≪01≫ 魅力に富んではいるが、問題作である。円環的で自発的であるけれど、閉じている。閉じているのに、自律的でダイナミックである。発売されてすぐに思想界でも話題になったけれど、本書の意図がどれほど正確に伝わっていけるのか、予想しにくい。最初に読んだとき、そんな印象をもった。いくつか理由があるが、気がかりなことなど綴っておきたい。
≪02≫ マトゥラーナとヴァレラが提案しているのは、トポロジカルな理論生物学によって推理できる自律的・自己言及的・自己構成的なシステムはどういうものでありうるのかということだった。このシステムのことを「オートポイエーシスとしてのシステム」というのだが、まずもって驚かされるのは、二人が(とりわけマトゥラーナが)このシステムを閉鎖系とみなしたことだった。本書が書かれた1980年前後といえば、生物学や生物物理学がいよいよ生命的情報系を「非平衡開放系のシステム」として解読を進めていた時期で、ちょっと気が利いた研究者ならば生命システムを閉鎖系として扱うなんてことは絶対にしなかった。それをマトゥラーナたちが平然と、自律的で自己言及的で自己構成的なシステムは閉鎖系であると言い出したのだ。
≪03≫ オートポイエーシス(autopoiesis)とは何かということを理解するには、このシステムがなぜ閉鎖系とみなされたのかということから始めざるをえない。
≪04≫ 本書がオートポイエーシス・システムの特徴として、くりかえしあげているのは次の4点だ。①自律性、②個体性、③境界の自己決定、④入力も出力もない。
≪05≫ この特徴だけから、このシステムが閉鎖系であることは導き出しにくい。生物を開放系のシステムとしてとらえるばあいだって、生命システムは環境の影響をうけつつもすべてを自己調整し自己維持しているのだから、そこからいえば当然に①自律的であり、そうした生命は遺伝情報の継承と物質代謝によって自己同一性を保つようにしているのだから、多くのばあいは②個体性をもっている。また、外界とはあきらかに一線を引いて摂取や排泄をおこなっているのだから、まさに③境界を自己決定している。
≪06≫ ここまでは開放系としての生物がすべておこなっていることなのである。だから閉鎖系とはみなしがたい。ところが次の、④の入力も出力もないというのが奇妙だ。入力も出力もないのならまさに閉鎖系であろうということだが、どうみても生物は入力と出力をしているはずで(食物を摂取し排泄していることも新陳代謝をしていることも)、何をもって入力と出力のない系を想定したのかが、すぐには理解しがたい。いったい何が閉鎖的で、かつ自律的なのか。
≪07≫ ここまでは開放系としての生物がすべておこなっていることなのである。だから閉鎖系とはみなしがたい。ところが次の、④の入力も出力もないというのが奇妙だ。入力も出力もないのならまさに閉鎖系であろうということだが、どうみても生物は入力と出力をしているはずで(食物を摂取し排泄していることも新陳代謝をしていることも)、何をもって入力と出力のない系を想定したのかが、すぐには理解しがたい。いったい何が閉鎖的で、かつ自律的なのか。
≪08≫ マトゥラーナはサンティアゴ出身、チリ大学で医学と生物学を修め、その後はロンドン大学とハーバード大学で神経生物学に向かい「認識の生物学」をめざして神経系の研究に携わってきた。ハトの網膜反応を研究して、外界の物理的刺戟には容易に対応していないことに気づいたようだ。そこで神経系モデル(ニューロン・ネットワークのモデル)を決定論的なシステムとして論理化していった。神経系のモデルによってオートポイエーシス理論の基礎を組み立てたのだ。実際にも本書で例証されている科学は神経系(神経細胞論)だけである。神経系以外ではない。
≪09≫ どんなモデルだったかというと、ニューロン(神経細胞)を「自己言及する代謝と遺伝の単位」とみなした。すなわち、ニューロンはそれ自身の作用(これをオートポイエーシスの初期の発現というのだが)を通じて自己の境界を決定しているというふうにみなしたのだ。ついで、そのようなニューロンの組み合わせで成立している神経系を、動きを受け入れる集積器領域(樹状突起と軸索の一部が構成する領域)と動きを生み出せる効果器領域(シナプス領域の広がり)とに分けた。用語はいかめしいが、ここまではそれほど特別の見方ではない。
≪010≫ しかし、ここからがオートポイエーシス理論にとっての重要な規定になるのだが、この2つの領域でおこっている求心的な作用(これが「入力」にあたる)と遠心的な作用(これが「出力」にあたる)とは、両者が有機的につながりつつも、互いに自己決定をするためのカップリング・システムになっているという。
≪011≫ これは何を意味しているかというと、ニューロン・ネットワークはそのどの部分をとっても内部も外部もないということ、つまりは入力も出力もしていないということ、いいかえればニューロン・ネットワークはどの部分にも原因をもたず、そのシステムはシステム自体の作動をもってすべての特徴としているということである。もしそうなっているのだとすれば、ニューロン・ネットワークはなるほど閉鎖系なのである。つまりは閉鎖的に自律しているがゆえに、神経系はオートポイエーシス・システムなのだ。
≪012≫ マトゥラーナ自身の説明によれば、こうなる。科学の言葉がほとんどなくて、システム理論の言葉ないしは社会哲学用語になっているのがわかりにくいのだが、どうもマトゥラーナはあえてそのように神経系を社会哲学的に記述することをこそ目標にした。ざっと、こんなふうだ。
≪013≫ 神経系の記述(ニューロンの特性など)
≪014≫ かなり大胆な説明だ。これだけの説明でピンとくるならいいけれど、神経系が閉鎖的で自律的な相貌をもっていることは、ニューロン・ネットワークの細部を研究してきた者たちから言わせると、なぜそのことばかりを強調するのかが、わからない。
≪015≫ だいたい、この説明は既存科学の言葉ではない。というよりも多くの生物学者にとっては、神経系を粗視的にわざわざ閉鎖系とみなしたり自律系とみなしたりする程度のことに、いったい何のアドバンテージがあるのかがわからなかったのである。ぼくも長らくそのようにみなす理論的なメリットを感じにくかった。
≪016≫ しかしマトゥラーナは(ヴァレラも)、そのような疑問にはいっさい答えなかった。ひたすら神経系モデルで萌芽したオートポイエーシス・システムを細胞全般の上に、生命過程の全般に、さらには社会システムにまで適用しようとする。神経系のモデルはたちまちすべてのシステムに拡張されていったのだ。二人がふたたび共著した『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)がその試みの拡張を告げていた。
≪017≫ ともかくもこうして、システムを生命理論に特有な非平衡開放系ととらえるのではなく、むしろ自律的閉鎖系であるとみなすことの魅力が次々に議論の俎上にのっていったのである。そこでは神経系のことは、棚に上げられていた。そして、構成素が構成素を産出するシステムが、つまりは自己産出系というシステムが、システムを自己構成するシステムが、つまりは新たなシステム理論の相貌の特色が、熱っぽく語られていったのだ。
≪018≫ これでマトゥラーナとヴァレラの意図ははっきりした。二人は「生命システムは有機的な機械だ」とみなしたのだ。オートポイエーシス・システムとはオートポイエティック・マシンシステムだったのだ。
≪019≫ オートポイエーシスという概念は、マトゥラーナとヴァレラが1970年代半ばあたりにおもいついた造語だ。アリストテレスが設定した認識学習と行為表現のための重要な3つのスコープ「テオリア・プラクシス・ポイエーシス」のうちのポイエーシスに注目して、そこにオートがくっついた。
≪020≫ テオリア(teoria)は「観察・観相・認識」を、プラクシス(praxis)は「実践・行動・実行」を、ポイエーシスは「制作・生産・創作」をあらわしている。だからそのうちのポイエーシスにオートがくっついたオートポイエーシスは、直截には自己制作性とか自律的制作性を意味するものとなった。
≪021≫ アリストテレスにとって、ポイエーシスはテクネー(技)やアルス(芸)がかかわるすべてのことをさしている。技能から芸術までがポイエーシスに入る。アリストテレス自身は詩作をポイエーシスの眼目にしていたが、制作・生産・創作のすべてがポイエーシスなのである。制作というからには基本的には自己制作であるが、チームで制作してもそこに「想定された自己」がないかぎりは制作にならないので、ポイエーシスには「一人の」とか「単独の」という意味はない。
≪022≫ しかし、特別にオートの意味が強調されているわけではないので、マトゥラーナとヴァレラはあえてオートポイエーシスという造語に踏み切ったのだったろう。自動制作性とか自律産出性とか自己構成性といったニュアンスがある。
≪023≫ こういうふうなオートポイエーシス・システムの仮説的正体がだんだんあきらかになってくると、マトゥラーナとヴァレラの無謀とも頑迷ともいうべき仮説は、あれよあれよといううちに話題になった。とくに、それまでまったく顧みられることがなかった「システムの自己言及性」の雄弁性が強調されていった。
≪024≫ 紹介するのが遅れたが、フランシスコ・ヴァレラもチリ大学で生物学を修め、ハーバード大学のウィーゼルのもとで神経生理学を研究して、チリ大学やCNRS(フランス国立科学研究センター)に依拠しながら、マトゥラーナとの共同研究に参画しつづけた。マトゥラーナより20歳ほど若く、早くから仏教に関心を示した。状況に埋めこまれた身体のめざめを探求してエナクティヴィズム(enactivism)にもとづいた仏教的実践と脳科学の結合の可能性にとりくみ、一人称による神経現象学(neurophenomenology)を提唱していたのだが、残念なことにC型肝炎が悪化して55歳で亡くなった。著書『身体化された心』(工作舎)がすばらしい。
≪025≫ さて、話を戻すけれど、従来、自己言及性の出現はその系(システム)の自己撞着や無限ループをあらわすものとおもわれていた。情報が自己再帰するばかりでは何も産出するものがないと考えられてきたからだ。わかりやすくいえば、その系に自己言及ループが生じてしまうときは、その系の設計ミスとみなされたのだ。
≪026≫ ところが、オートポイエーシス理論に光があたりはじめたのは、システムがもつ自己言及性の可能性に注目が集まったからだったのである。もしオートポイエーシス・システムが閉鎖系であるとしたばあいのメリットがあるとすれば、この自己言及性を特色にすることがメリットになるはずだった。まっさきに社会学者のニクラス・ルーマンがそのようなオートポイエーシス理論の社会学的効用を強調した。この説明についてはルーマンの『自己言及性について』(国文社→ちくま学芸文庫)で読める。
≪027≫ ルーマンはマトゥラーナらの仮説を知って、自己言及する個体こそが個体の独自性だということに突如として気がついたようだ。個体が個体であるのはそこに自己言及があるからで、社会が社会であるのはそこに自己言及が前提とされているからだということに気がついたのである。そして、生命や社会は自己言及システムの特別な一例だと考えたのだ。ぼく自身はこうしたルーマンの食いつきにはあまり関心がないのだが(むしろダブル・コンティンジェンシー仮説のほうに関心があるのだが)、オートポイエーシス理論が一躍脚光を浴びたのはルーマンのおかげだった。
≪028≫ ともかくも、このようにして閉鎖系という特色はシステム理論の新たな地平を告げたかのように見えてきた。話はとっくに神経系を超えてしまっていたのだ。それならば、このような仮説が何に有効なのかということだ。答えはとりあえずはかんたんだ。自律的システムの理論を追究している向きにとって有効だったのである。
≪029≫ 自律的システムの理論とは、生物の活動を支えている生命系はどのような自律性をもってそのシステムを調整しているのか、それを説明するための理論のことをいう。
≪030≫ 生命系は物質系や機械系とちがって、自己修正や自己調整を自律的にするシステムをもっている。物質や機械は自分で自分を修繕しないけれど、多くの生命系は細胞をとりかえ、負った傷を治し、新陳代謝をし、子供という生命そのものを生む。まさに「自己創出する生命」なのである。なぜ生命系がこのような機能をもっているのかについては、科学や哲学がつねにその謎解きに挑んできた。
≪031≫ ごく初期には水車や時計のような持続的な運動をする仕掛けがメタファーにつかわれて、生命系のメカニズムの解明が議論されていた。たとえばデカルトは時計をメタファーにした。こうした推理の方法を「機械論」という。まさにメカニズムをメカニックに解こうとする。
≪032≫ これに対して、メカニックな解きかたでは説明できない“何か”がそこに潜んでいるという見方が18世紀末から登場してきた。ビシャやミュラーやリービッヒに始まってドリーシュやベルクソンに及んだこの見方を「生気論」という。そこでは「エンテレヒー」(生気の正体として仮想された)に代表されるような、生命力・生気力・有機力といった生命に宿る“見えない力”が想定された。
≪033≫ しかし機械論も生気論も、生命系の自己構成性や自己成長性をうまく説明しきれなかった。環境との相互作用も形態形成も説明しきれない。そこでキュヴィエ、サンティレール、ラマルク、カント、シェリングらは、今日なら「システム」とよぶところの「オーガニズム」(有機的構成体)を想定するようになり、そのオーガニックなしくみが発生や分化や進化の鍵を握っているというふうに考えるようになった。これをメカニズム派に対するにオーガニズム派とよぶことにする。オーガニズム派は有機体がどのようなシステムをもっているかという推理に一斉に向かっていった。
≪034≫ かくて、こうしたオーガニズム派の要請を最初に統合したのが第521夜に紹介したフォン・ベルタランフィの『一般システム理論』(みすず書房)なのである。ベルタランフィの理論は自律的システム理論の最初の統合仮説であった。しかし、ここから理論の発展にからむ冒険と難産がつづくことになる。
≪035≫ ベルタランフィ以降の自律的システム理論の展開を整理するのは、容易ではない。面倒でもある。いろいろの仮説が出てきては消え、いくつもの仮説がくみあわさって、ときに隘路にはまり、ときに突飛に遊びすぎ、それでも一途な編集がされつづけてきたからだ。その流れをわかりやすく説明するのはぼくにはできそうにない。
≪036≫ そこで、ここでは本書の翻訳者である河本英夫の卓抜な解読力を借りることにする。河本は翻訳者にはとどまらない。日本におけるオートポイエーシス理論探索の第一人者であるだけでなく、マトゥラーナ、ヴァレラ、ルーマン以降のワールドワイドな議論を一気に抜き切った理論家であって、ぼくが見るに、いまのところオートポイエーシス・システムの展望について河本以上の成果をあげている者はどこにもいない。
≪037≫ その河本が『オートポイエーシス・第三世代システム』(青土社)という本のなかで、いまのべた自律的システム理論の歴史と変遷を明快に分析してみせていた。いまはその要約論旨を借りようとおもう。河本は自律的システム理論の変遷を第一世代、第二世代、第三世代と分け、第三世代システムとしてオートポイエーシス理論を位置づけてみせたのだ。ぼくなりの補足を加えて、手短かに案内する。
≪038≫ 第一世代のシステム論は「動的平衡システム」である。ここでは、有機体は外部の環境と物質代謝やエネルギー代謝をしながら自己を維持しているシステムとみなされる。環境条件がかなり変動しても、この自己維持はなかなか壊れない。これをいいかえれば、動的平衡システムとしての生命系は、入力と出力の流れのなかで持続的に「ゆらぎ」を解消しながら自己維持するシステムたらんとしているということになる。
≪039≫ たとえば、はやくも博物学者サンティレールはこのようなシステムには「相互位置不変の原理」「相互補償の原理」「平衡の原理」がはたらいていると見た。同じく博物学のキュヴィエは各器官が共通の機能をおこなうように協働作用がはたらいていると見た。カントもこの見方の一人で、生命系の各構成要素は全体を維持するための目的によってそれぞれの位置と機能が示しあわせていると見た。そこには「部分は全体に関与することによってのみ機能する」あるいは「すべての部分は互いの原因とも結果ともなっている」という見方が萌芽していた。
≪040≫ これらの先駆的な見方に決定的な特徴を与えることになったのは、生理学者ウォルター・キャノンが提唱した「ホメオスタシス」(homeostasis)という概念だ。有機体にそなわっているだろう恒常性の維持という機能をホメオスタシスと名づけた。生命系はセットポイントというものをもっていて、つねにそのポイントに合わせてシステムを安定させようとする。暑ければ汗をかき、寒ければ鳥肌をたてるというのがホメオスタシスだ。これは第175夜に紹介したクロード・ベルナールが血液の循環などを観察して仮説した「内的環境」という概念をさらに発展させたものだった。
≪041≫ 内的環境としてのホメオスタシス概念の確立は、自律的生命システムを解くにあたっての重要な寄与をした。この概念によって、生命系が外部環境のなかで自分自身で「自己の境界を決定している」ということがだんだんにあきらかになってきたからだ。先頭を切ったベルタランフィの『一般システム理論』は、いってみればこれらの成果を統合したものだった。
≪042≫ 有機体がホメオスタシスを通じて動的平衡を確保すると、そのシステムには安定した層のようなものが生じてくる。階層区分ができてくる。
≪043≫ ベルタランフィはそのような階層が多階層になっていることに気がついて、その各層ごとにオーガニズムが機能しているとみなした。そこまではいい。しかし、その説明だけでは足りなかったのである。一番の問題は各階層間の関係が説明できないことだった。そこでアーサー・ケストラーがその代表的な理論家の一人なのだが、各階層のあいだには一方における自律的な関係と他方における従属的な関係とが同時にはたらいているのではないか、その同時にはたらく機能をもつ何かがそこに動いているのではないか、そういう見方を提案した。
≪044≫ ケストラーはこのような特徴を「ヤヌスの双面」とみなして、その自律性と従属性を担当している「ホロン」(holon)という超要素単位を想定した。ぼくが工作舎時代に出版した『ホロン革命』はこの仮説集にあたる。のちに清水博がホロンを「関係子」に発展させたことについては第1060夜にのべておいた。
≪045≫ こうして、おおざっぱにいうのなら、第一世代のシステム論は動的平衡を保つためのオーガニズムに関する理論と階層間を関係づける理論とを組み合わせるという方向に進んでいくのだが、ここに新たな視点が誕生してきた。それが第二世代のシステム論だ。
≪046≫ 第二世代のシステム論は「動的非平衡システム」を対象とする。物質代謝とエネルギー代謝をしながら、システムの形成を通じて周辺条件を有利に変えていく開放系を扱う。このシステム論では、第一世代の理論が克服できなかった階層間の関係の問題を「階層は自律的に生成される」というふうに考えた。階層生成論に変えていったのだ。
≪047≫ ただし、ここから2つの仮説に分かれた。ひとつは「前成説」というもので、生成のプロセスによって生じたものは当初から微妙なかたちで潜在していたという見方だ。もうひとつは「後成説」である。そもそも未分化だったものが生成のプロセスのなかで徐々に秩序だったものに形成されていったとする見方をいう。
≪048≫ 後成説を提案したのはぼくがいっとき傾注していた発生学者のコンラッド・ウォディントンで、このようにしてできた生命系を「エピジェネティック・ランドスケープ」(後成的風景)と呼び、そのように生成のプロセスが進むことを「カナリゼーション」(運河化)と名づけた。そして、生体はこれらを酵素のアロステリックな効果によって、自律的に活動させるようにしていると見た(その後、ここから「エピジェネティクス」が誕生した)。
≪049≫ 理論の趨勢は後成説のほうに進んだ。しかしながら、このような見方はまだ発生学の特定のレベルにとどまっていて、生命系が外部環境とどのような関係をもっているからそのようになったのか、いったい何が未分化の要因をのちになって活性化させているのかが説明できず、とりわけ生成のプロセスに階層的な飛躍と見える現象、すなわち「相転移」がおこることと、生物たちが「自己の境界」を絶妙に変動させていくことを説明しきれなかった。
≪050≫ オーガニズム派はいったん立ち往生をする。そこへ意外な方角から強力な援軍がやってきた。プリゴジンやハーケンやマンフレート・アイゲンや清水博たちである。かれらは物質現象の分子的解明を進めるうちに「自己組織化」のしくみに気がつき、それをしだいに生・情報系の理論に適用していった。
≪051≫ プリゴジンがあきらかにしたことは、自己組織化現象が熱力学的な平衡状態から十分に隔たった非平衡な開放系でおこるということである。開放系というのはシステムがつねにエネルギーの流れにさらされているということを示す。そこでは大エントロピーの増大に反して、「負のエントロピーを食べる」(シュレーディンガー)というような秩序の形成がおこるとみなされた。この秩序形成はシステム内部の「ゆらぎ」(fluctuation)を動因としている。
≪052≫ ハーケンがあきらかにしたことは、相転移がおこっているときには分子間に協調的なシナジーが動いているということだ。相転移は「ゆらぎ」がきっかけだった。アイゲンがあきらかにしたことは「ハイパーサイクル」の発見を通して自己触媒システムが作動していることだった。階層が安定しているとき、生成のプロセスの産物そのものが生成プロセスを自己触媒的に調整しうるというのがハイパーサイクルで、ここでは自己複製的な構成素の自己とシステム全体の自己とが重なってきて、そのことが階層分化を促している。
≪053≫ これらの自己組織化理論は、「ゆらぎ」によって新たな秩序の形成がおこるということ、階層は自己生成されているということ、そのようなことが可能になる自己の境界の決定には非平衡開放系という状態が関与しているという見方が有効であることを天下に知らしめた。それはまさに太陽系地球に生じた生命系がおこなっている自律的システムの特色をみごとに言い当てていた。
≪054≫ 第三世代のシステム論が「オートポイエーシス・システム」である。システムを自己決定しているシステムだ。すなわち、みずからの構成素と相互作用しながら作動する自己言及システムであって、そのように作動することでみずからの構成素を次々に産出しているシステムである。このような見方をとる理論はどこが第一世代や第二世代のシステム論とちがっているのか。
≪055≫ 第一に、オートポイエーシス・システムは産出するプロセスそのものなのだから、階層をつくる必要がない。階層ではなくて「プロセスのネットワーク性」があるばかりなのだ。それでいい。
≪056≫ 第二に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということである。産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。そういう自己創出システムなのだ。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。
≪057≫ 第三に、オートポイエーシスは空間や時間に煩わされていないということがある。第一世代のシステム論も第二世代のシステム論も、そこには時空間の領域との疎密な相互作用が前提になっていた。だからこそ熱力学的な非平衡性や不可逆な時間の条件が想定されてきた。しかしオートポイエーシスではそうした空間条件や時間条件すらシステムの産出プロセスが自己決定してしまう。
≪058≫ この3つの特徴は、今日の生物学があきらかにしている情報生命系の条件から見ると、理解しにくいかもしれない。今日の生物学の多くがオーガニズム派に属していて、メカニズム派では説明できないことを説明する努力を払ってきたからだ。
≪059≫ ところがオートポイエーシス理論はあえてメカニズム派に戻るかのように、新たな機械論を復活させた。オートポイエーシス理論は機械的決定論なのである。
≪060≫ タンパク質と核酸をシステムの重大な構成素としてスタートをきった地球生命系では、こうした機械論はもはや適用しにくいと考えざるをえないのだが、けれどもオートポイエーシス理論は、その考えかたにあえて別れを告げるのだ。タンパク質や核酸ではなくて、もしも鉄のイオン交換を用いてオートポイエーシスが成立するのなら、そこに別個の構造をもち別個の産出プロセスをもつ有機体が成立したっていいはずだと、そう、判断するのである。
≪061≫ いったい、これらのことは何を示唆しているのだろうか。それとも、もはや理論のための理論だけを弄んでいるのだろうか。誰もが考えつかないようなことを考えてみただけなのか。そういう可能性もありうるだろうけれど、そこに理論としての価値を見いだすとするのなら、すなわちオートポイエーシス理論がもし何かを示唆しているとすれば、それはおそらく「創発」(emergence)とは何かについてのまったく新しい示唆をもたらそうとしていると考えるしかないだろうとおもわれる。
≪07≫ ここまでは開放系としての生物がすべておこなっていることなのである。だから閉鎖系とはみなしがたい。ところが次の、④の入力も出力もないというのが奇妙だ。入力も出力もないのならまさに閉鎖系であろうということだが、どうみても生物は入力と出力をしているはずで(食物を摂取し排泄していることも新陳代謝をしていることも)、何をもって入力と出力のない系を想定したのかが、すぐには理解しがたい。いったい何が閉鎖的で、かつ自律的なのか。
≪062≫ もう一度、第一世代と第二世代の見方を比較していうのなら、動的平衡を前提とする第一世代のシステム理論では、創発は稀な偶然から生じて、それがゆくゆくシステム全体が組み替わってしまうような構造転換におよぶとみなしていた。それはそれでひとつの見識だった。
≪063≫ また、動的非平衡の第二世代のシステム理論では、たまたま紛れこんだノイズや「ゆらぎ」がシステムに秩序をつくるのではなく、システムがそもそも抱えもつ取り除くことのできない「ゆらぎ」そのものがシステムの創発をもたらすと考えられた。それを自己組織化とよんだのだった。これもきわめて魅力的な見解だった。。
≪064≫ ところが第三世代のオートポイエーシス理論では、創発そのものがシステムの本質なのである。創発は新たな発現なのではなくて、(そういうものがあるとすれば)創発の構造をネットワークとするシステムが生じたとみなしたのだ。それは文字どおりの(つまり生粋の)自己創発システムだったのである。
≪065≫ さあ、こんな、創発をおこすネットワーク自体をシステムとするシステムがありうるのかどうか。そのネットワークは自己の境界を自己のネットワークで決めているわけである。そして閉じているわけである。そこでは中身がどうであろうと創発しかおこっていないというのだ。こんな奇妙なことがどこでおこっているかはべつとして、マトゥラーナとヴァレラが言い出したことをそのまま延長させて考えてくると、こういう示唆を受信していくしかないのだろうと考えざるをえない。
≪066≫ 附記¶マトゥラーナとヴァレラの共著には二人の公開講座を著作にした『知恵の樹』(朝日出版社)がある。いっときニューアカのあいだで読み継がれた。ニクラス・ルーマンについては『自己言及性について』(国文社)、『社会システム理論』(恒星社厚生閣)のほか、土方透『ルーマン・来るべき知』(勁草書房)などを、自己言及性についてはスペンサー・ブラウン『形式の法則』(朝日出版社)、大澤真幸『行為の代数学』(青土社)などが参考になる。河本英夫のオートポイエーシスをめぐる著作は本書の解説にはじまって、『オートポイエーシス・第三世代システム』『オートポイエーシスの拡張』『メタモルフォーゼ・オートポイエーシスの核心』(いずれも青土社)、さらに『オートポイエーシス2001』(新曜社)、『システムの思想』(東京書籍)などがある。最新のシステム思想や生命科学思想の訓練にふさわしい。
≪01≫ 今年も暮れようとしているが、コロナ・パンデミックはいっこうに収まりそうもなく、世界中での感染者は8000万人を突破し、死者は170万人を超えている。まだふえるだろう。1週間前には南極大陸のキャンプにも感染が及び、地球上の六大陸がすべて侵食された。COVID19の変異も際立ってきた。アフリカ変異種がまたたくまに感染路をパッセージする。
≪02≫ 総じては、なぜか欧米がひどい。何度も都市部のロックダウンが試みられたが、功を奏しない。 ワクチンは急ピッチで開発されているが、その効果があらわれてくるのは来春以降だろう。治療剤はまだないし、免疫形成の実態調査も遅れ、病院や看護師の疲弊が激しい。コロナ型RNAウイルスの正体がわかるには、『感染症の世界史』(1655夜)も言及していたように、おそらく数年がかかる。
≪03≫ それにしても大変事だった。感染者の数が減衰しないかぎりは学校も一般店舗も開けない。公園にも居酒屋にも屯(たむろ)できず、スポーツ大会は見送られ、劇場は椅子席を2つおきにする。このままウイルス変異が続いていったらいったいどうなるかと思いながら、みんなが何かをガマンをしている。その何かが、わからない。
≪04≫ そんななか日本は無策に近い。安倍もガースーもひどかった。あいかわらずの経済優先主義とポピュリズムだからPCR検査や医療対策はおざなりで、そのかわりアベノマスク・支援金・補助金をばらまき、GOTOキャンペーンや食事割引などで歓心を買い、ずっとお茶を濁してきた。わかりやすいパンフレットひとつ、作らない。ICT時代の最初のウイルス・パンデミック(日本ではエピデミック)であるにもかかわらず、新たなソフトやアプリも開発されない。お茶は濁るばかりだ。
≪05≫ フレドリック・ジェイムソンが「資本主義の終わりを想像するより、世界の行き詰まりを想像するほうがずっとかんたんだ」と言っていたのを思い出す。
≪06≫ コロナ禍が世界同時的な攻勢を続けているのは、宿主(地球のホスト)たる人間社会のほうがそういう事態悪化を促進させる余地を与えているからで、COVID19自体のふるまいや変異は、21世紀のホスト世界社会のふるまいの反映そのものなのである。こんなことを続けていれば、世の中の価値観や社会観や生活観に決定的なヒビが入る。
≪07≫ どういうヒビかということは、ジョージェスク=レーゲンの熱力学的経済分析などがその傷痕を示している。数々の地球環境危機のデータは、宇宙ゴミから海中のプラスチック破片の量にいたるまで、ほぼデータになっている。だから惨状がどのようなものかは数値でもわかっているはずなのだが、それなのに、未体験な有事の事態が長期化してきたことによって、明日の社会の変更が近づいてきていることだけは感じるだろうから、あわてて「ニューノーマル」なんてバカなことを考える。目の前の明日の日々ばかりが気になるのだ。平時は有事を前提にすべきなのだ。
≪08≫ 仮に2021年になって、ウイルス禍によるパンデミック(あるいは地域的なエピデミック)が数カ月後に収束(終息)したとしても(東京オリンピックが開催されようと中止されようと)、こうした未体験な身体的なハザードがおこす事態がありえたこと、それが社会のありようをあっというまに変貌させるのだということ、そういうことが半年も1年も続きうることを体験してみると、このあとの世界や社会は以前のままでいいのか、あんな会社の日々に戻ってしまっていいのか、いままでは何か勘違いしていたのではないかというふうにもなってきた。「平時有事病」とでもいいたくなるような、とんでもないトラウマ(PTSD)の発生なのである。
≪09≫ 元のように戻ればいいかといえば、いいわけがない。そんなことはとっくにわかっていたはずだ。おそらく第一次文明戦争と呼ばれるべきだろう湾岸戦争やそのあとのリーマンショックがおこったときに、何が問題であるかはすっかり露呈していたのだ。もう少し前からいえばレーガノミクスやサッチャリズムの驀進がおこり、日本でいえば日米協議がすすむなか、これを小泉純一郎や竹中平蔵がお追従(ついしょう)したときに、「これでいいはずはない」という事態がひどく広がってしまっていたはずなのである。
≪010≫ ところが、みんなボケていた。ないしはシラをきっていた。EUを結束させるか分断させるかでまるまる数年つぶしたり、トランプの出現に右往左往したり、モリカケ問題でお茶を濁してみたり、そんなことばかりだった。
≪011≫ そこへ1年以上にわたる感染戦線の実況だ。みんなそわそわとソーシャル・ディスタンスをとり、テレワークやリモートワークをしはじめた。そのうち、これはきっと働き方が変わっていくだろうと実感しはじめて、さっそく新築住宅やマンション販売の会社が3DWKというようにリモートワークスペースのための「W」をフィーチャーした間取りを売り出した。
≪012≫ 不安がこんな程度では困る。地球自体がおかしくなりつつあるのであって、職場が変更を迫られているわけではない。「人-地球」という巨大サラダボールがヤバイのだ。ジョン・ケリーは気候変動と感染症とテロリズムを大量破壊兵器とみなしたが、それはやっと2014年のことだった(ケリーはバイデン政権のブレーンになった)。あまりにも遅すぎる。「人新世」はとっくにやってきていたのだ。
≪09≫ 元のように戻ればいいかといえば、いいわけがない。そんなことはとっくにわかっていたはずだ。おそらく第一次文明戦争と呼ばれるべきだろう湾岸戦争やそのあとのリーマンショックがおこったときに、何が問題であるかはすっかり露呈していたのだ。もう少し前からいえばレーガノミクスやサッチャリズムの驀進がおこり、日本でいえば日米協議がすすむなか、これを小泉純一郎や竹中平蔵がお追従(ついしょう)したときに、「これでいいはずはない」という事態がひどく広がってしまっていたはずなのである。
≪010≫ ところが、みんなボケていた。ないしはシラをきっていた。EUを結束させるか分断させるかでまるまる数年つぶしたり、トランプの出現に右往左往したり、モリカケ問題でお茶を濁してみたり、そんなことばかりだった。
≪011≫ そこへ1年以上にわたる感染戦線の実況だ。みんなそわそわとソーシャル・ディスタンスをとり、テレワークやリモートワークをしはじめた。そのうち、これはきっと働き方が変わっていくだろうと実感しはじめて、さっそく新築住宅やマンション販売の会社が3DWKというようにリモートワークスペースのための「W」をフィーチャーした間取りを売り出した。
≪012≫ 不安がこんな程度では困る。地球自体がおかしくなりつつあるのであって、職場が変更を迫られているわけではない。「人-地球」という巨大サラダボールがヤバイのだ。ジョン・ケリーは気候変動と感染症とテロリズムを大量破壊兵器とみなしたが、それはやっと2014年のことだった(ケリーはバイデン政権のブレーンになった)。あまりにも遅すぎる。「人新世」はとっくにやってきていたのだ。
≪013≫ 人新世(じんしんせい)は新しい概念である。2000年2月のメキシコでの地球環境をめぐる国際会議でパウル・クルッツェンが言い出した地質年代のための新しい用語だ。
≪014≫ クルッツェンはオランダの大気化学者で、オゾンホールの研究などで1995年にノーベル化学賞を受賞した。地球温暖化や温室効果ガスの問題の多くの議論のオピニオンリーダーである。『気候変動』(日本経済新聞出版)などのベストセラーもある。
≪015≫ そのクルッツェンが21世紀を前に、今日現在のわれわれは完新世(Holocene)にいるのではなく、新たな「人新世」(Anthropocene=アントロポセンあるいはアントロポシン)に突入していると言うべきだと発言した。この発言がきっかけに、にわかに「人新世」という見方が話題になってきた。
≪016≫ 従来の地質年代学の公式見解では、現在の地球は1万1500年前に始まった新生代第四紀の「完新世」に属している。われわれ人類もそこにいつづけているとみなされてきた。しかしクルッツェンは完新世はもうピリオドを打っているのではないか、産業革命以降、地球は新たな地質年代に突入しているのではないかと言った。
≪017≫ はっきりいえば1784年にワットが蒸気機関を発明したときから新生代第四紀の「人新世」に入っているというのだ。
≪013≫ 人新世(じんしんせい)は新しい概念である。2000年2月のメキシコでの地球環境をめぐる国際会議でパウル・クルッツェンが言い出した地質年代のための新しい用語だ。
≪014≫ クルッツェンはオランダの大気化学者で、オゾンホールの研究などで1995年にノーベル化学賞を受賞した。地球温暖化や温室効果ガスの問題の多くの議論のオピニオンリーダーである。『気候変動』(日本経済新聞出版)などのベストセラーもある。
≪015≫ そのクルッツェンが21世紀を前に、今日現在のわれわれは完新世(Holocene)にいるのではなく、新たな「人新世」(Anthropocene=アントロポセンあるいはアントロポシン)に突入していると言うべきだと発言した。この発言がきっかけに、にわかに「人新世」という見方が話題になってきた。
≪016≫ 従来の地質年代学の公式見解では、現在の地球は1万1500年前に始まった新生代第四紀の「完新世」に属している。われわれ人類もそこにいつづけているとみなされてきた。しかしクルッツェンは完新世はもうピリオドを打っているのではないか、産業革命以降、地球は新たな地質年代に突入しているのではないかと言った。
≪017≫ はっきりいえば1784年にワットが蒸気機関を発明したときから新生代第四紀の「人新世」に入っているというのだ。
≪018≫ というわけで、われわれはいま第四紀完新世(第四間氷期)にいるのだが、クルッツェンらは、いやいや、われわれはいま第四紀人新世にいるのではないかと言ったのである。
≪019≫ もしそうだとしたら、これまで地質年代は太陽の活動や巨大隕石の落下や地球温度の変化や海洋事情などの、地球の内外におこった自然条件によってステージングされてきたのだが、「人新世」という提案によって、われわれは有史史上初めて「文明や人為のかかわりによって生まれた地質年代」にいるということになる。
≪020≫ 気温上昇、インフルエンザ流行、オゾンホール問題、温室効果ガス蔓延、エイズの大流行、SARS、MARS、コロナの流行は、そういう第四紀最後の地質年代の喘ぎだということになる。資本主義がこれほど高度に爛熟しているかのようなのに飢餓や貧困がなくならないことも、この数十年の人新世が新自由主義、金融工学の流行、マッドマネーの狂乱、ネット資本主義の蔓延などと結びついている可能性がある。
≪023≫ さっそくブルーノ・ラトゥールが「人新世という概念は、近代や近代性という概念に代わるものとして生み出されたもののなかでも、哲学的、人類学的、政治的な概念として、これまでにないほど決意的なものである」と反応した。ラトゥールは人類社会を「変化する作用点」がつくるアクターネットワークとして説明しようとした社会人類学者だ。
≪021≫ クルッツェンの警告含みの提案は必ずしも新しいものではない。たとえば、イタリアの地質学者アントニオ・ストッパーニはすでに1873年に「人類は新たな地質学変化を帯びた者」(人類の地質時代)と定義するべきだろうと言っていたし、ウラジーミル・ヴェネナツキー(「生物圏」概念の提唱者)が、地球を「生物地峡化学(ゴオジミ・ケミンル)の循環系」とみなしたのは1920年代だった。その後も地球環境の変化を憂慮する見方はずっと続いている。
≪022≫ しかし、そのことが人為的地質年代に及んでいたということ、そのエビデンスはもはや反証しようのないものになっていることを確固たる体系的記述によって議論できるようにし、それが「アントロポセン」(人新世)と呼ばれるべきものであることを鮮明にさせたのはクルッツェンだった。
≪023≫ さっそくブルーノ・ラトゥールが「人新世という概念は、近代や近代性という概念に代わるものとして生み出されたもののなかでも、哲学的、人類学的、政治的な概念として、これまでにないほど決意的なものである」と反応した。ラトゥールは人類社会を「変化する作用点」がつくるアクターネットワークとして説明しようとした社会人類学者だ。
≪024≫ ことほどさように、人新世はとっくの昔からはじまっていて、さまざまな人間活動の所産や痕跡が地球システムの機能に障害を与えるほどに力をもってしまっていることをあらわしているのであった。そうだとしたら、人新世はヨーロッパ人がアメリカ大陸を征服したときに始まっていたのではないかと、地質学者のシモン・ルイスやマーク・マスリアンはアメリカインディアンの人口崩壊の調査をもとに提唱し、ヤン・ザラシェヴィチは人新世はそうしたことが何度かにわたって地球に損傷を与えた「層位的構造」になっていったのだろうと説明した。
≪025≫ おそらくそうだったのである。以下、人新世よりもアントロポセンと言ったほうがしっくりくるので、そう書くことにするが、アントロポセンはきわめて層位的(ストラティグラフィック)に地球を侵食してきたのである。
≪026≫ 本書はアントロポセンの提案を前提にして、CNRS(フランス国立科学研究センター)のクリストフ・ポヌイユとジャン=バティスト・フレソズが、アントロポセンという新たな枠組の登場によって人類が何をどのように考えなければならなくなったのか、それには従来の考え方の何を変更しなければならなくなったのか、そのことを丁寧に、かつラディカル・ヒストリーっぽく総浚いしたものである。
≪027≫ 二人の検証によれば、アントロポセン層位化の第1段階は産業革命から第二次世界大戦までにおこっている。この期間で石炭を中心にしたエネルギー消費量は40倍になった。それによって経済成長は50倍に、人口は6倍に、利用土地面積は約3倍になった。やがて陸路にも海路にも蒸気機関化と速度化がおこり、人類はなんらかの自動エンジンに頼るようになった。 その一方で多くの森林が各地で失われ、大気中の二酸化炭素濃度が277ppmから上昇しはじめた(20世紀半ばで311ppmに達した)。
≪028≫ 第2段階は大戦後の1945年からで、ここで石油の大量消費によって二酸化炭素やメタンの大気中濃度が急激に増加し、地球の窒素とリンの循環濃度に大きな変化がおこった。 そこに戦後の自由貿易主義による国際経済システムの加速がぴったり重なって、たとえば水力発電所の増加数、自動車生産数、マクドナルド・ハンバーガーの店舗数が窒素とリンの大気循環指数と同期していった。海が汚染し、農薬や薬剤が人体に染みこんでいった。「大加速」(グレート・アクセラレーション)と呼ばれる。
≪029≫ 第3段階は2000年からで、事態はどんどん深刻になるばかりである。電子決済システムがグローバル化し、ネット社会が蔓延していったこと、そのころ中国が二酸化炭素排出国でアメリカを追い抜いて世界第一位になったのは、その象徴的な同期現象だった。
≪030≫ とくに遺伝子操作による農産物と医薬品の量産と金融工学による貪欲なマネーゲームが新たなグローバル・スタンダードを獲得したことは、住人の一人一人が「知覚」や「肌」や「近隣」によって辛うじて護ってきたリアルな境界をずたずたにしていった。SARSやMARSやCOVIDはそういう“つるつるスベスベの社会環境”の中でやすやすと伸長していったのだ。
≪031≫ これらの大きな3段階の層位的侵襲をへて、技術の非計画的な拡張が地球社会環境をおかしくさせ、地球社会環境は人々から危機の実感を奪いとっていったのである。では、どうするべきか。「ニューノーマル」などというあざとい手で逃げてはいけない。一から考えなおすべきだろう。それなのに、地球工学テクノロジーに身をかためた地球システム屋たちは、「地-権力」を取引きする統治に走りはじめている。
≪032≫ 本書はそうなってしまった責任の一端が各国と国際機関を占めるジオクラート(地球官僚)と、社会生態系の複合性を無視したエコファシズムにあることを告発している。おかげでアントロポセンはもってのほかの段階を驀進中だ。
≪033≫ 地球がとっくに壊れているというわけではない。喘ぎながらもまだまだ活性的である。地球ではなく、「人-地球系」がすっかりおかしくなりつつあるのだ。こちらが深刻だ。
≪034≫ 本書はその深刻なおかしさを、いくつもの新世ぶりで強調している。曰く熱新世、食新世、死新世、あるいは曰く欲望(貪食・消費)新世、無知新世、賢慮新世、また曰く英新世、資本新世、論争新世、軍新世。
≪035≫ いちいち案内しないけれど、およその見当はつくだろう。なかで英新世とは近代以降のイギリスが冒したまちがいによって引きおこされた人新世全体への禍根のことをさす。ぼくはかつて『世界と日本のまちがい』(春秋社。のちに『国家と「私」の行方』に改題増補)で、こうした「イギリスのまちがい」を三枚舌のイギリスとして特筆したものだ。
≪036≫ 当然、米新世もある。アメリカ新世だ。これは資本制契約主義とポルティカル・コレクトめいたコンプライアンスによるアントロポセンの過剰配布を意味する。ここではありとあらゆる資源(リソース)が契約の対象になってしまったのだ。これからはチャイナ新世、中東新世が浮上するだろう。
≪037≫ 無知新世というのは、産業界や技術屋や政治家や地球官僚が「自然を外部化」したほうがいいとしてしまったことをさす。もうすこし正確にいえば「自然の外部化」と「世界の経済化」を同一視したことが無知のアントロポセンを拡張してしまったのだ。カール・ポランニー(151夜)が「商業化社会における機械制生産は、社会の自然的人間的実体の商品への転化意外のなにものも意味しない」といったことを無視してしまったのだ。
≪037≫ 無知新世というのは、産業界や技術屋や政治家や地球官僚が「自然を外部化」したほうがいいとしてしまったことをさす。もうすこし正確にいえば「自然の外部化」と「世界の経済化」を同一視したことが無知のアントロポセンを拡張してしまったのだ。カール・ポランニー(151夜)が「商業化社会における機械制生産は、社会の自然的人間的実体の商品への転化意外のなにものも意味しない」といったことを無視してしまったのだ。
≪039≫ こういうふうになった背景に、論争新世がラディカルに機能しなかったことがある。この論争の不備とは、博物学の時代からダーウィンの進化論が確立していくまでの時期、地球と人類に関する哲学や思想がとことん論争できなかったことをさしている。ビュフォン、ハットン、ラマルク(548夜)、ライエル、ダーウィン、ヘッケルらの仮説があっさりダーウィニズムに統合され、ミル、フーリエ(838夜)、オーウェン、クロポトキンらの議論が組み合わされなかったのだ。こうしてラッダイト運動もニューハーモニーも田園都市構想も、一笑に付されたのだった。
≪040≫ こんなふうにアントロポセンの無情な驀進を説明していくと、研究者や思想者が拱手傍観してきかのように映るかもしれないが、むろんそんなことはない。かなりいろいろな指摘も仮説も思索もあった。本書はそれを追うにも随所でページをさいていて、なかなか浩翰な一冊になっている。
≪041≫ なぜ完新世がもたなくなったのかということについては、クルッツェンだけではなく、ウィル・ステファンやクロード・ロリウスらも「完新世の息の根をとめた凶器は大気の中にある」と、何度も発言していた。メタン、亜酸化窒素、二酸化炭素などの凶器的変化だ。これに冷蔵庫やエアコンが排出するフロンがこっそり手を貸した。
≪042≫ 環境危機についての指摘は、60年代のレイチェル・カーソン(593夜)の『沈黙の春』(新潮社)やジェームズ・ラブロック(584夜)の『ガイアの科学』(工作舎)からも発信されて、人-地球系がどういうものか、ひょっとするとわれわれはまったく知らない系に包まれているのかもしれないという環境的認識をもつべきだろうと迫っていた。イザベル・スタンジェールはこの系には未知のフィードバック・ループが関与しているだろうと述べ、それが過剰な資源消費によって本来の生態系を歪ませているだろうと推理した。
≪043≫ ローマクラブは「成長の限界」を訴え、メディアは「複合汚染」の警鐘を鳴らしもした。ドゥルーズやガタリの『アンチ・オイディプス』は人-地球系が資本主義のつくりだしたフィードバック・ループによって何重にも再陥入され、神経症にかかっているかのようになっているという見方を示し、そのことをジョージェスク=レーゲンは熱力学的なフィードバック・ループがおこす数値を挙げて検証した。
≪044≫ 環境危機は生態系の異常を示すさまざまなフットプリント(生態学的痕跡)によって、しだいに目に見えるものになっていったのだ。しかし地理学者のアール・エリスは、これまでの「人間がかき乱した自然の生態系」という見方ではダメで、もっと大胆に変更すべきだと提唱した。「自分たちの懐に自然の生態系をとりこんだ人間系」という見方をするべきで、研究されるべきも攻撃されるべきも、この人間系であることを強調した。
≪045≫ 事態は新たな文明論の様相をとることになってきたのだ。けれども、この巨視的な見方を提供する者は少なかった。なるほど「不都合な真実」は次々に列挙されるのだが、それらを文明的に語れない。
≪046≫ そこがアントロポセンに無知新世が混入している理由でもあるのだが、かつてはビュフォンが『自然の諸時期』で、ライエルが『地質学原理』で、ミシュレ(78夜)が『普遍史』で、ブルクハルトが『世界史的考察』で包摂したような視点を、いま環境文明史的に大きく継承できなくなっているのである。
≪047≫ 何を包摂的に語るべきなのか。すでにミシュレが、こう書いていた。「世界が続くかぎり終わらない戦いが進行しつづけている。すなわち、人間の自然に対する、精神の物質に対する、自由の運命に対する戦いである」。
≪048≫ おそらく社会が環境から切り離されすぎたのだと思う。いいかえればルソー(663夜)やコントやウェーバーやデュルケムが、社会という実像のもつ意味を強調しすぎたのだ。また、心理が環境から引きちぎられすぎたのだ。
≪049≫ だからフロイト(895夜)の責任もある。ロマン・ロランの「大洋的感情」をフロイトは乳児期にみられる融合的幻覚にすぎないと断じたけれど、むしろロマン・ロランの環境心理学が新たに登場すべきなのだろう。
≪050≫ アントロポセンは新たな環境的文明学や環境的人文学を待望した。そこでたとえば、フィクレット・バークスやカール・フォルクらは「社会生態システム」という枠組を1998年に提唱した。物質とエネルギーの流動分析を社会生態系の代謝構造にとりいれようというものだったが、自然変化を社会がどのように応答しているかというものになっていた。応答や反応の現象学としての文明学や人文学はつまらない。
≪051≫ ポリティカル・エコロジーも事態の突破を試みた。「自然が入りこんだ社会」と「社会が入りこんだ自然」を二重に扱う理論的な枠組(二重の内在性)を用意したのだが、うまくいかなかった。こういう見方は状況の捩れには敏感に着目するのだが、そのぶん結局は捩れを戻す「レジリエンス」(復原力)を安易に期待してしまうのだ。まことに、おめでたい。レジリエンスなんて、勝手におこるわけがない。
≪052≫ おそらく最近の社会学者は、自然がそもそもナマなものでなくずっと二次的・多次的であることを軽視し、直立二足歩行したヒトザルがもともと半自然としてのスタートを切っていたことを忘れすぎているのだろう。
≪053≫ 環境的文明学や環境的人文学が胎動するには、しっかりした時間軸をもっていなければならない。歴史観を支える時間軸だ。
≪054≫ ところがこれがフェルナン・ブローデル以来、次のような3つの時間割になってきた。a「自然と気候のほぼ不動で人間活動に左右されない時間」、b「経済と社会の出来事に関する緩慢な時間」、c「戦争や外交や政治のペースに併せて急速に変動する時間」という3つだ。アナール派はこの裁縫台の上にいる。けれども、これはaがまちがっているから、甘くなる。
≪055≫ 一方、歴史主義の陥穽を免れるために、エマニュエル・ラデュリの『新しい歴史』(新評論・藤原書店)などが「人間を入れない歴史」にもとづく時間割を提案したことがあったが、こちらにも無理がある。予防線の張りすぎだった。
≪056≫ こうして、『自然のメトロポリス』のウィリアム・クロノンが資本主義活動が形成する要因を配慮した「二次的自然」、エドムント・リュッセルの人間と生物の相互作用を下敷きにした「進化的歴史時間」、ティモシー・ミッチェルの自然が社会に差し込む分光性に注目した「エネルギー・プリズム」といったアイディアが次々に出たのだが、どれもこれもイマイチだった。
≪057≫ 環境(environment)という概念を21世紀の複雑系のなかでうまく作動させるのは、案外むつかしい。 もともとは1850年代に、英語やフランス語で“environs”という言葉は付近や近郊といった意味でつかわれていて、これを地球規模や生物規模にあてはまる「環境」に広げてつかったのはハーバート・スペンサーだった。
≪058≫ スペンサーはラテン語の「キルクムフサ」(Circumfusa)のもつニュアンス(衛生学でいうサーカムスタンス)を含めて、ダーウィニズムっぽく環境概念を試用しはじめたのだ。しかし、これははなはだ曖昧なもので、当時はこれらに類似してビュフォンやディドロ(180夜)やラマルクやカバニスらが自然環境概念「ミリュー」(milieu)をつかっていた。だからここでこそ論争や議論が深まっていればよかったのだが、そうならなかった。そこが論争新世として集中しなかった憾みがのこったところだ。このときが「環境の最重要性」を提示する最初で最大のチャンスだったのだ。
≪059≫ そのため、フォン・ユクスキュル(735夜)が『生物から見た世界』(思索社・岩波文庫)などで提示した「環世界」(Umwelt)や和辻哲郎の「風土」などの視点が、主流の環境議論からはじかれたままになった。ぼくがオギュスタン・ベルク(77夜)と雑談していたころは、このことこそ話題になっていた。
≪060≫ かくてギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』が「自然のエコノミーにとっては価値のないものと思われている存在が、関心のない人々が意識的になるよりずっと大きな影響をもっている」と言ったことや、植物学者のベルナルダン・ド・サンピエールの「地球の調和は最小の植物種をなくすだけで、その一部もしくは全部を破壊してしまうだろう」という指摘や、ジャン・バティスト・ロビネの「人間や大型動物は、われわれが地球と呼ぶこのより大きな動物の寄生虫にすぎない」といった観点が、すっかり抜け落ちることになったのだ。
≪061≫ もしも論争新世が作動していれば、やや身びいきな話になるけれど、日本でいえばぼくや荒俣宏(982夜)や中沢新一(979夜)が80年代に好き勝手に放言していたことなども、南方熊楠(1624夜)やラブロックの環境人文学とともに、またホワイトヘッドの有機体の哲学とともに、最新のアントロポセンな議論に組みこまれることになっていただろうと思われる。最近なら佐倉統(358夜)の見方などが、これらを引き受けている。
≪066≫ リービッヒの「最小律」も、土壌のリサイクルの必然性から導かれたものだった。 リービッヒは土壌にひそむ少量の窒素・リン・カリウム・マグネシウム・硫黄・鉄などの化学元素こそが、土壌の肥沃の秘密を握っていることをあきらかにし、もしも都市の文化がこのことを軽視したら社会は自死を招くだろうと警告して、当時のイギリスがグアノ(海鳥糞・リン肥料)や無機肥料に大金を動かして輸入しようとしている様子を吸血鬼に譬えて、「イギリスは他国が自分の土地を肥沃にすることを奪っている」と書いた。
≪067≫ 実際に農業化学によって理想の共同体をつくる実験もおこっていた。「社会主義」という用語をつくったピエール・ルルーがフランス・クルーズ地方ブサックにつくった「キルクルス」(循環・円環のこと)は、排泄物のリサイクルによって村落集合体を背酢率させる実験だった。農業化学の分野ではないが、クロポトキンの相互扶助論に共感した建築家のレベレヒト・ミッゲが『皆で自給』で提案した自給時速共同体のプランはグリーン・マニフェストを掲げて、初めて「グリーン」という用語を環境論に適用した。
≪068≫ これらは1920年代のウラジミール・ベルナドスキーの「生物地球化学」に、40年代のジョージ・ハッチンソンの「システム生態学」に、そして60年代のラブロックとリン・マーギュリス(414夜)の「大気圏生物化学」に少しずつ形を変えて発展していった。いずれもおもしろい発想だったのに、これまた総合的なアントロポセン理論に組み上げられてはいない。
≪069≫ 詳しいことは、千夜千冊のフォーコウスキー(1622夜)の『微生物が地球をつくった』(青土社)、丸山茂徳・磯崎行雄(1615夜)の『生命と地球の歴史』(岩波新書)、ウォードとカーシュヴィング(1637夜)の『生物はなぜ誕生したのか』(河出書房新社)などを見ていただきたい。
≪070≫ さて、これからの環境哲学が本気でとりくまなければならない最大の相手は、おそらくエントロピーの問題である。地球は、過剰なエネルギーや溜まりつづける情報をどこかにうまく捨てないかぎりは生命系を維持できなかったのだが、それは「負のエントロピー」が活用できたしくみと密接に関係づけられているはずなのである。
≪071≫ そうだとすると、蝕まれた「人-地球」系がアントロポセンにさしかかってきた渦中で澱のごとくに溜めてきてしまったエントロピーを、何によって排出するのか、それとも何かに変換するのか、そこが問われるのだ。
≪072≫ ここをダイナミックな読み筋にするには、ひとつには、むろんボルツマンやプリゴジン(909夜)の熱力学仮説をどのようにとりこむかということだろう。熱力学は宇宙論にもかかわることなので、かなりどでかいスコープが必要になる。
≪073≫ しかしもうひとつには、クラウジウスの『自然内部のエネルギー備蓄と人類の利益のための価値の付与』やエルンスト・マッハ(157夜)の『熱学の諸原理』に発する「思惟の経済」論をどう読みこむか、エドヴァルト・ザヒャの『社会力学の設立』、パトリック・ゲデスの『ジョン・ラスキン・エコノミー』、フレデリック・ソディの『デカルト経済学』などをどう評価するか、つまり経済学とエントロピーを環境学としてどうブリッジさせるかという読み筋を起動させることである。
≪074≫ たとえば、いささか舌足らずではあったけれど、ノーベル化学賞を受賞したソディが「金利とは、偶然からなる人間どうしの間の合意でしかなく、資本が従属するエントロピーの原則に長いあいだ矛盾したままでいるのは不可能だろう」と述べていることなどを、どう解釈していくかということだ。
≪075≫ けれども、エントロピーの処理を経済学者や歴史学者が扱おうとすると、ついついジェームズ・ジュールやウィリアム・トムソンの自然神学の伝統にもとづきすぎたり、その逆を切り通すマルクス(789夜)の資本論や労働論に加担しすぎることになる。最近、上梓されたばかりの斎藤幸平君の『人新世の「資本論』(集英社新書)はたいそう才気煥発な著書ではあったけれど(だからぼくも帯に推薦文を寄せたけれど)、資本の問題に言寄せたぶん、各種エントロピーの排出には届かず、アントロポセン論としてもかなり片寄っていた。
≪076≫ あれこれ案内してみたが、本書にはもっと豊富なコンテンツが紹介されている。総じては「成長神話からの脱出」がはかられている思想やデータが集結しているのだが、他方においては維持可能な地球管理とガイアとの和解の手立てをさぐっているとも見られる。。
≪077≫ まあ、いずれにしてもアントロポセンな議論はいま始まったばかりともいえるし、すでに案内してきたように18世紀半ばから何度となく議論されてきたサブジェクトでもあったのである。
≪078≫ 俎上にのぼってこない議論も、まだまだ残されている。ぼくの見方では、とりわけニューサイバネティクスな考え方、カオスと複雑系をめぐる見方、自己組織化の理論の可能性と限界、非線形数学の可能性、サイボーグやロボット社会の問題、ネット社会やAIの役割などなどの検討が、本書には欠けていた。
≪079≫ それでも、昨今はやりのユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(河出書房新社)、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)、バイロン・リースの『人類の歴史とAIの未来』(ディスカヴァー21)などよりは、本書に没頭してみることを薦めたい。
≪074≫ たとえば、いささか舌足らずではあったけれど、ノーベル化学賞を受賞したソディが「金利とは、偶然からなる人間どうしの間の合意でしかなく、資本が従属するエントロピーの原則に長いあいだ矛盾したままでいるのは不可能だろう」と述べていることなどを、どう解釈していくかということだ。
≪075≫ けれども、エントロピーの処理を経済学者や歴史学者が扱おうとすると、ついついジェームズ・ジュールやウィリアム・トムソンの自然神学の伝統にもとづきすぎたり、その逆を切り通すマルクス(789夜)の資本論や労働論に加担しすぎることになる。最近、上梓されたばかりの斎藤幸平君の『人新世の「資本論』(集英社新書)はたいそう才気煥発な著書ではあったけれど(だからぼくも帯に推薦文を寄せたけれど)、資本の問題に言寄せたぶん、各種エントロピーの排出には届かず、アントロポセン論としてもかなり片寄っていた。
≪080≫ ちなみに最近は「人新世」を冠した本がふえつつあるが、クリガン=リードの『サピエンス異変』(飛鳥新社)、篠原雅武の『人新世の哲学』(講談社選書メチエ)など、いずれも帯には短く襷には長かった。千夜千冊の読者はやはり本書にとりくむのが一番いいと思う。
≪081≫ またちなみに、ついに100歳を迎えたジェームズ・ラブロックがアントロポセンよりもさらに先を見越した『ノヴァセン(Novacene)』(NHK出版)という本を仕上げ、落合陽一君を悦ばせていた。気楽に喋っているような本だが、エレガントな味がある。アントロポセンのあとの時代は、ついに電子的知性が関与するだろうという予言になっている。コロナ禍の正月に読むにふさわしい。
≪082≫ 今夜が2020年最後の千夜千冊だ。今年はジャン・ミシェル・モルボワ(1730夜)の『見えないものを集める蜜蜂』(思潮社)から始めて、多和田葉子(1736夜)を書いたところで新型コロナ・ウイルスの日本上陸ニュースに出会い、カール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』(飛鳥新社)やフレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)や西山賢一の『免疫ネットワークの時代』(NHK出版)などを急遽紹介した。
≪083≫ 一方で、角川ソフィア文庫「千夜千冊エディション」の構成と加筆が進行していたので、『宇宙と素粒子』や『方法文学』や『サブカルズ』のための千夜を挿入する日々も続いた。ぼくにとっての千夜千冊はもはや回峰行に近いものがあるけれど、実際には薪をくべる風呂焚きに近く、その夜に風呂に入ってもらう著者を、あらかじめ用意したさまざまな形の風呂桶で温まってもらうべく、釜の外の焚き口であくせくしているといった体(てい)なのだ。
≪084≫ まあ、そんなことはともかく、大晦日の千夜千冊をアントロポセンな1冊にできて、ちょっとホッとしている。著者2人と一緒に風呂に入るつもりで綴ったのだ。「大晦日定めなき世のさだめ哉」(西鶴)、また「歌反故を焚き居る除夜の火桶かな」(子規)。では、来年もよろしく。
≪01≫ われわれがいま一番失っているか、もしくは苦手になっていることが少なくとも2つある。ひとつはインスピレーションを受けたり放ったりすること、もうひとつはトポスにこだわってその夢を見ることだ。世の中がエビデンス(証拠)のなすりつけあいになって「ひらめき」が後退し、どこでもいつでもユビキタスになれるため「その場」にこだわれない。
≪02≫ インスピレーション(inspiration)が稀薄だということは、いつのまにかわれわれにインスパイア(inspire)が出入りしなくなっているということである。内示してくるものが衰え、外示するものが来てくれない。これでは「ひらめき」が乏しくなる。直観が鈍るのは当然だ。
≪03≫ トポスにこだわれないのは、場所に対する執着が薄くなっているということである。食う寝るところも住むところも贅沢をいわなければ適当に選べるし、旅をするのも友を訪ねるのもいつでもできるので、特定の場所にはこだわらない。しかしトポス(topos)がどうでもよくなればトピック(topic)もどうでもいいわけで、したがってユートピック(u-topic)にも夢を感じないということになる。
≪04≫ そんなことを、死んだ父親が残した借金をやっと返しおわって、さて一文なしになってこれからをどうしようかと左見右見しているころに考えていた。1970年の晩夏のことだ。そして、ふいに思い立った。一年後に雑誌を創刊してみようと決めたのだ。オブジェ・マガジン「遊」と銘打ち、そこをトポスとして、さまざまなインスピレーションが飛び交う場にしたいとも決めた。
≪05≫ 場所について本気で考えてみたかったので、「遊」創刊号からしばらく「場所と屍体」を連載した。父の死に遭遇して感じたこと、中村宏の《場所の兆》というタブロオを見て触発されたことを書いた。そのすぐあとベルクソンの卒業論文「アリストテレスの場所論」を読み(そのまま白水社の『ベルクソン全集』をそこそこ読んだが)、さらにそこからアリストテレスのコーラとトポスをめぐる場所論の周辺をあれこれさまよった。
≪06≫ それから三年ほどしてからだったか、ルネ・デュボスの『内なる神』が翻訳されたのだ。びっくりした。抜きん出た場所論だった。
≪07≫ デュボスを読むのは初めてだったが、第六章の「場所の永続性」に惹かれて前後を読みすすむうちに、端倪すべからざる生命思想の持ち主であることが伝わってきた。実在のかくれた側面、連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合を対比させながら見るといった問題意識は、ほとんどこの本からもらったもので、それはそのままぼくの知覚や思索のバリアを食い破ってきた。
≪08≫ いまおもえば生物学者が「複雑系としてのシステム」について言及してみせた最初の、おそらくは最も高度な思想書だったのではないかとおもう。デュボスは1970年代の初期に「多型系・非線形」としての複雑さをめぐって、MITのジェイ・フォレスターと深い議論をしてもいた。
≪09≫ しかしデュボスがもっとすばらしいのは、「人間の精神」というものをトポスとインスピレーションの交差で語れていたことだった。「測定されたこと」を、つねに「設計されるもの」と「変化するもの」によって照射しつづけようとしたことだった。
≪010≫ デュボスは1901年にフランスで生まれて十代でアメリカに渡り、前半生を微生物学者としてロックフェラー研究所を中心におくった。
≪011≫ 世界細菌学界のリーダーで、医療世界を一新した抗生物質の研究開発者でもあった。デュボスによって抗生物質が誕生し、デュボスによって抗生物質が広まった。「細菌生態学」というニュージャンルも開拓した。戦後すぐの1945年にはいまでも名著として数えられている『バクテリア細胞』(未訳)を書いた。
≪012≫ こういう経歴だったから、いかにも微生物化学や医化学技術の最先端に君臨しているように見えるので、最初はそこになんらかの注目すべき思想があることなど期待してはいなかったのであるが、どっこい、そうではなかった。むしろ抗生物質によって何でもクスリに頼ればいいという安易な風潮が広まり、医療技術の発達が自然界と身体界に対する「恐れ」と「畏れ」を稀薄にしてしまったことを反省しつつ、自分はできるかぎり「精神の原郷」のための「内なる神」に言及しておきたいということを強調する、たいへんな思想者だった。
≪013≫ 話題はまさに古今におよび、引用されている発言は多岐にわたっていた。それにもかかわらず、その大半はみごとに厳選されているリベラル・アーツ(教養)であって、その根っこも深いところに突き刺さっている。こうしてデュボスの本のほとんどを読むことになったのである。
≪014≫ デュボスの場所論は2つの「ここ」に根差している。「生きている場所」あるいは「人間の生きる風土」だ。アリストテレスやベルクソンの場所論には目もくれていない。もっと新しい視点で構成されている。
≪015≫ デュボスは、場所にはもともと「エンシオスの神」がいると言った。エンシオス(entheos)は“enthusiasm”の語源にあたるギリシア語である。これは「インスピレーション」(inspiration)の語源だ。デュボスは、場所には「内なる神」としてのインスピレーションが潜在していて、このインスピレーションを取り出すことが人間の精神の力であり、そうだとすればそれこそが「場所の精神」のルーツだろうと言ったのである。
≪016≫ こういうことに気がついた科学者はきわめて少ない。文学者や芸術家は少しく気づいた。D・H・ロレンスが「土地の精神」を綴り、ロレンス・ダレルが「場所と精神」を較べ、ジェラード・マンリー・ホプキンズが「心景」(inscape)ということを言った。建築家にとっては「ゲニウス・ロキ」(地霊)という言葉がおなじみだろう。
≪017≫ これらには魂や 霊 が出入りしていた。インスピレーションが跳ねていた。ただ、このままでは「科学」にはならない。そこをデュボスは踏みこんで、「地球についての神学」を足場に組み、地球と遊離酸素の関係を吟味しながらしだいに神学的な脚立を取りはらい、ついでは自然という見方だけでは場所にひそむ胚胎の本質が見えないと言って、場所が萌芽させる生命の動向、すなわち有機体としての分子の声に耳を傾けていったのである。
≪018≫ 有機体を哲学するという発想はすでにホワイトヘッドが『過程と実在』(松籟社・みすず書房)などで、あらかたの体系をつくりつつあった。
≪019≫ だからデュボスもそこに与したことになるのだが、デュボスはその有機体としての活動概念のなかから、正確に生命活動に適応できた動向だけを取り出し、「反応」と「応答」の相違を抜き出した。そのうえで地球と生命の関係、あるいは場所と人間の関係を切り離さずに相互作用として記述できる可能性の探検に向かっていった。
≪020≫ デュボスの探索はそこにとどまらなかった。あらかた生命の問題を叙述しおえると、ついでは場所というものがその後の人間の共同体によって部落や都市や国家になっていったことを眺め、そこにもう一度、原初の「内なる神」が本気で躍動しているかどうかを調査した。調査の結果は残念なものだった。部落や都市や国家がつくりあげたはずの「文化」はいつのまにか「技術」に取って代わられていた。デュボスはそこに読者の目を導いていく。産業社会や工業社会がすでに「内なる神」を失いつつあることを指摘し、これでは人間の理性はインスピレーションを喪失したままになるだろうという警告を発したのだった。
≪021≫ デュボスの思想の語り方は独特だ。本書以外でもその語り方をした。数あるデュボスの著書のなかで、いくつかの印象にのこったことをメモっておく。
≪022≫ 順不同でいくが、『生命の灯』(思索社)はタイトルからは想像がつかないかもしれないが、人間を考えるには生命以前の段階から観察を始めて、どこから生命の点火がおこったのかを考えるべきだと主張したものだ。物質がどこから生命になっていくかを考えることが、人間が自然界のどこから人間になるのかということを推理させうると言ったのである。
≪023≫ 『人間への選択』(紀伊國屋書店)は、人類という生物学的な普遍性が人間であることを選んだ理由を考えるには、人文学者も社会学者も自然科学者も「聖地」の特色をちゃんと知るべきだということを提案している。聖地とは何か。パワースポットなどではない。古代中世人が「かたじけないもの」を感じて選地した「聖地」と対面しなさいというのだ。聖地としてのトポスを論じていて示唆深い。
≪024≫ タイトルが意外な『理性がまどろむ時』(思索社)は原タイトルが『理性という名の怪物』であったことを知れば、その意図の見当がつくかもしれない。17世紀に始まった理性主義が科学を曖昧にしていった意味を問うたのだ。ぼくはフランシス・ベーコンを分析しているところに興味をもった。今日の科学者でベーコンのイドラ(偶像)をめぐる議論の限界を問題にできる科学者など、いなかった。
≪025≫ 大著『人間と適応』(みすず書房)では、デュボスのありったけの知を駆動させた。われわれがとっくの昔から外部環境の諸因子をとりこんでいて、それを一方では栄養として他方では体内細菌として活用しながらも、大気汚染や環境汚染や人為的な化学汚染をふりまいてきたため、さしものホメオスタシスが少しずつ狂いはじめていることを指摘し、このままでは適応と制御の意味を変更せざるをえなくなっていると警告を発した。もっと多因子系の研究が必要だというのである。
≪026≫ こうしたなか、ぼくが気にいったのは『健康という幻想』(紀伊國屋書店)である。これは人類がどのように健康や長寿を求めたかという歴史を、ふつうなら病気の歴史にしてしまうところを180度ひっくりかえして「健康幻想史」にしてみせた。人類が「健康」という観念とそれにまつわるでたらめな規準をつくりあげてしまってから、人間は健やかなるものを失ったという説だ。それを抗生物質の発明者が書くところが、デュボスのデュボスたるゆえんなのである。ただしぼくは、この本によって「健康なんてくそくらえ」という方針を確立させてしまい、おかげで健康から見放されることになってしまった曰くつきの本だった。
≪027≫ さて、ルネ・デュボスが81歳で亡くなる直前の1982年2月20日、「遊」の内田美恵がニューヨークの自宅に赴いて貴重なインタビューをした。遺著となった『生命の祭祀』(未訳)が刊行されたばかりだった。
≪028≫ 内田はアメリカ領事の娘で6歳から英語を喋り、フォーラム・インターナショナルの通訳者・翻訳者として工作舎に来てからは、ぼくの担当になって多くのセイゴオ・コンテキストを英語にしたり、多くの外国語書籍を一緒に“解読”したりするパートナーになっていた。だからぼくの好みはよくわかっていて、デュボスにぞっこんなのも知っていたので、ニューヨークに行った折に会ってきてくれたのだ。
≪029≫ 23歳まで英語を話せなかったフランス人デュボスと、16歳まで日本語がカタコトだった内田が、場所や風土や言語を通して雑談を交わしながら、生物や人間に出入りするパターンやプロセスの話題を深めていくというインタビューだ。
≪030≫ そこでデュボスが強調したのが、“Use it or lose it”ということだった。「使うか、失うか」という意味だが、デュボスは生物も人間も社会も、ずうっと「使うか、失うか」を試してきたのに、そこから何を選択していいのかわからないような文明をつくってきたことを、振りかえった。これは科学者がずっとかかえてきた問題、いわゆる「合流させるのか、分離するのか」にもあてはまっていた。
≪031≫ 内田が持ち帰ってきたテープを聞きながらデュボスを偲びつつ、もっと聞いておきたかったことがいろいろあったなあと嘆息した。とくに訊ねておきたかったのは、ぼくにはついつい発生に立ち戻ってものごとを考えるくせがあるのだが、デュボスのように細胞や細菌や微生物のあたりから前後左右に思索と推理の翼を広げるには、どうしたらいいのか。そこにはきっと何らかの“王道”があるようにも思うのだが(仏教でいうなら「中」の思想)、科学者がそのようなミドルウェアの思想をもちつづけられ、そこにいつもエンシオス(インスピレーション)の神を出入りさせられるにはどうしたらいいのかということだった。
≪032≫ あれからまた20年ほどがたった。まもなく21世紀だ。デュボスは『内なる神』のあとがきを「私は多くの春を過ごしてきた」と書き始めたものだったが、ぼくもそういう幾多の春を思い出しつつ、その著書をくりかえし啄むしかなくなっている。
≪033≫ デュボスのことばかりではない。大半の本の著者たちが、もはや会えない著者ばかりなのだ。ぼくは本の中で、新たに「エンシオスの逬り」を浴びるか発揮するしかなくなったのである。だったら、そうしよう。あえて既読したものにもう一度触れなおし、エンシオスの着脱に感じいってみよう。
≪034≫ こうして一週間ほど前から「千夜千冊」という試みを始めたわけである。毎夜、ウェブの中で本を啄んでみようという試みだ。いま第10夜にやっと届いたばかりだ。第1夜が中谷宇吉郎の『雪』、2夜がロード・ダンセーニの『ペガーナの神々』、昨夜が丸谷才一で、そして今夜がルネ・デュボスなのである。
≪035≫ もう一言、付け加えておきたい。今日的な意味でデュボスの言葉に耳を傾けておいてほしいのは、きっと次のことに尽きているからだ。それは、デュボスが何度も「未来に対する創造性を期待するなら、経済の発展と技術の革新に目を集中させないことだ」と言ってきたということだ。これについては、デュボスが1972年から六年間にわたって国連人間環境主義のアドバイザーを務めたときの、もっと有名な言葉がある。“Think globally, Act locally”というものだ。日本にこそあてはまる。
≪036≫ 附記¶デュボスの本はみな出色であるが、おもしろく読み進むには、『人間であるために』(紀伊国屋書店)、『人間への選択』(紀伊国屋書店)、『目覚める理性』(紀伊国屋書店)、『理性がまどろむ時』(思索社)、『生命の灯』(思索社)、『人間と適応』(みすず書房)、『いま自然を考える』(思索社)、『環境と人間』(ブリタニカ)、『パストゥール』(河出書房)などという順で読むと入りやすいかと思う。専門書の『バクテリア細胞』は『細菌細胞』という邦訳が昭和27年に岩波書店が出した。ちなみに、ぼくは大好きなのだが、『健康という幻想』(紀伊国屋書店)は危険な書かもしれない。禁煙運動をしたいような諸君は読まないほうがいい。
≪01≫ 「黒人はその黒さの中に閉じこめられている。白人はその白さの中に閉じこめられている」。「ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない」。「白い世界はない。白い倫理はない。ましてや白い知性はない」。
≪02≫ こんな激越なマニフェストが連発できる黒人はいなかった。自分で自分をニグロという黒人もいなかった。フランツ・ファノンが出現するまでは――。この言葉がどれほど激越なものであるかは、日本人が「黄色人種宣言」をしたことなど、かつて一度もなかったであろうことをおもえば、想像がつく。
≪03≫ 「ニグロは自由の値を知らない。なぜならニグロは自由のために戦ったことがないからである」。この言葉の「ニグロ」を「日本人」におきかえれば、どうか。それはかつて一度も日本人が発したことのない言葉だ。誰も「日本人は自由のために闘ったことがない」とは言えては、いない。
≪04≫ マルチニック人。 フランツ・ファノンは1925年にフォール・ド・フランスに生まれている。カリブ海のフランス領アンティル(西インド)諸島マルチニック島の首府。
≪05≫ 植民地だ。 そこでは公式にはフランス語が話される。けれども現地民はクレオールを話す。学校の教師はそれをやっきになって消し去ろうとするが、うまくいくはずがない。アンティル諸島の言葉は、フランスに地方語とフランス語があるように、それ自体が厳然たる歴史文化なのである。けれども何が違うかというと、ブルターニュ語を喋る現地民はフランス人に対してコンプレックスをもっていないが、アンティル諸島人は白人にコンプレックスをもっている。
≪06≫ もうひとつ違いがある。それはアンティル諸島の黒人はアフリカに生まれ育った黒人よりも“開化”(evolue)していると感じてしまっていることだ。とりわけマルチニック島人は自分たちを“黒人の中の白人”だと思おうとさえしていた。ファノンの生地には黒人エリート意識があったのだ。本書には「わたしはマルチニック娘」と「ニニ」いう作品を分析してみせている箇所があるのだが、そこにはファノンの苛立ちと苦みが走っている。
≪07≫ しかしどんなに装っても、ファノンはアフリカ人であって、ニグロだった。そして黒いフランス人のふりをさせられて青年になったのである。ファノンはずっと悩みつづけた。だから、同じマルチニック島出身の詩人エメ・セゼールらが「ネグリチュード」という考え方を謳歌したときは、すぐさまそれに飛びついた。「黒い皮膚こそ美しい、黒い皮膚こそ尊い」という思想である。
≪08≫ が、黒いから美しいというのは、黒くなければどうだと言うのかが、わからない。黒いだけで尊いのなら、黒い者は何もしなくたっていいことになる。
≪09≫ ファノンは憤然たる矛盾に体が沸き立つ激情をおぼえ、しかもその原因がどこにあるかがわからないことに、立ち止まる。
≪010≫ 青年になったファノンは、この植民地でおこっていることは、世界の秩序をほしがっている一部の連中による絶対的無秩序化であることを感じた。また逆に、いかなる救済にも「抜け目なさ」がひそんでいることを感じていた。
≪011≫ ともかくここには、何かと何かが断ち切られているのだ。分断されているのだ。それはいったい、植民者(コロン)と本国者によっての分断なのか、それとも、皮膚の色によっての分断なのか。もしも皮膚の色によっているというのなら、「その色が生まれ出ずる原点」にまで戻って、歴史を再開させなければならない。
≪012≫ 変更ではない。変更では足りない。変更ができるなら、黒い皮膚を変えるだけですむ。マイケル・ジャクソンではないが、皮膚をむしりとるなんて、それこそは悲劇であろう。
≪013≫ 歴史の変更ではないとしたら、歴史のやりなおしを迫るべきなのだ。誰に? その歴史をつくってきた連中に対して、である。
≪014≫ そう決意したときに、世界は第二次世界大戦に突入しようとしていた。ファノンはド・ゴールの「自由フランス」に志願する。そして戦った。そこで戦争と暴力の本質を見た。しかし、そこには黒人の闘いはなかった。
≪015≫ 戦後、ファノンはリヨンに行って精神病理学を学ぶ。だからファノンは精神科医でもある。どこか、のちのフェリックス・ガタリを思わせる。ガタリも精神分析と戦争機械を執拗に関連づけて死んでいった男だったが、ファノンにもそういうところがあった。いや、ファノンこそは最初の戦争機械の精神分析学者であったのだ。本書の3分の1くらいは、あえて「黒人を白人の精神病理学で見る」という試みに費やされている。
≪016≫ ファノンが『黒い皮膚・白い仮面』を書いたのは、1952年にアルジェリアに精神科医として赴任する直前のことである。27歳だ。ほとばしるほどに若いけれど、それはファノンが死ぬわずか9年前のことだった。
≪017≫ そのアルジェリアでの2年後、ファノンは決定的な民衆の武装蜂起に出会う。1954年11月1日未明、アルジェリア各地で一斉に武装蜂起がおこったのだ。アルジェリア戦争の勃発である。フランス政府とアルジェリア総督府は、この蜂起は「少数のテロリスト」と「一握りの暴徒」による憎むべき仕業と挑戦というふうに発表し、徹底的な逮捕と弾圧と駆除に乗り出した。
≪018≫ 武装反乱を指導していたのは、アルジェリア民族解放戦線であった。そこには政治組織FLNと軍事組織ALNがあって、広範な住民の支持を得ていた。武装ゲリラはそうした住民の中に紛れては、果敢な抵抗と過激な反撃を示した。フランスは軍隊を増強してゲリラ狩りに突進し、不審な者を片っ端から逮捕して拷問にかけては、自白を強要した。その実情はアンリ・アレッグの『尋問』(みすず書房)にも描かれている。
≪019≫ ファノンがいたブリダの病院にも次々に負傷者が運ばれてきた。もっと恐ろしいのは拷問によって精神異常をきたしたり、廃人同然になった患者たちが運ばれてきたことである。ファノンは1956年に辞表を叩きつけ、その後はFLNの最も活動的なメンバーとなっていく。
≪020≫ ファノンは書くことにした。言葉を爆弾にすることにした。ファノンがFLNの機関紙「エル・ムジャヒド」に書きつづけたメッセージはたちまち知られるようになった。その革命思想は「ファノニズム」とさえ言われた。フランス政府と現地総督府にとっては、これは恐るべき敵の出現だった。
≪021≫ ファノンがFLNから投げかけたメッセージは、一言でいえば、あのチェ・ゲバラとまったく同様の、「すべての反乱をアフリカ全土へ」というものだった。
≪022≫ たとえば、1958年8月12日付の「エル・ムジャヒド」に書かれたメッセージは、「アフリカの男よ! アフリカの女よ! 武器を持て! フランス植民地主義に死を!」という、これ以上過激な言葉はないというほどのものだった。これでは政府と総督府は放っておけない。すぐさまフランツ・ファノン暗殺命令が出る。ファノンが乗るはずの車が爆破され、寝るはずだったベッドに自動機関銃がぶちこまれた。何度かにわたる暗殺指令を危機一髪で逃れたファノンは、一日にして世界のお尋ね者になったのだ。ファノンは“50年前のウサマ・ビンラディン”になったのである。
≪023≫ フランスがいまでもゲリラ的内戦やテロリストの排除に二の足を踏むのは、この、フランスにとっては忌まわしい「フランツ・ファノンの記憶」がよぎるせいである。
≪024≫ しかしファノンには黒い皮膚とともに、もうひとつの業病がつきまとっていた。白血病である。1960年12月、ファノンはやむなくモスクワの病院で治療を受けるのだが、ほとんど治癒しなかったようだ。
≪025≫ 早くも自身の宿命を感じたファノンは、しかし、非暴力主義を貫いて凶弾に倒れたルムンバのような“アフリカ的存在”のことを思うと、病院に寝てはいられなかった。
≪026≫ アルジェリア解放闘争のほうは、7年におよぶ泥沼のような戦闘の果てに、ついに1962年7月にアルジェリアの独立が承認されることになる。しかしながらファノンは、その独立達成のニュースを知ることなく、白血病で死んだ。36歳だ。
≪027≫ 本書は木幡和枝の愛読書だった。木幡が本書に惚れたのは、おそらくブラック・パンサーの舞台でファノンが熱烈に読まれていた同時代の波濤の中にいたからだったろう。
≪028≫ そのころ「暴力」という言葉は、どこか美酒に酔うような響きをともなっていた。まだベトナム戦争と北爆が続いていて、アメリカの各都市で黒人が暴走しては抑圧されていた時期である。日本では連合赤軍の秘密裏の活動が浅間山の山中からベイルートの市中にまで及んでいた。「長い熱い夏」という言葉が、どこにも、いつでも、あてはまっていた時期である。
≪029≫ そうしたなかで、ファノンが『地に呪われたる者』の第1章に書き上げた暴力論は、ある意味でバイブルになっていた。それはソレルのファッショ的な暴力論に代わるものだった。当時は、太田昌国らが刊行していた『世界革命運動情報』にファノンの暴力論が訳出されていたようにおもう。
≪030≫ しかし冒頭にも書いたように、日本には「黄色いから闘う」という闘争も、「自由がないから闘う」という闘争も、かつてまったくなかったのである。
≪01≫ デカルトのサンス・コマン(センスス・コムーニス=共通感覚)には「常識」という意味と、もうひとつ「心の座」あるいは「心身相関の場所」という意味とがあった。後者の共通感覚についての認識が、いつしか前者のデカルトふう「常識」となり、さらにその常識が一人歩きして、後者の「共通感覚」との密接な関係を忘れてしまうようになったのは、どうしてなのか。
≪02≫ 中村雄二郎はこのことに気がついて本書にとりくんだ。日本の哲学者の本としては、三木清や羽仁五郎以来のことだったろうか、めずらしく熱狂的に迎えられた。
≪03≫ すでにカントは「共通感覚とは、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己をおく立場のことである」と言っていた。マルクスは『経済学・哲学草稿』(岩波文庫)で、「五感の形成は、現在にいたるまで全世界史の一つの労作であろう」と、まことにマルクスらしい言い方をした。メルロ゠ポンティはドイツの民族言語学のヘルダーを引いて、「私はヘルダーとともに、人間とは一個の永続的な共通感官であると言いたい」と書いている。過激なのはハンナ・アレントである。『人間の条件』(ちくま学芸文庫)で、こう言っている、「共通感覚を奪われた人間は論理的に考えることのできる動物以上のものではない」。
≪04≫ このように先駆者たちによって指摘されてきた共通感覚を、さて中村はどのように料理して、統合したのか。脱帽するほどに巧みな編集的説得力を組み立てたのだ。だいたいこの人はよほどの編集哲学者なのである。
≪05≫ 共通感覚(common sense)とは、五感をバラバラにしないで、つねにそのいずれかを複合的に組み合わせて発揮してきた知覚のことをいう。
≪06≫ こんなことは古来みんながやってきたことで、ごくふつうに考えれば、われわれが「コップに手をのばしてその水を飲む」という日々の行為のなかで完全に成立しているものである。幼児だってコップの水を飲めるようになったときは、完璧な共通感覚を発揮できたということになる。つまりこんなことはそれこそ常識なのだ。
≪07≫ ところがハンナ・アレントが指摘したように、この共通感覚がいつしか世界となんの関係もない内部能力になってしまったのである。第五四一夜のシトーウィックの『共感覚者の驚くべき日常』(草思社)でも紹介しておいたように、ハンバーグやマンゴーを見るとそこにギザギザとかキトキトといった触覚や聴覚を感じるというのは、そもそもは人間が本来もっていた知覚能力だったはずなのに(幼児はそのような共感覚をもっていると想定されている)、いまやそのように感じられることを告げる能力の持ち主だけが驚くべき共感覚者だということになってしまったのだ。なぜ、こんなふうになったのか。中村は次のように解読してみせた。
≪08≫ 古代ギリシア・ローマでは共通感覚はほぼ正確に捉えられていた。これはキケロに代表される「レトリック」(修辞学)が大きな力を発揮して、共通感覚をレトリックとして言葉にできる方法が確立したことを意味していた。
≪09≫ 共通感覚はリアルタイムな知覚のプロセスでおこっていることなのだが、それが言語として取り出せ、組み立てられるようになったのである。この方法を「トピカ」(topica)とよんでいる。すでにアリストテレスが『トポス論』の中で説明していた。
≪010≫ キケロ的方法を人間の能力の「常識」として謳歌したのが、ひとつはトマス・アクィナスらの神学者であり、ひとつがルネサンスの人文主義者たちである。前者は神を認知する認識の哲学としての共通感覚の重要性を指摘し、後者は共通感覚を詩歌から建築にまで及ぼすユマニスム(ヒューマニズム)として、広範な哲学にまでなった。中村はふれていないが、ルルスからクザーヌスをへてライプニッツに及んだ「アルス・コンビナトリア」(結合術)の構想や「ローギッシュ・マシーネ」(論理機械)の構想も、キケロ以来のトピカ的方法知を継承するものだった。
≪011≫ その後、フランシス・ベーコンはキケロ的方法からとくに「トピカ」を活用して、共通感覚とトポス(場所)とレトリック(編集)を結びつけ、新たな「知の体系」まで組み立てた。いわゆる『ノーヴム・オルガヌム』(新機関)である。ぼくが大好きになった編集方法で、大いに影響をうけた。
≪012≫ ベーコンは、一定の問題に対して一群の論点が対応する場所を想定しておいて、そのことによって説明に必要な論点がいつでも探し出せるようなしくみ(新機関)を考え出したのである。こうすれば共通感覚はいつでもフルに動くと考えたのである。ベーコンは、知の組み立てには「技法や合理の発見」と「概念や論点の発見」との両方が必要で、それにはとりわけ「準備」と「示唆」が重要になるとみなし、その準備と示唆がつねにともなうような知の体系に挑んでいた。だから、このような知の体系こそが、近世ヨーロッパの「共通感覚にもとづく常識」を形成するはずだったのだ。
≪013≫ けれども、この組み立てがいったん崩れてしまったのである。それどころか中村によれば、その後の近代ヨーロッパはこのような方法にも知の体系にも関心を払わないようになった。そしてそのうちに、知は常識(コモンセンス)とはべつの社会的な一般性を示す意味をもつようになり、そこから人間の知覚や知識の本来を支えていたはずの共通感覚との関係が忘れられてしまった。
≪014≫ まったく忘れられたわけではない。中村はデカルト、トマス・リード、シャフツベリ、ヴィーコ、ベルクソンなどをとりあげて、それぞれの相違点をあきらかにしながら、とくに探究者としてのヴィーコにおいては「共通感覚にもとづく常識」による「知の学習方法」がほとんど再生されそうになっていたことを熱っぽく指摘している。
≪015≫ ヴィーコはデカルトの『方法序説』(岩波文庫)を激しく批判して登場した哲学者で、デカルト以来、真理の厳密性を重視するあまり、知性の領域から共通感覚と実践的な知恵とが追放されすぎたのではないかと見ていた。そこで、「真か偽か」を問うだけではなく、むしろ「真らしく見えるもの」「偽らしく見えるもの」を総じてとりあつかえる方法をとりもどすべきだとして、『新しい学』(中公文庫)を著わした。けれどもヴィーコの勇気もむなしく、近代社会はセンスス・コムーニスに、社会的で公共的な知識を機能させる「常識」としてのみ市民権を与えたのだった。
≪016≫ なぜ中村はキケロ、トマス・アクィナス、ベーコン、ヴィーコらに顕著な「共通感覚にもとづく常識」を喚起させる方法に、これほど関心をもったのか。
≪017≫ おそらくひとつには、共通感覚を発現させる方向においてのみ、これからの時代社会における「自己と他者」を編集する方法が集中していくのではないかと踏んだからだったろう。自己と他者というものはつねに「場面」や「あいだ」を媒介にしてコミュニケーションし、相互確認をしていくものである。その「場面」や「あいだ」には、人々がついつい忘れてしまっている共通感覚が必ずや呼びさまされている。その共通感覚をキックする感性や話題や出来事が「自己と他者」の新たな動向をつくっていくはずであるからだ。共通とは「場面」や「あいだ」を媒介にするブリッジのことをいう。
≪018≫ しかし、その方法には「負」も必要だ。本書は冒頭に、マルセル・デュシャンの《泉》とジョン・ケージの《四分三十三秒》が語られる。なぜデュシャンが便器をさかさまにし、ケージが音の鳴らないレコードを作ったかといえば、既存の判断力と諸感覚を、新たな「場面」や「あいだ」において転倒させ、人々にひそむ共通の基底をめがけて芸術がもたらす動向の意味を問うてみたかったからだった。
≪019≫ 中村はそれを「場の約束事」へのマイナスからの提示だったとした。自己と他者のあいだにいったんマイナスをおいてみること、それが「場の約束事」を喚起させるのである。本書では江戸の鎌田柳泓や唯物論の戸坂潤や美学の中井正一においても、こうした試みがなされていたことが紹介される。
≪020≫ もうひとつには、共通感覚にはそもそも身体や記憶や言語に関する最も重要な未然性が含まれていて、現代哲学や現代思想が身体や記憶や言語をつねに持ち出すというのなら、いっそそれらの母体たる未然の共通感覚をこそ議論すべきなのではないかという見通しがあったからだった。本書で逆さメガネの問題からチョムスキーの生成文法論まで、トロンプ゠ルイユの問題からベルクソンの記憶論までが幅広く検討されているのは、このためだ。
≪021≫ こうして中村雄二郎は最後に、共通感覚論の将来は、きっと「身体とリズムの関係」や「述語に包摂される主語」の問題などへと発展していくだろうという予測をたてて、本書をおえている。話題になるのは当然だった。
≪022≫ ところでぼくは、中村雄二郎の思想の束ね方や変化の仕方にはかねてから共感に近い関心があって、もっぱら三つの面に注目してきた。 第一には西洋知と日本知をどうしたらつなげられるかについて工夫を尽くそうとしたこと、第二にトポスとパトスを分離させないようにするための冒険を厭わなかったこと、第三には『述語集』(岩波新書)や『かたちのオディッセイ』(岩波書店)などに試みられたような「ゆるい束」をつくろうとしてきたことである。
≪023≫ いずれも思想編集の試作だが、とくに九〇年代に入って西田幾多郎やウィーク・ソート(弱さの哲学)に向かっていった経緯には、もっと多くの読者が注目するべきだと見ている。本書はそのような中村の〝大寄せ〟の直前の姿があらわれている一書としても、興味深かった。
≪024≫ それにしても中村はずっと以前から、一冊の著作のなかでさえ自身の思索の変遷変化を粘り強く追跡するという、特異な記述方法を貫いてきた。
≪025≫ ふつうは、自身の未熟や欠陥を自分で指摘しながらそれを埋め、補って、さらに前へ進んでいくなどという記述方法はとらないものである。多くの学者や思想家は、まるでそんなことはとっくに気がついていたと言わんばかりに、知ったかぶりをして書くものだ。けれども中村は、ごく初期のころから知ったかぶりを拒否しつづけてきた。そして、「気づき→訂正→拡充→飛躍→確認→新しい拠点の提示」という、いわばスパイラルに進んでいく記述の仕方をかたくなに守ってきた。自身の編集軌跡を示すのだ。
≪026≫ そのワインディングしながらもラッセル車のように進んできた軌跡をすべて辿ってみるとおもしろいだろう。中村学が立ち上がるにちがいない。
≪027≫ 口はばったいけれど、これは、ぼくが長らくやってきた記述の仕方でもある。自分が何をどこでどのように編集記述してきたのか、いまその編集をどんなふうに組み立てようとしているのか、そこをあえて示しながら綴るという方法だ。レヴィ゠ストロースはそれを「ブリコラージュ」(bricolage)と名付けたけれど、そのブリコラージュ(修繕と設計)の意図と痕跡を消さないでおくという方法である。
≪028≫ この千夜千冊も今夜にいたるまで(二〇〇三年六月)、八〇〇冊ほどをとりあげてきたが、ずうっとそのつもりで書いてきた。
≪01≫ コリン・ウィルソンは売れに売れた『オカルト』を選ぼうかなとおもったが、処女作の本書にした。そのほうがウィルソンが『オカルト』や『殺人の哲学』や『ミステリーズ』を書いた理由もよく見える。
≪02≫ ともかく中学校しか出ていないウィルソンが本書をひっさげて登場したときは、世界中がびっくりした。こんな書きっぷりをした男はいなかった。26歳のときの出版だ。
≪03≫ ウィルソンがここでしてみせたことは、自我の監房からの脱獄を手伝うことである。脱獄といって悪いなら破獄。
≪04≫ その手際は猛烈だった。ウィルソンは最初に誰もがH・G・ウェルズの「盲人の国」にいるはずだということを告知して、まずはアンリ・バルビュスの『地獄』の神経症患者の破獄を試み、ついではサルトルの『嘔吐』でマロニエの根っこ程度で吐いてしまうような軟弱な実存主義者アントワーヌ・ロカンタンの脱出を助けようとする。しかしロカンタンはマロニエを見て吐いた次はズボン吊りを見て嘔吐するような男である。これではアウトサイドには跳べるはずがない。
≪05≫ そこで今度は、母親の死にすら鈍感になったカミュの異邦人ムルソーとヘミングウェイの兵士クレブスに同時に手をさしのべる。むろん二人を救い出せるわけはない。なぜなら、アウトサイダーとは最初からそこにはいない者であるからだ。
≪06≫ ウィルソンはいっこうに生命力を見せようとはしないこれらの無動機で実存主義的な”引きこもり“たちに見切りをつけると、次には若きウェルテルの系譜につながるジェイムス・ジョイスのディーダラス、トーマス・マンのトニオ・クレーゲル、ヘルマン・ヘッセのデミアンたちの救済にとりかかる。
≪07≫ かれらはたしかに恋に目覚めて外へ出ていこうとした者たちである。しかし、ここでも破獄は途中で放棄されることになる。ロマン主義者たちはアウトサイダーになりきるにはあまりに自分を愛しすぎているからだ。
≪08≫ ウィルソンはしかたなく、小説の主人公から目を転じ、人生においてアウトサイダーたらんとした者に精力を向けようとする。ウィルソンのお眼鏡にかなったのはアラビアのロレンスと炎の人ゴッホと天才舞踊者ニジンスキーだった。
≪09≫ T・E・ロレンスの『知恵の七柱』を読んでみると、このイギリスの軍人はさすがには自分を勇者とは見ていない。ロレンスにとっての勇者はベドウィン族なのである。
≪010≫ これなら破獄にふさわしいアウトサイダーの資格をもっていそうだった。しかしウィルソンはしだいにロレンスの魂の旅が苦痛の浄化にあることを知って、落胆する。これではヘミングウェイのクレブス伍長と変わりない。
≪011≫ ゴッホはどうか。ゴッホこそはとても一緒に生活を望む者はいそうもない。作品がいかにすばらしくとも、さすがにゴッホとともに生きようとする者はない。
≪012≫ おまけにゴッホはロンドンに出て聖書の記述に失望し、自分なりの神秘に一歩踏み出している。これは、いい。
≪013≫ ゴッホに異様な狂気が出入りしたのもアウトサイダーの値打ちがありそうだ。せっかくテオが仕送りをしつづけているにもかかわらず、ゴッホはまったくそっぽのことに夢中になっている。けれどもゴッホはやはりヴィジョンをほしがった。そしてそのために修練をする。ゴッホはゴッホなりにアウトサイダーの制御にとりかかったのである。
≪014≫ ウィルソンが期待するアウトサイダーの条件は、自身の外なるアウトサイダー性を確信しきってほしいということなのだった。こうしてゴッホは、その作品こそアウトサイダーを実現したにもかかわらず、ヴァン・ゴッホとしての脱獄をしそこなう。
≪015≫ 同様にヴァーツラフ・ニジンスキーもディアギレフからの脱出には成功しながらも、その宗教感情によって自身の内なるアウトサイダーを停止したがった。
≪016≫ 以上のように、次々に名だたるアウトサイダーの資質の読解を試みた26歳のコリン・ウィルソンは、ロレンス、ゴッホ、ニジンスキーにすら限界を感じてしまうという、いまではちょっと考えられないような立場に突入する。
≪017≫ ふつうなら、ここで青年ウィルソン自身がパンクをするか、おかしな告白者か街の犯罪者になるところなのだが、ウィルソンはここから律動を変えて、ゆっくりとした反撃に出る。
≪018≫ 準備は、ウィリアム・ジェームズの心理学などに依ってロカンタンやムルソーやニジンスキーの特質を別の視点で拾い出すことである。そうしてみると、かれらの多くが神あるいは無神に純粋にかかわりすぎていたことを知る。そこで神とも無神とも複雑な戦いを挑む者にこそ、新たなアウトサイダーの原型が発見できないものかと考える。
≪019≫ こうして登場してくるのがニーチェであり、その奥にいるともおぼしいドストエフスキーである。
≪020≫ ニーチェについてのウィルソンの考察は、あまりおぼえていないのだが、いまひとつであった。最初から片足だけ突っ込んで引き抜こうという魂胆が見えていたような気がする。これに対してドストエフスキーとはそうもいかず、『罪と罰』のラスコーリニコフに、『悪霊』のキリーロフやスタヴローギンに、『白痴』のムイシュキンに、これまでにないアウトサイダーの資質を読み、ドストエフスキーが読者に一切の安易な解釈の糸口を与えていないことに感嘆すると、いよいよ『カラマーゾフの兄弟』に立ち向かう。
≪021≫ キリーロフやスタヴローギンでは、アウトサイダーとしての官能の自爆は牢獄や自殺によってしか贖われていない。ムイシュキンはそもそも白痴であることをもってアウトサイダーへの脱獄を免れていた。
≪022≫ しかし『カラマーゾフの兄弟』では、すべては外なる神の審問に対する内なる考究に擬せられる。これはいい。しかも肉体を象徴するドミートリイ、知能を象徴するイヴァン、感情を象徴するアリョーシャの3兄弟は何事をも解決しない。この未然の結構こそはドストエフスキーが引き受けた「全貌としてのアウトサイダーの物語」の構想にちがいない。ここまで考えたウィルソンは、しかしながらここでふと手をゆるめて、アウトサイダーの本質の回答をゾシマ神父の裡に求めることになる。
≪023≫ これではウィルソン自身が神と無神に対して敬虔な昇華を得すぎて、ウィルソン自身がアウトサイダーから弾かれることになりかねないのだが、本書はそうなってしまった。結局、そうなってしまったからこそ、ウィルソンは本書のあとに続アウトサイダーにあたる『宗教と反抗人』を、また『実存主義を超えて』を、さらには『オカルト』を書かなければならなくなったわけである。もしアウトサイダーの破獄を最後まで手助けてみたいなら、ウィルソンはゾシマ神父に満足してはいけなかったのである。
≪024≫ けれども、こんなことを26歳の思考に期待するのは無謀であった。ウィルソンはここまででも充分に、従来のどんな文芸批評家でも到達できもしない撹乱を果たしたのである。それに、読書界にとっては、本書がウィルソン自身をアウトサイダーにしないで終わったことが、きっと幸いなのでもあった。
≪025≫ ともかくも、こうしてウィルソンは最後に気が抜けたのか、ウィリアム・ブレイクとグルジェフとラーマクリシュナにみずからの意志を託して、これを何と呼んでいいのかはわからないのだが、さしずめ「超宗教」とでもいうべきアウトサイドに自身で脱出してしまうのである。
≪026≫ それはアウトサイダーという新たな存在学の告知にはなりえてはいない。この世の意識には「アウトゼア」という場所がありうることの告知であった。むろん、それでよかったのである。本書の「訳者あとがき」で福田恆存はこんなふうに書いている。
≪027≫ 「自分の病気に苦しむのと、それを苦しまずに冷静に語れるのと、そのどちらが病的か。誤解されるのと、誤解が消滅するのと、そのどちらにより強い人間的紐帯を信じることができるか。一口にいってしまえば、アウトサイダーの真実は敗北することによってしか、残らぬのではないか」。
≪028≫ 犯罪者にもならず、告白者にもならず、ひたすらアウトサイダーであろうとすること。それは本書に登場するすべての異才や奇才たちにとっても容易ではなかった。むしろ、今日の社会はこのようなアウトサイダーの失敗を少なめにして、かえって小さな犯罪と小さな告白をふやしすぎたようにおもわれる。
≪01≫
慰安婦問題、徴用工問題、竹島領有問題などが重なって、
日韓関係はややこしいデッドロックにひっかかったままにある。
拉致問題このかた北朝鮮との他人行儀すぎる付き合いも、
およそ打開策をもてないでいる。
日本人の好悪感情も、「韓流ブーム」かと思えば「嫌韓」なのである。
互いのヘイトスピーチにも過激なものが少なくない。
「在特」という言葉は「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が
喧伝して広まったけれど、ずっと以前からくすぶっている言葉だった。
≪01≫ 慰安婦問題、徴用工問題、竹島領有問題などが重なって、日韓関係はややこしいデッドロックにひっかかったままにある。拉致問題このかた北朝鮮との他人行儀すぎる付き合いも、およそ打開策をもてないでいる。日本人の好悪感情も、「韓流ブーム」かと思えば「嫌韓」なのである。互いのヘイトスピーチにも過激なものが少なくない。「在特」という言葉は「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が喧伝して広まったけれど、ずっと以前からくすぶっている言葉だった。
≪02≫ いとこ同士なのか近親憎悪なのか、わからない。何かが忌わしいと感じられた向きもあった。そこへトランプ大統領と金正恩の綱引、韓国政権のいちじるしい不安定が浮上してきて、直近ではGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の中断が割り込んで、日中韓朝米の五ヵ国の軍事関係や安全保障問題も前途の雲行きがあやしくなってきた。ぎりぎりのところでGSOMIAは温存されたが、なぜこんなふうになったのか。
≪03≫ そこで、本書の著者は日本・韓国・沖縄に相互にひそむ「自虐」と「侮蔑」がひょっとして事大主義の言説のストリームとして掬せるのではないかと思ったのである。すでに中江兆民は「われわれにひそむ恐外病と侮外病」というふうに言っていた。なぜ東アジアでは、そんなに「外」の侮蔑と「内」の自虐が同居してしまったのか。
≪04≫ 英語では「事大主義」のことを“toadyism”とか“flunkyism”と言うのだが、この英語からは東アジアにおける事大主義の複雑骨折したような動向は見えにくい。
≪05≫ 事大主義をめぐる歴史の変遷についても、突っ込んでいけばいくほど、ややこしい。これまでもこの問題のどこに核心があるのか、日本側でもうまく指摘されてこなかった。研究者も多くはない。淵源は中国である。このあとすぐに説明するが、中華主義と華夷秩序が今日にいたる事大主義のさまざまな襞を彫りこみ、刻んできた。ただし、その歴史をさかのぼりつつ今日までの変化を読み取るのは容易ではない。
≪07≫ 今日の日本では「事大主義」といえば、時流や大勢に準じて事態を判断する態度のことで、おおむね「無定見」や「日和見主義」の代名詞になっているかのように聞こえるが、東アジアの歴史ではもっと地政学的なさまざまな意味をもってきた。
≪08≫ 古代中国がユーラシア大陸に占めた空間量と政争量がただならないボリュームで、そこに強靭な中華秩序が発現したことが、すべてのはじまりだった。まわりは「小中華」にならざるをえなかった。古代ローマ帝国の時代、周辺ヨーロッパがことごとくローマ化したようなものだ。
≪09≫ ところが、アジア全般ではそうならなかったのである。そうなったのは朝鮮半島やベトナムや琉球だけだった。だから、ここで話は朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と倭の関係に移る。アライアンスと抗争とが二重三重におこり、半島では新羅から高麗をへて李氏朝鮮が確立したのだが、倭は大和政権から武家国家への道を選んだ。ここで「事大」の意味が分かれたのだ。とくに近代日本では福澤諭吉が「事大」に「主義」をくっつけて「事大主義」という新しい言葉をつくってから、歴史的意味が変化した。
≪010≫ もともと「事大」という言葉は孟子の「以小事大」に由来して、小国が選んで大国に事えることをあらわした。
≪011≫ 戦国時代の斉の国の宣王の下問に孟子が答えて、かつて隣国と抗争して劣勢にあった越が、呉へ「事大」することで危難を免れたという例を引いて、小国がとるべき道は大国に穏やかに事えることだと言ったというのが最初だ。孟子は「大国たるものは小国に対しても礼節をもって接するべきだ」と加え、仁と礼による外交も訴えていた。
≪012≫ 当時の春秋戦国期で小国が事大を選択することはめずらしく、武力に訴えてでも自国の存立をまっとうすべきだとするほうが断然多かった。諸子百家のなかでも「事大」を勧告した賢者は孟子だけだったと憶う。蘇秦なども、韓の宣恵王に秦には断乎として抵抗すべきだと説き、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺言をのこした。
≪013≫ ちなみに宣王は孟子の助言を受け入れず、燕を侵攻してこれを併合したため、孟子はがっかりして斉を去った。春秋戦国諸国のリーダーたちも「事大」を選ぶ国はなく、結局は秦が割拠する群雄を次々に破り、最後に斉の滅亡をもって始皇帝による古代中国の統一がおこったわけである。
≪014≫ それが漢の武帝のときに中国版図が最大になり、中華帝国を宗主とした華夷秩序が確立してくると、周辺国が中国に対して貢物をおくる「朝貢」の見返りに皇帝が周辺国の王を任命し「冊封」するという関係が成立し、ここに中国に対する「事大」が慣行されるようになった。
≪016≫ 十四世紀になって高麗の武官であった李成桂が当時の明王朝との冊封体制維持を名分として自国の王朝を滅ぼし、これを受けて明の初代皇帝の朱元璋(洪武帝)が李成桂を「権知朝鮮国事」に封じた。これは「朝鮮」という国名のもともとの由来で、いわゆる李氏朝鮮のスタートになった。李成桂は「小をもって大に事えるは保国の道」とまで事大主義を明言した。
≪019≫ 日本はどうだったかといえば、だいぶん事情が異なる。卑弥呼の時代から倭国のリーダーたちは中国に朝貢し、とくに五世紀の「倭の五王」時代は中国の南北朝期の複数の皇帝から、それぞれ「讚」(仁徳天皇あるいは応神天皇)や「珍」(反正天皇)や「武」(雄略天皇)の称号を贈られたり、また安東将軍や鎮東将軍といった称号をもらったりしていた。そういう記録はあるのだが、中国と日本とが「冊封」関係や「宗属」関係になったという歴史的資料は照合できない。
≪020≫ 聖徳太子の時代に遣隋使が始まったことも、冊封関係や宗属関係ではなかった。日本側の思惑と戦略もあって、対等などとはとうてい言いがたいけれど、それなりの外交と交流に徹した。明の洪武帝や永楽帝は「強大な中華思想」をふりまいた皇帝で、周辺国に朝貢を迫り、かなり優位な外交と交易を支配したけれど、この時期も日本はなんとか勘合貿易レベルでその支配抑圧関係を免れ、わずかに足利義満が若干の媚を売って永楽帝に「日本国王」の称号をもらった程度におわった。
≪021≫ ところが明治維新以降、こうした関係が大きく変じていったのである。それが福澤諭吉の言う「事大主義」にかまけた東アジアの近代になる。近現代における中韓日の関係になる。とくに近代朝鮮との関係が複雑骨折していった。
≪022≫ 秀吉が傍若無人な朝鮮制圧を試みた文禄・慶長の蹂躙があったにもかかわらず、その後の徳川幕府と朝鮮との関係は「交隣」とよばれ、朝鮮通信使節団が定期的に日本を訪れ、そこそこ友好的になっていた。
≪023≫ それが日本の維新近代化の断行直後から、大きく急変した。明治政府は朝鮮に対してなかば強引な開国を迫り、朝鮮側もこれに対して無礼な返事をしたというので、急変したのである。朝鮮は清との冊封関係を理由に日本の要請を拒絶したのだが、明治政府は「征韓」に走ろうとした。出兵も辞さないとする紛糾しそうな事態は西郷隆盛の下野によっていったん収まるのだが、明治八(一八七五)年の江華島事件(無許可測量中の日本艦船が朝鮮半島の陸上から砲撃された事件)で再燃してしまった。
≪024≫ これを口実に明治政府は日朝修好条規(江華条約)を押し付け、不平等条約を締結させ、その開国と近代化を拙速に促した。これで朝鮮は開国されたのだが、この仕打ちはどうみても一方的な朝鮮支配の嚆矢にあたっていた。
≪028≫ 金はやむなく日本に亡命し、頭山満や福澤諭吉らの庇護をうけつつ「独立党」をおこし、その後の捲土重来をはかることになった。これに対して旧来体制を維持しようとする「事大党」が保守勢力をかため、中国との連携を強めた。金の日本での日々は潜伏である。東京・福岡・札幌などを転々とし、小笠原諸島すらその潜伏先にするのだが、李鴻章と会うべくひそかに上海に渡ったところであえなく暗殺された。
≪030≫ 実は福澤諭吉が甲申事変の二年前に金玉均と三田の自宅で会っていた。福澤は金の祖国近代化の計画に心を動かされ、開校したばかりの慶応義塾に朝鮮からの留学生を入れることを約束した。金と朴泳孝はそれ以前から日本の援助が必要だと考えていて、一八七九年には李東仁という仏教僧を日本に派遣し、東本願寺で日本語を習得させると福澤らとの交流を始めさせていた。また翌年には金弘集を派遣して、外務省の重鎮たちと交わらせ、さらにその翌年には魚允中もやってきて福澤を訪ねていたのである。
≪031≫ こうした準備のうえ金は福澤の懐に飛び込み、三田の福澤邸を拠点にしてアジアの将来に関心を寄せる日本の要人と次々に出会っていく。しかしさきほども書いたように、甲申事変は失敗した。福澤は失望して「時事新報」に有名な「脱亜入欧」を説き、アジアの悪友(中国のこと)との親交を断って「事大の主義に依々する惑溺を除去すること」が焦眉の課題になっていることを告げた。
≪032≫ ここに、いまこそ金玉均らを助けてアジアに改革をもたらすべきだという活動が日本の中に立ち上がっていった。それはアジア主義ないしは大アジア主義、あるいは日本における事大主義批判という動向になっていく。一筋縄ではない。
≪033≫ 最初に目立って動き出したのは樽井藤吉だ。注目すべき人物だ。出自がある。一八八〇年に海軍軍人の曾根俊虎が興亜会という組織を設立した。これは欧米のアジア進出を警戒した土佐出身の植木枝盛の「アジア連帯論」に共鳴したもので、八三年には亜細亜協会に改組して、八四年には上海に東洋学館という語学学校を進出させていた。樽井はその設立メンバーの一人だった。
≪034≫ その後の樽井は東洋社会党をつくり、きわめて大胆な『大東合邦論』を著して気を吐いた。「大東」とは日韓のこと、「合邦」とは朝鮮と日本との対等合併を意図していた。樽井はさらに金玉均と頭山満や玄洋社の面々を会わせ、奈良の土倉庄三郎の協力で軍資金を集め、日本のアジア主義に火を付けた。この火を広げていったのが玄洋社である。そこから大井憲太郎の派兵計画、来島恒喜の南洋経営計画、内田良平の黒龍会、武田範之の天佑侠などの画策の火が付いては消え、消えては付くように連続していった(大井は大阪事件で事前逮捕され、来島は大隈重信暗殺で失敗した)。
≪037≫ こうなると、いったい何が事大の「大」なのか、立場によってさまざまに変化せざるをえなくなる。大日本帝国もアジア主義も日本主義も、それが大アジア主義を標榜するに及べば、何をもって「大」とするのかが問われた。
≪041≫ 大韓帝国末期に日本からの財政部顧問として派遣され、韓国併合後は財務官になった山口豊正は、『朝鮮之研究』で「事大主義は依頼心の別名である」と述べたうえ、この依頼心が日清戦争以降の日本人にもだんだん広まってきていると警告した。朝日の記者上がりの桐生悠々は「事大主義は万有引力のようなもの、大が小を引き付けるのは当然だ」と嘯き、青柳綱太郎ほか何人もの歴史学者が朝鮮史をさんざんな歴史だったとして、「明国の恩義を忘れたのが朝鮮史の悲劇をつくった」というような、かなりひどい書き方をした。そんな論法もまかり通ったのだ。
≪042≫ 逆の見方も提示された。朝鮮民族の社会文化はすでに事大主義を脱しつつあって、したがってその近代化を日韓合併によって推し進めるのは根拠が薄いと言った民本主義の吉野作造や、朝鮮の民族文化を評価すべきであるとして李朝陶磁器や朝鮮民画に目を向け、朝鮮文化の独自性を大いに評価した民芸運動の柳宗悦などは、朝鮮には朝鮮なりの独立や近代化の道があると説いた。
≪044≫ 柳田の民俗学的な視点は、日本を欧米に比肩させることをせず、また中国や朝鮮と連動させることもなく、なんとか固有の文化や社会のありかたを凝視してみようというものだった。そう見ていけば、日本人の民俗文化に事大主義があることは、むしろ誇るべきことだというのだった。
≪045≫ 本書はそのような見方が与謝野晶子、平塚雷鳥、北一輝、中野正剛、石川半山らにもあったことを案内する。晶子や雷鳥は女性が男性への依頼心を克服するべきことを謳って、日本的事大主義からの脱却を女性の側から主張し、北は孫文の三民主義による革命観に関心を寄せて、あれほどに亡国階級の通有性になっていた事大主義を孫文の中華民国が脱することを意図したことに新たな可能性を感じ、日本もそのように改造されるべきであることを『支那革命外史』において説いた。
≪048≫ 沖縄の琉球政府が中国との冊封関係にあったことはすでに述べたが、本書の第三章では、本土側の日本人はそういう琉球を「日本が朝鮮に対してもつ見方に近い目」で見ていたこと、それがその後の沖縄の事大主義の卑屈や増長に関連していたのではないかということを検討する。
≪050≫ 以上のことは時代が辺野古問題で揺れる現在になってなお、平成二六年に県知事に就任した翁長雄志が「沖縄は日本とアメリカの両方からの構造的差別に晒されている」という認識をもっていたことにも継承されている。
≪051≫ そうしたなか、折口信夫が何度も沖縄の民俗調査に入って、ニライカナイからの来訪神をマレビトとみなしたり、その常世観には沖縄と本土を隔てないものがあるとしたり、『おもろさうし』などを研究して琉球語と大和言葉のあいだには共通性があると指摘していたのは、はなはだ興味深い。
≪052≫ ただし、それがもし「日琉同祖論」のようなものから出てきたものだとすると、そこには明治日本の歴史学者や民族学者の一部が日本人と朝鮮人に「日鮮同祖」や「日朝同祖」をあてはめて日韓併合の根拠にしていたことと通ずるものがあり、折口にも事大主義の陥穽が忍びこんでいたと言わざるをえなくなる。
≪053≫ ところでぼくは坂本龍馬から薩長同盟の密使として短刀をさずけられた前田正名についてとくに関心をもってこなかったのだが、本書で初めて前田が「明治維新は薩摩藩が沖縄から略奪した財力をもとに幕府を倒したことで成功したのだ」と言っていたことに、ハッとさせられた。
≪055≫ さて、昭和に入ってからの東アジアにのたうつ事大主義については、八紘一宇や大東亜共栄圏の発想があれほどわかりやすく跋扈したのだから、もはや説明するまでもないような気がするが、本書はそのなかで適確に事大主義を議論していたのは戸坂潤と山川菊栄だったろうことを案内している。
≪056≫ 敗戦後の日本でどんなふうに事大主義が語られたかということも、およそ見当がつくことだ。政治学の丸山眞男は敗戦によって日本人の多くが「悔恨共同体」に向かっていったことにそれがあらわれていると言い、法律学の田中耕太郎は教育基本法に事大主義が反映していると言い、日本社会党の中崎敏は日本人は民主主義を「長いものに巻かれろ主義」だと受けとめたと言った。
≪057≫ 戦後日本の事大主義はマスコミにもあらわれたと真っ先に指摘したのは、毎日新聞出身の前芝確三である。前芝は「大部分の読者の事大主義と無批判性」と「独占商品としての大新聞の力」が重なって、日本のマスコミは長期にわたる事大主義的報道と解説に傾いていったとみた。高度成長した日本は、そのあげくにどうなったのかといえば、山本七平の言う「空気を読む日本人」になっていったのである。あとは、何をか言わんやだ。
≪058≫ 本書は次のように結ばれる。
……事大主義の起源は、日本が描き出した朝鮮という「他者像」なのである。だが、それは見つめれば見つめるほど、自分の姿とよく似ていた。
だから事大主義こそ日本の国民性だとする言説は、朝鮮を“鏡”として描き出された日本の「自画像」だったのである。
≪059≫ きっとそういうことだったのだろう。そう思うのではあるが、このようなことは日本や朝鮮半島や東アジアにのみあてはまるのかどうかといえば、そうでもあるまい。
ジュリア・クリスティヴァの言う「アブジェクシオン」(おぞましさ)がもっと深いところで、もっと多民族間の「恐外病と侮外病」になってきたのだと思われる。
≪01≫ 正直なことをいうと、二度と読まないだろうという気がしてほったらかしにしてあったのだが、それだけに忘れられなかった。 先だってふと思い立ち、西に向かう新幹線で再読してみて、構成と文体と会話の按配が巧みであったことにあらためて気がつかされ、ゴールディングが少年に寄せた感情の深さに相槌が打てた。
≪02≫ 帰ってゴールディングをめぐる評論や批評も拾い読みしてみたが、はなはだ情けないものだった。まさかノーベル文学賞(1983)をもらっていたからではあるまいが、日本人が『蠅の王』を語ると、闇と悪の問題を過大に語りすぎるか、あるいは逆に闇と悪の奥からやっと光をあらわす神性を裏読みしすぎて、定型的でつまらない。
≪03≫ 似たようなことは、ユイスマンスなどをめぐる批評にもいつも感じていたことだった。ぼくは澁澤龍彥という人が大好きなのではあるけれど、闇と悪を大事そうに日本人の知識人がもの申すときは、そこに澁澤の影響が少なからずはたらいていた。
≪04≫ 一方、英米の批評では、今度はおおむね文明論や極限論が勝ちすぎる。善悪を判定したがる極限論はとくにアメリカの批評家に多く、ベトナム戦争や湾岸戦争が好きなアメリカ人を反映する。つまりはコッポラの《地獄の黙示録》をめぐる議論に似ているのだ。そこへもってきて権利、義務、チーム、分担といった文学を超える議論が参集していて、読んでいてやかましい。
≪05≫ 少年たちはしだいに相手を知りあい、綽名をつけあい、島内を冒険する。高いところにのぼると、まわりが珊瑚礁にかこまれていることがわかった。少年たちは急に解放されていく。そのうちいろいろなことが決まっていった。法螺貝を象徴とすることも決まった。隊長は選挙で決めた。選挙ごっこだ。ラーフが隊長になった。狩猟隊もできた。けれども当然のことに、少年たちの性格はまったくさまざまだった。ピギーは合理派である。サイモンは敬虔なものに憧れている。ラーフはコモンセンスを大切にする。双子も交じっている。それにヘンリやモリスやジョニーや、ちびっこのパーシヴァルや悪童めいたジャックやロジャーがいた。
≪06≫ 島のことも少しずつわかってきた。ただし物語の進行では、何々を見たとか感じたという別々の少年の断片的な見聞の寄せ集めがちらちらするだけなので、ほんとうに島内に何があるかははっきりしない。たとえば島には豚がいるらしい。たしかに豚がいた。ジャックはそいつをナイフで殺しそこねてしまった。蛇もいるようにおもえた。が、その大きさは少年によってまちまちだ。
≪09≫ しかし、何の肉を? 野生の豚を少年の力で殺すことはできそうもない。少年たちは歌をうたうことにした。豚ヲ殺セ、喉ヲ切レ、血ヲ絞レ。
≪07≫ 焚き火もした。火の勢いがさかんになると、これを消せないことがわかってきた。火は守らなければならないものだったのである。それでもしばらくは順調で、少年たちは自分たちに自信が漲っていることを知る。
≪08≫ ところが、少年たちは我知らずその内面の「邪悪なもの」を吐露せざるをえなくなっていく。少年たちが一日中遊んだり喚いたり、泣いたり沈んだりしているのは最初こそよかったが、年上の子からすればそれはだんだん煩わしいものに変わっていく。火が林に燃え移り山林におよぶと、そこは煙によって修羅場のように見えてきた。なんであれ何かの肉を獲得しなければならないこともあきらかになってきた。
≪010≫ 島内にはどうやら「悪」のようなもの、「闇」のようなものの支配があるらしい。大きな蛇のようなもの、獣のようなものを見たという少年も出てきた。ぎらつく海が盛り上がりいくつもの層に分かれることも目撃した。ピギーはそれは蜃気楼だというのだが、少年たちは納得できなかった。
≪011≫ ある日、ジャックがついに豚を仕留めた。手伝った者もいた。喉を搔き切った者もいた。わーっと凱歌があがった。が、誰がどこを食べるのか。どのくらい? どのように? その肉を食べつくしてしまったら、どうするか。そのうち獣を見たという少年が説得力をもちはじめた。こんな孤島でも言葉の力というものは大きかった。けれども、それはたんなる想像の力でもあって、その想像が度を過ぎた力をもてば少年たちはその恐怖に脅えるだけだった。その恐怖は必ず闇から這い上がるようにやってきた。
≪012≫ 少年たちはその得体の知れない闇の獣のようなものに対して、殺した豚の首を捧げることにした。その首が闇を支配してくれるとおもえたからだった。
≪013≫ それが「蠅の王」である。「蠅の王」は胴体から切り離された豚の首だったが、そこには黒山のように蠅がたかっていた。ベルゼブルとよばれた。ついでサイモンが「蠅の王」の言葉を聞いた。サイモンが自分で「蠅の王」の言葉を代弁したのか、実際に「蠅の王」が喋ったのかはわからない。なぜそうなったかも、ほんとうの「蠅の王」の正体もわからない。少年たちがそう呼んでしまったから、そうなっただけなのだ。こういう得体の知れないものをめぐる奇妙な確信が物語のなかにどんどん攪拌されていくことを、ゴールディングは巧みに綴っていく。
≪014≫ 少年たちは二派に分かれた。ジャックやロジャーが悪魔に操られたような行動に走りはじめたのである。そこには病いのような権力に対する意思が芽生えていた。そのうち夜空にぱっと閃光が走って爆発音とともに異様な物体が落ちてくる。落下傘兵士の死骸だった。事態はいよいよのっぴきならないところにまで達していた。何がおこってもおかしくはない。少年はもはや少年ではなくなっていた……。
≪015≫ このあとどうなるかは伏せておくが、最後には孤島の少年たちは救助され、読者はほっと胸をなでおろす。ぼくも最初に読んだときは、ほっとした。しかし、かなり吐き気を催す寸前まで、物語は進んでしまうのだ。
≪016≫ ちなみにベルゼブルとは、聖書に出てくる悪霊の君主「ベルゼブブ」(Beelzebub)のことである。旧約では列王紀にペリシテ人の町であるエクロンの神バアル・ゼブブとして、新約ではマタイ伝やルカ伝に、律法者の「イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力を借りているにちがいない」と出てくる。ヘブライ語で「蠅の王」をあらわしていた。
≪017≫ さて、こうした物語を読んで、ほら、ここには「悪」や「罪」というものが寓意的に描かれているというのは、いただけない。そのような「悪と罪」は無垢であるはずの少年にも必ず宿るものですよというのはもちろん、ほら、お母さん、子供は邪悪なものですよ、気をつけなさいねというのは、もっといただけない。
≪018≫ また、そのようなことを描いたゴールディングはこの一作によって20世紀文学史上の『ヨブ記』の位置を占めたというのも、ぞっとしない。すでに指摘したように、この作品をめぐる批評にはなぜかろくなものがない。
≪019≫ だいたいぼくは「悪の哲学」をまことしやかにふりまく思想に関心が薄い。悪はどんな時代のどんな社会においても組みこまれた前提である。しかもこうしたまことしやかな哲学では、悪はほぼ突出してたえず正の領域に凄みをもって君臨し、逆に善はすっかり凹むか萎むかして、サドが自身の『悪徳の栄え』(河出文庫)に対するアンチテーゼとしての『美徳の不幸』(河出文庫)に描いたように負の領域にある。だから作家も批評家も「悪」を綴り「悪」を論ずるにあたっては、機関銃をぶっ放し、死体を切り刻むように思う存分を書く。まるで、それはビートたけしの暴力映画とその批評のようなのだ。そんなものがおもしろいわけがない。
≪020≫ 悪は静かに描くべきなのである。たとえていうなら親鸞がそうしたように。あるいは悪は意識において気配において、淡々と流出するベきである。たとえていうならピエール・クロソウスキー(『ロベルトは今夜』)がそうしたように。
≪021≫ 当然、ゴールディングもそのような作法を知っていた。そうとうに知っていた。だから、書けたのだ。『蠅の王』は悪や原罪を描いたというよりも、まさに少年の本来を描いてみせたのである。それは中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)となんら変わらない。
≪022≫ ゴールディングは英国コーンウォールの出身で、生まれた家が墓地に隣接していた。少年はそこに埋まっている死体をいつも感じていた。ジュール・ヴェルヌのSF群、バランタインの『さんご島の三少年』、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が愛読書だった。
≪024≫ 趣味が変わっている。チェス、古代ギリシア語、考古学、船、ガーデニングは特筆することでもないが、「紳士の仮面をかなぐり捨てたくなる時間を愉しむこと」「レイプをしたいという意思を確固としてもつこと」「相手にひそむ内なるナチズムを吐露させること」などとなると、かなり変だ。きっと自嘲して誇張したのだろうと思うかもしれないが、自伝に近い『通過儀礼』(開文社出版)を読むと、まんざらでもないようだ。
≪023≫ オックスフォード大学で英文学を専攻し、第二次世界大戦になると海軍士官として従軍し、ノルマンディ上陸作戦にも参加した。戦争がロジェ・カイヨワのいう意味での「遊び」の興奮をもたらすことを知った。そのあとは何度か教師の職についた。
≪025≫ 人を食っているのかといえば、そうではないとは言えない。『ピンチャー・マーティン』や『蠍の神様』(いずれも集英社文庫)を読むと、本気で人を食いたいのかと思われてくる。しかし、そうなのではない。ゴールディングは人類と文明の原罪を問いたかったのだ。ぼくは『後継者たち』(ハヤカワ文庫)で、そう確信した。ネアンデルタール人とホモサピエンスが遭遇しておこした軋轢と戦闘を描いた奇想天外な小説だった。 ちなみにゴールディングは、ジェームズ・ラヴロックの「ガイア仮説」の名付け親でもある。
≪026≫ きっと人類は進化しすぎたのだ。意識が生物体としての成長を追い抜きすぎたのだ。いつしか意識のお化けになったのだ。そうではあるまいか。ゴールディングはそんなふうに感じていた。
≪027≫ だからといって、もはや生命の起源などには戻れない。戻れるとしたら、ひとつには子供に戻ることである。子供がすでに邪悪であることを知ることだ。それが『蠅の王』である。もうひとつは? もうひとつは人類の端緒に戻ってみることだろう。そのころは意識のお化けはなかったのか、どうなのか。それを思い出してみることだ。それがネアンデルタール人の目から人類の誕生を見た『後継者たち』になる。
≪028≫ ぼくは数年前にこんな結論をもった。世界中の子供たちは長らくほぼ同じ遊びをやっている。それは「ごっこ遊び」か、「しりとり」か、それとも「宝さがし」かのいずれかに決まっている。『蠅の王』にもそのことが書いてある。
≪01≫ 冒頭に「私は旅や探検家が嫌いだ」「それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」と書いてある。一方、長い長い記述の最後には「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という人類学者らしくないとも人類学者らしいともいえる言葉が出てくる。そのうえで、「ともあれ、私は存在する」。 。
≪02≫ 実に奇っ怪な書物である。本書が文化人類学の古典的な名著だということくらいのヒントで読んだ者には、頭がクラクラする。「ともあれ、私は存在する」と書く一ページ前には、平然と「私は人類全体の矛盾である」とも書いている。不合理や不条理が旅行カバンの中に入っているのだ。とくに「私は旅や探検家が嫌いだ」がいい。自慢じゃないが、ぼくは旅も探検も嫌いなのである。
≪03≫ こんな人類学者はいなかった。人類学的な調査旅行を学術的ではなく旅行記のように書いた研究者ならごまんといるし、その旅行記に自在に学術的な思索をはめこんだものも、たくさんあった。むろんたんなる学術的報告ならキリがない。けれども、その調査研究記録の随所に、人類と人間に関する本質的な思索と自身の根源的な省察を同時に、かつ暗喩に富んで表現できた学者など、まったくいなかった。
≪04≫ レヴィ゠ストロースは一九三〇年代のブラジルを旅行し、滞在した記録を本書にまとめた。それはそうなのだが、読み出せばすぐにわかるように、本書はレヴィ゠ストロースが最初にどんな調査目的をもってパリを発ち、どのような旅程のすえにブラジルに着き、それからどのように「悲しき熱帯」を調査したか、そのつど何を感じたかというふうには、書いてはいない。
≪06≫ けれども言葉が生きている。すこぶる連想に富んでいる。目眩くというのでなく、精緻な視点で野生のワールドモデルが自在に問われつづけているという印象なのだ。ブラジルのカデュヴェオ族やボロロ族の日々を見ているのは、少年に戻ったレヴィ゠ストロースだったり、ドビュッシーを聞いているレヴィ゠ストロースだったり、若いころにアメリカに脱出したときの苦渋のレヴィ゠ストロースだったりするわけなのである。それでいて、どこか悲しいものがある。
≪05≫ まるで車窓に走る風景を見ながらついつい物思いにふけるように、回顧談や回想や反省がのべつまくなしに入ってくる。たとえば、ユダヤ人として自分が第二次世界大戦をのがれてアメリカに行ったときの思い出が入る。コルネイユの『シンナ』を借りて急に自画像のスケッチを試みる。インド旅行のときの話ではバングラデシュの現在に対する感想がのべられる。それにまじってブラジル奥地のインディオの生きかたの報告が続くこともある。これらが時間をこえ、空間をこえ、しかも軽妙で沈着な思索のなかでジグザグと進行する。加えて、隠喩と換喩がおびただしい。
≪07≫ こんな学問があるというのだろうか。あったのだ。そのような方法をレヴィ゠ストロースがつくったのである。構造人類学の原型は、すべてこの『悲しき熱帯』の文章に発酵していたといってよい。
≪08≫ 本書を最初に読んだのは、ぼくが早稲田のフランス文学科にいたときの担当教官の室淳介さんが訳した講談社版の、その名も『悲しき南回帰線』という一冊だった。 全訳ではなかったが、そのときの紐の長いブランコに乗ったような読後感、未知の揺動ともいうべき読中感というものがある。それを伝えたい。けれども、それができそうもない。ぼく自身がその読中感をすぐに再生してみせる方法を、ここで思いつけないからだ。
≪010≫ そんなことを説明していたらレヴィ゠ストロースではなくなってくる。そういうものではない。『悲しき熱帯』はどんな学業によっても、どんな報告記録によっても、けっして代行がきかない一冊なのだ。変な言い方になるけれど、構造主義の全体と『悲しき熱帯』のどちらを取るかといわれれば、ぼくは後者を選びたい。そのくらいかけがえのない一冊なのである。
≪09≫ 学術が文学なのである。きっとそういうことだろうと思う。その逆に、文学が学術でありえた稀有の例だということでもあろう。しかしながらそう書くと、たとえばヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』(中公文庫)やヨハン・ホイジンガの『中世の秋』(中公文庫)とどうちがうのか、そこをあれこれ言わなくてはならなくなる。あるいは柳田國男が佐々木喜善から聞いたことを『遠野物語』(角川文庫・河出文庫)にし、それを理解できたのが泉鏡花くらいのものだったというようなこととの比較を、うだうだ書かなければならなくなる。
≪011≫ 室淳介さんの訳ののち、中公の「世界の名著」にマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』とともに『悲しき熱帯』が入ることになった。抄訳だ。次に川田順造の訳で、泉靖一が解説を書いた。ただしこれもまた抄訳である。その後やっと、一九七七年になって同じ川田さんによる全訳が登場した。久々にあらためて読んでみた。ぴったり同じ読中感だった。
≪012≫ クロード・レヴィ゠ストロースは一九〇八年のブリュッセル生まれだから(育ちはパリ十六区)、いまは九三歳だ(二〇〇一年現在)。最近会ったフランスの友人の話では、ますます矍鑠としているという。
≪013≫ 曾祖父が作曲家で、父親が画家だったこともあって、少年期からさまざまな芸術に親しみ、セルバンテス、印象派、ピカソ、ワーグナー、ストラヴィンスキー、ドビュッシーに惹かれたり、浮世絵をはじめとするジャポニスムに目を見張ったりした。一方、高校時代やソルボンヌ大学ではかなりマルクス主義や社会主義に傾倒して、学生組織の書記長になったり、社会党代議士のジョルジュ・モネの仕事に携わって法案作成をしたりした。
≪014≫ 専攻したのは法学と哲学である。ただ、ちっともおもしろがっていない。哲学のアグレガシオン(教授資格試験)のあと、とりあえず高校で哲学を教えるのだがあきたらず、社会主義派の政治活動の支援などをしているうちに、ソルボンヌ大学の社会学者セレスタン・ブーグレから新設のサンパウロ大学への赴任を打診されると、一も二もなくブラジルに渡っていった。
≪015≫ ここで「非西洋」に出会ったレヴィ゠ストロースがどうなったかといえば、原始文化バンザイ、インディオ絶賛、インカ破壊激怒、だったのではない。西洋文明が文明エントロピーによって重圧に堪えられなくなるだろうという感想をもち、自身がひどくペシミスティックになったという感情に打ちひしがれた。それが本書やのちの『野生の思考』につながるのだが、他方で(ブラジルやアメリカから帰ってきてからだが)、ではこんな文明をつくりだした「人類」というものは、いったいどうしてこういう社会に甘んじるようになったのかという問題意識に向かっていった。
≪016≫ これが「構造人類学」や「構造主義」の提案になっていったのである。それにしても、そういう問題意識がなぜにまた「構造」主義なのか。
≪017≫ レヴィ゠ストロースの言う「構造」は堅くない。じっともしていない。要素と要素の「関係」がもたらすものが構造であって、それはつねに変形(あるいは変換)を通じて特性を保持するものだ。
≪019≫ そのころ、「構造主義」という言葉を思想の主旨に用いるのは新語流行に近いものでもあった。アンドレ・ラランドの『哲学用語辞典』には、一九〇〇年から一九二六年くらいに流行した新造語だと説明されている。たしかにヘーゲルもマルクスもダーウィンも、構造に意味をもたせていなかったのである。やっとデュルケムが使いはじめた程度だったのだ。
≪021≫ フランスに戻ったレヴィ゠ストロースは『親族の基本構造』(青弓社)をもって、構造主義(structuralisme)の研究にとりかかる。 構造人類学は、なぜ人類は近親相姦を避けてきたのか、インセスト・タブー(近親相姦の禁止)をもってきたのかという解明に向かった。交叉イトコと平行イトコをまたぐ親族間の婚姻関係の研究である。そのベースとなった『親族の基本構造』は全四巻の大著であるが、結論はまことに明快だった。インセスト・タブーとは「自集団の女性を他集団に贈与する」という交換によって成立してきたものだったのである。少しわかりやすくいえば、自集団にあえて「女性の欠如」をつくりだして、自集団の繁栄には他集団からの「女性の贈与」に依存せざるをえなくしたルールが定着したということだ。
≪018≫ この、たえず変形し変換しながらも基本形を保持する構造という見方を、レヴィ゠ストロースはダーシー・トムソンの『成長と形態』(邦題『生物のかたち』東京大学出版会)から借りた。また、自分の人類学を「構造」という特徴を与えるネーミングにしたのは、ロマン・ヤコブソンらのプラハ学派が「構造言語学」を提示していたことと、アンドレ・ヴェイユ(シモーヌ・ヴェイユの兄)らのブルバキ(フランスの若手数学者集団)が提案していた「数学の構造主義」とに共感したからだった。
≪020≫ それよりも、ヤコブソンだ。レヴィ゠ストロースはブラジルからの帰りにアメリカに入って七年間にわたる亡命の日々をおくるのだが、ここでニューヨークのロマン・ヤコブソンと出会い、その柔らかい言語観や音韻論に感動し、この構造主義の考え方を継承発展したい、人類学にしてみたいと思った。これが大きかった。
≪022≫ レヴィ゠ストロースはマルセル・モースの『贈与論』に倣って、これを「互酬的交換」と捉えた。女性を譲渡して女性を獲得するという「同種の交換」で、まさに「交換のための交換」、「関係をつくるためだけの交換」だと捉えたのだ。そういう見方は「親族体系はひとつの言語である」という表明に結実している。
≪023≫ インセスト・タブーの史的研究の次にとりくんだ成果は、著書『構造人類学』と『野生の思考』(ともにみすず書房)にあらわれる。とくに『野生の思考』(パンセ・ソバージュ)でサルトルの『弁証法的理性批判』を批判して、人類は主体的な意志によって歴史をつくってきたのではなく、むしろ「見えない構造」によって全容がゆっくり動いてきたのだと言明してみせたことは、当時の実存主義の隆盛に水をさすものとなり、「実存主義から構造主義へ」という思想風潮を醸しだすことになった。
≪025≫ とくに個々の民族や部族の神話や昔語りを、ひとつずつに分けず、相互に関連しあう「群の構造」が成り立つように組み立てたのが新しかった。その作業によって、レヴィ゠ストロースは神話がずうっと再構成されつづけてきたものであること、そこにはたえず「ブリコラージュ」(修繕)が施されていたこと、多くの神話には他の神話の部分に置き換えられても破綻しない構造があることに、気が付いた。
≪024≫ ただレヴィ゠ストロースはそうした風潮に乗ずる気はまったくなかったようで、その後は約十年をかけて大著『神話論理』(みすず書房)に没入していった。「生のものと火にかけたもの」「蜜から灰へ」「テーブルマナーの起源」「裸の人」という全四巻である。これまた大著ではあるが、どこにも大上段にふりかぶったものがなく、読んでいると実に柔らかい。柔らかいだけでなく、〝神話論理〟を抉っている「ロゴス」も見当たらない。それにもかかわらず、この「語り」はその後の人類学者やフィールドワーカーの心を掴んだのである。
≪026≫ レヴィ゠ストロースが気が付いた「ブリコラージュ」(bricolage)とは、もともとは「修繕」とか「寄せ集め」とか「細工もの」といった意味をもつ。フランスではブリコラージュをする職人のことをブリコルールという。
≪027≫ あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことだ。
≪028≫ そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べ、それを動かしているうちに、相互に異様な異質性を発揮する。のみならず、しばらくして「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていきもする。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ゠ストロースは見たわけである。
≪029≫ これはぼくの言葉でいえば「創発的な編集」がおこっているということになる。編集というのも、だいたいこんなことをしている。編集はブリコラージュなのである。つねに「全体」と「部分」の関係を有機的に動かしていて、どこかで決着をつけていく。その決着のときに、あとから入ってきた部分がするする育って「超部分」となり、それが「全体」の様相をがらりと変えてしまうのだ。
≪030≫ レヴィ゠ストロースは神話をブリコラージュ的に観察しているうちに、もうひとつ新たな仕組みがあることを発見している。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ対話を交わすのではないかと見たことだ。
≪032≫ まことに言いえて妙だった。神話がブリコラージュされ、可感と知感をつかってきたというだけではなく、レヴィ゠ストロースが自分の可感と知感をつかって神話を変化しつづけるエディションとして読んできたということなのだ。それは神話や昔話をつくりあげた材料と計画の対話に聞き耳をたてることであり、それらすべてのプロセスにまつわる編集的叙述を、自身のセンスとインテリジェンスを総動員してあらかた実験してみることだったのだ。これを、「問いなき答え」と「答えなき問い」を互いに出しあう相互関係の進展にこそ「構造」が生まれていく秘密がある、というふうにいってもいいかと思う。
≪031≫ その対話では、その民族や部族に特有な理性的なものと感性的なものは切り離されずに、「断片と全体が対話した内容」のすべてが検討されるというのである。その対話はレヴィ゠ストロースが好んだ言い方によれば、「サンシーブル」(可変的なもの)と「アンテリジブル」(可知的なもの)の補い合いなのである。センスとインテリジェンスが補い合うのだ。そこを『野生の思考』では、「構造体をつくるのに他の構造体を用いない」というふうに説明をした。
≪033≫ こうして、ブラジルのボロロ族のアララオウムとその巣の話が、ジャトバの木と首長の妻殺しの話が、基礎情報として部品化していって、レヴィ゠ストロースがその後の数十年にわたって展開した構造人類学のために用意した編集エンジンの駆動を待って、超部分化をおこすことになったのだった。
≪034≫ レヴィ゠ストロースの〝異様な学問〟は、思想戦線において必ずしもずっと安泰であったわけではない。そうとうに多くの批判にさらされてきた。とくにインセスト・タブーを論じた『親族の基本構造』は穴だらけの議論だと批判され、『構造人類学』については神話内容のメッセージについての議論がなさすぎると批判された。ごくかんたんにいえば、構造主義は図式と機能ばかりを強調する機能主義なのではないかという批判であった。
≪036≫ そこへもってきて、ジャック・デリダが『グラマトロジーについて』や『エクリチュールと差異』でレヴィ゠ストロースをとりあげて「民族中心主義」だと批判した。
≪038≫ この話はさかのぼれば、十九世紀の人類学者だったタイラーやモーガンが、人類の発展は原始的農耕民に始まって道具や技能を獲得して呪術から解放され、やがて商業力や工業力を強化しながら文明的西洋の頂点を迎えたとみなしたのに対して、アメリカの人類学者のフランツ・ボアズやフランスの社会学者のエミール・デュルケムが、どんな社会にも独自の文化があるのであって、人類の発展はひとつの系列ではとても説明できないと反論したことに端を発していた。議論はやがて「文化相対主義」の流れとなり、見方によってはレヴィ゠ストロースもその上に乗っているとみなされたのである。
≪035≫ もともとレヴィ゠ストロースの名が世に轟いたのは、サルトルとの論争が派手だったせいだ。「それ以前の思考」をこそ探索したいレヴィ゠ストロースと、「それ以降の思考」をこそ確立したいサルトルが激突したのは当然だった。サルトルによって「超理性主義だ」と批判されたレヴィ゠ストロースは、サルトルこそ西洋の文明の知にはまりきった理性で人間を見すぎていると撃破していったのだが、その後もレヴィ゠ストロースの学問がはたして学問であったのかどうかという疑問がわだかまっていた。
≪037≫ レヴィ゠ストロースは「西洋の知で世界を見るな」と訴えて、西洋知が陥った民族中心主義を社会人類学の俎上で切ったのである。ところがデリダによると、そのレヴィ゠ストロースの反「西洋知」による構造主義の見方こそが、西洋的民族中心主義だというのだった。
≪039≫ ぼくはこうした構造主義をめぐる論争にほとんど関心がなかったので、ろくに批判論も擁護論も読んでいないけれど、どうもこうした議論自体が不毛なのではないかと思っている。実際にもレヴィ゠ストロースは周囲からの批判には怯むことも目くじらを立てることもなく、ひたすら構造主義ふうの思索と表現に耽っていった。
≪040≫ メキシコの詩人オクタビオ・パスに『クロード・レヴィ゠ストロース』(法政大学出版局)という本がある。
≪042≫ 大賛成である。学問とは同一性や反復性を確認したがるものだ。それが対象領域と拘束条件の設定が大好きな科学や社会科学の立脚点というものだ。けれども、類縁性はそうした個別の立脚点をやすやすと越えていく。跨いでいく。それは「答えのない問い」によるオイディプスの神話そのものなのである。「なんだか似ている」ということ、「なんとなくつながっている」ということ、そのことを考えるのがレヴィ゠ストロースの学問であり、つまりは『悲しき熱帯』の文章だったのだ。
≪041≫ パスはこのなかで「レヴィ゠ストロースを人類学の新しい流れのなかに位置づけようとは思わない」と宣言をした。そして、その文章にはベルクソンとプルーストとブルトンという異質な三人が棲んでいると言った。また、『悲しき熱帯』については、レヴィ゠ストロースが関心をもっているのは「同一性」ではなく「類縁性」なのだという重要な指摘をした。
≪043≫ 第十六章「市場」にこんなことが書いてある。最近になってこの文章がぼくを襲ってきて、どうにも困っている。ぼくはいつまでも『悲しき熱帯』の読中感のなかにいる揺籃者であるようだ。
≪044≫ アジアで私を怖れさせたものは、アジアが先行して示している、われわれの未来の姿であった。インディオのアメリカでは、私は、人間という種がその世界にたいしてまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を表す標とのあいだに適切な関係が存在していた一時代の残照、インディオのアメリカにおいてすら果敢ない残照を慈しむのである。
≪03≫ それなら、既存の数式も法則も役立たないようなそんな未知の情報を、いったいどうやって知ればいいのかとウッディ・アレンがまた聞いた。アインシュタインはどうしたかというと、ネイサン・ローゼンと組んで「アインシュタイン゠ローゼン・ブリッジ」というかっこいい橋を宇宙に架けて、そこから未知の世界を見ればいいじゃないかと言った。ワームホールやホワイトホールの可能性も議論された。そして既存のものではない数式と法則をつくればいいと考えたのである。
≪04≫ 世の中には一握りのアインシュタインとたくさんのウッディ・アレンがいる。ウッディには“橋上の数式”から未知の世界像など見えてはこない。アインシュタインにも分の悪いところがあった。仮に“橋上の数式”が何かを指示しているのだとしても、それが観測できなければ科学は科学にはなれなかった(と、思われていた)からである。
≪05≫ 実際にもそのような“橋上の数式”による未知の情報は、これまで確認されてこなかった。たとえばブラックホールはその実在こそ指示できたけれど、その「穴」の中の情報は見えないままにある。引っこんでしまっているからだ。引っこんではいるが、情報がないわけではない。だとすると、未知は未知のままで終わりそうである。
≪06≫ しかし、そんなふうに考えこむのがまちがっていた。未知の世界とか未知の情報というものは、それを既知にするためにあるものではなかったのだ。それは観測するためにあるのではなく、そのような未知の情報によって宇宙がつくられているのかどうかを、われわれはどのように納得するか。そのことをもっと大事な問題にするとよいということだったのだ。ブラックホールの例でいえば、そこを「未知の情報があるということを本質としている実在」とみなせるかどうかが重要な見方なのであって、その未知の情報が辿れないからといって、そういうものは実在していないなどとは批評すべきではなかったのだ。
≪07≫ ということは、ウッディ・アレンのあてずっぽうこそが正解だったということだ。ただしこの映像作家の奇才には、なぜ自分がそのように感じられたのかが説明できない。だったら彼はこう答えればよかったのである。「ぼくがここにいるということそのものが、すでに未知の情報をつかったうえでのことだったわけよ」。
≪08≫ 宇宙論の一番の問題は、そもそも「情報」というものをちゃんと掴めていないということにある。情報というもの、最初はたいてい化学的な高分子のセットのかたちをとっている。だからその情報フォーマットはそのまま生命体にも変換できる。これがDNAなどの遺伝子情報になる。生命の本質を一言でいえば、情報高分子が自分を維持するための生体膜をもったということにあった。
≪09≫ そうやって発生し、進化してきた生命体は、やがて植物となり動物となって、その一部の生物が体の中に不出来な神経系をつくり、次に上出来の脳をつくっていった。まさに情報編集のための体内センターの確立だ。そして次には、そのセンターの活動の一部が線分や言語やメロディとして体の外に投げ出され、それが社会の中に入りこみ、いろいろなメディアと交じって生きのびてきた。こういうわけだから、われわれ自身がすでに情報体なのである。しかし、ここまでの話だけではまだまだ「情報」を捉えたことにはならない。
≪010≫ そもそもわれわれが地球上にいて、何億光年だか何百億光年だかの遠方からやってくる星の光を認めているということそのものが、「情報のあらわれ」なのである。そう、考えなければいけない。なぜなら、星の光というのは「時間のあらわれ」であり、情報はその時間に乗るものであったり、その時間を含む時空間のどこかに刷られているプリント柄のようなものであるからだ。
≪012≫ なにごとにも「原」があり、そのまた「原」の「原々」や「原々原々」がある。だから、われわれにいま知覚できない情報系がこの世にいくつもあったとしても、べつだん何の不思議もない。
≪014≫ たとえばわれわれは晴れていさえすれば、今晩も満天にキラキラ光る星を確認するはずだろうが、その星の光は「大過去に発した情報」であり、その光を受けているのは「現在のわれわれ」ということなのだから、さていったいそれらのうちのどこを切り取って「この世」と言うのかは決めがたい。それなら、どこからが「この世」、どこからが「現在」と決めるより、時空まるごとに多様な情報世界がいろいろ動きまわっていると考えたほうが正しいということになる。
≪016≫ 著者のフレッド・アラン・ウルフはUCLAで理論物理学の博士号を得たあとサンディエゴ州立大学などで教え、次々に説得力のある著書を発表しつづけている科学者である。とくに〝Taking The Quantum Leap〟が全米書籍賞を受賞してベストセラーになった。邦訳は『量子の謎をとく』(講談社)で、本書と同じブルーバックスに入っている。
≪017≫ 新書に入ったからといってタカをくくってはいけない。ウルフの本は量子力学が迷っていた七〇年代をおえた一九八一年の刊行だということをべつにしても、物質的な世界観や波動的な世界観の“はざま”にある動向を、ふんだんに巧みに描出してみせて冴えていた。とりわけ、われわれが〝in here〟と〝out there〟とをどのように区別したかという視点をうまく操っていた。
≪018≫ ぼくも〝here〟と〝there〟という言葉はよくつかってきた。此岸と彼岸だ。穢土と浄土だ。ウルフの言う〝in here〟は「内のここ」を、〝out there〟は「外のむこう」をさしている。われわれが暮らしているユークリッド空間では、この二つの言葉のあいだにはたいした差異はない。「ここ」と「むこう」は結局のところは連続してつながっているからだ。「ずうっとむこう」といったって、そこはしょせんはつながっている。おまけに地球は丸いから、「ここ」は結局のところは「むこう」からの差し込みなのである。
≪020≫ 本書は並行宇宙論を扱っている。並行宇宙論とは、この世界には原則的には無限個の並行宇宙があっていいという、たいへん不埒な見解をいう。並行というのは、それらが同時にあるということだ。SFのパラレル・ワールドよりラディカルなのである。
≪021≫ 宇宙がいくつもある? 無限にある? 同時に? そんなことはとうていありえないか、あったとしてもイメージなんてできっこないと思うだろうが、必ずしもそんなことはない。どう考えるかは、何をもって「宇宙」と呼ぶかにかかっている。たとえば一キロの長さの中には一〇〇メートルは一〇個だが、一メートルは一〇〇〇個ある。だが、点の数なら両方とも無数なのである! まして宇宙が「情報の時空」だというふうに捉えられるなら、原々原々情報を一つの単位とでもしてみれば、宇宙がいくらあったっておかしくはない。
≪022≫ すでにブラックホールが並行宇宙仮説につながる位相幾何学的な「穴」であることが何度も指摘されてきた。このとき「穴」を何と見るかがちょっと工夫のしがいがあるところで、宇宙物理ではブラックホールの「外」から眺めてその「むこう」が見えないときに、それを「穴」とよぶことにした。そのギリギリのところをシュワルツシルト半径という。
≪028≫ このような見方で多様な時空を眺めてみると、ほら、宇宙は「どこでもドア」ばかりに満ちていて、それゆえ原々原々情報が待ちつづけているということになってくる。並行宇宙論とは、この「どこでもドア」に関する説明を、量子力学と相対論力学との両方をつかって説明する挑戦なのである。どこをどうつなげるとうまく折り合いがつきそうで、何を見まちがえると失敗になるかは、本書を読まれたい。
ラテンアメリカに関する資料が少ないことに驚く。
検めて、視界・視程になかったことを知った!
丸ごと、移し、写し、映し出してみる!
❶ アメリカという国家に多少とも好意をもっている諸君は、今夜の「千夜千冊」は読まないほうがいい。 本書は、アメリカが中南米諸国で連打した犯罪を根底から告発するものであるからだ。 それにしても2006年を境い目に、南米は劇的に変わり、反米大陸になっている。 これを知らないのは、いまだ新自由主義に酔っている 日本人だけなのかもしれない。
❷ 9・11の1年半後にイラクに仕掛けた戦争は、1989年にアメリカがパナマに侵攻した悪夢の再現だった。 この悪夢は父ブッシュ、チェイニー国防長官、パウエル統合参謀本部議長によるものだが、イラク戦争のときは子ブッシュ、チェイニー副大統領、パウエル国務長官の仕掛けになった。仕掛け人は同じ、相手が違っただけ。その相手はパナマのときがノリエガ将軍で、イラクのときはフセイン大統領だった。まさに標的である。 アメリカはくりかえし同じことをやっている。いまさらこんなことを強調することもないだろうが、それが中東だけではなく南米でも中南米でもくりかえされていることについては、日本人にはまだ十分には知られていない。
❻ このベネズエラの反米政権の誕生に続いて、南米で次々に左派政権が樹立されていったことを、日本のテレビはほとんどニュースにしなかった。 ブラジルでは2002年にルーラ大統領が当選し、いまでは第三世界きってのリーダーシップを発揮している。ルーラは小学校を中退するほどの貧農の生まれで、労働組合運動の活動家になったのち、ゼネストの指導をして地歩を築いていった。
❽ 2005年には“南米のスイス”と呼ばれてきたウルグアイで、バスケスが大統領になって、独立以来初の左派政権が誕生した。バスケスはやはり貧しい労組幹部の子供に育っていて、夜学で学習をしながら医者になった人物で、「大統領に就任してからも地域の診療所で治療に当たる」と宣言した。
❿ これでもまだ反米ムーブメントは序の口だ。日本が小泉郵政民営化の余波で右往左往しているそのとき、2006年になると、反米ラッシュはさらに勢いづいていた。 ボリビアでは、社会主義運動党の党首エボ・モラレスが鮮明に反米主義を掲げて大統領になった。モラレスはボリビアで初めての先住民出身の大統領だった。就任のとき、南米でも多くは右手をあげて宣誓をするのだが、モラレスは左手のこぶしを突き上げ、「この戦いはチェ・ゲバラ(202夜)に続くものだ」と叫んだ。 チリでも、社会党の女性党首のミッチェル・バチェレが大統領に当選した。バチェレの父親は1973年にCIAの画策による軍部クーデターのときに逮捕投獄され、獄死していた。娘はこのとき国外亡命し、20年余をへてついに捲土重来を果たしたのである。彼女は公約通り、閣僚の半分を女性にした。
⑬ アメリカ人がメキシコ人の地であったテキサスへの入植を始めたのは1812年(文化9)のことで、植民地をつくったのは“テキサス開拓の父”と崇められているスティーブン・オースティンである。 最初は300家族、13年後には2万人、やがてテキサスの3分の2を白人が占めた。メキシコでは1829年(文政12)に奴隷制を廃止していたのに、テキサスの白人はどんどん黒人奴隷をふやしていった。それでもメキシコ政府は、移民がふえればわがテキサスが豊かになるだろうとタカをくくっていたのだが、さすがに白人と奴隷が急増してくるのを見て、慌てた。移民を禁止したのだ。これを見て、アメリカ政府はテキサスを500万ドルで買うと言い出した。 メキシコが申し出を拒否すると、テキサスの白人は土地ごとに武装して“独立”を叫び始めた。支援部隊も次々にやってきた。連邦下院議員だったデイヴィ・クロケットもその一人で、古い教会の跡に立て籠もって戦い始めた。これが西部劇で有名になった「アラモの砦」だ。ぼくはウェスタン・ブームのころに、カーボーイ・ハットをかぶった小坂一也が「デイヴィ・クロケットの歌」を唄っていたことをよく憶えている。
⑰ ちなみに、この作戦でベラクルス上陸を指揮したのがマシュー・ペリーなのである。ペリーはその後、東インド艦隊の司令長官となり、5年後の1853年(嘉永6)に黒船を率いて江戸湾に向かう。あとはジャン・ジャン・ジャン。ペリーが米墨戦争の立役者だったことは『世界と日本のまちがい』に書いておかなかったことだ。 米墨戦争でアメリカが勝利したのは1848年(嘉永2)で、ロンドンではマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を頒布した年だった。あろうことか、翌年、カリフォルニアに金鉱が発見され、ゴールドラッシュ・ブームがおきる。万々歳だ。このことは『世界と日本のまちがい』にも詳しく書いておいたことだ。アメリカはこれで、大西洋と太平洋を自国の領地だけでつなぐ大陸国家となった。
⑲ 政府がやや躊躇しているとき、戦端を開くのに火をつけたのがアメリカの二大新聞だった。ハースト系の「ジャーナル」紙とピュリッツァー系の「ワールド」紙が、「リメンバー・ザ・メイン」をスローガンに開戦ムードを連日連打しはじめたのだ。あるいは政府の一部との連携だったとも言われる。 ピュリッツァーは公然と「戦争がほしい」と言い、ハーストは特派員を次々に派遣して、かれらが「まだ銃声ひとつ聞こえない」と連絡してくると、「もうちょっと待て、私が戦争を用意する」と打電した。新聞王ハーストは戦争王でもあったのである。 かくて1898年(明治31)、米西戦争が勃発し、たった2カ月半でアメリカは圧勝した。キューバはアメリカの「砂糖の島」となり、カリブの「軍事の島」となっていった。それからカストロとゲバラが立ち上がってキューバ革命を成功させる1959年まで、約半世紀がかかっている。 ちなみにその後、メイン号の大爆発は戦艦の石炭庫が自然発火して火薬庫に引火したものだと確認された。サダム・フセインのイラクに大量破壊兵器や生物兵器がなかったことと似て、スペインはまんまと濡れ衣を着せられたわけである。
❸ しかし、このことを世界に知らしめるべきだと決断した男がいた。ベネズエラのウゴ・チャベス大統領である。2006年9月20日の国連総会で、チャベスはブッシュを名指しで8回にわたって「悪魔」呼ばわりをした。左手でチョムスキー(738夜)の本をふりかざして。 ベネズエラは南米の北端のカリブ海に面した石油王国だ。原油埋蔵量は世界第6位で、西半球では最大の産油国になっている。ところがアメリカがこの原油に目をつけ、1976年以来、長らく親米政権を操作しつづけてこの国を牛耳ってきた。国営ベネズエラ石油はアメリカの意のままだった。 当然、貧富の差が激しくなった。そのため首都カラカスでさえ、都心部と周辺部では繁栄とスラムがひどく両極化した。ベネズエラが「王様と物乞いの国」と呼ばれてきたのは、そのせいだ。
❼ 翌2003年には、アルゼンチンで左派のキルチネルが大統領になった。アルゼンチンは2001年の段階では債務返済が不可能なほどの経済危機に苦しんでいた。IMF(国際通貨基金)からの融資を得るための条件として緊縮財政を強いられ、銀行預金の引き出しを制限していたのだが、これが結局、ひどい経済危機や経済暴動を引きおこしてしまったのだ。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)がいかに「危険な甘い罠」であるかについては、ぼくも『世界と日本のまちがい』(春秋社)にものべておいた。これは、アメリカが各国の通貨当局の求めに応じてドルと金とを交換することから始まった体制で、世界の交易をアメリカが拡張していくためのまたとない体制だったのだ。
⑱ アメリカの次の標的はカリブ海である。ここには今度は「リメンバー・ザ・メイン」という合言葉が響く。 カリブ海は「アメリカの地中海」になるべきだった。そこでまず、カリブ海最大のキューバを標的にした。大航海時代のキューバはスペインが押さえていた。メキシコで奪った銀、インカ帝国を滅ぼして奪った金を、いったんキューバのハバナに持ち込み、そこで大型帆船に載せてスペインにどんどん運びこんでいたのである。そのあいだ、スペインはキューバを「砂糖の島」に仕立てていった。1859年(安政6)の時点で、砂糖農園が2000をこえ、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が55万人働かされていた。 アメリカは、このキューバの砂糖がほしかった。プレスリーのドーナツや31アイスクリームではないが、アメリカは砂糖がなければ生きてはいけない。5000万ドルをつぎこんで、あちこちに砂糖農園を設営していった。 しばらくして十分にアメリカ企業や白人指導者が進出したところを見計らい、やはりのこと、1億ドルでキューバを買いたいとスペインに申し入れたのである。滑稽なほどにメキシコのときと同じ手口だ。 スペインはキューバの利権を重く見ていたので、断った。もっともスペインも困っていた。キューバ島民の独立派の反乱が動き出していて、これを完全鎮圧するのに手を焼いていた。そこでアメリカ政府は、反乱軍からアメリカ人を守ることを理由に(これはその後のアメリカがつねに持ち出す「保護」という理由だが)、新鋭の装備戦艦メイン号を派遣した。ところが、ハバナに停泊しているメイン号が謎の大爆発をおこして沈没し、乗員266人が死亡した。 アメリカは大騒ぎになったのだが、ちょうど南北戦争を終えたばかりで、事態の推移にはやや慎重だった。ただ、どうにも納得ができない。反乱軍かスペインかの仕業だとしか思えない。
❹ 地元勢力や反米勢力は何度か抵抗を試みた。が、そのたびにアメリカは新自由主義による経済政策を巧みに導入して、一部の富裕階級を除いて、貧困の輪はますます広がるばかりだった。 1989年、ガソリンの値上げをきっかけに(いま、日本のガソリンがまさに問題になっているが)、「カラカソ」と呼ばれる暴動がおき、スラムの住民1000人が射殺された。そこで1992年、貧困層からなる軍人の一部がついにクーデターをおこすのだが、これは鎮圧され未発におわった。 このときの反乱陸軍中佐の一人がチャベスだったのである。むろんチャベスは投獄されたが、熱情あふれる執拗な国民の赦免運動で釈放され、1998年の大統領選で「貧者の救済」をスローガンにあげて当選する。 チャベスは先住民の権利を認め、大統領の権限を強める新憲法を制定し、石油の収入を貧民に分配し、農地解放を実施した。国名もベネズエラ・ボリバル共和国となった。南米をスペインの植民地支配から解放しようとした英雄シモン・ボリーバルの名を入れたのだ。
❾ これでもまだ反米ムーブメントは序の口だ。日本が小泉郵政民営化の余波で右往左往しているそのとき、2006年になると、反米ラッシュはさらに勢いづいていた。 ボリビアでは、社会主義運動党の党首エボ・モラレスが鮮明に反米主義を掲げて大統領になった。モラレスはボリビアで初めての先住民出身の大統領だった。就任のとき、南米でも多くは右手をあげて宣誓をするのだが、モラレスは左手のこぶしを突き上げ、「この戦いはチェ・ゲバラ(202夜)に続くものだ」と叫んだ。 チリでも、社会党の女性党首のミッチェル・バチェレが大統領に当選した。バチェレの父親は1973年にCIAの画策による軍部クーデターのときに逮捕投獄され、獄死していた。娘はこのとき国外亡命し、20年余をへてついに捲土重来を果たしたのである。彼女は公約通り、閣僚の半分を女性にした。
⑫ 話の突端は180年ほどさかのぼる。1823年(文政6)のこと、アメリカはモンロー主義宣言をした。アメリカはヨーロッパに干渉しないし、他国にはかまわず独立独自の方針でいくという綺麗ごとの宣言なのだが、しかしこれがごくごく表向きの戦略であったことは、すぐばれた。 アメリカの意図は、1833年にアルゼンチンで暴動が発生したときに、ただちにアメリカ軍がブエノスアイレスに上陸したことや、その2年後にペルーで革命の動きがあると、海兵隊がリマやカヤオをすぐさま占領したことにあらわれていた。 もっとわかりやすい話はメキシコとの関係だ。米墨戦争の顛末だ。ここには、アメリカがその後150年にわたってくりかえした「リメンバー方式」の原型がよくあらわれている。これは伊藤さんのネーミングだが、アメリカが日本の真珠湾攻撃に対して「リメンバー・パールハーバー」を合言葉にしたわけだが、それは150年前のメキシコとの戦争以来の常套手段だったということをあらわしている。
⑳ 米西戦争は、実はキューバとともにフィリンピンをめぐるスペインとアメリカの戦争でもあった。 フィリンピンではエミリオ・アギナルドによって、スペインからの独立を勝ち取るための革命軍が動いていた。アメリカは、ウサマ・ビンラディンの関与したムジャヒディンをソ連に対するアフガニスタンの抵抗に活用したあの手口と同様、最初はアギナルドを支援した。そのためデューイ准将の艦隊を派遣して、フィリンピン解放を伝え、アメリカがフィリンピンを植民地化する意図がないことを告げた。アギナルドはそのことを文書にするように申し入れたが、デューイは「アメリカ人の口約束はスペイン人の文書より確実だ」と言って、これを蹴った。
㉑ デューイのアジア艦隊は米西戦争の宣戦布告とともに、マニラ湾のスペイン艦隊をあっというまに撃破、アメリカはマニラに軍政を布いた。1898年(明治31)6月12日に、アギナルドはフィリンピン共和国の誕生を宣言した。この日は今日なおフィリンピンの独立記念日になっている。 これでアギナルドはアメリカに独立を承認するように求めるのだが、アメリカはそんな約束はしていないと突っぱね、あまつさえアギナルドの革命軍を攻撃した。革命軍は山に立て籠もりゲリラ戦を展開したものの、アメリカ軍は戦闘民も一般民も区別なく虐殺すると言う掃討作戦に徹して、3年にわたる戦闘で2万人を死なせ、20万人を餓えや病気で死なせた。