■4月24日
New! 学校の給食 更新しました。
※この新ホームページは、令和5年4月17日に公開を開始しました。閲覧いただきありがとうございます。
昭和8年5月制定。(校長 伊佐田甚蔵 氏)
従来の「至誠一貫、質実剛健、自主独立、向上進取、協同偕和」の五つの校訓の旨を包含。
図柄は五、三の桐の中央に鏡を描き、校名の文字で表わしたものである。
本草網目に「古来鳳凰悟不樓」とあるとおり、古来桐は霊鳥の住む木であるとされ、種々の紋所にされている。
また、災害をさけるために桐を植えたとも伝えられている。
鏡は清明心の象徴である。無事安全でしかも優れた人材の育成を念願する西郷校の紋章とするゆえんである。
1 若桐の 緑のように
輝くよ 西郷の歴史
胸をはり 胸をはり
誇らしく 元気でいこう
2 開こうよ 希望の窓を
竹田川 清い流れも
見ているよ 見ているよ
花と咲く 姿を 夢を
3 限りなく 誠をもとめ
大山の 峰にこたえて
腕をくみ 腕をくみ
進もうよ はるかな道を
本校区の位置は、倉吉市の最東部にあたり、竹田川・天神川に面して山すそに南北に長くのび、学校はそのほぼ中心にある。
校区は、かつて純農村地域であったが、倉吉駅より本校区を経て市街地に通ずる国道179号線(現在国道22号線) の開通以来、急速に新興市街地・住宅地として発展するとともに、大型ショッピングセンターもでき、倉吉市でもきわめて活気のある商業地ともなっている。
校区の南部は、大原を中心に、現在も農業が盛んで、構造改善事業によるビニールハウスなど農業の近代化が積極的にすすめられている。特に大原のトマトは共同選果による出荷を行っており、全国的にも有名なブランドになっている。山麓の斜面には梨畑も散在しており、権現山からの眺めは「新倉吉八景」の一つにも選定されている。また、昭和46年には大原地内の一角に協同組合倉吉市総合卸センターが開設され卸商業を主とする町を形成している。
校区の中央部は、昭和初期には、梨やみかんの栽培が盛んであったが、昭和40年代から急速に住宅化が進み、農村の面影を失いつつある。ここには、小学校・公民館・保育園等が隣接しており、地域の文教地帯となっている。昭和57年には上余戸の山側が大規模住宅団地として開発され、現在の虹ヶ丘町を形成しており、新しく飛躍する地域として期待されている。また、八屋には「しだれざくら」で有名な極楽寺があり、山麓のまわりには古代からの遺跡や史跡が多く、当地域が居住地として古くから人々が生活するのに最適な場所であったことや信仰の場所であったことを立証している。
校区の北部は、先にも述べたように、道路沿いに、県の体育文化会館・病院・ホテル・商業・企業などが次々と並び、倉吉市の玄関口にふさわしい市街地として発展してきている。
また、保護者を含めた地域住民の間には、教育尊重、教育優先の伝統が受け継がれており、教育振興の熱意はきわめて強く、学校教育に対する期待が大きい。
江戸時代の末期、八屋の極楽寺に寺子屋があった。その頃より、毎年、手習いに新入りをした子どもたちが、莚(むしろ)の上であいさつをし、その入門を祝っていただいたことから、『開莚式』( かいえんしき)と、名づけられたとのことである。
また、そのお祝いに、「まんじゅう」をいただいていたことから、この式を、『まんじゅうむらい』とも呼んでいた。
開莚式は、学校創立の明治六年以降も受け継がれ、150年をこえる伝統を持つ由緒ある行事となっている。このような学校行事は、全国でも大変珍しいものである。(毎年1月に実施している。)
※紅白まんじゅうの由来:開莚式のしおりに記載している文章です
寺子屋の昔、新年に新しく弟子入りする子どもたちが、師の前に莚を敷いて座り、勉学の誓いをかわしました。
この時、師(先生)からのお祝いとして、紅白のまんじゅうが、一人一人に手わたされました。
この儀式が、今に続いているのです。
紅のまんじゅうは『健全な身体』を、白のまんじゅうは『すぐれた頭脳と、思いやりの心』をもった人に成長することを願って、作られたものです。
昔から家族全員で食べると、まんじゅうの持つ力が、二倍にも、三倍にもなるといわれています。。
くらよししりつ さいごうしょうがっこう