヤールがその自慢のレトリックを使うのは、たとえば「湾岸戦争などというものはなかったのだ」と指摘することだった。 

≪028≫  ボードリヤールの思想を、欲望社会批判のための便利なテキストにしてしまうのはもったいない。そこには仮想社会に対するクリティックも含まれていたからだ。 

≪029≫  それかあらぬか、最近、ボードリヤールは意外なところで脚光を浴びた。1999年にウォシャウスキー兄弟による監督作品《マトリックス》がヒットし、監督も中身もスタッフも、キアヌ・リーヴスらの出演者も、こぞってボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』(法政大学出版局)にはまっていたことが話題になったからだ。 

≪030≫   そもそも監督らが「マトリックス」構想を得たのが『シミュラークルとシミュレーション』だったようだ。物語はコンピュータがつくりだした仮想現実マトリックスの中に生きていた主人公の天才ハッカーが、その欺瞞のアクチュアリティを破っていくというもので、まさにボードリヤールの思想そのものだった。映画の中にも、キアヌ・リーヴスが大事なディスクを『シミュラークルとシミュレーション』の本の中に隠して渡すという場面があった。ボードリヤールのシミュレーショニズムは、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』にも、押井守の『攻殻機動隊』にも再生されていたということになる。

『部分と全体 1團1列

≪01≫  物理学者の自伝として、名著である。名訳でもある。二十世紀物理学の青春期と壮年期があまりにみごとな対話の輻湊で蘇っているので、稲垣足穂はこの言葉の楽譜を『ハイゼンベルク変奏曲』として綴りなおした。原稿はぼくに手渡され、「一応、出版社に了解をとっといてくれへんか」と言われた。四〇〇字で一八〇枚くらい。冒頭が「第一章 ホックと留金」。さっそくみすず書房に連絡をとり、原稿を見せてくれというのでコピーを渡したところ、「出版、まかりなりません」という返事がきた。内容が原著に近すぎるというのだ。 

≪02≫  たしかに足穂さんは『部分と全体』を本歌取りにして、そのメロディはそのままに変奏曲を独自の編集でアレンジしてみせていた。それをもって「半ばは盗作じゃないか」と言うことも、できなくはない。その判断は微妙だが、ともかくはそういうわけでこの足穂原稿はいまだにお蔵入りしたままにある。すでに杉浦康平さんと原稿用紙を再現したような本文二色刷りの造本で出版しようと決めていたのだが、あきらめた。そして足穂さんはこのあと一年たらずで、亡くなった。  

≪03≫  一九九八年、筑摩書房が『稲垣足穂全集』を刊行するにあたって『ハイゼンベルク変奏曲』の収録を打診してきたが、そんな事情があっていまなお陽の目を見ないままになっている。科学書が好きだったタルホが最後に愛し、最後に執着しつづけた一冊、それが『部分と全体』だったのである。 

≪04≫  本書は、いってみればハイゼンベルクの『ソクラテスの弁明』であり、『ヴィルヘルム・マイスター』であるのだろうと思う。二十世紀を代表する一人の科学者が歴史を決定するような対話を通して自らの科学の確立に至るという筋書きからいえば、善財童子ふうの五十三次・科学遍歴といってもよい。 

≪05≫  叙述は一九一九年のミュンヘンから始まっている。青年ハイゼンベルクがプラトンの『ティマイオス』の一節に興味をおぼえ、屋根の上でプラトンを読みながら、物質の究極に正多面体のようなイデアがあるのか、それとも数式があるのかという煩悶をするところが振り出しである。ハイゼンベルクはこういう問題を新プラトン主義者のように一人で哲学するタイプではなかったようだ。彼は学生時代から仲間たちとハイキング(ヴァンダールング)に行くたびに闊達に議論し、自分の思索の閃きと深化のほとんどをこれらの会話の奥から引き出すほうがおもしろかったようだ。また、そういうことに熱心になれる能力に長けていた。   

『部分と全体 1團3列

≪06≫  書物との出会いも大きい。学生ハイゼンベルクは早々にヘルマン・ワイルの『空間・時間・物質』(ちくま学芸文庫)に出会っている。 これはぼくも夢中になった本のひとつで、本書ではハイゼンベルクが「ワイルの言葉に心が惹かれるのに、その内容が見えきれなかった」と書いているのが印象深い。ワイルとはそういう自然科学者なのだ。「生きているものと死んでいるものとの共存。それがこの世界における最も著しい特徴なのである」――ワイルはこういうセリフを平気で連発できる人だった。 

≪08≫  その最初のきっかけはアーノルド・ゾンマーフェルトの門下に入ったことにあったようだ。ゾンマーフェルトは当時の原子物理学の親分のようなもので、それも山口組・稲川会といったふうにいくつかの縄張りを張る親分の一人だったから、ハイゼンベルクはいろいろの親分一家を訪れ、その兄弟子たちと他流試合をする必要があった。「ゾンマーフェルトのところでワラジを脱いでます」といえば、どの親分にもお目通り可能だったのだ。このころ原子物理学の舞台はゲッチンゲン、コペンハーゲン、ベルリンの三都で革新されつつあった。そしてウィーンとライプツィヒとロンドンが別格本山のような趣きをもっていた。 

≪07≫  ワイルだけではない。リーマンもヒルベルトも、そういう大人物だった。ハイゼンベルクはかれらを親にもつ世代にあたる。だから錚々たる対話の相手に恵まれた。自ら進んでその渦中にとびこんでいったという感じもある。対話が好きなのだ。 

≪09≫  ゾンマーフェルトのところで、ハイゼンベルクは生涯にわたる刎頸の友となるヴォルフガンク・パウリと出会う。 

『部分と全体 2團1列

≪010≫  二人はほぼ対照的な性格で、パウリはどうみても天才肌で早熟だったし、これに対してハイゼンベルクはバランスのよくとれたプロセス思考型だった。ハイゼンベルクが明るい陽差しが大好きな朝型人間だったとすれば、パウリは典型的な夜行派の思索者で、ゾンマーフェルトの講義にさえ午前中には出てこなかった。のちにパウリがユングとのあいだでシンクロニシティに関心を示すのも、パウリの闇思考を暗示する。しかし、二人のこの相いれない対照性こそは、のちに量子力学と原子物理学の根本に大変動をもたらしていく。  

≪011≫  ハイゼンベルクはついていた。次の出会いはボーアとアインシュタインである。ボーアはゾンマーフェルトとは別の一家の組長か、もしくは筆頭舎弟にあたる。そういうボーアとハイゼンベルクとの対話は主に政治と科学をめぐる議論だった。この時代は第一次世界大戦後のドイツが激しく遷移しつつあったので、科学者といえどもそうした政情の変化をいっときも思索からはずしてはいない。とくにボーアはのちのアインシュタインとの論争を含めて、当初から政治と科学を分断しなかった。対話はコペンハーゲン解釈をめぐる対立を浮き彫りにして、後世に問題を残していった。 

≪012≫  一方のアインシュタインとの対話はマッハの「思惟経済」をめぐるちょっとした議論になっている。ぼくには懐かしい。なぜ懐かしいかというと、ぼく自身がマッハをへてアインシュタインに至るのに、たった一人でとぼとぼ歩いた記憶が蘇ったからだ。ハイゼンベルクは颯爽と、かつ謙虚ではあるが断固としてアインシュタインと対座した。マッハの思惟経済をめぐっても対立をおそれぬ議論に挑んでいる。 

≪013≫  原子の中の電子の実在をどのように観測するのか、どう証明するのかという議論だ。この個所をよく読めば、のちにハイゼンベルクが提唱する不確定性原理の意味がよくわかる。 

≪014≫  つづいてハイゼンベルクの前に登場してくるのは、物質波の提唱者ドゥ・ブロイと波動関数の旗手シュレーディンガーである。量子力学が秘めるこみあげるような感動という点からいえば、ぼくがいちばん影響をうけた二人だ。 

≪015≫  ここでハイゼンベルクは自分を議論の外において、ボーアとシュレーディンガーの長めの論争を観戦する。当時は「月水金が粒子で、火木土が波動であるような物質とは何か」という問いが物理学の全容にのしかかっていたころで、この奇妙な物質の正体を説明するために、多くの研究者が「量子飛躍」とか「量子雑音」といったキマイラ的なアイディアを交わしていたのだが、結局は霧箱の中でおこっている量子のふるまいをどのように記述するか、その決定打を互いに模索し、探しあっていた。 

≪016≫  ハイゼンベルクはボーアとシュレーディンガーの譲りあわない主張のどちらにも属さずに、新たな問題を研究することを決意する。霧箱の中に電子の軌道が存在しているということはあきらかだった。当時の物理学者たちはその証拠を明白に見ているのだし、つまり観測していたのだ。 

≪017≫  一方、量子力学のいくつかの数学的図式もほぼ完成しつつあって、物質の究極像は粒子的なものと波動的なものを同時にあらわしているだろうことを主張していた。この二つの議論のあり方には何かがつながりあっていい。また、そのあらわし方には確率論的な解釈が要請されていいと思われた。では、これらをどうつなげたらいいのか。ハイゼンベルクはアインシュタインが言ったことを思い出す、「なんらかの先行する理論があってはじめて、それが何を観測できるかということを決定できるんじゃないのかね」。 

≪018≫  ハイゼンベルクは「霧箱における観測」がもたらす存在の問題と「量子力学をめぐる数学」がもたらす存在の問題とを、なんとか新しい理論でつなげようと覚悟した。この思索が有名な不確定性原理になったのである。存在と運動を同時に観測できそうもないことが問われたのである。 

≪019≫  このあたりのはこびには、プラトンの『ティマイオス』が生きているようにも見えるし、また、いかにも観測理論の名人にふさわしい立場のとりかたのようにも見える。ハイゼンベルクという物理学者、どこか戯曲作家のようなところがある。 

『部分と全体 2團3列

≪020≫  こうして本書はしだいに一九二九年の世界恐慌から一九三〇年代に入っていく。ライプツィヒに移ったハイゼンベルクの周囲にはポール・ディラックやオスカー・クラインが登場し、仲間たちの議論のテーマも宗教や生物学や化学におよぶ。 

≪021≫  これらの興味深い対話を読むと、ハイゼンベルクがその根底にホワイトヘッド流の有機体の科学の確立にも関心をもっていて、最終的には物理学にも「意識」を記述しうる場所をあけたがっていることがよく伝わってくる。このことに着手したのは、よく知られているようにハイゼンベルクではなくて『生命とは何か』(岩波文庫)のシュレーディンガーや『全体性と内蔵秩序』(青土社)のボームだったのだが、ハイゼンベルクも「生きている科学」に触手をのばそうとしていたようだ。第十章「量子力学とカント哲学」、第十一章「言葉についての討論」あたりは、今日の認知科学者やコンピュータ・サイエンティストが読めば、きっとヒントを得るものがあるだろうが、ぼくにはセンスがないように感じた。 

『部分と全体 3團1列

≪022≫  一九三三年に、量子力学と相対性理論を背景にした物理学のすさまじい黄金期がおわる。ナチスが政権をとった年である。 あらかたの成果はもう確保されていた。ボーアの相補性仮説、シュレーディンガーの波動関数、ドゥ・ブロイの物質波の提起、ディラックの「電子の海」仮説、パウリの排他律、そしてハイゼンベルクの不確定性原理。 

≪023≫  しかし、これらを統合するにはまにあっていない。本書を読んでもひしひし実感できるのだが、このあと物理学者たちは全員が戦争を逃れて、ふたたび戦後社会のなかで統一理論にとりくんでいくのにもかかわらず、そこには、かつてハイゼンベルクたちがヴァンダールングをしながら議論した溌剌や、コペンハーゲンやゲッチンゲンの夜を徹した会話は蘇らなかったのである。そのかわり、物理学はリーとヤンによる「パリティ崩壊」のニュース以降、自然界の最も奥にひそむものが時間なのか、対称性なのか、場所そのものなのかということを悩むことになる。 

≪024≫  そういう意味では、本書は二十世紀物理学の青春譜であって、かつ鎮魂譜であったのだ。ぼくはぼくで稲垣足穂が『ハイゼンベルク変奏曲』によって何を訴えたかったのかということを、いつかどこかで公開したいと思っている。 

≪01≫  こんな問題がマイクロソフト社の入社試験に出た。「南へ1キロ、東へ1キロ、北へ1キロ歩くと出発点に戻るような地点は、地球上に何ヵ所ありますか」。

≪02≫  筆記試験ではない。マイクロソフトのみならずアメリカのトップ企業の大半は3回から5回にわたる面接試験だけで、採用を決める。口頭で答えなければいけない。面接者の解答はさまざまだが、マイクロソフトの評価基準はこうなっていた。「0ヵ所」→不採用。「1ヵ所」→不採用。「∞(無数)」→不採用。「∞+1ヵ所」→まあまあ採用か。「∞×∞+1ヵ所」→採用。

≪03≫  これ以外に、ぐずぐずしていた者、途中の説明が紆余曲折した者、自分の自信に陰りが見えた者、ムッとした者、笑いすぎた者、こういう反応はすべて不採用になる。

≪04≫  こんな問題にうまく答えられたとして、そのどこがいいんだと訝るかもしれないが、これがビル・ゲイツの信念なのである。この、世界で一番不遜な会社の経営者は、マイクロソフトの採用人材に必要なものは技能でも経験でもなくて、唯一、知能だけだと思っているからだ。いっときビル・ゲイツが信用しているのはIQだけだという噂が広まったことがある。これはガセネタであるらしかったが、ビル・ゲイツが無類のパズル好きで、しかもパズルでしか面談をしないというのは、そこそこ事実であった。

≪05≫  だいたい会社というものは、第一には、役に立たない人材をどのように見分けて不採用にするかということ、第二にはまちがってそういう人材を採用してしまったばあいには、いかに迅速にその才能を別途に活かせるかを判断するということ、第三に、それでもダメな人材をさらに迅速に退社させるということ、これらのことだけを考えていればいいはずなのである。

≪06≫  しかし、そのためにパズル面接が最も有効だというのは、にわかには信じがたいのだが、マイクロソフトによると、これは、相手の質問の意味がわからない、緊張しすぎて能力が発揮できない、やる気はあるがアタマが悪い、アタマはいいと思っているくせにそのプロセスが説明できない、問題に好き嫌いがありすぎる、勘に頼っていて組み立てがない……こういう連中を落とすためには絶対に必要なことらしい。

≪07≫  少なくともビル・ゲイツが不遜な会社を続けていく以上は、この方針は変わらないらしい。そこで、パウンドストーンがその実態調査に乗り出したのだ。

≪08≫  本書の著者パウンドストーンは、前著のゲーム理論をかみくだいた『囚人のジレンマ』(青土社)もそうだったけれど、主題と論点を巧みな事例をつかって解きほぐすのが、めっぽううまい。前著はフォン・ノイマンの理論や「おうむ返し」理論やナッシュ均衡の考え方を、マッカーサーの演説やキューバ危機やドル・オークションなどの話をふんだんに織りまぜて、なかなか読ませる構成にしていた。とくに自己言及パラドックス(囚人のジレンマ)をうまく解説した。

≪09≫  今度はどんな狙いで本書を書いたかというと、狙いはマイクロソフト面接試験の実態調査というよりも、マイクロソフトが集中的にパズルをとりあげた例を出しながら、パズルにもたせた意図をほぐし、それが究極の人材の発見へとつながるのかどうかということを、企業やプロダクションの経営者や幹部に突き付けることだった。

≪010≫  あいかわらずうまい構成と説明を見せてはいるが、実際にはマイクロソフトの“戦略”に乗せられた一冊になっている。そこでぼくも、今夜だけはその“戦略”に乗ったフリをする。そのノリでパズル問題を2、3あげておく。マイクロソフトの狙いとは関係なく、お楽しみいただきたい。

≪011≫   (問題1)太陽は必ず東から出てくるのだろうか。  (問題2)マンホールの蓋が四角ではなく丸いのはなぜか。  (問題3)マイナス二進法で数を数えなさい。

≪012≫  著者が説明するには、こういう問題が出たら次のことを守るといいらしい。①どういう答えが期待されているかを決めること、②最初に考えたことはたいてい間違っていると思うこと、③複雑な問題は単純な解答に絞り、単純な問題は複雑な解答がありうると思うこと、④壁にぶつかったら、自分が考えたいくつかの前提を捨てていく順番を決めること、⑤絶対に問題が不備だとは思わないこと、である。

≪013≫  ぼくのヒントははっきりしている。橋がなければ橋をかけることだ。ただし、川の一番狭いところにかけることである。どこも川幅が同じなら、橋を捨てて泳ぐこと、これである。

≪014≫  (問題1)はよく問題を読むことだ。ここには「地球では」とは書いていない。とするなら、答えは明々白々で、「バツ」である。が、正解しただけでは面接はパスしない。落とし穴が待っている。面接では必ず「なるほど、それでは、地球ではどうですか、太陽は東からしか出ませんか」と訊かれる。そのときにムッとして、「だって問題には地球ではと言ってないでしょう。だから宇宙と太陽の関係を言ったんです」とやりかえしたら、オジャンなのだ。地球でも北極や南極やその近くでは、太陽は東からは昇らない。そうでしょう。つまり最初の自分の答えはたいていまちがっていると思ってみるべきだったのだ。

≪015≫  (問題2)は頓知だろうか。頓知なら千差万別の解答になる。そんな千差万別を面接官が聞かされたところで、吉本興業ならいざしらず、なんら採用基準のヒントにはならない。そこでこれはクソ真面目な問題だと、逆のほうに向かうべきなのである。

≪016≫  真面目に考えるには、なぜ丸いマンホールがいいのかを考えてはいけない。世の中のどのマンホールも丸いようなのだから、丸がいいのはわかっている。問題は四角ではなぜダメかなのだ。そこでマンホールのことをよく思い出してみる。マンホールは単純な代物だから思い出すべきことはそんなにない。鉄か合金でできている、模様がついている、手が引っかけられる部位がある、そこに把手がへばりついている。それくらいだろうか。いや、もうひとつチェックするべきことがある。蝶番はついているかどうかということだ。多くのマンホールはドア構造にはなっていずに、すっかり取り去れるようになっている。蝶番はついていない。

≪017≫  ただしここで、なぜマンホールに蝶番がないかという方向に進んではいけない。ここで一転、蝶番のついていない四角いマンホールを想定することだ。問題は丸と四角の違いなのである。そこで四角いマンホールを持ち上げ、どこかに置き、それをまた入れようとしてみる。四角い穴に、四角い蓋。ここで突然にひらめくべきである。四角形の対角線は四辺のいずれより長い。そうなのである。四角いマンホールではその鉄の蓋がちょっとでも斜めになるだけで、マンホールの中に落としてしまう危険があったのだ。円形と円形ならそれはおこらない。

≪018≫  以上のことをすばやく考えて、「四角いマンホールでは工事の人が死にますね」と答えると、ビル・ゲイツたち面接官(たいてい6人)は体を捩らせて喜ぶそうだ。

≪019≫  (問題3)の「マイナス二進法で数を数えなさい」は自分でやってみるとよい。むろんマイナス二進法などというものはない。だから受験者はただちに、このニューシステムを想定しなければならない。

≪020≫  次に二進法だから2個の数字でいいわけなので、どの数字を使うかを決める。3と5など使えばそれでオジャン。おそらくやっぱり0と1がいい。それでアタマのなかでいくつか試算をしてみる。デジタル記号がアタマに見えないようでは、それだけで不採用になる。

≪021≫  ところで、入社試験とか面接試験というのは、その大半がストレスを与えて窮地を脱しようとする追いつめられた姿を、ひたすら面接官が楽しむためにある。インタビュー形式であれ、パズル面談であれ、筆記であれ、それで人材の才能がつかめるものなど、定番はほとんどないと言ってよい。

≪022≫  わざわざストレスを与えるためには、よくある手だが、会議室に案内されると「お好きなところに坐ってください」と言われる面接法がある。どこかに坐ると、「どうしてそこに坐りましたか」と聞いてくる。会議室のテーブルは長方形か楕円が多いから、それで心理テストをしようというくだらぬ戦法である。

≪023≫  一説には、長いほうは「羊」、短いほうに座ると「狼」というばかばかしい人格チェックがされるという。窓を開けさせる面接もある。いくつかの窓のある部屋で、1ヵ所窓を開けさせて、その位置で心理傾向を見るものだ。まったく心理学というのはロクなことを考えていない。

≪024≫  多少とも有効なのは、面接のあとに雑談をさせるか、簡易パーティなどをすることである。できれば旅行に行けば一番だが、これは費用がかかりすぎる。第506夜に書いておいたが、花森安治の採用方法などがひとつのヒントになるだろう。つまり、問題は面接のあとなのだ。

≪025≫  ぼくも面接は少々ながらやってきた。いまはイシス編集学校の師範代のためのものしかしていないけれど(これは採用人事というより、お願い人事)、どんなときもパズルなし、ストレスなし、心理学なしである。ただし、おかげでずいぶん採用人事については失敗をしつづけた。それでもビル・ゲイツなど、これっぽっちも真似したくない。ぼくは「囚人のジレンマ」を解くことよりも、そんな事態から遠く離れることのほうを好んで人生をおくってきたのだし、これからもおくりたい。

≪026≫  いや、もっとはっきり言ったほうがいいだろうね。ぼくはビル・ゲイツもマイクロソフトも、実は嫌いなのである。