共同体

 気候変動と遺伝子編集と民俗学

意義を質す
威儀を格す

寅さんに問う
放映用

読書・独歩 目次 フォーカシング
読書・独歩 宇宙の間隙に移居する PartⅣ 道教の身体観
読書・独歩 宇宙の間隙に移居する PartⅡ 生 
読書・独歩 宇宙の間隙に移居する PartⅤ 神話の世界
読書・独歩 宇宙の間隙に移居する PartⅠ 物
新企画 風天を生きる  放映用

風天を生きる

3・11・14・46。あれから1年目。


宮城沖の海底地震。三陸を襲った大津波。東日本大震災。


福島第一原発メルトダウン。放射能汚染。


二万人の死者。避難所と被災住宅。瓦礫の堆積。風評被害。


その1年前を刻んで、今日は国立劇場をはじめ
各地で追悼や黙祷が連鎖し、テレビは特別番組を流した。

が、被災地の知人たちは一週間前からなんとも落ち着かず、

どうも胸騒ぎがしてしょうがないと言っていた。

どうしても「あの日」がアタマの中を襲ってくるらしい。

その名状しがたい憂愁をぼくはとうていトレースできないが、

災害や惨劇をかぶるとは、きっとそういうものなのだろう。

あまりの未曾有が瞬時に町を襲ったのだ。

で、人々はどうしたのか。町はどうなったのか。

1年目の今夜は次の4冊を案内する。

≪01≫ ◆吉村昭『三陸海岸大津波』(1970 中公新書・ 1984 中公文庫・2004 文春文庫)

≪02≫  ぼくが、こんなときに「連環篇」ばかり書いていられないと思って、「番外録」を書き始めたのは3月16日だった。しかし、何をどう書くか。むろん3・11の本などあるわけがないから、何軒もの書店をまわり、とりあえず尾花和夫の『活動期に入った地震列島』(1405夜)を選んで、ぼく自身の3・11当日のことを振り返り、「これはソリトンの悪魔のせいなのか」「いったいこの現況下、当事者とは何なのか」などと綴りながら、必死にこのとんでもない事態について自分が何を書くべきか、模索していたのだった。まったくの暗中模索だった。

≪03≫  翌日もその翌日も何かを書かなくちゃという思いばかりが先行していて、まるで巨きな黒い翼をもった得体の知れないものに追われていた気分だったが、「千夜千冊」はブログ日記ではなく、一冊ずつ本をとりあげて書くのだから、本との出会いがなくてはならなかった。けれども1年前のあのころは地震の本か原発の本か、どちらかの本しか手に入らず、やっと新潟日報がまとめたドキュメント『原発と地震』(1406夜)を土台に次の緊急セイゴオ・ノートにとりかかったのだった。

≪04≫  それから数日間にいったい何冊の本に目を通したろうか。原発関連の本も含めざっと300冊はこえていただろう。いまでは書棚二棹ぶんが地震と津波と原発の本で埋まっている。

≪05≫  ぼくは混乱しそうになるアタマを整理しながら、3つのストリームが自分のなかで錯綜しているのを見た。

≪06≫  (1)この災害が東北を襲ったことについて、ずっと考えて行かなければならないだろう。それには蝦夷の歴史から今日の町村の現実まで眺め渡さなければならないだろう。

≪07≫  (2)国家と原子力のことについて、何らかの見通しと判断をしなければならないだろう。それには世界のエネルギー問題や環境問題まで見渡す必要がある。

≪08≫  (3)危難とリスクとその解消と保持の関係について、かなり深い問題を浮上させなければならないだろう。それには資本主義経済下の社会学や現代思想の根本をぐりぐり動かすべきだろう。

≪09≫  いずれも厄介な難題だ。が、ぼくは時間をかけてでもこの難問を考えていこうと思った。

≪010≫  ただ、これでは書棚二棹ぶんのごく僅かなものしか取り上げられない。原発や地震や危機管理やエネルギー問題の本は似たような類書を含めてかなり重なっているので、これらは組み合わせていけばなんとか方向が見える。けれども、被災地のこと、復興のこと、生活のこと、とりわけ津波対策のことは、ここからは見えてはこない。

≪011≫  そこでこれらをいったんお預けにして、ぼくの「番外録」のたどたどしい模索が始まったのだった。

≪012≫  書棚で数冊しか占めていない箇所があった。津波コーナーだ。そのなかに作家の吉村昭の『三陸海岸大津波』も入っていた。明治29年の津波について書いているのはこの本とあとは小泉八雲があるばかりだった。いつかこの本についてもふれなければならないと思ってきたが、今夜までほったらかしにしていた。

≪013≫  本書が比類のない記録文学であることはすぐわかった。吉村は20年以上にわたって毎年三陸海岸の村(下閉伊郡田野畑村)を訪れていたらしく、そのたびにこの土地の人間たちが真剣に向き合っている「海」というものに魅せられていったようだ。

≪014≫  だからずいぶん三陸の町村を歩いた。しかしその海らしい海の町や村のすぐそばに、しばしば周囲の調和を破るような大きさの防潮堤がある。突っ立っている。なぜこんなスケールアウトしたものが各所にあるのか訝った。

≪015≫  いろいろ聞いてまわったり調べていったりしたすえ、自分なりに本気でとりくむことにしたのが三陸各地を覆っている「津波の記憶」というものの再現だった。それがついにまとまったのが本書だったのである。当初は「海の壁」というタイトルだ。

≪016≫  吉村は本書のなかで、三陸各地で「よだ」「海嘯」「津波」などと呼ばれてきた恐怖の正体を、当時の記録と生き残りからの取材を通して、まことに過不足なく結実させている。「海面が白い光を発すると見るまに波が襲ってきた」「波の先が切り立った屏風のようにやってきた」「泥がまじった真っ黒い波が汽車よりもはやく押し寄せてきた」「ダイナマイトが破裂するような音が沖から聞こえてきた」「大きな容器の中の水が一斉に溢れたようにやってきた」といった吉村が集めた言葉は、100 年以上をへた今日、なお生々しい。

≪017≫  新聞記事、風俗雑誌特集、子供の作文もいずれも心にのこるものばかりだった。とくに吉村が津波と防潮堤の両方を「海の壁」とみなしたことが象徴的だった。まさに今日の被災地は新たな「海の壁」をどうするかという問題に、これからずっと悩まなければならないわけである。

≪018≫  しかし一方、明治29年や昭和8年の津波の話は平成23年の津波地震や原発地震とはちがっていた。

≪019≫  かつては昭和天皇は侍従大金益次郎を津波襲来直後に現地に派遣し、天皇からの御下賜金として死者・行方不明者一人につき金7円を、負傷者に金3円を、住宅全焼や流失や羅災世帯に金1円を贈った。かつての明治の大津波が来たのが旧暦の端午の節句、昭和の大津波は桃の節句、この二つの符合のなかで、たくさんの子供が死んでいった。

≪020≫  けれども津波と原発に同時に見舞われた東日本大震災は、首相を動顛させ、政府を揺さぶり、地方自治体を混乱させ、被災者たちが立ち上がり、ボランティアや外国人居住者を走らせたのだ。悲劇や羅災というものは、その瞬間、それまで見え隠れしていた時代と政治と生活と思想のすべてを問うものなのだ。ぼくはまたいくつもの本を彷徨しなければならなかった。

≪021≫ ◆緊急出版・特別報道写真集『巨大津波が襲った…3・11大震災』(2011・4 河北新報社)

≪022≫  あの日あの時から、日本中の誰もがそうだったように、ぼくもテレビ・新聞・ウェブ・週刊誌のいっさいに目を凝らし耳を欹てるようになった。とくに現場の写真や映像がすべからく衝撃的で、一枚とて目をそらしてはなるまいという釘付け状態が続いた。

≪023≫  多くの報道光景に釘付けになったけれど、3月末あるいは4月に入って各紙誌が緊急出版するものに注目するようになった。そのうちの一冊が仙台に本社をもつ河北新報の本書だった。

≪024≫  この報道写真集は見てもらうしかない。宮古新川町の午後3時25分の国道106号を津波が超える写真、その10分後の南三陸町志津川が呑まれる写真、ほぼ同じ時刻の女川町役場の惨憺たる被害、4時ころの孤絶していく仙台空港の惨状、まるでソドムとゴモラの時代かと思わせる岩沼町の水没遠景写真、翌日からの数々の各地の被害、救援部隊の深刻な勇気……。そして多くの住民たちの呆然とした表情が、報道カメラマンの“体”によって撮られている。

≪025≫  まことに凄まじい。その後にぼくが訪れた釜石や石巻の写真については、こんな部外者のぼくの感覚にさえ、これらの写真が当時の代償悪夢として突き刺さってくるのだ。

≪026≫  ところでぼくは、このところ『目次録』というマザーコード集の充実改訂にとりくんでいる。いまはその概要にも詳細にもふれないが、そのなかに仮称「代償の国家」という大項目がある。イシス編集学校の「離」の別当師範代で、明治大学のフランス文学の教授でもある田母神顕二郎君ととりくんでいる大項目なのだが、このマザーコードがもつ意味はきわめて重大だと感じている。なぜならわれわれは万事から万端まで、実は「代償」によって生きているからだ。

≪027≫  いまや社会史すべての問題は、いったいわれわれは何によって代償され、何によって購われているかということなのである。また犠牲はどのように制度化学されているかということなのだ。

≪028≫  突然にこんな話をもちだしたのは、夥しい被災地の写真集を一人黙々と見ていると、そこにときに意外なアングルによってぼろぼろになった町の一角があらわれて、ぼくに「代償の国家」の本質を告げるからなのだ。

≪029≫  災害写真集というもの、もっと社会的な位置付けが与えられていいのではないか。戦争文学や災害ノンフィクション同様に……。

≪030≫  大津波が宮古市を襲った瞬間。車はいとも簡単に国道106号に打ち寄せられた =11日午後3時25分ごろ、宮古市新川町(宮古市職員提供)  『巨大津波が襲った3・11大震災:発生から10日間の記録』(河北新報社)より

≪031≫ ◆AERA臨時増刊『東日本大震災…レンズが震えた』(2011・4 朝日新聞出版)

≪032≫  本書も3・11をめぐる震災写真集であるが、河北新報のものが新聞社の報道のための写真であるのに対して、こちらは独立したプロカメラマンたちの写真が中心になっている。

≪033≫  さすがにQ・サカマキの溶けかかった新聞束の写真(気仙沼)、ダミール・サゴルジの草まみれのピアノの写真(陸前高田)、深田志穂の花や布団や人形の写真(大槌・東松島・陸前高田)など、すぐれた作品性の高いものが構成されている。

≪034≫  しかし報道写真とくらべて何かがちがう。災害からみごとに切り取られた写真作品なのである。まとまりすぎているとも、よそよそしいとも見える。きっと個別の写真集やギャラリーで見れば魅入られるのかもしれないが、いまはなかなかそう見えないのだ。

≪035≫  そのうちあることに気がついた。この写真たちは「代償」を写真家が引き取っているのではないか。

≪036≫  多くの災害報道写真は現場のリアリティを告知するためにある。事件写真といってもいい。だから生々しいともいえるし、ときに素っ気ないとも見える。しかし、それが偽らざる事実であって伝えるべき真実だという訴求力をもっている。

≪037≫  一方、作品になった写真には、ノミナリスティックな名前を持った写真家が、その画面の中にいる。隠れこんでいる。ここにおいて一回分の代償性が引き取られてしまうのだ。逆にいえば、災害の現場にいた者たちが告知されざるをえなかった代償性が、写真家の表現力の中に解消されているように見えるのだ。

≪038≫  カルロス・バリアが岩手県山田町で撮った写真は、少し淀んだ青灰色の水面を二匹のカモが静かに泳いでいて、その向こうに細い金属パイプが突き刺さり、水面近くにに蛍光灯のプラスチック覆いのようなものが沈んでいるという、災害のあとの静寂を写し出している。まことにスペーシヴで美しく、かつ矛盾を醸し出している優秀作である。

≪039≫  ここには物語がある。恐怖のあとに漂う抒情すら聞こえてくる。おそらく五年後でも十年後でもギャラリーを飾れるだろう作品だ。しかし、この物語は3・11の一年目の現実には突き刺さってはこない。

≪040≫  いや、写真として上滑りしているのではない。社会というものが多層にもつ代償性を表現者の観察的苦悩が悪意なく奪い取っているだけなのだ。なかなかおっかないことである。

≪041≫  けれども、もう一言、書いておきたい。このようなことは、実は写真だけではなく、どんなメディア表現においても、日常的なコミュニケーションにおいてもいろいろ出入りしていると見たほうがいいということだ。3・11を振り返るとは、こうしたさまざまなことも引き連れてくるということなのである。

≪042≫ 3月18日、岩手県山田町

撮影:Reuters・Carlos Barria

AERA臨時増刊『東日本大震災…レンズが震えた』(朝日新聞出版)より

≪043≫ ◆河北新報編『河北新報のいちばん長い日』(2011・10 文藝春秋)

≪044≫  河北新報の震災報道は2011年度の新聞協会賞を受賞した。それを反映した本書は刊行後まだ半年もたっていないが、おそらくのちのちまでドキュメントの名作例として知られるだろう。新聞記者独得の「文」が、瞠目の事実の前に立ち向かっては打ちのめされる刻一刻の未曾有の現実を、まるで切り立て急き立てるように端的に告知しているからだ。

≪045≫  河北新報の河北とは「白河以北一山百文」と蔑まれた、あの白河の関から向こうという意味の「白河以北」のことである。つまりは「道の奥」のこと、蝦夷(えみし)の国のことだ。それは明治の近代国民国家の確立以降も続いた。この東北蔑視に反発して、あえて「河北」を謳って不羈独立を社是とした。

≪046≫  その河北新報にとって、宮城沖地震や三陸津波は“勘定”のうちのはずだった。何度もそういうことはおこっていたからだ。ここは「津波てんでんこ」(1411夜)の国なのだ。ところがそれがそうではなかったのである。予想もつかない被災状況が次々にあからさまになり、記者やカメラマンも恐怖と隣り合わせの日々をおくった。おまけに組版サーバーが倒れて使えなくなった。

≪047≫  しかし河北新報は組版データを新潟日報の助けを借りて出力し、社員たちも代わる代わるの不眠不休をとりながら、号外も新聞も出しつづけた。本書はその急転直下の短期間の記録である。

≪048≫  あのとき、報道部の昆野デスク明日のアタマ(トップ記事)が決まらないので困っていた。アタマが決まらなければカタ(二番ニュース)もハラ(真ん中ニュース)も決まらない。そこにぐらっと来た。相当な激震だ。

≪049≫  隣のデスクは机につかまったまま動けない。女性たちはへたり込んだ。天井パネルが落ちて、蛍光灯のカバーが外れ、そして停電になった。それなのに誰も声を上げない。恐怖が声を奪ったのだ。

≪050≫  こうして「長い一日」と「長い3月」が始まった。報道部長の武田は支局の安否と情報収集で電話をかけまくり、編集局長の太田は幹部を招集して対策を練った。輪転機は無事だが、サーバーがやられた。やがてテレビから各地の画像が送られ始めた。釜石で自動車や住宅が軽々と押し流されていく映像に、武田が「うわわっ」と大声を上げた。みんなの口がからからに渇き、舌がもつれた。

≪051≫  とんでもないことがおこったのだ。そのとんでもないことを報道しなければならない新聞社そのものが、仕打ちを受けたのだ。だからこそ、本書が報告するのはその葛藤と決断の経緯なのである。

≪052≫  ここからの社長の一力を筆頭にした取材・報道・紙面づくり・配送・相互救助のための、打って一丸となっての奮闘はめざましい。ともかくギリギリを恐れずに新聞の使命をまっとうしていったのだということが、切々と伝わってくる。

≪053≫  失敗や混乱や戸惑いを隠さずに書いているのも、気持ちいい。翌3月12日の深夜、武田と丹野という女性記者が気仙沼に向かうことになった。車で気仙沼に着いたのが午前4時。まだ真っ暗で、しかも全市は停電である。ヘッドライトをたよりにおずおず進んでいって、悲鳴を上げた。無数の自動車が残骸のように折り重なって、21世紀の墓場になっている。

≪054≫  同じ頃、報道写真の門田が中日新聞のヘリに乗せてもらって上空に舞い上がり、ついに被災状況を上から見ることになった。けれども門田はあまりの恐怖の光景に指先が小刻みに震え、ついにシャッターから目を離すことができず、肉眼では何も見ることができなかったのだという。

≪055≫  こういう場面が随所に出てくる一冊なのだ。そのたびに記者たちの等身大の反応がスケッチされていく。本書がドキュメンタリーな一冊として貴重なゆえんだ。

≪056≫  ともかくも取材をすればするほど死者や、家族の死にすがる市民の姿の茫然自失に直面していったのが、この新聞社の一ヶ月だったようだ。判断に迷うさまざまなことも少なくない。たとえば宮城県知事が死者は1万人を超えるかもしれないと予測したことを、どう報道するか。そこに「死者」という言葉を使うか「犠牲者」という言葉を使うか。くらくらするように迷ったすえ、河北新報は「死者」を選択しなかったようだが、担当者はいまでも迷うと書いている。

≪057≫  なるほど、そうだろう。災害や被害はわれわれの使う言葉に選択を迫るのだ。もっと本気でいうのなら、災害とはわれわれが「概念」の総点検に立ち会わされるということなのである。それができないメディアやジャーナリズムなら、娯楽やスポーツでお茶を濁したほうがいい。

≪058≫ (追記…この箇所を書いているころ、すなわち今日の夜9時くらいから、BSジャパンで本書をもとにしたドラマが放映されたようだ。だったら見たかったが、かなわなかった。)

≪01≫  アンドレ・マルローから日本を見るという方法を、われわれはしばらく忘れてしまったようだ。責任はマルローにあるのではなく、われわれにある。

≪02≫  しかし、媒介者もいてほしかった。かつては鈴木大拙から桑原武夫まで、小松清から川端康成まで、久松真一から岡本太郎まで、マルローと日本をつなぐ知識結のようなものがたくさんあった。それがいつのまにか切れたままになっていた。

≪03≫  その不当な切断をつないでくれたのが、本書の刊行だった。対話者であって著者である竹本忠雄さんは、いまは筑波大学の名誉教授だが、ソルボンヌに入り、ジャン・グルニエに師事してからは、パリでの名声が高く、とくにマルロー研究家としてはコレージュ・ド・フランスの客員教授としてフランス人の舌を巻かせてきた。本書をもってふたたびマルローの日本論を再発見する者がふえることを期待している。

≪04≫  しかしながら、マルローの知はまことに広く、しばしば深く、かつ速い。早瀬のようなところがある。その早瀬の水を掬わないと見えないものもある。

≪05≫  フランス語に「ドリュー・ラ・ロシェル」という言い方がある。”新しい人”といった意味だが、アンドレ・マルローはフランスの文壇にその言葉で迎えられた。

≪06≫  が、それ以降も、それ以前も、マルローの人生は波瀾万丈だし、だいたいマルローの思想や美意識を評価するのが一筋縄ではないのである。ぼくはフランスかぶれの日本人が、フランス文化を語るときも日本文化を語るときも、どうも緯度経度ぶんずれてくるというか、いささか両生類的な二股意識をもっているという印象をもっているのだが、そんなときしばしば、ではマルローはどうだったかと思い出す。

≪07≫  つまりマルローは日仏両眼視が必要そうなときの、すこぶる頼りになるひとつの基準なのである。そこには「無常という人間」の理解があった。

≪08≫  いや、これは正確ではなかった。ぼくはそういうときにマルローだけではなく、もう一人のフランス人、『繻子の靴』のポール・クローデルも思い出していた。関東大震災のころに駐日フランス大使だった伊勢紀行で有名なクローデルである。

≪09≫  そのクローデルは『詩人と三味線』や『DODOITSU』で、日本人にわかりやすい説得力によって(ということは、九鬼周造の「いき」が好きな日本人が好むような説得力によってということだが)、日本の時空間感覚や意匠感覚を解説してみせていた。クローデルは「粋」がわかっていた。

≪010≫  けれども実は、そのクローデルとマルローの見方にはかなりの隔たりがある。ぼくは、この二つの基準を巨視的にはマルローを、微視的にはクローデルを、それぞれフランスから好意的に提出された目盛として、日本を考えるときの潜在基準として置いてきたようなのだ。

≪011≫  マルローはたしかに日本贔屓だった。ただし、ふつうの日本贔屓ではない。われわれをして深く考えこませるものがあった。なにしろアンリ・ミショー同様に、無常(precaire)がわかる。それは日本に詳しかったからというよりも、おそらくはその人生体験からきている。

≪012≫  マルローを概観したのでは、それはわかりにくい。父を自殺で失ったことを除けば、19歳でシュルレアリスムにふれて『紙の月』を書き、その年にユダヤ系のクララと結婚、翌年には二人でカンボジアに入って、のちに傑作『王道』となる考古学的な発見をしたうえで、1933年の『人間の条件』ではゴンクール賞を受けて”新しい人”と呼ばれたと書けば、まあ文句のない経歴だと思うだろうからである。が、実際にはそうそう順風満帆ではなかった。いや、むしろ起伏が多かった。

≪013≫  たとえば、カンボジア体験では”盗掘”の汚名が着せられて3年の有罪判決を受けているし、第二次大戦前夜のイエーメン砂漠の廃墟探検は瀕死の冒険で、そのあとアラビアのロレンスとの邂逅をもとに綴った『絶対の悪魔』は、禁書になる以前に長いあいだ出版自体が見合わせられたりもした。

≪014≫  それだけではない。戦後にドゴール将軍と出会って政界入りをして情報大臣や文化大臣になってからは、ドゴールとともにドラスティックな社会的浮沈を舐めた。 しかし、そうしたことがマルローの日本観をも独自のものにしたはずなのである。

≪015≫  その後のマルローは多様な国や民族の文化を洞察する一方で、たえずフランスの政治文化を代表していることを自覚していた人物である。

≪016≫  そのうえで、ヨーロッパ全域の美術論や文化論においては一貫した見識を発揮して、自国の文化のみならず、いやそれ以上の影響力をもって、他国の文化に対する強烈なイメージの解読法を発信しつづけた。その主たる内容は『ゴヤ論』『沈黙の声』『空想美術館』『神々の変貌』3部作などにも詳しいが、他国を訪れ、その国の人々と出会って発信するときの容赦ないメッセージが、それ以上になんとも強烈だった。

≪017≫  それが日本にもあてはまる。 マルローが1960年に2度目の来日をしたときの発言、「いまや日本こそが世界中で誤解の只中にある」や「真の日本は浮世絵ではなく藤原隆信の肖像画と琵琶の曲にある」は、当時の日本人の日本研究者を驚かせたものだった。

≪018≫  本書は、ぼくも以前から昵懇の竹本忠雄さんという、おそらくはマルローを語らせれば最もマルローに近い日本人だった人物を通して、マルローがマルロー自身と日本を語った一書である。

≪019≫  1969年の第1の対話から1976年の第7の対話まで、竹本さんは執拗にマルローを追いつづけた。対話はほぼ原型のままで、しばしばマルローが竹本さんの発言を遮って、その堂々たる見識を曲げずに主張している場面にぶつかる。竹本さんはそういう箇所をいかしたまま、別にト書や解説を入れている。日本人が見る日本とフランスの碩学が見る日本との「あいだ」を見るには、うってつけの一冊になっている。

≪011≫  マルローはたしかに日本贔屓だった。ただし、ふつうの日本贔屓ではない。われわれをして深く考えこませるものがあった。なにしろアンリ・ミショー同様に、無常(precaire)がわかる。それは日本に詳しかったからというよりも、おそらくはその人生体験からきている。

≪012≫  マルローを概観したのでは、それはわかりにくい。父を自殺で失ったことを除けば、19歳でシュルレアリスムにふれて『紙の月』を書き、その年にユダヤ系のクララと結婚、翌年には二人でカンボジアに入って、のちに傑作『王道』となる考古学的な発見をしたうえで、1933年の『人間の条件』ではゴンクール賞を受けて”新しい人”と呼ばれたと書けば、まあ文句のない経歴だと思うだろうからである。が、実際にはそうそう順風満帆ではなかった。いや、むしろ起伏が多かった。

≪013≫  たとえば、カンボジア体験では”盗掘”の汚名が着せられて3年の有罪判決を受けているし、第二次大戦前夜のイエーメン砂漠の廃墟探検は瀕死の冒険で、そのあとアラビアのロレンスとの邂逅をもとに綴った『絶対の悪魔』は、禁書になる以前に長いあいだ出版自体が見合わせられたりもした。

≪014≫  それだけではない。戦後にドゴール将軍と出会って政界入りをして情報大臣や文化大臣になってからは、ドゴールとともにドラスティックな社会的浮沈を舐めた。 しかし、そうしたことがマルローの日本観をも独自のものにしたはずなのである。

≪015≫  その後のマルローは多様な国や民族の文化を洞察する一方で、たえずフランスの政治文化を代表していることを自覚していた人物である。

≪016≫  そのうえで、ヨーロッパ全域の美術論や文化論においては一貫した見識を発揮して、自国の文化のみならず、いやそれ以上の影響力をもって、他国の文化に対する強烈なイメージの解読法を発信しつづけた。その主たる内容は『ゴヤ論』『沈黙の声』『空想美術館』『神々の変貌』3部作などにも詳しいが、他国を訪れ、その国の人々と出会って発信するときの容赦ないメッセージが、それ以上になんとも強烈だった。

≪017≫  それが日本にもあてはまる。 マルローが1960年に2度目の来日をしたときの発言、「いまや日本こそが世界中で誤解の只中にある」や「真の日本は浮世絵ではなく藤原隆信の肖像画と琵琶の曲にある」は、当時の日本人の日本研究者を驚かせたものだった。

≪018≫  本書は、ぼくも以前から昵懇の竹本忠雄さんという、おそらくはマルローを語らせれば最もマルローに近い日本人だった人物を通して、マルローがマルロー自身と日本を語った一書である。

≪019≫  1969年の第1の対話から1976年の第7の対話まで、竹本さんは執拗にマルローを追いつづけた。対話はほぼ原型のままで、しばしばマルローが竹本さんの発言を遮って、その堂々たる見識を曲げずに主張している場面にぶつかる。竹本さんはそういう箇所をいかしたまま、別にト書や解説を入れている。日本人が見る日本とフランスの碩学が見る日本との「あいだ」を見るには、うってつけの一冊になっている。

≪024≫  マルローはむろんのこと苦言も呈した。たとえば、日本には海外からの覇権的な押し付けに対していくらでも選択ができる立場があるはずのに、それを全然していないじゃないかというものだ。

≪025≫  これはもちろんアメリカに対する日本政府の態度を詰(なじ)っている。日米が同盟国であればあるほどに、日本は独自の選択を発見するべきだというのだ。

≪026≫  多くの日本人の研究者が、やたらに中国文化にルーツを求めようとする態度も気にくわない。中国から日本に来たものがあるのは当然で、そんなことはフランス文化にだっていくらもおこっている外からの影響だが、問題はそんなことにあるのではなく、「愛と死と音階」によって、日本は中国とはまったく異なる文化をつくったということを強調するべきだという見方である。

≪027≫  武士道についてもいくつもの発言をした。ここはマルローもさすがに新渡戸稲造や内村鑑三に近いのだけれど、もっと武士道の本質を研究しなさいという繰り言である。

≪028≫  そして新渡戸や内村が気がつかなかったこと、すなわちフランスの騎士道がせいぜい『ギョームの歌』1099年から聖王ルイの死んだ1270年のあいだの、たった180年くらいであったのに対し(この見積もりもかなり甘くみたものらしいが)、日本の武士道は鎌倉から江戸後期まで続いたということを加え、その持続力にこそもっと着目するべきだというのである。さすがにベルグソンの国の文化人の発言らしかった。

≪029≫  ただし、ここからが難しい。マルローの見方は一見、次のように見えるからである。

≪030≫  すなわち、日本人の研究者による日本文化論がいわゆる”日本文化特殊論”になっていることは、ふつうは学界の批判対象になることか単なるナショナリズムと片付けられることが多いのだが、マルローはそれをあえて容認するかのような勢いで、日本を特殊扱いしているように見えるからだ。

≪031≫  また、アジアについても、マルローは「アジアとは、アジアから日本を引いたものがアジアなのだ」と言う。これがカンボジアも中国も知らない者の発言ならまだしも、マルローは大半のアジアの国々の歴史と文化に精通していた。むしろアジアに精通しない日本人が”日本文化特殊論”を批判する傾向がある。だから、話はややこしいというか、難しい。

≪032≫  ぼくとしては、ここをさらりとブレークスルーして、すぐにでもマルローの肩をもちたいところなのだが、それにしても多少のフォローがいる。

≪033≫  最も有効なフォローはマルロー自身がしている。日本は「表意文字文明」から捉えなおされるべきだという見方である。どこから捉えなおすべきかといえば、ヨーロッパ的な表音文字的な、そしてインド的な日本の見方から。

≪034≫  とくにインド性を日本文化の特質の解明に介入させないほうがいいという見方は、近現代の日本人にはまったく欠けている視点で、ぼくはこのこととまったく同様の指摘をスーザン・ソンタグから受けたことがある。「だってインドの仏教を日本はあれほど洗練させたでしょ。それを何をいまさらヒンドゥイズムなのよ!」と言うのだった。

≪035≫  では、ヨーロッパ的日本論からの脱出はどうするか。これもマルローがフォローする。たとえば、日本の美意識が水平性にあることばかりに捉らわれないで、むしろ垂直性にこそ注目を移したらどうかといったものだ。たしかにすでに雪舟の水墨山水は冬の空間を引き裂くような垂直線を描いていた。マルローはそれを「ブリジュール」(la brisure)と言った。また、そもそも依代が、梵天が、鉾が、垂直なのである。

≪036≫  これは、日本にもゴシックの尖塔があるということではない。日本にしかない垂直があるということなのだ。

≪037≫  すなわち、ヨーロッパの美意識や美学をもって日本文化を見ないこと、これがヨーロッパ人マルローの日本論なのである。こうした見方が、たんに日本文化特殊論ではないことはあきらかなのであるが、残念ながら、これを日本人が語れない。語れないどころか、そこでマルローを応援演説につかうときの方法すらもがヘタクソなのだ。

≪038≫  マルローを気分よく復活させるには、まずわれわれがわれわれ自身の日本論を変更をしておく必要がある。

≪01≫  ぼくは船戸与一の熱狂的な読者ではないかもしれないが、船戸与一を畏敬する読者であろうとは思う。

≪02≫ もっともぼくは、ずっと豊浦志朗が船戸与一の別名であるとは知らなかった。豊浦志朗なら『硬派と宿命』というすこぶるハードな標題のノンフィクショナルな一書によって、とっくにガツンとやられていたからだ。

≪03≫ この『硬派と宿命』は、著者がアメリカのインディアン・リザベーション(居留地区)にとびこんで、「自由の国」をうそぶくアメリカ合衆国という虚体を徹底的にあばいたルポルタージュで、これほどアメリカのフロンティア精神の虚構性に肉薄したものはなかったというものだった。とくに、この本に関しては、ぼくはぼくなりにブラック・パンサーの関係者などを知っていたせいもあって、このルポルタージュがいかに迫真に垂鉛を降ろしているか、よくわかったせいもある。

≪04≫  ついでにもうひとつ、ぼくは豊浦志朗こと船戸与一が「ゴルゴ13」の原作者の一人であることも、知らなかった。外浦吾郎の名前になっている。これは平岡正明が船戸与一の本名や、ペンネームがいずれも故郷山口県にちなんだものであることともに伝えてくれるまで、まったくおもいもよらないことだった。

≪05≫  本書では、国家と犯罪というテーマが二つの面で解剖されている。ひとつは「国家に対する犯罪」で、もうひとつは「国家による犯罪」だ。

≪06≫  そこで、本書では6章にわたって各地の内乱と弾圧、ゲリラと内戦、突破と虐殺、陰謀と陽謀などの錯綜した関係がとりあげられている。いずれも壮絶な現代史が内部から描かれているとともに、その矛盾と限界、希望と宿命とが掘り下げられている。そういう地域に行ったこともないぼくにとっては、まさに目をみはる現代史なのである。

≪07≫  たとえばクルド人の希望と宿命というものがある。 1925年と1930年にクルド人は武装蜂起したが、トルコ軍によって容赦なく鎮圧されて、アララット山麓が血で染まった。その後、1946年にイラン西部のクルド人の聖地マハバードで、かれらの手によってクルディスタン共和国という“幻の共和国”が樹立された。まさに希望の国だった。けれども、これはたった11カ月でイラン軍に倒壊され、指導者は公開処刑された。

≪08≫  クルド人への弾圧は続く。1988年、ハラブジャブ地方で毒ガスによる住民虐殺がおこった。死者5000人、負傷者10000人にのぼった。これはイタリア軍によるものだった。ごく最近ではサダム・フセインによるクルド地域の弾圧がある。クルド人の難民はこれで引き金をひかれたわけである。

≪09≫  このようなクルド人の希望を、各国の政府や軍部はひとしく「国家に対する犯罪」とみなしている。 しかし、これらは実は「国家による犯罪」でもあるのだというのが、船戸与一の判断であり、その証拠列挙の調査の心なのである。

≪01≫ 今夜は『鯨と原子炉』『ヤクザと原発』に続いて【番外録】原発問題シリーズ第5弾として、原子炉開発側の工学者や技術者の見解を紹介する。 あえて詳しい科学論議は案内しなかったが、原爆と原発が同床異夢であることは、以下の6冊+3冊で十分に伝わると思う。 それにしても「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」、そして「人間性なき科学」はしょせん徒花なのである。

≪02≫ ◆ジョン・ラマーシュ&アンソニー・バラッタ『原子核工学入門』上下(澤田哲生訳 2003・6 ピアソン・エデュケーション)

≪03≫  原子核には陽子と中性子がつなぐ結合力がある。この結合力を爆発的に解放させるのが核分裂で、このエネルギー解放の原理のしくみの研究から核兵器も原子炉も生まれた。

≪04≫  解放とは言うけれど、実はエネルギー誘導の原理と言ったほうかがいい。人類はその誘導に成功したマンハッタン計画によって禁断のルビコンの河を渡り、原子核にエンジニアリングの手を入れてしまったのである。 そのエンジニアリングをまとめて原子核工学という。

≪05≫  原子核工学は、原子物理学と原子核物理学を基本に、放射線および放射性物質を何らかのエネルギー・システムにいかすために探求されてきた。それゆえこの領域の入口は原子核物理における質量とエネルギーの関係をはじめ、核物理のイロハに理論的にもとづいているのだが、ということは、ここには「原爆と原発」という“双生児の原理”が必ず説かれているのだが、しかし本書がそうであるように、ふつうは原子核工学のメインになっているのは原子力発電の基本原理の技術化を詳述することにある。

≪06≫  どんな原子炉を設計し、どのように管理するかということが、原子核工学の長きにわたった目的だったのだ。これはアイゼンハワーの「平和のための原子力」という方針を受けたものでもあった。

≪07≫  この本は1975年の原著初版の第3版2001年版の翻訳で、すぐれて専門的な原子核工学者に向けられてきた。

≪08≫  ニューヨーク大学およびニューヨーク工科大学で教鞭をとったジョン・ラマーシュには、この分野のエンジニアの誰もが通過する定番の教科書『原子炉の初等理論』上下(吉岡書店)があるけれど、本書はその拡張姉妹版としてラマーシュが手掛け、その改訂の途中で倒れたたため、死後にペンシルヴァニア大学のアンソニー・バラッタが綿密な加筆編集を加えた。

≪09≫  ところで、ぼくはこの本を自分で買い求めたのではなかった。訳者の澤田哲生が送ってきた。澤田さんは東工大の原子炉研究所のセンセーで、この人の顔と名は3・11直後のテレビや週刊誌にたびたび引っ張り出されていたので、あるいは知る人も少なくないかもしれない。もっともそのときのコメントが楽観的だ、曖昧だというので文句が寄せられてもいた。これには本人も困っていた。しまったとも思っただろう。

≪010≫  澤田さんはもともとは京大出身の物理学者である。原子核工学を専門にしているが、その専門領域を離れて、ぼくの日本文化論にひとかたならぬ関心をもって「連塾」や「椿座」に何度も足を運んでくれていた。

≪011≫  10年ほど前に東工大で湯川さん(828夜)やボーム(1074夜)の話をしてほしいという依頼があって、それがきっかけで「連塾」に顔を見せるようになったのだったと憶う。

≪012≫  けれどもぼくは、その澤田さんと本書の中身にかかわるような話をまだ本格的にしたことがない。いずれ詳しいことを聞こうと思っているうちにフクシマの原発事故がおきた。そして澤田さんの顔がマスコミを賑わした。

≪013≫  ぼくにはこれまで原発関係の知人がほとんどいないので(細野大臣とはいくぶん親しいけれど)、近いうちに澤田さんと腹を割った話をしてみたい。本音も聞いてみたい。本書を紹介しながら、そのことを思っていた。

≪014≫ ◆和田長久&原水爆禁止日本国民会議編『核問題ハンドブック』 (2005・2 七つ森書館)

≪015≫  原子核工学や原子炉をとりまいて、核問題が技術的にも社会的にも大きく広がっている。もともとは原水爆をめぐる議論からスタートしたのが日本における核問題で、そこにはいまや原発事故から放射能汚染問題まで含まれる。

≪016≫  世界で唯一の被爆国となった日本の核問題の歴史と展望については、当然ながらいろいろ類書があるが、公平にみて本書が最も広いテーマをわかりやすく、かつ一貫した思想によって扱っている。執筆陣も原水禁の和田長久・宮崎康男、高木仁三郎(1433夜)がつくった原子力資料情報室の西尾漠・勝田忠広・澤井正子をはじめ、小出裕章・今中哲二・小林圭二らの“熊取組”などが顔を揃えて、ていねいな解説を試みた。

≪017≫  第1部で「原子とは何か→核分裂と核融合→ウランとプルトニウム→放射線→放射性崩壊と半減期の意味→核燃料サイクル」という順に基本が解かれ、第2部で核兵器の大半の現状が説明され、第3部ではアメリカ・ロシア・中国からインド・イラン・パキスタンの核開発戦略のあらましが、第4部で原子力発電のしくみのABCがプルサーマル問題にいたるまで解説されている。

≪018≫  類書よりも詳しいのが、第5部の原発事故にまつわる問題群と、第6部の核軍縮をめぐる活動と社会性の総覧である。ぜひ目を通されるといい。ともかくも「原爆と原発」のことでわからないことがあったら、まずは本書を開いてみられることを薦めたい。

≪019≫  ぼくの実感からすると、最終ページに日本被団協や広島原水禁の代表を務めた森滝市郎の核絶対否定論がとりあげられているのが象徴的だった。

≪020≫ ◆榎本聰明『原子力発電がよくわかる本』(2009・3 オーム社)

≪021≫  この本の著者は1965年に東京電力に入ったのち、中越地震のときに事故をおこした例の柏崎刈羽原発の所長を1995年から2年間務め、その後は東電の原子力本部長になったという経歴をもつ。これでわかるように、著者はあきらかに原発推進派の中心人物の一人なのである。

≪022≫  だからといって、この本が原発まるごとの安全宣言をしているわけではない。むろん危険だという警告をしているのでもない。何が起これば危険で、だからこういうふうに制御するのだということを技術のほうに寄りながら、ぬらくらと、しかし平易には書いている。安全と危険が隣り合わせであることも、あまり熱心ではないけれど、とくに隠しだてもせず書いてある。

≪023≫  どこかで原発推進派の啓蒙書ともいうべき本を読んでおこうと思って物色したもののうち、この本が最も平均的に感じられたのでざっと読んだのだが、件の広瀬隆(1448夜)のものなどまったく読んだことがない読者がこの手の本を読めば、原発がとてもマイルドなプラントのように感じられてしまうように書いてある。原子力発電の問題を、巧みに溝にはまらないように、また言いまわしも意図的にエレガントに扱っているのである。

≪024≫  おそらくは東電の幹部エンジニアとしてバランスよく鍛えてきた人物なのだろう(それともゴーストライターがいるのだろうか)。ま、いずれにしても原発問題というもの、反対派のものばかり読んでいては見えなくなることも少なからずあるということ、本書はそれなりに伝えている。だから反面教師として読むなどという意固地な読み方ではなく、一度はその道を走る自動車になったつもりで、アクセルやハンドルを動かしてみるといい。

≪025≫  上記の榎本聰明『原子力発電がよくわかる本』は、いわば安全と危険のレベルを巧みにホゾを合わすように書いていたのだが、つまりグレーゾーンを巧みにすり抜けていたのだが、本書は原発設計者がはっきりと「原子炉は本来が危険なものであってあって、安全ではない」という立場を貫いている点に最大の特徴がある。

≪026≫  とくに、原発は「安全になっている」のではなく、「安全にできるようにしてある」にすぎないと言っている姿勢がいい。だから、著者はこう言うのだ、「原発ではできることをしないかぎり、いつだって安全ではない」。

≪027≫  ほぼ専門レベルの話がぎっしりつまっているのに、妙におもしろかった。かつての京都大学原子炉実験所長で、KUR(京大炉)の設計責任者だった著者が、当時をふりかえってかなり縦横無尽に原子炉談義をしたもので、月刊「産業とエネルギー」という雑誌に連載されたエッセイをまとめた。前身が『原子炉お節介学入門』(2000・11)で、本書はその新版だ。

≪028≫  談義はあくまで原子核工学ふうなのである。一応はエッセイ調になってはいるのだが、内容はかなり細部にわたる。だから大小の技術論が400ページに及ぶ大半を埋めているのに、すらすら読めて妙におもしろい。

≪029≫  おもしろいというと誤解を招くだろうから言い換えておけば、原子核工学のみならず、工学の深部のツボを十全に心得た本になっている。本人は、事故はたいてい「つまらないこと」でおきるものだが、本書はその「つまらないこと」をできるだけ多く説明しようとしたと書いている。

≪030≫  とくに「危険の兆候は決してデジタルにはやってこない」ということを、さまざまな例を通して繰り返しのべているあたり、この著者の真骨頂があった。いったいどんな御仁だったか知りたいものだが、巻末に人物評を寄せた内田岱二郎はたんに「とにかく口の悪い人だった」と言っているだけで、なんの参考にもならなかった。

≪031≫  おそらくは観察眼がめっぽう鋭く、つねに自分がその対象やしくみにかかわったときは何をすればいいかを考え続けてきた御仁だったのだったろう。わが編集工学的にいえば、つまりは「お題をたてる名人」だったのだろうと思われる。

≪032≫  一例を紹介しておく。 過日、著者がベルギーのモル研究所を訪れてBR-2という高中性子束の材料照射用原子炉を見学したと思われたい。2000人ほどの所員をかかえる研究所だった。

≪033≫  当時のBR-2は軽水減速の炉心が6万キロワットほどの大出力炉で、その減速材の中に照射用ループを設けて、高速炉の燃料の照射試験をしていた。この燃料は自身の核分裂のため高温になっていく。そこで冷却しなければならない。モル研では高速炉と同様にナトリウムを流していた。著者はこんなものを炉水の中に入れるのは大変だろうと推理して、きっとループ構造に工夫があるのだろうと思い、そのことについて質問してみた。0・6ミリの薄肉のステンレス管で作ったという。

≪034≫  では、当然、溶接しているのだろう。そのころの日本では0・6ミリを溶接したものをこの手の複雑きわまりない設備に使える技術はない。「よく二重管を溶接できましたね」と褒めたら、「いや、一重管です」という答がかえってきた。衝撃的だった。

≪035≫  柴田は気をとりなおして重ねて聞いた。どのくらい照射するのですか。「わからない」と言う。質問の英語が悪かったのかと思いまたまた聞いてみると、「燃料が壊れるまで照射する」のだと言う。ここで柴田はギャフンとなった。

≪036≫  二重管ならばそのあいだに漏れ検出のためのセンサーを設けないといけないだろうが、炉心からの水と内部からのナトリウムの両方の漏れをチェックできる検出器を管の中に設置するのは不可能だという判断が、モル研にはあったのである。そう言って、担当者は「ねえ、そうでしょう」とニヤッと笑った。著者はこの笑えるほどの警戒と自信がどこから出てくるのか関心をもった。

≪037≫  帰国後、さまざまな実験をした。炉心容器の円筒は内側が軽水で、外側は重水である。こちらは水漏れセンサーを一番下方に設ければいい。ナトリウムのループ管を作っていろいろ試みると、漏れが部分的な欠陥から噴水状に出てくることがわかった。モル研ではこれらのことをすべて試したうえで一重管でいけると確信したのだったろう。

≪038≫  著者はあらためて考えた。これらのことをクリアするには、これらのことを組織全体が認識できていなければならない。われわれは、そのような組織をつくりあげるために、つねに工学的な問いを発し続けてきたのだろうか、と。

≪039≫  機械は責任をとらない。スイッチを入れるのもオフるのも人間なのである。原子核工学といえども、献身的な努力とそれに見合う組織対応がないかぎり、機械を動かすことにはならない。それでも事故がおきたときは、すべての責任を人間と組織がとるべきなのである。

≪040≫  フクシマの原発事故にかぎらず、事故のほとんどは人災なのである。それを誰も言い逃れすることは許されない。

≪041≫ ◆小出裕章『隠される原子力』(2010・11 創史社)◆小出裕章『原発のウソ』(2011・6 扶桑社新書)◆小出裕章『原発はいらない』(2011・7 幻冬舎ルネッサンス新書)◆小出裕章『原発のない世界へ』(2011・9 筑摩書房)

≪042≫  日本の反原発の科学技術者として、最も良心的でラディカルだろうといわれているのが小出裕章である。KUR(京大炉)を作った柴田俊一が親分だった京都大学原子炉実験所の助教だが、1949年生まれで実績も十分なのに助教のままであるのは、37年間にわたって助手に据え置きされているということであり、ここには当然、その昇格を阻むものが大学人事にあるからだ。

≪043≫  もっとも小出はそういう立場にいることに呆れてはいるものの、不満があるわけではないらしい。仲間もいる。京大原子炉実験所は大阪府泉南の熊取町にある。そこで「熊取六人組」と呼ばれているのだが、この6人組が仲間なのだ。海老沢徹・小林圭二・川野眞治・今中哲二・瀬尾健(故人)。いずれも筋金入りの反原発派の面々だ。

≪044≫  柴田の組織のもとにこのような6人が登場してきたことについては、ぼくが知らないさまざまな事情があるのかもしれないが、それでも京大原子炉実験所が研究組織として機能しつづけているというのは、たいへんユニークなことである。ただ反原発派はみんな似たような境遇に置かれることになっているらしく、大学の中ではちょっぴり不遇をかこつのである。しかしそれが仲間だと思えば、小出は平気なんだと言う。

≪045≫  ちなみに京大にはこのように反原発の原子力研究者がいるのに対して、東大には一人もいないとされている。原発廃絶のために原子炉研究を続けているのは京大だけなのだ。小出自身は1970年10月に女川町で開かれた原発反対集会に参加したときに、反原発の道を歩み始めていた。

≪046≫  その小出が単著として初めて世に問うたのが、本書『隠される原子力:核の真実』だった。原子炉研究者の反原発論として注目された。

≪047≫  それから僅か数カ月で3・11となり、福島第一原発メルトダウンがおこった。政府も東電もそのことを隠していたが、そのうちバレた。まさに原発は小出お見通しのとおりの「隠される原子力」だったのである。

≪048≫  その後、小出の本は各社が競うようにして次々に出た。『原発のウソ』『原発はいらない』『原発のない世界へ』などなどだ。週刊誌や講演会にものべつ引っ張り出された。

≪049≫  ところが、それらの本はすべて講演やインタヴューや対話で構成されていて、小出がしっかりと文章を練り上げてはいない。そこは柴田とはまったく違うのだ。そのためときどき話題や論旨が前後したりする。

≪050≫  これだけの本気の筋金入りがどうして決定打を放たないのだろうと思っていたが、おそらくゆっくり書いている暇などはなく、そんな気持ちにもなれないのであろう。また執筆よりは実践なのでもあろう。ぼくも、この人はそういう人なのだと納得した。それでも、これらの本のどんな本の端々にも小出の哲学や技術観は鋭く突出しているし、とくに原子炉を扱う研究者としての痛哭に近いほどの責任の重さは、どのページにも滲み出ている。

≪051≫  小出は好んでマハトマ・ガンジー(266夜)の墓碑に記されている「七つの大罪」を引く。よく知られているだろうが、こういうものだ。もし知らないのだったら、よくよく味わってほしい。「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」、そして「人間性なき科学」「献身なき崇拝」である。

≪052≫  小出とともにあらためて言うべきだ。いま、日本全部がこの大罪とのみ闘うべきである、と。

≪053≫ ◆山本義隆『福島の原発事故をめぐって』(2011・8 みすず書房)

≪054≫  発売以来、評判がいいらしい。 著者は言わずとしれた全共闘時代のヒーローで、『知性の叛乱』(前衛社)がベストセラーになったのだが、その後は『重力と力学的世界』(現代数学社)をはじめ、名著『熱学思想の史的展開』(現代数学社→ちくま学芸文庫)、毎日出版文化賞をとった『重力と磁力の発見』全3巻(みすず書房)など、一定の期間をおいて、職人的で、かつ重戦車のような科学史ものを発表してきた。

≪055≫  こうして全共闘闘士としての姿はいっさい見えなくなったのだった。本来の科学史の深部に降りていったからだった。

≪056≫  その山本がついに現実社会に向かって発言したのがこの小冊子である。「みすず」に原発事故についての文章を求められて原稿を書いてみたところ、つい長くなってきたので、連載にでもしてもらおうとおそるおそる提案したら、それなら単行本にしましょうと言われて刊行されたものらしい。

≪057≫  中身は一言でいえば、日本が原発開発と設置にしゃにむに向かっていった事情に静かに「待った」をかけている本である。

≪058≫  とくに思想的に新しい見方が書いてあるのではない。とくに新しい科学思想が述べられているのでもない。反原発派ならはたいていは知っていることが淡々と述べられて、途中に吉田義久『アメリカの核支配と日本の核武装』(編集工房朔)、鈴木真奈美『核大国化する日本』(平凡社新書)、ジェローム・ラベッツ『科学神話の終焉とポスト・ノーマル・サイエンス』(こぶし書房)、高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』(岩波新書)などを引きつつ、山本が原発事故を引き起こした科学技術の近現代史をふりかえるというふうになっている。

≪059≫  最後にぽつりと提示される言葉は「原発ファシズム」だ。

≪060≫  これは佐藤栄佐久が『知事抹殺』(平凡社)や『福島原発の真実』(平凡社新書)で国のやりかたを徹底批判したこと、および菊地洋一が『原発をつくった私が、原発に反対する理由』(角川書店)のなかで、原発は「配管のおばけ」だと言ってのけたことなどを受けて、日本の政治と経済がまるごと推進してきたのは原発ファシズムとしか思えないというところから出てきた言葉であるが、この批判用語は山本にしてはいささかおおざっぱであった。

≪062≫  「‥原発の放射性廃棄物が有毒な放射線を放出するという性質は、原子核の性質、つまり核力による陽子と中性子の結合のもたらす性質であり、こんなものを化学的処理で変えることはできない。核力による結合が化学結合にくらべて桁違いに大きいからだ。‥ということは放射性物質を無害化することも寿命を短縮することも不可能だということだ。‥とするならば、無害化不可能な有毒物質を稼働にともなって生み出しつづける原子力発電は、あきらかに未熟な技術と言わざるをえない。‥ヒロシマとナガサキとフクシマを体験した日本は、ただちに脱原爆社会と脱原発社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきではあるまいか」。

≪061≫  それよりも山本が次のように断定してみせたことのほうに、やっぱり説得力があった。要約して、次のような主旨だ。

≪01≫  イシス編集学校ではしばしば師範代と学衆たちがそういう遊びをしているのだが、スロヴェニアの切れ者の現代思想家が似たような編集術遊びをしているのを読むとは思わなかった。これがスラヴォイ・ジジェクを最初に読んだときの、むずむずと笑いがこみあげるような印象だ。

≪02≫  その本は『斜めから見る』(青土社)という。カイヨワの「ナナメ」や「オブリック」を思い合わせたくなるが、カイヨワのような綜合力は使わない。ジジェクはここで、もっぱらヒッチコックやスティーヴン・キングやフィルム・ノワールをとりあげ、これらをことごとくジャック・ラカンの理論的モチーフで解読するというアクロバティックな芸当を見せていた。逆からみれば、ラカン理論をことごとく大衆文化の現象の淵にのせて次々に切り刻んだといってもよい。

≪03≫  これはかつてヴァルター・ベンヤミンがモーツァルトの《魔笛》を、同時代のカントの著作から拾った結婚に関する記述ですべて解いてみせた痛快な試みの忠実な踏襲であって、ぼくからみると、もっと多くの領域を跨いで試みられてきてもよかったと思える「方法の思想」の表明の仕方だった。

≪04≫  それでも、ふーむ、なかなかジジェクという男はやるものだと感じた。ジジェク自身はこの方法を三〇ページごとにいろいろの名で呼んでいるが、わかりやすくは「アナモルフィック・リーディング」(漸進的解読)などとなっている。「Q→A」で読むのではなく「A→Q」を挟みながら読むという方法だ。ジジェクは哲学の役割が「質問を修正すること」にあると考えていた。

≪05≫  次に『仮想化しきれない残余』(青土社)という魅惑的なタイトルの本を読んだのだが、これはシェリングをヘーゲルで読むというのか、ヘーゲルをシェリングで読むというのか、やはりAの目盛りをBの解読の隙間につかい、Bの目盛りをAの言い換えがおよばない残余につかうという方法をいろいろ駆使していて、またまたむずむずするほど手口が見えて、堪能させられた。

≪06≫  ぼくも「遊」の第Ⅰ期で、あることを提案していた。それはわかりやすくいえばプラトンがヘーゲルを読んだらどう思うか、ニュートンがアインシュタインをどう見るか、三井高利が資生堂の商品にどんな価値を見いだすか、ラシーヌがブレヒトの舞台をどう感じるかという方法によって、思想や芸術や商品について歴史を逆想させて語る語り方があるにちがいないという提案だった。実際にも空海が三浦梅園を読む、ポオがドス・パソスを読むといった遊びを試みた。

≪07≫  こういうことは、人と人との関係だけではなく、モノがモノを見たって成立する。「相似律」一冊を制作したときは、コロラド川の航空写真が脳のニューロン・ネットワークを眺め、皮膚の接眼写真がアンリ・ミショーのドローイングを覆うといったことを、何百枚もの比較図版で試みてみた。それを、まだ会いもせぬロジェ・カイヨワが制作関与したという架空の設定のもとにつくってみた。ほぼ制作のメドがついたころ、ぼくはパリのカイヨワの家にそのコピーの束をどっさり持って飛んでいった。カイヨワが言った、「まるで私がしたかったことを見ているようだ」。

≪08≫  こうした編集方法はいくらでも遊戯化でき、いくらでも戯曲化でき、いくらでもメディアをつくりだし、またいくらでも思想化できる。ただぼくのばあいは、そのように領域化したり専門化したりすることには関心が薄くて、いいかえれば、そういう方法をフランス料理ふうの濃厚なソースで味つけるのが好きではなく、むしろ日本料理が素材をあまり加工しない程度の処理ですますような、そんな懐石的提示を好んできた。ソースよりも盛り付けの器や皿や食卓に凝ってきた。また、その盛り付けにあたっては柚子少々、山椒少々、海苔少々なのである。

≪09≫  しかしスラヴォイ・ジジェクのように、この方法に酔うがごとくに熟知していて、方法そのものの思想的過熱に異様な能力を発揮する男もいるものなのだ。これはこれで驚いた。とてもぼくが挑める芸当ではない。日本料理でもない。

≪010≫  けれどもそうなると、ジジェクのすっぴん思想も見たくなる。これまたやむをえない読書人情というもので、そういうジジェクをどうしても読みたくなる。そんな気分になっていたところ、本書『幻想の感染』が翻訳されたのである。

≪011≫  本書は、ジジェク独壇場のテキスト相互変換やトレーシング・リバースといった方法から離れて、どちらかといえば批評の言葉が露出したままジジェクの考え方が読めるものになっている。ジジェクを訳してこれが三冊目の訳者の日本語も、かなりこなれてきていて(形代・定め・享意・勢力といった訳語をうまくつかっている)、そのためか、そうか、ジジェクはこういう趣向を好んでいたのかということを行間に触知することもできた。

≪012≫  なんだい、ジジェクは結局はニコラス・レイやロバート・アルトマンの『MASH』やリドリー・スコットやデヴィッド・リンチがたまらなく好きなんだ、そういうこともはっきり見てとれた。

≪013≫  本書にジジェクのすっぴんが見えるのは、やたらに電脳空間を話題にしているわりには、ジジェクがちっともコンピュータ・ネットワークにもウェブにもブラウジング・テクノロジーにも精通していないことが露呈されているせいでもある。それなのにジジェクは世間の批評思想の言葉のままに電脳空間の特質を炙り出そうとしているため、いっそうジジェクの骨組みや毛穴が丸見えになった。

≪014≫  だいたいこの男、無作法なのである。マルクス主義の持ち出し方にも技法が乏しい。けれども猛者である。モード編集力がないくせにデザイン編集力がある。アレキサンダー・マックイーンという自殺したファッションデザイナーがいるのだが、そういう自己憧着力がある。いやいや、こういうことを言うために本書をとりあげたのではなかった。そういったこととはまったくべつに(まあ関係はあるだろうが)、やはり本書にひそむ独得の見方に感心したのだ。

≪015≫  知られているように、ジャック・ラカンには「ラメラ」(lamelle)という精神分析上の基礎概念がある。説明するとなると面倒なのだが、主観の発動以前から作動しているメタリビドーのようなものがラメラで、「架空の不死」をもとめる生命的衝動のようなものをいう。

≪016≫  動物にはラメラはない。たいていは摂食や交接でつねに充足がくる。人間はそうはいかないから失望もするし、ひたすら想像を逞しゅうするし、自慰もする。このときラメラが遠くで動く。それは人間というものが、たえず「幻想の享楽」のようなものを支える何かをどこかで必要にするからである。このラメラが遠くで動くとは、いったい何がおこっていることになるのだろうかというのが、ジジェクの説明でぼくを感心させたところだった。いろいろ説明を変えているのでわかりにくいけれど、そこを捌いてまとめると、ざっと次のようになろう。

≪017≫  われわれはどんな時代もイデオロギーや主題に惑わされている。ジジェクはこれを徹底して嫌う。ぼくも大嫌いである。ではどうすればそれらに惑わされないか。方法による脱出が必要なのだ。そこで、ジジェクやぼくは、たとえばアナモルフィック・リーディング(漸進的解読)を遊ぶ。

≪018≫  これは、一見するとポジティヴに見える対象をネガティヴな勢力のほうで受け止めてしまおうという編集方法なので、イデオロギーを批判するにはもってこいである。問題は、そのようにイデオロギーや主題を「マイナスの領域」に引っこませることができるとして、では、その「マイナスの領域」とは何なのか、そこで何がおこっているのかということだ。

≪019≫  カントはそれを「負の量」を介在させることで片付けたが(それでもたいしたものだったが)、ジジェクやぼくはそれでは気にいらない。なぜなら「負」とはいえ、そこには「欠如の無」と「否定の無」がごっちゃに入っているからだ。何かが欠如しているから無になっているのではない。何かを否定したから無に見えているのではないのである。そうではなくて、そもそもそこに「負の介在」が作用する。それがとりあえずは「マイナスの領域」に見えるだけなのだ。では、そこで何が負のように作用しているのか。

≪020≫  ジジェクはラカンを借りて、「ないものを代理するもの」がそこに作用しているのではないかと見た。ぼくは「何でもラカン」というやり方が好みではないのだけれど、これはいい。こんなふうに書いている、「主体というものは、実在の正の場を正の実体と誤って認識してしまうものだが、実はそこには〝負の大きさ〟によって補足されている作用がおこっていると考えるべきである」。

≪021≫  うまい言い方だ。かつて岡倉天心が日本の美術や芸能を前に次のように言ってのけて以来の説明だ。天心は、こう書いた。「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させているようなもの」!

≪022≫  われわれの認知活動や表現活動の根本には「ないものを代理する作用」があるということなのである。すなわちそこには、たえず「負」によって何かが補足され、何かが充填されるようにはたらく関係が生じていると見るべきだということなのだ。

≪023≫  ぼくはこの「ないものねだり」の重要性を、「不足から始まる編集術」として編集工学的発想のかなり中心においている。「ないものねだり」ができるためには、「ある」や「ある自分」にとらわれていては、先に進まない。「部屋にないもの」がピアノや小型掃除機だけでなく、ゴジラやおばあちゃんやセックスフレンドでもあることを思いつかなくてはならない。そこに編集が始まるのである。

≪024≫  ついでに言っておくと、ジジェクは、この作用がどこかで壊れているのが精神病であると見た。精神病では、「負」が引き取ったはずのものが、さまざまな理由と原因によって「正」の対象になってしまっている。ジジェクはとっくにそのことに気がついていたのだ。多くの精神医学はそこに「負の大きさ」が関与していて、そのことに精神病患者が気づいていないということを、気づかない。ようするに精神病とはテレビでさかんに特集されるNG集が、何かを完遂させるためのNGであることがわからない症状なのである。

≪025≫  このような見方をもって、さらにジジェクはどんな社会的な相互作用にも心理的な相互作用にも、何らかの「負」が介在しているはずだということを見抜いていた。しかもこの「負」は、ときに「割り切れない残余」にもなれば、別の場での発現にもなるし、また、ある者には過活動にも見えるものであり、それでいてそれはすでに必ずや「負への引きこみ」を遂行しているがゆえに、どんな正の主張や成果よりも、さらに奥にあるものとして、さらに本来的な響きをさまざまな場面で奏でつづけるとも喝破した。

≪026≫  スロヴェニアの鬼才スラヴォイ・ジジェクが、こんな「負な話」を本書の各処にひそかに隠しもっていた。本人は革命を「ないものねだり」しているようだが、それも「革命のおばあちゃん」あたりに変更してもいいような気がする。

≪01≫  連休中にやっと東北の被災地に行ってきた。三県の地図と新聞の切り抜きコピーの束と、吉村昭の文春文庫本『三陸海岸大津波』、平凡社ライブラリーに入った北山茂夫の『大伴家持』、川西英通の中公新書『東北』『続・東北』の4冊を持って、一人で行った。 

≪02≫  家持を持っていったのは、この歌人が陸奥の按察使(あぜち)鎮守将軍として、また持節(じせつ)征東将軍として多賀城あたりに3年半を過ごして、なんとも名状しがたい残念をかこち、そこで68歳で死んでいたからだ。68歳はぼくの今年の年齢なのである。 

≪03≫  堅い長靴を履いて、ポケットの多い上っぱりを着て、言葉にならない気持ちを鞄に入れて、異貌の土地を歩くのは初めてだった。 

≪04≫  慰問でなく、救済ボランティアでもなく、仕事でもない。なんらのアポイントもなく、ただただ自分の胸に蟠る宿題の端緒に着手するためだけの、勝手な出立だった。できれば車を駆ることもでき、ぼくのことをよく知っていて、艱難突破のエネルギーもある和泉佳奈子を連れて行きたかったが、彼女は南三陸町のお寺での実のおばあちゃんの葬儀に行っていて、日程がふさがっていた。 

≪05≫  結局、こそこそと準備して、3・11以降の「陸奥(みちのく)の現在史」を浴びる感傷を慌ただしく確かめるだけの目的で、出掛けた。なんとなく後ろめたかったけれど、ともかくも行く以上はできるかぎり北から入りたかったので、へたくそな計画をたて、東北新幹線の新花巻から釜石線で釜石に入った。 

≪06≫  途中の遠野には渋谷恭子がずっと老人介護を尽くしていることもよくよく承知していたが、あえて連絡しなかった。ぼうっと早池峰(はやちね)の峯を眺めた。20年ほど前に訪れた大祭が懐かしい。「はやちね」はアイヌ語のパヤチニカだったか。 

≪06≫  途中の遠野には渋谷恭子がずっと老人介護を尽くしていることもよくよく承知していたが、あえて連絡しなかった。ぼうっと早池峰(はやちね)の峯を眺めた。20年ほど前に訪れた大祭が懐かしい。「はやちね」はアイヌ語のパヤチニカだったか。  

≪08≫  この海を少し北に向かえば多くの人命を呑み干した大槌町であり、そのそばに井上ひさし(975夜)さんが“別国”を描いた吉里吉里がある。そのもっと先が、憶えば45年ほど前に小岩井牧場の帰りに思いついて、山田線を賢治の列車に見立てて立ち寄った海鳥が鳴く宮古の漁港である。  

≪09≫  その3年後だったか、平泉や衣川をうろうろして、水沢から黒石寺に寄ってみたことがあった。その蘇民祭の裸参りを毎年指導していたのは、ぼくに何度も熱烈な手紙を書いてきて、そして昭和天皇が亡くなった翌日に割腹自害をしたS氏だった。そういうこと、しばしば過(よぎ)ったけれど、今回はそういう一刻にはまったく向えない。 

≪010≫  釜石から45号線の浜街道を下っていけば、かの大船渡と陸前高田の惨状が歴然としてくるのだろうが、三陸鉄道の車窓からは南嶺や小石浜が近望できた程度だった。それでも盛駅で乗り換え時間が少しできたので、大船渡の近くを見た。どこもかしこも、ぺしゃんこである。 

≪011≫  瓦礫という言葉では、とうてい何も言いあらわせない。瓦礫は映像や写真で見るのとはちがって、異臭の物体群なのだ。解体の現場なのだ。地球のくすぶりの逆上なのだ。 

≪012≫  大船渡線が小坂から陸前高田を過ぎると、「こんなふうに無作法に来るべきではなかった」という気がしてきて、困った。光景に主語を呼びこめない。主語だけではない。そこに動いていたはずのすべての動詞が受け身に突き刺さってくる。 

≪013≫  このあたりから、見知らぬ方々の協力を得ることになった。とても一人では太刀打ち不可能なのだ。 

≪014≫  気仙沼は、その、いくつかの大事な主語がまさに根こそぎ失われ、大半の秩序が凌辱されていた。病院も壊れた。気仙沼の地区唯一の本吉病院というところに行ってみたが、ここは1階に2メートル近く泥水が浸水して、レントゲンや検査機器の大半が流れていった。院長は震災9日目に机の上に辞表を置いて姿を消した。泥水を除去したのは病院再建を願う住民たちだったらしい。 

≪015≫  足も地につかず、喉もからからになりながら塩釜に着くと、ここは港湾が上下に撹拌され、その隙間から早くも日常が新芽のように噴き出ていた。漁港というのは気丈夫なものなのだ。気になって陸奥一之宮でもある鹽竈(しおがま)神社を訪れてみた。大輪のピンクの花をつける塩釜桜に「春」を求める地元の家族が何組かいるだけだった。この神社には、シオツチがタケミナカタとフツヌシを案内して海路から上陸した伝説がのこっていて、おそらく2000年の津波の記憶が刻まれているはずだ。 

≪016≫  最後によろよろの体で回った夕暮れの福島いわき市は、なんというのか、恐ろしいほど無言で、こちらがちょっとでも気が緩めば、たちまち海鳴りに沈んだ者たちの怒号が聞こえてきそうだった。休日のせいもあってだろうが、海岸からそれほど遠くない学校が不気味なほど静まりかえっていた。 

≪017≫  どの地でも短歌と俳句を詠むことだけを心がけてみたけれど、まだ推敲する気にさえなっていない。いずれ詳しいことを書く日もくるだろうものの、いまはこの程度なのである。 

≪018≫  それより今夜は、塩釜で入手して帰りの車中で読み耽った「仙台学」11号の、「東日本大震災」とだけ銘打たれた4月26日特別号の数々の文章のうちから、いくつかを紹介しておきたい。この雑誌を刊行している版元は「荒蝦夷」(あらえみし)という。それだけで十分だ。立派だ。“中央に屈服しなかった者たち”の意味である。 

≪019≫  冒頭は赤坂憲雄(1412夜)が書いている。4月初旬に国道6号・陸前浜街道を北上して塩屋崎灯台をめざした途中の瓦礫と光景と初老夫婦のことを語り、これは「置き去り」だと感想している。そうか、なるほど、「置き去り」か。  

≪020≫  その1週間後、赤坂のもとに南相馬市の避難所ではたらいている友人が携帯メールを寄せてきた。国の「復興」はあまり感じのいいものじゃない。「復(ま)た同じ過ちを繰り返すのではなく、“再生”しなければならないのです」とあったという。 

≪021≫  やはり「復興なんて、誰が言ったんだ」と怒っているのは、ルポライターの山川徹だった。山形の上山生まれで、大学を仙台で送った。東京に拠点をおいて仕事をしていたが、3月13日の夜、被災地に向かった。南三陸志津川、石巻、気仙沼、女川、陸前高田、大船渡‥‥。惨状いちじるしい被災地をすべてまわっている。「慟哭する人」にも初めて会った。そして、感じた。「復興」なんて、自分たちの不安を和らげるだけのための言葉じゃないか。 

≪022≫  『ゴールデンスランバー』で山本周五郎賞をとった作家の伊坂幸太郎は、仙台に暮らしている。3・11の瞬間も仙台駅東口のビル1階の喫茶店でノートパソコンに小説を書いていた。あまりにも不気味な揺れだった。携帯がつながらず、急いで家に戻ると家のダメージもなく、家族も無事だったが、子供が余震があるたびに「何だ、またはじめからやりなおしかよ!」と言うのが響き、自分があれから泣き虫になっていったということを、綴っている。「役に立たない人間ほどよく泣く」という諺があってもいいとさえ思ったらしい。 

≪023≫  石巻生まれのノンフィクションライターで、海外サーカスの招聘をしている大島幹雄は、「石巻若宮丸漂流民の会」の事務局長でもある。自分のためばかりに生きてきたが、自分のことより東北の「生活の再建」に何かを捧げたいと結んでいた。 

≪024≫  朝日新聞記者としてさまざまな被災地を取材してきた木瀬公二は、その後に遠野に移り住み、いまちょうど朝日の岩手版に「100年目の遠野物語」を連載している。ぼくも新花巻駅で買ってみた。 

≪025≫  3・11のあの瞬間は秋田の96歳のジャーナリストむのたけじと会って、帰りの横手インターにさしかかるところだったという。釜石の北にある大槌町が「津波に襲われたというのに焼け焦げた町」になっていること、「他の被災地が釘だらけの柱や箪笥や背広が散乱している」のに、大槌が「錆びた金属の色しかない単色の世界」だったことなど、さすがに記者で鍛えた目が鋭い。そうか、錆びさせられたのか。日本人が「ほどほどの暮らし」をすることを勧めていた。 

≪026≫  新田次郎賞の『漂白の牙』の熊谷達也は仙台の登米の生まれで、大人になってから上田中の気仙沼中学校で教員をして、それから作家になった。大震災の日から3週間後、仙台から東北道・346号線・45号線で北上して気仙沼を訪れた。息を押し殺してハンドルを握っていたという。すべてが「ミキサーにかけられたカオス」だと感じたという。その気仙沼が、かつての土地の匂いの代わりに、磯と異臭のまじりあった町になっていた。 

≪027≫  気仙沼中学も半分が破壊されていた。無力感に打ちのめされた。木瀬は、こんなときに「想定外」ばかりを言い募る連中にこれ以上傷つけられるのはまっぴらだと、怒りを叩きつける。 

≪028≫  盛岡の作家で、「街もりおか」の編集長でもある斎藤純が、3月11日の夜空のことを書いている。「電気が復旧している地域がないかとベランダに出て確かめようとしたとき、ふと見上げた夜空をびっしりと星が埋め尽くし、輝いていた。盛岡であんな星空は見たことがない。あれは天へ昇っていく魂だったのだろう」と。 

≪029≫  朝日のアメリカ総局長や論説委員をしたのち石巻支局長だった高成田享も筋金入りのジャーナリストである。そのトップジャーナリストが、今回ばかりは「近代とか文明とかいったものは何だったのか」と問わざるをえず、現代のプロメテウスの火が原発になり、現代のパンドラの箱から飛び出しているのが原子炉から放射される見えない物質になってしまったことを嘆いていた。ところで、この人、例の復興構想会議のメンバーでもある。 

≪030≫  多くの作品で読者を唸らせてきた高橋克彦は、今日の東北文学を代表する作家の一人だが、大震災で「自分の仕事に対する疑念が大きく膨らんでしまった」そうだ。みんなが「ガソリンが足りない、電池が手に入らない、米がない」と言っているのに、誰も書店や図書館や映画館が休業していることを嘆かないからである。高橋は書店や図書館に並ぶ本を書いて生活をしているのに、そういうものはこの災害の現実の前ではなんら主張力がないようなものだったことを突き付けられたと感じたようだ。 

≪031≫  けれども高橋はそのような言いようのない失望の渦中のような気分のなか、宮沢賢治(900夜)の詩歌のほとんどを精読しているうちに、『農民芸術論概要』に感動したらしい。それからは、賢治が芸術は働く者たちのためにあると高らかに宣言していたことを縁(よすが)にしているという。 

≪032≫  三浦明博は高橋克彦と同じく江戸川乱歩賞でデビューした。宮城県栗原の生まれで、いまも仙台にいる。最近作の『黄金幻魚』は三陸が舞台になっているらしい。 

≪033≫  3・11以来、伊坂幸太郎と似て「涙もろくなっている」と告白し、震災当日の夜半に山梨の富士吉田から15時間かけて、われわれの安否を案じてやってきた甥が、腹ぺこなのであり合わせを用意してやると、それをかきこみ、今度は「県北の祖父母の家に行ってくる」と言ってすぐに出て行ったのを見て、「この若者の無謀ともいうべき迅速な行動力に、何か眩しいものでも見せられたような心地がした」と書いている。このエッセイは「人は信ずるに値する」と結ばれていた。 

≪034≫  星亮一の『敗者の維新史』『奥羽越列藩同盟』『大鳥圭介』は、ぼくも愛読した。仙台に生まれ育ち、いまは福島にいるようだ。その星は4度にわたって津波被災地の取材をした。その体験をさすがに要訣をとらえて綴り、そのうえで東電と日本政府の責任を問う。「誰がどう言おうが、私は福島県を離れるつもりはない。この惨事を自分の目で見続けるためである」と断言しているのは、長らく戊辰戦争の悲惨と愚挙を書きつづけている著者にふさわしい。覚悟のある結語というべきか。 

≪035≫  特別号の掉尾は吉田司で、山形市出身。この作家この著者はぼくと同年代で、しかも早稲田文学部。在学中から小川紳介のプロダクションに参加して、『三里塚の夏』の演助(演出助手)をしたが、その感傷的な映像演出に耐えられず、1970年からは水俣に入って、若衆宿をつくりあげた。その体験が『下下戦記』(文春文庫)だった。その後の『宮沢賢治殺人事件』も『カラスと髑髏』も『王道楽土の戦争』も読んだが、なかでも『夜の食国(おすくに)』(白水社)はいずれ千夜千冊しようと思っていた。 

≪036≫  その吉田がここで書いているのは「ハローハロー、こちら非国民」という、とんでもないもので、収録エッセイのなかで一番長く、一番過激な見方になっている。その過激な見方は、主に原発事故後のグローバルな事態の進捗に向けられている。 

≪037≫  吉田は、アメリカ第七艦隊ロナルド・レーガンが岩手沖に停泊したとき、これはアメリカの“トモダチ作戦”などではなくて、実は“半占領”が始まるということだと喝破するのだ。 

≪038≫  諸君、よくよく目を凝らしなさい。復旧支援は日米同盟の共同管理下に入っていくだけでなく、3・11の事態が資本主義ネットワーク国家による「組み合わせ自由の多国籍軍」の中に取り込まれていったというのだ。ヒラリー・クリントンが被災地を巡るというニュースを聞いたときは、これは「アメリカの“東北巡幸”を意味することになる」と直観したとも言う。 

≪039≫  うーん、なるほど。ここまで言えるのは、吉田司しかいないだろうなと思いながら、ぼくは帰りの列車のなかでとろとろに眠りそうになっていた。 

≪01≫  ずいぶん以前の話である。札幌の某高層ホテルはまだオープンしてまもないせいか、ほとんど客が泊まっていなかった。ぼくと金子さんはシンポジウムに招かれて指定のこのホテルに泊まったのだが、あまりに不気味なので二人で薄野(すすきの)のコーン・ラーメンでも食べることにした。 そんなふうに二人きりで遠出して話しこむのは初めてだったので、つい個人的な出来事の話になった。ちょうどアメリカにいる妹さんが亡くなったばかりのことで、金子さんはこれで家族をすべて失ったとポツンと言っていた。 

≪02≫  すぐに「一人で生きるのもいいかも」と笑っていたが、ぼくは古めかしい「連帯」という言葉をおもいついていた。そのあと、二人で情報のバルネラビリティについて話しこんだ。バルネラビリティは「傷つきやすさ」ということで、ぼくはそれを「フラジリティ」ともよんでいた。情報は人々に利益ばかりもたらすものではなくて、むしろかなりきわどい「際」をもたらすものだという話になった。だからぼくらは情報に小さな目や翅をつけて、その翅で情報ネットワークの中を飛んで、その目でネットワークの動向を見極める必要があるねといった話をした。そんなことを交しつつ、ぼくは金子さんとはずっと仕事をしていくだろうなと確信していた。 

≪03≫ 金子さんとは20年以上にわたって、仲間として活動をともにしてきた。そのあいだ、仕事を一緒にすることも多くなってきた。そうした活動のあいまの金子さんはいつもできるだけ陽気にふるまっていたが、そんなとき、ときおりぼくが感じていたことがあった。それは金子郁容にひそむ寂寞(せきばく)とでもいうようなものである。他人の寂寞を説明することなどできないが、それをあえて取り出してわかりやすくいえば金子さんにおいては「他人に迷惑をかけたくない」ということなのである。いいなおせば「自分でできることは自分でやる」ということになるのかもしれない。 

≪04≫  しかしさらにいいなおせば、その寂寞からは「社会も世界も人生も、一人と他人のつながりしかない」という意志が、静かに発信されているようにもおもわれた。金子さんの寂寞は「一人が他を支える」という意志につながっていたのだ。ぼくは札幌の夜にそれを感じた。 

≪05≫  今夜とりあげた『ボランティア』は岩波新書だということもあって、日本のボランティア運動に最初の指針を公的に示した一冊だった。しかし本書は湾岸戦争とソ連解体の直後、阪神大震災の2年前に書かれたものであるということにおいて、「もうひとつの情報社会」の予告として象徴的な意味をもっていた。 それまで金子郁容はスタンフォード大学から帰ってきて一橋大学に所属すると、新しい社会の関係性に注目してネットワークとは何かということを研究していた。『ネットワーキングへの招待』や今井賢一さんと組んだ『ネットワーク組織論』なども書いた。けれどもどうも実感がない。ネットワークって実感のないものかと訝っていた。江下雅之さんが『ネットワーク社会の深層構造』で「薄口の人間関係」という言いかたをしていたが、まさに薄口か淡泊質なのである。 

≪06≫  それが本書にも紹介されている何人かのボランティア・ネットワーカーと一緒に仕事をするようになって、変わった。「つながり」と「かかわり」という意味が実感された。「助ける」が「助けられる」であって、「さがす」は「さがされた」なのである。「わりをくう」と見えた活動が「わりをくばる」であったことに気がつかされた。  

≪07≫  数学と数値解析を専門としてきた金子さんは「情報」の研究者でもあった。いったい情報とは何かということをずっと考えてきた。372という数字はどうして情報になるのかという研究だ。 むろん情報なんてどこにでもある。体の中にも新聞の活字にも、道端にも中東にも、記憶のなかにも家族との日々にも情報がある。DNAも免疫情報も情報だし、ニュースも科学技術も電子メールも情報である。しかし、それらの情報がすべていっぱしの情報の資格をもっているのだとしても、放っておけばすべてがデッドストックである。情報はいじってなんぼ、さわってなんぼなのだ。372という数字をいっぱしの情報と感じるには、そこに何かがはたらかなければならない。  

≪08≫  そこまでは誰でも感じていることだろう。けれども、いったい何がはたらいたのか。何がいっぱしを支えているのか。ひとつには、情報をどこかに置いてみることだろう。風力3や家族3人や3色ボールペンが示す「3」は、気候の案配や家族の歴史や用紙やノートとともにある。そうでなければ「裸の3」である。情報はリロケーションやリプレイスとともに姿をあらわすといっていい。 

≪09≫  しかし、情報には知覚や理解や解釈というものも伴っている。それが情報だと感じるには、その情報とどのように出会ったのか、その情報をどんな知覚や解釈でレセプションしたのか、その情報をどのくらいほしかったのかということも関与する。これは、もうひとつの情報の特質だ。情報は「めぐりあい」でもあったのである。まただからこそ、情報には「わかった」と得心できるものがほしくなっていく。 

≪010≫  金子さんが本書で証していることは、一言でいえば、ボランティア・ネットワークを自分が動くことそのものがもうひとつの情報の特質だったということにある。 かつて金子さんは情報の本質は「動的情報」にあるのではないかと、いくつかの本のなかで書いていた。そう、推理していた。この推理は半ばは当たっていたのだが、もう半分はその情報とともに動いてみなければわからなかったことだったのだ。しかもそのことは情報の特質であるとともに、情報ネットワーク社会そのものが露出しつつあった特質でもあった。 

≪011≫  ボランティアという言葉には、もともと志願者とか義勇兵とか篤志家という意味がある。それらはボランティア活動者という主体の意志をあらわしている。 なるほどボランティアは主体的である。けれども、本来のボランティアの意味の奥には"WILL"そのものの動向というものがあり、その"WILL"はじっとしているわけではないのだから、それらが「つながり」や「かかわり」や「めぐりあい」をおこしたとたん、そこには関係性というものが形成される。その関係性に結び目をしっかりつけたものがネットワークの正体であって、そのネットワークはもとをただせば何かが自発することで開始された情報の動向そのもののことでもあったのである。

≪012≫  電話線やコンピュータ・ネットワークのルーターばかりがネットワークではない。そこに相互の出会いをもたらし、「もうひとつの情報社会」の潜在性が立ちあらわれて、見えないボランタリー・ネットワークがそこかしこに見えてくること、そのことが金子さんが実感したかったネットワークだったのである。 大筋、金子さんは本書を通して、こうしたことを"発見"した。ボランティアとは、ボランタリー・ネットワークを自発させる一人ずつのエンジンのことであり、そのように情報を見直すことだったのだ。ぼくはここから「情報はひとりでいられない」というメッセージを貰った。 

≪013≫  ところで、金子郁容は経済社会や経済文化の研究者でもある。帰国して一橋大学の商学部教授となって、さらに慶應義塾大学のSFCに転じるのであるが(その後、慶應幼稚舎の校長さんもしていたが)、そういう仕事場ではもっぱら情報と経済社会の「関係」を思索した。本書においても、新たな情報ネットワーク社会がもたらすだろう経済社会の問題についての見方が問われている。 そこで本書では中盤からは一転、アダム・スミスとカール・マルクスとマックス・ウェーバーの比較を通して、高度に発達した資本主義のもと、いったい組織と個人は今後はどんな関係をもつのか、それがコンピュータ・ネットワークや人脈ネットワークでつながったときにどうなっていくのか、そこに分け入っていく。 

≪014≫  1714年のこと、ライデン大学からロンドンに移住してイギリスに帰化した医師のバーナード・マンドヴィルが『蜂の寓話』を書いた。マンドヴィルがそこで書いたことは、個人が悪知恵を絞ってでも儲けようとすることが、ゆくゆくは社会全体のためになるというアイディアの有効性を証明することだった。 この本が露払いになって、グラスゴー大学にいたアダム・スミスが1776年に、自由主義経済の原理となった『国富論』を書いた。スミスはそれまで「エディンバラ評論」の編集にかかわり、『道徳感情論』を著したのち認められて、そのころはそういうパトロンがけっこういたのだが、バックル公の後援をうけ、2年にわたってヨーロッパを旅行した。そこで啓蒙主義のヴォルテールや重農主義のケネーと交流したことを糧に、マンドヴィルのアイディアにヒントを得ながら『国富論』にとりくんだ。 

≪015≫  マンドヴィルといい、スミスといい、国や民族や社会や思想をまたぐことが新たな経済社会思想の端緒となったのである。 スミスが『国富論』で示した結論を一言でいえば、国を富ませるには生産力を増大すること、それには分業を促進すること、そうすれば分業と商品の交換が進んで、国民の誰もが商品を媒介に他の多数の人々に依存する関係に入らざるをえなくなるということである。各自が自由な交換をして、それによって手に入った私有財産が国家によって保証されるなら、そして各自が利己心という経済的な動機で最善を尽くしさえすれば、社会はきっと秩序を守ったままに富んでいくだろうというのだ。 

≪016≫  スミスにとっては、経済行為は道徳や倫理に匹敵するものだったのである。だからスミスは「シンパシー」という言葉をつかって各自が共感をえられる経済行為をしているかぎりは、きっと市場に「見えざる手」がはたらいて、結局は妥当な価格を決定していくだろうとも見通した。このとき、経済とはまだ倫理のことだった。 

≪017≫  スミスの楽観に対して、マルクスは異なった見方をした。資本主義が支配的になる以前の社会では、一人の人間や一つの家族がときに機(はた)を織り、ときに畑を耕して、ときに大根を干したままにして、多様な労働を必要に応じて組み立てていた。生産は小規模でも、多くの働く者たちは自分でそれなりの生産手段をもつことができた。 

≪018≫  ところが資本主義が発達してくるにつれ、生産者や労働者は自分たちのためのものではなく、市場や他人のための価値をつくることになっていく。労働そのものが他人のための商品になっていく。マルクスはこれは「労働の商品化」ではないかと考えた。マルクスは、スミスの主張した分業にも痛烈な文句をつけた。過度な分業は機械化をもたらし、人間が働くという行為を疎外してしまうのではないか。のみならず、労働がつくりあげた商品は、資本家や経営陣ばかりに資本をもたらし、あげくは「資本の集中」を促進してしまうのではないか。 

≪019≫  こうして事態はしだいに悪化する。労働者には賃金が支払われるとはいうものの、その賃金は資本家が資本を獲得するのにくらべてあまりにも過小なものになる。それはマルクスの経済学では、資本家による剰余価値の搾取にほかならない。その搾取は人間の意識にも歪みを生じさせるとマルクスは考えた。 

≪020≫  マルクスが『資本論』を出版した年に生まれたマックス・ウェーバーは、スミスやマルクスとは異なる視点をつくりだした。近代社会によって強化されたピラミッド型のヒエラルキーをもった組織が、はたして個人の活動にふさわしいものかどうかを検討した。そのような組織の集合としてできあがった社会がどんな弊害をもつかを検討した。  

≪021≫  むろん組織にはそれなりの合理性がある。一人でできないことがたくさんの人間が集まることによって解決することは少なくない。賃金に不平がないならばそこで働く者は全体の責任を負わなくてすむのだし、生産や加工の過程も多数の者がうまく組み合わさりさえすれば、スムーズに流れるようにもなる。また働く者の権利や義務や責任にルールがつくれれば、マルクスが言うような搾取ばかりがおこるとはかぎらない。ルールさえあれば、以前の”山椒太夫”のようなカリスマ的な支配者を排除することもできる。 

≪022≫  しかし他方、組織は大きくなればなるほど、その担当部分は事務的になり、上下左右とのコミュニケーションを必要としなくなり、それが官僚組織に投影されると、いわゆる窓口のたらい回しに象徴されるような「問題の先送り」も頻繁になってくる。問題が先送りされるだけでなく、「天下り」のように人もヒエラルキーのなかで次々に送られてくる。いまどきハヤリの「官から民へ」といったって、もともとが官僚組織が開いたピラミッドの傘のなかでおこっているのだから、問題の先送りに変わりはない。 

≪023≫  ウェーバーは、このような組織の問題を資本主義の発展と結びつけて考えた。それが有名な1905年の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』で、実は資本主義はプロテスタント(ピューリタン)がつくりあげた禁欲と成功のための倫理の裏返しとして、そうした国々に発達したものではないかというものだった。 

≪024≫  プロテスタンティズム(ピューリタニズム)には主に二つの倫理が生きている。神の思し召しに従って社会の規範となって暮らすこと、神の思し召しに従って職業的な成功をおさめること、この二つだ。神の思し召しとは「コーリング」ということである。 

≪025≫  前者は信仰的な家族生活や社会生活を、後者は天職をえて社会生活を幸福に営むことを勧める。いずれにしてもプロテスタンティズムには資本主義の営利を神の思し召しとして許容していくという態度が満ちている。ウェーバーはここに、欧米における資本主義の急速な発達が促進されるエンジンが動いたのではないかと見たのである。 

≪026≫  スミスは個人が利益を求めることこそ社会を豊かにすると考えた。マルクスはその富は資本に集中するだけだとみなした。ウェーバーはそうした富に向かうものには信仰や組織がくるまれていると見た。 

≪027≫  これらは視点はそれぞれ異なるが、いずれも「理解しあう社会」とは何かを分析しようとしたものだった。しかし、よくよく眺めなおしてみると、これらはいずれも市場を中心とした社会の理解の仕方を問題にしていたものだった。市場とは「現在」を重視する社会のことである。市場はリアルタイムな理解にピントを合わせて変化する。だからこそ、そこに物価や株価や為替が動く。「現在」の価格と「将来」の売買の差益だけが市場社会の原理をつくる。 今日、こうした市場を社会のモデルとみなす傾向はますます高まっている。金融ビッグバンがおこり、マネーゲームが歓迎されている今日の資本主義は、スミスやマルクスやウェーバーの時代の状況をはるかに凌駕して、より大胆で精緻な自由主義市場の重要性を発揮しているかのようである。 そうだとしたら、われわれはもう一度、この3人に立ち戻って問題を見つめなおす必要もあるだろう。  

≪028≫  しかしそれと同時に、今日では環境や医療や教育や老後のことを考えざるをえなくなっている。放っておいて「見えざる手」がはたらいてくれるとは考えにくい。階級闘争になっていくとも想定しにくい。しかもこれらの環境・教育・老後などの問題は「現在」を反映する物価や株価や為替相場とは異なる「時間」をもっている。それらはまた市場とは異なる「外部」をもっている。 いずれも一朝一夕では成果が出るものではないし、個人や組織が単一にかかわって解決する問題でもない。スミスもマルクスもウェーバーもそういうことは考えてはいなかった。 金子さんは本書の後半になると、こうした「時間」や「外部」を含む情報ネットワーク社会がこれからは問われるのではないかと考える。そして、今日ではボランタリーな"WILL"に発した自発性が、市場と個人、資本家と労働者、組織と個人といった対比の問題から、相互に依存するタペストリーのような関係のなかに織りこまれていくのではないか、しかもそのタペストリーの糸はネットワークのなかを動くことによってしか裁縫されないのではないかと見た。 

≪029≫  15年前に書かれた本書には、今日なおさらに見落とせないことが書いてある。それは、以上のように情報を"動くタペストリー"として実感していくには、情報につながりをつけるために発生する取引コストと情報を授受するたびにかぶさってくる心情のことを考えなければならないだろうという予見だ。 取引コストのことは省略して心情のことだけふれることにするが、金子さんがここで持ち出してきたのは、発達しすぎた市場社会以前に人間のコミュニケーションやトランザクションにひそんでいた心情と価値観というものだ。 ふたたび3人の知恵による発言を参照したい。今度はカール・ポランニーとマルセル・モースとイヴァン・イリイチだ。 

≪030≫  第151夜に紹介したポランニーの見解は、市場経済がもたらした心情は、それ以前の経済社会とくらべるとかなり特殊なものではないかというものだ。 もともと飢餓や貧富や利得をめぐる心情には、愛や憎しみとまったく同じように、経済的な動機なんてほとんどなかったはずである。そうした心情は宗教や美やセクシュアリティにも似て、経済の対象にすらならなかった。つまり人間は最初は経済的な存在ではなく、根っからの社会的な存在なのである。それゆえその心情も経済行為とぴったりとは合わないものだった。 そのようなポランニーの見解は、モースの『贈与論』では、人々が交換していた物品には、それを贈った者もそれを貰った者にも一種の"生命"のようなものが連続して維持されていたという見方として一応の説明がつく。"生命"のようなものとはその物品をもつことによって生じる価値観のことである。それが時代が進んで通貨や貨幣が社会を支配するようになってくると、物品は生命や価値観をつなぎとめるものではなくなっていった。価値を示すのはそれを買ったときの貨幣価値となり、美術品ですらそれを売ったときの貨幣価値ばかりになっていった。 こんなふうになったのは市場主義が専横的になったからではないか。すべてが経済行為に従属するようになっていったからではないか。たしかにそのように見る必要もある。ポランニーやモースの見解にしたがえば、議論はそのように進んでいくはずだ。 

≪031≫  が、そういう見方だけでは足りない、いやいや、それだけでは議論は進まないと言い出したのがイリイチだった。 イリイチについては第436夜でやや詳しく説明したのでここでは省くけれど、結論をいえば、家庭でおこなわれている主婦の活動は長きにわたって経済行為とは見なされていなかったという指摘である。 たとえば主婦がつくる料理をもし誰かが店に運んでもらって食べようとすれば、それは特定の料金を発生させるはずなのだ。掃除や育児や教育だって、資本主義市場社会がすべての自由競争の原理の本来だというなら、こうした主婦の数々の活動も"勘定"に入れるべきなのである。イリイチはそうした経済の算定から洩れた活動を「シャドウ・ワーク」とよんで、そのようなシャドウ・ワークがつねにヴァナキュラーの場に押しやられていたということを告発した。ここではヴァナキュラーとはとりあえずは「見えにくい居所」といった意味である。 では、このような資本主義以前のコミュニケーションやトランザクションにあった行為や心情と、資本主義が発達してなお置きざりにされてきたシャドウ・ワークのようなコミュニケーションとトランザクションにひそむ行為や心情を、これからの情報ネットワーク社会でどう考えていけばいいか。 

≪032≫  この問題はさすがの金子さんをいろいろ考えこませたようであるが、そこにふたたび導入されるのがボランタリー・ネットワークと自発する動的情報のタペストリーがもたらした実感なのである。 金子さんは韓国出身の父と何代も続いた江戸ッ子の母を両親にもつ。金子さん自身はアメリカでアイルランド人と結婚して、離婚した。子供はない。子供はないが、そのかわり慶應幼稚舎の校長先生をした。 本書を書いたあと、金子さんはお母さんがもっていた中野のアパートを死後に譲り受けて、そこを「末廣ハウス」と名づけてボランティア活動の拠点に開放した。そこへ阪神大震災がやってきた。金子さんは現地で支援活動にかかわり、その活動には電子ネットワークが必要だと感じた。サーバーを設置し、NPOとして初めてIP接続をして、VCOMという日本で最初のボランティア活動のためのドットコムを開設した(そのほかのボランティア活動については本書に詳しく紹介されている)。 そうした経歴をもった金子さんには、「一人ずつが町や国や社会や民族だ」という意識があるとおもわれる。ぼくが札幌で感じた寂寞の背後には、その意識が雪原の炎のように燃えていた。 

≪033≫  一方、ポランニーやイリイチの見解と爛熟しつつある資本主義とのあいだには、かなり深い溝がある。それは大地のクリークやクレバスだ。ひょっとしたら埋まりがたい溝かもしれない。しかしながらそうであればなおのこと、その溝には、町や国や病気や森林に向かう一人ずつが"織物をもったネットワーク"を出入りしてみて、その溝を測る必要がある。 容易なことではない。そこにはリスクが伴ってくる。そもそもボランティアの自発性はごくちっぽけなスタートを切る。震災支援や介護活動でも一人でやれることはごくちっぽけなことである。しかしその活動をボランティアの主体のほうからではなく、その局所で「情報の目と翅」が僅かではあるが重大なアラームを発しているというふうに見直すと、これらの個々のちっぽけな局所はなんとしてでも結ばれ、連なっていなければならないことを知る。 この動機には資本主義的な動機は発生していない。しかもシャドウ・ワークに類似するシャドウ・アクティビティのところにこそ情報や支援物資が届く必要がある。 けれども、この行為を一人のボランタリーな自発性がおこす段になると、さらにリスクが伴うのである。「恥ずかしい」とか「やりがいがない仕事しかなかった」とか「やりかたがわからない」といった戸惑いもある。せっかくやってみたのに、感謝されないこともある。非難をうけることすらおこることもある。そこをどう考えるか。 

≪034≫  話はこうして元に戻っていく。金子さんが本書で一番たいせつにしたこと、それは情報にはバルネラビリティがあるということだったのである。バルネラビリティ(vulnerability)とは「傷つきやすさ」「他からの攻撃をうけやすい状態」のことを意味している。冒頭にも書いたように、ぼくはこれを「フラジリティ」ともよんでいる。 ボランティアをしてみると、このバルネラビリティが不意にやってくる。「よかれ」と決意してやったことなのに、へこたれそうになる。それはまさしく個人を不意に襲うリスクであるのだが、しかしとはいえ、そのように自分がバルネラブルになることは、かつては体験も実感もできなかったことかもしれないのである。 ここにはいったいどういうことがおこっているのだろうか。矛盾がおこったのか。無理がおこったのか。金子さんは本書の最後でこの問題の突破を試みる。自分をバルネラブルな状態におくこと、これは実は情報の動向の本質的な側面なのではないかと考えたのだ。 

≪035≫  本書には「自発性にはパラドックスがある」という説明もある。ひらたくいえばこのパラドックスは「わりをくう」というふうにあらわれる。せっかくボランティアをしたのにという「わり」である。しかし、この「わりをくう」という直後に、しばしば事態は劇的に変貌しうるのである。自分がうけたバルネラビリティという鍵がどこかの情報の「窓」をあけ、ネットワークに空いた「席」にやってくるものを劇的に迎えるのだ。情報を運ぶ主客が入れ替わり、ネットワーク端末がぶんぶん唸って交差点になっていくのである。 さて、それでどうなっていくのかということは、金子さんの次の本やぼくも一緒にかかわった本を読んでもらうのがいいだろう。本書の続きとしてはとくに『コミュニティ・ソリューション』がいい。そろそろ窓と席が空いて、主客が替わるときである。 

≪036≫  金子郁容さんはナビゲーターやインタビュアーとしての資質も図抜けている。かつてサンヨーが主催したシリーズ・トークでは知と美の異業異能格闘技のようなホストを務めて、万雷の拍手を浴びた。 ぼくはその才能に惚れて、それから何度も一緒のオンステージを遊ばせてもらった。過不足を感じたことは一度としてなかった。その場にリアルタイムなネットワークが立ち上がっていくのである。それはいつも心の手筒花火をみんなで打ち上げているような楽しさだった。これからもそういうオンステージを続けてほしい。 ところで金子さんにはアメフトを語らせたら人後に落ちない、ケーキを作らせたら周囲が唸る、クルマの運転はA級はだし、ジョークを挟むタイミングで議事を仕切るといった、あれこれの特技も秘められている。いずれも有名だ。 けれども金子さんにはもうひとつの特技がある。いや、哲学とか美学といったほうがいい。ぼくがおもうには、それは出口と入口が綺麗な人だということだ。出没ではなく去来があるということだ。 


≪037≫  最近の日本は「出」があると必ず「没」になる。これではつまらない。むしろ「去るもの」と「来るもの」こそ一人一人が体現すべきなのである。
ぼくが金子さんに学んだことは、これが一番だったのである。 

情報の人間化があって、はじめて知識が知恵になる。

≪01≫ 熱砂アラビア、碧眼ロレンス。 砂漠の反乱を指導し、オートバイで散った男。 つねに一兵卒であることを望み、異郷の王となった男。 享年45歳。 

≪02≫  トマス・エドワード・ロレンス。 日本ではD・H・ロレンスと区別するためか、もっぱら「T・E・ロレンス」とか「アラビアのロレンス」とか表記する。ぼくはフルネームでトマス・エドワード・ロレンスと言いたい。この男には省略は似合わない。 

≪03≫  その省略が似合わないロレンスがどのくらいの背丈だったかということを知って、とても驚いたことがある。165センチなのだ。イギリス人にしてはかなり低い。ぼくよりも5センチ低い。その後に百枚をこえる写真を見たが(印刷物だけでなく、ロレンス展でナマ写真もかなり見た)、子供時代も青年時代もアラビアでも、やっぱり低い。“ちび”なのだ。 

≪04≫  しかしロレンスが“ちび”だなんて、詳しい評伝や詳しいアルバムを知るまでは、ずっと思っていなかった。 

≪05≫  この意外の理由ははっきりしている。デヴィッド・リーン監督の映画『アラビアのロレンス』(1962)のピーター・オトゥールのロレンスが美しくも高すぎたのである。ピーター・オトゥールのロレンスがその相貌、その瞳の色、その声、その仕草、その容姿を含めて、あらゆる点から見て無比無類であったからだ。唯一、ロレンスの165センチがオトゥールの190センチになったことだけが、実物とは異なっていたわけだ。 

≪06≫  けれども、本物のロレンスがオトゥールのように美しかったことは訂正する必要がない。碧眼のロレンスは熱砂の砂漠に抜ける美貌の持ち主だった。土方巽に『美貌の青空』という著書のタイトルがあるように、そのように美貌だった。 

≪07≫  もっとも背が低かったことは、ロレンス自身にとっては看過できないことだったようだ。 たとえば少年期のロレンスはきわめて俊敏で体力もあり、スポーツが大好きな少年だったのに、団体競技をけっして好まなかった。徒歩旅行や一人で自転車で遠出すること好んだ。 

≪08≫  単独犯なのだ。孤軍者なのだ。スポーツだけではなく、さまざまなことを単独で敢行することを選んだ。孤高を好んだ。そのためか友人たちからは「うちとけない奴だ」と思われていた。10歳のころには家出もした。そのときはコーンウォールのセント・モーズで要塞砲兵隊の少年兵を志願した。 

≪09≫  よく知られているように、ロレンスは「アラブの反乱」で過激な戦闘にかかわっただけでなく、その後も一兵卒としてイギリス空軍に所属することを希望しつづけたのである。そのように少年兵を志願したことといい、無名の一兵卒を志望ことといい、それらの行動にはロレンスの頑ななまでの孤軍者としての意志を感じさせるものがある。 

≪010≫  背丈には関係がないだろうが、単独犯であることは家出とともに格別の読書好きにもあらわれていた。 ともかく大量の本を読んでいる。乱読ではない。かなり系統だてて読む。ハイスクール時代は国語と聖書学がダントツで、考古学と中世史にどっぷり浸かっていた。この並はずれた読書癖もロレンスの生涯を貫いている信条のひとつだった。 

≪011≫  どんな土地のどんな場面でも書物に関心を示さなかったことはないし、どの国のどの民族の書物にも徹底して敬意を払った。早々にアラビア語をマスターしたことも(フランス語・ギリシア語・ラテン語にも通暁した)、この読書癖につながっていた。あるロレンス伝には3年間に5万冊を読破したともしるされていた。 

≪012≫  それとともにハイスクール時代から拓本や陶片や、また古地図や遺跡に異様な関心をもった。つまりは「埋もれた知」に異様な興味を抱いたのだ。土地からの発掘作業にもつねに積極的だった。そのため早くからオクスフォードのアシュモリアン博物館に出入りして、拓本整理や陶片整理に携わっていた。 

≪013≫  あとでのべるように、このアシュモリアン博物館との出会いは、いいかえれば「埋もれた知」に対するあくなき熱情が、かの「アラビアのロレンス」をつくった。博物館がロレンスをつくったということは、ぜひとも強調しておかなければならないことだろう。 言ってみれば、ロレンスは「博物館からラクダに乗って出撃した」わけなのである。 

≪014≫  もうひとつあらかじめ特筆しておきたいのは、自転車に執着していたことだ。 13歳のときに何度も自転車旅行を企て、18歳からは毎年、遠出をし、1日160キロを走破した。走破して何をしていたかといえば、中世の城を次々に見た。12世紀の城がお気にいりだった。これは十字軍の足跡に強い関心を寄せていたことを暗示する。 

≪015≫  自転車が好きだったロレンスが、のちにラクダを自在に疾駆させ、さらにのちのちは巨大エンジンのオートバイ狂になったことは、容易に推測がつく。オートバイはジョージ・ブラフが製作した獰猛で美しいブラフ・スーペリアである。ロレンスはアラブからイギリスに戻ると、一方では空軍一兵卒をめざし、一方では執筆計画を練り、一方ではこのブラフ製の野性的なオートバイに乗りまくったのだ。一説には時速108マイル(なんと時速177キロだ)で飛ばしていたという。 

≪016≫  自転車とラクダとオートバイ。 ロレンスは、この3つの乗り物をつねに極点をめざして乗りこなした男だったのだ。とてもぼくには及びのつかない男だった。 

≪017≫  トマス・エドワード・ロレンス。 孤軍者であるからこそ、ベドウィンたちにとって食事にも風習にも同化できた唯一人のイギリス人たりえたのだし、アラブ人の感覚と体臭で行動をおこせた唯一の軍人になりえたのだった。そして、孤軍者であるからブラフ・スーペリアで疾走して転覆し、唐突に死んだのだ。 

≪018≫  さて、本書『知恵の七柱』はロレンスの主著である。表題は旧約聖書の「箴言」から採ったもので、「知恵は家を造り、七つの柱を立てる」にもとづいている。 

≪019≫  全編はほぼ均等な122章で構成されていて、平凡社東洋文庫でいえば3冊分になる。けっこうな量だ。エリック・ケニントンによる53枚の挿絵が入っていて、そのうちの4枚はロレンスの肖像だ。 

≪020≫  中身の大半は「アラブの反乱」(いわゆる「砂漠の反乱」)をめぐるもので、最初の1行目に「私の物語の毒気のある部分は、われわれの境遇に固有なものといえよう」とあり、最後に「ファイサルが辞去してしまうと、私はアレンビーに私一身のためにした最後の要請を申し出た。アラビアから退かせていただきたいというのである」と終わる。アレンビーはロレンスの直属の将軍だった。 

≪021≫  まさにこの通りで、おおざっぱに『知恵の七柱』の中身をいうのなら、第一次世界大戦にイギリスが参戦した1914年8月から1918年11月の終戦までを、もうちょっと厳密にいうなら1916年6月5日のヘジャーズにおける「アラブの反乱」から1918年10月1日の「ダマスカス入城」までを、ただそれだけを克明に描き出したドキュメントになっている。  

≪022≫  ロレンスはもともと著述にも熱心で、日記をつけることもメモをとることも地図を描くこともまったく面倒とは思わない性格だった。 

≪023≫  アラブから帰ってきてからは著述家や作家になることも考えていた。『オデュッセイアー』(999夜)、『戦争と平和』、『白鯨』(300夜)、『カラマーゾフの兄弟』(950夜)、『ツァラトゥストラはかく語りき』(1023夜)が、ロレンスが若き日からずっと理想としていたる文芸作品だったのだ。 

≪024≫  このラインアップはまことに申し分ない照準ではあるけれど、さすがに『知恵の七柱』はそのような文芸的大作ではない。が、そのような大作フィクションにしえなかったことが、かえって本書をして「アラビアのロレンス」の日々を髣髴とさせた。ロレンスはチャールズ・ダウティの『アラビア砂漠紀行』に匹敵するものを書きたかったのだった。ダウティの本は戦前に話題になった探検紀行記録で、原題を『アラビア・デセルタ』という。ぼくは筑摩の「世界ノンフィクション全集」の第45巻でこれを読んだ。 

≪025≫  ロレンス自身は友人のヴィヴィアン・リチャーズに、こんなふうに執筆意図を告げていた。「ぼくが語らなければならない物語。それはかつて人間が著作のために与えられたテーマのなかで最もすばらしいテーマなのだ」。 

≪026≫  もっとも、最初にロレンスその人を“砂漠の英雄”に仕立てのは『知恵の七柱』ではなかった。この著作が広く刊行される前に、おっちょこちょいのアメリカ人従軍記者ローウェル・トマスが開いたイベントがロレンスを一躍有名にした。 

≪027≫  トマスが仕掛けたコヴェント・ガーデン王室オペラハウスでの「アラビアの無冠の帝王」という催し物と、その後にトマスが急いで出版した同名の伝記が、ロレンスを一躍有名にした。「アラビアのロレンス」の“通り名”もこのときに決まり、またたくまに世界を駆け抜けた。  

≪028≫  これでロレンスはどんなハイソサエティにもフリーパスになれるほどの有名人になったのだが、ロレンス自身はそのフリーパスを自分ではほとんど使わなかった。むしろフィーバーするロレンス像捏造に抗して、自身の手で「アラブの反乱」の経緯と意義を書きあげるため、ずいぶんの時間をかけたいと考えていた。 

≪029≫  そのため、執筆構想がまとまるまでは、『オデュッセイアー』の英訳なども引き受けた。ぼくは『オデュッセイアー』の六脚院にとりくんだことが、『知恵の七柱』に過剰な力みを与えずにすんだフィルターになったのではないかと思っている。 

≪030≫  『知恵の七柱』は世界を瞠目させた。E・M・フォースターは「稀にみる傑作」と言い、H・G・ウェルズは「偉大な人間記録」と褒めた。皮肉屋のバーナード・ショーも「ロレンスしか書けない世界史」と絶賛し、イギリスとアラブとトルコのいろいろ政治的な駆け引きのなかで当事者ロレンスを苦しめたウィンストン・チャーチルでさえ、「この本は英語で書かれた最も偉大な著書の地位を占めた」と礼讚した 

≪031≫  たしかに、偉大で、人間というものの描き方に他の追随を許さないものがある。また、欧米社会にアラブ世界の何たるかを告げたことでも画期的だった。叙述も精細で、濃い。イギリス人、アラブ人、トルコ人の癒しがたい特徴や、それぞれの偏向する思考を含む人物描写も、まことに巧みに書き分けている。が、それよりなにより、一人の冒険者の精神と気概と勇気とが、サン=テグジュベリ(16夜・第1巻)の飛行精神のように崇高なものとなって突き刺してくる。 

≪032≫  もうひとつは、ここにはジョセフ・コンラッドの『闇の奥』(1070夜・第4巻)につながるものを感じた。コンラッドはロレンスの友人でもあった。   

≪033≫  ぼくはこれを、平凡社が東洋文庫が3~4年をかけて3分冊刊行するのを待って一気に読んだのだが(ちょうど『遊』を創刊する前後だ)、圧倒された。数行ずつがいとおしかった。いま松岡正剛事務所を仕切ってくれている太田香保も東京女子大時代に夢中になって読んだらしい。実は太田は、「千夜千冊」にロレンスが入らないのはどうしてですかと、ずっとぼくにリクエストをしていたのである。 

≪034≫  そういう著書なのだ。実際には4章立てになっていて、序では世界や社会が「手違い」でどのようにもなってしまうことが追及されている。そのなかでロレンスは「セム族」という民族の血液を見抜いていく。 

≪035≫  次の第1巻は世界の「手違い」は結局は指導者の問題であることを説く。メッカの大シェリフは老齢すぎるし、アブドッラーは利口すぎ、アリーは潔白になりすぎていて、ゼイドは冷静を装いすぎている。ロレンスはファイサルに会見し、この男に革命の火を見いだした。一方、イギリス側の指導者たちの実力も点検する。本気でアラブにシナリオをもたらせるのは誰なのか。一人としていそうもなかったのである。 

≪036≫  第2巻はありうべきシナリオを戦闘を通してどう実現していくか。そこにロレンス自身がどうかかわったのかの息詰まる顛末である。かくて第3巻、爆薬とともに攻撃が開始される。ロレンスは「アラビアのロレンス」となって砂塵を蹴立ててアカバに進軍をする。 

≪037≫  さきほども書いたように、『知恵の七柱』は「ファイサルが辞去してしまうと、私はアレンビーに私一身のためにした最後の要請を申し出た。アラビアから退かせていただきたい」というふうに終わる。アカバの襲撃がクライマックスなのだ。  しかしそれで十分だった。世界は沸いた。初めて欧米社会にアラブ社会の革命の火が“伝導”されたのである。 

≪038≫  ところが、『知恵の七柱』には数多くの絶賛が寄せられたかわりに、他方では、反発や批判も出回った。ロレンスがホラを吹いているとか、すべてを自分の手柄にしすぎているとか、アラブの事情を歪曲しているとか、イギリスの狙いとは異なるものだったという批評だ。 

≪039≫  よくあることだ。毀誉褒貶は世の常だ。だからそういう詮索にはあまり興味はないが、実際はどうだったのかといえば、ぼくにはそのことを判定する能力もないものの、たとえばスレイマン・ムーサの『アラブが見たアラビアのロレンス』などを読むと、たしかに食い違っているところがあるようだ。  

≪040≫  けれども一方、友人だったロバート・グレイブス(608夜『暗黒の女神』参照)の『ロレンスとアラプ』、大冊のデズモンド・スチュアートの『裸のロレンス』、ジェレミー・ウィルソンの『アラビアのロレンス』、ナイトリイとシンプスンの共著『アラビアのロレンスの秘密』などを読むかぎりは、やはりロレンスの日々はデヴィッド・リーンの映画がもたらした印象とそれほど違わない。ロレンスのオートバイ事故死のあとまもなくして執筆された中野好夫の岩波新書『アラビアのロレンス』も同断だ。 

≪041≫  ようするにロレンスは誰からも羨まらしがられ、それゆえに嫉妬された男だったのである。ぼくとしては、あまり事跡の記述の正否にこだわりたくはない。親友でもあったE・M・フォースターは、こう言ったものだ、「たしかにロレンスは私にいつも事実を話したわけではないけれど、そんなことどうだっていいじゃないか」。 

≪042≫  トマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズ北部のトレマドックに生まれた。ただし、すぐに一家ともどもスコットランドに移り、さらにまたフランスのブルターニュに引っ越した。それが3歳すぎだから、最初はフランス語の学校で育った。 

≪043≫  それが6歳のときにまたイギリスに戻り、ハンプシャーの国立公園のなかのニューフォレストの私有地に住むようになった。兄弟が5人、ロレンスは次男だった。このうち二人の兄をつづけさまに第一次世界大戦で喪った。 

≪044≫  『知恵の七柱』には書いていないことだが、さまざまな伝記や評伝では、ロレンスが庶子であったことも強調されている。父親のチャプマンが最初はアイルランド女性とのあいだに7年間で4人の娘をもうけ、そのあと妻子を捨ててセアラ・メイドンと入籍しないままにロレンスたちを生んだからである。そういう父母から生まれたから私生児だというのだ。 

≪045≫  このことがどのようにロレンスの生き方に影響を与えたかということは、ロレンスがホモセクシャルな感覚をいつごろからもっていたかということとあわせて、なんとも説明のしようがない。「それがよかったじゃないか」と、ぼくは言いたいだけだ。 

≪046≫  ともかくも12年間に転々と居住地を変えたすえ、一家はオクスフォードに落ち着いた。ロレンスが8歳のときである。養育は母親一人がとりしきった。そのハイスクール時代の読書癖や自転車旅行癖については、もう書いた。 

≪047≫  この時期のことでもうひとつ伝記や評伝が書きたてているのは、16歳のとき上級生と喧嘩をして片足を折ったことである。背の低いことと足を悪くしたことが、ロレンスの孤独癖を助長したのではないかというのだ。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。仮にそうだとしても、そこでロレンスが何をしたかのほうが、ぼくには関心がある。ロレンスは3日間の絶食をして、3年にわたって肉食を断った。 

≪048≫  1907年、ロレンスはオクスフォードのジーザス寮でウェールズ奨学金を得て、シリア旅行を敢行した。 そのときにチャールズ・ダウティの『アラビア・デセルタ』に夢中になった。さきほども書いたが、これがロレンスをして『知恵の七柱』を書かせた潜在的な動機になっているのだが、他方では、ロレンスは頻りにオクスフォードのアシュモリアン博物館に通い、これもすでに書いておいたように、考古学的発掘に異常な情熱を傾けた。この博物館の館長だったデーヴィッド・ホガース(考古学者で東洋学者)こそ、このあとロレンスをアラビアに向かわせる引き金を引いたのである。 

≪049≫  こうして1909年、ロレンスは一丁の拳銃と一個のカメラと若干の衣料だけを携えて、単身、ベイルートに上陸する。それからはシドン、バニヤース、サファドに南下して、ナザレ、ハイファ、アッカを回遊する。ふたたびベイルートに戻ったロレンスは、次に北をめざしてトリポリ、ラタキア、アンティオキア、アレッポ、ハッラーンに足を伸ばした。このときにロレンスがくまなく踏査したのが50以上の十字軍の城だった。ロレンスにはどこか十字軍戦士の気質があるということだろう。 

≪050≫  シリアの4カ月はロレンスを変えた。そのときに母親に送った手紙のことを記録しているのだが、そこでは自分が「アラブの中の一人のアラブ」として動いたことを誇っている。すでにロレンスはベドウィンの厳しい生活ぶりにも接したのだ。 

≪051≫  このあとロレンスはユーフラテス川に面したジェラブルス(古代ヒッタイトの城塞都市カルケミシュのこと)を発掘する考古学チームに参加し、1910年には再度中東に入ってアラビア語を磨いた。 

≪052≫  ほぼそのメドがついたとたんに、語学だけではアラブ社会は理解できないと感じると、ただちに軍服も背広も脱いでアラブ服に着替え、多色のベルトを締め、食事の邪魔にならないかぎりは髪を切るのをやめた。この決断だ。この一挙的決断がロレンスなのである。 

≪053≫  このときロレンスに従ったのがハムーディとアフマドの二人の作業員だった。映画『アラビアのロレンス』にもおもしろく描かれているように、この二人は最後までロレンスに従った。とくにアフマドは「ダフーム」と愛称されて、伝記・評伝によってはロレンスとちょっと妖しい友情で結ばれたようだった(きっと、そうだろう)。  

≪054≫  1913年の暮れ、そのような日々をおくっているロレンスのもとに一通の電報が届く。シナイ半島の陸軍省の測量チームに参加せよというロンドンからの指令である。アシュモリアン博物館館長ホガースはロレンスに陸軍チームに入ることを勧めた。 

≪055≫  これはイギリスのあからさまな軍事計画をカムフラージュするためのもので、実際には詳細な戦略地図を作成することが目的だった。ホガースもロレンスも、このことは重々わかっていた。 

≪056≫  指令を満足させるには1914年1月から2月までがかかった。このときロレンスとダフームはアカバからペトラまでを歩いたのだ。そこにはあの砂漠のなかのヘジャーズ鉄道が走っていた。そのときの名状しがたい感慨を、『知恵の七柱』は「この世で最もすばらしい場所に着いた」と書いている。 

≪057≫  1914年6月、オーストリア公フランツ・フェルディナンドがサラエボで殺害され、オーストリアがセルビアに宣戦すると、世界は突如として初めての世界大戦に突入した。1ヶ月後にはドイツがロシア・フランスに宣戦布告した。イギリスはロレンスの26歳の誕生日の直前の8月4日、ドイツに宣戦布告した。 

≪058≫  続いて10月30日、トルコ政府がドイツ側に参戦すると、アラブは時ならぬ風雲を告げることになった。その事情はこのあと少しだけ説明するが、実はイギリスはこのときを虎視眈々と待っていた。 

≪059≫  イギリス政府はただちにエジプトにおける情報部を強化し、クレイトン准将をその任に当たらせた。ロレンスもそこに配属された。11月、ロレンスは大尉に昇格してナイルに向かった。イギリスはすでにメッカのシェリフであったフセイン・イブン・アリーに次の約束をとりつけていた。大シェリフと呼ばれる。こういうものだ。 

≪060≫  「イギリス・フランス・ロシアの三国がトルコの中立を維持するという条件でその領土を保証したにもかかわらず、トルコはドイツに買収された。トルコ政府はスルタンの意思に反し侵攻行為に出て、エジプト国境を侵している。もしアラブ民族がこの戦争でイギリスを援助するなら、イギリスはアラブの動向に干渉せず、また外からの侵略に対してあらゆる援助を惜しまない」。 

≪061≫  1915年になると、エジプトではロレンスがイギリス本部とアラブ局の渉外官となって、ありとあらゆるアラブ社会との情報解釈を牛耳るようになっていた。そこへアラブ局局長にホーガスが就任してきて、二人は『アラブ通信』を編集する。 

≪062≫  大シェリフのフセインのほうでは、ホーガスとロレンスの通信のせいもあって、しだいにイギリスへの信頼が高まっていた。 

≪063≫  かくてフセインは駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンに当てて有名な覚書を送り始め、アラブの自由と統一に関する願望を表明するようになる。このフセイン=マクマホン書簡は翌1916年3月まで続く。アラブはイギリス軍の上陸にあわせて、シリアとヘジャーズで反乱をおこす期待をもったのだ。 

≪064≫  フセインには4人の王子がいた。第一王子アリー、第二王子アミール・アブドッラー、第三王子ファイサル、第四王子ザイドである。なかで第三王子ファイサルがロレンスと昵懇となり、ロレンスも「自分が出会った人物のなかで最も興味深い人物だ」と見抜く。のちのシリア王(1920)、初代イラク王(1921~1933)である。 

≪065≫  いつだってこういうことが引き金になるのだが、そこへ事態に急を告げる事件がおこる。トルコ軍がベイルートとダマスカスで著名なアラブ人による二つのグループを公開処刑したのだ。最後の処刑は5月6日に公開された。フセインはこれで「アラブの反乱」を決意する。当初は決起を8月に予定していたのだが、6月5日、アラブはトルコとの断絶を通告、フセインは宣戦布告に踏み切った――。 

≪066≫  ぼくがロレンスを知ったのはデヴィッド・リーン監督の映画『アラビアのロレンス』を観てからだった。 それも青灰色の目のピーター・オトゥールのいっさいにぞっこん参ったというのが実情で、いったいロレンスが何者だったのかということは、映画で知ったことそのままがすべてであって、それもどこからがロレンスで、どこまでがオトゥールなのかの区別など、まったくつかなかったのである。  

≪067≫  この映画は日本では1963年12月に公開されたから、ぼくは大学1年のときに観たことになる。テアトル東急だったか、どうか。3時間半の大作で途中に休憩が入ったのがめずらしかった。冒頭でロレンスがオートバイで激突するところから始まった倒叙法になっていた。心熱くなる場面が何度もあらわれ、ぼくは何度も熱いものと闘わなければならなかった。 

≪068≫  製作がサム・スピーゲル、監督がデヴィッド・リーンである。ロレンスがピーター・オトゥールであることはこれ以上の適役がないほどだったが、ファイサルにアレック・ギネス、アブダールにアンソニー・クイン、ベドウィンの酋長アリがオマー・シャリフになっていたのもすべてすばらしい配役で、それぞれがエスニシティと帝国を漲らせる演技を披露した。 

≪069≫  フレデリック・ヤングとニコラス・ローグのカメラも凄かった。砂漠の国を描いた映像で、いまなおこの映画を超えるものはないだろう。アカデミー賞の7部門をひっさらった。ぼくは10回以上観た。 

≪070≫  映画『アラビアのロレンス』には、しばしば熱砂の砂漠を轟音をあげて爆走する鉄道列車が映される。その鉄道が次々に爆破されていく。ロレンス自身が起爆装置を仕掛けただけでも79回にもおよんだという。『知恵の七柱』にも、華麗ともいうべき爆破光景が何度も執拗に描写されている。 

≪071≫  この鉄道は、1908年にオスマン・トルコ政府が敷設したアラビア半島初の鉄道で、その名をヒジャーズ鉄道、別名を「巡礼鉄道」という。ヒジャーズは古代からの地域名である。 

≪072≫  ロレンスが大胆にも陸路からのアカバ攻撃を決断し、50名に満たないベドウィンの土民戦士とともに600マイル・6週間にわたった有名な決死行をはじめたときも、11日目のヒジャーズ鉄道を越えた時がひとつの区切りになっていた。この果敢な攻撃は、のちに戦史家のリデル・ハート(643夜『第一次世界大戦』参照・第4巻所収)によって「エリザベス朝的冒険」と耶喩された。 

≪073≫  映画では、オマー・シャリフ演ずるアリーが「あれが鉄道だ」とラクダ用の鞭で前方を示し、一呼吸をおいて「そして、あれが砂漠だ」と、ピーター・オトゥール扮するロレンスに海市めくネフド砂漠を示す場面になっている。ぼくはその場面をけっこう気に入っているけれど、実際には、そこでロレンスが通信線を切断し、さらに鉄路を破壊することになる。映画ではそこは省略されていた。 

≪074≫  アラビアの風雲は、このヒジャーズ鉄道が開通した同じ年、のちにロレンスがアラブ民族統一の盟主とたのんだファイサルの父フセインが、ようやくメッカの大守となったときに巻き起こったのである。アラブの反乱は、ヒジャーズ鉄道とともに始まったのだ。 

≪075≫  フセインがアラブの大守になったのは、アラビア半島を列強の蚕食から防備しようとしてフセインのリーダーシップを利用しようとしたトルコ政府(オスマントルコ)の意図によっている。 

≪076≫  フセインの内心にはトルコ人に対する強い反感が隠されていた。そこへ複雑な中東事情を背景として第一次世界大戦が勃発する。フセインは当時カイロを占拠していたイギリスの野望をうまく活用すれば、なんとかトルコに対する蜂起ができるのではないかと考えた。そしてアラブ史にとっては忘れがたい1916年6月10日のこと、息子ファイサルをふくめた一族あげての決起の火ぶたが切って落とされたのだ。16世紀このかたオスマントルコの支配下に甘んじてきたアラブ民族の、これが最初の反撃だった。 

≪077≫  同じ年の10月、自由の天地での活動を求めた28歳のトマス・エドワード・ロレンスが、ワディ・サフラのテントの中で31歳の砂漠王子ファイサルに運命的に出会う。「長身にして閑雅、しかも旺盛な気力のみなぎるファイサルは、歩く姿が実に美しく、頭から肩にかけて王者の威厳をいかんなく発揮していた」と、ロレンスは砂漠の王子のファースト・インプレッションを綴っている。 

≪078≫  やたらに軍事の歴史に関心はあったものの、またすぐれて仮説的な言説の好きなところはあったものの、まだ一介の青年考古学者にすぎなかったロレンスが、アラブの反乱に一身を投じようと決意したのはまさにこの瞬間だ。メッカの大守フサインを継ぐ第三王子ファイサルに、ロレンスは民族革命家のパートナーとしての、想像しうるかぎりの反乱と自立のロマンを託した。 

≪079≫  庶子ロレンスはこのころ、第一次大戦で二人の弟を失ったばかりでもあった。いささかホモ・セクシュアルな感覚の持ち主だったロレンスには、あるいはファイサルにひそむ高潔な父性が看取されたのかもしれないともおもわれる。 

≪080≫  アラブとは、ひとつの民族のことではない。大きくはセム語族に属するものの、実態はいくつもの部族の、それも互いにまったく自立し対立しあう、なんとも粗暴な地域民族の総称にすぎなかった。 

≪081≫  ロレンスもそうしたアラブ民族の矛盾に満ちた歴史と現在をめぐる考察に、『知恵の七柱』の第2章をあてている。とくにネジドとヒジャーズの対立は深刻だった。  

≪082≫  しかしロレンスは、そのアラブのごく一部のフセイン一族を中心に、全アラブが結託するという壮大な夢を見た。それがロレンスの身に終生の矛盾を体現させることになるとは、そして全世界の現代史がこの一族を中心に矛盾を広げていくことになるとは、まだロレンスにはわかっていなかった。 そのようになってしまったのは、イギリスの政策にとんでもない矛盾があったからである。 

≪083≫  もともとイギリスはつねにインドへの道を重視している国である。東インド会社の設立以来、その方針は変わっていない。そのためには「ジブラルタル海峡-マルタ島-キプロス島-スエズ運河-アデン」という線をたえず抑えておく必要があった。ロレンスは最後まで苦々しく思っていたようだが、これがイギリス帝国の第一の生命線だった。第一次世界大戦前夜、この生命線をドイツとオーストリアが脅かしつつあった。 

≪084≫  一方、フランスは「モロッコ-アルジェリア-チュニジア」を拠点に、サハラ砂漠の南に進出しようとしていた。日露戦争に敗れたロシアは、バルカンからボスポラス=ダーダネルス両海峡をめざして南下し、バルカン諸民族をトルコとオーストリアから食いちぎろうという政策をとろうとしていた。 

≪085≫  これら英仏露のいわゆる「三国協商」派の国々は、いずれもトルコを食いものにするという一点で利害を一致させていた。 トルコはトルコで、折から強大化しつつあった工業国ドイツの力を頼みにした。この結果、なんとしてもイギリスは「世界の工場」としての地位をドイツの脅威から守るしかなくなった。 

≪086≫  フセイン一族がトルコに対する反乱をイギリスがらみでおこした背景には、こうした帝国主義的野望が二重三重に交錯する。 

≪087≫  もっとも、ここでイギリスが中東の主導権を握るべきかどうかなどということは、ちょっと歴史に詳しい者なら疑問のあるところだった。たとえばトルコ民族の歴史から見るのなら、イギリスもまた理由なくシナイ半島を略奪した乱暴な侵略者にすぎなかったのだ(たとえばアカバ事件1906)。ロレンスの狂ったような夢と失望も、この交錯のはてしなさとともに深まっていく。 

≪088≫  けれどもロレンスはファイサルに賭けた。
ロレンスはファイサルの軍事顧問になった。
イギリス情報部もそういうロレンスをアラブ反乱の扇動者にする旨味を巧妙に利用した。チャーチルもその一人である。
ロレンスはそんな母国の狙いをあえて振り切るように、正真正銘の「アラビアのロレンス」になりきっていく。 

≪089≫  戦歴はさすがにめざましい。のちに抜け目のないアメリカ人記者(これがローウェル・トマス)が、何十回にものぼるロレンス戦歴講演ショーでしこたま儲けたほどだった。 

≪090≫  戦歴は、なによりも速度に富んでいた。ハリト族の族長アリらとともにヤンボーを進発し、ウェジを攻略したのが1917年1月のこと、狂暴なホウェイタット族を自家薬篭にとりこんで、ベトウィン戦士とともに地獄のネフド砂漠を渡ってアカバを背後から攻撃したのが同じ年の7月である。戦闘ではなく報告のためではあったが、アカバが陥ちたその日には、モーセしか越えなかったシナイ半島を半死半生、ふらふらになりながらカイロまで渡ってみせた。 

≪091≫  その後のシリア戦では、いずれも鉄道爆破をともなうゲリラ戦法を得意とした。あまりの爆破作戦に、アラブ人からは“ダイナマイト王”とよばれたほどだった。稀には、ロレンス自身が「クラシックなパロディだ」と自嘲した古典戦術も披露してみせた。このほうはのちの軍事評論家たちにすこぶる評判がいい戦術だったようだが、ロレンスはあくまでゲリラ派だったのだ。 

≪098≫  砂漠の反乱に賭けた勇気や忍耐を称えるならまだしも、また、ゲリラ戦略の創案力や砂漠の民を操作する統率力を評価するのならまだしも、一方ではクロポトキンやチェ・ゲバラに通じる革命家としての不屈の情熱を宿し、他方ではヴェリエ・ド・リラダンに顕著なような誇大妄想癖とオスカー・ワイルドにつらなるような倒錯的な美意識をもった男が、五人ではなく、たった一人の男としてわれわれの前にいるわけなのだ。 

≪099≫  しかも、ロレンスの夢は完全に破れたのである。コンスタンティノープル協定(1915)からサイクス=ピコ協定(1917)にいたる4つの秘密協定は、ロレンスの構想を根底から裏切り、歴史が政治舞台でしか動かないことを示したのだ。イギリスとフランスとロシアと、そしてイタリアの、背広のポケットに手をつっこんだ政治家たちは、トルコの意志にもアラブの意志にもまったくかかわりなく、かれらの領土の取引を勝手に決めていったのだ。 

≪100≫  それを知ったロレンスはダマスカスを失望のうちに引き上げる。『知恵の七柱』の最後に、「私は最後の要請を申し出た。アラビアから退かせていただきたい」と書いたのは、そのことだ。 

≪101≫  その後もロンドンやパリにおいてアラブ独立のための弁舌による戦闘はつづいたが、一度もロレンスを得心させる進行はおこっていない。 

≪102≫  そればかりか、スレイマン・ムーサの『アラブが見たアラビアのロレンス』に顕著なように、たとえばシリア人には、ロレンスは「パレスティナを売った男」とさえ詰(なじ)られた。ロレンスは、ついに最後までイギリスとアラブの間で自分を引き裂く以外はなかったのだ。 

≪103≫  そんな事情は百も承知のはずのロレンスが、なぜアラブの反乱の指導者になろうとしたか。 

≪104≫  おそらくは最初のうちはオックスフォード時代の研究テーマであった古代ヒッタイト文化や中世十字軍への関心にもよっていただろう。ロレンスの研究心は、師の考古学者ホーガスが太鼓判を押しているし、その後の学者たちによってもそこそこのの評判をとっている。しかし、それだけではなかった。ロレンスは自分の中にひそむ奇才や異能にも酔いたかったにちがいない。バーナード・ショーやトマス・ハーディが絶賛を惜しまなかった奇才と異能である。けれども、それだけでもなかったろう。 

≪105≫  ロレンスは自分で書いている。「私は準備だけが好きだったのだ。戦闘はどんなときでも逃がれたかったのだ」。また、こんなふうにも書いている。「私は自己堕落こそを目的としていた」と。 

≪106≫  この告白は、ロレンスを知る者には信じがたい告白だ。ロレンスこそ、恐れを知らぬ戦闘に挑みつづけた土民戦士の憧れの王であり、ロレンスこそは、熱砂の只中ですら人格の陶冶のかぎりを尽くしてきた人物と思われていたからだ。しかし、『知恵の七柱』が端々にあかすように、あるいは知己友人への数々の手紙があかしているように、いつだってロレンスは極端な自己否定にこそ極端な自己昂揚がありうることを盲信していたようなのだ。肉体と精神をひたすらヘトヘトにすることが、ロレンスの唯一の原理であったのだ。 

≪107≫  ロレンスのマゾヒスティックな感覚が、どこで育くまれたのか、ぼくは知らない。ひよっとしたら、背が低いとか脚が悪いといったことも関係しているのかもしれない。 

≪108≫  あるいは一度も女性と交わりをもたなかったと噂されるような、そんなハイパージェンダー感覚も動いていたのかもしれない。実際にも、美少年ダフームやジョン・ブルース、あるいは褐色のハムディーがロレンスの“お相手”をしていたふしがないわけではない。 

≪109≫  が、ぼくはロレンスにそういう憶測をしなくなってから、もうずいぶんたっている。ロレンスは一途に「自己の内乱状態」というものを自身の最大の起爆剤にしていただけなのだ。 もしそうだとすれば、そういうロレンスこそぼくが惚れたピーター・オトゥールのロレンスなのだ。フラジャイルでありながら、つねに決意の行動を秘めていたロレンスなのだ。 

≪110≫  そのロレンスはわずか46歳でオートバイで散った。1935年のことだ。早すぎる死であった。もっと長生きしていたら、ひょっとしたら『オデュッセイアー』や『ツァラトゥストラはかく語りき』に匹敵するものを書いたかもしれないし(むしろジョセフ・コンラッドやヘミングウェイに匹敵するようにも想像されるが)、第二次世界大戦で予想もつかない活動を展開していただろうとも思われる。 しかし今夜のぼくは、国家や民族の一兵卒たらんとしたトマス・エドワード・ロレンスの胸中を推し測りたいだけである。 

≪111≫  しかし今夜のぼくは、国家や民族の一兵卒たらんとしたトマス・エドワード・ロレンスの胸中を推し測りたいだけである。  

先頃、中沢新一が「グリーンアクティブ」を宮台真司らと立ち上げた。

反原発、多神型、資本主義批判、リムランド称揚、加えて仏教的で、“緑の党”的なグリーン革命を標榜するらしい。

日本の反原発の思想や技術や運動は、1982年前後、すでにそうとう多様だったけれど、なぜか本格的な政治活動にはなってこなかった。

では、ポスト3・11以降はどうなのか。

かつての反核論・エコロジー論・資源論と、中沢や宮台の提案、ヴィリリオ以降の新文明論などを今夜もまた、数冊一緒に提示しておきたい。 

≪01≫ 先頃、中沢新一が「グリーンアクティブ」を宮台真司らと立ち上げた。 反原発、多神型、資本主義批判、リムランド称揚、加えて仏教的で、“緑の党”的なグリーン革命を標榜するらしい。 日本の反原発の思想や技術や運動は、1982年前後、すでにそうとう多様だったけれど、なぜか本格的な政治活動にはなってこなかった。 では、ポスト3・11以降はどうなのか。 かつての反核論・エコロジー論・資源論と、中沢や宮台の提案、ヴィリリオ以降の新文明論などを今夜もまた、数冊一緒に提示しておきたい。 

≪02≫ ◆土井淑平『反核・反原発・エコロジー:吉本隆明の政治思想批判』(1986・12 批評社)  

≪03≫  25年前の本書が世間の書棚から放置されたままにならないために、とりあげておく。当時の状況を知らない諸君にちょっとだけ説明するが、そのさらに5年前の日本の1982年は、実は反核運動が最も盛り上がった(あるいはそのように見えた)年だった。 

≪06≫  ところが、これに吉本隆明(89夜)が噛みついた。痛烈な反核運動に対するパンチアウトだった。吉本は何度か「海燕」などの雑誌に論評を書いたのち、その一部始終を『「反核」異論』(深夜叢書社)として刊行した。その言い分を詳しく紹介する気はないが、だいたいはこうだ。 

≪04≫  とくに1982年の1月、中野孝次を代表に作家36人の連名で「文学者の反核声明」が新聞に広告されたことが話題になった。大江健三郎、井上ひさし(975夜)、小田実(1432夜)、小田切秀雄らが名を連ねて呼びかけ、3月には523人の署名になった。詳細は岩波ブックレットのNo1『反核:私たちは読み訴える、核戦争の危機を訴える文学者の声明』に載っている。岩波ブックレットはここから始まったわけだ。 

≪07≫  声明には、たとえば「人類の生存のために、私たちはここに、すべての国家、人種、社会体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて、核兵器の廃絶をめざし、この新たな軍拡競争をただちに中止せよ、と各国の指導者、責任者に求める。同時に、非核三原則の厳守を日本政府に要求する」とあった。これに対して吉本は、人類の生存といった誰からも非難されることのない場所から「地球そのものの破滅」などを憂慮してみせるのは、「正義を独占した倫理の仮面をかぶった停滞以外の何ものでもない」というふうに批判したわけである。まあ、吉本の言い分はわかるだろう。 

≪05≫  この声明は、レーガン政権がヨーロッパに核兵器配備を用意したことに対して、西ドイツ作家同盟が痛烈な反核アピールをした動きへの日本的な対応でもあった。声明発表後、日本各地での反核集会はだんだん盛り上がり、5月23日には40万人が集まり、反核署名は2000万人となって国連に提出された。 

≪08≫  また、この声明の立場はそのころ広がっていたヨーロッパの反核運動と同様の、ドイツの「連帯」潰しのためのソ連製あるいはソフト・スターリニスト製にすぎないではないかとも断罪した。こちらは吉本にしてはややおっちょこちょいな見方だった。 

≪09≫  土井はこの吉本の批判に抗して、その反論を松下竜一が代表している「草の根通信」に4年にわたって連載した。 松下は大分で「赤とんぼの会」を主宰しつづけた地域活動者で、粘り強い反戦論者である。その姿はのちの鶴見俊輔(524夜)・奥平康弘・井上ひさし・澤地久枝らの「九条の会」につながっている。名エッセイ『豆腐屋の四季』(講談社文庫)の著者としても知られる。 

≪010≫  本書はその「草の根通信」に連載した反吉本論を単行本化したものであるが、必ずしも吉本批判ばかりが軸になっているのではなく、70年代後半から80年代のヨーッロパの反核運動をかなり詳しく紹介し、それがどのように日本と交差したかを述べている。 

≪011≫  が、吉本はこの土井の反・反論をまったく取り合わず、反核論者の犬の遠吠えくらいの扱いであしらっていた。その吉本がその後はどんなふうに反核反対を維持しているかということは、『思想としての3・11』(1455夜)にふれた。吉本はいまでも反核・反原発には納得していないようである。 


≪012≫  ここでいまさら両者の論戦を案内したいわけではない。そうではなくて、本書に綴られた当時の状況は、それなりに今日にいたる反核・反原発の活動のダイレクトな下敷きになっているはずなので、そのことをともかくも示しておきたかったのだ。 

≪014≫  これを見てもらえばわかるだろうが、すでに大半の“原発問題”は30年前に議論されていたのである。いったい日本は何をしてきたのだろうか。 

≪013≫  ほんとうはヨーロッパの事情と日本の事情とを本書からかいつまむべきだが、それは今夜のぼくの気分からすると煩瑣になりすぎるので、勘弁してほしい。代わりに、本書で“動員”されている以下の書名を見れば、当時の反核運動の熱とアウトラインがつかめるのではないかと思うので並べておいた。ほとんどが1982年前後に集中している。本書にとりあげられてなかった本を含めて、発行順にしてある。 

≪015≫  ざっとこんなふうだったのだ。なお、土井淑平はその後、本書のあとにおこったチェルノブイリ原発事故ののち、新たに『原子力神話の崩壊』(批評社 1988)と、これらをさらに発展させた『環境と生命の危機』(批評社 1990)を著した。いずれも吉本との論戦の後遺症がほとんどない一書であった。 

≪016≫ ◆槌田敦『資源物理学入門』(1982・9 NHKブックス)  

≪017≫  上のブックリストの中に、槌田敦の『石油と原子力に未来はあるか』『エネルギー 未来への透視図』『石油文明の次は何か』が入っている。これらの著者の槌田敦は日本を代表する資源物理学者で、1957年に都立大の物理化学を修めたのちは、東大から理研へというふうに研究生活をするかたわら、いくつもの先駆的な著作を世に問うた。 

≪020≫  槌田の資源物理学の考え方の基本は、われわれは「生きている系」と「そうでない系」の両方を見なければならないのだが、その違いを知るにはエネルギーの動向や消費だけにとらわれないで、エントロピーの捨て方を勘定に入れなければならないということにある。 

≪023≫  生物は「生きている系」である。「生きている系」には代謝と廃棄と摂取がおこっている。これらは大量のエントロピーを生じさせる。しかしシュレディンガー(1043夜)が推理したように、この3つの活動には「負のエントロピーを食べる」という性能、すなわちエントロピーを排泄する能力があった。生物は基本的には水と光合成を活用して、物エントロピーを熱エントロピーに変える能力をもったのだ。 

≪018≫  上記の3冊は一言でいえば、次のことを明示した。(1)石油文明とは、石油で熱して水で冷やす文明である。(2)地球は、石油文明が放出する物エントロピーを熱エントロピーに変える機構をもっていない。(3)原子力技術は当初からの試行錯誤のうえ、これらの技術限界を無視して原子力発電に向かった。(4)太陽光は無公害エネルギーではなく、地上最大のエントロピー汚染の発生源である。(5)太陽エネルギーを活用しても水を活用できなければ、地球の文明的循環は確立しない。 

≪021≫  地球はこの勘定がうまく組み立てられた系である。45億年の歴史をもつ地球には、マントル対流、プレート活動、地震、火山爆発、潮流移動、気候変動、異常気象、暴風雨、そして光合成を筆頭とする多様な生物たちの新陳代謝の活動といった、実にさまざまな活動がある。これらはすべてエントロピーの発生源であるが、それでも地球は全体としてのエントロピーを定常的に保ち続けてきた。これは地球がエントロピーを捨てる機構を自動的にもてたからである。  

≪024≫  しかし、文明はそうはいかない系をつくってしまった。そのうえで人間という「生きている系」を「そうでない系」のルールに押し込めてきた 

≪019≫  まことに明快な見解だった。本書『資源物理学入門』は、これらの見解をもっと説得力のある手順で解説した、かなりハイパーな科学技術論的な一冊だった。これまた30年前の著書であるが、当時すでにしてちょっとした名著だなとぼくは感じていた。ところどころにぶっちぎりの論法が入ってはいるものの、いまでももっと読まれるべき本だろう。反原発派が太陽エネルギー主義に向かっている今日、とくに(4)や(5)の見方をよくよく賞味するといい。 

≪022≫  地球には重力がある。地球の物体が重力に逆らって宇宙空間に飛び出すことはめったにおこらない。地球は物エントロピーを捨てることはできないのだ。一方、光は重力の影響を受けないから地球はこれを利用して熱エントロピーを捨てることができる。この、重力による物エントロピーと光による熱エントロピーの収支バランスが、地球をなんとか維持してきたのだった。

≪025≫  そもそも技術とは何かというと、本来は自然に消費されるべきものをあえて別の道筋に流して消費するようにすることをいう。これが技術というものの宿命的な本質である。したがって、技術は資源としてのエネルギーを、なんらかのしくみによってエントロピーとして流せなければならない。 

≪026≫  ところが文明はそれができにくい方に技術を発展させてきた。たとえば町中が冷房装置をつければ、町中はますます熱くなる。冷房は屋内の熱エントロピーを屋外に捨てる技術行為だが、その行為は熱エントロピーを増加させるわけなので、しだいに熱エントロピーを屋外に捨てにくくなり、そのための技術開発をせざるをえなくなっていく。 

≪027≫  これはエントロピー・モノレンマだ。ジレンマはあちら立てればこちらが立たずということだが、文明がもつエントロピーは自分の処理だけでモノレンマに陥ってしまう。それが石炭文明から石油文明へ、石油文明から原子力文明に向かうにつれ、にっちもさっちもいかなくなった。 

≪028≫  

これは「どのエネルギーを選択すればいいか」という問題なのではない。
たとえ太陽光エネルギーを選んでも、エントロピー・モノレンマはおこる。
唯一考えるべきなのは、「水」をどのようにエントロピーの吸収に使うのかということである。
われわれはあらためて、水の気化熱、水の比熱、水の溶解力に注目を向けなければならないだろう。
槌田は、そう展望してみせた。すばらしい30年前の展望だった。
水こそ、文明が事故に対して対処する「母なるもの」なのである。 

≪029≫ ◆ポール・ヴィリリオ(小林正巳訳)『アクシデント 事故と文明』(2006・2 青土社)   

≪030≫  1986年のチェルノブイリ事故、1991年の湾岸戦争、その後のオゾンホールの拡大、2001年の9・11世界同時テロを見聞したあとのポール・ヴィリリオ(1064夜)が、この本で言っていることは、ただひとつ、次のことである。「21世紀の意識は事故によってのみ際立つしかないだろう」。 

≪031≫  1930年代に歴史家のマルク・ブロックは「現代文明をそれまでの文明と隔てているのは速度であり、その変貌はたかだか一世代のあいだに生じた」とみなした。だが、その「速度」が次に何を生むかといえば「事故」なのである。現代は「事故の文明」の時代なのだ。 

≪032≫  また同じ時期、ポール・ヴァレリー(12夜)は、「道具は意識から消えていく傾向にあるが、意識は事故があってはじめて目覚める」と書いたけれど、その事故が巨大化し、核化し、連続化をしている今日にいたっている状況のなかでは、事故によって目覚める意識はさらに激越なものとならざるをえない。意識の目覚めが激越になるとは、どういうことか。事故のたびに知性が試されるわけだ。だとすると、これからは「知性の危機」こそ事故なのである。

≪033≫  こうして、大惨事がわれわれにもたらすものは、尋常な意識の目覚めではなくて、ときに未知の哲学への渇望というものであり、ときに未知の狂気の出現というものになる。「事故とは、創造にして失墜であり、隠されていたものを白日のもとに晒すという意味で、ひとつの発明なのである」。蒸気船を発明することは難破を発明することであり、列車を発明することは脱線事故を発明することであり、原子力発電所を発明することは放射能汚染を発明することだったのだ。事故こそが、そしてその予防こそが新たな産業なのである。 

≪034≫  しかし、事故の創造性がここまでくると、人々の不安のほうも増殖しすぎることになり、もはやエコロジーは自然を相手にするのではなく大惨事を相手にすることになるだろうし、問題となるのは犠牲者の数ではなくて、われわれが被る「危険の特性」そのものとなるにちがいない。 

≪035≫  
ヴィリリオのこの予言、ギョッとするほど当っている。
昨日は原子爆弾、
今日は情報爆弾、
明日は遺伝子爆弾、なのである。 

≪036≫ ◆内田樹・中沢新一・平川克美『大津波と原発』(2011・5 朝日新聞出版)    

≪037≫  3・11から3週間後にUストリームで配信された「ラジオデイズ」の鼎談を緊急出版したもので、いささか話題になった。  平川克美は2001年に「リナックスカフェ」を、2007年に「ラジオ・カフェ」を立ち上げたビジネスデザイナーであって、ラジオパーソナリティ。リーマンショック後の『経済成長という病』(講談社現代新書)や『移行期的混乱』(筑摩書房)でも話題をまいた。内田・中沢については紹介無用だろう。ちなみに3人は同じ1950年生まれだ。 

≪038≫  内田樹は3・11以降のブログで早々に「疎開」をすすめた。西に避難したほうがいいというススメだ。また、大学施設を避難者や疎開者の受け入れ装置にすることを提案した。中沢は3・11のあとは原子核物理の本を漁っていたようだ。原稿依頼を断り、何かを深く考えたかったのだという。 

≪039≫  話は、3・11で「日本の何かがポキッと折れた」というところから始まって、しだいに従来のエコロジーや反原発では足りない何かを求める必要があるという方向へ進む。 

≪040≫  第1には、日本的なブリコラージュの手法をちゃんとみなおしたほうがいいということだ。ブリコラージュは「編集」ということでもあるが、その場で入手可能なものを使いつつ試行錯誤を重ねて、新たな最終形を見いだすことをいう。第2には内田が言うには、原発技術に向かうクラフトマンと電力事業を推進するビジネスマンとが、それぞれ向かっている制度設計において別々なものになるのは当然だろうが、だったらどこかで二つの制度設計思想を「もっと拮抗させるシステム」が必要だろうと言う。 

≪041≫  で、第3に、これは中沢が提案するのだが、エコロジーに代わる「エネルゴロジー」を持ち出したいという。これについては、このあと中沢の『日本の大転換』を紹介するので、どういうものかはそこでかいつまむ。 

≪042≫  こんなふうに話はすすんで、「万が一」と「ときどき壊れる」と「備えあれば憂いなし」の3つをどのように組み合わせるかが重要なのだが、中沢が、そもそも原子力エネルギーに手をつけたということ自体が生態圏の外にあるものを人間社会に引っ張ってきてしまったのだから、ともかくヤバイというふうになり、内田が、人間の愚鈍を計算に入れないシステムがある以上は何がおこっても当然だろう、とくに、日本はステークホルダーをやたらに多くすることでシステムをがんじがらめにしているだけなんじゃないか、というあたりから、話に意外なヒントが出入りする。  

≪043≫  中沢が『緑の資本論』(集英社)以来の一神教の特色を持ち出し、それと日本の方法知を比較しようとしているのは、あいかわらずの独壇場であるが、ぼくには、それって日本が昔から「神的なもの」に対処するときの経験知だったのではないか、「恐ろしいもの」を「あまり恐ろしくないもの」と見境いがつかないようにぐちぐちゃにするのが日本だったのではないか、という内田の発言にピンとくるものがあった。 

≪044≫  というところで、平川が「あとがき」に、日本の多くの組織がコンプライアンスにはまって動きがとれなくなっているという問題を指摘していたが、この問題こそさらに別の本で展開してもらいたい。それこそトークゲストに孫正義やら官僚やら大学トップやらをまぜこぜに呼んで‥‥。うことで、後半は中沢が「緑の党」っぽいものをつくろうと思っているが、日本の自然思想に立脚したタイプのものをつくりたいという話になっていく。もっとも、ここで平川がグリーン電力のための資金を用意した孫正義を見直したなあ、それじゃあ孫さんにスポンサーになってもらおうよと中沢が言うあたりは悪い冗談で、内田の「ぼくは強いリーダーシップよりも理のあるヴィジョンのほうが必要だと思う」や「仙台あたりに首都機能を移したほうがいいじゃないの」のほうが、本書の落としどころとしては妥当だった。 

≪045≫ ◆宮台真司・飯田哲也『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』(2011・6 講談社現代新書)     

≪046≫  前夜に飯田哲也の『エネルギー進化論』(1457夜)を紹介したが、そのとき「これは残念ながら失敗作だった」と書いた。それにくらべて本書のなかの飯田はそこそこ説得力がある。宮台真司のたくみな誘導のせいでもあろうが、その宮台も本書では飯田のアクチュアリティを受けて発言がアクチベイトしているので、対談本としてけっこうよくできている。ちなみに二人は同じ1959年生まれらしい。 

≪047≫  対談の中身はサブタイトルの「自然エネルギーと共同体自治に向けて」そのもので、原発を選択した日本の経済社会の流れと、原子力ムラの実態と、数々の事故をおこしながらもその原発をやめられないのはなぜかということを、二人がそれぞれ解剖してみせるというふうになっている。 

≪048≫  宮台は、フクシマ原発事故については「技術的不合理とともに社会的不合理を衝く」という立場に立っていて、そのことを強調せざるをえないのは「日本社会が技術的に合理的だとわかっていることを社会的に採用できない」からだと説明する。 

≪049≫  なぜそんなふうになったかという理由も示している。日本社会全体が行政官僚制に依存し、市場に依存し、マスコミに依存していたからだ。この体癖を宮台はあまりうまいネーミングではないけれど、「悪い共同体」と「悪い心の習慣」というふうに名付けた。これは、ぼくがこれまでの宮台の本のなかで一番おもしろかった『日本の難点』(幻冬舎)でも指摘されていたことだったが、本書では深くは突っ込んでいない。 

≪050≫  飯田はエネルギー問題のほうからその理由を考えると、レイチェル・カーソン(593夜)以来の「よき環境主義」「よき環境アセスメント」を日本は本格的に体験できず、「エンド・オブ・パイプ」のアプローチばかりで公害問題や環境問題を処理してきたせいだと言う。「排水や排気ガスが問題なら、出口にフィルターを付けてそのレベルを落とせばいい」というアプローチだ。こんなアプローチばかりにこだわっていたから、この日本の30年間はついにアファーマティブ・アクション(積極的是正措置)をつくれなかったのである。 

≪051≫  二人はこのあと、今日の高リスク社会が「予測不能・計測不能・収拾不能」の症状をきたしているとき、ウルリッヒ・ベックが二項対立の図式に陥らない方途を提示したことをきっかけに(1346夜・1347夜・1348夜)、ヨーロッパで新たな市民社会による原発回避などの展望を模索する試みが連打されてきたこと、そこには新たな「知の創造」の萌芽すら感じられること、しかし日本ではそれが知識社会を支えるナレッジデータベースの変更にならないのはなぜかということ、けれどもやはり本書のサブタイトルにあるように、新たな「共同体自治」が必要であって、いまこそ「任せる政治」から「引き受ける政治」へのトリガーが引かれないかぎりは、何も埒があかないだろうという話になっていく。つまりはアントニオ・ネグリ(1029夜)らのいう「アウトノミア」をどうするかということだ。 

≪052≫  総じて、この二人がうまく組むとかなりおもしろい提案がいくつか出てくるだろうと思わせたのであるが、残念なのは、そこに上記に紹介した槌田敦のようなエネルギーやエントロピーの解釈をめぐる科学的議論がまったく出入りしていなかったことである。 

≪053≫ 
◆中沢新一『日本の大転換』(2011・8 集英社新書)    

≪054≫  2月14日の朝日新聞1面に、中沢新一(979夜)が「グリーンアクティブ」という名の“緑の党”を結成したというニュースが載っていた。ウェブを見てみると、宮台真司、いとうせいこう(198夜)、マエキタミヤコ、鈴木邦男(1151夜)、加藤登紀子、鈴木耕、小林武史、津田大介(1195夜)、鈴木幸一らが参加するという。マエキタを代表とする「緑の日本」という政治団体の登録もしたようだ。  

≪059≫  地震は地球内部の急激な変動で引き起こされる。われわれは多くの生物たちとともに、その地球の厚さ数キロの表層にいる。地震も津波もしばしばこの表層を襲ってひどい痛みをもたらすが、やがて大地にも海にも和らぎを蘇らせる。これらは自然災害を孕んではいても、一連の生態圏の出来事だ。 

≪062≫  エネルゴロジーはアンドレ・ヴァラニャックの区分にしたがっていえば、史上のエネルギー革命の第8番目をもたらすものと考えられる。1次から7次は次の通り。 ①第1次革命=火の獲得と利用。②第2次革命=農業、牧畜、新石器。③第3次革命=炉の発達、金属の登場、家畜・水力・風力利用。④第4次革命=火薬(燃える火から爆発する火へ)。⑤第5次革命=石炭、蒸気機関、産業革命。⑥第6次革命=電気、石油、電波通信、自動車産業。⑦第7次革命=原子力とコンピュータ。 

≪065≫  このような強引な一神教確立のやり方は、原子核技術が本来はそこに所属しないはずの太陽圏の現象をもちこんだやり方と似ている。端的にいうなら原子核技術は一神教的な技術で、このような一神教的技術にはブリコラージュは歯が立たない、というのが中沢の解釈だ。 

≪068≫  で、そのように断言する中沢は、そのためには、ひとつは仏教を再重視するべきではないかと言う。仏教は生態圏の外部の超越者を否定する。また仏教は儒教とも神道ともうまく習合できる。そうした異質なものとの親和性が高い仏教に注目したほうがいいと言う。 

≪071≫  ともかくも、以上のような大転換は日本においてこそおこるべきだというのが、本書の主張であって、「グリーンアクティブ」結成の主旨なのだ。そのことを中沢は、日本がリムランド文明(周縁文明)であったからだとも説明する。外部環境との境界に強い遮断の壁がなく、透過性に飛んだ文化を養ってきたのが日本文明なのである。ここにはすぐれてハイブリッドなインターフェース構造があった。それをもっと生かすべきではないか。ねえ、みんなでそうしようよというのが、本書の“綱領”なのである。 

≪055≫  本書の「あとがき」に、3・11後の4月6日に「日本に緑の党みたいなものを設立しよう」とネットTV(ラジオデイズ)で言ったことが振り返られていて、いつ設立できるかはわからないが、当面、本書の内容はその「緑の党みたいなもの」の綱領にあたると書いてあり、その意志たるや文面上もけっこう堅かったから、10カ月の準備をへていよいよ“結党”に至ったのだろう。 

≪058≫  3・11による災禍には、二つの相反する意味がまじりあっていた。これをどう見るか。中沢はそこから出発する。 

≪060≫  一方、原子力発電は生態圏の外部に属する物質現象からエネルギーを取り出す技術であって、中沢によれば、ここに事故や厄災が生じても生態圏はこれを治癒していく能力をもってはいない。原発は“小さな太陽”なのである。われわれは“大きな太陽”から十分に離れているから生態圏を営めるのであって、その太陽が生態圏の一部に入って起爆してしまうことなど、毫も許容していなかった。 

≪063≫  このあとが第8次革命としてのエネルゴロジーの発現になるのだが、本書ではその政治論や技術論の中身はほとんど示されない。そのかわり、今後のエネルゴロジーの思想的な基盤になるべきものは一神教ではなく多神多仏的な思考であるだろうこと、とりわけ仏教からのヒントが多くなるだろうこと、一神教的な資本主義経済から贈与の経済文化への移行を試みるべきだろうこと、などが提起されている。 

≪066≫  一方、資本主義という経済システムは市場メカニズムを社会にもちこんで、①社会が市場を包摂するのではなく市場が社会を突き破るリスク、②人間の心がつくるサブ生態圏としての社会を解体させるリスク、③成長を続けなければ衰退ないし停止に向かわざるをえないというリスク、という3つのリスクをもたらした。 これは原子炉がわれわれに突き付けているリスクにとてもよく似ている。資本主義は一神教の合理にしたがった経済技術なのである。 

≪069≫  もうひとつには、贈与の経済社会をめざすべきであると言う。もともとわれわれは「太陽の贈与性」の中にある。「太陽は地上を支配している交換システムさえ凌駕しながら、莫大なエネルギーを植物と動物と人間に送り続けている。人類の経済を含めて、すべての生命活動は太陽エネルギーに支えられている」。ならば、経済活動もこの贈与性にもっともとづくべきだったのではないか。

≪056≫  ぼくは本書の文章が文芸誌「すばる」に2回にわたって発表したものを読んだたとき、中沢が新たな「エネルゴロジー」(energology)なるものに立脚して、何やらただならない決意を述べていることを感じていたので、きっとこういうことはあるだろうと思っていた。 

≪057≫  ただいまのところ、「グリーンアクティブ」がどんな行動方針や政策を打ち出すのかは、まったくわからない。せいぜい賛同者たちにグリーン・ワッペンを胸につけて選挙に立ってもらおうというだけらしい。代わって、これが“綱領”だという本書に書いてあることは、大略、次のようなことだった。 

≪061≫  しかし、3・11はこの二つの災害を同時にもたらし、われわれは新たな挑戦を受けた。それならば、ここに新たな知の形態が生まれる必要がある。それを中沢は「エネルゴロジー」(エネルギーの存在論)と名付けた。 

≪064≫  一神教はヴァラニャックの分類でいう第3次エネルギー革命期に、主にモーセによってもたらされた。正確にはイクナトーンの時代のエジプト第18王朝のアートン教をモーセが持ち出してからのことだが(このことは本書にはふれられていない)、それはともかく、この一神教は本来は社会に所属しないはずの唯一絶対の神を“外部”からもってきて、社会を含む生態圏に接ぎ木した。 

≪067≫  しかしふりかえってみると、本来の社会は多神的で、さまざまな動向の「キアスム」(交差)の構造性をもっていたはずである。そこには一方向には規定できないいろいろな「縁」や「つながり」がある。それを資本主義の市場と商品は断ち切っていく。その象徴が原子核技術によってつくりだされた技術経済圏だった。これでは社会が壊れ、生態圏が壊れ、文明が壊れてもおかしくはない。 

≪070  この「太陽の贈与性」を持ち出しての結論はかなり強引だが、中沢はこのような経済思想のプロトタイプが、かつてはフランソワ・ケネーらの「フィジオクラシー」(重農主義というより自然管理主義)にあったとみなし、フュシス(自然)からクラティア(管理)を導き出していたと見た。それらのヒントをいかして新たな“超マクロ経済学”をつくるべきだと言う。どういうものかは書いてはいない。 

≪072≫  この最後のリムランド日本がインターフェースの作用をもっと発揮したほうがいいというのは、大賛成だ。ただ、かつての教育現場においても劇場空間においても、パソコンからスマートフォンに及んだITデバイスにおいても、近ごろの伝統技能や遊芸においても、日本的なインターフェイスはほとんど試みられてこなかった。はたしてそれに誰がどのように着手するのかということが問題なのである。 

≪074≫ 
◆松岡正剛『連塾‥方法日本Ⅲ:フラジャイルな闘い』(2011・11 春秋社) 

≪075≫  さて、以上の本の紹介をしたうえで、ふと、初めて「千夜千冊」に自分の本をナビする気になった。この本が今夜の数冊の本にまじるのは、ぼくが次のように“日本の本来と将来”をつなげて考えてきたということを、ここでちょっとだけ参考にしてもらいたいからだ。 

≪076≫  2005年6月2日に「連塾」最終講の第8講として話した「編集的日本像――雪が舞う鳥が舞うひとつはぐれて夢が舞う」に、ぼくは次のような「日本の見方」を提示していた。3つのスコープ・フィルター・テーマと、数冊ずつの日本理解のためのインターフェイスなどが並んでいる。さすがにここで自分のものを要約したり、解説したりすのはおこがましいので、説明ヌキで項目だけあげておく。関心をもたられるようならば、本書を当たられたい。 

≪077≫  ジャパン・プロブレム「9つの宿題」の(9)に「負の想像力……地震と枯山水」とあるところが、ぼくの方法日本の折り返し点になっている。  

≪078≫  
ジャパン・プロブレム「9つの宿題」の(9)に「負の想像力……地震と枯山水」とあるところが、ぼくの方法日本の折り返し点になっている。  

原発の過酷労働にはそもそも多くの働き手が必要だった。

そのため原発現場の仕事は二次・三次~五次の下請け労働者が担ってきた。

そこに原発ジプシーもいたし、ヤクザもいた。

なぜヤクザが原発にかかわってきたのか。

それが大きなシノギになるからだ。

しかし、ヤクザ(暴力団)と原発の関係は、その実態がほとんど明るみに出ていない。

本書がやっとその突端をこじあけた。 

≪02≫  3・11から2週間がたったあと、2Fの敷地に住吉会系の右翼が突入した。2Fは福島第二原発のことを、1Fは福島第一原発をさす。けれどもその後、任侠系右翼は原発反対の声を上げなかった。 

≪03≫  当然だろう。原発は国策のプロジェクトであって、任侠系右翼は庶民の代弁者ではなく、国家の味方なのだ。このことはそのまま暴力団にもあてはまる。暴力団は自分たちが寄生する“日本の矛盾”を払拭しようとする改革を毛嫌いする。だから先だっての大阪のダブル選挙では暴力団はことごとく反橋下派だった。2Fに住吉会系の右翼が突入したのは例外だったのだ。 

≪04≫  原発と暴力団はどうかかわっているのか。むろん原発計画やその運営にかかわっているわけはない。そうではなくて、全国の“原発労働”に人手を供給していた。そのことは以前からかなり噂は立っていた。 

≪05≫  フクシマでも同様だ。ある暴力団は100人近い連中をフクシマに送りこもうとしたらしいし、「フクシマ50」の中に暴力団員が少なくとも2名、おそらくは数名入っているのは公然の事実のようだ。Jヴィレッジのそばの広野火力発電所にもかなりの数が入っていた。 

≪06≫  本書はそういう噂をあれこれ聞きこんでいた“暴力団専属ライター”である著者がなんとか1Fへの潜入を試みたルポである。 

≪07≫  鈴木は1966年札幌生まれのB型。日大芸術学部写真学科除籍のあと雑誌カメラマンをへて渡米し、帰ってきてからは「実話時代BULL」編集長をしたのちフリーになった。その後はこわもてジャーナリストで鳴らした。著書に『我が一家全員死刑』(コアマガジン)、『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文藝春秋)、『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文春新書)、『極道のウラ知識』(宝島文庫)などがある。 

≪08≫  本書は去年の暮れに刊行された。すぐ読んだ。これはきっと話題になるだろうと思ったが、アテがはずれて読書界はしばらくシーンとしていた。それが、明けて今年の1月末になって急に話題になりはじめた。鈴木に早くから注目していた「週刊ポスト」に登場し、CS朝日の「ニュースの深層」にも出演した。テレビで見ると、こわもてというわりには可愛らしい。 

≪09≫  ぼくはこの著者のものだけでなく、ヤクザものはできるかぎり目を通してきた。とくに猪野健治(152夜)さんからはいろいろ話を聞いてきただけでなく、ぼくの主宰する会合に呼んでヤクザ社会の話を何度もしてもらった。そういうとき、みんな興味津々になる。 

≪010≫  そもそもジャーナリストが筋金入りかどうかは「裏側」に入っていけたかどうかにかかっているのだが、とりわけヤクザ社会に詳しいジャーナリストやライターのものは、思いがけないヒントをもたらしてくれる。アナーキーな社会をずっと追いかけていた朝倉喬司(810夜)はわが大学時代の新聞部の同僚だし、元祖「裏側」ルポライターの竹中労(388夜)からも多くの切れ味を教えてもらった。二人ともいまはもういない。 

≪011≫  その後も気になって、たとえば山平重樹の『ヤクザ大全』『ヤクザ伝』、正延哲士の『伝説のやくざボンノ』『最後の博徒』などの幻冬舎アウトロー文庫をはじめ、宝島社が繰り出す「裏側」ドキュメントはだいたい欠かさず読んできたのではないかと思う。 

≪012≫  で、いったい本書が何をもたらしたかといえば、日本の中枢にニクロム線のように走ったままの何本もの襞や亀裂を示したのである。 

≪013≫  この襞や亀裂はフクシマ以前から走っていたものだが、それらは「裏側」から辿ることがしにくいものだった。むろん新聞・テレビはお手上げだ。週刊誌の出番になる。けれども、「裏側」の取材にはそれこそウラを取る必要がある。  


≪014≫  ヤクザに詳しいのに、それでも原発との関連が見えていなかった鈴木は、当初はヤクザ・ジャーナリストとしてその関連を確認したいと思っただけだった(本人がそう書いたり、発言したりしている)。だから、とりあえずは無謀な潜入を試みただけだったのだが、それがはからずも現在日本の最前線の「裏側の亀裂」に一条の光を当てることになったのだ。 


≪015≫  読後感としては、ドキュメントとしての文章はあまり組み立てがなく、フクシマ潜入に前後しておこった事態もしばしば記述が前後していてやや錯綜ぎみなのだが、そのぶん実感値と臨場感があった。線量計ひとつの装着をめぐってのドタバタも、鈴木が強引に選んだ潜入ルートによってのみ得られる体と目と言葉でなくては伝わってこないものがあった。  

≪016≫  しかし、なんといっても本書の真骨頂はタイトル『ヤクザと原発』がそのすべてを語っているというべきだ。 

≪017≫  いま、実はヤクザという言葉はめったに使われない。すべて「暴力団」として一括される。とくに2011年は3・11の年であり、「アラブの春」の年で、ユーロ危機勃発の年であったけれど、また「暴力団排除条例」の年でもあったのだ。それなのに著者は暴力団ではなくて、あくまでヤクザと原発の関係を追った。だから、本書刊行後は各方面からタイトルに「ヤクザ」を選んだことに対するクレームが殺到したという。  

≪018≫  が、それがよかったのだ。著者はヤクザの親分(実名はあかされていない)に頼みこんで、ついにフクシマ潜入を敢行したのである。本書を読めば、これがたんなる原発ルポでも暴力団ルポでもないことが、よおっく伝わってくる。 

≪019≫   ついにヤクザという用語が死語になりつつある。何がなんでも「暴力団」と言うことになった。けれども、社会学的な「暴力」についての規定や考察からしても、ヤクザを暴力集団とのみ見るのはおかしなことだった。  

≪020≫  猪野健治の『やくざと日本人』(152夜)がさんざん証したように、「ヤクザ」という呼称は、「博徒」や「渡世人」や「無宿者」や「極道」と同様のれっきとした歴史用語であって、そんなものを安易に消してはいけなかったのだ。強引に消したいというのだとしたら、それは差別的な“言葉狩り”に近い。 

≪021≫  2011年10月1日、東京都と沖縄県で「暴力団排除条例」が施行された。略して「暴排条例」という。ボーハイと書く。その後、たちまちすべての自治体でボーハイ条例を適用することになった。これで暴力団の組員はそこいらのアパートを借りるにも保証人がなければならず、「暴力団の組員ではない」に○をつけなければ借りられないことになった。 

≪022≫  それだけならまだしも、一般市民の側も組員と親しくすれば取り締まられることになり、組員やその関係者とカンケーをもったというちょっとした証拠でも上がれば、即刻「勧告」を受け、ついでその事実が「公表」されることが決まった。 

≪023≫  そんなバカなことはあるまいと思っていたメディアや一般市民も、大相撲の維持員席に暴力団組員がからみ、琴光喜(ことみつき)らの野球賭博事件で力士廃業者が出て、本場所が中止になったこと(NHKさえ中継を中止した)、さらには続いて人気絶頂のカリスマタレント島田紳助が急転直下の引退会見をしたことなどを知って、うーん、これは本気の処置なのだと感じた。 

≪024≫  もっともこういう事件は“密接交際者”とみなされてのことなのだが、ボーハイはそれにとどまらず、暴力団関係者にアパートを貸したり、クリーニングを受けたり、墓所を提供したりしても俎上に上がるらしいということになって、なんとも落ち着かなくなってきた。 

≪025≫  いったい暴力団とは何か。本書はその概要を記す。著者は『ヤクザ崩壊:侵食される六代目山口組』(講談社)や『山口組動乱!』(竹書房)などの著書もあるが、『食肉の帝王』(講談社)で2003年に講談社ノンフィクション賞を受賞したノンフィクション作家。『池田大作:権力者の構造』(講談社)といった宗教ものもある。   

≪026≫  そもそも暴力団という用語が広がっていったのは、1992年(平成4)3月1日の「暴力団対策法」(暴対法)の施行からである。略してボータイ法という。このボータイ法の上にボーハイ法が乗っかったわけである。 

≪027≫  何が“対策”されるべき暴力団だとみなされたかというと、ボータイ法の第2条2号にわけのわからぬ定義らしきものがある。「暴力団 その団体の構成員が集団的に又は常習的に暴力的不正行為等を行うことを助長するおそれがある団体をいう」というものだ。 

≪028≫  どうもよくわからない。「その団体の構成員」のところにはカッコがついていて、「その団体の構成団体の構成員を含む」と付記される。Aという親分がA組をもっていて、その中のBという子分がB組をもち、その中のCがC組を、さらにその中のDがD組をもっているばあい、そのすべてを暴力団とみなすというのである。 

≪029≫  ともかくも、この定義らしきものにあてはまる組織を「指定暴力団」という。当時は25団体が指定された。ヤクザの親分たちは動揺した。違憲ではないかと騒がれもした。山口組の宅見勝若頭や住吉会の西口茂男会長も強烈に反対意見を延べた。しかし官憲は徹底的に指定暴力団の解体にとりくみ、かなり成功していった。こうしていまや、暴力団はボーハイ法でかなり追い詰められつつある、というのが本書の判定だ。 

≪031≫ 構成員数一覧  

≪030≫  ではどこの何が指定暴力団なのか。これは知っているようで、知られていない。2011年の段階では22団体が指定暴力団と認定されている。次のようになる。 

≪032≫  数字は組員数をあらわす。合計すると約36000人になる。ただしそのほか準構成員がざっと42600人いると算定されているので、全体では78000人になる。約8万人。このうち山口組、稲川会、住吉会を警察庁は「広域団体」とする。代表者の名は「通り名」や「稼業名」もある。 

≪033≫  以前は、これらの組織を博徒系・テキヤ系・愚連隊系に分け、稲川会や酒梅組を博徒系、極東会をテキヤ系としていたが、いまはすべて指定暴力団に一括された。ざっと数字を見てもらえばわかるとおり、山口組系が圧倒的に大きい。 

≪034≫  ちなみに博徒系にはかつては「関東二十日会」という連絡組織が1972年に結成されて、稲川会、國粋会、東亜会(東声会の後身)、交和会(北星会の後身)、義人会、住吉会、松葉会、二率会、双愛会の9団体が入っていたが、義人会が解散、交和会が稲川会に、國粋会が山口組に吸収されるなどして、いまは5団体になっている。またテキヤ系には1984年「関東神農同志会」があって、いまは極東会の傘下に入っている。 


≪035≫  いったいヤクザ≒暴力団とはどういうものなのか。かつてはヤクザについては「バカでなれず、利口でなれず、中途半端じゃなおなれず」と言われていたけれど、これではよくわからない。 現在の組織的な実態はよくわからないことが少なくないが、最近の山口組を例にして概括すると、きわめて統括的なシステムになっている。まず山口組本家というヘッドクォーターが君臨している。その本家のトツプが組長で(現在は6代目の司忍が組長)、組長のもとに6人の「舎弟」と約80人の「若衆」がいる。舎弟は組長の弟分で、若衆は組長の子供だから、ここには擬制的な血縁関係が想定されている。 

≪036≫  若衆のなかの長男にあたるのが「若頭」(わかがしら)で、これが組織のナンバー2にあたる(いまは高山清司が本家の若頭)。これは政党でいえば幹事長に相当する。稲川会ではトツプは会長、若頭は理事長という。山口組ではこの若頭を7人の「若頭補佐」が支え、総本部長が事務局長役をこなしている。 

≪037≫  以上が執行部で、この執行部にいずれ入る資格がありそうなネクストたちを「幹部」という。10人くらいらしい。顧問や舎弟は第一線からは退いている者たちの総称である。  

≪038≫  舎弟と若衆は「直系組長」あるいは「直参」とも呼ばれ、北海道から熊本まで各地に本拠地をもって二次団体の組長になっている。山口組では関東・北海道ブロック、中部ブロック、大阪北ブロック、大阪南ブロック、阪神ブロック、中国・四国ブロック、九州ブロックなどと分かれる。中部ブロックを仕切っている弘道会はいま山口組の直系のなかで最も力をもっている。弘道会には十仁会という秘密部隊があるともいわれる。ヒットマン(鉄砲玉)がここから輩出してくるらしい。  

≪039≫  直系組長たちは本部に会費を納める。若衆で月額80万円、若頭補佐などの役付きで100万円くらい。そのほか月々30万円ほどの積立金を納め、さらに6代目以降はペットポトルの水、歯磨き、洗剤、文具どの日用品を共済組合的な費用として月50万円ほど加算させているので、直系組長の月負担額は200万円をこえる。 

≪040≫  直系組長になるときは開設資金がいる。5代目の渡辺芳則が組長だった時代は当座で5000万円必要だった。その二次団体の直系組長にも組員たちから月20万~30万円ほどが集まってくるわけで、組織も資金もあくまで全容は小型ピラミッド型吸い上げ方式なのである。 

≪041≫  ちなみに島田紳助が付き合っていたのは、本家でいえば若頭補佐にあたる橋本弘文で、直系組長としては極心連合会の会長を張っている人物だった。 

≪042≫  だいたいはこういう組織のしくみになっているのだが、ではどんなふうにシノギ(仕事・稼ぎ)をしているかというと、最近の暴力団は以前とはかなり変わってきた。  

≪043≫  1989年の時点での警察庁による暴力団の年間収入調査では、覚醒剤収入が4535億円、賭博・ノミ行為収入が2200億円、繁華街でのみかじめ料が1132億円、民事介入暴力(事件仕事)が950億円、総会屋などの企業対象暴力が442億円、企業経営によるビジネス収入が1288億円だった。いっときはこれに「地上げ」などが絡んでいた。 

≪044≫  しかしその後、暴力団も解体作業や産廃業務に手を出すようになり、原発労働下請けを含めた労働者派遣をふやしてきた。みかじめ料もかつては用心棒代だったが、いまでは“保険料”である。フーゾク経営やそのエージェント機能もはたすようになった。さらには御時世で金融業がふえた。それも脅しだけのナニワ金融道ばかりでなく、金利は高いがそれなりの暴力デリバティブめいている。 

≪045≫  こうして本書では、暴力団を「負のサービス業」だと位置付けた。オモテ経済に対するウラ経済を仕切っている過去のヤクザ稼業ではなく、オモテ経済に出入りする裏側の「負」だと見ている。 

≪046≫  これは最近の暴力団の性格をよく言い当てている。裏がオモテにめくれ上がっているわけだ。ヤクザは裏街道を渡世するのが男気というものだったのだが、暴力団はオモテでシノギをやってみせるのである。 

≪047≫  そのうえ、ここに暴力団に所属はしていない、いわゆる“半グレ集団”によるシノギが加わってきた。オレオレ振り込め詐欺、出会い系サイトの運営、偽造クレジットカードの使用(その下請け)、ネットカジノの運営、覚醒剤などのドラッグのネット販売、ペニーオークション(落札価格が異常に安いが入札手数料がかかる)、イベント・サークル活動などだ。 

≪048≫  “半グレ集団”は20代・30代が中心で、かつてはグレン隊などと呼ばれていたが、いまではかなり多様になった。暴力団に上納金など収めなくともすむのでかなり勢いが広まっている。組員ではないから、ボータイ法にもボーハイ法にもひっかからない。有名なのは西麻布で海老蔵事件をおこした関東連合OBなどだが、ほかにも群小集団がふえてきた。暴走族、ヤンキー、チーマーもここに連なる。当然、かれらはどこかで暴力団に関与することになる。 

≪049≫  広く見ればこれらすべてが「負のサービス業」なのである。コンプライアンス社会を徹底しようとすればするほど、こうした「負」の業界が滲み出てくるわけなのだ。結果、原発業界もこのアンダーグラウンドルートを使うようになったのである。 

≪050≫ ◆夏原武『反社会的勢力』(2011・12 洋泉社) 

≪051≫  もう一冊、去年暮れに刊行された「暴力団もの」を紹介しておく。ただし、本書は広く「反社会的勢力」とグルーピングされつつある動向を案内したもので、溝口敦の『暴力団』より視野が広い。 

≪052≫  こちらはかつて『極道のすべらない話』(宝島社)、『現代ヤクザに学ぶ最強交渉・処世術』(別冊宝島・宝島社文庫)などで名を馳せた夏原武が書いた。溝口の『暴力団』といくぶん重なるところもあるが、ボーハイ法によってかえって「共生者」がふえていくことを指摘しているところが特徴になっている。 

≪053≫  共生者の代表は「フロント企業」である。これはボータイ法以降、暴力団であることを隠して設立された企業のことで、金融業、土木業、建設業、不動産業、風俗営業、飲食業、人材派遣業、産業廃棄物処理業など、かなり多岐にわたっている。 

≪054≫  こうしたフロント企業は代紋などは掲げない。一見、ふつうのビジネス・カンパニーに見えるようになっている。山口組三代目の田岡一雄が「ヤクザは正業をもて」と指示したことも、フロント企業をふやすことになった。  

≪055≫  かつては稲川会の石井進会長が仕切っていた北祥産業や北東開発などが有名だったが、東京佐川急便事件で数千億円もの巨額保証融資を受けていたことが明るみに出て事件化してからは、運営や経営もそうとう巧妙になってきた。とくに大学の就職先にフロント企業が入ることがダメージになるため、大学側がそうとう神経質になり、フロント企業側もこれをカバーするべくいろいろ広報活動を変えてきたのである。 

≪056≫  一方、新たな共生者として浮上してきているのは、
「社会運動標榜ゴロ」と「特殊知能暴力集団」だった。 

≪057≫  社会運動標榜ゴロは、政治運動や市民運動やボランティア運動を装っているため、かなり見分けがつきにくい。最近ではNPOの肩書をもつ共生者もあらわれた。なにしろ立てている旗印が「社会福祉」なのである。実際にも被災者支援には勇敢な活動を見せる。詳しくは夏原の『震災ビジネスの闇』(宝島SUGOI文庫)などを読まれるといい。 

≪058≫  特殊知能暴力集団は、たとえば仕手株のアレンジの先頭を切ったり、インサイダー取引すれすれをやってのける集団をいう。ポルノサイト運営を筆頭とするネットビジネスにも、スキマーを駆使した偽造クレジットカードにも長けているし、架空口座の設営にも長けている。むろん名簿売買や名簿流出もお手のものである。 

≪059≫  さらに「戸籍ブローキング」とか「ネームロンダリング」という知能犯罪の手口も広まっている。戸籍や住民票の売買なのだが、ユーザーには他人の戸籍を入手できて別人になりすますというメリットがある。これは選挙にも使われることがあるらしい。こういう特殊知能暴力集団がボーハイ法をくぐり抜けて広まりつつあるようなのだ。 

≪060≫  ついでながら、ここにはイベサー族の異名をとるイベント・サークル族も含まれる。ディスコやクラブを貸し切ってイベントを開き、カネと女を男たちと強力に結びつける若手ビジネスだが、これは合コンとネットで育った大学生ですら手がつける特殊知能犯罪になっている。 

≪061≫  かくして、ボーハイ法はかえって共生者を周辺にふやしていく。「反社会的勢力」は「社会」と見分けがつきにくくなっていくというのが、本書の結論だ。これらは仮に日本がさらに移民や流民を受け入れていくようになると、かなり広範囲に広がるビジネスだとも想定されている。 

≪01≫ 
大被災した日本。棄損した東北。引き裂かれた家族。 もどかしい声援。断線した心。 
3・11におこったのは、地震と津波と原発事故だけではなかった。 
砕かれた母国を前に、われわれの中にひそむ「挫けそうなもの」が露出した。 
それはひょっとすると、この数十年にわたって、政官財民の右肩上がりをめざす安易な成長神話が
そのつど処置されてきたものたちの形代(かたしろ)の露呈でもあったかもしれない。 
もはや「強さ」ばかりを求めていてはならない。 
いまこそ「弱さ」からの再出発を決断する日が近づいている。 
「存在を贈りあう社会」が切望されている。 

≪02≫  著者の鷲田清一さんはいまは大阪大学の学長であるが、ずっと以前から哲学者としてもモード研究者としても、関西随一の柔らかい思索力の持ち主として知られてきた。ヨウジ・ヤマモトの絶大な擁護者でもあって、自身、授業中も外出時も、たいていヨウジを着ている。けっこう似合う。

≪05≫  著者の鷲田清一さんはいまは大阪大学の学長であるが、ずっと以前から哲学者としてもモード研究者としても、関西随一の柔らかい思索力の持ち主として知られてきた。ヨウジ・ヤマモトの絶大な擁護者でもあって、自身、授業中も外出時も、たいていヨウジを着ている。けっこう似合う。 

≪03≫  しかし、そんな規準値に向かう途中には、実のところはとんでもない欠陥や弱点やカオスが、国家にも企業にも地域にも、町にも学校にも家族にも個人にも、ひそんでいたはずなのである。それをみんなで隠蔽しすぎたようだ。それが3・11で起爆すると、とたんに「少ない物資でもがんばろう」ということになった。 

≪06≫  メルロ=ポンティ(123夜)に、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」という有名な定義ある。鷲田さんはこの「言いよう」をずっと大事にしてきた。一方、哲学の言葉が自分の実感の確かさになかなか合致しないことについての苛立ちも隠してこなかった。 

≪04≫  本書は「強さ」を求めない。「弱い場所」から発せられた言葉と出会うことによって書かれたエッセイである。ここには、傷を負った言葉、挫けそうな心、ひりひりした気持ちが、丹念に拾われている。講談社の「本」に連載されていたエッセイで、後半に、ぼくの『フラジャイル』(現在はちくま学芸文庫)もとりあげられている。 

≪07≫  そしてあるときから、「自身の端緒が更新されていく哲学」は、ひょっとすると自分自身の中の強い規準にあるのではなく、むしろそれを崩すもの、自分から見えない「弱い方」からやってくるのではないかと思うようになっていった。本書にも、その丹念な模索がしたためられている。 

≪08≫  ケース1。

飯島恵道さんは長野県松本の東昌寺の、ピアスをした尼さんである。鎌田實さんの諏訪中央病院で緩和ケアに従事し、地域医療とケアをどのように組み合わせていけばいいのか、いろいろ学んだ。「必要な世話」と「余計な世話」のちがいをどのように感じ取れるかということだ。  

≪09≫  いま、3・11後の東北・北関東では、たとえ復旧が首尾よく進んだとしても、そこにはきわめて困難な医療問題やケア問題が待ちかまえる。仕事の再開の難しさ、暮らしの歪み、老人医療の停滞、メンタルケア不足、放射能に対する不安。難問はいくらでもある。とくに近親者を突如として奪われた家族がたいへん多く、町の大半がその悲痛と痛哭に突き落とされているケースが少なくない。 

≪010≫  今回の大震災では、一人ひとりの苦悩と不安だけではなく、集団苦悩や地域不安こそが地域を襲ったのである。 

≪011≫  これまで家族や近親者を亡くした遺族については、グリーフケアがおこなわれてきた。しかしこれを医療者だけが担当しているのではとうていまにあわない。たとえば地元のお寺などにもグリーフケアがなくてはならない。日本の寺院ネットワークはこれらに十分には対応してこなかった。日本仏教の低迷だ。飯島さんはそんなふうに思って、ずいぶん前からお寺に入り、尼となり、そのうえで病院勤務もするという二足の草鞋をはくことにした。 

≪012≫  鷲田さんは、エッセイのなかで人類が死者と生者をどのように扱ってきたかということに思いをめぐらす。「死があるのに遺体が見えない社会」というものを考える。ぼくはぼくでそこを読んで、数学者ヘルマン・ワイル(670夜)の「この世界で最も重要なのは生者と死者が同居していることである」を思い出していた。 

≪013≫  ケース2

福島泰樹さんはサスペンダーをしたお坊さんだ。東京下谷法昌寺の住職であって、著名な歌人だ。ぼくもまだ一度だが、吉祥寺の「短歌絶叫コンサート」に行ったことがある。 

≪014≫  歌集はときどき読んできた。その短歌はバリケードの中から始まって、「学生の貴様にあなどられたるは酒樽の上立てるおもいよ」などと気迫を吐いた。ついで「死ぬるなら炎上の首都さもなくば暴飲暴食暴走の果て」といったアナーキーでデモーニッシュな彷徨をへて、「渓谷はかなしかりけりこれからを流れるようなひとりとなろう」「さくらばなちるちるみちるみずながれさらば風追う言葉とならん」というような極北の哀歓のほうへ進んでいった。挽歌も多い。『やがて暗澹』(国文社)では、他者の歌を深く抉って批評した。 

≪015≫  その後の福島泰樹の短歌については「福島は自分を歌っていない。他の悲嘆を歌っている」と言われた。安永蕗子は「世を去った身近な才能に捧げられている」とも言っている。  

≪016≫  鷲田さんは、そういう福島さんを訪ねていろいろ話した。僧侶としての福島さんが何を日頃感じているかを知りたかったようなのだ。そして、遺体が自宅に戻ることなく病院からそのまま斎場に行ってしまうことを懸念していることに、注目する。そこには、死に水、湯潅、死化粧、死装束、枕経、添い寝、夜伽がなくなっている。いったい、それでいいのか。  


≪017≫  ケース3。

横浜に住む建築家の山本理顕さんが、あるとき新聞に「家族というものは寂しいものだ」と書いた。 

≪018≫  今日の日本の家族という単位は、社会的な単位としてあまりにも小さすぎるものになった。現在の社会システムはその小さな単位の家族に負担がかかるように、できあがっている。当該システムに問題があるときは、システム全体の見直しではなくて、家族の単位のところで調整しようとしてきた。だから家族が喘いでいる。そう、書いていた。 

≪019≫  山本理顕はこれまで一貫して、個人住宅や集合住宅ばかりを設計してきた建築家である。夫婦・両親・姉弟の家族が同居する実験的な「HAMLET」を設計したりもした。その山本さんがこういう感想を訴えていることに、鷲田清一が何かを感じた。 

≪020≫  かつて芹沢俊介は、現代の家族生活が多世代同居性を解体し、かつての農村風景に見られる日本はどんどん崩壊していくだろうと予告していた。3・11以降の東北に“再建”される町もそうなっていくだろう。若林幹夫は日本の生活形態が一方では都市寄生型に、他方ではホームレス型になっていくだろうと予告した。 

≪021≫  スーパーやコンビニやホームセンターが近所にあるか、自動車で行けるロードサイドにありさえすれば、家族が住みあい語りあう「家」はそうした外部利便性に依存したストック・ユニットにすぎなくたってかまわない。そういう住まい方が列島全土を覆っているわけだ。けれども、3・11はそのスーパーとコンビニと自動車をずたずたにした。 

≪022≫  鷲田さんは考える。いまや家族は“family”ではなくなっている。そこには“significantperson”がいるばかりだ、と。 


≪023≫  ケース4。

稲葉真弓さんは『声の娼婦』や『水の中のザクロ』で評判をとった作家であるが、いっとき健康スポーツランドに通う日々をおくっていた。そこに「近さ」と「匿名性」が一緒になっていたからだ。 

≪024≫  ホスピタリティとは何か。ケアとは何か。快感とは何か、カウンセリングとは何か。この問題にひとしく答えるのはきわめて難しい。  

≪025≫  そもそも人間というものは、それぞれが独自の多形倒錯めいたものを秘めているのだから、一様なホスピタリティ、万人のためのケア、市民のための一般的な快感、汎用的カウンセリングなどというものなんて、ありえない。そこには必ずや「幽(くら)い淵」があると、鷲田さんは見る。東北復興でもここを一般化すると、とんでもないまちがいがおこる。  

≪026≫  むしろ他人の体験や感情や不安を受けとめ、それを「通していく」ことが重要なのではないか。あるいは「感情を預かる」ことが大事なのではないか。では、そこをどうしていけばいいのか。 鷲田さんは、渋谷の道玄坂のマンションの一室でセックスワーカーをしている南智子さんに会ってみることにした。南さんは代々木忠監督の『性感Xテクニック』シリーズにも出演したことがある。 

≪027≫  その南さんの指摘で興味深かったのは、男たちが女性におっかぶせることでしか自分の性を語れなくなっているということだった。南さんは言った、「男が自分自身に呪縛をかけてまで隠さなければならなかったファンタジーや性って、何なのか。わたしはそれが見たくて娼婦になったようなもんです」。  

≪028≫  性というもの、少年少女時代の体験の歪みとそこから噴き出てくる諸幻想によって編集されている。そこには度しがたいほどの多様性がある。それなのに、その多様性が鬱屈してきた。そこを一時預かりし、「通して」いくにはどうするか。これは家族のあいだにひそむ官能や快感をどうしていくかという問題にもつながっていく。 

≪029≫  ケース5

佐伯晴子さんはSPを通してケアや医療かかわっている。SPというのは“SimulatedPatient”の略。みずからが模擬患者になるということだ。すでに大阪に「ささえあい医療人権センターCOML」や東京SP研究会ができている。 

≪030≫  SPは医療が医師と患者のあいだにあって、患者や不安者たちの体験や感情をミラーリングする。通気する。SPは共同の営みの中に自身を投じるということなのである。

≪031≫  京都出身の高安マリ子さんはダンス・セラピストだ。患者たちは靴を脱いでダンスシアターに入り、高安さんと本気のセッションをする。叩きあい、撫であい、踊りあう。上半身と下半身の境い目が大事らしい。そこがぐちゃぐちゃしていると、アタマとカラダが分離する。そのズレをダンス・セラピストは引き受け、身体のはたらきで何かを実感してもらう。   

≪032≫  北海道の襟裳岬の近くの浦河町に「ぺてるの家」がある。そこにはたらく川村敏明さんはあえて「治せない医者」を自称する。そのかわり「油断ができる関係」をどうつくっていくかということに、ソーシャルワーカーとしての活動を集中させている。  

≪033≫  沖縄アクターズスクールの分校、大阪のマキノ・ワールドポップスでは、牧野アンナさんがチーフインストラクターをしている。かつては安室奈美恵のスーパー・モンキーズの一員だった。そこから一転して父親が経営するスクールの指導を15歳から23歳くらいまでの若手で指導することを決意した。以来、「生徒が生徒を指導できるしくみ」を心掛けている。  

≪034≫  これらの人々との接触と会話を通して、鷲田さんは「世話」(サービス)と「隷従」(サーヴィチュード)とのちがいを、「提供」と「交感」のちがいを実感しようとしていったようだ。 こうした作業をなんどもトレースさせ、自分の思想をほぐしつつ、そこから少しずつ「かけがえのない言葉」を掬(すく)っていくというのは、かねてから鷲田さんが得意とする手法であるのだが、本書でもその手法が着々と積み重なり、読者に何かを実感させていく。その何かというのは「弱さのちから」というものの可能性のことだった。 

≪035≫  最後のほうになって、中川幸夫、田口ランディ、映画監督の伊勢真一の『えんとこ』の言葉、それにぼくや鶴見俊輔(919夜)や中井英夫の言葉が出てくる。  

≪036≫  中川さんや鶴見さんは「存在の他者性」や「その他の関係性」に可能性を見いだすことを、田口さんや遠藤さんの言葉からは「力をもらう」ということが導き出される。 

≪037≫  ぼくについては『フラジャイル』が引用されていて、弱さ、脆さ、傷つきやすさに共有されるものの重要性にふれ、「弱さは強さの欠如ではない」ということ、「おほつかなさ」の重要性などが引き出されていた。
すでにパスカル(762夜)が言っていたことであるが、フラジャイルな哲学では、強さを求めることは自由よりも束縛をもたらすことが多く、むしろ弱いものに従うことが自由なのである。 

≪038≫  自由はつねに現在を伴っている。それを哲学では「現前性」などという。けれども精神医学の臨床医である中井さんは、本来の“presence”は「現前」というよりも、「そこいてくれること」であって、ケアやホスピタリティは“onpresence”(互いにかたわらに居合わせること)のほうへ向かうべきではないかと言った。鷲田さんはそこに共感する。  

≪039≫  かくて本書は、まとめていえば「存在を贈りあう関係」についての本だったのである。
それにはまずは人々が何に関心を示すかということを、もっともっと重視しなければならない。3・11後の日本に求められることも、そのことだ。 

ナショナリズムという言葉はウケが悪い。とくにコスモポリタンや民主主義者あるいは進歩的文化人を気取る者にとっては、忌まわしい響きすらもっている。おまけにネーション(国民)、ナショナリティ(国民的帰属)、ナショナリズム(国民主義)の関係もはっきりしないように見える。 

≪01≫  ナショナリズムという言葉はウケが悪い。とくにコスモポリタンや民主主義者あるいは進歩的文化人を気取る者にとっては、忌まわしい響きすらもっている。おまけにネーション(国民)、ナショナリティ(国民的帰属)、ナショナリズム(国民主義)の関係もはっきりしないように見える。 

≪02≫  一方、シートン=ワトソンは『国民と国家』で「ナショナリズムを定義することは不可能に近い」と言いつつ、古い国民意識と新しい国民意識を区別しないと説明が混乱するばかりではないかとみなし、ハンナ・アレントは著名な『全体主義の起源』のなかで、むしろ「種族的ナショナリズム」ともいうべきをちゃんと取り出して議論したほうがいいと言った。ジョージ・モッセはその表題どおりの『大衆の国民化』において、ナショナリズムがわかりにくいのは「大衆」の概念がわかりにくいせいだと考えようとした。どっちにしてもみんな腰が引けている。 

≪03≫  しかし、はたしてナショナリズムはそんなものなのか。何かが混乱しすぎているのではないか。 そう見た一人のインドネシア研究者がナショナリズムの本質に新たに迫ってみたのが、本書である。刊行まもなく、本書はナショナリズム議論の古典扱いをうけたほどに話題になった。 

≪04≫  ベネディクト・アンダーソンによると、これまでのナショナリズムをめぐる議論は「国民」(ネーション)をめぐる次の3つのパラドックスに悩まされてきたという。 第1には、平均的な歴史家から見れば、国民の存在というものは近代国家が生み出した当然の現象の帰結と見えるのに、ナショナリストの目には国民がひどく古いものと見えるらしいことである。第2に、近代国家ではどこかの国民に帰属すること、すなわちナショナリティをもつことはごくごく当たり前のことであるのに、どの国民も自分たちは他の国民とは異なる国民性(民族性)や文化性をもつというふうに確信することだ。第3に、それほどの国民にとっては当然ナショナリズムは大きな意味をもっていそうなのに、ナショナリズムをめぐる理論や研究はどの国でも、ひどく貧困で支離滅裂であるということだ。 この指摘はなかなか鋭いというよりも、そうそう、そうなんだよなと思わせる指摘であって、ではなぜそうなったのかは説明していない。 

≪05≫  アンダーソンもそう感じたらしく(このパラドックスの理由をそのまま解読するのは不可能だと感じて)、こうした3つの議論の混乱がおこるのは、実は「国民」というのは社会的あるいは政治的な実体なのではなくて、ひょっとすると「イメージとして心に描かれた何か」が漠然と凝集したというもの、すなわち「想像の政治的共同体」(imagined political communities)なのではないかというふうに、見方を大幅に切り替えたのだった。 この切り替えがその後、「想像の共同体」としてネーションやナショナリズムを考えてみるというブームを引き起こしたのである。 

≪06≫  アンダーソンは別の書物の『言葉と権力』のなかで、自分のことを、「中国で生まれ、3つの国(中国・イギリス・アメリカ)で育てられ、時代遅れの発音で英語を話し、アイルランドのパスポートをもち、アメリカに住み、東南アジアを研究する」と自己紹介している。 そこには、1965年におこった9月30日事件のときにスハルトを批判して、自身の研究フィールドであるインドネシアを追放された自分の姿が戯画化されている。「想像の共同体」仮説を取り扱うにはこのようなアンダーソンの履歴も多少考慮に入れたほうがいい。 

≪07≫  もうひとつ考慮しておくべきは、アンダーソンはナショナリズムだけではなく、すべての共同体の本質は「想像の共同体」の性質をもっているとも見たということである。 たとえば古代ならば、ユダヤ教のハッシーディズム、原始仏教教団、クムラン共同体、ウンマ・イスラム(イスラム共同体)など、もっと大きなところではブルボン王朝やハプスブルグ家やワイマール共和国など、わかりやすくいえば宗教共同体や政治共同体のほとんどの例が、同じく「想像の共同体」から出発したのではないかと言うのだ。 

≪08≫  こうした「想像の共同体」の特質は、過去と現在と未来をひとつの均質な時間で貫こうとしていることにある。この、仏教用語でいうなら“三世実有”ともいうべき一貫時間については、かつてウォルター・ベンヤミンが「メシア的時間」とか「均質で空虚な時間」という説明を試みたものだった。 アンダーソンもこの見方に依拠して、近代国家の確立を迎えても人々がなお「メシア的な時間」を国家や国民のなかにほしがったものが、まわりまわってナショナリズムとよばれるものになったのではないかと考えたのである。 これでいくぶんかはナショナリズムを論じることが楽になってきた。少なくとも研究者たちは、そういう気分になった。しかし、それはまだ気分であって、本格的なナショナリズム論は、アンダーソン以降に持ち越された。 

≪09≫  では、ここでは二つだけ、本書のなかでぼくが注目したことをあげておこう。 ひとつは、近代国家のなかでナショナリズムが形をもってくるにあたっては、たいていプリント・キャピタリズム(出版資本主義)が関与していたのではないかという指摘である。  

≪010≫  このプリント・キャピタリズムは、そのほとんどがやがて国語化し、国民語化していく世俗語を重視し、その誰にもわかる言語の流出のなかに「国家の宿命」や「国民の将来」を説くことによって、その国のナショナリズムを喚起していったというのだ。これは、日本において内閣が生まれ国会が開設され、大日本帝国憲法が欽定された明治20年代以降、徳富蘇峰の『国民之友』、三宅雪嶺・志賀重昂の『日本人』、陸羯南の『日本』などが次々に登場したのを見ても、なるほど、アンダーソンのいうプリント・キャピタリズムがナショナリスティックな符牒をもっていたことと重なるだろうことが確認できる。なかなかおもしろい指摘だった。  

≪011≫  けれども、これらをすべてプリント・キャピタリズムとの同期性として十把ひとからげにするのはどうか。ちょっと無理がある。それらの動向には、とうてい資本主義や資本主義市場に結びつけないほどの貧しさや無政府性や発禁性が伴っていたからだ。 もうひとつ注目したのはアンダーソンが「クレオール・ナショナリズム」という動向に言及していたことである。 

≪012≫  アンダーソンは本書のなかで南北アメリカの近代に関心を寄せている。その理由は、南北アメリカのクレオール共同体では、英語ないしはスペイン語という共通言語がありながら、ヨーロッパのどの地域よりも早くに「国民」という観念を成り立たせていたからだった。 

≪013≫  このクレオール・ナショナリズムは、その後に多くの地域に独立や革命をもたらす原動力ともなったもので、近代ヨーロッパや明治日本が世俗語や国語による「宿命と将来」の説明によって“アーリア主義”や“日本主義”というナショナリズムを標榜していったのに対して、あくまでクレオール共同体がつくりあげた特殊な言語によってナショナリズムを形成したという意味で、特筆に値するのである。   

≪014≫  もっというのなら、こうしたクレオール・ナショナリズムこそはイギリスがインドで、フランスがインドシナで、日本が朝鮮半島でめざした植民地における「公定ナショナリズム」の強要に対して、これを肯んじえないで突破してしまう力をもった数少ないカウンター・ナショナリズムとも考えられるのであった。 

≪015≫  しかしながら、クレオール言語やクレオール文化がそれほど培養されなかった地域では、クレオール・ナショナリズムに代わる何かがあったのだろうか。それについてはアンダーソンは言及していない。われわれ自身が考えるべきことなのである。 

3・11と原発事故によって破壊された東北をどのように復旧復興するのかという課題がいままさに、日本人の眼前に突き付けられている。

大震災復興構想会議のメンバーとなった赤坂憲雄は、どんな思いで「襲われた東北」を見ているのだろうか。

まずはその「東北学」を日本人の多くが知るべきだ。

そして、日本中央が東北にもたらした負の歴史をあらためて振り返るべきである。

東北再生のためには、赤坂憲雄のまなざしが必要なのだ。 

≪01≫  赤坂憲雄の東北学はディープである。軽々しいものがない。そう言ってまずければ、ラディカルで、かつきわめて丹念だ。 

≪02≫  ぼくが赤坂の著作を読み始めたのは、ごく初期の著作『異人論序説』(砂子屋書房1985→ちくま学芸文庫)や『排除の現象学』(洋泉社→ちくま学芸文庫)のころからだが、そのときからすでに赤坂は調査と思索と表現にまたがる独特のスタイルをもっていた。細部からしか全貌は立ち上がるまい、という頑固な方針だ。大いに共感した。 

≪03≫  ちなみに『境界の発生』(砂子屋書房→講談社学術文庫)はぼくが『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)を書くときに、『子守の唄の誕生』(講談社現代文庫)は『日本流』(ちくま学芸文庫)を書くときにずいぶん参考にした。 

≪04≫  だいたい赤坂には、自分がかかわる民俗学的な調査研究の仕事をあえて「野良仕事」などと綴って“フィールドワーク”とルビを打ちたいというような、そういう感覚がある。 

≪05≫  会って話してみるとわかるが、シャイでもある。ぼくが最初に会ったのは恐山の取材のときだった。そのときも「できれば静かに東北を見てほしい」というような眼をしていた。 

≪06≫  本書のもとになった「忘れられた東北」と名付けられたフィールドワークとしての野良仕事は、もともとは山形を拠点として岩手・秋田の僻地にひたすらかかわっていくという2年にわたる旅にもとづいていた。歩き方はすこぶる宮本常一(239夜)っぽい。静かなのだ。 

≪07≫  むろんたんなる旅人の眼ではない。そこには、「日本」および「日本人」をまとめて記述しようとしてきた柳田国男(1144夜)このかたの「一つの国家観」に対する反発がある。既存の民俗学の見方に対する注文がある。その注文は静かではあるが、激越だ。「忘れられた東北」の旅が始まった動機にも、そこに貫かれていた思想も、柳田の『雪国の春』に向けた徹底した批判の眼にもとづいていた。 

≪08≫  柳田が東北をどのように見たのかというと、家の軒まで積もる東北の雪国のそこかしこに“稲作の民”のよろこびを見いだし、その経緯を昭和3年の『雪国の春』に書いた。 

≪09≫  柳田にとっては最果ての東北にも、南方からやってきた稲作日本人が北上して培った“瑞穂の国”があったという発見だったわけだ。 

≪010≫  しかし赤坂は「いや、ちょっと待ってほしい、それだけではヤマト王権が東北を支配した思想と同じままなのではないか」と思い続けてきたようだ。それは王化思想そのままの民俗学じゃないか。東北を“瑞穂の国”として十把一からげにしていいのかという思いだ。 

≪011≫  日本の民俗学の事情が疎い諸君のために言っておくと、柳田の民俗学は「一国民俗学」とも「常民民俗学」とも言われてきた。わかりやすくいえば稲作社会の生活と信仰と祭祀と言葉づかいの広範な調査研究と洞察と推理であり、それを通してコメの文化に育まれた日本人の精神構造を解読してきたというものだ。柳田のいう常民とは瑞穂の国を支える稲作民のことであり、その生活なのである。 

≪012≫  その成果は体系的ではないもののまことに夥しい成果をもたらした。ほぼ日本列島各地の実情を網羅したとおぼしかった。日本人の忘れられた生活文化は柳田民俗学によって取り戻されたとも見えた。また柳田国男という存在も巨大で、人脈も広く、柳田の学問人生はそのまま日本の民俗学の方法論ともなったのである。 

≪013≫  とくにその出発点が明治43年刊行の『遠野物語』に始まっていたということは、それが佐々木喜善からの聞き書きにすぎなかったとはいえ、柳田こそは日本の辺境の理解者であり、東北の村落生活の底辺の発見者であるともくされることともなった。 

≪014≫  ぼくの読書体験でいっても、26歳から27歳にかけて折口信夫(143夜)にぞっこんになり、そのあとしばらくしてから柳田をぽつぽつ読み始めたのだが、そんな折口かぶれの眼で読んでも、初めて読みすすむ柳田の分析や推理にはずいぶん頷いてしまったものだ。 

≪015≫  しかしそのような柳田民俗学について、赤坂は『山の精神史・柳田国男の発生』(小学館ライブラリー)や『柳田国男の読み方』(ちくま新書)などで、柳田はあまりに「稲と常民と祖霊の三位一体をなす民俗学」で日本のすべてを解こうとしすぎたのではないかと述べ、その過誤をいくつもの記述の検討を通して解説してみせたのだ。 

≪016≫  こうして赤坂の東北フィールドワークは、しだいに柳田的なものではなくなっていった。宮本常一同様に、柳田的な常民のカテゴリーに入らない生活者を訪ね歩いたのだ。とくに東北である。 だから、われわれは柳田の民俗学の射程に入らなかった東北を、赤坂憲雄から学ばなければならないのである。本書はそのような赤坂が試みた最初の東北論になっている。 

≪017≫  赤坂が最初に東北に入ったのは、北上山地山麓の九戸(くのへ)群の木藤古(きとうご)という村だった。わずか9戸の集落だったというが、ヒエやアワをつくり、炭焼きで暮らしを立てていた。雑穀の民だ。  

≪018≫  このような雑穀の村が東北から消えていったのは、昔のことではない。ごくごく最近のこと、1960年代の高度経済成長期のあとからのことだ。東北は原発開発計画が俎上にのぼったころから、かつての東北を失っていったのだ。もしも東北を復旧するというなら、ほんとうはそこまでさかのぼることが復旧なのだろう。 

≪019≫  赤坂はその後も早池峰や男鹿半島や大湯や月山を訪ね、柳田的常民では東北が支えられてこなかったというエビデンスを収集していった。そこには沢内マタギ、木地屋、鉱山で働く者、サケを追う川の民など、とうてい常民とは呼べない者たちの姿があった。とりわけ赤坂の心を打ったのは「箕つくり」の民の実態だった。尾花沢近くの次年子(じねご)という村の実態だ。 

≪020≫  江戸時代の次年子には90数戸の家があり、そのほとんどが箕つくりをしていた。1万枚ほどの箕がつくられていた。「箕の定め」という文書ものこっていて、そこには、次年子は昔から田畑が少なく飯米にも不足するので、年貢上納のたしにもなる箕つくりに徹したい。ついては他村に出た者がこの技を広げたりしないように、それを守れぬ者には箕つくりをさせないという「悲しい決め事」が記されていた。 

≪021≫  次年子に箕つくりが伝えられたことについては、いくつかの伝承が残っている。そのひとつに、秋田からお里という女がやってきて、村を開き、箕の作り方を伝えたのだという話がある。それが大同2年(807)のことになっている。東北にとって、この大同という時代は実はきわめて象徴的であり、忘れがたい時代なのだが、そのことはこのあとふれるとして、赤坂はこの箕を手にとりながら、東北日本と西南日本が別々の歴史をもってきたことを裏付けていく。 

≪022≫  東北の箕は「片口箕」で、西南の箕は「丸口箕」である。のみならず東北の片口箕は樹皮でつくるが、西南の箕は大半が竹製だ。のちに赤坂は『東西/南北考』(岩波新書)というユニークな一冊を上梓するのだが、そこにもイロリとカマド、両墓制、背負子(しょいこ・オイコ)と天秤棒の比較などとともに、箕のちがいをあげ、東西と南北を分ける生活文化の境界の重要性を多様に示している。 

≪023≫  さて、こうした赤坂の眼が東北に注がれるにあたっては、東北独特の歴史的な背景も見ておかなければならない。 本書はそうした歴史をあまり追ってはいないのだが、それでも第5章「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」に扱われている話は、東北の歴史特色を憤然とあらわしている。 

≪024≫  いったい「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」とは何のことなのか。このおどろおどろしいヘッドラインは何をあらわしているのか。お里が大同2年に次年子に来たという話とは何の関係があるのか。  

≪025≫  まず大同であるが、これは延暦(782~805)に続く平城天皇から嵯峨天皇即位におよぶ806年から809年までの年号であるとともに、この年号には象徴的な歴史社会がこびりついていた。 

≪026≫  7世紀から8世紀にかけて、古代ヤマト朝廷は東北の「まつろわぬ民」を制圧するために何度にもわたって、蝦夷(エミシ)に攻撃を仕掛けていた。詳しい古代東北史のことは別に千夜千冊するが、東北に「道奥国」の名が付けられたのが斉明天皇の659年で、それが天武天皇976年までに「陸奥国」になった。これが「みちのく」の発生だ。 

≪027≫  ついで大宝律令・養老律令が制定されると、8世紀には陸奥鎮守将軍や按察使(あぜち)などが派遣されるようになった。このとき東北は律令の用語でいう「化外」「境外」「外蕃」とされた。ヤマト朝廷が辺境の東北経営に乗り出したわけである。 

≪028≫  しかし実際の事情はきわめて複雑で、蝦夷(=東北在住者)はいっこうに治まらない。巨勢麻呂や佐伯石湯らが次々に鎮東将軍や征蝦夷将軍として派遣され、大伴旅人や家持の一族までかりだされるのだが、それでもうまくいかない。 

≪029≫  宝亀8年(777)には蝦夷の連合軍が出羽国に押し入り、宝亀11年(780)には伊治のアザマロが反乱をおこし、東北が騒然となってきた。 

≪030≫  「まつろわぬ民」の動向だった。折からの道鏡の乱行で国政コントロールを欠いた光仁天皇とその側近の力では、とうていそういう東北にまで手がまわらない。 

≪031≫  そこに登場してきたのが勇猛なアテルイとその一党である。アテルイは胆沢(いざわ=現在の水沢市・胆沢郡・江刺郡)の豪族だったようで、延暦12年(793)には中央から派遣されてきた大伴弟麻呂の一軍と戦ってこれを破り、平安遷都の渦中の朝廷を大いに動揺させた。こうして桓武天皇期、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21年(802)に胆沢城を築き、ここでやっとアテルイの軍勢を蹴散らした。 

≪032≫  もっともアテルイが首を刎ねられたからといって、蝦夷の反乱は収まったわけではなかった。征夷将軍となった文室綿麻呂が事態を収拾する弘仁2年(811)まで、余波は続いた。これを総称して歴史家たちは「三十八年戦争」という。古代王権と辺境東北とのあいだの、38年にわたる「東北王化の戦争」だった。 

≪033≫  これでざっとしたことがわかっただろうが、「大同2年」とは、坂上田村麻呂がアテルイ(およびモレ)を捕まえ、さらに胆沢周辺から東北平定をめざしていた時期にあたる。 

≪034≫  もうひとつの「悪路王」とは、のちにアテルイのことを『吾妻鏡』がそのように呼んだことから発した俗称で、正確にはアテルイ=悪路王かどうかはわからないのだが、しかし、ヤマトの中央からみれば、アテルイこそは悪路を仕切る悪路王の一味の頭目だったのである。 

≪035≫  一ノ関近くの「達谷(たっこく)の窟(いわや)」に毘沙門堂がある。ぼくはまだ訪れたことがないが、その縁起由来には、征夷大将軍坂上田村麻呂が達谷の窟にたてこもって抵抗する悪路王らの夷族をことごとく打ち破り、田村麻呂は多聞天の加護で蝦夷平定を果たしたことをよろこんで、ここに毘沙門堂を建立したと書いてあるらしい。 

≪036≫  この由来どおりだとすれば、もはや東北は9世紀において悪路王が破れた地で、中央政府の管理がゆきとどいた地だとみなされたのだった。 

≪033≫  これでざっとしたことがわかっただろうが、「大同2年」とは、坂上田村麻呂がアテルイ(およびモレ)を捕まえ、さらに胆沢周辺から東北平定をめざしていた時期にあたる。 

≪034≫  もうひとつの「悪路王」とは、のちにアテルイのことを『吾妻鏡』がそのように呼んだことから発した俗称で、正確にはアテルイ=悪路王かどうかはわからないのだが、しかし、ヤマトの中央からみれば、アテルイこそは悪路を仕切る悪路王の一味の頭目だったのである。 

≪035≫  一ノ関近くの「達谷(たっこく)の窟(いわや)」に毘沙門堂がある。ぼくはまだ訪れたことがないが、その縁起由来には、征夷大将軍坂上田村麻呂が達谷の窟にたてこもって抵抗する悪路王らの夷族をことごとく打ち破り、田村麻呂は多聞天の加護で蝦夷平定を果たしたことをよろこんで、ここに毘沙門堂を建立したと書いてあるらしい。 

≪036≫  この由来どおりだとすれば、もはや東北は9世紀において悪路王が破れた地で、中央政府の管理がゆきとどいた地だとみなされたのだった。 

≪037≫  以上が「大同二年に、窟の奥で悪路王は死んだ」の意味だ。実は柳田の『雪国の春』にも「坂上田村麻呂が悪路王を征討したいわゆる大同二年頃」とあって、田村麻呂と悪路王の戦いがこのちの伝承になっていたことを心に刻んでいた。 

≪038≫  赤坂はこの話にこそ、「闇に散った負の悪路王」と「光に包まれた正の田村麻呂」という対比が象徴されていると述べ、さらにここから「大同」という年号が“東北の負の歴史”の象徴にもなっていったのではないかと話を広げていった。 

≪039≫  それは、またしても柳田が『遠野物語』に書いていたことでもあるのだが、遠野には大同という家名をもつ家が多く、その家々では正月の門松を片方だけ地に伏せて注連縄をわたすらしいとあったことである。 

≪040≫  遠野の草分けの家は、きっと大同年間の田村麻呂の制圧の名残りで発祥していたのであろう。そればかりか早池峰神社や六角牛山善応寺なども大同年間の建立の言い伝えをもっていることからすると、この「大同」という響きにはまさに東北そのものの「負」が刻印されているということになる。お里が次年子に来たのが大同2年だというのも、王化された東北がこの年から始まったという“時合わせ”だったのであろう。 赤坂はこれらのことをまとめて、こんなふうに書いている。 

≪041≫  大同という問題を、丹念に、可能なかぎりの限界まで読み抜いてゆくことが、東北の常民たちの精神史に孕みこまれた結ぼれをひもとくための、ある重要なカギのひとになるだろうという予感が、わたしにはある。大同はヤマト王権による東北侵略の、固有に徴(しるし)づけられた年号である。 (中略)ヤマト王権による蝦夷征討の象徴的な歴史語りは、この年号抜きには完結しないともいえるだろうか。東北の生きられた歴史は、大同を起点として紡がれる不幸を背負わされてきた。東北の常民の多くが、古代蝦夷の末裔であったとすれば、大同という、ヤマト王権による侵略と征服の年号を起点に歴史がひらかれることは、大同以前のみずからの歴史を闇に葬ることをこそ意味したはずだ。 

≪043≫  「こんや異装のげん月のした 鶏(とり)の黒尾を頭巾にかざり 片刃の太刀をひらめかす 原体村の舞手(をどりこ)たちよ」で始まる詩で、勇壮であるが、どこか闇と闘っているように綴られている。原体は江刺郡田原村の原体(はらたい)という部落のことで、剣舞連はそこに伝わる剣舞のことをいう。その中ほどに「達谷の悪路王」が出てくる。 

≪044≫   むかし達谷(たった)の悪路王
              まつくらくらの二里の洞(ほら)
              わたるは夢と黒夜神
           首は刻まれ漬けられ  

≪045≫  この詩は「消えてあとない天のがはら 打つも果てるもひとつのいのち」と結んでいて、大同2年の背後の闇に散った「いのち」の伝承が告げられる。 

≪046≫  賢治がどのように東北を見ていたかということは、何か適切な本を選んでいずれ書いてみたい。いまは赤坂の野良仕事は賢治の思想や表現ともつながっていることを指摘するにとどめよう。 

≪047≫  こうして赤坂は柳田の陰に隠れた「もうひとつの東北」を探しながら、その後は「いくつもの日本」が語れるような、そういう日本民俗学が必要だというところへ向かっていったのだ。 

≪048≫  その赤坂がいま、3・11以降の東北復興のために設けられた「東日本大震災復興構想会議」のメンバーになっている。今日の政府や政権にかかわって、一人の研究者が何かをもたらすのは至難の業ではあるが、せめてこれを機会に多くの日本人が赤坂の「東北学」や「いくつもの日本」を感じてほしいと思うばかりだ。ぼくも、東北復興には「失われたジャパン・マザーの発動」が必要になるだろうと思っている。 

≪01≫  われわれはいまインターネット・バブルがはじけた夕闇に立っているままなのだろうか。もしそうだとしたら、その直接の原因はアメリカがとろうとしている二つの政策、ブロードバンドアクセスを支配するための政策と、知的財産を支配しようとしている政策のせいだ。 

≪02≫  しかしこうなってきたのは、この背景にプロパティ(所有物)をめぐる発想が急激に変化してきたという事情がある。バブルがはじけたのは報いのようなものなのだ。 

≪03≫  過去も現在も、国であれ家であれ、繁栄を象徴してきたものはプロパティだ。そのプロパティをどのように活用するかどうかによって、その時代の経済と文化の運命が左右されてきた。 

≪04≫  経済文化はプロパティの所在と拡散と共有の方法によって、どのようにも転んできた。過去のプロパティは、その所在地とその拡散(流通)の経路とその共有(入手)の仕方が、それぞれ別だった。だからこの別々の仕方をコントロールできた東インド会社もフォードもIBMも、とんでもなく巨大になれた。 

≪05≫  ところがパソコンの出現とインターネットの波及は、これら3つのアドレスを極端に近づけた。アップルは“Rip,Mix, Burn”という広告を打った。「借りてきて、混ぜっこし、みんな焼こうよ」というものだ。 

≪06≫  かくて誰もがサンプリングし、リミックスし、そして焼く(公開する)ようになった。プロパティのアドレスはどこにもなくなったのではなく、ミシンと蝙蝠傘が解剖台の上で出会うように、どこにあっても電子編集台の上に乗るようになったのだ。 

≪07≫  さあ、ここで一挙に浮上してきたのが、世の中には「フリーなリソース」と「コントロールされたリソース」があったんだということだった。これはかつてプロパティとよばれたものが、すでにこんな呼び名になったことをあらわしている。当然のことに、若者たちは一斉に「フリー」の方へ走っていった。そして情報化されたリソースを次から次へと“Rip,Mix,Burn”していった。 

≪08≫  そこに加えて意外なことがおこる。手持ちのリソースをネット上に公開する者たちがそれ以上の勢いで増えていったのだ。誰も「コントロールされたリソース」など見向きもしない。情報は編集されることが嫌いではなかったのだ。 

≪09≫  こんな無作法で無政府的な状況にアタマに来た連中の方も、もちろん少なくない。せっかくプロパティを保護し、支配してきたのに、手元にあるリソースは動かない。なんとか手を打たなくちゃ。 

≪010≫  経済文化の旧守派は腹を立てながらも気をとりなおし、かつてのプロパティを著作権とか所有権とよびなおし、あまつさえ、そこに「情報的」とか「知的」といった冠りをつけることにした。かくしてプロパティは「情報財」や「知財」の扱いを受けるようになったのだ。ただし、それを流通したいのではなく、囲いたいというケチな根性で。 

≪011≫  むろん、こんな手口でネットワークされた経済文化の可能性の波に罠を仕掛けようとするのには、無理がある。しかし、無理は道理を圧しのける。これがIT政策というものだ。けれども無理を通せば、実はプロパティは動かない。そこがウェブ社会の変なところなのである。インターネット・バブルがはじけるのは因果応報だったのだ。 

≪012≫  旧守派がバブルで困るのはかまわないけれど、そのためにリソースがフリーに向かえなくなるのは問題である。あるいはそこにコストがかかりすぎることなど勘弁してもらいたい。 そこでネット派はイノベーションを連打する。ウィルスやハッキング・テクノロジーも乱舞した。 こうしてフリーソフト、フリーウェア、フェアユースが新たに燎原の火のごとく現れたのだ。いわゆる「伽藍」に対するに「バザール」の反撃だった。 

≪013≫  エリック・レイモンドの『伽藍とバザール』(第677夜)に続いて、またまた山形浩生の訳による一冊を紹介することになった。ほんとうはこのあいだにローレンス・レッシグの『CODE』が挟まるのだが、それを拡張したのが同じ著者の本書にあたるので、こちらを紹介しておけば事足りよう。 

≪014≫  その『CODE』が主張していたことは、いまのべてきた問題に隠れていたもっと根本的な事情を抉(えぐ)るものだった。山形の要を得た摘出を借りると、次のようなものとなる。  

≪015≫ ① 法律以外にも人の行為を規制する方法はある。市場でコストを高くすることやコミュニティなどで規範をつくること、そしてアーキテクチャを生かすことだ。 

≪016≫ ② ネットでは、そのなかでもコード(ソフトウェア)による規制がきわめて強力だ。だからネット上の規制は不完全どころか、コードを通じた完全すぎる規制が実現する可能性があるし、まさにその方向に向けてネットは動いている。 

≪017≫ ③ 法律は、コントロールが完全になりすぎないような措置が意図的に講じてある(フェアコースやプライバシーなど)。コントロールが不完全であることに重要な民主主義の価値があるからだ。 

≪018≫ ④ その不完全さが残るようにするためにのみ、コードに規制をかければよいのではないか。 

≪019≫  大胆で、しかも筋の通った提案だ。人の行為を規制するにあたって、アーキテクチャやソフトウェアを持ち出したところが新しい。いずれはネットにかかわらないユーザーやビジネスのほうが少なくなってくるだろうから、これは直近の現実性ももっている。 

≪020≫  それをまとめていえば、第1には、ネット社会で従来から言われてきた「自由なのか、規制なのか」という二者択一的な議論を突破しなさい。第2に、自由を守りたければ、別の方法がある。それがこのあと説明するが、「コモンズ」による自由確保のシナリオだ。そして第3に、「レイヤー」を新しい防衛線や創造性のための構造にするべきではないか。こういうものだ。 

≪021≫  コモンズとは共有地のことをいう。それとともに共有知をあらわしている。 

≪022≫  金子郁容とぼくは『ボランタリー経済の誕生』(1998・実業之日本社)をつくったときに、おそらく新たなコモンズはネット上の共有地あるいは共有知として出現してくるだろうとすでに“予言”していた。少し遅れてレッシグもそう考えた。コモンズこそが自由の砦になるのではないか。  

≪023≫  そもそも自由とは、自由そのものは何もしないポテンシャルのことだ。だからその自由を謳歌したければ、人がその自由を使ってどのようにでも工夫ができる基盤のほうを用意すればいい。この基盤がコモンズなのである。実際にも、インターネットはネット上の随所のコモンズの芽生えによって自由度を発揮し、ネットにまつわる多様なイノベーションを進めてきた。そうであるならばここには「自由か、規制か」があるのではなくて、そのようなイノベーションが出やすいコモンズが次々に自発するべきなのだ。ボランタリー経済とは、このネットワーク上のコモンズに自発する“自発経済圏”のことである。 

≪024≫  レッシグはこのようなコモンズの可能性をアメリカは潰しているのではないかと言う。たとえばメディアの垂直統合と集中化、電波競売の加速、マイクロソフトによる独占、著作権強化、ソフトウェア特許やビジネスモデル特許の奨励‥‥などなど。こんなことでいいのかというのが本書の立場になっている。 

≪025≫  レイヤーとは「層」のことをいう。地層や建物やタマネギの階層だとおもえばよい。 いまコンピュータ・ネットワークでは、最下層に物理的な「通信ネットワーク層」があり、インターネット上のコンピュータやコンピュータ間を結ぶ電線につながっている。その上にハードウェアを動かす論理的な「コード層」が装填されていて、インターネットを定義づけるプロトコルや基本ソフトが入っている。ここでコンテンツやアプリケーションがどう流れるかが決まる。そして一番上にソフトな「コンテンツ層」が組みこまれ、デジタル画像やテキストやオンライン画像が乗っている。  

≪026≫  これらのレイヤーは原理的にはどのようにでも管理可能なはずであり、3つのレイヤーをフリーにすることもでき、鍵をかけることもでき、その鍵の組み合わせを変えることもできる。 

≪027≫  既存の例でいえば、ケーブルテレビは通信ネットワーク層のところではケーブルによって所有され、コード層も各家に何を届けるかをケーブル会社が決定権をもち、放送される番組としてのコンテンツ層にもすべて著作権の鍵がついている。これにくらべて電話は、コード層の管理は電話会社がしているが、番号回しはどのようにしてもよいし、通話内容にあたるコンテンツ層は別れ話であれ、長電話であれ、すべてフリーになっている。つまりコモンズになっている。ただし、ここには課金という制度が動いている。一方、たいていの劇場やホールは物理層だけが所有され、コード層(音響・照明機材など)を一部有料で共有し、コンテンツ層が開放されたコモンズをつくっている。ただし消防法や猥褻罪などのチェックだけが入っている。 

≪028≫  これらの例のごとく、インターネットにおいてもレイヤーの管理の仕方をいろいろの鍵によって自在に組み合わせることは可能なのである。それによってどこでコモンズを確保するかということが決まってくる。Linuxはコード層をコモンズにした有名な例だった。 

≪029≫  レイヤーの特色を生かしつつレイヤーを跨ぎ、それらにコモンズを想定し、それをひとつずつ設計し、そして獲得していくこと。 

≪030≫  これならば「自由か、規制か」の議論に落ちない新たなリソース・コミュニケーションを生んでいく可能性がある。 

≪031≫  レッシグは本書の後半で、その方法をいくつか提案する。たとえば物理層では、周波数帯の一部のチャネルに通行コモンズをつくることを勧める。これは案外可能性があるかもしれない。コード層は大手のOSが握っているところなので、なかなかコモンズを自発させにくいところだが、ひとまずはプラットホームの共有をめざすべきだろう。ただしレッシグはアメリカ人はこのへんについては頑固であって、むしろ日本に期待している感触がある。 

≪032≫  が、これは買いかぶりというもので、ぼくが見るかぎりはOSに手がつけられる日本人はきわめて少ないし(いっとき坂村健によるTRONががんばっていたが)、それを促進できる役人も政治家も、まだいない。ここに必要なのは「編集OS」あるいは「編集プラットホーム」とはどういうものかが理解できる連中なのだ。 

≪033≫  一番楽なのは、コンテンツ層にコモンズをつくることである。すでに多岐にわたってつくられている。しかし、ここで前途に立ち塞がるのが、知的所有権という妖怪なのだ。 

≪034≫  そこでレッシグは、たとえば著作権が切れたコンテンツはどんどんパブリックドメインになるようにする機運をつくってしまえばいいではないかと言う。それには、著作権保持者が自分のコンテンツを公共保存機構に寄付する制度をつくり、その保存者に税制優遇などのなんらかのインセンティブが与えられるようにするとよい。  

≪035≫  これはおっつけそういうことになるだろう。日本でもいつまでも家や株券や財産をもっていたところで(これが古いプロパティというものだ)、結局は相続税などで持っていかれてしまうのだ。情報財や知財では、ここに新たなしくみが芽生えるべきである。 

≪036≫  けれども、レッシグはネット・コモンズにのみこだわったので、ここでは別のことも言っておかなければならない。 コモンズはネットの中だけではなく、われわれ自身がリアルな日々を送っている学校や商店街や温泉場にも、地域社会のどこにもつくるべきだということだ。そして、それよりもっと重要なことは、われわれの想像力や知性の中にコモンズをつくる試みにこそ、果敢な勇気をもつことだろう。
 本当の知財とは、われわれの想像力の中にひそんでいるプロパティなのである。 

西洋は人間を経済動物にしてしまったのではないか。

このことに気付いたモースは、未開社会や古代社会には

西洋が見失ってしまった本来の社会経済行為が

きっと隠れていただろうと考えた。

そして、そこに「贈与」と「互酬性」を保つ社会が

長らく躍如していたことを発見した。

ひるがえって日本には、中元・歳暮・お祝いをはじめ、

多くの贈答文化がのこっている。

これらはたんなる「虚礼の交換」なのか。

それとも回復すべきソーシャルキャピタルなのか。 

≪02≫  ぼくの話は概括すると、企業型のCSRと非企業型のNPOなどの活動を大きくソーシャルキャピタル(1478夜)やソーシャルアントレプレナーの活動だと捉えると、それはひとつには「公・私」のあいだの「共」とは何かということの歴史の総点検にかかわることになり、もうひとつにはロバート・パットナムの定義ではソーシャルキャピタルは「信頼×互酬性×ネットワーク」なのだから、その母型は「贈与と互酬性」にあるだろう、そういう発言にした。 

≪03≫  そもそも「公・私」の観念は欧米・アジア・日本・イスラム圏・南米・アフリカではかなり異なっている。それにともなって「共」も異なってくる。だからまずはそのことをよく知って「新しい公共」とは何かということを考えるべきなのである。 

≪04≫  だが他方では、それらの相違をさかのぼっていくと、貨幣経済の前の実体交換の経済社会が見えはじめ、さらにさかのぼっていくとカール・ポランニー(151夜)の「社会に埋め込まれた経済」が見えてくる。これは「共」の起源なのである。そこにはわれわれが洋の東西を問わず、かつて共通して経験した社会があったはずである。 

≪05≫  そこで、そこをさらに詳しく観察していくのがいい。そうすると、そこに古代各地でとりおこなわれていた「互酬的な贈与の経済」が浮かび上がってくる。それは、その社会を支えていた「誇り」が贈与とつながっていたという世界だ。 

≪06≫  マルセル・モースの『贈与論』が“発見”したことは、このことだった。それはまさしく「共」の母型なのである。 けれども、この「贈与」ということが、今日のビジネスマンや企業社会ではたいそうわかりにくいものになってしまった。だいたい「贈与」という言葉を聞くと、「生前贈与」や「贈与税」などという用語を連想する始末なのである。嘆かわしい。 

≪07≫  モースが「贈与」(gift)と「互酬性」(reciprocity)についての重大な指摘をしたことは、おそらくは多くの者が知っている。贈与の本質が互酬性にあることも、漠然とではあろうけれど、まあ知られていよう。互酬的であるとは、双務的ということだ。 では、モースはこのことをどう重視したかというと、『贈与論』にその意義をこう書いている。「このような道徳と経済が今もなお、いわば隠れた形でわれわれの社会の中で機能していることを示すつもりである」と。つまり当初の社会では道徳と経済が重なっていたというのだ。これはアダム・スミスが『道徳感情論』を著わして社会的理想としていたものだったのだが、その後は『国富論』が歪められて市場一辺倒になってしまい、スミスの願いとは異なる現状がつくられてしまったことだった。でもモースは、それは今なお隠れたかちたで生きていると推測した。 

≪08≫  またモースはさらに「われわれの社会は互酬性の上に築かれている」「そこに人類の岩盤の一つが発見される」「そこには現代の法と経済が生む問題に関するいくつかの道徳上の結論を引き出すことができるだろう」とも書いた。 

≪09≫  一読して見当がつくように、モースが“発見”したことは、古代社会や未開社会でおこなわれている経済的な交換や取引は、必ずしも今日のわれわれが想定するような富の蓄積や利益の確保のためではなく、もっと広範な交換のためだったということにある。 

≪010≫  交換という行為は「礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、舞踊、祭礼、市」などのためだったのだ。そうした広範な交換には、たいていは「互酬的な贈与」が動いていた。そうしなければその社会は成立しなかったのである。 

≪011≫  いいかえれば、経済行為とはそうした広範な社会的な価値の交換の一部にすぎなかったのだ。だからモースは「どんな経済的取引もそれらの中の一つの行為項目にすぎない」とも書いた。 以上のことがおおよそ了解できれば、今日の社会の多くの場面にもそれなりの贈与性や互酬性が見いだせるはずなのだが、いまの学者やエコノミストや企業家たちは、そこに注目しなくなった。バレンタインデーのチョコですら市場戦略のひとつとして見るようになってしまったのだ。 

≪012≫  これは、実に残念なことである。なぜ残念な見方しか横行しなくなったのか。モースの著書が古くさくなったからなのかといえば、そういうことではない。今日の市場社会にどっぷり浸かっているビジネスマンたちのモースを読む目が極度に狭くなりすぎてしまったのだ。 

≪013≫  名著『贈与論』が発表されたのは1925年のことだった。マルセル・モースは1872年のフランス生まれだから、47歳のときだ。 それまでヨーロッパ各国は世紀末のアジア進出やアフリカ分割をへて、いったん第一次世界大戦でぎゃふんとなり、やっと精神的にも立ち直った矢先である。まだナチス台頭や日本の軍部台頭には至っていない。 この時期、心あるヨーロッパの知識人たちは自分たちの過当競争を反省し、自分たちが知らない「世界」や「社会」に目を向けようとした。それが世界の市場や工場が到達していないところの社会文化の調査と研究になっていった。すなわち未開社会や古代社会に目を向けることになった。 

≪014≫  モースも、母親が宗教社会学の泰斗エミール・デュルケムの姉だったので(つまりデュルケムが叔父さんだったので)、その影響のもと、すでにいくつかの社会学や宗教学の論文を書いていた。『供儀論』『呪術』『祈り』などが目立つ。詳しくは『マルセル・モースの世界』(平凡社新書)などを読まれるといい。 

≪09≫  一読して見当がつくように、モースが“発見”したことは、古代社会や未開社会でおこなわれている経済的な交換や取引は、必ずしも今日のわれわれが想定するような富の蓄積や利益の確保のためではなく、もっと広範な交換のためだったということにある。 

≪010≫  交換という行為は「礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、舞踊、祭礼、市」などのためだったのだ。そうした広範な交換には、たいていは「互酬的な贈与」が動いていた。そうしなければその社会は成立しなかったのである。 

≪011≫  いいかえれば、経済行為とはそうした広範な社会的な価値の交換の一部にすぎなかったのだ。だからモースは「どんな経済的取引もそれらの中の一つの行為項目にすぎない」とも書いた。 以上のことがおおよそ了解できれば、今日の社会の多くの場面にもそれなりの贈与性や互酬性が見いだせるはずなのだが、いまの学者やエコノミストや企業家たちは、そこに注目しなくなった。バレンタインデーのチョコですら市場戦略のひとつとして見るようになってしまったのだ。 

≪012≫  これは、実に残念なことである。なぜ残念な見方しか横行しなくなったのか。モースの著書が古くさくなったからなのかといえば、そういうことではない。今日の市場社会にどっぷり浸かっているビジネスマンたちのモースを読む目が極度に狭くなりすぎてしまったのだ。 

≪013≫  名著『贈与論』が発表されたのは1925年のことだった。マルセル・モースは1872年のフランス生まれだから、47歳のときだ。 それまでヨーロッパ各国は世紀末のアジア進出やアフリカ分割をへて、いったん第一次世界大戦でぎゃふんとなり、やっと精神的にも立ち直った矢先である。まだナチス台頭や日本の軍部台頭には至っていない。 この時期、心あるヨーロッパの知識人たちは自分たちの過当競争を反省し、自分たちが知らない「世界」や「社会」に目を向けようとした。それが世界の市場や工場が到達していないところの社会文化の調査と研究になっていった。すなわち未開社会や古代社会に目を向けることになった。 

≪014≫  モースも、母親が宗教社会学の泰斗エミール・デュルケムの姉だったので(つまりデュルケムが叔父さんだったので)、その影響のもと、すでにいくつかの社会学や宗教学の論文を書いていた。『供儀論』『呪術』『祈り』などが目立つ。詳しくは『マルセル・モースの世界』(平凡社新書)などを読まれるといい。 

≪015≫  40代半ばにさしかかったモースは、人類学者のブロニスワフ・マリノフスキーが1922年に発表した『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫)を読んで、心底驚いた。 そこには、トロブリアン諸島に当時まだ残存していた儀礼的な交換行為「クラ」(kula)やアメリカ太平洋北西部の狩猟採集民のあいだで交わされてきた相互贈与行為「ポトラッチ」(potlach)などが、ありありと報告されていた。  

≪016≫  クラというのは、この地域の共同体のことで、かつ交易観念であって財貨の観念であり、同時にこれにかかわる者の価値観をいう。クラ交易には「赤い貝の首飾り」と「白い貝の腕輪」が使われた。  

≪017≫  クラ共同体Aから「赤い首飾り」がBに対して贈与されると、Bは「白い腕輪」を贈る。このループがトロブリアン諸島の全般に及び、「赤い首飾り」が時計まわりにめぐっていき、「白い腕輪」が反対まわりでめぐりきるのに、2年から10年がかけられるのである。そのあいだ、すべてのクラの参加者全員が互酬的な関係をまっとうした。 

≪018≫  ポトラッチはネイティブ・インディアン語で「贈り物」のことをいう。各部族は子供の誕生、命名、成人儀式、婚儀、葬儀、追悼などのたびに、さまざまな物品によるポトラッチをおこなった。部族間にも部族内にも競争はあるのだが、ポトラッチはその競争にも互酬性をもたらしていた。 

≪019≫  やっぱり、そうだったのか。モースはこのクラやポトラッチの存続に大きく触発され、その互酬的行為の類縁に、さらに古代インド、古代ローマ、古代ゲルマンなどの法と習俗の分析を加えて、総じて「贈与の経済社会」を鮮やかに浮上させていったのである。 

≪020≫  こうして『贈与論』が誕生した。あくまで未開社会や古代社会の交換儀礼を扱った論考だったけれど、その影響はきわめて大きかった。 というのもマリノフスキーが「クラ」や「ポトラッチ」を物々交換を主眼とした経済的行為とみなしたのに対して、モースはそこに宗教・法・道徳・経済・人事などの「全体的社会事象」が認められるのではないかと推理して、これは集団的な贈与を通じて財とサービスとが交換される「全体的な給付」なのだと睨んだからだった。 

≪021≫  この点こそモースがすぐれて鋭かったところである。互酬的贈与の習慣を社会文化全般の“やりとり”として捉えたのだ。のちにレヴィ=ストロース(317夜)に影響を与え、その文化人類学を「野生の社会」に向かわせたのは、モースにこういう大きな観点があったせいだった。 

≪022≫  モースが分析した贈与行為は、次の3つの特色をもっていた。①贈り物を与える義務、②贈り物を受ける義務、③お返しの義務、である。これらが繰り返しループされるのだ。   この「義務」のところを「社会」とか「社会行為」と読み替えてもいい。すなわち、①贈り物を与える社会、②贈り物を受ける社会、③お返しをする社会、というふうに。わかりやすくいえば、①「与える」、②「受ける」、③「返す」というふうになる。 

≪023≫  のちにモーリス・ゴドリエは『贈与の謎』(法政大学出版局)で、モースは第4の義務(社会)を忘れている、それは「④神々や神々を代表する人間に贈与する義務(社会)」であると付け加えた。なるほど、これは当たっている。たしかに人類は人と人、人と集団、集団と集団とのあいだの価値の交換の前に、神や仏にその価値の取引を確認していたはずだったろう。これは「捧げる」という行為になった。 

≪024≫  それはともかく、モースが浮上させたこのような「互酬的贈与」がおこなわれていた社会には、贈ることとお返しすることを通して、われわれが失いつつある何かの社会的な価値行為がひそんでいたわけなのである。これは現代ふうにいえば、どうみてもソーシャルキャピタルがダイナミックに動いていたということだ。 モースはそのソーシャルキャピタルを生み出す贈与こそ、社会経済の指標になりうるとみなしたのである。 

≪025≫  しかしながら、今日の資本主義的な競争と利益の市場原理にあまりに冒された目には、この指標が見えにくくなっている。ひょっとして千夜千冊の読者諸君もそうなのではないか。 かくて、いまでは「贈与の経済学」はかなり旗色が悪いままにある。バレンタインデーからクリスマスプレゼントまで、お中元からお歳暮まで、誕生日祝いから卒業祝いまで、今日なお「贈りもの」(ギフト)はそれなりに流行しているのだが、それはあくまで資本主義市場を賑わせる“商戦”であって、モースが注目したような贈与文化ではないと受け取られてきてしまったのだ。 

≪026≫  欧米型のロジックによる考え方が身につきすぎていると、これらをモースの議論にあてはめにくいのは当たり前だ。グローバル資本主義の社会では、マネーゲームと結び付いた高度情報システムがゆきわたり、ポリティカル・コレクトな平等主義と「合理ごりごりのコンプライアンス」と監視カメラががんじがらめになって、社会のどこにも付きまとっている。 こんな社会で「贈与」などと言い出せば、どこかで悪いことをしているとしか受けとられない。ときには「賄賂」と勘違いされることさえ少なくない。まったく困ったものである。 

≪027≫  ところがぼくの見方では、贈与や互酬性の感覚はむしろ日本の社会経済史の特徴にはむしろよくあてはまるのだ。 こういうことはよくあることで、欧米社会が見捨てたものを欧米の知識人が取り戻そうとしたとき、それはもともと日本にあったものだと感じることが少なくない。わかりやすい例でいえば、少量多品種や軽薄短小や健康志向やエコ風潮や「もったいない」などだ。あるいは「クール」や「スマート」も、ぼくからすると日本的な価値感覚なのである。なぜ、そう見えるのか。 

≪028≫  ぼくはその理由を、かつての日本が長らく「方法の国」だったからだとみなしている。しかもその特徴がいまのところはまだ、日本のそこここに残響しているからだとも見ている。詳しくは『日本という方法』(NHKブックス)や『日本数寄』(ちくま学芸文庫)や『連塾・方法日本』全3冊(春秋社)を読まれたい。 が、そんなことを言われても、実感なんてわかないよという諸君には、ちょっとヒントを出しておく、方法の国としての日本のことを考えるには、その入口として、いまでも使っている言葉のあれこれを思い出してみるといいだろう。贈与関連の言葉を例にする。 

≪029≫  たとえば「お裾分け」である。「お裾分け」か、ああ、そういう言葉があったよね、ではありません。 貰ったものや贈られたものの一部を親しい者や近隣の者に再配分することをいう。これなど、たいへん互酬的な贈与感覚であろう。そもそも日本では「分ける」が「分かる」で、分けられたから「わかった!」なのである。 たとえば「心ばかりのものですが」とか「粗品ですが」という挨拶だ。ここにも、贈呈者が提供する者の気分を強制したくないという、格別な日本的な心情がはたらいている。そんなふうに相手に負担を与えないところが、日本的な贈与感覚なのだ。 

≪030≫  また、たとえば「気前がいい」なんて言葉もある。物惜しみしないこと、出し惜しみをしないことを言うのはわかるだろうが、そのことがその人物の器量の大きさにつながっているところがはなはだ日本的で、しかもそれが「気前」という「持ち前」に当たっているという意味を含むのだ。その「持ち前」を惜しまずに相手に提供しているから「気前がいい」わけなのである。 あるいは「相当」などという言葉もある。この言葉はちょっと難しいかもしれないが、なんとなく意味はわかるだろう。日本の中世では人や物が釣り合いがとれることを「相当している」と言った。『愚管抄』にもよく出てくる。これは実は、釣り合いのとれた対称的な贈答行為のやりとりに用いられた言葉なのである。それがのちのち釣り合いをとった行為に対して、あいつは「相当なもんだ」とか「相当な奴だ」という褒め言葉に変じていったのだ。 

≪031≫  こんなふうに、ふだん使っている日常の言葉から日本の奥に切り込んでいく入口がつかめれば、なんとなく「方法日本」の“日本という方法”のコアなニュアンスが見えてくるにちがいない。 

≪027≫  ところがぼくの見方では、贈与や互酬性の感覚はむしろ日本の社会経済史の特徴にはむしろよくあてはまるのだ。 こういうことはよくあることで、欧米社会が見捨てたものを欧米の知識人が取り戻そうとしたとき、それはもともと日本にあったものだと感じることが少なくない。わかりやすい例でいえば、少量多品種や軽薄短小や健康志向やエコ風潮や「もったいない」などだ。あるいは「クール」や「スマート」も、ぼくからすると日本的な価値感覚なのである。なぜ、そう見えるのか。 

≪028≫  ぼくはその理由を、かつての日本が長らく「方法の国」だったからだとみなしている。しかもその特徴がいまのところはまだ、日本のそこここに残響しているからだとも見ている。詳しくは『日本という方法』(NHKブックス)や『日本数寄』(ちくま学芸文庫)や『連塾・方法日本』全3冊(春秋社)を読まれたい。 が、そんなことを言われても、実感なんてわかないよという諸君には、ちょっとヒントを出しておく、方法の国としての日本のことを考えるには、その入口として、いまでも使っている言葉のあれこれを思い出してみるといいだろう。贈与関連の言葉を例にする。 

≪029≫  たとえば「お裾分け」である。「お裾分け」か、ああ、そういう言葉があったよね、ではありません。 貰ったものや贈られたものの一部を親しい者や近隣の者に再配分することをいう。これなど、たいへん互酬的な贈与感覚であろう。そもそも日本では「分ける」が「分かる」で、分けられたから「わかった!」なのである。 たとえば「心ばかりのものですが」とか「粗品ですが」という挨拶だ。ここにも、贈呈者が提供する者の気分を強制したくないという、格別な日本的な心情がはたらいている。そんなふうに相手に負担を与えないところが、日本的な贈与感覚なのだ。 

≪030≫  また、たとえば「気前がいい」なんて言葉もある。物惜しみしないこと、出し惜しみをしないことを言うのはわかるだろうが、そのことがその人物の器量の大きさにつながっているところがはなはだ日本的で、しかもそれが「気前」という「持ち前」に当たっているという意味を含むのだ。その「持ち前」を惜しまずに相手に提供しているから「気前がいい」わけなのである。 あるいは「相当」などという言葉もある。この言葉はちょっと難しいかもしれないが、なんとなく意味はわかるだろう。日本の中世では人や物が釣り合いがとれることを「相当している」と言った。『愚管抄』にもよく出てくる。これは実は、釣り合いのとれた対称的な贈答行為のやりとりに用いられた言葉なのである。それがのちのち釣り合いをとった行為に対して、あいつは「相当なもんだ」とか「相当な奴だ」という褒め言葉に変じていったのだ。 

≪031≫  こんなふうに、ふだん使っている日常の言葉から日本の奥に切り込んでいく入口がつかめれば、なんとなく「方法日本」の“日本という方法”のコアなニュアンスが見えてくるにちがいない。 

≪032≫  そもそも日本は縄文このかた唯一絶対神をもたず、多神多仏で、固有文字のリテラシー(読み書き)を漢字から借りて工夫してきた国だった。 唯一絶対のトップディシジョンがないということは、八百万(やおよろず)なたくさんの見解があるということで、そこでは複数意見の調整と複合的編集こそが大切なディシジョンメーキング・プロセスになるということだ。このことが古代の朝廷にすでに、中国的な大極殿と日本的な紫宸殿を用意させた。瓦葺きのスレートの大極殿と、檜皮葺きの白木高床式の紫宸殿の両方を用意させた。 

≪033≫  それゆえ「まつりごと」も、一方では政事を、他方では祭事をあらわし、リーダーシップにおいても天皇と関白、天皇と将軍を並列させ、つねに象徴を交換することを保てるようにした。明治維新だって立憲君主内閣議員制というもので、天皇と内閣を相い並ばせたわけである。それはいまなお続いている。 

≪034≫  本来はアジア的な理性の骨格となるはずの儒教的な価値思想についても、その適用にあたっては中国的なデファクトスタンダードを組み直し、礼儀や義理を全面に出すようにした。バレンタインの「義理チョコ」に「義理」という言葉がついているのは、たいそう日本的な返礼感覚なのである。あらためて源了圓の『義理と人情』(233夜)を読んでもらいたい。いや、義理だけでもなかった。さらにはそこに歌道・茶道・華道といった礼を重んじる「道」なんてものも含蓄できるようにした。 つまり日本は相手や他者を取り入れることにおいても、すぐれて編集的だったのである。 

≪035≫  そこへもってきて、この国の風土は季節がこまやかに移る。そのため、微妙な変化や変容にはその都度の価値感覚が求められてきた。 桜もゆっくり蕾をふくらませるところ、ちらほら咲き初めるところ、一斉開花のあとはすぐに散るところ、そのそれぞれを俳諧のような短いメッセージで微妙に詠み伝えるのを好んだ。そういう国だった。「世の中は三日見ぬ間の桜かな」なのだ。かくして5月に入れば隣りの奥さんの衣服が白くて薄くなり、6月には雨と紫陽花が美しく、それらをそのたびに「旬」な価値観として交わしあったのである。 この国を、以上のように、ごくすなおに日々過ごしつつ現在と歴史をまたいで日本的な価値感覚の出どころを観察しさえすれば、そこには固定的な契約関係が持続するというよりも、その都度の「気持ち」の交換こそが大切にされてきたということが、わかるはずなのだ。 

≪036≫  というわけで、こういう風土や歴史のなかでは、何かを贈るとかお返しするということは、素封家の婚礼や葬儀をべつにすれば、とくにおおげさではなくなってくる。 お歳暮や中元も、お祝いや香典も、余りものの「お裾分け」も、金品の多寡よりも水引の結びぐあいや包む風呂敷の色合いで、何かを告げることができたのだ。3人分のラーメンを奢っても、それで十分に「気前がいい」わけなのだ。日本では、もともと贈与は特別な営みというよりも、なんとはなしの前提であり、互酬的な関係もふだんの付き合いからして「お互いさま」なのである。 

≪037≫  けれども昨今の知識人やビジネスマンたちは、ついつい欧米型の合理で日本を見ようとしすぎたようなので、そうした日本的な贈答感覚がいまやソーシャルキャピタルとかCSRと名を変えているだけなのに、いまだに市場原理と照らし併せて考えすぎて、日本的な社会関係資本と贈与文化をつなげそこなってきたわけだ。 

≪038≫  諸君ももう少し、かつての日本の社会文化を彩ってきた贈答文化の例を知ったほうがいいだろう。 たんに贈るだけなのではない。日本人はそこに気持ちをこめた。過剰になりすぎないようにも努めた。贈られるほうも、たんに貰うだけではなかった。そこには「オウツリ」や「オタメ」や「ツトメ返し」の習俗があった。オウツリは「お移り」の意味で、同等の価値感覚の柔らかな移動の気分があらわれている。オタメは「お為」であって「お貯め」なのだ。過剰なものを分け、そうすることが自他とともに為になるというふうに感じあったのである。 

≪039≫  これらはいわゆるお返しだが、柳田国男はこのような習俗を「予期せられた反対給付」と考えた。今日の民俗学や文化人類学では「象徴的返礼」だと考えられている。 それでは以下に、伊藤幹治の『贈与交換の人類学』(筑摩書房)や『贈答の日本文化』(筑摩選書)、桜井英治の『贈与の歴史学』(中公新書)などを参考にして、少しばかりだが、日本的な贈答文化の具体的な例を案内しておく。 

≪040≫  これは昭和10年代の例である。野口豊による埼玉県桶川町の調査の例、下平かりほによる長野県塩尻町の調査の例、坂本正夫の高知県西土佐村の例をわかりやすくまぜておく。当時、次のような贈答が行き交っていた。「→」はお返しをあらわす。  

≪041≫ 年始(1月) 埼玉:紙や手拭いに土産物を添えて贈る。長野:串柿・山鳥・雉などを贈る。→贈られたものに見合うものを持参して年始に行く。高知:近い親戚に餅・手拭い・末広(扇子)などを贈る。→正月中に同じものを返す。 

≪042≫ ハタキゾメ(1月) 高知:門松に供えた注連縄の穂を落として、他の米を加えて粉にしたものを重箱に入れて隣近所や親戚に配る。  

≪043≫ モチサマ(1月) 高知:14日に搗いた餅を親戚や近所に配る。→お返しに自分の家で搗いた餅を贈る。 

≪044≫ 雛の節句(3月) 埼玉:長女が出産した家に親戚と近所が雛を贈る。→お返しに菱形の草餅を贈る。長野:初の女児に雛人形を贈る。→お返しに餅を贈る。高知:菱餅を重箱に入れて贈る。→ツトメ返しをする。 

≪045≫ 木綿坊主(4月) 埼玉:新しい親戚に草餅やおはぎを贈る。→お返しに同じく草餅やおはぎを贈る。 

≪046≫ 鯉節句(5月) 埼玉:長男の生まれた家に鯉のぼりを贈る。→お返しに菱形の鏡餅を贈る。→そのお返しに大豆を贈る。長野:内飾り・のぼり・矢車を贈る。→お返しに餅を贈る。高知:のぼりを贈る。→お返しに餅をツトメ返しする。 

≪047≫ 夏振舞い(6月) 埼玉:新嫁・新婿は小麦粉・砂糖などを持って里帰りする。→里ではその小麦粉・砂糖で饅頭をたくさんつくって、これを婚家に持って帰らせる。 

≪048≫ 盆(7月) 埼玉:新盆の家では隣家と姻戚に餅を贈る。→餅の供養にあずかった家は盆棚に供花とともに供える。長野:新盆の家に灯籠・線香・菓子・果物・米粉を贈る。→その家がオウツリする。高知:親に柏餅・おはぎ・うどんを贈る。 

≪049≫ ショウガ節句(8月) 埼玉:新嫁・新婿は土産を実家の親に贈る。→親たちは見合うお返しをする。 

≪050≫ 八朔(8月) 高知:親と兄弟に餅や焼き米を贈る。 

≪051≫ お日待(9月) 埼玉:餅を贈る。→お返しに餅を贈る。 

≪052≫ 七五三(11月) 埼玉:嫁の実家は子供に衣類を贈る。 

≪053≫ 霜月遊山(11月) 埼玉:新嫁・新婿はそば粉を持参して親に振舞う。 

≪054≫ 歳暮(12月) 埼玉:鮭の干物を嫁の実家と仲人に贈る。長野:年内に世話になった人に尾頭つきの魚を贈る。→見合ったものをツトメ返しする。高知:足袋・下駄・衣類を贈る。 

≪055≫ アラミタマ(12月) 年内に新仏があった家に米粉一升・線香・ロウソク・そーめんを贈る。 

≪056≫  ふうん、こんなにあったのかと思うのか、こんなことはもはや都市社会では見向きもされていないと思うかは、諸君の勝手だが、それなら尋ねるが、諸君は親しい者の葬儀に香典を用意しないのか。 

≪057≫  また、葬儀で香典を貰った相手に「お返し」をしないですませていられるだろうか。あるいは結婚式の披露宴の出席者に「引き出物」を渡さないですませるだろうか。このあたりが、日本のビミョーな贈答文化感覚の曳航になるわけなのである。 

≪058≫  各地には、このほか出産や婚礼を祝うための贈与互酬の儀礼が、いろいろあった。参考までに、塩尻に見られる平均的な例をあげておく。 

≪059≫ 帯祝い(妊娠5・7・9カ月) 帯地、スルメ、紅白の布を贈る。→黒豆を入れた強飯(おこわ)を重箱に入れて返す。 

≪060≫ 三日湯(出産の3日目の産湯) 近親者・近隣者が鰹節、おはぎ、カンピョウ、鯉、イナゴ、布地を贈る。→寄贈者を招いて酒宴を開き、小豆飯(赤飯)を贈る。 

≪061≫ 宮参り 着物・布地などを贈る。→寄贈者を招いて酒宴を開き、赤飯を持たせて帰す。 

≪062≫ 誕生 近親者が履物・布・反物を贈る。→寄贈者を招いて酒宴を開いて餡餅を重箱に入れて贈る。 

≪063≫ 帯結び(3歳の祝い) 里親は帯地・着物を贈り、近親者は帯地・布などを贈る。→赤飯を重箱に入れて返す。 

≪064≫ 手締め 嫁の里へ酒肴料・風呂敷・末広を贈る。 

≪066≫ 長熨斗(ながのし) のしアワビ。  目録 結納品の品名と数量を書く。  金包つつみ 結納金を入れる。もしくは金額を書く。  新郎側は「御帯料」、新婦側は「御袴料」。  勝男武士(かつおぶし) 鰹節。  寿留女(するめ) スルメ。  子生婦(こんぶ) 昆布。  友白髪(ともしらが) 白い麻布。   末広(すえひろ) 男持ちの白扇と女持ちの金銀扇子の一対。  家内喜多留(やなぎだる) 酒樽。  

≪067≫  ちなみにぼくが育った関西では少々異なっていて、結納金を包むものは「小袖料」、鰹節にあたるものは「松魚料」などと言うほか、婚約指輪のための「結美和」、尉と姥の一対の人形を贈る「高砂」などが加わる。 

≪068≫  むろん略式もある。熊本県では結納は「茶包み」で、お返しが「戻り茶」だった。これらの婚姻儀礼には、互いがほほ同時に取り交わす共時的贈答と、互いの贈答がずれる時差的贈答があったとみなされている。 

≪069≫  この程度の例にしておくが、これらを見て「なんとも面倒な約束事だ」と感じる諸君も多いはずである。 

≪070≫  たしかに面倒なやりとりである。実はそのように感じたのは諸君だけではない。近代日本の政治家や行政府や識者たちも、何度もこれらは「虚礼」であると判定した。それもけっこう早い時期からだ。 

≪071≫  すでに明治20年(1887)には、穂積陳重・外山正一・菊地大麓らが発起人となって「贈答廃止会」を結成し、お年玉、中元、歳暮、年賀祝いをはじめとする“過剰行為”を改め、「生活の合理化」に向かうことを提言したし、明治後期には板垣退助・西郷従道らが呼びかけて「風俗改良会」組織され、「虚飾無用の物品贈答を廃止すべし」と声を上げた。 

≪072≫  大正9年(1920)にも、伊藤博邦らが「生活改善同盟」を発足させて、冠婚葬祭・贈答行為・見舞訪問の3つの部門をもうけ、そこに細目をつけてまでして改善を徹底させようとした。これらは戦後になると、ついに政府主導の「新生活運動」になった。最初は敗戦後の貧困や苦境に照応したものだったが、やがて昭和30年(1955)には財団法人「新生活運動協会」(のちの「あしたの日本を創る会」)までできて、香典の廃止、婚礼の簡素化、葬儀の略式化などを実践しようとした。 

≪073≫  では、それでどうなったかというと、かえって塩月弥栄子のカッパブックス『冠婚葬祭入門』が700万部の大ベストセラーになり、玉姫殿や霊園販売や『ゼクシィ」がビジネスチャンスを掴んでいったのだ。 

≪074≫  ざっとモースの“発見”した互酬的贈答が日本のなかでどんな恰好でおこなわれていたかを案内したが、さて、問題はこんなことを現在ではどう見ればいいかということだろう。かつての習俗など、諸君は現在の社会では通用しがたい、解釈しがたいと思うだろうか。 

≪075≫  しかし、それは心配に及ばない。まずは現在の社会学では、贈与を私的贈与と公的贈与に分けて、私的贈与を持続的な関係がある個人間の贈与、公的贈与を集団への寄付もしくは寄与と捉えるようになっている。さらにボランティア活動などを「労働の贈与」、献血を「血液の贈与」、臓器移植を「臓器の贈与」というふうにも捉えればいい。 

≪076≫  東京の赤十字献血センターが、血液を安定的に確保するため、献血者に従来は牛乳・清涼飲料水・ハンバーガー券・菓子などをサービスしていたのが、それでは献血離れに歯止めがかからないので、最近ではネイルカラー、マッサージ、タロット占い、読書棚などを提供するようになった。これは社会民俗学的には血液の提供者の何かに「ツトメ返し」をもたらそうとする行為にあたる。 

≪077≫  ボランティア活動は、もともとは互酬的ではなかった。一方的に無償の物品や労務を提供するものだった。しかし3・11以降の事情でもわかるように、実は被災者側だって「お返し」をしたいわけなのだ。助けられっぱなしではなくて、どこかで互酬的でありたいのだ。おそらく今後のNPO活動はそうした新たな互酬性についての輻湊的な思想や複合的なプログラムを、きっともつことになるだろう。 

≪078≫  視点を大きくして贈与関係を捉える方法もある。すでにボールディングが『贈与の経済学序説』で、ディロンが『贈与と国家』で指摘したように、たとえばマーシャル・プランやODAのような海外資金援助システムも、巨視的には贈与なのである。 

≪079≫  かつて梅棹忠夫も、開発援助は「無償の贈与」のモデルとすべきだと提案したことがある。梅棹はその場合、援助する側には「文明の伝達者の意識」をもつべきだと付け加えた。 

≪080≫  このように、贈与はいまなお大小さまざまな場面で生きている。ぼく自身は本を贈ることを心がけてきた。諸君もいろいろ探されるといい。ぼくの見方ではコンピュータネットワーク上のフリーウェアなどやネットワーク上の企業コミュニティなども、一種の互酬的贈与の成果だったと思っている。 

≪081≫  だから経済行為を贈与的に捉えなおしたり、そのしくみを工夫したりすることは、それほど難儀なことではないのである。いずれマイクロクレジットの分野やクラウドファンディングの分野などにも新たな贈与の経済学が誕生してくるだろうと思う。 

≪082≫  では、何が新たな問題になるべきかといえば、むしろこれからの問題は、資本主義社会が容易に回復しえないことに注目するべきである。社会や企業がもたらす鬱屈や喪失に対して、これを回復させ、何かに“相当”させる新たな贈与価値のしくみが、そろそろ胚胎してくるべきなのだ。そこを編集するべきなのだ。 

≪083≫  このことについては、詳しいことは述べないが、千夜千冊でもとりあげた安田登の『ワキから見る能世界』(1176夜)を参照してほしい。そこに意外なヒントがある。能のワキはシテの残念や無念を受け止め、それをはらすための役割だということがここには書いてあるのだが、いまやそういうワキの贈与感覚こそが要請されているはずなのだ。 

≪084≫  おそらく本当の価値観の互酬性を、今日の社会はほしがっているのである。それはポイントカードでは得られない。グルナビでも得られない。価値観の相当と充当は収入だけでも得られない。 

≪085≫  ポリネシアの「マナ」(大切にするもの)についての記述をあらかた了えて、モースはこう、書いていた。「贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである」。 

生きられる世界を感得するために

DX・AI革命に具えて

世界システムモデルが破壊する農の多様な未来を

 高谷さんが異を唱えた普遍主義とは、資本主義経済システムが世界システムのモデルだという考え方のことをいう。たいてい科学や合理の仮面をかぶっている。エマニュエル・ウォーラスティーンの「近代世界システム論」などがその代表的な見解のひとつだが、アメリカという国家自体もそうした普遍主義を自国の安定のためのロジックにつかう。 

 高谷さんの故郷は近江である。生活のいちばん小さな単位は「村」ではなくて「字」(あざ)である。行政村の下の単位が字になる。高谷さんの故郷の字は約130戸でできている。 この字にオモシンルイがいる。字に住む濃い親類のことだ。父が死んだという知らせをうけるとすぐにオモシンルイが駆けつけるついで同年が駆けつける。小学校の同級生だ。同年は青竹と杉の若葉をつかった葬儀用の籠を作り、そこに餅を飾る。こういうことが冠婚葬祭のたびにおこる。そこに祝儀や宴や進物や年賀や盆が組み合わさる。 この字が取水のための井堰をもち、それらがいくつか連なって水利郷をつくり、さらにさらに大きな「村」をつくる。そこに神社や寺や祭りの範囲が組織されていく。これが日本の農業共同体のひとつのモデルなのである。 

 こうした趨勢のなか、日本の農業も近代化の波をうけることになったのである。しかし幕藩体制の日本は頑としてイギリス型の産業的農業を受け入れなかった。それが日本の農業文化の今日までつづく基盤をつくった。 

 イギリスが綿花や毛織物を資本主義のモデルにしつつあったとき、日本は国を富ませる基本を徹底して農業においた。幕府は農民を土地に縛りつけ、農業生産を上げさせた。農民には苛酷な労働が課せられたが、これを国の方針とみると、イギリスが植民地を利用してとった方針とはまったく異なるものだった。 

 このようになってはいない共同体は世界中にいくつもある。しかし、それらを比較し整理していくと、高谷さんのいうアジア的な世界単位の母型はそんなに多様ではないことがわかる。絞れば、①生態適応型の世界単位、②ネットワーク型の世界単位、③大文明型の世界単位になる。①は東南アジア文明の山地やジャワ文明やかつての日本文明の農村部にある。②は海の民や草の民がつくっている。③は中国やインドの社稷共同体やカースト制度のなかにある