≪01≫ ロシア軍のウクライナ侵攻から2ヶ月がたった。激越、空威張り、避難、いとけない、無残、途方に暮れる、空爆、もうやめて、相互制裁、塹壕、苛酷、かけひき、都市崩壊、悲鳴、残骸、パンと水、虚妄、戦場記者、難民‥‥。
≪02≫ トルストイやレマルクの文学作品の中にひしめく言葉の大半がたった2ヶ月で閃光のようにとびだしてきた。こんなに戦争渦中の被弾状況がつぶさに報道されることは、ベトナム戦争や湾岸戦争やチェチェン紛争の時にはなかったことである。
≪03≫ ゼレンスキー政権は一歩も引かない姿勢で断固とした抵抗を示し、そのつど西側諸国の応援をとりつけて軍事交戦に応じているが、ロシア軍の執拗な攻撃は止まらない。首都キエフ(キーウ)からは大隊を撤退させたようだが、マリウポリをはじめとする東部ドンバス地域は制圧されつつある。1000人以上の兵士や市民が製鉄所地下の水路に籠もっていて、その光景が一部公開されているというのも、過去のリアル戦争史にはなかったことだ。個人のスマホが映し出す光景がいくらでもふえていくのも異常だ。
≪04≫ ロシア軍の作戦は混乱したらしく、傭兵(外人部隊)の導入を含めて戦線はぶつ切りになっている。ウクライナ大統領府の高官たちはこの戦争が今後1年以上にわたるかもしれず、かつてのイスラエルと中東諸国の数次にわたる中東戦争のようになる危険性もあるという見方をしはじめた。
≪06≫ 4月22日付けのワシントン・ポスト紙が、プーチンの戦争はアレクサンドル・ドゥーギンの「新ユーラシアニズム」を打ち出した地政学的戦略によって支えられていることを、いまさらながら強調していた。
≪07≫ 当然だ。そんなことは、2014年にクリミア奪還を旗幟鮮明にして東部ウクライナ侵攻をはたしたプーチンが、その後に西側諸国やNATOに仕掛けた異常な圧力示威このかた、ずっと丸見えだった。プーチンの妄想はドゥーギン製なのである。
≪08≫ けれども、ドゥーギンのことは伏せられてはいないにもかかわらず、いまもって正面きって語られない。ましてグミリョフやリモノフについては、ほとんど知られていないままにある(日本では、ぼくが知るかぎり東浩紀の「ゲンロン6」のロシア現代思想特集がとりくんでいた程度だ)。プーチンの狂気じみた戦争観はこの「ほとんど知られないままにある」ところからリロセーゼンと出所した。このリロセーゼンは近代ロシアの過敏かつ鈍重な民族観がもっていたものだ。
≪09≫ 過去すでに5人の洞察があった。ドストエフスキー(950夜)はロシアの思想がいかに怪物を生み出すかを抉(えぐ)っていた。ケインズ(1372夜)はロシアが哲学的幻想だらけの“仮想真実”でできていることを見抜いていた。ハンナ・アーレント(341夜)は独裁制や全体主義においては「真っ赤な嘘」ほど威力をもつとみなした。アイザイア・バーリン(ラトビア出身のオックスフォードの哲学者。主著に『自由論』)は「ロシアは思想を吸収する能力にかけて驚くほど敏感である」と喝破した。初めてプーチンと出会ったドイツ首相のメルケルはすぐに「彼は別世界に住んでいるわよ」と告げた。
≪010≫ 今夜はそういうロシアが、ついにプーチンの戦争に及んだ「出だし」だけを書いておきたい。そこには「ユーラシアニズム」という名のノヴォロシア(新ロシア)が爆(は)ぜていた。
≪011≫ アレクサンドル・ドゥーギンは、激情の理論家として知られたレフ・グミリョフの歴史思想を譲りうけた地政学者である。そのレフ・グミリョフは、ロシアを「パッシオナールノスチ」(前進して変化をつくる能力)によってユーラシアの雄にすることを、まるで犬笛のように吹きまくった歴史家である。二人がユーラシアニズムの基本シナリオをおおむね準備した。
≪012≫ 1999年に発表されたドゥーギンの『地政学の基礎』は、欧米のシーパワー(海)に対するに、ロシアがランドパワー(陸)に依拠してNATOの多極化を画策するべきだという構想を描いたものだった。たとえば飛び地のカリーニングラードをドイツに返却して中央ヨーロッパを内政化させ、それに乗じて欧州全体を徐々にフィンランド化させるべきだというのである。
≪013≫ NATOがそんな甘い手に乗るはずがないかどうかは、考慮しない。ドゥーギンはまた、中東ではトルコを反ロシアから転換させるためにイランやクルド人と組み、極東では日本にクリル列島(千島列島)を譲渡して、そのかわり日米同盟を解体させるようにもっていくべきだと説いたのだが、これまた実現しそうもないシナリオだった。
≪014≫ けれどもたとえば、中国のプレゼンスをインドシナ半島に南下南進させ、フィリピンやオーストラリアなどの親アメリカ勢力と拮抗もしくは対決させるという勝手な(アメリカが応じるはずもない)シナリオは、習近平の一帯一路戦略や台湾戦略と重なるところが生じて、ひょっとすると進捗しそうなのである。
≪015≫ 実現可能かどうかはさておくとしても、こうしたドゥーギンの勝手な世界戦略はプーチンの胸に突き刺さった。
≪016≫ 二人の蜜月期間も長い。ドゥーギンは早くに熱狂的なロシア・ナショナリズムを謳う政治思想家として、モスクワ大学の学部長となり、クレムリンのブレーンになってきた。2002年に「ユーラシア党」を、2005年には「ユーラシア青年連合」を設立して、欧米の自由民主主義、金融資本主義、個人主義、グローバリズムを徹底批判していったことも、プーチンには心地よかった。
≪017≫ それにしても、どうしてロシアはこんな粗雑な国際戦略と睨めっこしながら自由世界を敵にまわすのか、容易には理解しがたい。コスパも悪い。その理解しがたいところをロシアの21世紀に踏みこんで解きほぐしたのが、本書『ユーラシアニズム』だった。
≪018≫ 著者のチャールズ・クローヴァーはフィナンシャル・タイムズの元モスクワ支局長で、1998年からはウクライナに滞在してユーラシアニズムの動向をつぶさに観察した敏腕ジャーナリストである。以来、ドゥーギンとは8年の親交がある。西側でも稀有のロシア通ジャーナリストとして知られる。
≪019≫ 本書があきらかにしてみせた「ユーラシアニズム」という汎ロシア的なネオナショナリズムは、もともとはニコライ・トルベツコイとローマン・ヤコブソンの言語学が用意し、これにグミリョフとドゥーギンが大胆な歴史観と地政学の大樹をはやしたものである。
≪020≫ トルベツコイは実父がモスクワ大学の学長で、叔父はウラジミール・ソロヴィヨフだった(『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのモデルに擬せられていた)。ソロヴィヨフの甥には、黙示録にぞっこんの詩人アレクサンドル・ブロークがいた。
≪021≫ そんな血脈を背景に、トルベツコイは若いときはロシア・フォルマリズム(ロシア・アヴァンギャルドを巻き込んだ独特の文芸美術形式主義運動。構造主義や文化記号論を先駆した)に熱中し、その後はスラブ言語の音韻と意味をめぐるルーツ研究に打ちこんだ。そこにユーラシア言語群が噴き出した。
≪022≫ トルベツコイの6歳年下のローマン・ヤコブソンは、ロシア革命下ではモスクワの前衛芸術運動の創始メンバーとして疼き、ついではロシアにおける一人称単数の問題に関心を寄せ、独特の言語学を構成したくなっていた(本人は家族に対しても自分のことを一人称単数では喋らなかったらしい)。
≪023≫ やがて二人が出会うと、自分たちが考えている「原・言語」が既存ヨーロッパの文法や知識では説明できないと感じ、音韻・単語・語彙・言語構造には民族の歴史とその変転がさまざまに埋まっていることを確信する。
≪024≫ トルベツコイはウクライナ語とベラルーシ語とロシア語が13世紀に同根から生まれたとみなし、とくにウクライナ南部で母音が変化したことが、その後の中欧語や北欧語との混交を促したと分析した。岩波書店から『音韻論の原理』が訳出されている。ヤコブソンは、これはぼくがまだその理由と説明ができないでいることなのだが、民族言語学をボルツマンの熱力学と結びつけ、言語が熱力学第二法則と似た原理を内在させているだろうと見ていたようだ。
≪025≫ 二人はロシア革命から第一次世界大戦に激動が続くなか意気投合し、ヤコブソンが「ユーラシア言語同盟」をおこし、トルベツコイが「ユーラシア文化集合体」に依拠した。こうしてトルベツコイの『ヨーロッパと人類』『東方への脱出』が大いに読みまわされた。この「東方」とはルーシ人(古ロシア人)の記憶にひそむ「タタールの軛(くびき)」をどうするかということだ。
≪026≫ 1925年、ヤコブソン、トルベツコイ、ピョートル・サヴィーニ、エミール・バンヴェニストらはプラハ言語学サークル(Prague School)を立ち上げた。これは言語学史では誰もが知っている言語学的構造主義の輝かしい登場だった。ソシュールの影響を受け、レヴィ=ストロース(317夜)に影響を与えた。しかし、これらの初期ユーラシアニズムはスターリンの暴政のもと、次々に地下にもぐりこまされることになる。トルベツコイはのちにこう書いた。この一文には「プーチンの戦争」の明日を暗示させるものがある。
≪027≫ 「われわれは診断医としてすぐれていたし、予言の数々も悪くはなかった。ところがイデオローグとしてまことにお粗末で、予言では的中させたのに、それは悪夢へと一変した。われわれはユーラシア文化が登場すると予言した。その文化がいざあらわれると、それは完全な悪夢のように、われわれを慄然たる思いで後ずさりさせた」。
≪028≫ スターリンの粛正はソ連をめちゃくちゃにした。レフ・グミリョフはカラガンダ労働収容所に入れられているうちに、ロシアの歴史の書き換えに走った。フン族、テュルク族、モンゴル族を研究し、それらとルーシとの葛藤を組み立ててみると、そこに「相互補完性」のようなものが作用していることに気がついた。
≪029≫ 進化的ではなく、また発展的でも淘汰的でもなく(つまりダーウィニズム的でなく)、独特の行ったり来たりで民族社会が育まれていくこと、とくにロシアの歴史にはそれがぴったりあてはまることに注目したのだ。グミリョフはこの相互的な力をロシア正教とヘーゲル学の色合いをこめて「パッシオナールノスチ」と名付けた。かつてマキャベリ(610夜)やヴィーコ(874夜)が「ヴィルトゥ」と呼んだものに近い。
≪030≫ しかしグミリョフの『匈奴』や『古代テュルク系諸族』や『想像の王国を求めて』(プレスター・ジョン伝説についてのモンゴル論考)は、長らく注目されなかった。ロシア人にとって、ロシア史はニコライ・カラムジンの『ロシア国家の歴史』全12巻一辺倒なのである。それがフルシチョフによる「雪解け」でいよいよ議論の俎上にのぼってきた。グミリョフの著作はいささか空想がまじった歴史観ではあったものの、その民族創成の見方には西側を納得させるに足る「エトノス」(同系文化を共属する独立単位集団)があると認められた。
≪031≫ フルシチョフからブレジネフに政権が移ると、政権内部にロシア党派とユダヤ党派の対立が目立つようになった。もはやマルクス主義の行き場がない。
≪032≫ さらにゴルバチョフがあらわれてペレストロイカが始まると、それまでの「ソ連」の束縛があまりに放埒にほどけてしまったので、それまで抑圧されていたロシア思想がことごとく唸りを上げて噴きこぼれてきた。バーリンは「ロシアは思想を吸収する能力にかけて驚くほど敏感である」と言ったけれど、敏感というよりも伏せられてきた激情が次々に噴き出てきたのだ。本書はこう書いている。「マルクシズムは消えた。放り出された。後にはがらんどうの空き地だけが残った。空白を埋めるのはナショナリズムか超ナショナリズムしかなかった」。
≪033≫ ここに登場してきたのがアレクサンドル・ドゥーギンの、大胆不敵ではあるが、そうとうに独りよがりのロシア民族主義的地政学だったのである。
≪034≫ 本書は若き日のドゥーギンがモスクワの「ユジンスキー・サークル」(ユーリー・マムレーエフのカリスマ性によるアンダーグラウンド・ムーブメントの拠点)に出入りして、どんなふうに神秘主義にかぶれていたかをそこそこ克明に綴っているが、そのへんは省略しよう。スーフィズムやロートレアモン(680夜)やルネ・ゲノン(神秘主義哲学者)に惹かれていたようだ。
≪035≫ 反体制的なユジンスキー運動は当然にKGBに目をつけられたが、ドゥーギンはしょっ引かれるたびにその組織性に関心をもった。のみならずドゥーギンはロシアという国家共同体にはKGBをも覚醒させる世界戦略が欠如していることに地団太を踏む。これはなんとかしなければならない。そこでまずは『専制の手法』と『福音の形而上学』を書いた。ロシア・エリートの価値観を鮮明にさせるためのもので、これが評判になって旧ソ連の国防関係機関で講演を依頼されるようになった。そのぶん学界からはファシスト扱いされた。
≪036≫ そういうドゥーギンに目を細めたのは、フランスのアラン・ド・ブノワだ。「フランス新右翼の霊感」と言われた男だ。海外からの評価を得たドゥーギンは意気揚々である。パリでも講演活動をし、その成果をロシアに戻ると軍事ノーメンクラトゥーラたちに振り撒いた。「赤いエリート貴族」たちだ。ここに広がりはじめたのが「ユーラシアニズム」という用語である。
≪037≫ 1997年、ドゥーギンは『地政学の基礎』を書き、ロシアにとってどこがハートランドであるか、熱っぽく呈示した。アメリカのフーヴァー研究所のジョン・ダンロツプは、「共産主義以降のロシアで刊行された本で、軍部・警察・外交のいずれの分野でもこれほどの影響力を及ぼしたものは他にない」と敵をほめた。
≪038≫ かくしてドゥーギンのまわりには、いかにも怪しくて危険きわまるような人物がさまざまに接近していくことになる。その一人に国家ボルシェヴィキ党を率いたエドゥアルド・リモノフがいるが、今夜はこの稀にみる奇矯な危険分子については言及しないことにする(どこかで別の本にからんで千夜千冊したい)。オリガルヒ(新興財閥者たち)や効果的政治団体(コンサルタントたち)も近づいてきたが、このことも省く。
≪039≫ そんななか、ロシア人としてドゥーギンの理論に最も強く関心を示した男がいた。チェチェン紛争で失脚したエリツィンに代わって台頭してきた、誰あろう、ウラジミール・プーチンである。KGBの予備大佐から秘密警察FSBの長官にのぼりつめていた。プーチンの言語はチェキスト(チェカをはじめとする秘密警察グループ)の専用ボキャブラリーでかためられていたらしく、そこへドゥーギン製のユーラシアニズムのウルトラナショナルな言葉づかいがビタミン剤のように染みこんでいった。
≪040≫ プーチンがおこした第二次チェチェン紛争が、ドゥーギンの理論で組み立てられたものだったかどうかは、わからない。しかしチェチェンの野戦司令官だったホジ=アフメド・ヌハーエフをプーチンが取り込んだのは、「ドゥーギン製の地政学」のそのままの適用だった。ヌーエフは「ユーラシアニズムはロシア正教とイスラム主義を結びつけるはずだ」と豪語した(チェチェンはムスリムの地域)。
≪041≫ 2001年、9・11同時多発テロが勃発し、アメリカは世界のテロ組織を相手に容赦ない反撃戦争を仕掛けることになった。プーチンはこれに乗じて表向きの親米路線をスタートさせると、その一方でいかにアメリカを裏切ってロシアのユーラシア化を成就するか、少しずつ狙いを定めたがっていた。2003年から翌年にかけてグルジア(ジョージア)とウクライナでおきたバラ革命とオレンジ革命は、プーチンを慎重にもさせ、疑り深くもさせ、いつユーラシアニズムの軍事化を始めればいいのかということについては、そのことこそがプーチンのアタマをいっぱいにさせた。
≪042≫ 2006年、プーチンの側近中の側近であるウラジミール・ヤクーニンは『ロシア地政派』を書いた。これはさしずめ「ドゥーギンのプーチン化」だった。お膳立てが揃った。
≪043≫ このあと、何がおこっていったかはほぼ一直線だ。南北オセチア問題、ジョージア侵攻、リーマンショックによるルーブル暴落、反クレムリン・デモ、メドヴェージェフ解任‥‥。これで大きな歯車が元に戻った(ように、見えた)。プーチン・ロシアのユーラシアニズムの実践講座の開闢が始まった。
≪044≫ 2010年、カザフスタンとベラルーシと関税同盟を結ぶと、ベラルーシのミンスクに「ユーラシア法廷」を立ち上げ、2013年からはEUの拡張を邪魔立てし、ウクライナを脅した。翌年、キーウでマイダン革命がおこり、政権派とユーロ派の激突としてヤヌコヴィチ大統領が失脚、ロシアへ亡命した。このあとの大統領選で俳優ゼレンスキーが登場して当選した。ウクライナはEUとNATOに近づいた。
≪045≫ プーチンはウクライナのNATO接近を強力な方法で分断することに走る。ウクライナ東部を「ノヴォロシア」と呼び、親ロシア派の軍事力を次々に潜入させていった。 あとはウクライナが折れるかどうか。ここから頻度の高い駆け引きが続くのだが、プーチンはぎりぎりになってこの展開を読み誤った。大統領ゼレンスキーはまるで逆ドゥーギン=逆プーチンとして「欧米をとりこむユーラシアニズム」を標榜してきたのである。
≪01≫ エドワルド・ヴァニアミノヴィチ・サヴィエンコ。政治名また筆名はエドワルド・リモノフ。
≪02≫ 作家・政治家として知られる以前の謎と噂が囂(かまびす)しくて、実像がなかなか掴めない男である。面と向かってプーチンに対決できる唯一の男と言い立てられてからも、テロリスト、国籍剥奪者、カウンターカルチャリスト、ネオファシスト、パンクな革命家、自暴自棄の作家、最後のトロツキスト、単なるならず者などという、実情がさだかにならないレッテルばかりが先行した。ぼくが「遊」をつくっていた70年代後半では、ただ一言「赤いリモノフ」あるいは「ロシア・アナーキーのデヴィッド・ボウイ」と聞くだけだった。
≪03≫ 先だっての2020年3月20日に亡くなった。危険な死ではなかったようだが、プーチン・ロシアが最も危険なステージに突入していた時期だ。78歳だった。そうか、いまのぼくの歳にあたるではないか。老いさらばえたのか。それとも何かから逃げきったのか。
≪04≫ そんなリモノフを、最近は映画にも乗り出している異才作家のエマニュエル・キャレール(他の作品ではカレールと表記)がノンフィクションノベルに仕立てたのが本書である。「赤いリモノフのためのレ・ミゼラブル」になっていた。
≪05≫ 早くに難敵フィリップ・K・ディック(883夜)の伝記をものしていた作家だ。傷口を優しい指で触れていく書きっぷりで、ボルシチのようにコクをつけたり、凍土を掘り返すようにしたり、ときにロシア・アヴァンギャルドふうな発条(ゼンマイ)をいくつか組み合わせて突き放したりしている。
≪06≫ 作家キャレールには『冬の少年』『嘘をついた男』『口ひげを剃る男』(いずれも河出書房新社)などの小説があり、映画監督作品では自作をいじった『口ひげを剃る男』のほか、ジュリエット・ピノシュ主演の絶妙な侵入ルポルタージュ『ウイストルアム』もあって、これはその筋で話題になっていた。いずれも主題に応じて陶冶していた。本書も伝記小説の見立てだが、そのスタイルはリモノフにふさしく右に左に、ロシア正教ふうにも反世界ふうにも揺動する。
≪07≫ 話は2006年10月、キャレールが当時のロシア社会の取材に訪れていたモスクワで、アンナ・ポリトコフスカヤが凶弾に倒れたニュースに出会うところから始まる。
≪08≫ アンナはプーチンの政治に公然と反対する女性ジャーナリストで、そのチェチェン紛争にとりくむ果敢で毅然とした言動と姿は、西側メディアでも評判になっていた。その彼女が暗殺された。FSB(ロシア連邦保安庁、KGBの後身)の仕業だろうことは、みんな薄々知っていた。次に暗殺されるのはリモノフだろうということも、これまたみんな予想がついていた。
≪09≫ キャレールは80年代始めからリモノフを見聞していたらしい。そのころはパリでのお調子者だった。スキャンダラスな小説仕立ての『ロシア詩人は立派な黒人が好き』(原題『俺はエージチカ』、英訳『俺がエディ』)がそこそこ当たって、ヘンリー・ミラー(649夜)やトルーマン・カポーティ(38夜)を想わせていた。ソ連から亡命したのちのニューヨークでのみすぼらしい日々と、女性や同性者との猥雑な関係を遠慮なく綴ったものだ。
≪010≫ 当時のパリにはソ連主義(フルシチョフ・ブレジネフ・アンドロポフらの体制)に刃向かう反体制派ロシア人がけっこういたが、たいていは髭を生やしていかつい肩幅で口角泡をとばすような連中だった。リモノフはまったく違っていた。どことなくセクシーで如才なく(太枠の眼鏡をかけ)、喧嘩と女が大好きで(少し背が低く)、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンをヒーロー扱いしていた(ツンツンの髪型に凝っていた)。
≪011≫ 2007年7月、キャレールはモスクワでリモノフと面と向かうことになる。2週間にわたる取材を許可されたのだ。
≪012≫ リモノフを取材したいと思ったのは、ひとつには、リモノフが議長を務めた「国家ボルシェヴィキ党」(通称ナツボル)を絶賛するイエリエナ(エレーナ)・ボンネルの言葉が信用できたからだった。アンドレイ・サハロフの未亡人だ。サハロフはソ連を代表する原子物理学者で、フルシチョフ時代のソ連の核実験のリーダーであるとともに、アフガニスタン侵攻には猛烈と反対活動をして、ノーベル平和賞以外の栄誉を剥奪され、流刑された。そのサハロフ未亡人のエレーナがそこまでリモノフの肩をもつと言うなら取り組んでみたいと思った。
≪013≫ もうひとつには、リモノフはプーチンの政党「統一ロシア」に対抗して、非合法政治同盟「もう一つのロシア」を結成したからだった。結成の会見にあらわれたのはガルリ・カスパロフ、ミハイル・カシヤノフ、そしてリモノフだった。カスパロフは歴史上最も偉大なチェスの名人、カシヤノフはプーチン政権の元首相、そこにリモノフが並んだ。キャレールはこの顔ぶれに参った。
≪014≫ 取材を始めてみると、自分が翻弄されていることがよくわかった。このままではリモノフを描けない。評判になっていた『落伍者の手記』を読んだ。
≪015≫ 手記の極め付きに「私は暴力的な蜂起を夢見ている。私はナボコフ(161夜)にはならない。100万ドル用意してくれ。武器を買い、どこの国でもいいから反乱を起こしてやる」とあった。ナボコフにならないとは、ナボコフのように西側のインテリに転向したりしないという意味である(ナボコフはコーネル大学で教授となった)。こういう男なのだ。キャレールは自分が翻弄されているのではなく、リモノフから相手にされていないということがよくわかった。
≪016≫ また、こういうくだりもあった、「私はだめなものの味方をしてきた。三流新聞、謄写版印刷のチラシ、まったく見込みのない政党、一握りしか集まらない政治集会、へたな音楽家たちが出す雑音。私はこれらが好きなのだ」。
≪017≫ 腹をくくらなければならない。いったいリモノフはテロリストなのか、革命家なのか。カルロスなのか(ベネズエラ人の国際指名テロリストのコードネーム。ジャッカルとも)、それともジャン・ムーランなのか(フランス・レジスタンスの英雄、ゲシュタポの拷問の末、移送列車の中で死んだ)。
≪018≫ キャレールはどっちもありだと思った。こうして、本書はリモノフの両面を綴ることになっていく――。
≪019≫ リモノフことエドワルド・サヴィエンコは第二次大戦の渦中の1943年にノヴゴロド生まれ、秘密警察要員の子としてウクライナのハリコフで育った。ハリコフはロシア読み、ウクライナ語ではハルキウになる。キエフ(キーウ)に次ぐウクライナ第2の大都会で、ロシア帝国時代は南部の要塞だった。
≪020≫ 少年は父親に敬服し、厳格な母親には脅えていたが、ハリコフの路地裏や廃墟で屯する不良グループにまじって、ロックンロールに痺れ、いつもポケットに折り畳みナイフをしのばせていた。デュマ(1220夜)やジュール・ヴェルヌ(389夜)を読み耽り、冒険と復讐と未知と恋とに胸をときめかせていた少年だ。10歳のとき、スターリンが死んだ。泣いた。初めてウォトカを飲んだら1時間でいくらでも飲めた。
≪021≫ 喧嘩や万引やその程度のことだが、ちょっとずつ悪いこともした。拘置されたり、手首を切って心療病院に入れられたりもした。映画館での詩の朗読大会に出て自作を読んでもみた。優勝した。書店で手伝いをするうち、書物のまわりには頽廃派たちが出入りしていること、世の中には地下出版(サミスダート)があるということ、書店員の女は寝てくれること、そういう女こそ世の中の本質をずばずば見抜いていることを知った。
≪022≫ 悪友にも出会えた。かれらにはたいてい二つの取り巻きがいた。SSまがいか、シオニストまがいだ。当時のロシアの悪童はネオナチまがいか、自由ユダヤ派まがいを引き連れていたのだ。憧れでもあるが嫉妬もしたくなる詩人たちとも交わった。その一人がヨシフ・ブロツキーだ。マンデリシュタームとツヴェターエワなきあとのロシア最高の詩人アンナ・アフマートヴァが発掘した若い偉才だ。耀いていた。
≪023≫ しかしリモノフは、そうした羨ましい連中を嫌いになろうとして、ハリコフを離れモスクワに移って作家の真似事を始め、もっぱら冷笑シニシズムや文芸アナキズムを謳歌する。
≪024≫ 青年リモノフがモスクワで感じたことは、スターリニズムを脱したはずのソ連官僚たちの権力闘争と制度不全があまりにもおかしすぎるということだった。ガマンができない。そこであからさまな反体制活動を開始するのだが、あまり狡智ではなかったのだろうか、すぐに挙動がばれて、たちまち国外追放処分をうけた。ソ連国籍も剥奪された。やむなくアメリカに亡命した。
≪025≫ 一方、リモノフはやたらに美女や美少女を好むところがあって、次々に生活と活動をともにしたようなのだが、しばらくするとたいてい彼女たちが離れていったため、数度の結婚履歴も何がどこでどうなったか、どうもはっきりしない。本書には革のミニスカートがめちゃくちゃ似合うイエリエナとの日々のことがやや詳しく描かれているが(イエリエナの伯母はマヤコフスキーのミューズ、その妹はフランスのシュルレアリスム詩人アラゴンのミューズ)、なぜリモノフが女漁りに熱意をもったのか(30歳年下の少女とも暮らした)、本書を読んでもいまひとつ伝わってこない。
≪026≫ イエリエナなど、いい女が何人もいたにかかわらず、ニューヨークでの日々はさんざんだったようで、服なおし(裁縫は嫌いではないらしい)、ホテルボーイ、三文記事原稿記者、金持ちの使用人、校正係などで糊口を埋めあわせた。ほんとうは目にもの見せたかった作家としての名声は、まったく上がらなかった。
≪031≫ プーチンにはテロルの匂いがした。アンナ・ポリトコフスカヤの射殺はそのひとつだ。ほかにも、多量のポロニウムが検出されたアレクサンドル・リトピネンコの死、ボリス・ベレソフスキーの暗殺計画の発覚などもある。リモノフはプーチンこそが同じ匂いのする宿敵であることを知る(プーチン自身も少なくとも5回にわたって暗殺されそうになった)。
≪027≫ 1991年、リモノフはソ連が崩壊したのを機にモスクワに戻る。ゴルバチョフとエリツィンの新生ロシアを目の当たりにして、その混迷と錯誤ぶりに失望した。オルガリヒ(新興財閥)は政権にべんちゃらたらたらだ。怒りがこみあげた。
≪028≫ 盟友アレクサンドル・ドゥーギンと出会い、ここだ、このときだと突っ込み、「国家ボルシェヴィキ党」(ナツボル)を組織して、共産主義とユーラシア主義と民族主義を糾合する「ロシア・ユーラシアニズム」を過激に吹聴しはじめた。ユーラシアズムがどういうものかは、1797夜を読んでいただきたい。
≪029≫ ドゥーギンには教えられることが多く、感心もしたが、2人を指導者とする政治活動のほうはなかなか核心をもちえない。それならというので、ロシア自由民主党を結党し、5ケ国語を操る極右ポピュリストのウラジミール・ジリノフスキーと手を組もうとするのだが、この男がたいそうな食わせ者で、リモノフは食わせ者は得意なはずだったのに、ジリノフスキーには「テロルの匂い」がしない。これでは「赤いリモノフ」の相棒にはなりえない。
≪030≫ そこへKGB上がりでエリツィンに気にいられたウラジミール・プーチンが満を持するかのように台頭してきた。シロヴィキ(軍部官僚・警察官僚)で陣容をかため、オルガリヒの脱税を取り締まり、チェチェン紛争を収拾し、与党「統一ロシア」をバックに着実きわまりない大統領の座を確立した。
≪031≫ プーチンにはテロルの匂いがした。アンナ・ポリトコフスカヤの射殺はそのひとつだ。ほかにも、多量のポロニウムが検出されたアレクサンドル・リトピネンコの死、ボリス・ベレソフスキーの暗殺計画の発覚などもある。リモノフはプーチンこそが同じ匂いのする宿敵であることを知る(プーチン自身も少なくとも5回にわたって暗殺されそうになった)。
≪032≫ ドゥーギンやジリノフスキーではまにあわない。リモノフは非合法組織「もう一つのロシア」を結成すると、ことごとくプーチンに楯突いていく。こうしてリモノフとプーチンは鏡の表と裏で対峙する。
≪033≫ 1991年、リモノフはソ連が崩壊したのを機にモスクワに戻る。ゴルバチョフとエリツィンの新生ロシアを目の当たりにして、その混迷と錯誤ぶりに失望した。オルガリヒ(新興財閥)は政権にべんちゃらたらたらだ。怒りがこみあげた。
≪034≫ 盟友アレクサンドル・ドゥーギンと出会い、ここだ、このときだと突っ込み、「国家ボルシェヴィキ党」(ナツボル)を組織して、共産主義とユーラシア主義と民族主義を糾合する「ロシア・ユーラシアニズム」を過激に吹聴しはじめた。ユーラシアズムがどういうものかは、1797夜を読んでいただきたい。
≪035≫ ドゥーギンには教えられることが多く、感心もしたが、2人を指導者とする政治活動のほうはなかなか核心をもちえない。それならというので、ロシア自由民主党を結党し、5ケ国語を操る極右ポピュリストのウラジミール・ジリノフスキーと手を組もうとするのだが、この男がたいそうな食わせ者で、リモノフは食わせ者は得意なはずだったのに、ジリノフスキーには「テロルの匂い」がしない。これでは「赤いリモノフ」の相棒にはなりえない。
≪036≫ そこへKGB上がりでエリツィンに気にいられたウラジミール・プーチンが満を持するかのように台頭してきた。シロヴィキ(軍部官僚・警察官僚)で陣容をかため、オルガリヒの脱税を取り締まり、チェチェン紛争を収拾し、与党「統一ロシア」をバックに着実きわまりない大統領の座を確立した。
≪037≫ プーチンにはテロルの匂いがした。アンナ・ポリトコフスカヤの射殺はそのひとつだ。ほかにも、多量のポロニウムが検出されたアレクサンドル・リトピネンコの死、ボリス・ベレソフスキーの暗殺計画の発覚などもある。リモノフはプーチンこそが同じ匂いのする宿敵であることを知る(プーチン自身も少なくとも5回にわたって暗殺されそうになった)。
≪038≫ ドゥーギンやジリノフスキーではまにあわない。リモノフは非合法組織「もう一つのロシア」を結成すると、ことごとくプーチンに楯突いていく。こうしてリモノフとプーチンは鏡の表と裏で対峙する。
≪039≫ どうしてそうしたのかはわからないが、本書は晩年のリモノフの「外なる擾乱」と「内なる動乱」を追跡していない。察するにキャレールはリモノフを追ううちに、むしろプーチンの魔力のほうにこだわっていったのである。リモノフの晩年はプーチンの裏返しだと見抜いたのだ。
≪040≫ この落着は、本書の最後で語られていて、なんともプーチン賛歌ともいうべきものになっている。そしてリモノフの「ぼくはならず者だった。中央アジアにこそ行くべきだった」という感想を引き出して、本書を閉じている。
≪041≫ しかしぼくは、そんな程度ではリモノフを締め切れないと思っている。いくつか白日で話題にすべきことがあるはずだ。ひとつはモスクワのナツボルの地下アジト「バンカー」(掩体壕)のことだ。ここには職業革命家やイゴール・レートフらのパンクロッカーが出入りしつづけた。地下写真を見ると、スターリン、ファントマ、ルー・リード、ニコ、ブルース・リーなどのポスター、そしてリモノフの写真が貼りめぐらされている。このリモノフのやらずぶった切りのパンク性をもう少し覗きこんでほしかった。
≪042≫ もうひとつはリモノフが編集していた機関メディア「リモンカ」のことだ。このロシア語のレモン(檸檬)をもじった定期刊行物を(俗語では手榴弾を意味する)、ぼくはまだ手にしたことはないのだが、リモノフの隠れた全貌はこのメディアの隙間にこそ蟠っているはずなのである。
≪043≫ リモノフがかかわった「テロリズムの失敗」についても気になる。ラトビアの聖ペーター教会爆破計画、数々の武器密輸、ほとんど失敗したクーデター計画、プーチンに仕掛けたであろう数々の罠、友人たちのとの別れ方(たとえばドゥーギンとの抉別)、いずれもまったくわかっていないままにある。
≪044≫ いま、プーチン・ロシアはウクライナ侵攻の渦中にあって、NATO、アメリカ、EUを相手に異常な全面戦争を辞さなくなっている。白系ロシアにミサイルをぶち込み、戦車で蹂躙を恣(ほし)いままにしている深意は計りかねるけれど、まったく同時期、習近平の中国がゼロコロナ作戦を完遂するため、上海や北京に「しらみつぶし」を徹底せざるをえなくなっていることと照らし合わせてみると、二人は戻りえない過誤に向かって軌を一にしているようにも見える。今後、ロシアと中国は無数のリモノフに脅えることになるはずなのだ。
≪045≫ アメリカは徹底的に「漁夫の利」を占めることになるだろう。西側はその「利」に抗うことはできないだろう。
≪046≫ 今夜の千夜千冊は、世界がそうした妄動を止められなくなった2022年5月の何かの亀裂口からのレポートだ。この一夜を通して何かの「暗号」に思い当たっていただきたい。ぼくだけでは役不足なのである。
≪01≫ ……舞台は十九世紀後半のロンドン。エンフィールドといとこの弁護士アターソンがいつものように散歩をしている。一軒の少し荒れた二階建ての家にさしかかったとき、エンフィールドがしばらく前にその戸口でおきた出来事を話しだした。
≪02≫ ある無礼な男がぶつかって転んだ少女を踏みつけて去ろうとしていたので、エンフィールドがこれを咎め、その子へのお詫びとして一〇〇ポンドを払いなさいと注意したところ、男はその家に入って一〇ポンドの現金と九〇ポンドの小切手を持ってきた。サインを見るとハイドと書いてある。あまりに不気味な風体と素振りだったので忘れられないのだと言うと、アターソンにも思い当たることがある。
≪03≫ 友人のヘンリー・ジキル博士から遺言書を預かっていて、そこに「自分が死んだときは、全財産をエドワード・ハイド氏に贈る」とあったのだ。おそらく無礼なハイドとはこの人物だろう。ただ、そんな男になぜ全財産を譲るのか、釈然としない。
≪04≫ ……アターソンは真偽をたしかめるために面会することにした。会ったとたん、青白い面貌のハイドは詮索されることを嫌って家に逃げこんだ。これはひょっとすると、ハイドはジキル博士の財産を狙って恐喝しているのかもしれない。
≪05≫ そこでジキル博士を訪れ、「この前、ハイドさんに会った」と告げると、博士はさっと顔色を変え、「その気になればいつでもハイドを追い払えるのだから、心配するようなことはない」と言う。
≪06≫ およそ一年後、ハイドが老紳士カルー卿を殺害したというニュースが届いた。ステッキで撲殺するのを見たとメイドが証言したらしい。警察から連絡を受けたアターソンが刑事とともにハイドの家に行ってみると、凶器のステッキが真っ二つに折れている。アターソンがジキル博士に贈ったステッキだ。
≪07≫ 驚いて博士のところへ向かってみると、博士は黙ってハイドからのメモを見せた。「自分は完全に逃亡する、博士には友情を悪用することになって申し訳ない」と書いてあった。それを見ていたアターソンの主任書記は「博士とハイド氏の筆跡が似ている」と呟いた。
≪08≫ ……しばらく何事もなく、ジキル博士も親しみやすい社交性をとりもどしていた。そんなとき、アターソンとジキルの古い友人であったラニオン博士が病気で亡くなり、残された書類からアターソン宛の手紙が出てきた。
≪09≫ 封を切ると、ジキル博士の死後までこれを開けてはならないと表書きがしてあって、もう一通の封書が入っている。やむなくそのままにしていたある日、エンフィールドと散歩をしていて例の二階家にさしかかったところ、窓の近くに博士が坐っている姿があった。博士はいかにも悄然としているようだが、次の一瞬、その表情が恐怖と苦悩に歪んだように見えた。すぐに窓の扉が閉められたのだが、二人はこの異様な表情に圧倒され、言葉を交わすことができなかった。
≪010≫ こんなふうに『ジーキル博士とハイド氏』は始まる。言うまでもなく「二重人格」をみごとな小説仕立てにしたもので、『宝島』『新アラビアンナイト』などとともにスティーヴンソンの名を不朽のものにした。
≪011≫ スティーヴンソンは弁護士の資格ももっていたので、こうしたサスペンスやミステリーが得意だったとも言われるが、二重人格のアイディアがどこから得られたものかは、わかっていない。おそらくはエディンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長をしていたウィリアム・ブロディーが昼間は堂々たる仕事をこなして夜になると盗賊をしていたという話、外科医のジョン・ハンターが昼は開業医でありながら夜は解剖のための死体調達をしていたという話、そのほか、薬剤によって気がおかしくなった人物の話などをモデルにしたのだろうと言われる。
≪012≫ しかしいまや、二重人格(double personality)といえばジキルとハイドなのである。スティーヴンソンは、この奇妙な人格が二つに割れる症状を、事件の経過を述べる第一部、ジキル博士が残した手紙で構成される第二部というふうに、巧妙に配した。
≪013≫ 二重人格についての精神医学上での研究は、そこそこ進んできた。人格障害の症例として、ウィリアム・ジェームズが「アンセル・ポーン」の実例を報告して以来、一人の人間の中にまったく異なる二つの人格が交代してあらわれる症状としてオーソライズされている。互いに他方の人格にあるときの行動が想起できないという驚くべき特徴も、多くの実例で検証されてきた。
≪014≫ 症例によっては、出現する人格が二人ではないことも少なくないので、この場合は「多重人格」(multiple personality)になるのだが、二重人格も多重人格障害のひとつだと考えられている。この疾患の特徴として、AからB(あるいはC~E)への、またB(C~E)からAへの移行に中間段階がないことにも、驚かされる。ガラッと変わるのだ。人格は本来は連続性や統一性が保たれているものなのだが、その連続性と統一性に障害をきたしたのである。
≪015≫ ということは、ジキル博士はおそらくはDID、すなわち解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder)だったのである。これは離人症や解離性健忘のように、そのときの感情や記憶を切り離して、そのことを思い出させなくすることで「心の傷」を回避しようとしているうちに、切り離した感情や記憶が別の人格となってキャラクターが表面化してしまう症状のことをいう。
≪016≫ ただし、スティーヴンソンの物語では、ジキル博士がハイドのことを「知っている」ようなので、DIDそのものではないとも言える。そのあたり、話がどうなっていったのか、ネタバレを承知でもう少し顛末を紹介しておく。
≪017≫ ……ある夜、ジキル博士のところの執事がアターソンを訪ねてきた。博士が書斎に籠もったままで様子がおかしい、すぐに一緒に来てほしいと言う。二人が屋敷に入ると、使用人たちが怯えたように集まっている。
≪018≫ 書斎に声をかけてみると、答える声は博士のものではない。足音も妙に軽すぎる。二人は、書斎にいるのはハイドで、きっと博士は殺されたのだと思った。意を決して執事が斧で扉を叩き壊して中へ入ってみた。そこにはハイドの死体が横たわっていた。なぜか博士のサイズの合わない服を着ている。しかしハイドが博士を殺したのではない。博士はいなかった。
≪019≫ 机の上にアターソン宛の封筒が置いてある。中にはラニオンの手紙、ジキル博士の遺言書、アターソンに向けた分厚い手記が入っていた。ラニオンの手紙には、ジキル博士からの依頼で研究所の薬品を自宅に置いておいたところ、そこへハイドが来て薬品を調合して飲んだ。たちまちハイドは博士に変身した。私はそのショックで、もはや寿命が尽きそうだとあった。
≪020≫ ジキル博士の手紙はこんなことを告白していた。私は若い頃から「もう一人の自分」に関心があった。秘密をもちたかった。だから白昼は公人としてふるまい、夜になると悪行を試すようになった。私は軽い気分でハイドに変身して道徳から解放されることを楽しんだのである。
≪021≫ …しばらくして薬品を調合して服用することを思いつき、本格的な変身がおこることを知った。これはかなり怖ろしいことで、しばしば中断してきたのだが、悪の誘惑も大きく、ついつい薬を飲んだ。するとそれまで抑圧されていた人格が強力なエネルギーとなって発揮できた。そのエネルギーに戦慄をおぼえた私は、断固とした決意でハイドになることを中止したのだが、あるとき突然に吐き気を催し、目眩に襲われた。気が付いたらハイドに変身していた。
≪022≫ 薬がなくてもハイドになってしまえたことは、もはや私がハイドを守るしかないということだった。私は使用人たちの目を盗んでハイドを屋敷に入れ、一室を用意し、ハイドが気にいるような遺言書を作成した。これで私はヘンリー・ジキルとしての安寧を取り戻したつもりだったのだが、ところが、ある朝目覚めたら、自分はハイドになっていた。邪悪な性質が私の中で優勢になってしまったのである。こうしてカルー卿の殺害に及び、私はもはや行き場を失った。ラニオン博士のところでヘンリー・ジキルを優勢にするための薬品調合をしてもらおうと赴いたのだが、博士はジキルがハイドの姿をしていることに驚き、そのまま臥せってしまった。
≪023≫ もう薬はなかった。この手記を書きおえたとき、私は永久にハイドになっていることだろう。ハイドが処刑されるか自殺するかはわからないが、それはもはや私とは無縁の人物である。この手記の末尾が私の人生の終焉である。
≪024≫ ジキルとハイドの関係は分身ではない。分身は自分の姿が外界に見える幻覚のことをいう。自己像幻視(autoscopy)である。大きく見えたり小さく見えたりするし、そういう話はゲーテの『詩と真実』やドストエフスキーの『二重人格』(岩波文庫)にも出てくる。ヤスパースは意識現象のあらわれのひとつだとみなした。東野圭吾の『分身』(集英社文庫)は遺伝子によるクローンのことだった。
≪025≫ それならジキルとハイドはドッペルゲンガー(Doppelgänger)だろうか。自分自身を幻想的に見るということならそうなのだが、他人にも見えるということからすると、ドッペルゲンガーではない。ポオの『ウィリアム・ウィルソン』やオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』ともちがっている。
≪026≫ 芥川が「二つの手紙」で扱っていたのはドッペルゲンガーだった。大学教師の佐々木信一郎が自分自身と妻のドッペルゲンガーを三度も目撃したという話だ。芥川はある座談会で「私のドッペルゲンガーは一度は帝劇に、一度は銀座にあらわれました」とも言った。梶井基次郎は「泥濘」に夜の雪道で不思議なドッペルゲンガーに遭遇した話を書いた。
≪027≫ しかし、ジキルとハイドはこういう話とはちがう。この話がユニークなのは、ジキルとハイドの互いが別人だということにある。ここが精神疾患を先取りしていたり、DIDめいたりしているところなのだ。
≪028≫ ところで、信じられないかもしれないが、スティーヴンソンはかなり豊かな生涯をおくった作家だった。たいていの作品は大ヒットしたし、三十代後半からは南太平洋の島が好きになってそこへ移住、島人たちからツシタラ(語り部)と慕われ、世界中からやってくる訪問者をもてなしながら暮らした。羨ましいほどの生涯だ。この真似をするには三つの条件がいる。
≪029≫ 第一に、子供時代からずっと病弱であること。ただし肺疾患で空気がよいところを選ぶような病弱でなければならず、そこにはやさしくて教養のある乳母が付き添っている必要がある。第二に、文才があって、執筆に静かな環境が用意されていることだ。別荘好きで、家族に囲まれながら恐怖や幻想を書くという趣味もなければならない。第三に、深い思索や哲学などに溺れないことである。ごくごくバランスのとれたコモンセンスとユーモアで生きられることが必要なのだ。これではぼくは失格だろう。
≪030≫ スティーヴンソンは世の中から見ると、いかにも別種の人間なのである。書いていることと、暮らしとがまったくちがうのだ。作家にはよくあることなのだが、ある伝統や文化から見ると、最も理想的で羨ましい人物でもある。ある伝統や文化とはイギリスやスコットランドが培ってきたジェントルマンシップというものだ。
≪031≫ スティーヴンソンは一八五〇年という時代の境い目に生まれた。万国博と百貨店によって欲望の展示が確立し、ポオとネルヴァルとメルヴィルによって人間の描写が確立した時代だ。生まれたのはスコットランドのエディンバラ、祖父の代から二代つづく土木家に育った。父親はスコットランドの海岸にいくつかの灯台を建てて尊敬され、母親は牧師の娘だった。
≪032≫ 幼年のころから肺疾患に悩み、ちょっと外出するだけで気管支炎になる体質だったのだが、そのために自宅に籠っているときに乳母からやさしくされ、聖書やスコットランドの物語をたっぷり聞かせられた。やがてエディンバラ大学に進んで父を継ぐべく工学を修めるのだが、やはり体のせいで法科に転進、弁護士を選ぼうとする。ところが激しい人間の軋轢の渦中に介入するより、想像力のなかで人間を想うほうを好む気質が弁護士にはてんで不向きであることがわかってきて、これは静養させるしかないという父の勧めで地中海のリヴィエラに行く。こんなふうにリヴィエラに行ける境遇は、なかなかあるものじゃない。
≪033≫ こうして紀行文や随筆などを書くうちに、パリに来ていたアメリカ人の人妻に恋をする。この人妻がアメリカに帰ってから病気に罹り、気になってそこへ会いに行ったスティーヴンソン自身が大西洋の長旅のためにもっと重病に罹った。これが夫人の心を動かした。めでたく二人は結婚をする。連れ子があった。
≪034≫ 夫人は病身のスティーヴンソンを救うために、夏はピトロクリやブレーマーで、冬はスイスのダボスで過ごした。夫婦ともに豊かなのである。夫人の連れ子が冒険物語好きだった。スティーヴンソンはこの子のために物語を聞かせ、それがそのまま『宝島』になった。空想の地図をつくり、それをもとに毎日一話ずつを語ってみせたのだ。
≪035≫ スティーヴンソンは、一八八二年には『新アラビアンナイト』を、数年後には『ジーキル博士とハイド氏』をまとめた。空前のベストセラーだった。
≪036≫ その後、父親が死んだので、アメリカに移った。そこへ有力な出版社から南洋旅行の旅行記を頼まれる。さっそくありあまる印税の余分でヨット「キャスコ号」を買って、家族で南太平洋を悠々とまわる。これがおおいに気にいり、やがてサモア諸島のウポル島に広大な土地を買い、一家はここに移住する。
≪037≫ 未開の島は「ヴァイリマ」と名付けられた。まるで夢のような旅、夢のような島である。むろん幸運だけではない。島人をよく世話し、教化にもつとめた。世界中から噂のスティーヴンソンを訪れる客は、この楽園の生活に憧れ、その噂を広めた。実は中島敦の『光と風と夢』(全集・ちくま文庫)はこのときのスティーヴンソンを描いた作品だった。
≪038≫ こんな羨ましい人生を送ったスティーヴンソンが、なぜにまた永遠の名作を次々に書けたのか。天は二物を与えすぎたのではあるまいか。
≪039≫ いろいろな説があるのだが、ひとつは最初に書いたようにスティーヴンソンがコモンセンスに徹していたからだった。コモンセンスというのは、常識を重んじるということではない。それもあるのだが、コモンセンスとは「好ましさ」とは何かを追求するということなのである。イギリス社会にとっての「好ましさ」とは議会主義であり女王崇拝であり、紅茶を飲み、クリケットやテニスやダービーを見守り、紳士淑女が優雅に交流することをいう。それとともに「好ましからざること」(unpleasantness)を見つめて排除することをいう。
≪040≫ スティーヴンソンがジキルとハイドの二重人格を描いたことは、この「好ましからざること」の徹底化だった。日本でいえば歌舞伎の勧善懲悪のようなもので、日本人にはこれは忠臣蔵でも義経ものでも水戸黄門でも、必ず受ける。このばあい、歌舞伎や水戸黄門がそうであるように、悪はあくどく、悪人はあざとく描かれている必要がある。スティーヴンソンがした基本的なこととはこれなのだ。
≪041≫ しかし、それだけでスティーヴンソンの筆名が上がるということはない。やはりスティーヴンソンの書き方に妙がある。同一人格内部でハイドがジキルを憎むという設定がいい。また、ハイドがジキルを凌駕する意識をもつところをうまく書いている。読者にはその二つのペルソナがしだいに接近するサスペンスをつくっている。逆にジキルはハイドを理解できない偏狭をかこっている。このペルソナの葛藤こそ、イギリス人が好んできたテーマだったのである。ペルソナ(仮面性)とはパーソナルの語源であって、パーソナリティの根本にある動向のことをいう。
≪042≫ スティーヴンソンは、おそらく日本には絶対に生まれえない作家であった。ヨットはともかく、島を所有した作家などいない。十九世紀に印税でヨットを買って南太平洋をまわる作家などありえない。日本では南方に憧れた中島敦や香山滋になるのがやっとなのである。それはそれでいいことなのかもしれない。
≪01≫ 集英社から「現代の世界文学」が刊行開始した。60年代後半の編集者と翻訳者と出版社の勇気を鮮やかに告げたこの文学全集は、ぼくの世代の快挙だった。
≪02≫ 20世紀の文学作品ばかりで飾ったこの全集で、ヘンリー・ミラーの『ネクサス』、レオーノフの『泥棒』、フォースターの『ハワーズ・エンド』、ベケットの『モロイ』が読めた。いずれも本邦初訳だったとおもう。『泥棒』ではサーカス芸人のターニャや吹雪のマーニカに惚れた。
≪03≫ 『ハワーズ・エンド』にはゲイ感覚文学にこそ二十世紀文芸のカレイドスコープがあることを告げられた。フィリップ・ロス『さようならコロンバス』、アラン・シリトー『長距離走者の孤独』、ジェイムズ・ボールドウィン『もう一つの国』、ドナルド・バーセルミ『死父』なども続刊され、そのつど着換えさせられる気分だった。なかで、最もぼくを驚かせたのがギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』だった。
≪04≫ 二段組で532ページもあるこの作品を読みはじめて十数分、誰も名前を知らなかったグラスがこの一作でドイツ文学のゲーテ以来の根本的伝統を蘇生させたことが、すぐ伝わってきた。もう少し読みすすむと、少年の屈折した魂と市街生活の光景をかつてないほど徹底して描きえていることが、了解された。
≪05≫ これはすごい、これはすごいとおもいながら、ぞくぞくしながら読んだ。読みおわって、当時、編集をしていた「ハイスクール・ライフ」(高校生向け読書新聞=東販発行16万部)というタブロイド新聞にすぐに書評を書いたことが懐かしい。
≪06≫ どうして『ブリキの太鼓』の主題は瑞々しいのか。ドイツの現代文学史はそのことをはっきり指摘していないようだが、そんなことははっきりしている。「壊れやすさ」「傷つきやすさ」こそが瑞々しい。フラジリティというものなのだ。
≪07≫ グラス自身がしばしば作品のなかで「こわれやすい美」という言葉をつかっている。しかし、そのフラジリティは都市や部屋や事物の細部で色彩をこめ、匂いをはなち、内側に向かっている。ここがグラスの懸命である。それは大半が「狭さ」というものをもっている。しかも二重化され、玩具化されている。
≪08≫ 玩具は主人公オスカル・マツェラートが打ちつづけているブリキの太鼓に象徴されている。オスカルは1924年にダンツィヒ自由市(現在のポーランド領グダニスク)に生まれ、3歳の誕生日にブリキの太鼓をもらった。オスカルはそのブリキの太鼓をもったまま地下室の階段から落ちて成長がとまった絶対少年であり、かつまた30歳まで生きつづけた絶対大人でもある。
≪09≫ グラスはその主人公にまつわる詳密で猥雑な出来事をあらわすにあたって、書き手の「ぼく」と描かれる「オスカル」という二重主語を駆使することにした。このアイディアが功を奏した。読者はその二重主語の告白によってまんまとグラスの術中に嵌まっていく。ぼくが読みはじめて十数分で嵌まったのも、そのせいだ。
≪010≫ もうひとつ、グラスが仕掛けたのは「匂い」と「スカートの中」という感覚装置だった。ふだんあまり使わない想像力が刺戟された。
≪012≫ けれどもグラスの匂いはぎりぎりになってあらわれる。オスカルが危険を認知すると匂い出してくる。そしていったんあらわれたらその匂いがこびりつく。その文章上のタイミングが重い。そこがこの作品を重厚にした。
≪011≫ 匂いを多用する作家は少なくない。マルセル・プルーストもフェルディナンド・セリーヌも香りや悪臭を利用する。有臭作家と無臭作家と大別できるほどに、ヨーロッパの文学は匂いをつかってきた。パトリック・ジュースキントの『香水』(文春文庫)という匂いだけでできている傑作もある。
≪013≫ スカートはこの作品では「抉られた小劇場」である。オスカルの祖母が四枚のスカートを穿いているのが、分厚いスカートの中に世界があることを暗示した。そのため、読者は作品に女が出てくるたびにスカートを想うことになる。加えて、オスカルたちは「スカート」とよばれるトランプゲームを頻繁にやる。それなのにスカートの中の女の描写はまったくあらわれない。スカートという被膜だけが世の中に堂々と存在するという感覚は、オスカルの意識を追う使命をもたざるをえない読者に異常な効果をもたらした。
≪014≫ ダンツィヒという町を舞台にしたのも成功した(グラスはダンツィヒで生まれた)。この物語はナチス抬頭の1930年代の、グラスの言葉によれば「涙のない世紀」におかれているのだが、その、燻っていて、絡みあった時代のきしみがダンツィヒの町の細部の意匠によって全面的にうけとめられている。
≪015≫ 客観的に町の描写をしている箇所はない。異常児オスカルが目にした町のごく一部分だけが露出する。それなのに、その一部の露出がダンツィヒを時代の影にする。その計算が徹底して結晶的なのである
≪016≫ 町をこのように描くのも、ニコライ・ゴーゴリのペテルブルクこのかた、むろん世界文学ではめずらしくないことだけれど、グラスのダンツィヒは不具の町として心に残るものになっている。しかし、このような指摘は『ブリキの太鼓』の特質のほんの表面的なことなのだ。
≪017≫ この作品がドイツ現代文学の頂上を極めるのは、この作品の全体性と部分性の質量の配分が、かつてドイツ文学がゲーテからマンにいたる流れのなかで到達した密度をめざしたということにある。ノーベル賞も授与された。
≪018≫ なぜ、こんなことをグラスはやってのけられたのか。残念ながら、ぼくにはグラスの奥に蠢く底意地のようなものはわからない。おそらくはドイツ文学の底流にわだかまる黒森の動静のようなものがぼくの意識の奥で摑めていないからだろう。ぼくには『伊勢物語』や『曾根崎心中』や『三四郎』が示した日本文学の意味は直観的にわかっても、そのへんのドイツの意識はかんじんのところが摑めない。
≪019≫ グラス自身は、『ブリキの太鼓』がたった一夜でセンセーションをおこしたあとのインタビューに答えて、この作品の背後にある意志の動向がグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』(岩波文庫)やゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(岩波文庫)やケラーの『緑のハインリヒ』(岩波文庫)と同質のものであることを否定しなかった。ぼくも当時はそのインタビュー記事でだいたいのことは了解できたのだが、グラスの本音はそんなことではなかったはずだ。
≪020≫ グラスが生まれ育ったダンツィヒは、現在はグダニスクにあたる。当時はヴェルサイユ条約で切り離された擬似独立区ダンツィヒ自由市で、雑多な民族や部族がごちゃまぜに集住していた。グラスの父はドイツ人の食料品店主で、母は西スラヴ系の少数民族カシューブ人だった。
≪021≫ ナチスが抬頭していて、その勢力はダンツィヒに及んでいた。15歳のグラスも労働奉仕団や空軍補助兵をへて、17歳のときはナチスの武装親衛隊の一員になっていた。だからドイツ敗戦後は米軍捕虜収容所にいた。菫色の悪魔と交流した青少年だったのである。そういうグラスが『ブリキの太鼓』を書いたのだ。ビルドゥングス・ロマン(成長小説)などで、あるはずがない。
≪022≫ われわれは、同じく第二次世界大戦をおこしたドイツと日本でありながら、その体験における決定的な記憶の差異というものをどこかで感じているはずである。ヒトラーと東条英機は同列には語れない。ニュルンベルク裁判と東京裁判はその組み立てがかなり異なっている。天皇の人間宣言も特異であった。ドイツは東西に分断されたけれど、日本はGHQが一極支配した。
≪023≫ きっとギュンター・グラスを理解するには、この記憶の差異にまで深入りすることが要請されるにちがいない。ギュンター・グラスやペーター・ヴァイスを読むということは、日本をドイツで読むということなのだ。
≪024≫ さて今夜は、一番大事なことだけを書いておきたい。いったいオスカル少年は「少年」なのかどうかということだ。小説のなかでオスカルは、精神病院入院中の30歳の患者として登場し、看護人を相手に自分の来し方をふりかえって語るというふうになっている。
≪025≫ オスカルは「精神の発育が誕生の時すでに完成してしまった耳ざとい嬰児」として出生したのである。病理学的には先天的異能者だったというふうになる。大人たちの会話はたいてい理解できるし、自分がおかれた状況もすぐに察知して抜け目なく立ちまわることができた。そういうオスカルが企んだのは「胎児の頭位に帰ること」(幼児のままでいること)によって、既存のオトナ社会における自分の有利をどのように自己誘導すればいいかということだった。
≪026≫ ところが14歳のときに、自分の奇行によって母親が心を病んで過食症のまま死んだ。のみならず伯父も父も、オスカルの言動によって命を落とすことになった。それまで自分のおかれた状況が不利なときはブリキの太鼓を打って金切り声をあげれば、どんな高価なものでも粉々にさせられるという異能をつかってきたのだが、それでは事態は好転するとはかぎらなかったのだ。
≪027≫ こんなことができる少年は「少年」なのだろうか。オスカルは21歳で方針を転換してブリキの太鼓を投げ捨てた。烈しく鼻血が出たが、かまわない。ここから大人のオスカルとして「成長を始めた」のである。
≪028≫ 生まれ育ったダンツィヒを離れ、父と同じ闇の商売を始め、石工や美術学校のモデルをし、ジャズドラマーになった。ドラマーとしてブリキの太鼓を叩いてみると、聴衆たちの幼少時の記憶が喚起された。オスカルは新たな「ブリキの太鼓叩き」として再生した。こうして「永遠の3歳児」が封印されたのだった。
≪029≫ そこへ事件がおこる。ある殺人事件に巻きこまれ、容疑者として逮捕されるのだ。これはオトナとして社会的制裁を受けることになったということなのだが、ところが精神障害者と診断され精神病院に入れられる。こうしてオスカルはふたたびブリキの太鼓を叩いては自分の記憶を看護人に語り始めるという、冒頭の場面に戻るのである。
≪030≫ この顚末は何を物語っているのか。オスカルは「少年」を演じていただけなのか、それともどんな少年にもこの程度の「悪だくみ」がひそんでいるのだろうから、やはりオスカルは本来の少年でありつづけたということなのか。
≪031≫ 一番大事なことを書いておきたいというのは、このことだ。ぼくは思うのだが、少年においては(少女だって同じだが)、「ほんと」と「つもり」は一緒なのである。すべては2つが綯交ぜの「もどき」(擬き)だということなのである。
2015年3月末現在、イスラム国の拠点のひとつティクリートがイラク軍によって奪還されたというニュースが流れた。
あいかわらず文化財は破壊され、シーア派も異教徒も容赦なく殺されている。
このあとどうなるかはわからないが、さしもの暴挙が食い止められるともくされるとも、逆に事態は一筋縄ではおわらないとも言われる。
本書はテロ対策コンサルタントが緊急に書いたもので、イスラム国は歴史上初のテロ国家となる可能性があるとした。
われわれはいったいどんな事態に直面しているのか。
ざっとその背景と経緯をかいつまんでおきたい。
≪01≫ 2014年6月前後だった。世界中に「イスラム国」(Islamic State)という名称が燎原の火のごとく罷り通っていった。従来のイスラム過激派を受け継ぐ武装組織の一派なのか、ろくすっぽ思想をもたない異常なテロ組織なのか、新たな国家組織あるいは擬似国家なのか、それとも新手の革命軍事集団なのか、わからないままだった。
≪02≫ 日本には縁遠いと思われたが、それから半年もたたない1月中旬、イスラム国は日本政府に法外な身代金を要求し、ついではシリア人女性の死刑囚解放を条件にしつつ、拉致した湯川遥菜さんを首を切って殺害した。ぼくの誕生日の前後のことだった。続いて後藤健二さんを殺害し、さらにヨルダン空軍のパイロットを殺害した。
≪03≫ その直後、国連はイスラム国が子供たちを生き埋めにしているとの報告書を発表した。世界が息を呑むなか、イスラム国の殴り込み先鋒部隊はチュニジアのバルドー博物館を襲撃し、21人を無差別殺害するとともに多くの歴史的美術品を破壊もしくは強奪した。
≪04≫ これを書き始めた3月末時点では、イラク軍とアメリカ軍と有志連合がイスラム国の拠点であるティクリートの奪還をめざし、ついではISの拠点都市モスルの奪還をめざすとニュースは伝えていた(その後、ティクリートはイラク軍によって奪還されたが、シーア派を中心にした民兵による逆略奪が始まったと報道されている)。また、アラブ連盟も首脳会議を開いてイスラム国壊滅を合議したとも伝えた。
≪05≫ ともかく、どうも予断は許さないようだ。なぜ予断を許さないのか、本書がそこに分け入っている。いったいイスラム国とは何なのか。かつてこのようなテロ集団はなかったのか。
≪06≫ あらかじめ、イスラム国が何をもくろんでいるのかという最大限の枠組だけをあきらかにしておくと、本書のロレッタ・ナポリオーニは「サイクス=ピコ協定によって決められた国境を破ること」を目的にしていると見るべきだと書いている。
≪07≫ これは、ある意味でわかりやすい枠組だ。サイクス=ピコ協定は、第一次世界大戦中の1916年にイギリスとフランスがオスマン帝国の領土分割を勝手に取り決めた密約である。
≪08≫ ぼくも『世界と日本のまちがい』(春秋社)で、中東のアラブ国家独立を約束したフサイン・マクマホン協定、パレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言とともに、サイクス=ピコ協定が「イギリスの三枚舌」として現代史上の重大なまちがいのひとつを冒したと書いておいた。
≪09≫ イスラム国はこの協定が決めた忌わしい国境を破りたい。そしてかつてのカリフの国土を復活させたい。かつてのイスラム帝国を復活したいのだ。あの1258年にモンゴル帝国によって破壊されたイスラム帝国を今日の21世紀に蘇らせたいのだ。あとで説明するが、シリアを狙ったのはそのためだった。それゆえいまのところ、イスラム国がそのような協定国境を破って侵略した区域は、すべからく「カリフ制国家」として位置づけられている。道路の補修、食料の配給、電力の供給などもおこなわれている。侵略は暴力的であり、残虐でもあるのだが、ISはいっこうに平気なのだ。
≪010≫ しかし、イスラム国がそのような戦略を実行に移すにいたっては、短期的なことではあるが、かなりの紆余曲折があった。
≪011≫ ごくごく短い形成史をふりかえってみると、この組織はもともとはイスラム過激組織スンニ派のアルカイダ(アル・カイーダ Al-Qaeda)の分派のひとつから派生した。
≪012≫ アルカイダは前身はあるものの、ウサマ・ビンラディンが90年代に確立した地下組織だ。もともとは1984年、アフガニスタンのムジャヒディンを指導していたムスリム同胞団のアブドゥーラ・アッサムが教え子のビンラディンをパキスタンのペシャーワルに呼び寄せたとき、アルカイダは萌芽していた。
≪013≫ その後、湾岸戦争(1991)の折り、サウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことに怒りをおぼえたビンラディンが、アイマン・ザワーヒリーらとアルカイダを反米テロ組織として過激化していった。アルカイダについてはいずれ千夜千冊をしてみたいが、湾岸戦争についてはエルマンジュラ(720夜)の『第一次文明戦争』や、サリンジャー&ローラン(441夜)の『湾岸戦争』を読んでおいてほしい。
≪014≫ そのアルカイダのごく一部分に、ヨルダン出身のアブ・ムサブ・アル・ザルカウィが設立した「タウヒードとジハード団」(al Tawhid wal Jihad)があった。スンニ派の過激勢力を結集したものだ。タウヒードは「神の唯一性」をあらわすシンボルタームである。
≪015≫ それが2004年10月に「イラク・イスラム国」(ISI)と名のるようになり、そのあといったんはビンラディンが仕切っていた一派「イラクのアルカイダ」(AQI)に吸収された。
≪016≫ 知ってのとおり、AQIは日本を震撼させた。イラクを旅行していた香田証生さんを拉致し、日本政府に対して当時イラクに派遣している自衛隊の撤退を交換要求したのだが、小泉政府がこれを拒否したため香田さんを殺害した。生きたまま首を切断される惨(むご)い殺害光景はインターネットで流された。湯川・後藤さんが拉致されたとき、多くの日本人はこの香田事件のことを忘れていたようだ。
≪017≫ 2006年6月にアル・ザルカウィが米軍の乱射攻撃で死亡した。首領を失ったAQIはこれを機に過激集団「ムジャヒディン・シューラー評議会」と合併した。
≪018≫ ここで新たなリーダーとして躍り出たのが評議会にいたアブ・バクル・アル・バグダディだった。人前に顔をあらわさないし、写真も知られるかぎりは2枚しか出回っていない男だ。
≪019≫ 2013年、そのバグダディが最高指導者に就くと、AQIは以前の「イラク・イスラム国」に組織名称を戻し、そのあと「イラクのアルカイダ」のシリアにおける組織に位置づけられていたヌスラ戦線(Jabhat al Nusra)の一部と合体して、新たに「イラク・レバントのイスラム国」(Islamic State in Iraq and the Levant)に換骨奪胎された。
≪020≫ ややこしい変遷だが、これがISIL(アイシル)またはISIS(アイシス)と略称されて、欧米メディアによって喧伝された名だった。ただしシリアやイラクではこういう呼称はなく、いまでも総称は「アッダウラ」(al-Dawlat)とだけ呼ばれている。「国家」という意味だ。
≪021≫ その後、アル・バグダディは自らを「カリフ」と呼んで、自分たちが占領した土地がカリフ制の国家であることを宣言した。このときイラク・イスラム国は公式名を「イスラム国」(IS=イスラミック・ステート)にした。いまはこの名が通っている。
≪022≫ バグダディがあえて「カリフ」を名のったというところが、イスラム国がサイクス=ピコ条約の国境を打ち破り、かつてのイスラム帝国の栄光を取り戻したいとした最大のエンブレムになっている。歴史上のカリフについては『イスラームの歴史』(1397夜)『イスラーム文明史』(1396夜)などを見られたい。
≪023≫ とりあえず変遷をかいつまんだが、イスラム国が実際はどういうものであるのかは、以上の離合集散とネーミングの変遷では何もわからないだろう。
≪024≫ いや、何を調べてもわからないことはあまりにも多いのだが、それでもなんとかこの異様な事態を眺めるには、まずは二人の首領、アル・ザルカウィとそのあとを継いだアル・バグダディのことを知る必要がある。この二人が現状のイスラム国のすべてをつくったようなものなのだ。
≪025≫ アル・ザルカウィはベドウィン族の出身だ。ヨルダン第2の都市ザルカの貧しい労働者の父のもとに、1967年の第3次中東戦争(六日間戦争)の数カ月前に生まれた。
≪026≫ 青少年期は仲間とかっぱらいをする程度の不良で、物騒なことは好きだったのだろうが、それ以上ではなかった。20代になって5年ほどの服役をしていた。ただ、このときに過激なサラフィー主義に染まった。サラフィー主義についてはあとで説明するが、欧米の価値観を全面否定し、これを排除する行動思想のことをいう。
≪027≫ 5年ぶりに監獄から出所したアル・ザルカウィはどうしたか。すぐにアフガニスタンに行ってムジャヒディン(志願戦士軍)に加わろうとした。ところがすでにソ連軍との戦闘はおわっていた。そこで2000年、カンダハルのオサマ・ビンラディンに会いに行った。
≪028≫ ビンラディンはアルカイダ(アル・カイーダ)の一員になることを勧めたのだが、なんとザルカウィはこれを断った。別のことを見通していたからだ。一方、ビンラディンは翌年、知られるように2001年9月11日、アメリカを同時多発テロで爆撃した。自爆テロを戦争に使ったのである。
≪029≫ ザルカウィは反米テロにはまったく加担しなかった。イスラム国にとってはここがアルカイダとの重要な戦力違いになっていくのだが、ザルカウィは遠いアメリカとテロ戦争をするのではなく、近いヨルダン政府と戦いたかったのである。ヨルダンを倒してそこに真のイスラム国家をつくりたかったのだ。
≪030≫ そこでイランとの国境に近いヘラートに自前のテロリスト訓練キャンプを用意して、中東各地で自爆テロを実行するためのスタートを切った。やがてテロ訓練生はイラクに潜入し、2003年8月には爆弾を積んだトラックがバグダッドの国連本部で自爆して、事務総長特別代表ほか20人あまりを爆破した。10日後には、ザルカウィの二番目の妻の父親が礼拝中のイマーム・アリー廟(ナジャフ)に爆弾を積んだ車で突っ込んで、シーア派の信徒125名を死なせた。
≪031≫ ザルカウィはスンニ派とシーア派の間に楔を打ち込みたかったのである。これは、両派の手を組ませてアメリカ帝国主義に対抗したいと思っていたビンラディンのシナリオにはなかったものだった。
≪032≫ ザルカウィは両派が手を結んでナショナリズムを鼓舞したら、イラクの世俗勢力としては支配的な力をもつだろうが、その後のジハード軍団はどんどん脇役になっていって、サイクス=ピコ条約の打倒などとうてい無理になると判断したのだったろう。そこでテロを決行しながら、まずもって「タウヒードとジハード集団」を率いていくことにした。
≪033≫ ビンラディンのほうはザルカウィをほったらかしにするのはまずいと思ったようだ。そのためこれをアルカイダの傘下においておこうとして、ザルカウィのジハード軍団を「イラクのアルカイダ」という名に変えさせた。これはビンラディンの資金力の一部をザルカウィが手にできたことをあらわした。
≪034≫ これによってザルカウィは志願者を次々に募り、ふんだんに兵器を入手すると、執拗にシーア派に対する自爆テロを繰り返した。イラクを内線状態にしてしまうのが狙いだった。おそらくビンラディンもこの作戦までは容認していたのだと思われる。
≪035≫ この作戦はいまでは「バグダッド・ベルト」と呼ばれている。バグダッドを取り巻くベルト状の町をつぶしていって、首都を孤立させ、そのうえでバグダッドを制圧してカリフ制国家を再興しようというものだ。
≪036≫ 2006年に入ると、バグダッド・ベルト作戦が実行され、ザルカウィのジハード戦士たちはたちまちバグダッド西方のアンバル県ファルージャと県の大半を制圧し、3月から4月にかけてはカルマやアブグレイブを落とし、バービル県北部とバグダッド南部を攻略していった。
≪037≫ その渦中で、ザルカウィはアメリカ空軍の爆撃によって死亡してしまった。米軍が方針を転換し、13万人以上の兵員をイラクに送りこんだのである。「イラクのアルカイダ」は活動を一時停止せざるをえず、イラクにおける宗派戦争の起爆は寸前で回避された。
≪038≫ ザルカウィの死後、軍団組織では内紛がおきたようだ。またスンニ派の長老たちがジハード集団を「イスラムの教えに従わない異邦人」とみなすという見解を発表し(スンニ派の覚醒)、加えてアメリカの増派戦略が目だってきて、ジハード集団はしばらく弱体化した。この「スンニ派の覚醒」は、いまではアメリカの仕立てだったことがわかっている。
≪039≫ こうして2010年になって、アブ・バクル・アル・バグダディが頭角をあらわすと、事態は大きく変貌していった。
≪040≫ アル・バグダディがどいう男なのか、その正確な情報は、まだほとんどわかっていない。
≪041≫ 1971年にイラクの古都サマラの宗教的な家系に生まれ、バグダッド大学でイスラム神学の学位を取得したこと、長らくイマーム(イスラム教徒の指導者)として活動していたことくらいしか、わからない。「見えないシャイフ」と呼ばれて、信頼できる仲間の前でも顔を覆っていたともいう。シャイフとはジハード集団の族長のことだ。
≪042≫ 2005年にアメリカ軍に拘束され、イスラム南部のキャンプ・ブッカに収容されたときは「イラクのアルカイダ」の残党という身分だった。服役中はおとなしく、米軍はまったく警戒しなかった。
≪043≫ 釈放後のバグダディは寄せ集めのジハード軍団を「イラク・イスラム国」(ISI)と改称し、まずイラク内のアメリカ人攻撃をしながらアルカイダから距離をおいた。返す刀でイラク国内でマリキ首相のシーア派政権の不人気を煽った。ただ、この程度では内外にほとんど効力をもちえないと判断したバグダディは、次に混乱を極めていたシリア内線に目をつけた。内線を拡大させてISIの勢力を拡張していこうというのだ。
≪044≫ 2011年、バグダディはジハード集団をシリアに潜入させ、代理戦争の仮面を装いつつ、一方でメンバーの軍事訓練を兼ね、他方では戦争経済をよろこぶ多数のスポンサーを探し、資金調達ルートを安定させるという作戦を敢行した。
≪045≫ このときバグダディは新参者を歓迎するという方針をとった。広く欧米に志願者を求め、報酬額もふやしていった。逆に戸惑う志願兵を容赦なく殺害していった。
≪046≫ ついで2013年は「ヌスラ戦線」を吸収した。これはシリアとレバノンのアルカイダに属する組織で、この吸収の過程で組織名をいったん「イラク・レバントのイスラム国」(ISIS)にした。
≪047≫ このころからバグダディは凶暴な司令官に徹するようになっていった。このことは領土の占有を戦略としていないアルカイダやその分派をも恐れさせた。ヌスラのメンバーには離脱する者も少なくなかった。これを見たバグダディは、いよいよ組織の目標をイスラム国家の建設におき、サイクス=ピコ条約が決めた国境の破綻に照準を絞っていく。
≪048≫ これが「イスラム国」(Islamic State=IS)の誕生なのである。2014年6月のラマダン月にこの国家宣言はされた。バグダディはカリフを僭称した。国際的にまったく認められてはいないが、カリフの称号が使われたのは第31代カリフのアブデュルメジト2世(1868~1944)以来のことだった。
≪049≫ 武装組織が国家をつくろうとした試みはイスラム国が最初ではない。前例がある。最も早い例はアラファトが指導した「パレスチナ解放機構」(PLO)だった。アラファトは経済活動やテロビジネスを通じて支援国からの自立をはかり、「パレスチナ自治区」の擬装国家化に辿りついた。
≪050≫ 1987年の第一次インティファーダが折り返し点になった。ガザ地区とヨルダン川西岸地区で一斉蜂起がおこったのである。これでイスラエル政府は政策転換した。PLOに流入するいっさいの資金を没収し、それをもってPLOの孤立化を招こうとした。2000万ドルの現金が没収されたというが、実際にはそれ以上のもっと潤沢な資金が高度なテクニックでPLOに流れたと見られている。
≪051≫ イスラエルがのちに気づいて切歯扼腕したように、PLOはさまざまな国家や戦争企業の支援を受けた複数の集団のゆるやかな連合ネットワークだったのである。これをアラファトは自力の軍事経済主体に再編していった。いっときPLOの年間収入は、多くのアラブ諸国のGDPを上回っていた。
≪052≫ パレスチナ自治区は「国」としてのインフラをもっていても、主権国家とはなりえていない。各国の政治的承認もなされていない。しかしながら現在のイスラム国は実態があきらかでなく、また指導者のバグダディはアラファト議長のような「笑顔が似合うコミュニケーター」でもないが、その基本構造は以上のPLOやパレスチナ自治区に似たものをもっていると憶測される。
≪053≫ それにしても、なぜイスラム国はここまで凶暴となり、なにもかもを破壊しつくさないと気がすまないのか。また、そんな組織がなぜ強力な軍事力や経済力をもちうるのか。幾つかのことに着目する必要がある。
≪054≫ 第1に、イスラム原理主義やイスラム過激派の組織はそもそもネットワーク型であるということだ。ピラミッド組織ではないということだ。欧米もロシアも中国も強力なヒエラルキーによって国家や軍隊や経済組織をつくっている。イスラム過激派はそうならない。アルカイダがその典型だ。本部もなく支部もない。網の目状のネットワークの結節点(ノード)のそれぞれに覚醒したジハード戦士のコロニーが活動するだけなのである。
≪055≫ このことは過激派のみならず、実はすべてのイスラム組織にあてはまる。どんなイスラム組織もそうなっている。
≪056≫ もともとイスラム世界においてムスリム(イスラム教徒)になるには、「私こと某(なにがし)は、アッラー(神)とマラーイカ(天使)とクトゥブ(天啓の書)とルスル(預言者)とアーヒラ(天国)とカダル(運命)を信じます」と言えば、それでいい。しかもムスリムになったからといって、キリスト教のようにどの教会やどこかの教区に所属する必要がない。ウンマ(イスラム共同体)の一員になったというだけで、どんなイスラム世界でも自由に動けるのだ。
≪057≫ 第2に、このようなムスリムを結び付けているネットワーク力は商業活動にこそ向いていたということだ。これまでのイスラム史の国家や帝国はことごとく商業国家であり、商業的ネットワーク帝国だった。歴史上、このような特徴を顕著にもつ国家社会はなかった。ぼくの言葉をつかえばイスラムとは「思想商業主義」なのである。ムハンマド・バーキルッサドル(305夜)の『イスラーム経済論』、加藤博(1395夜)の『イスラム経済論』などを読まれたい。
≪058≫ それゆえ、どんなイスラム組織も自在な経済活動力を発揮した。経済活動が濃くなるところには、必ずスポンサーや支持者が群がり、金儲けがつきまとう。
≪059≫ このことは過激派組織にもそのままあてはまる。かれらは短期間で強奪ビジネスや誘拐ビジネスに精通し、油田を襲って原油を密売し、美術品を含む収奪品を欧米業者に流し、さらには銀行を襲撃して根こそぎ現金を持ち帰った。モスルのイラク中央銀行を襲ったときは4億2000万ドルを手に入れた。
≪060≫ 第3に、これらのことは軍事組織(戦闘部隊)にもまるごと反映していった。イスラム国の戦闘員の主体は外国人義勇兵であるのだが、そうなっていったのは、それが雇用ビジネスであり、傭兵ビジネスでもあったからだった。
≪061≫ アルカイダはまだしもイスラム諸国からのリクルートで成り立っていた。ところがイスラム国は、そこをグローバルにした。インターネットを駆使し、報酬と殺戮を天秤棒にかけ、志願兵・義勇兵・傭兵を世界中から呼びこんでいる。2015年1月現在で約2万人の外国勢がジハード戦士になっていた。
≪062≫ 本書のナポリオーニは、イスラム国の軍事増強術を調べるうちに何かに酷似していることに気が付いたのだが、それは投資銀行の手口に近かったのだ。
≪063≫ 第4に、こういうことが可能になったということこそが、かれらを凶暴にも残酷にもさせた。なぜなら、このネットワーク人材は地縁や血縁に縛られていなかったからである。
≪064≫ すでに何度も強調してきたように、イスラム国はアルカイダとは異なって「領土」をもつことを目標とした。領土をもつには侵略と、支配と、収奪が必要だ。バグダディはこの鉄則に徹した。一方、領土をもつべく進軍するジハード戦士は、どんな地縁や血縁とも無縁でなければならなかった。このこともバグダディは肝に銘じさせた。かくて、かつての十字軍や植民地軍がそうであったように、かれらはどんな被支配者(住民・他宗派)に対しても残酷を徹していったのである。
≪065≫ 第5に、時機的にイスラム国の勃興とシリア内線がぴったり重なったことが大きい。それまでのシリアは欧米からすると「おいしくない相手」だった。投資をしても見返りがなく、ただアサド政権に引っ張り回されるだけだった。
≪066≫ イスラム国はそこに目を付けた。シリア内線に介入することによってそこに法外な“有事予算”が計上できることを内外に教えていったのだ。国際経済も国内経済も“有事”についてはからっきし甘いのだ。
≪067≫ シリア内戦は、2011年にチュニジアで起きたジャスミン革命の余波がアラブ諸国に波及した煽りで始まった。そのため「アラブの春」などと一括されているが、いまやそんなおめでたい用語で事態を見ている者はいない。宗派対立、アルカイダの跳梁、サリンなどの化学兵器の使用、クルド人の蜂起、数百万に達した難民問題など、あらゆる矛盾が噴出し、渦巻いている。イスラム国はこれに乗じたのである。
≪068≫ そして第6に、イスラム国はインターネットとハイテクノロジーを最大限に活用する組織であるということだ。タリバンやアルカイダはテクノロジーは好まなかった。ましてSNSなどどうでもよかった。
≪069≫ ところがイスラム国はそうではない。ウェブ機関紙「ダビク」をもち、SNSを駆使するようになった。かれらは過剰で異常なニュースほど、ネット配信で流すようにした。イスラム国は内部にICTに詳しいメンバーを抱え、プログラミングもハッキングもゲームづくりも辞さないハイテク・ハッカー集団なのである。きっとかなりの電子遊軍とつながっているにちがいない(この千夜が公開される直前の4月9日、フランスのTV5モンドがハッキングされ3時間停止した。「サイバー・カリフ」と名のるグループの犯行だった)。ただし、ユーザーにはサービスもした。数年前のISILの戦闘員が画面に登場して敵を次々に倒していくリクルートゲームのソフトは、世界中で1億5000万本を売ったと言われる。
≪070≫ ようするに、ISは良くも悪くもグローバル・ステートの相貌をもった偽装国家なのである。
≪071≫ だいたい以上が、イスラム国をかくも異様なものに仕立てていった主な要因たちだ。しかし、ここには誰もが気にしている「宗教的な過激イスラム主義」とはどういうものかという要因が入っていない。あえてはずして書いたのだが、その穴を埋めるのが「サラフィー主義」である。
≪072≫ サラフィー主義(Salafism)は初期のイスラム指導者たち(サラフ)の教えに字義通り従う信条の持ち主のことをいう。19世紀半ばにヨーロッパ列強にめざめて形成された。そういう意味では日本における明治維新思想に時代的に共通するものがある。
≪073≫ このようなサラフィー主義者が多くいるのはサウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦などで、長らく「中東における最も優勢な少数派」というふうにもくされてきた。
≪074≫ しかし本書でサラフィー主義と呼んでいるのは、今世紀の欧米諸国の過剰な介入に対する反発から形成されたサラフィー主義で、著者はこれをイスラム国が採用した「現代サラフィー主義」と捉えている。
≪075≫ なぜ、現代サラフィー主義が台頭したのかというと、アラブ諸国がムスリムの土地における政治主体としてイスラエルを認めたからだった。その土地はかつてはカリフの土地だったのだ。このことに怒りの声を上げたのが、アルジェリアの武装イスラム集団GIA、イエメンのアデン・アビヤン・イスラム軍、そして、アル・ザルカウィが最初に入っていたアル・タウヒードだった。これらは一様に反欧米、反イスラエル、反偶像崇拝を謳った。
≪076≫ ぼくはまだよくわかっていないのだが、この現代サラフィー主義の台頭のプロセスを、アラブ世界では「アル・ナーダ」(al Nahda)というらしい。覚醒とか文化復興という意味だ。
≪077≫ まるでアラブ・イスラム・ルネサンスのような運動スローガンだが、その内容は当初はナセルの欧化アラブ主義からの決別を意味していたが、アフガン戦争以降、9・11以降、イラク戦争以降は、激越な「国民国家の拒絶」と「欧米民主主義の拒絶」というふうに先鋭化していった。
≪078≫ 当然、こんなイスラム主義は本来のイスラムの信仰にはほど遠い。しかし現代サラフィー主義とイスラム国は、これをスンニ派によるシーア派攻撃に変えて、イスラム国こそが正統のカリフ的イスラム主義であると強弁していったのだった。
≪079≫ 本書は緊急出版ということもあって、かなり舌足らずなものになっている。また中東戦争の歴史や背景も省かれている。
≪080≫ そのあたりのことはいずれ何かの本で千夜千冊するとして、今夜はナポリオーニの着眼をのみ紹介することにした。それは、イスラム国の手口が投資銀行や証券会社やかつての欧米の戦争債券ビジネスと酷似しているということだった。ISは危機(リスク)をつくりだすことによって、投資家やトレーダーたちの有事ゲームを成立させているということなのだ。
≪081≫ ナポリオーニは、かれらがこの有事投資ビジネスをグローバル・ネットワーク状に広げている以上、この国を容易に解体することは困難だろうと語っている。
≪082≫ だが、真相がどう動いているか、まだ十分の一もわかっていない。これを書いているいまも、事態は刻々と変質している。さらに詳しくは、グローバル現代史の背景、イスラム原理主義の渦中、中東とユーラシアの民族紛争の現状に分け入るしかない。それには本書のほかに、次のものを読まれるといい。
≪083≫ たとえば、ポスト9・11のバイブルとなりつつあるジル・ケペルの『ジハード』と『テロと殉教』(産業図書)の2冊と先行書の『ジハードとフィトナ』(NTT出版)、キリスト教とイスラムの断層を地政学的に描いたイライザ・グリズウォルドの『北緯10度線』(白水社)、いま最も難解なシリアを現代史から解いた青山弘之の『混迷するシリア』(岩波書店)、やや大きな視点の栗田禎子の『中東革命のゆくえ』(大月書店)、入門としてわかりやすい宮田律の『世界を動かす現代イスラム』(徳間書店)、緊急出版された小瀧透の『血で血を洗う「イスラム国」殺戮の論理』(飛鳥新社)や高山数生・牧島明・田中幾太郎による『本当に「イスラム国」は日本にテロを起こすのか?』(宝島社)、そしてやや古いのだがほとんどの重要タームを網羅した宮田律の『イスラム過激派・武闘派全書』(作品社)等々。
≪084≫ ただし忠告しておくが、中東・イスラム・ジハード集団をめぐる言説は、まことに捕捉しがたく、うっかりすると伏魔殿に引きずりこまれているような気分になりかねない。よくよく大勢と細部を高速に、かつ集中的に読みこむ必要がある。
≪01≫ アメリカが自国を中心に世界を一つにしようとした1990年代を、別の名で「グローバリゼーションの時代」という。正確には偽のグローバリゼーションを騙った時代というべきだ。 このアメリカによるグローバリゼーションが始まった1990年というのは、かの湾岸戦争が計画された年である。
≪02≫ その後、クリントン政権はイスラエル・パレスチナに中東和平合意を結ばせ、アラブ・イスラエル間の対立を払拭してイスラエル製品を中東全域で買わせるような態勢をつくり、パレスチナにも小さな国家をつくってあげるという「オスロ合意」を旗印にした新興市場づくりに邁進していた。 これこそがグローバリゼーションの中東地域における狼煙の第一弾だった。
≪03≫ この新興市場として浮上してきたひとつに中央アジア諸国があった。石油や天然ガスに富むカザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなどで、ソ連があったころはロシア援助に頼っていたが、崩壊後はどこも中央アジアに力を出していなかった。アメリカはここに目をつけ、ロシア区域を避けるパイプラインを通したいと考えた。
≪04≫ そうなるとラインは南進してイランかアフガニスタンを通ってペルシャ湾に向かうことになる。イランはイスラム革命以降は反米一色なので、残るはアフガニスタンである。
≪05≫ ところがアフガニスタンにはムジャヘディン(聖戦士)によるゲリラ内戦が進行中で、司令官の私物化や女性レイプや金品強奪がまかりとおっている。ムジャヘディンはソ連・アフガン戦争のときにパキスタン(ブット首相)が支援したゲリラ戦士たちで、そのバックにはアメリカがいた。アメリカ=パキスタンは巧みにムジャヘディン7派を統一させないようにし、しかも有力派のラバニ派ではなく親パキスタンのヘクマディアル派をひそかに支援しつづけて、内部対立を煽った。1992年のことだった。
≪06≫ しかしムジャヘディンの乱立は無節操に激しくなるばかりだったので、アメリカ=パキスタンはムジャヘディン内戦を内側から切り崩して突破できる青年戦士を募り、これを支援することにした。
≪07≫ これが「タリバン」である。アラビア語で「学生たち」を意味するタリバンは難民キャンプで育ってイスラム神学校で学んだ青年と、その先生(聖職者)で構成された。
≪08≫ こうして1994年11月、パキスタン西部アフガン国境の町クエタからタリバン兵士を乗せた30台のトラックが出発、行く先々で地元民を苦しめるムジャヘディンを打ち破って、1996年9月にはついに首都カブールを陥落したのだった。
≪09≫ この作戦の背後に、アメリカの石油会社「ユノカル」が中央アジア→アフガニスタン→パキスタン→インド洋という天然ガスのパイプライン建設を計画していたというシナリオが動いていたことは、いまでは誰もが知っている。
≪010≫ しかし、アメリカ=パキスタンにとっては予想のつかないことがおこった。
≪011≫ タリバンが厳格なイスラム原理主義にもとづいて顎髭を生やさせたり、ブルカを覆わない女性を逮捕したりしたことではない。そんなことはアメリカはまったく放置していた。そのころのアフガニスタンを知っている著者によると、タリバンは都市部には激しい強制をしていたようだが、農村部には甘かったようである。ともかくアメリカはそのころのタリバンを非難してはいなかったのである。
≪012≫ アメリカがタリバンを警戒するようになったのは、オサマ・ビンラディンがタリバンに加わって反米テロを始めたことだった。ビンラディンがアフガンに入ったのは1996年春のことで、それからしばらくはアメリカはビンラディンをむしろ便利な指導者として眺めていたはずなのである。
≪013≫ なにしろビンラディンはムジャヘディンがソ連と闘ったころに、そのアメリカ型のプロジェクトに協力した富裕な一族の御曹司だったのだ。
≪014≫ 著者は共同通信からマイクロソフトに移ってMSNジャーナルを立ち上げ、個人で国際ニュースをメール配信しつづけているフリー・ジャーナリスト。『神々の崩壊』(風雲舎)、『国際情勢の見えない動きが見える本』(PHP文庫)などの著書もあるが、なんといっても連日のニュース解説が壮絶だ。
≪015≫ 本書はその著書がアメリカによるアフガン攻撃が開始される前に書いたところがミソで、リアルタイムな迫真の追求感がよく出ている。とくにビンラディンがアメリカの背信にあってスーダンに追われ、さらにスーダンからアフガンに落ち延びて「アルカイダ」をテロ・ネットワークの拠点に再編成するまでの事情については、本書を読むまで何を読んでもわからなかったことだった。
≪016≫ ジャーナリストとしてのカンは1998年8月に、ケニヤとタンザニアのアメリカ大使館が爆破されたときに全開したようだ。ぼくはカンは動かなかったし、ビンラディンのことも知らなかったが、このニュースを聞いたときは、不謹慎ながら胸のどこかに風がズドンと吹き抜けていったおぼえがある。
≪017≫ それはともかくアメリカは、その2週間後にビンラディンが化学兵器を製造していると噂されていたスーダンの工場にミサイルを打ち込み、テロリスト養成をしているらしいアフガンのジャララバード近郊の基地を攻撃した。
≪018≫ これでビンラディンとアメリカという、とんでもなく不釣り合いな戦闘事態の幕が切って落とされたのだ。
≪019≫ 他国の一区域に予告もなくミサイルを打ち込んだのはクリントンである。しかし、これは何の成果もなく、クリントンはビンラディン暗殺をCIAに指令、それもままならないと長期戦にもちこむことにした。つまりグローバリゼーションの戦略のなかにテロ戦争を正当化することに決めたのである。
≪020≫ こうして、最初は国連を窓口として外交交渉をしようとしていたタリバンは、すべてを閉ざされる。代わって、かつてアフガン戦争やイラン・イラク戦争のときの拠点となっていた「アルカイダ」が戦士のOBネットワークとして機能をはじめ、それが反米テロ戦略の拠点となっていったのである。アルカイダとは「拠点」という意味だった。
≪021≫ いま、アメリカはビンラディンの捕獲も暗殺もできないまま、ふたたびイラクに攻撃を仕掛けようとしている。
≪022≫ これはもはやグローバリゼーションではありえない。グローバリゼーションは20世紀とともに反故になったというべきである。かつてイラクがイランに攻撃を加えて8年におよぶイ・イ戦争を開始したとき、アメリカがサダム・フセインをそそのかせてイラン侵攻に踏み切らせたのだったが、その逆を湾岸戦争でおこしながらもフセイン政権打倒に失敗したアメリカが、またもや同じ手口をつかってみたいというのだから、これは単にアメリカのアメリカのための“グロリア”ゼーション(!)にすぎない。
≪023≫ いったいアメリカは何をしたいのか。ムジャヘディンをつくってムジャヘディンを潰し、タリバンをつくってタリバンを潰し、それでも潰れないフセインとビンラディンだけをターゲットに世界中を戦争に巻き込んで、何をしたいのか。
≪024≫ 本書にもふれられているのだが、われわれはもう一度、オスマントルコ帝国が圧倒的な支配権を発揮していた中東区域の国家と民族と宗教に立ち返って、アメリカのグロリアゼーションの死産を強調しておかなければならなくなったようである。
≪025≫ そんなふうにいちいち歴史に戻るのが面倒だというのなら、世界中にひそむ「心の中のタリバン」を、北朝鮮もキューバも台湾も、アメリカの大学生もドイツの青年も日本の老人も、赤裸々に出しあってみるべきなのである。
≪01≫ ドイツは二十世紀の二つの世界大戦の中心にいた。二つの大戦とも、イギリスとドイツが対立し、アメリカとロシアがイギリス側についた。ドイツは両大戦において、ほぼ単独でロシアやフランスを倒した。なぜドイツは二度の大戦の主人公になったのか。勝っても勝っても、最後はなぜ敗けたのか。東西ドイツに分裂させられたのは、どうしてか。ドイツにどんな虫がいたのか。
≪02≫ さかのぼればドイツの統一があまりに遅れていて、プロイセン(プロシア)中心の「小ドイツ」でいくか、オーストリア・ハプスブルクを含めた「大ドイツ」でいくかの逡巡があったのである。そこにビスマルクが登場した。一八七〇〜七一年の普仏戦争に競り勝つとアルザス・ロレーヌを獲得して、大ドイツ方針が確定した。普仏戦争の参謀総長はモルトケだった。
≪03≫ ビスマルクは皇帝フランツ・ヨゼフ一世のオーストリアと皇帝アレクサンドル二世のロシアとのあいだに入って、三帝同盟を結んだ。ポーランド分割をどう継続するか、バルカン半島をオーストリアとロシアがどう分割したいのかという野心に加担した。加担したのはポーランドやバルカンが勝手に動いてもらっては困るからだ。
≪04≫ 一八七七年、露土戦争が始まると、ロシアは勝手にバルカン半島に深く攻め込み、イスタンブールにさえ迫った。イギリスとオーストリアがこの行動を咎めた。ビスマルクはベルリン会議を開いて仲介役を買って出るのだが、ロシアは気に入らない。やむなく三帝同盟を復活させた。こうしてバルカン半島に火種が残った。ビスマルクのせいではないが、ビスマルクの二正面作戦の失敗にも原因がある。
≪05≫ 以上のいきさつは普仏戦争前後の出来事にすぎないが(日本は明治維新前後)、一事が万事で、ドイツにはこうした「小と大との選択」がずっと付きまとっていた。ここにヨーロッパ現代史が「大戦」に向かう歴史の歯車の必然性がひそんでいた。
≪01≫ ドイツは二十世紀の二つの世界大戦の中心にいた。二つの大戦とも、イギリスとドイツが対立し、アメリカとロシアがイギリス側についた。ドイツは両大戦において、ほぼ単独でロシアやフランスを倒した。なぜドイツは二度の大戦の主人公になったのか。勝っても勝っても、最後はなぜ敗けたのか。東西ドイツに分裂させられたのは、どうしてか。ドイツにどんな虫がいたのか。
≪07≫ 日本が参戦したのは日英同盟のせいである。同盟国が一ヵ国と戦ったときは中立を守り、二ヵ国以上と戦ったときは同盟国につくという条約による。日露戦争前に締結された条約だが、日露戦争のときは日本の相手はロシア一ヵ国だったので、イギリスは参戦しなかった。戦争はほとんどこういう仮留めの同盟条約によって進む。
≪08≫ 一九一四年六月二八日、セルビアの民族主義者の青年が、サラエヴォ視察中のオーストリア゠ハンガリーの皇太子(帝位継承者)のフランツ・フェルディナントを暗殺した。ただちにオーストリア゠ハンガリーはセルビアに最後通牒を発したが、事はバルカン半島の銃声だ。すぐにロシアが一部動員をおこした。
≪09≫ ドイツはこれに待ったをかけたのだが、オーストリア゠ハンガリーがセルビアに宣戦布告をすると、ドイツもロシアに宣戦布告をせざるをえなくなる。ロシアも三国協商を通じてフランスに西部戦線への進軍を要請、普仏戦争の復讐をしたいフランスはこれを受けて、八月一日に総動員をかけた。
≪010≫ サラエヴォの事件は引き金にすぎない。大戦はドイツがフランスに宣戦し、八月四日にドイツ陸軍三五師団約一〇〇万人の軍がベルギーに侵攻し、このベルギーの中立を侵害したことをもってイギリスがドイツに宣戦布告をしたことで、一挙に本格化した。日英同盟によって日本も参戦した。
≪011≫ ここまでわずか二ヵ月。しかし、こうなった理由があった。十八~十九世紀にかけてヨーロッパ各国が近代に向かって国民国家(ネーション・ステート)を確立しようとして組み上げた体制に、大きな矛盾と不足があったからだった。ナポレオンがそこを一方的に総まとめしようとしたものの、この野心は解体され、ウィーン体制のもとでの一からのリスタートになったとき(ウィーン条約で「ナポレオン以前のヨーロッパ」に戻すことが決まった)、ドイツが乗り遅れていたのだった。
≪012≫ ふりかえってみれば、ドイツ帝国の成立にプロイセンがはたした未発の役割があったのである。そこにビスマルクの政治思想とドイツ哲学が絡まった。加えて製品商品の販路を得るためのドイツの当然の要求が動いた。
≪013≫ ドイツは大国を構築せざるをえなくなった。内部の統一ができないなら、外の力を使うか、外を取り込む必要がある。これがビスマルクとモルトケの対フランス戦争(普仏戦争)になった。明治三年の戦争だったが、同じことは日本もめざした。列強に五港を開港させられて、対中国戦争(日清戦争)と対ロシア戦争(日露戦争)に向かった。
≪014≫ ビスマルクには世界制覇の野望など、なかったのである。ドイツが世界大戦の主人公になっていくのは、その後のヨーロッパ事情とロシア事情によっている。オーストリア゠ハンガリー二重帝国の混合性にひそむ不均衡と矛盾、その避けがたい終焉が近づきつつあること、ロシア革命がゲルマン系の国々に及ぼしつつあった不安、フランスがアルザス・ロレーヌを奪われる決定的危惧をどう感じたかということ、そしてイギリスの政策転換が迫られていたということ、これらすべてが予測をこえて重なりあって第一次世界大戦は起爆し、ドイツがその渦中の牙城になったのだ。
≪014≫ ビスマルクには世界制覇の野望など、なかったのである。ドイツが世界大戦の主人公になっていくのは、その後のヨーロッパ事情とロシア事情によっている。オーストリア゠ハンガリー二重帝国の混合性にひそむ不均衡と矛盾、その避けがたい終焉が近づきつつあること、ロシア革命がゲルマン系の国々に及ぼしつつあった不安、フランスがアルザス・ロレーヌを奪われる決定的危惧をどう感じたかということ、そしてイギリスの政策転換が迫られていたということ、これらすべてが予測をこえて重なりあって第一次世界大戦は起爆し、ドイツがその渦中の牙城になったのだ。
≪016≫ 本書は『真実の戦争』という戦史に手を入れ、組み立てなおしたもの、言わずと知れた第一次世界大戦史の定番中の定番である。その後のリデル゠ハートの戦争戦略をめぐる広範な研究者としての名声を上げた。
≪017≫ 戦史というより戦誌。まるで息詰まるようなドキュメンタリー・フィルムを三日くらいぶっ通しで見たという印象だった。予想外にも名文でもあった(翻訳もうまいのだろうとおもう)。現代の戦争の記録はこのように描写するのかと思った。一章から三章までは戦争の原因、両陣営の戦力比較、そして作戦の点検といった「分母の構造」をあきらかにしているのだが、いったん戦端が開かれてからは、各章のタイトルも「クリンチ」「行詰り」「相討ち」「緊張」「急転回」というふうに、まるでアクション映画のように進む。
≪018≫ けれどもアクション映画やサスペンス小説のような描写はいっさいしていない。思わせぶりもない。事実が積み上げられて高速に進行しているだけだ。それなのにまるで「戦争哲学」とでもいいたくなるような言葉の束によって、戦闘における一本一本の樹木の様子から植生にいたるまで手にとるように見えてくる。
≪019≫ あたかもサッカーやラグビーの試合を徹底分析しているようなのだが、ボールの分岐点の指摘などというものではなく、そのボールをどの瞬間にどの足のどの部分でどの程度の力で蹴ったのかということを明示する。たとえばリデル゠ハートは、ドイツがロシアに宣戦布告したタイミングで、イギリス海軍大臣のウィンストン・チャーチルが独断で海軍動員令を出した一九一四年八月一日の出来事を忘れていない。この一時が戦争全体にどのように効果的な影響を与えることになったのか、そこを因数分解のように解いてみせる。
≪020≫ よく知られているように一九一四年九月の「マルヌ川の戦闘」は、ドイツによるフランス侵攻作戦をくいとめたことから「マルヌの奇跡」と呼ばれる。この戦闘でもしドイツ軍が退却していなかったら、連合軍は危なかったかもしれない。ふつうは、このような危機を招いた連合軍の責任が問われるところだが、リデル゠ハートはそのように見ない。むしろこの危機がジョーカーとなって大戦全体のシナリオを動かしたと見た。そのトリガーは、結局チャーチルの動員令にあったとしたわけである。
≪021≫ 一九一五年十二月六日に、連合軍の司令官たちが挙ってシャンティイに集まって、翌年の作戦を討議したことにも全体にかかわるピンポイントがあった。この作戦が成功したから重要なのではない。失敗したことが大戦全体にとって重要だったのだ。
≪022≫ 司令官たちの作戦会議では、二月早々にイギリス第四軍・第五軍がゴムクール突出部の南側面でソンム攻勢を再開し、第三軍はアラスの北側面を攻撃することが取り決められた。それと関連して、ホーン指揮の第一軍は第三軍の北方を攻撃、フランス軍はソンム川の南を攻撃することになった。そして、その三週間後にフランス軍はシャンパーニュ戦区の主攻撃を開始する。
≪023≫ しかし、この作戦は崩壊したのである。フランス軍における措置のミス、それにともなうイギリス軍の躊躇、ドイツ軍の予感が三つ巴となって、作戦は崩壊した。リデル゠ハートはこのようなピンポイントをとらえて、この失敗が連合軍に何をもたらしたかを一挙に解明する。戦争というもの、なるほどそのように見るのかと感心した。
≪024≫ ぼくは実際には、こうした戦線の部分や一部始終がどのように実戦的効果をもっていくのか、まったく見当がつかない。いまもって実戦についてはほとんど何もわかっていないというべきだが、それでも本書を読みすすめていると、こうした細部がつねに巨大なドラマの超部分に見えてくる。しかも戦争映画とはちがって、理知的に興奮させられるのだ。
≪025≫ 戦史に理知的に興奮するとは妙であるが、ついついそうなる。映画のように戦車が沼地を驀進したり、機関銃が乱射されたり、大砲の着弾で兵士が吹っ飛ぶわけではないのだが、そういうことがヴィジュアルな動画にならないぶん、逆に戦争の局面進化が研ぎすまされた理知のシナリオの衝突の痕跡として、浮上してくるのである。
≪026≫ 軍事オンチのぼくとしては、これは意外でもあったし、歴史の見方にこのような視点が加わらないと歴史にならないとも思えた。ヘロドトスの『歴史』やカエサルの『ガリア戦記』以来、戦争の話が歴史をつくったことは承知していたつもりだが、リデル゠ハートは新たな洗礼をもたらしてくれた。
≪024≫ ぼくは実際には、こうした戦線の部分や一部始終がどのように実戦的効果をもっていくのか、まったく見当がつかない。いまもって実戦についてはほとんど何もわかっていないというべきだが、それでも本書を読みすすめていると、こうした細部がつねに巨大なドラマの超部分に見えてくる。しかも戦争映画とはちがって、理知的に興奮させられるのだ。
≪025≫ 戦史に理知的に興奮するとは妙であるが、ついついそうなる。映画のように戦車が沼地を驀進したり、機関銃が乱射されたり、大砲の着弾で兵士が吹っ飛ぶわけではないのだが、そういうことがヴィジュアルな動画にならないぶん、逆に戦争の局面進化が研ぎすまされた理知のシナリオの衝突の痕跡として、浮上してくるのである。
≪026≫ 軍事オンチのぼくとしては、これは意外でもあったし、歴史の見方にこのような視点が加わらないと歴史にならないとも思えた。ヘロドトスの『歴史』やカエサルの『ガリア戦記』以来、戦争の話が歴史をつくったことは承知していたつもりだが、リデル゠ハートは新たな洗礼をもたらしてくれた。
≪027≫ 第一次世界大戦は今日の国名でいえば実に七〇ヵ国を奈落に引きずりこんだ史上最大の世界戦争である。戦闘員一〇〇〇万人以上が死に、民間人を含む非戦闘員の犠牲者は五〇〇万人とも一〇〇〇万人とも言われる。
≪028≫ 長期にわたった戦争がやっと転機を迎えたのは、一九一七年四月にアメリカが参戦したこと、十月に第二次ロシア革命が頂点に達してソヴィエト政権が誕生したこと、一九一八年十一月にドイツ革命がおこり、ヴィルヘルム二世の亡命によって帝政ドイツが崩壊したことによる。軍事的にはアメリカ軍の参戦が大きく、世界政局からするとロシア革命の成就がもたらす影響が未知数のため、各国を迷わせた。
≪029≫ アメリカ参戦と時を同じくして亡命中のスイスから四月に帰国したレーニンは、一気にボリシェヴィキ革命を指導すると、ただちに反戦を訴えたのだが、時のケレンスキー政府は戦争続行を表明した。劣勢だったドイツはロシア革命が進捗するほうが事態が有利になると踏んだ。レーニンがスイスから帰国するときドイツ領内を通りやすいように「封印列車」を用意した。十月革命でケレンスキー内閣が崩壊し、レーニンが交戦国すべてに対して無併合・無賠償を呼びかけたのを好機とみて、トロツキーを相手にブレスト・リトフスク条約を締結して、対露単独講和にこぎつけた。
≪030≫ 連合国側はそうはいかない。社会主義政権の登場は資本主義を食べつくす各国にとっては脅威である。そのためロシア革命やソヴィエト政権への干渉を画策して、対ソ干渉戦争の準備も始めたのである。日本が英・仏・米の軍事行動に合わせてシベリア出兵に踏み切ったのはそのためだった。
≪031≫ しかし、そこに意外なことがおこってドイツは敗戦に向かっていく。無謀な出撃命令を拒否した海軍兵士たちがキール港で反乱し、それがきっかけで兵士・労働者・農民が連動蜂起してドイツ革命に至ったのである。こうしてヴィルヘルム二世はオランダに亡命。ここにドイツ帝政が倒され、臨時政府を握った社会民主党のエーベルトは十一月十一日、フランスのコンピエーニュの森で連合国との休戦協定を結んだ。
≪032≫ 一方、社民党左派はドイツ共産党として翌年一月にロシア革命と呼応する社会主義革命をめざすのだが、これは臨時政府によって鎮圧され、二月、ドイツは資本主義と議会主義の旗印を掲げたワイマール共和国を成立させた。これでドイツは敗けた。
≪033≫ 大戦が終結してみると、四つの帝国が消えていた。ドイツ帝国、オーストリア゠ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国だ。
≪034≫ 変わりはてた戦後体制をどうするかということは、連合国によるパリ講和会議とその後のヴェルサイユ条約で決まった。だから大戦は、一九一九年六月二八日にドイツがヴェルサイユ条約に署名するまで続いていたのである。約六年間におよぶ世界規模の戦乱だった。
≪035≫ ヴェルサイユ条約は敗戦国に非戦闘員への損害を賠償することを強いた。けれども大戦終結時、国内経済が機能していたのがドイツだけだったため、賠償責任のほとんどがワイマール・ドイツにまわってきた。これが戦後ドイツをおかしくさせた。何匹もの虫が収まるはずがなかった。
≪036≫ 思えばヨーロッパの二十世紀初頭は「ベル・エポック」だったのである。イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアの五大国は「コンサート・オブ・ヨーロッパ」(欧州協調)を奏で、イギリスは「パックス・ブリタニカ」を謳歌し、フランスは「アール・ヌーヴォー」やパリ博に酔い、ドイツやロシアだって表現主義や「青い騎士」の構成美を満喫していたのである。
≪037≫ それが、ガラリと一変した。大英帝国は戦意のありったけを放出することで国民が疲弊し、植民地での反英独立運動を招いた。そこにアメリカのめざましい擡頭を見せつけられ、戦勝国でありながら没落せざるをえなくなった。フランスやドイツでは知識人の苦悩が始まった。オスヴァルト・シュペングラーは『西洋の没落』(五月書房)を書き、トーマス・マンは大戦開戦後まもなく『魔の山』(新潮文庫ほか)を書いた。
≪038≫ こうして、厭戦感情が蔓延したのである。戦時の人間状況を描くものもふえた。アンリ・バルビュスの『砲火』(岩波文庫)、レマルクの『西部戦線異状なし』(新潮文庫)、ハンス・カロッサの『ルーマニア日記』(岩波文庫)などは、戦場の非人間性を凝視する新即物主義的な文芸になった。勝利に沸いたアメリカでさえ、ロスト・ジェネレーションが溢れ、ヘミングウェイの『日はまた昇る』(新潮文庫)やフォークナーの『兵士の報酬』(文遊社)が「文明と人間の大きな喪失」を綴った。
≪039≫ しかし、これらは戦勝国の償いの成果である。敗戦国のドイツはこの程度の「傷」ではすまなかった。巨額の賠償金と民族の歴史の禍根を突きつけられた。
≪040≫ 本書は各国の社会文化の状況については、ほとんどふれてはいない。それでいい。戦史なのである。戦争は文化を破壊するが、文化は戦争を吸収する。勝っても敗けても、そうなる。その戦争と文化の関係は世界大戦であるがゆえに、世界中に投影される。ヘミングウェイがそうして読まれ、ロスト・ジェネレーションがそうして各国に登場したのだ。
≪041≫ 大戦後、世界は変わった。旧帝国が消滅したということは、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、ロマノフ家といった「王家」に代わって「勝手な国家」の擡頭が可能になったということだ。社会主義やファシズムが国になりえた。
≪042≫ 民族自決が促され、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、バルト三国が独立した。これは地政学の変更をもたらした。民族主義運動にも火がついた。ガンジーのインド、孫文の中国が登場し、敗戦国ドイツには「自由ドイツ青年団」が生まれて、民族心が駆動した。大戦は世界観の変更を迫ったのである。
≪043≫ ロシア革命によって地上に社会主義国が実現されたことは、ついに「哲学は政治である」「政治は人民である」というヴィジョンに力をもたらし、自由主義と社会主義というイデオロギーが体制化されて互いに対立する基盤をつくった。各国は「集団安全保障」という見えない同盟を描くとともに、一方では強力な殺戮兵器の開発に邁進した。こうして軍事力と経済力が結託していったのである。
≪044≫ 今日の社会は第一次世界大戦の上に築き上げられた楼閣だと言わざるをえない。マルクス・レーニン主義もファシズムも、資本主義もナショナリズムも、ここから綴りなおしていくしかない。
テクノロジーの社会的実装力
AIスタートアップの警鐘
テクノロジー実装の鍵は官民連携
今回のコロナ禍におけるテクノロジー実装競争には3つの特徴がある。
1つは、感染防止、逼迫する医療資源の分配、ロックダウン下の非接触生活の実現など、テクノロジーが過去にない程に「切実」な課題の解決に使われたこと。
2つ目は、感染者の指数関数的な伸びや一刻を争う医療崩壊に対処するために「スピード」が重視されたこと。
3つ目は、国⺠全体を対象とした行動変容政策、隔離政策といったもののために、さまざまなテクノロジーが一部の人のためのものではなく、「全ての国⺠」を対象として使われたことである。政府にとってテクノロジーを使うことが国⺠の命を守るという最も重要な役割と結びつき、社会全体の課題となった。
多くの国はグーグルのモビリティレポートの人流データを参考にし、また、陽性者との接触を通知する接触確認アプリ構築のためにアップルとグーグルからAPI(アプリケーション・プログラミング・インターフェース)の
政府とプラットフォーマーの関係
今や絵空事や言い訳としてではなく「多様なSocial Goodに対して如何に貢献しているか示す」ことが企業に求められており、また、この「Social Good」の中心的テーマが、コロナ禍の前の気候変動から、パンデミックを経て人々の健康へ、そして最近ではアメリカでの人種差別問題を受けて人権へと拡大したことを指摘する。プラットフォーマーもまたそれを支える人々の利便性や価値の上に成り立っているのだ。
⺠主的な「実装力」の鍵は国⺠からの「信頼」だ。信頼は、テクノロジーは目的ではなく達成すべき政策課題解決のための手段であり、それが国⺠にとって必要なものであるとの理解あってこそ実現する。未だに各国で導入率が進まない接触アプリが実効的に機能するかどうかは、その目的と便益が、そして便益に伴うプライバシーなどのリスクがユーザーにとって納得感があるものとなるか否かにかかっている。
この競争をかたちづくるのは、「テクノロジーの社会実装力」
コロナとの戦いが⻑期化する中で、まだ最終的な勝敗は見えていない。しかし、この競争を形作るのは間違いなく「テクノロジーの社会実装力」というパワーだ。この戦いにおいて、⺠主主義の国が取りえる道は、健康・国⺠の命を守る社会的利益の実現という目的において、官⺠が国⺠の信頼を得ながら実装を進めることである。
システム化する世界の中で、妥当な活動を継続する 全機とマインドフルネス
妥当 適当 打倒 妥当と適当の違いを分り易く解説
妥協 伺候・嗜好を重ねて思考すること 妥当と適切の違いを分り易く解説
マインドフルネスと気づき
配慮、気配が気づきを得る矻 気づきを得るには、気を付けること
compromise
compose 譲歩の趣が強調されて、初志貫徹、リニア指向の頑なに回避すること
conside
最近CMでもよく流れる「5G」
この2020年春からここ日本でも5Gになろうとしている。
そんな5Gのメリットとデメリットをご存知であろうか。
ただただ、インターネットが早くなり便利な生活が待っているという訳ではない事も知って頂ければとおもう。
5Gとは
まずはじめに、良く聞く「4G」や「5G」の "G"の意味はご存知だろうか。
Gとは 「Generation = 時代」のGであり「第5世代移動通信システム」という意味である。
世代が切り替わると、通信インフラと端末の両方が全くの新しいものなる。
3G(3時代) は「ガラケー世代」と言われ、4G(4時代)は「スマホ時代」と言われる。
5Gは現在の4Gの実に100倍は速度が早くなると言われている。
5Gの3つの特徴は
1. 超高速(eMBB)
2. 超大量接続(mMTC)
3. 超低遅延(URLLC)
であり下記が5Gのメリットの点にあたる。
5Gのメリット
1. 高速ダウンロード
2時間の映画がたった3秒でダウンロードできるようになる。(※4G現時代では早くても5分はかかる)
2. 自動運転
よく聞く自動運が近い将来現実化するだろう
3. AR会議(5G x AR)
従来まではTV電話やオンラインでの会議が主流であったがこれからはAR会議が主流になるだろう。
4. 遠隔手術(5G x 触覚伝送)
触覚=触った感覚まで伝送できるようになる為、医師が遠隔で手術を行えるようになる。
5. 警備革命(5G x 4K x AI)
4Kの監視映像をAIが分析し犯罪予測ができる時代に。
こうなることで、AR/VRグラスが標準使用になり空間伝送が日常的になってもおかしくない。
さらに、日常的に感じる小さなストレスも改善される事が期待できる。
例えば・・・
・夜だけインターネットが遅い
・映画や動画のダウンロードに時間がかかる
・オンラインゲーム中にインターネットの遅延を感じる
・NETFLIXやYOUTUBEが途中で止まってしまう
など。
ただ、メリットがあるという事はデメリットもあるというのが事実だ。
5Gの人体へ繋がる大きなデメリット
■ 肌の影響
60GHzのパルスマイクロ波は 送信電力の90%が、皮膚の表皮 および真皮層に吸収される = 日焼けと同じ損傷。
つまり、日焼け止めが効かない状態で日光を浴びている状況と同じ事になり、皮膚の痛みを感じたり、皮膚疾患や皮膚がんの影響に繋がる。
■ 目への影響
1994年の研究でパルスマイクロ波は、ラットの水晶体の混濁を引き起こした → 白内障の発生に関連することが明らかに。
■ 身体への影響
「心臓」「免疫系」「癌」への影響が発見されている。
5Gは4Gと比べ生物学的にアクティブになり、遥かに人体的に危険である可能性が上がる。
あまり公式に発表されていないが、下記の健康懸念で5G使用を拒否・停止した国が既にあるほどだ。
・ベルギー
・イタリア
・スイス
・アメリカ(カリフォルニア州など一部の州)
このように規制している国があるにも関わらず、残念ながら日本の規制はゆるゆるであり、まもなくこの春に5Gへ切り替えようとしているのが事実である。
このような電磁波から今すぐできる身を守る方法を紹介しよう。
電磁波から身を守る方法
1. 身体から出来るだけ話す
- ポケット・胸ポケットに入れない
- イヤホンを使用する
- 電磁波遮断ケースや電磁波ブロッカーを使用する
2. 自宅のワイヤレスデバイスを削除する
- wi-fi / コードレス電話 / ワイヤレスベビーモニターを使用しない
- wi-fiを有線に切替
- Bluetoothのヘッドホンやイヤホンは使用しない
- 音楽・映画はダウンロードして視る
3.寝室での対策
- 寝室から電子器具、できれば携帯電話を置かない
- 携帯電話を目覚まし時計に使用しないか、ベッドから遠ざける
- ベッドに近いコンセントに電磁ブロッカーを設置する
- wi-fi をオフ、できれば機内モードへ
4. グラウンディング
※グラウンディングとは芝生・土・コンクリート・砂を裸足で踏む事
- 体内に溜まった電磁波を放出する
- 地球自体が発している健康的な " 自然な電磁波 " を取り入れる
- 自然な電磁波は身体に馴染み、ストレスの軽減、体内生理学の休息と修復をも促すのである。
環境問題を専門とする日本人ジャーナリストである船瀬俊介氏さえも、下記の10点が人体に及ぶ影響だと発表している。
1.成長細胞に悪影響
2.発がん性作用
3.癌細胞の成長促進
4.免疫機能の低下
5.生理リズム阻害
6.学習能力の低下
7.異常行動
8.自殺
9.神経ホルモンの変化
10. 胎児の異常発育(催奇形性)
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6月にセルビアの女子バレーボールの選手、そして7月にサッカーのフランス代表の選手と、世界で活躍するスポーツ選手らによるアジア人差別ととれる行為・言動が立て続けに報じられた。いずれのケースでも、本人たちは「差別のつもりはなかった」と釈明している。なぜ彼らに差別の認識がないのか、疑問に思った人は少なくないだろう。
【写真】日本人妻が思わず逃げ帰った…「今のアメリカ」の凄まじい生きづらさ
フランス在住で、現地で長年翻訳業に携わっている田中晴子さんに、アジア人に対する「無自覚な差別」が生まれる背景について綴ってもらった。
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「アジア人は差別の対象ではない」という思い込み
先日、ホテルの部屋にゲームの言語設定にきてくれている日本人スタッフたちを、サッカーフランス代表でFCバルセロナに所属する選手ウスマン・デンべレが撮影しながらコメントする数年前の動画が流出し、差別的だとしてSNSで炎上したことがフランスメディアでも取り上げられました。
このビデオはフランス人でも一字一句全部は聞き取れない「ノリ」で発された口語表現が多いため、日本のツイッターではその意味をめぐって喧々諤々でしたが、ノリと意味の両方を踏まえて訳すと、以下のような感じかと思います。
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「Toutes ces sales gueules pour jouer à PES..T'as pas honte ? /たかがゲームでしけたツラのやつらこんなに呼びつけて恥ずかしいな (笑)」(「しけたツラ」は日本人スタッフのこと、「恥ずかしい」というのは自分たちのことを言っています)
「Putain! La langue! /うわなんちゅう言語!」(ホテルスタッフが話している日本語のこと)
「Alors vous êtes en avance ou pas en avance dans votre pays, là ? /あんたらそれで先進国なの?」(ホテルスタッフがゲームの言語設定変更にてこずっていることについて)
※発言の「ノリ」を表現するために当初、関西弁で訳しましたが、「悪ノリ」を関西弁に訳すのは関西弁のネガティブなステレオタイプ化ではないか、といった主旨の指摘を受け、その通りだと思いましたので標準語に訳し直しました。ステレオタイプ化による無意識の差別を批判する記事でそのような表現を行うのは自家撞着でした。ご指摘ありがとうございました。
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映像に映っている、同じくフランス代表でFCバルセロナ所属の選手アントワーヌ・グリズマンは、このビデオの中ではにやにやしているだけですが、この人はこの人で、バルセロナチームの公式ビデオで「チンチャンチョン!」(※)とふざけている映像がネットに出回っており、それも今回一緒に炎上。
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※欧米人にとって、中国語の響きが「チンチャンチョン」と言っているように聞こえる、という理由から生まれた「からかい」の表現。中国人だけでなく東アジア人全般に対して用いられる。
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グリズマンはフランスでは有名なスター選手です。ご当人は公式アカウントのツイートで、「僕は差別には常に反対してきた。今回自分とは違う人物像がでっちあげられて(=レイシスト扱いされて)心外ですぷんぷん断固抗議する!」と表明しています。
おそらく本人は本気で「チンチャンチョンいうのは差別ではない」と思っているのではないかと私は思うのです。そして一番の問題はそこにあります。
20年ほど前、フランスの新聞記事で「誰が差別の犠牲者だと思うか」という街角アンケートを目にしたことがあります。「アラブ人」「アフリカ人」「ユダヤ人」がトップを占め、「アジア人」は「フランス人自身」よりも更に下位の、ランキングの番下でした。
フランスでは、アジア人は差別の対象ではない、と長年思われてきました。今でもそう思っている人はたくさんいます。
教育の場にも浸透するアジア人差別
しかし、フランスに長く住んで、とくに都会で徒歩と公共交通手段を中心とした生活をしていると、「中国人!」「チンチャンチョン!」と通りすがりにふざけながら言葉を投げかけられることは結構あります(ちなみに、多くのフランス人の意識の中では東アジア人は日本人も含めて全員「中国人」です)。フランス人の友達などに「私、アジア人のこういう目がエキゾチックで素敵だと思うのよね」と悪気なく「吊り目」をされることもあります。悪気がないことがわかっていても、良い気分はしません。
こうした日常に溶け込み、ショッキングなこととも差別とも思われずに普通に行われている差別のことを、フランスでは「racisme ordinaire(日常化した差別)」といい、この言葉はアジア人の差別を語るうえでよく使われています。
そしてracisme ordinaireは、教育の現場でも起こっています。
以前、ネットの日本人コミュニティのユーザフォーラムで、幼稚園に息子を送り届けたあとにふと外から園庭を覗いたところ、自分の息子が他の子たちに「中国人!」と叫ばれながら追いかけられているのを見てしまったという在仏邦人が、幼稚園側に言っても「中国人を中国人といって追いかけるのはいじめじゃない」と言われどうしたらいいだろう、という相談をしていました。その時に娘を妊娠していた私は、「子供を持つとこんな問題に直面していかなければならないのか」と不安になったのを覚えています。
そしてある日、我が子が「幼稚園で教わった!」と喜んで、私の前で中国人を極端にステレオタイプ化した歌の歌詞と振付を歌い踊ったときは衝撃を受けました。幼稚園に「こうした歌詞や仕草は私たちアジア人にとっては侮蔑的なものです。中国人ではなくてもアジア系ハーフである娘にそれをさせるのはどういうことなのでしょう?」と質問しに行きました。
「日本と中国には歴史的軋轢があり、双方の国民の中にはいまだにわだかまりを抱えている人も多い。だからこそ余計、日仏ハーフの娘が中国人の前でこういうことをしたら困る」とも付け加えました。
アジア人もアジア系ハーフも、その幼稚園では娘一人だけでした。まだ小さかった娘はそれで傷ついたとか差別されたとかいう感覚はなく、一緒に楽しく踊っていたようですが、スタッフの一人は流石に気まずいものを感じたのか、娘に「あなた吊り目じゃないし中国人に見えないわねー」などと髪の毛を撫でながら言っていたそうです(そういう問題じゃない 汗)。
なお、この歌は、2017年にパリ近郊の中華系保護者団体がSNSで告発し、反人種差別NGOを通してフランス教育省に抗議したことをきっかけに、幼稚園で歌う歌から削除されています。
こうした環境で育つためか、2021年時点の今のフランスの成人のあいだでは、未だに「アジア人のステレオタイプ化を差別と認識しない」という考えが多いです。グリズマンがアジア人にチンチョンチャンというのが差別だと思っていなかったとしても不思議はありません。
差別を全力で否定する理由
揶揄やジョークで気軽にステレオタイプを押し付けてくる人たちの多くは、自分の言動が差別だと自覚していません。また、差別はフランスでは刑事告訴されて有罪判決が出れば刑事罪で前科になりますので、みんな「差別」だと指摘されると、全力で反論してきます。
たとえば「中国人!」と道端で叫ばれた時に、足を止めて「それはレイシストだ」と言ったとします。返ってくる答えは、「中国人を中国人と言っただけ。何がレイシストなんだ」です。それに対し、「私は日本人だ」と言ったとします。すると、たいてい以下のような“屁理屈”が返ってきます。
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1. 「で? 同じだろ?」(フランスでは中華系ベトナム人など国籍が中国でない中華系の人が多く、中華レストラントランでも寿司と中華とボブンが一緒に売られているため、中国人という言葉がアジア人と同義語だと思っている人はかなり多い)
2. 「中国人じゃないなら、私が言ったのはお前のことじゃないだろ? 私は中国人と言ったんだし、お前が中国人じゃないなら関係ないだろ?」
3. 「人種差別というのはホロコーストとかのことで、これは違う。これはただのユーモアだ」
4. 「わたしは中国人の友達がいるが、やつらはお前みたいにキッキしないでもっとクールだ。お前にはユーモアがない」
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差別する側は「差別の自覚も意図も加害してやろうという積極的な悪意もない」かもしれませんが、相手を人種・性別・体格もしくは「どうせ言葉がわからない」という前提で舐めてかかっているからこそ、気軽に衝動で、相手にどう思われるかを無視した差別的言動ができるのだと思います。
その証拠に、筋骨隆々の身長180cm超えのアジア人男性相手に「シノワシノワチンチョンチャン」と通りすがりにゲラゲラ笑いながらいう「ユーモア」を開陳する人は、麻薬や酒で自己防御本能が外れてない限りほぼいません。
そういう意味で、やった人はどんなに「悪気はなかった」としても、やはり弱者(と自分がみなしたもの)に対する攻撃なのです。こうした人達にはまず、こちらが不快であり差別的・侮辱的であると思っていることを表明しないと「やってはいけないこと」というのがわかりません。
「面倒な人」になるのが苦手なアジア人
人は面倒を避けたいのが本能です。アジア人に対して差別的な言動をする人はユダヤ人アフリカ人アラブ人には同じことをしません。彼らに同じことをしたら、公衆の面前で大声で抗議され面倒なことになるからです。わたしたちアジア人も差別を受けたら、大声で「不快!」「嫌だ!」「侮辱的だ」と騒いで「面倒な人」になっていいのです。
ただ、アジア人、特に日本人は「面倒な人」になることが苦手なところがあります。
最近は減りましたが、15年前くらいは上記のような目に遭ったと誰かが日本人ネットコミュニティでいうと、他の在仏邦人から「フランス語ができないのだろう」「服装や振る舞いが悪かったんだろう」「日本人は尊敬されているから中国人と間違えられたのだろう」「私はいつもフランスのマナーやTPOをリスペクトしているので差別されたことはない」「差別差別騒ぐのはみっともない」と袋叩きになっていたものです。
差別される方が悪いと叩く人たちは、自分さえ優等生な行動をとっていればそんな不条理な目に遭うことを避けられると信じたいのでしょう。その気持ちはわかります。
フランス国立人口研究所でフランスのアジア人移民史を研究する莊雅涵(Ya-han Chuang)氏は、現代フランス社会のアジア人差別の非認知ぶりを説明するにあたり、その著書『模範的マイノリティか? -フランスの中国人とアジア人差別-(未邦訳)』(2021年、La Découverte社)で「アジア人社会は長らくフランス社会では移民優等生扱いであり、そのため、他の民族人種が反差別運動を始めた時に乗り遅れてしまった」と分析しています。
声をあげないと、「差別」と認識されない
今回のサッカー選手の件は、15年前のフランスなら話題にもならなかったはずです。これを今や複数のフランスメディアが差別として批判的に取り上げるようになったのは、アジア人のステレオタイプ化が長年差別とみなされず放置された挙句、アジア人を狙った暴力・殺人にエスカレートするまでになりはじめた状況を重く見たフランスの中華コミュニティがついに立ち上がり、近年、街頭デモなどフランス社会で通用する「フランス式の方法」を通してアジア人差別に抗議を重ねて社会を変えてきたからです。
差別は言葉だけとはかぎりませんし、多くは揶揄やユーモアのかたちをとりますし、「尻尾をつかませないようにやる」のが常套手段ですから、何が差別か瞬時に判断し反応するのはそう簡単ではありません。セクハラや痴漢を含む性犯罪と同じで、自分のおかれたシチュエーションによっては声をあげるのが難しいことも多いでしょう。
声をあげられないことは恥ではありません。恥ずかしいのは差別をする人です。ただ、声をあげないと、いつまでも「差別」だと認識してもらえないのです。
サッカーフランス代表の一件で、フランス在住の著名な日本人が「酷い悪口ではあるが人種差別ではない」といったツイートをしたことが話題になりましたが、勇気を振り絞って声をあげた人たち(わたしたちのために声をあげて状況をかえていってくれる人たち)を「たしなめ」たりするような行為は避けたいものです。
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21 2021/01/12 9:00~10:00 実例をご覧ください
22 2021/01/19 9:00~10:00 あなたの選挙を守る
23 2021/01/26 9:00~10:00 Google Maps Platform
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あらゆる形態と次元の
貧困を根絶すること
貧困を根絶すること
持続可能な開発に向け、
構造的変革を加速すること
構造的変革を加速すること
災害や紛争などの危機や
ショックへの対応力を
強化構築すること
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