Life and Culture of Shophouseショップハウス文化

ショップハウスとは、通り側を店舗とし、その奥あるいは2階を住居とする建物の作り方のことで、日本の町屋のように職住一体の住み方が可能になる。19世紀から20世紀の中国南部から東南アジアでは、それが通りに沿って連続して建設され、典型的な街並み景観となった。店舗では飲食店、雑貨店、布地衣類店、縫製店、雑貨店、旅行代理店、代書屋、洗濯屋、薬屋などが営業され、基本的には住民同士が日常の都市生活サービスを相互に提供し合った。交通の要所では、主に外来のお客を相手に商売する店舗もあった。

カキ・リマ:商売の装置 商品を日射と雨露から守るために、商人たちは店舗を往還側から少し後退させそこに庇を架けることをやり、この庇下の空間はマレー語でカキ・リマ、英語でファイブ・フット・ウェイと呼ばれた。この言葉の語源は不明であるが、すでに17世半ばのバタヴィアの華人の間で使用されていたようである。当地に滞在していたオランダ人旅行家ニューホフは、華人が営業する衣類品市場の建物の中にファイブ・ウォークすなわちギャラリーがあると述べている(図1)。通路上に屋根をかけてお客と商品を日射と雨露から守ろうとするもので、カキ・リマはこの英語のファイブ・ウォークを直訳したものであろう。

図1 バタフィアの衣類品市場

図2 様々なカキ・リマ

カキ・リマは、もともとは各店舗の往還側庇下空間を意味していたが、通行人の便宜のための連続歩廊の形態となることもあった。日本の雁木のように、往還沿いの商店街が自ら規則を作って各の庇下空間を連続化したのであろう。官憲の目がある限り、公道に固定のカキ・リマを張り出して作ることはなかったが、さまざまな半固定式の露店が路上を占拠した(図2)。20世紀末までのインドネシアのスマラン市のプチナン(華人街)やヴェトナムのホイアン旧市街地では、このようなカキ・リマと露店がよく残っていた。

平面プラン 商品は、日中、見世台の上に並べられ、夜分中に仕舞われ、板戸などで戸締まりがされた。店舗背戸を抜けると奥は中庭となっており、その回りに厨房と便所が、さらにその奥に寝室となる部屋や倉庫が並んだ。これらの建物は、最初、華人たちは身の回りで入手できる草木材料を用いて建設したが、その居住地が経済的に発展し、政治的に安定すると家族生活のための恒久的建物にしていった。

植民地都市のショップハウス 西洋植民地権力は、華人を植民地都市の大事な構成員として受け入れ、彼らに居住地を分け与えた。オランダ東インド会社のバタフィアは、17世紀から18世紀を通してアジアに築かれた最大の西洋植民地都市で、華人との共住によって大きな都市問題を抱えることになった。当時の西欧諸国では車道と歩道が分離され、各建物は歩道境界まで敷地一杯に建設された。このやり方は植民地都市でも踏襲され、そこに住むことになった華人たちは歩道側に庇を張り出し、店先とした。そうすると歩道は用をなさなくなり、景観が乱れ、東洋の真珠と謳われたバタフィアは、18世紀にはさまざまな不法占拠に悩まされることになった。

この問題を解決したのがラッフルズによるシンガポール都市計画であった。公道として歩道は設置されず、その代わり土地所有者は建物を建てる場合、1階部分を車道から一定幅後退し歩道の用に開放しなければならなかった。経済的発展と相まって、19世紀末から海峡植民地や香港植民地などのイギリス植民地では、ショップハウスによる大規模都市開発が進んだ(図3)。20世紀には、中華民国政府による都市開発モデルに採用され、その名残が広州、厦門、泉州などに見られる。

写真1 1991年ジョージ・タウンのショップハウス 

図3 ペナン島ジョージ・タウンの巨大なショップハウス