3.11慟哭の記録

3.11 慟哭の記録 ―71人が体感した大津波・原発・巨大地震正体不明の“つなみ”が、悲しみだけを残していった―生々しい体感、慟哭と彷徨の日々、絶望から再起への想い。人類史上に残る千年災害の全体像、その広さと深さに迫る。

■熊本地震限定公開(エコノミークラス症候群への備え)

エコノミークラス症候群による心肺停止

仙台市宮城野区 佐藤 美怜

(東北学院大学学生、当時)

3・11 震災当日

3月11日、私は仙台宮城野区にある自動車学校で授業を受けていた。午後2時46分、カタカタという地震の揺れはだんだん大きくなり、教官の「机の下にもぐれ!」という声が教室に響くと同時に、全員一斉に机の下にもぐった。必死に机の脚につかまり、身を縮めた。長い地震だった。少し揺れがおさまった瞬間に、教室にある大きな窓から直接外に出た。

しばらく余震が続く。外にいると、地面の揺れが直に伝わると同時に、周りの建物が揺れている様子も見えて、室内とは違った恐怖感があった。携帯で連絡をとろうと試みるが、通じない。そのまま解散となり、私は家に早く戻ろうと考えた。〔原付バイクで〕ふだん十分で着くところを三十分ほどかけて家にたどり着くことができた。

私の家はマンションにある。もちろんエレベーターは動いていなかった。無我夢中で非常階段を一一階まで駆け上がった。壁が崩れていたり、一一階の通路の床に血痕があったり、床の一部が崩れて下の階が見えたりと、恐怖や不安は募っていく一方だった。家に入ると母がいた。中はひどい有様だ。靴は脱げず、そのまま上がった。足下に何が散らばっているのかすら把握できない。歩けば何かが壊れたり、割れる音がする。床は水浸しだった。どうやらお風呂に溜めてあった水やトイレの水が、揺れによって通路の方まで溢れてきたらしい。ふすまはすべてはずれ、散らばっていた。電子レンジやピアノ、プリンターですら、無惨に落ちて壊れていた。包丁のような刃物類もどこに落ちているかわからない。私の部屋にはかろうじて中に入ることができた。しかし歩く場所がなかった。一番驚いたのは、組み立て式のクローゼットが、部屋の中央に向かって倒れかかっていたことだ。地震がいかに大きかったかが見て取れた。

この時にも余震は何度も起きており、必要なものを探している余裕はなかった。家はとても過ごせる状態ではなく、とりあえず食料や飲料、ラジオや懐中電灯など、使えそうなものを鞄に詰めていると、家々をまわってきた人に「早く避難してください!」と言われた。実際、家には避難用に適した食料などはほとんどなく、持って行けるものはわずかであった。

避難所の体育館で一夜を明かす

災害時は近くの小学校の体育館に避難することになっていた。最悪なことに、この日は雪が降って寒さが一層厳しい日だった。家から一五分ほど歩いて小学校に着き、体育館に行くと既に多くの人々が避難していた。ざっと八百人以上はいたのではないか。まさにすし詰め状態である。場所はわずかで、横になどなれず、ずっと座っていなければならない。もたれかかることもできないため、すぐに腰や背中が痛くなる。体育館にはトイレがあるが、流せないため体育館中に悪臭が広がり気分は悪い。

外が暗くなってくると同時に、不安も一層襲ってくる。おそらく、その小学校の先生方が中心となって、非常食のビスケットと水を配給してくれた。水は一人500ミリリットル一本をもらえたが、ビスケットは三枚ほどしか食べられなかった。その他にも、近くのお店が寄付してくれたパンやおにぎりがあったが、子どもやお年寄りに優先的に配られ、もらうことなどできない。その避難所は食料も毛布も全然足りていなかった。父や友達の何人かの無事は確認できた。しかし携帯の電源はすぐになくなり、寒さと空腹と不安でどうしようもない。

まさか本当に避難所で過ごす日が来るなんて夢にも思わなかった。余震が起きるたび、上から何かが落ちてきそうで怯えた。いつもより夜が長く感じられる。発電機があったのであろうか、ステージ上に一つだけ大きめのライトが設置され、たびたび消えそうになりながらも、体育館内を照らしてくれていたのが唯一の救いであった。それからしばらくして、炊き出しが行われ、わかめご飯おにぎりが一人一個配られた。本当に救われた気分だった。食べた後、眠ることなどできなかった。

震災2日目 避難所のストレスから車中に

地震から一日経ち、外がだんだんと明るくなってきて少し安心できたが、疲労と寒さで体がどことなしに重かった。朝8時頃にご飯として再びわかめご飯おにぎりが配られた。受け取るには長蛇の列に何十分も並ばなければならない。半分だけ食べて残りはとっておき、一度家に戻ってみることにした。マンションに着くと、車泊している人も見受けられた。家に戻り、片付けを試みようとするが、住むには到底及ばない。いつ大きい余震が起きるかわからない。下に降りられなくなったら困るため、長居はできなかった。

念のため、毛布などを車に積み、開いているスーパーに並ぶことにした。すでに長蛇の列である。並んでも買えるものはごくわずかであり、望むものは手に入らない。お昼に残しておいた朝のおにぎりの半分を食べ、一度避難所に戻った。そこで母と話し合い、避難所を出て「車泊」することにした。二人とも腰の痛みが限界であり、また避難所では人が多い分、嫌な面も見えてストレスもたまり、精神的にも体力的にも耐えられないと感じたからだ。せめて横になりたかった。夕飯のわかめご飯おにぎりを受け取り、マンションに向かった。外は暗く、懐中電灯で照らしながら帰った。

だいたい19時頃に車でおにぎりを食べ、座席をできるだけ倒して横になった。辺りは静かで暗く不気味で、すきまから冷たい風も入ってくるが、避難所にいるよりは良いと感じた。気を遣わずに話も普通にできる。トイレはマンション二階の集会所のトイレを使った。しかしその集会所に行くにも真っ暗で、足下には瓦礫が散乱しているため、とても一人では行けない。二人でも怖かった。「一人だったら絶対無理だね」こんな話をしていた。ラジオを聞くと、地震や津波の被害状況が伝えられており、その時初めて地震の規模の大きさを理解できた。その日の夜は、寒さで何度も目が覚めてしまうが、避難所よりは眠ることができた。明日は自転車でお店巡りをする予定であった。

3日目 母が心肺停止に…トリアージは最悪の“黒”

翌朝目が覚め、一度片付けのため家に戻ることにした。朝ご飯は昨夜半分残しておいたわかめおにぎり。車から出ると、母は足が痛いと言っていた。前日歩き回ったからだろうか。片手に最後の一本であった水を持ち、いつものように階段を上っていた。

階段の三階辺りで、母が「気持ち悪い。ちょっと休ませて」としゃがみ込んだ。その場で少し様子をみることにした。しかし一向に回復しない。それどころか悪化しているようだった。階段にもたれかかるようになり、息も荒い。苦しそうだ。ちょうどその時、マンションに住んでいるおばさんが「ついててあげるから救急車呼んできな」と言われた。幸いマンションの隣に病院があるので、私は直接駆け込んだ。救急車が来て、一緒に乗り込みマンションに向かった。

マンションに着くと、すでに救急車が一台止まっていた。携帯を使える人がいて呼んだらしい。階段の上から担架に固定されて母が運ばれてきた。私が最後に見た時は意識があり、コンタクトできたのに、意識はないようであった。救急隊員の説明によると心肺停止し、瞳孔も開きかけていて、心肺蘇生を試みたが意識が戻らないという。愕然とした。まさかそこまで深刻な事態だとは、思ってもみなかった。そのまま救急車に乗り込み、病院に向かった。

救急車の中では隊員の方から母の年齢や持病、過去の大きな病気や倒れた時の状況など事細かに聞かれた。動揺して頭が回らない。年齢は答えられても何年生まれかは分からなかった。持病や過去の大きな病気も知っている範囲では答えられたが、すべてを把握しているわけではない。病院も非常用電気で稼働しており、細かく検査できるような機械は使えず、また、検査する時間の余裕もなかったため、状況判断で処置を施さねばならなかった。隊員の質疑応答の情報は必要不可欠で、命が助かるかどうかも左右するのである。何度も念を押して聞かれ、間違ったことを言えば大変なことになるというプレッシャーと不安に押しつぶされそうであった。意識は一向に戻らない。この時すでに、トリアージは死亡を表す最悪の“黒”であった。まだ四九歳という年齢にわずかな可能性をかけて、その前の段階の赤として搬送された。

座っていただけでエコノミークラス症候群に

五、六分ほどで、仙台医療センターに着くとすぐに処置室に入れられ、私は扉の外で待つことになった。その間にも救急隊員の方に、救急車で聞かれたようなことを何度も尋ねられ、状況の説明を受けた。非常用電気を使用して、蘇生させる機械を使えば一時的に心臓は戻るが、自力ではなかなか戻らず、全力を尽くしているが厳しい状態だと言われた。

頭の中が真っ白だった。私がもっと早く救急車を呼びに行っていれば助かったんじゃないか、他の家族に早く伝えないといけないのにどうしよう、ちゃんと親孝行しておけば良かった……悪い考えばかりが頭に浮かんだ。待っている間、不安で涙が止まらず、手の震えもおさまらない。ただ祈るしかなかった。どのくらい待っただろうか、しばらくして母が処置室から出てきた。そのまま集中治療室に運ばれ、私は説明室に通された。

医師の説明によると、状況から判断しておそらく病名は「肺血栓塞栓症」、いわゆるエコノミークラス症候群である。地震後、足にできた血栓が肺に飛んで心肺停止に至ったという。私も母もこの病気のことは知っており、体を動かしたり、極力水分も取るように気をつけていた。車泊だけが原因ではなく、一日目に避難所でずっと同じ体勢であったため、すでにその時に血栓ができていた可能性もあるという。

処置中もなかなか血圧が戻らず、一か八かで血栓を溶かす薬を使ったという。血栓があるという保証はない。あくまで状況判断による可能性であり、最終手段だった。これは強力な薬のため、出血のリスクもある。しかし使わなければ状況が変わることもない。

幸いなことに次第に血圧が戻ってきた。こうして一命は取り留めた。しかし、人工呼吸器が必要で肋骨も心臓マッサージによって折れており、薬による出血のリスクもあって、いつ急変するかわからず、まだ安心できない。頭の中はぐちゃぐちゃだった。〔医師の〕説明後、一度母に会うことができたが、意識はなかった。ベッドの脇にただ立っている事しかできなかった。何て声をかけたら良いのかもわからなかった。集中治療室は面会時間が決まっていて、緊急時以外入れない。親族は控室に泊まって良いとのことで、本当にありがたかった。他の家族に一刻も早く連絡をとりたかったが、連絡がつかない。私と母は避難所にいると思われている。公衆電話は使えたが、父の携帯も会社も通じなかった。じっとしていると嫌な考えばかり浮かんでくるので、一度家に戻ることにした。

家に戻ると、ため込んでいたものが一気に押し寄せてきた。いつも暮らしていたはずの家はとても静かでぐちゃぐちゃで、自分の家という感じがしなかった。恐怖すら感じた。一人というだけでこんなにも空気が違うのか。本当に孤独を感じた。ライフラインがいつ復活するかはわからない。誰にも連絡はとれないし頼れない。母が倒れる前に持っていた最後の一本であった水も、なくなっていた。お店もこの先どうなるか想像がつかない。できる限り食料を確保しておく必要がある。一人で生きていかなければならないと感じた。

〔母が病院に〕運ばれたのは朝であったが、この時既に夕方になっていて、お店はすべて閉まっていたため、配給をもらいに避難所へ行くことにした。

体育館は相変わらず人がいっぱいであった。配給される時間は決まっていないが、その時にいないと受け取ることは難しい。体育館の中には居場所なんてなかった。外で待つことにしたが寒い。こうしている間にも母が急変しないか不安になる。何より心細かった。外でじっとしていると本当にひとりぼっちだと感じ、これからのことを考えるとすべてに嫌気がさし、食料の心配も人との関わりもすべて投げ出してしまいたかった。

その後おにぎりを一つもらえたが、明日からの配給は保証できないと言われた。道路を走る車の光と懐中電灯を頼りに病院に戻った。夜の面会では状態は何も変わっていなかった。面会時間が終わり控室に向かうと、もう一人いた。津波で流されてこの病院に運ばれ、娘さんが入院しているという。話を聞いて、津波の怖さを思い知った。なかなか寝付けない。通路を通る人の声や音のおかげで静寂ではないことが唯一の救いだった。今まで生きてきた中で一番長い一日だった。涙腺が壊れたのではないかと思うほど涙が溢れてきて、気付いたら泣き疲れて寝てしまい、朝になっていた。朝の面会時間は過ぎていた。

4日目 ひとりぼっちの孤独

この日はおそらく14日。病院では電気が復旧しており、一度家に戻ることにした。戻る途中に開いていたコンビニに並んだ。まともな食料は売っていなかったが、アメやガムなどのお菓子や、水以外の飲み物は残っており、買うことができた。荷物をすべて車に積み家に戻った。

家は電気が復旧しているようではあったが、家を片付けない状態でブレーカーを上げると火災が起こる恐れがあり、上げることはできなかった。などの糖分が取れるものを持ち、近くのお店に並んだ。一人で並んでいると時間が余計長く感じられ、心細さは倍増する。寒さと空腹でクラクラするが、アメを食べてしのぐしかない。私は津波の被害にはあっていない。家も残っている。それなのに弱音など吐いていられない。四時間ほど並んで店内へ。買える物は十点までと制限されていた。水は五本が限界であった。その他には、水やガスを使わずにホットプレートだけで焼ける餅などを買った。

暗くなってきたので病院に戻った。夜の面会では、母が反応を示した。うなずいたり首を振ることができ、私はこれでもう大丈夫だと思い安心した。しかしお医者さんが「今が一番危ない状態だから早く乗り越えましょうね」と母に語りかけていて、まだまだ安心できないのだとすぐに落ち込んだ。ここでようやく携帯を充電することができ、電源を入れるとメールがたくさん届いていた。他の所でも同じ頃に電気が復旧したようで、父や友達とようやく連絡がつき、親しい人の無事は確認できた。その日は夜遅くまで友達とメールをして眠りについた。

5日目以降 容態安定、家族と面会、家を片づける

昼頃に父が来て母と面会し、その時少しであるが、手を握ったり、コンタクトをとることができた。夜には人工呼吸器の管は抜かれていた。容態が安定してきたからである。血栓を溶かす薬のリスクは、肺からの出血は起こったものの、大事には至らなかった。管が取れたおかげで母は一言二言だが声を発することができた。その日は東京から兄が持ってきてくれた食料を食べ、兄も病院に泊まった。

翌日は家に戻り、家の片づけを行った。男手が二人もあると本当に助かった。一日かけて生活できるくらいには片づき、ブレーカーも上げて電気もついた。その夜から家に戻ることにした。久しぶりの我が家であった。

しかし翌朝から体調を崩してしまった。父と兄に任せ、休むことにした。震災後、この時やっと布団でゆっくり休めたような気がする。しかし父や兄は仕事があり、あまり長く居られないため、しっかりしないといけないのに情けない気持ちでいっぱいだった。

二日ほど休んで回復し、一度兄と仙台駅の方まで行ってみた。思っていたより復活して飲食店もいくつか再開しており、まともな食事を久々に食べることができ、今までにないほどおいしく感じた。水もいつの間にか復旧していたが、マンションは貯水槽が破損して水が出ず、外にある水道に水を汲みに行く必要があった。とりあえず食料は確保でき、水も汲みに行けば手に入る。一人でもやっていける。

しかし夜眠れなくなってしまった。電気を消した後に地震が来たらと思うと怖くて消すことができない。毎日空が明るくなるまで起きていて、それからやっと眠れるという生活が続いた。また、ラジオをつけたままでないと眠れなくなった。静寂が嫌だった。緊急地震速報で起きる日も多かった。

そのような日々がしばらく続き、ガスが復旧した。その次の日あたりには水も復旧してお風呂に入ることができるようになった。その頃にはお店に並ばずに買い物ができるようになって自動車学校にも再び通い始めることもできた。母も集中治療室から一般病棟に移り、面会時間の制限もなくなった。初めは食事もできなかったが、徐々に食べられるようになり、リハビリも始まった。毎日家と病院と自動車学校を行き来し、余震も減って日常が戻ってきていた。

4月7日の余震

しかし恐れていたことが起きてしまった。4月7日の深夜、最大の余震が発生。家電もみそ汁の入った鍋も何もかもが飛び交う。落ちてくる。倒れる。恐怖。家の中は最初の地震の時の状態に逆戻りした。日常が戻っていた分、絶望は大きかった。家の中は停電しなかったが、外の通路は停電していた。水の噴き出す音が聞こえる。嫌な予感がした。

案の定蛇口をひねっても水は出なかった。またしても貯水槽が破損したらしく、再び水を汲みにいく生活に戻った。その日は夜通し片付けをした。くじけそうであったが、県外に住んでいる友達がずっとメールに付き合ってくれたのが本当に心の支えであった。しかし、夜はますます眠れなくなった。昼間でさえ家に一人でいるのが怖くなり、極力外出したり病院にいるようにした。一週間ほどして水が仮復旧し、お風呂や洗濯の水として使えるようになった。

退院後に聞いた母の話

入院してから約一ヶ月、母が退院した。しかし完治したわけではなく、食事制限や薬の副作用などもあり、かつてのような日常が送れるわけではない。正直、また前みたいに倒れたらどうしようという不安もあるが、家に一人ではないというだけで気持ちが楽であり、心強い。

母に、病院に運ばれた時の話を聞いてみた。

階段を上っていると急に胸が苦しくなって、だんだんと息ができなくなってきた。おそらく10分くらい続いたと思うと、指先からしびれてくる感じがして、一瞬苦しさがなくなり、そこから記憶がない。気付いたら病院であった。人工呼吸器を外した後は、肺に血が溜まったせいで血痰が出て、咳き込むたびに折れた肋骨が痛んでとても苦しかった。咳き込むため、なかなか寝付けず、水を飲むのも一苦労であった。

二週間ほど経って、歩くことが許可されたが、最初は立つこともままならなかった。しかしリハビリを始め、少しずつ歩けるようになり、嬉しかった。徐々に食欲も回復し、体調も良くなり、退院して家に帰ることができて安心した。

これからは、血栓ができないように気をつけるとともに、薬の副作用によって、出血するとなかなか止まりにくくなっているので、怪我などをしないように十分注意して生活していかなければならない。

私は、震災が起きてからは心に余裕がなく、一時は大きな絶望と疎外感を感じ、正直、何が助け合いだと心がすさんだ時もあった。しかし振り返れば、私は多くの人々に支えられていたのである。病院にはさまざまな県から医療チームが集まっており、実際、母を救ってくれたのも県外から来てくださった人々であった。外を歩いていても各地から支援にやってきてくれた車を多く見受けることができ、本当に多くの人に支えられていることを実感し、元気をもらえた。そして県外のみならず、自らも被災者であるのに震災直後からお店を開けてくれた人々、メールで励ましてくれたり実際に会いに来てくれたり、快くお風呂や洗濯機を貸してくれたり、物資を提供してくれた友達にはいくら感謝してもしきれない。これらの人々がいなければ、きっと耐えきれなかったであろう。

家族とも、震災を通してこれまでにないくらい協力し合い、普段は喧嘩ばかりであったのに、頼もしさすら感じ、家族の大切さを再認識することができた。これを書いている5月22日現在、水はまだ完全復旧しておらず、いつ復旧するのかも分かっていない。気温も高くいるため、水の衛生管理にも注意する必要がある。いつまた大きな余震が起きるかも分からない。依然として困難な生活を強いられている人も、行方不明の人も、その人を探し続けている人もたくさんいる。今回の震災で、私は自分のことに精一杯で助けてもらってばかりであった。今度は、今もなお苦しんでいる人々の助けとなりたい。そして、あまり考えたくないことではあるが、あとで親孝行しておけば良かったと後悔しないように、できる限り親孝行もしていきたい。

最後に、お世話になった方々に心からの感謝を申し上げるとともに、お亡くなりになられた方々のご冥福を祈り、被災地の一刻も早い復旧、復興を切に願う。

(脱稿:2011年5月22日 原文より一部略)

『3・11慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震』

金菱清・東北学院大学震災の記録プロジェクト編 新曜社 2012 より抜粋

©Kiyoshi Kanebishi 2012 All rights reserved

■メディア紹介

・BSフジプライムニュース二時間生出演(BSフジ 2013/03/11)

・フジテレビ報道特別番組、「0311、知られざる心の闘い」にて3.11慟哭の記録ドキュメンタリー取材紹介(フジ2013/03/09)

・BSフジプライムニュース二時間生出演(BSフジ 2012/07/17)

「飛びぬけて優れた記録」佐野眞一氏の書評!(週刊現代4月21日号)

痛切 被災者の声 東北学院大生が証言集を出版 (河北新報社kolnet 2012/04/08)

「日本民衆史に残る」色川大吉氏の書評!(共同通信社配信 2012/04/15・04/01・03/25)

-神戸新聞・岩手日報・四国新聞・愛媛新聞・山陰中央新聞・南日本新聞・徳島新聞・熊本日日新聞・京都新聞・岐阜新聞

「握った祖母の手 津波で離れた 被災者71人 慟哭の手記」(朝日新聞2012年6月26日東京本社・名古屋 8月15日宮城・岩手朝刊)

「「書きたい人」が書くのではなく、「書けない人」が書いた3・11の記録―未来への減災を被災者の目線で問いかける」(図書新聞 2012/07/21 No.3071)

・共同通信取材(2012/07/20)

・記者の一冊(東京新聞・中日新聞2012年6月10日)

・週刊読書人 日本図書館選定図書(2012年5月18日)

・アエラ2012年5月14日号

・「被災者の生の声つづる」(石巻かほく2012年3月23日号)

・「論の焦点」で紹介(毎日新聞 夕刊文化面 2012/03/26)

・「被災者71人の声 大学生が一冊にまとめて出版」大學新聞第83号掲載

・出版ニュース3月号中旬号掲載

・OH!バンデス出演(ミヤギテレビ 2012/03/28)

・Date fm エフエム仙台 AIR JAM Friday 番組番組冒頭紹介

・突撃!ナマイキテレビで番組冒頭紹介(東日本放送 2012/03/07)

震災の記録プロジェクト 3.11慟哭の記録 : 東北学院大学教養学部ブログ

(2012/02/14)

3.11 慟哭の記録 : 新曜社

3.11慟哭の記録@daishinsainohon : Twitter

3.11 慟哭の記録 : オフィシャルブログ

■目次

出版に寄せて 学校法人東北学院 学院長・大学長・同窓会長 星宮 望

まえがき 編者 金菱 清

TSUNAMI 大津波

大津波 ババのへそくり 泥の中─南三陸町志津川廻館 佐々木 米子

「あれ何の音」、我に返った時はよその家の上、星になったみんな、震災川柳は心のいやし

ここは津波常襲地─南三陸町戸倉字波伝谷 後藤 一磨

流れ去る我が家にさよなら、避難者名簿をもち救助要請に、瓦礫と遺体、おにぎりの美味しさと人の暖かみ

正座したままで逝った父、母、祖母─女川町桜ヶ丘 丹野 秀子

実家と連絡がとれない、屋根の上に家が、母をおいて帰る悔しさ、「仮土葬」に怒り、最後まで家族を守った父

大川小学校で愛する娘を亡くす─石巻市旧河北町 狩野 あけみ

夫の涙にわけがわからない、「愛!おかあさんだよ!迎えに来たよ」、懸命の捜索活動、やっと大好きなお家に

妻や孫を呼ぶ声だけが谷間に谺する─石巻市北上町十三浜大室 佐藤 清吾

橋から津波を目撃、街並みが海上に出現、親族15人安否不明、霊を弔う余生を、浜の生活史と反原発運動

大津波に何回も呑まれ意識を失う─石巻市北上町十三浜菖蒲田 千葉 五郎

泳いでガードレールに、橋の欄干で気を失う、妻と養母を亡くす、釣石神社を地域復興の核に

雄勝法印神楽をなくしてはならない─石巻市雄勝町水浜 伊藤 博夫

3時25分頃黒い山のような波が、125世帯中14世帯除き全壊、雄勝の宝、神楽復興で心を癒す

おじいさんは大好きな海に帰ったんだ─石巻市渡波 丹野 宏美

日光から車を飛ばす、母と祖父母を探しに雄勝へ、床上浸水2メートル、遺体に湯たんぽを、仲間とボランティア

目の前を家もトラックも人も……─石巻市渡波 平塚 将人

位牌を取りに…車が流される、真っ暗な自宅、サイレンとクラクションと叫び声、就活を辞めて大工に

水産会社廃業の選択─石巻市魚町 斎藤 廣

水と瓦礫が車のウィンドーに、足蹴りで脱出、ビスケット二枚、腐った魚の後片付けに二ヶ月、借入金に苦悩

泥に「かな無実です」と刻む─石巻市湊 阿部 果菜

水の中をザブザブ進む、双眼鏡で自宅を発見、父、母と抱き合い号泣、さよなら私の思い出たち

地獄のなかの救命小舟─石巻市南浜町 奥田 裕次

後ろから津波の第一波が、目の前で赤ちゃんが車と共に… 六時間漂流、震災の爪跡は深く残る

石巻は火と水と寒さ─石巻市日和が丘 遠藤 美千代

波の音がシャバシャバ、火柱と爆発音でパニック、園児の泣き声、救援も食料も情報もない、原爆の跡のよう

避難所から消えた中国人研修生─石巻市南光町 熊谷 亜美

日和山は孤立状態、火事の延焼で避難警告、溢れかえる避難者、「原発」が爆発、はぐれた研修生とおじいさん

「盗み」に入らざるをえない現実─石巻市貞山 成田 賢人

冷たい水、ストレスの溜まる避難所、スーパーの物がなくなっていく恐怖、助け合いに感謝、防災への心構え

数少ない病院の役割─石巻市山下町 亀山 富二江

町は水没、病院大混雑、患者は保険証も診察券もお金も薬もない、満床でも受入れ、看護師として明るく

海水と泥と闘う毎日─東松島市赤井 佐々木 和子

児童クラブで避難誘導、食パン一枚を四人で、二週間後自宅に入り呆然、堤防決壊で台風でも避難勧告

生きたまま焼かれる!─気仙沼市鹿折地区 加藤 弘美

ヘルパー先で家ごと津波に、ガス爆発で次々と火が、重油とヘドロまみれの体、九人で励まし合う

海を生き抜く信用取引─気仙沼市魚町 齋藤 欣也

「屋号通り」が消えた、気仙沼は大火災、九割の漁船は遠洋で無傷、静岡へ搬入、待ちに待った鰹水揚

民間ハローワーク─気仙沼市階上地区 守屋 守武

千八百人の避難者を守る、民間主体で緊急雇用創出、「ありったけの想像力を働かせ、被災者を救う事」

陸の孤島と化した半島での消防団活動─気仙沼市唐桑町宿浦 三浦 清一

バリバリゴゴ…轟音と土煙、石碑に「地震がなったら津波の用心」、まさに火の海、救助捜索と遺体収容

ヘッドライトの下で綴った震災日誌─気仙沼市唐桑町宿浦 熊谷 眞由美

メモ用紙の裏に日記、「火垂るの墓」の光景、避難所から自宅片付けに通う、4・16電気水道復旧、今回の教訓

開店休業に追い込まれた海産物加工業─塩竈市藤倉 下舘 準也

スクーターで迂回、家族は無事避難、喘息で苦しい、桂島の津波被害、店の復興と原料確保の難しさ

島の海苔養殖協業─塩竈市浦戸諸島桂島 内海 茂夫

チリ地震津波に続いて筏流出、海苔の養殖しかない、皆の思いをひとつに

祖母の手を放してしまった─七ヶ浜町菖蒲田浜 渡邊 英莉

幸せな笑顔が、必死で木につかまる、助けを求めた人の目が忘れられない、ばあちゃんのご祝儀袋

決死の介護利用者の救助─多賀城市大代 榊原 由美

川が溢れる(なんなのこれ)、肩まで浸かりながら救出、手を強く握り返す、「助かりたいの?」ひどい言葉

遊園地のコーヒーカップのように回る車─産業道路 多賀城市 川嶋 由子

なだれ込む津波、ここで死ぬわけにはいかない、一瞬のチャンス、見つかった車は傷だらけ

コンビニの屋根に避難する─仙台新港 黒瀬 英文

搬入の箱と台車で階段を作る、石油コンビナート炎上で空が赤色に、みんなで手をつなぐ、二度の窃盗事件

夢半ばで逝った息子を想う─名取市閖上 小原 武久

愛犬を抱いた息子は、「外は寒いのに、パパたちだけがお風呂に入ってごめんね」、一六日ぶりの悲しい対面

仙台空港での三日間─仙台空港 中澤 輝博

運命の別れ道、空港の「自治組織」、仙台名物が非常食、「ここの救出優先順位は低い」、最終救出バスに

自衛隊ヘリによる脱出─亘理町荒浜 森 健輔

自転車で写真撮影に、津波なんか来ないだろう、荒浜の惨状を記録し続ける、友と火葬だけのお別れ

代々続いた海苔養殖業の復興へ─亘理町荒浜 菊地 萬右衛門

神様がお話を聞いてくれれば、懸命の筏片付け、皇室献上の海苔が復興の原動力、霊を慰める切子提灯

黒いものがモジャモジャ向かってきた─山元町八手庭 阿部 行男

津波と気づかず向かう車、一面海のように、連絡手段がない、テレビ映像に心折られる、復興へ何ができるか

究極の遺体身元照合ボランティア─宮古市磯鶏地区 千葉 胤嗣

「千葉さんでなければできない仕事」、遺体安置所と避難所を往復、毎日御遺体を拭く

万里の長城を越える大津波─宮古市田老大平地区 山崎 智水

明治三陸大津波の演劇、寝るだけの避難所生活、公務員は被災者じゃないの? 防災・減災の研究をしたい

町全体が精霊流しのよう─大槌町本町 臼澤 良一

家が将棋倒しのように、タロ絶対助けるぞ、水と炎が迫り叫ぶ、家族っていいな、まごころ広場うすざわ

不安と恐怖に包まれた孤独な一晩─釜石市鈴子町 菊池 真智子

車が沈む、プールの底にいる感覚、周りは海、大型タンカーがぶつかる音、店の再開、釜石の水産業復興を

重油まみれの衣類を毎日洗う─釜石市浜町 佐々木 要

家族との連絡に四日間、引き波で海の底が見えたと知る、遺体と瓦礫だらけ、生簀が家の中に散乱

普段着やジャージ姿の卒園式─釜石市上中島町 佐々木 幸江

子供たちの午睡中、嘔吐する子や夜泣きのゼロ歳児、卒園式をしてあげたい、「げんきでほいくえん」

間一髪の小学生の避難誘導─陸前高田市小友町 渡邉 淳

二転三転する避難、小友小学校一階全壊、たくさんの温かい支援に感謝、生かされた命を大切に

港湾都市・大船渡やっぺし─大船渡市盛町中道下 浦島 康弘

静かに海水があふれ激流と化す、7メートルの丸太が突き刺さる、工具回収、ヘドロかき出し…目が回る

供養碑の下の石を拾い集める日々─大船渡市三陸町越喜来 及川 彌

浮いた冷蔵庫に乗る、迫る天井、屋根から松の木へ飛び移る、ローソクを火の玉と間違える母

FUKUSHIMA 原発

福島第一原発に立ち向かう─福島第一原子力発電所 山下 幹夫

東通村は津波被害なし、福島第一へ乗り込む、防護服と防護マスク、ドンキホーテと建屋、内部被曝に注意

生まれた時から原発があった─大熊町 大川 順子

原発で働く父を心配、翌日母と新潟へ、言葉になまりがなく原発関係者の多い町、原発全部を否定しないで

避難先も避難区域─大熊町熊三地区 佐久間 和也

原発から4キロ、全戸避難指示、大熊→福島経由→南相馬→相馬→前橋→いわき、収まらない気持ち

故郷はサバンナの大草原─大熊町大野地区 橘 慶子

三ヶ月半ぶりの一時帰宅、袋いっぱいに詰める、冷蔵庫の中の卵が… 肝心の妹の制服がない

果てなき流浪へ─浪江町川添 新田 泰彦

10キロ圏内町民二万人の一斉避難、12日15時36分の衝撃波、県外避難、故郷・職場・学校はどうなる

障害者として転々と避難し続ける─浪江町権現堂 新谷 師子

原発が爆発、浪江→南相馬→福島→上山→南陽→山形→いわき、不安やストレスは消えない

きずなファーム─浪江町牛渡 亀田 和行

透析の病院もガソリンもない、原発事故による棄民に、気分転換と癒しの農業、生きていく原点づくり

飯舘のトルコキキョウは人生そのもの─飯舘村比曽 佐藤 照子

気持ちを鬼にして可愛い牛を売る、飯舘への恋しい気持ちは富士山を越える、誰をも責めず何をも非難せず

我が家を支えてくれた牛と最後の別れ─飯舘村深谷 斉藤 次男

人生の真逆の坂、44・7マイクロシーベルトを後で知った、日本で最も美しい村が一瞬に、哀しみに終わりを

原発避難・捜索・警戒区域─南相馬市小高区 山本 祐一

水素爆発で頭は真っ白、避難所生活の長所、原発がなかったら救えた命、当たり前の生活が最高の幸せ

真実は避難者には知らされない─南相馬市原町区 池田 弘一

大渋滞でパニック、避難所でヨウ素剤配布、「イチ・ゼロ・ハチ、イチ・イチ・ハチ」、アパート二軒分に一七人

脱・ニート─南相馬市原町区 大石 貴之

最悪のニュース、原発は原爆? カーテンを閉め閃光に怯える、一人で東京へ、親が倒れたら生きていけるか

母子自主避難を決意するまで─南相馬市鹿島区 明石 美加子

南相馬→福島→南相馬→宮城県加美町、子どもの健康を守るために、悩んだ末の母子疎開

大学を中退して群馬へ─南相馬市鹿島区 三浦 育子

水平線の白いモヤモヤ、「お願い助かってー」、液状化現象、友にさよならも言えず、大好きな″日本の田舎?

九九日間の避難所運営─相馬市小泉 只野 裕一

戦場の様相、相馬を離れられない、社協職員のみの「はまなす館」、ピークは千百人、避難所の主人公

漁業の復興を阻む原発問題─相馬市尾浜 池田 精一

富士山を横に伸ばしたように迫る津波、油まみれで逃げる、浜全体が一変、魚を食べるか食べさせないか

心に燻る「政府も誰も信用できない」─福島市飯野町 鴫原 玲子

原子力緊急事態宣言、見えない、感じない物質の恐ろしさ、子どもを一時避難、諦めにも似た感情

福島との県境で放牧場を復旧─伊具郡丸森町 大槻 謙喜

地割れの被害、飼料がなければ死活問題、生乳を廃棄、一時牧草給与と放牧禁止、生活環境と食糧問題

原発見学中に地震に遭う─女川原子力発電所 藤村 魁

原発内で震度7? 「ここは安全です」、原発を避難所に開放、津波の誤報で高台へ、一歩早ければ命を…

MEGA EARTHQUAKE 巨大地震

ダム決壊、もうひとつの津波─藤沼湖 須賀川市滝 松川 美智夫

山津波で死者七名、濁流が地区を呑み込む、連日の捜索活動、「人災ではないか」怒りの声

青少年自然の家で再び震度7─栗原市花山字本沢沼山 佐藤 敏幸

再出発から一年経たず、中国研修生の協力、修学旅行生を受入れ、利用者との絆・よりどころ・自然を伝える

新幹線のトンネルに一四時間閉じ込められる─秋田新幹線 仙岩トンネル 佐々木 透

トンネル内で停車、不運な大学受験、盛岡で避難所泊、人生初のヒッチハイク、栗原は地震の爪跡

老朽化が危惧された仙台駅にて─仙台駅 佐藤 恵

デッキで恐怖に泣く、友人の目の前で天井看板が、北斗七星に感動、買い出しに並ぶ毎日

高層マンションで震度6の揺れ─仙台市青葉区国分町 金菱 清

阪神・淡路大震災に続く二度の経験、長周期地震動と制震、屋上から見た水と煙と炎、123階分の階段

エコノミークラス症候群による心肺停止─仙台市宮城野区 佐藤 美怜

まさかの避難所、階段にしゃがみ込む母、トリアージは最悪の黒、一人ぼっちの静寂、家族の大切さ

在宅酸素療法患者のいのちを守る─松島、石巻、女川、三陸地域 岩渕 茂利

津波回避のルートは、翌日から患者さんに対応、ヘドロ臭のボンベ配送、まるで野戦病院

避難所を横断して聞き取りを続ける─宮城県全域 木村 彩香

つなプロに参加、ニーズを探し出すアセスメント、避難所の個性、大島での濃い一週間

脱・就活─大崎市古川 小山 悠

宮城の誇りと悔しさ、内陸部古川の被害、ガソリンがない、熱がさめた就活、現実に向き合い復興を

テーマパークのなかの非日常─東京ディズニーリゾート 伊藤 智裕

Twitter で情報収集、液状化で泥水、ホテルのロビーで仮眠、腕がちぎれそうな満員電車、震災でリセット

プロジェクトを終えて 東北学院大学 震災の記録プロジェクト

大内千春・亀山武史・佐藤航太・小山悠・佐藤恵・植野雄太・遠藤裕太・伊藤智裕・齋藤宇成・渡邊英莉

あとがき 金菱 清

装幀・地図制作 谷崎文子