創生部とは?
こんにちは。
敦賀高校創生部です。創生部とは?ということで今回は、創生部の誕生から現在までのストーリーをここに書いていきたいと思います。
今回、簡単に簡潔に創生部のことが知れる短い文章と、細かくこれまでの活動を振り返る文章を用意しました。時間のある方や、創生部のことをより知りたい!と思っていただける方は、ぜひ最後まで読んでいただけるとより、創生部のことが好きになっていただけるかなと思います。よろしくお願いします。
《簡単に創生部を知る》
「創生部」発足は令和2年9月。きっかけは、コロナウイルスに感染したことが原因で偏見を抱かれ誹謗中傷の的となり、住んでいた場所を追われる「コロナ差別」に関するニュースを見たこと。敦賀ではニュース報道のような事態を招きたくない、敦賀を今後誰もが末永くすみ続けられる街にしたい、今以上に敦賀市内外の多くの人から愛される街にしたいという想いで敦賀高校生21名の有志で発足。
まず注目したのが、敦賀がポーランド孤児やユダヤ人の難民を温かく受け入れたという歴史。もともと敦賀は多くの人が行き交う日本と海外をつなぐ玄関口であり、多様性に寛容な風土があった。その当時の敦賀市民の想いを受け継ぎ、誰もが安心して訪れることができ、誰もが安心して住むことのできる街づくりに役立てたいと考えた。
折しも、令和2年はその歴史を展示する敦賀ムゼウムリニューアルの年。今一度、当時の歴史にスポットを当てるとともに、多くの人たちに当時の難民や孤児を受け入れた敦賀の人たちの想いを追体験してもらい、現代に蘇らせたいと考え、敦賀ムゼウムのご協力を仰ぐことを決めた。
令和3年10月現在、任意の研究会として発足した創生部は、敦賀高校探究部社会部門(創生部)として敦賀高校の正式な部活動に認定され、敦賀ムゼウムの館内ガイドをはじめ、敦賀市立博物館や地域の観光推進団体、県内企業さんとの連携を深めつつ地域活性化に資する活動に取り組んでいる。
《詳しく創生部を知る》
本当に簡潔にまとめると、このような説明になります。しかし、正直言ってこんなに短い文章では創生部のコアな部分は知っていただけません。ぜひ、より多くの方により深い創生部を知っていただけるように、細かく説明していきたいと思います。
始まり
まず、創生部の創設。
敦賀高校創生部はとても新しい部活動です。発足は、令和2年。
先に言わせてもらいますが、「私たちは控えめに言って敦賀に恋しています。」しかし、その恋している理由は正直、「地元」であるからだと思っています。皆さんも「地元」のことは漠然となんとなく好きなのではないでしょうか。
「そんな恋する敦賀がもっと自慢できたり、より楽しい街になったら最高だよね!」と友達と気軽に会話していたことが、本当の始まりです。
しかし、そんな中、世界では「新型コロナウイルス」が蔓延し、コロナ差別が発生してしまいます。
2380件。
この数字は日本国内のコロナ差別による一年間の人権相談件数です。(NHKによる法務省への取材を参照)みなさんも、ニュース等で耳にしたことがあるのではないでしょうか?
私達が恋しているこの敦賀では、まずはコロナ差別のようなことが起こってほしくない!そして敦賀をもっとよりよい街にしたい!という一心で、作り上げたのが「敦賀高校創生部」という名前の探究グループです。私達の活動は、まず、コロナ差別を生まないために行動することが優先すべきことだ!として、差別が増長して最終的に行き着いた最も悲惨な状況「ホロコースト」に目を向けて、研究することから始めました。
活動を始めたちょうど翌週あたりに、ポーランド国立アウシュヴィッツミュージアムで日本人として唯一のガイドを担っている中谷剛さんの記事を見つけました。その記事の内容に、
「歴史を知ること」というのは、「なぜ起きたのかを考え、繰り返さぬよう行動すること」
と記載されているのをみて、私達は大きな感銘を受けました。
自分たちになにができるのか?が議題となり、ちょうどリニューアルオープンを控えていた「人道の港敦賀ムゼウム」で何かできないかと、話が進み、生徒の一人から「中谷さんみたいにガイド努めたらいいんじゃないの?」という意見が出てきました。そこで、
「そうだ、ガイドしよう」
となった訳です。
ガイドに向けて
思い立ってすぐに協力を求めたのは「人道の港 敦賀ムゼウム」
「人道の港 敦賀ムゼウム」とは、杉原千畝が発行したビザによってポーランドから逃げてきたユダヤ難民が敦賀にたどりついた歴史を伝える博物館です。1930年代当時、ユダヤ人を受け入れることが良くないとされている中で、敦賀はユダヤ人を受け入れました。
つまり過去、敦賀は差別されているユダヤ人であっても受け入れるほど多様性に寛容で、国際色豊かな街であったということです。だからこそ敦賀に多くのユダヤ難民の方々や、ポーランド孤児の方々を迎え入れることができたんです。
私たちは、その当時の雰囲気を現代に蘇らせることが出来れば、敦賀でコロナ差別を防ぐことができるのではないかと考えました。
早速、ガイドの原稿づくりに取り掛かりました。そのためにいくつもの書籍を読み、映像を見て参考にしました。ガイド原稿をより良いものにするために、多くの方々から当時の歴史や、現代の社会についてのご講演を頂いたり、何度も修正を加えていきました。そして、完成した原稿を元に、メンバーに向けて博物館現地での研修を繰り返し行いました。
本格的にガイド原稿を作成する際にご協力を頂いた方々を紹介します。
まずは、なんといってもムゼウムの館長西川明徳さん、いつも私達に学びの場とアウトプットするための環境を与えてくださっています。
次に、外務省職員として国連日本政府代表部でSDGsを担当されていた山田基靖さんからは平和を維持することの意義と難しさ、高校生がSDGsに取り組むことの意義を教えて頂きました。
また、アウシュヴィッツ ミュージアム日本語公式ガイド中谷剛さんによる講演では人権研修会という名目で、全校生徒に向けて講演会を実施していただきました。
テーマは「もしあの時敦賀がユダヤ人を受け入れていなかったら」
凄惨な事実をご説明頂くと同時に、ペストやスペイン風邪の大流行時、世界恐慌時などにユダヤ差別が加速したという歴史的事実と、現在起こっているコロナ差別の共通点について説明してくださいました。
さらに、実際に杉原千畝が発行したビザによって命を救われた、杉原サバイバーのベールさんにもお話を伺いました。
当時、11歳だったベールさんは小学校に通っていたが、約9か月間の間に統治する政府がポーランドやロシア、ドイツなどに幾度となく変わり、そのたびに学校で教えられる言語や学問が変わったとおっしゃっていました。安定した生活では無く、子どもながらに混乱を感じていたという話を伺いました。
過酷な経験を自らの言葉で語って頂き、当時の情景をすごくリアルに感じることができました。ガイド原稿にはこのようにベールさんから学んだ内容も盛り込まれています。
そして、こちらが現地での練習の様子です。部員同士、ガイドをしあい、その後グループで改善点を出す。そして、改善しまたガイドをする。ということを何度も繰り返してきました。
ガイド完成!しかし…
約9か月間かけてついにガイドの準備完了!!ではあったのですが・・・
しかし、たくさんの悩みが出てきました。
例えば、ガイドをする中で、お客さんから注意を受けたり、小学生向け原稿を作らなくていけないことなどです。
そのたびにひとつずつ解決していきました。今回は一つ紹介します。
「悩み」それは、原稿を読むことに必死になってしまいお客さんのことを考えず置いてきぼりにしてしまったことです。
その課題を解決するために、舞鶴引揚記念館の語り部の皆さんとの交流会を開催することができました。
実際に現地でガイドを受け、いくつかのアドバイスを貰いました。ガイドの原稿を作るのではなく、話したいことの要点をメモにまとめ、お客さんと対話をしながら、自分の言葉で話すということです。その場合、お客さん一人ひとりに合わせたガイドをするために、自分の言葉で話せるくらい伝えたい歴史を理解し、学ばないといけません。
このように、様々な観点から歴史やガイドついて学び、悩み、一つずつ改善し、質を高め、様々な人にガイドをかさねてきました。
これまで、一般の方々・日本ポーランド学生会議の大学生の皆さん・敦賀西小学校・ポーランド広報センター所長オスミツカさん・福井ユネスコフォーラムの皆さん・U字工事さん などなどにガイドを行い、貴重な体験を積むことができています。
新たな悩み
課題を少しずつ、改善し、やっとガイドができたのに、また新たな悩みが浮上してきました。それは、自分たちの活動が、単に「ガイドする」ことが目的になってしまっていたことです。でも本来の目的は、
「コロナ差別」をなくしたり、市民の皆さんに人権意識を持っていただくこと。
自分たちの活動が本当に正しいのか悩みました。
このような悩みながらの活動ではあったのですが、このような、活動をさせてもらうと、そのたびに沢山の取材が来てくださり、テレビ、新聞、広報紙で掲載してもらえました。
沢山の取材のおかげで、名札を下げていると、創生部ですよね!と声をかけていただける機会が増えていきました。そうして少しずつではありますが、私たちの活動に対する認知度が上がったことを実感しました。そこで、活動の認知が少しづつ広がれば、少なくとも歴史や人権について考える「きっかけ」を提供できるのでは?と思い至ることができたんです。
そして気付いたのは、結局私たちは、お客さんに歴史の捉え方や、歴史に対する考え方を強制することはできないということです。当然私たちの目的である「差別をなくす・人権について考えてもらう」ということも、強制することはできないのです。唯一できるのは、自分たちなりに勉強した「事実」を伝えること、「自分たちの想い」を伝えることだけだということです。私たちの活動が、誰かと誰かの会話の話題となってくれることを願って地道に活動を続けるしかないのではないかと考えるようになりました。
価値を実感!
ここまで考えられて初めて、自分たちの活動に意義や価値を感じることができました!ただ、すべての人の人権意識を高め、差別をなくしていくというのはとても難しいことで、不可能なことかもしれません。
達成することが不可能かもしれない難題であるからこそ勉強し続けなくてはならないと考えています!
このように、活動の認知が広がることは私達にとって大きなメリットがありました。
多くの方に注目して頂いているという実感が、部員のモチベーションアップに繋がりました。また、最初は10名ほどであったメンバーが、現在では40名にまで増え、私たちの活動に賛同してくれる人が増えています。
プラスを作る活動
ここでこう考えることができました。私たちの最大の目的は「敦賀をよりよい街にしていくこと」これまでの、ムゼウムガイドを中心とした活動は、マイナスであったものをゼロに戻す活動でしたが、これからは、更にプラスを造っていかなければならないということです。
過去のネガティブな物事や、これまで存在するものに付加価値を与え、提供することがゼロに戻す活動で、今後、直接的に地方創生や、新しく想像・創造して行くことで、新たにプラスを創っていけるという考え方です。
しかし、ゼロ以上を継続するためにも、マイナスを埋める活動(ムゼウムでの活動)は手を抜かず、並行してこれまでの活動を活かし、新たに探求をはじめ、新たな価値をうみだそうとチャレンジを行ってきました。
プラスを創る活動では、イベントを開催したり、ワークショップを開催したり、地元の団体・企業様とコラボでいろんな企画をやらせてもらたり、創生部自身が議論の場や交流の場を提供。さらにこのサイトも、プラスを創る活動の一つです。本当はたくさんあるのですが、ここで書くと長くなりすぎるので、公式インスタグラムやツイッターでの過去の投稿をぜひ、チェックしてみてください!
これまで、悩み、改善し、協働し、いろんな活動をしてきたが、あるとき同級生に「すごく面倒くさそうなのによく参加しているね」と言われたことがあります。確かに、はたから見れば、つまらなそうな活動に見えるかもしれません。しかし、私達は活動を進めていく中で、「楽しい!」と感じる事ができていると実感しています。ガイドをしていて「楽しい」と感じるがそれはなぜだろうか?その要因は3つあると考えました。
1つ目は「成長」。何度もガイドを繰り返し行うことで、豊かな表現力や適応能力、コミュニケーション力が身についたと実感できています。とっさの質問に対する返答や、相手の目をみて会話をすることが可能になりました。
2つ目は「評価」。ガイドをしたお客さんが直接感謝を伝えてくださったり、多くのメディアに取り上げもらいガイド依頼が増えたことなどから、周囲から良い評価を受けていると肌で感じることができました。
3つ目は「影響」。私達の活動により、地域の方々や、他の高校生にたいして「考える」きっかけや、歴史を学ぶきっかけを与え、間接的ではあるが、地域活性化につなげることができました。歴史を学んだ私達が、ガイドやその他の交流を通して、次の世代に伝えていくことができました。
「成長」「評価」「影響」。この3つを実感することで、私達の活動に「ワクワク」や「楽しさ」を見いだすことができるのではないかとは考えました。
私たちの活動は、この図にあるように、まずオレンジの点線で表されているような、元々敦賀と、「ぼんやり」とした繋がりのある、個々の存在(例えば、敦賀とポーランドの繋がり、敦賀の魅力など)に私たち創生部が、スポットを当てることで、ぼやけていた線を、くっきりとさせることができます。
さらに青い線で表されているような新たな繋がりを創り出すことで、化学変化をおこし、新たな価値を生み出していくことができると確信しています。
私達の活動が広がれば、敦賀の魅力を再発見でき、敦賀をもっと好きになる、敦賀にもっと自信が持てる。敦賀をもっと自慢できる。約一年半の活動を振り返って、私達の活動がもつ、地元敦賀への貢献という側面における可能性の大きさを実感しています。
これまでの活動でもたくさんの繋がりを創ってきましたが、これからも、たくさんの繋がりを創り出していきたいです!
そして、この文章に書かれている内容は2022年4月の現状です。さらに今後、受動的ではなく、能動的に協働し、歴史を活かして、未来に繋がる地方創生を行っていきます。
最後までご覧いただきありがとうございました。
福井県立敦賀高等学校 探求部社会的部門「創生部」