Colonial Houseコロニアル住居

アジアのコロニアル住居の成立と定着に関する研究 日本学術振興会科学研究補助金(C)2005年〜2008年

A Study of Origin and Development of Colonial House in Asia, financially supported by JSPS 2005-2008

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December 16, 2021:  I will complete writing soon, and translate it into English slowly, Please wait for while.

目次Contents

Ch.1 はじめにPreface

1.1. 目的と対象Aim and Objective

1.2. 既往研究Reviewing of Existing Studies

Ch.2 商館と居住地Factory and Foreign Settlement

2.1. アジアの港市Port Towns in Asia

2.2. アジアにおけるヨーロッパ人の建築活動Expansion of European Merchants and Their Architecture

2.3. 商館都市におけるポルトガル人の住居Portuguese Factory and Settlement

2.4. 商館都市におけるオランダ人の住居Dutch Factory and Settlement

Ch.3 オランダの一戸建て住居Detached House of Dutch Colonists

3.1.初期ランドホイスDevelopment of Land-Huis

3.2.クレルク邸De-Klerk’s House in Batavia

3.3.インデシュ化Development of Indische House

Ch.4 イギリス植民地における一戸建て住居Detached House of British Colonists

4.1. インドにおけるパラディアン・ハウス:イギリス人上級官吏Palladian House in India

4.2. ギャラリーと寄棟屋根:東南アジア在住イギリス人Gallery and Hipped Roof House

4.3. ページメントのないポーチコ:富裕華人の受容Portico House: Adaptation of Chinese Immigrants

Ch. 5 まとめConclusion

参考文献References

Abstract

Chapter 1 はじめにPreface

1.1.目的と対象

江戸幕府は、安政5年(1858)には欧米五カ国と修好通商条約を結び、箱館、神奈川、新潟、兵庫、長崎を条約港として外国人に開放することにした。外国勢力は自国民の保護を楯に自国法を適用できる専用居住地を求め、幕府は最終的にそれを飲まざるをえなかった。そして、幕府は政治経済的に重要であった神奈川、兵庫、長崎では外国人居留地(外国人特権専用居住地)を用意し、外国権力に治外法権を認めることになった。土地の造成は幕府が行い、各国領事の保護の下、外国人たちはこの居留地を所有者(幕府)から借り受け、自らの便宜に合うように外国人居住地を近代都市に作り替えていった。そのために遠方から技術者や建築家を呼び寄せ、彼らに都市基盤の整備や建築物の設計と建設を担わせた。

バテレンを中心に多くの外国人が居住した安土桃山時代から3世紀近くの時を経て、ここに再び外国文化が花開く基盤が出来上がった。横浜では多くの錦絵に描かれたように、幕末期に攘夷論や明治初期に不平等条約廃止運動はあったものの、日本人にとって外国人居留地に登場した新たな文化は非常に魅力的に写った。建築も例外ではなく、大工たちがその珍しい建築形式をいち早く習得して、明治の文明開化を各地に広めていったことはよく知られている。

居留地以外では、幕府や開明派藩が国防や殖産事業を興すために外国人技術者を雇い入れ、そのための諸施設ばかりではなく、彼らは自らのやり方で住まいを建設した。明治時代に入ると多くの御雇い外国人教師や宣教師たちが日本各地に居住するようになり、当座日本の既存住居を借りることはあっても、彼らもまた独自の住まいを建てた。

このようにして幕末から明治初期にかけて多数の外国人住居が日本に出現するようになり、その建物は共通して一戸建てであり、外側が庇のようなもので囲まれていた。それは日本建築の庇と異なり床があり、また縁側と異なり雨戸や引き戸がなかった。さらに、そこには椅子テーブルが置かれて、居住者によって半屋外のくつろぎの場として用いられていたようだ。これが最初に出現したのはおそらく1850年代後半の出島であり、大浦居留地の造成が終わるまでの間、そこにヨーロッパの商社が施設建築を建設した。1859年の火災以後に再建された建物には、湾の方角に庇のついた広い 半屋外の空間を有していた(写真1-1)。さらに、1864年、山手居住地には完成したグラバー邸[長崎県1984:]には、北側を除く3方向にこの空間が廻らされていた(写真1-2)。

これはいわゆる「ヴェランダ(verandah、veranda)」であり、長崎には言葉とともにオランダ人によってもたらされた[長崎市史1984:]。ヨーロッパ語における使用例をたどると、オランダ人に先んじること約1世紀、16世紀初頭いち早くアジアで活動を開始していポルトガル人たちの記録に見いだされるという[Yule1897:111]。サンスクリット語に由来し、その後ヒンディー語に取り入れられ、ポルトガル人たちが南アジアに来たとき、ある建物部分を示す用語として一般化していた。もう一つ、グラバー邸は日本では「バンガロー(bungalow)」と呼ばれており[BBP JAPAN:111]、この言葉も17世紀から18世紀にかけてアジアで活動していたイギリス人やオランダ人を通してヨーロッパ諸語に取り入れられた[Yule1897:111]。オランダ語には「インディシュ(indishe)」という言葉もあり、「バンガロー」とともに、それぞれ「インド風」と「ベンガル風」を意味し、日本で言えば「東屋」と同じ使い方であろう。

言葉からも分かるように、日本が開国する1850年代末に南・東アジアに居住していたヨーロッパ人にとって、ヴェランダのついたバンガローは最も一般的な住居形式になっていたようだ。そして、グラバー邸のようなバンガローは、ヨーロッパ人の東アジアでの活動拡大とともに、中国南部沿岸の外国植民地や外国居留地を経て日本に伝えられたと考えられる。

バンガローという言葉は、19世紀から20世紀にかけてヨーロッパからアメリカ大陸に伝わり、簡素な一戸建て住宅として独自の発展を遂げた[Lancaster1985:102]。日本には、上記のように幕末から明治初期にヨーロッパ人の南アジアから東アジアへの活動拡大とともにバンガローが伝えられたが、これはあまり日本人の間には広まらなかった。それより、明治末期にアメリカ合衆国西海岸から太平洋を経て、輸入住宅として伝えられてきたバンガローの方がより一般化したようだ[内田1992:58]。それは東回りバンガローと異なり、ヴェランダが建物の全体的特徴ではなく、また外壁を漆喰ではなく下見板貼りとしていた。

本研究では、「バンガロー」や「インディシュ」として16世紀から19世紀後半にかけてヨーロッパ人のアジア居住とともに成立した住居形式をコロニアル式住居と呼ぶことにし、南アジアでどのようにして誕生し、また東南アジアに伝えられたのか、そして各地でどのように定着していったのかを、できるだけ現地調査及び文献調査により明らかにすることを目的にする。そして、今後、中国と日本におけるコロニアル式住居の展開を考察する一助としたい。

1.2.既往研究

関連既往研究として、アンソニー・キングの『バンガロー:地球文化の創造』[King1984]がある。キングは本書の中で、ヴェランダの起源論をいくつか紹介し、のち18世紀半ばインド在住のイギリス人たちが現地民家形式をモデルにして外周にヴェランダを巡らし、全体に傾斜の緩い大屋根をかけて作り出したものだと結論づけている。彼が述べているように、19世紀初頭,バンガローという言葉がイギリス人によってインドからヨーロッパに伝えられ、さらに19世紀半ばにアメリカ大陸まで広まったことは確かである。しかし実際に作られたものは、ヴェランダは必然ではなかったし、簡素な建物の代名詞であったり、決まった形態があるわけではなかった。さらに、イギリス人がインドで作り出したというキングの起源論は,西洋人としてアジア居住がより長かったジャワ島のオランダ人の経験を無視しているように思える。

本研究に関連するものとしては、飯塚キヨ博士による『植民都市の空間構成』がある。これは植民地支配後期のインドを取り上げ、カルカッタやデリーで支配と空間構成の関係を行政施設、軍営、官吏住宅の観点から分析した。その後、植民地都市の空間構成研究は布野修司博士らによって受け継がれ、多くの事例が研究対象とされ、大きな成果を上げた。しかしながら、植民地都市であれ、郊外・農園居住地であれ、ヨーロッパ人の生活様式と関係で住居建築を論じたものは少ない。

2章 交易と居住地

2.1.アジアの港市

ヨーロッパ人が海域アジアに大々的に進出する以前、すでに中国やインド・アラビアの商人は相互に物産を交易し、また途中で産する物産を購入するために往来していた。長旅の途中で風待ちし、物産を集散・交換するために港を必要とし、その条件を満たす地点に港市が成立した。西暦2世紀頃から12世紀頃まではインド商人たちの活動が際だち、マレイ諸島からインドシナ半島沿岸部に多くの仏教・ヒンドゥ港市権力を誕生させることになった。13世紀以降には西からイスラーム商人、北東から中国人が参入し、現地住民を加えて、さまざまな民族集団が港市に居住するようになった[泉田2006:23]。

港市を主宰する王権は直接多民族集団を統治するのではなく、それぞれの集団ごとに首長を任命し、その下での半自治を付与した。また、その王権は巨大な軍事力は持たず、周辺の大権力と主従関係を結び、港市どうし調和関係を保っていた(図2-1)。また、港市都市内では王権と宗教施設以外に突出した存在は許されず、防御のない木造建築が立ち並んでいた。ところが、人口が多く集まり建物が近接してくると、どうしても火災の危険性が大きくなったが、港市では有効な対策は取られなかったばかりか、王権はその維持のため一般建物の不燃化は許さなかった。そのため、港市では商人たちは現地住民と同じ木造家屋に住み、商品を火災や東南の危険から守るために地下に倉庫を作っていた。ポルトガル人たちはこれをGudoesと記録しており、これはサンスクリット語に語源をたどることができる海域アジア共通語であった。すでにマレイ語でもGedungと呼ばれ、英語にはポルトガル語からGodownとして取り入れられた。

2.2.アジアにおけるヨーロッパ人の建築活動

15世紀末、ポルトガルがヨーロッパ諸国の中で最初に海路でインドに到達したが、その目的は香料交とキリスト教布教(プレスター・ジョンとの連帯)であった。港市に到着すると、最初はアジアの交易システムに倣い平和裏に商館開設を願い出た。しかし、当時すでにイスラーム商人が多くの港市で利権を確立しており、ポルトガルは彼らを武力で駆逐しながら、商館を確保し、維持に努めなければならなかった。16世紀末には新しく新教ヨーロッパ諸国が貿易競争に加わり、ヨーロッパ諸国どうしや現地権力との軍事的衝突に拍車がかかった(図2-2)。それを経て、18世紀ヨーロッパ諸国ごとに植民地の色分けができていき、19世紀を通して植民地の内陸支配が進んでいった。

この4世紀に及ぶヨーロッパ諸国による貿易活動と植民地支配活動を、経済史家ピアソンは次の4段階に区分している[ピアソン1984:62]。

(1) 見知らぬ町を訪れ、他の商人たちと対等の立場で貿易を行う。

(2) 商館を建設する。それにはしばしば防御工事が施される。

(3) 港を占領、もしくは獲得し、そこに要塞を建設する。

(4) 広大な陸地を征服支配する。

これらに対応してそれぞれ特徴的な建築活動を見いだすことが可能で、第1段階では現地の交易施設を借用し(現地建築の借用)、第2段階で自らの商館を建設し(商館の建設、図2-3,2-4)、徐々に防御工事を施し(要塞商館への発展)、第3段階で港を中心にした自国民のための入植地を開発し(入植都市の建設)、そして第4段階ではヨーロッパ人は植民地都市から郊外に出てゆき(郊外居住)、植民地経営に移ること(内陸開発)になろう。では、具体的にポルトガルの東方進出からオランダ・イギリスの参入までの2世紀の間、商館や商館都市でヨーロッパ人がどのように生活していたのか、住居の面から見てゆくことにする

2.3.商館都市におけるポルトガル人の住居

15世紀末、ポルトガルが海域アジアの交易世界に参入すると、10年足らずの間にアラビア湾からモルッカ諸島までの主要港市を武力で抑え、そこに要塞商館を建設していった(資料表2-1)。友好的に迎えられのは僅かで、港市権力の防御と軍備が非常に脆弱 だったため、ポルトガルの火器が圧倒的な威力を発揮した。再び現地権力から攻撃を仕掛けられる可能性があり、商館の要塞化は必須な事業であった。マラッカを例に取れば、要塞商館内部には貿易を司る事務所、職員と軍人の住居、商品の保管庫、それに布教活動を行うための教会と宣教師たちの住居があるだけの小規模なでものであった。16世紀半ば頃には、商館奥の小山を取り囲むように城壁が拡大され、聖ポール教会を中心にして300人ほどが住んでいた(図2-5)。要塞商館内部には、事務所、物資の保管庫、職員や軍人の住宅などが置かれ、城壁によって外部と明確に分離された。外部には現地住民が住み、自ら小規模な貿易を営みながら、ポルトガルに各種サービスを提供した。ポルトガル人にとって内部の居住空間が狭く、現地文化との接触が少ない環境では、特別な住宅形式を編み出すことは困難であった。

1510年にゴアを支配すると、インド副王アルブケルケは土地の条件がいいことからここを広大な交易網を合理的に統治するためのアジア拠点とすることにした(図2-6)。1512年に周囲に長大な城壁と堡塁を完成させ、市内の防御とし、ポルトガル人兵士に現地女性との結婚を勧め、また土地と家を分け与えて、市民として定住させた。その中から資質の優れたものを選び出し、市参事会員、判事、典獄などの市の統治のための官職を分け与えた。

『東方案内紀』を書き残したリンスホーテンは、「リスボンと同じようにいくつかの起伏の上に横たわ」りと述べ、さらに18世紀初頭当地を訪問したナヴァレッティ*5もその中心市街地における人口の多さ、坂の多さと曲がりくねった道に祖国を思い起こさざるをえなかった。このような街作りはブラジルでも行われ、ラテンアメリカ都市史家R.スミスは次のように述べている[Smith1985:6-12]。

「彼らの都市作りはリスボンを見ればよく分かる。それは丘の上の斜面に建設され、高台には教会や礼拝堂があり、小道などがうねって配置されている。この部分は全く中世都市であり、ヨーロッパで最も美しい都市の一つになっている。丘の下の部分も同様に不規則な街路と敷地の地域であったが、1775年に起きた地震災害の復興によって平行して走る二本の直線道路と広場が建設された。このような都市パターンは地形が許す限り全てのポルトガル植民地で行われた。」

ポルトガルの海外居住地の特徴を次のようにまとめることができるであろう。

(1) 防衛と港に適した位置の選定。入り江や河口にあり、背後に小高い丘のあるところが好まれた。そのため、海からの景色がピクチャレスクであるとして、後のヨーロッパ人来訪者から賞賛された。

(2) 起伏のある地形に従った街路作り。曲がりくねった道に沿い、不規則な街路配置となった。

(3) 斜面への主要施設の配置。港が見おろせる丘の上に総督府と教会、その斜面に上流階層の邸宅、そして海岸近くに商業施設や一般市民の居住地という大まかな配置になっていた。

ゴアにおけるポルトガル人の住居と日常生活について、リンスホーテンは「ポルトガル人およびメスチーソのキリスト教徒らは、実に堂々とした邸宅を構えており、地位、身分に応じてそれぞれ多少の差はあるが、たいてい5人、6人、10人ないし20人の男奴隷や女奴隷を持っている」[リンスホーテン1975:211]と述べ、見晴らしのいい斜面の一戸建て住宅に「みな奴隷にかしずかれて重々しく」日常生活を送っていた(図2-7)。その住居は、「住宅も街路もポルトガル風に立派に建設されているが、(住宅は)炎暑のためにやや低めに建ててある。住宅の後ろにはたいていどこにも庭園や果樹園があり、種々様々なインディアの果樹が一杯であ」った(図2-8)。また、その中で、女性は「外での用事は全部男奴隷や女奴隷がして、外出することはほとんどなく、たまにでかけるときには覆いをした輿で運ばれてい」き、一方男性は「いつも、シャツから腹をむき出しにして露台の椅子にふんぞりかえり、奴隷の一人には足、爪先を揉ませ、一人には頭をさすらせ、もう一人には団扇で蝿を追わせながら涼をとる。こうして午後の数時間を昼寝をして過ごすのが、彼らの一般の習慣で、喉が渇けばそのつど、好物の砂糖漬とか砂糖煮の果物などを皿に山盛りにしては運ばせる」のであった。

このように、男女とも1日の大部分を自分の屋敷内で過ごしていたから、気分転換や涼を取るための工夫をしなければならなかった。室内では涼風を作り出す装置として団扇(Waaier)があり、初歩的なものとしては奴隷に団扇を煽がせるもの、もう少し工夫して天井から吊した大型団扇を紐で左右に引っ張る形式のものがあった。別の工夫は裏庭の日陰で自然風に当たることで、建物の外壁から庇が外に飛び出た半屋外の空間を現地ではヴェランダ(verandah, varanda)と呼ばれていた。16世紀末にカリカットに到達したバスコ・ダ・ガマの記述や、バロスの『アジア史』の中にもこの言葉の使用例が見られ、前述したようにその語源をサンスクリット語説やポルトガル語説など諸説あるが、ポルトガルの活動拡大とともにマレイ諸島から南シナ海沿岸に伝えられていった。江戸時代の長崎では2階座敷外の板敷きの間が「バランダ」と呼ばれ、機能と呼称が定着していた[長崎市史風俗編1936:600]。2階座敷は宴会に用いられることが多く、「バランダ」には手摺りが廻っていたから、そこから人が庭を眺め涼む様子が想像される。

このように語源に関する不明確さとは対照的に、その形態と機能については共通点しており、16世紀から17世紀にかけてポルトガル人が東アジア進出とともに各地でヴェランダを併設した住居を建設していった可能性はある。しかしながら、ポルトガル人はマカオに居住が許されるものの、ヨーロッパ人商人たちと同様に1630年代には中国での居住は原則的に禁止された。したがって、ヴェランダが19世紀以前の東南アジアから東アジアの現地人住居にどのように取り込まれたのかは、長崎以外に確認されていない。マカオはポルトガル支配期間が長いが、19世紀半ば以降になって街路沿いの建物正面にヴェランダが付くようにはなるだけで、中国人住居は四合院形式が守られていたようだ[Macao Architecture1970:57-59](写真2-1,2-2,図2-9)。

16世紀から18世紀まで、アジアにおけるポルトガル人の住居の特徴をまとめると次のようになる。

(1) 初期における街屋建築。外見から本国の形式を移植したものと考えられ、街路に沿って建物を並べ、小さなの開口部を持ち、防御を重視した作りになっていた。

(2) 裏庭または中庭空間の利用。支配階層は一日の大部分を自分の屋敷で過ごすので、裏庭や中庭廻りに大きなヴェランダを工夫した。そこから果樹園や庭園を眺め、そして憩いや気晴らしとした。

(3) 快適室内環境の工夫。多く奴隷をさまざまなサービスに使役し、固定式の団扇で送風させるのもその一つであった。

2.4.商館都市におけるオランダ人の住居

スペインは、1580年にポルトガルを併合すると、「太陽が没することのない大帝国」を築き上げ、その勢いに乗じて、ヨーロッパ全土をカソリック教で統一しようとした。ところが、各地でプロテスタント教徒の反抗闘争にあい、1581年オランダはオレンジ公ウィリアムを立て独立を宣言し、1598年フランスは国王ヘンリー4世がフェリペ2世スペイン国王の干渉を排除しナントの勅令を発布し、さらに1588年イギリスはスペインが誇る無敵艦隊を打ち破った。このような過程を通して、ヨーロッパ各国は近代国家として成長し、植民地獲得は国家対国家の経済戦争へと発展していった。イギリスは1600年に、オランダは1602年にそれぞれ東インド会社を設立し、前述したように初めはポルトガルとスペインの覇権の及んでいない間隙に商館設置を目指した。

VOCは、1601年にアチェー、1602年にバンタム、1605年にアンボイナ、続いて1612年にスラートと平戸に商館(Logie)を設けた。これらは現地王権の指示に従い、既存建物を借用して商館の用にしたもので、徐々に耐火造への建て替えを企てていった。1632年、アユタヤ商は王に耐火造化を申し込み失敗したが、1634年、平戸では松浦藩に受け入れられ、1640年に倉庫を石造で完成させた(図2-10)。これは徳川幕府のキリシタン禁制に触れ、取り壊され、ポルトガルが去った後の長崎出島に移ることになった。ここでは徹頭徹尾、組積造建築が禁止された。カルカッタ近くのチンスーラにも1632年に商館を開設していたが、これは1665年に組積造への新築が叶った。このように、VOCは組積造商館を望んでいたが、現地王権との力関係に配慮しことを進めた。

例外は、VOCが海域アジアでポルトガルとEICとの覇権争い勝利し、覇権を確立するために、ジャヤカルタ王国の外港スンダ・クラパ(Sunda Kelapa)に拠点基地を築いたときであった。前述したように海域アジアの港市権力は脆弱であり、VOC副総督クーンは、1617年現地王権から土地を奪取し、そこに要塞商館とオランダ海外都市を築いた(図2-12)。ジャワ島北海岸は、モルッカ諸島と中国・日本とを結ぶ重要な航路上にあり、そこの良港を拠点とすることができたなら、安定した貿易を続けられると考えたのであろう。クーンは最初から都市建設構想を持っており、当初のVOC倉庫をそのまま要塞商館の壁とし、その南側に運河を開削しながら居住地を造成し、その周囲を煉瓦と石による城壁で囲んだ。そして、クーンはここにオランダ人を入植させようとしたが、バタフィアまでやってくるオランダ人自由市民は資質が悪く、飲酒、放蕩、乱暴、無作法、違法などの行為が目立ち、移民事業はうまくゆかなかったと言われている[永積1985:185]。僅かなオランダ人男性はポルトガル植民地出身のメスチーゾ女性やユーラシアン女性(Euracian)などと結婚するものが多かった[永積1984:145]。また、人口を増やすために孤児院(図-43)をも作って人口増加を図ったが、1632年の人口統計では8千人ほどの全住民の内、ヨーロッパ人は638人の自由市民と1730人の会社職員だけしかおらず、その後ほとんど増加しなかった。それにかかわらず、1630年代末西側居住地を完成させたが、それはひとえにアジア系住民を増やすためであった(図2-13)。

最も人口が増大したのが華人であり、後に彼らとの生活様式の違いからさまざまな混乱が生じることになる。1740年、華人との対立が最高潮に達し、VOC軍隊による大虐殺事件が発生した。この時の虐殺死亡者数は一万人ともいわれ、これほど多くの華人が居住するようになったのは、彼らだけがVOCやオランダ自由市民が欲するサービスを提供できたからからあった。華人は、本国から家具、陶磁器や日常品などの輸入商人としてだけでなく、労働者、職人、商人、農民などさまざまな自立的な職種に従事し、オランダ人支配階層が必要とするほとんどのサーヴィスを担っていた。それは、他のアジア系住民の大部分が会社農民や奴隷であったのと好対照であった。奴隷はほとんどが職員や自由市民の熱帯植民地支配層の家庭生活内の労働力や召使として働いていた[Taylor1985:16-17]。このような華人に相当する存在は、インドやラテンアメリカのヨーロッパ植民地都市には見られず、海域アジアの植民地都市の大きな特徴であろう。

1620年代半ばには新しい要塞と天守閣が完成し、さらに1620年代末には東側居住地に数ブロックと連続建築群が建設された。歴史家ミローンが居住地の連続建築群を「割当住宅あるいは分譲住宅(Allocated or Entitled Housing)」[Milone1985:216-220]と呼んでいるように、オランダ人技術者と職人によって建設され、職員や自由市民に貸し出された。主要街路は30フィートの幅があり、その両側に煉瓦舗装の歩道が設けられ、1660年代には両側の建物にたくさんの人が住んでいた[Niehof1682:260](図2-14)。内側に中庭を残した連続式の2階建て建物が均質的な街並みを構成しており、煉瓦造の壁にプラスターを塗り、未だサッシ、ガラス、鎧戸もなく、当時のオランダ本国にある街屋建築であった。

この連続式建築の各戸は、街路から少し上がったテラス(Stoep)を経て右手の玄関に持ち、その左手に居室(Sa'lon)と奥に広間(Zaal)を、そして中庭(Binnenplaats)を経て一番奥の台所・トイレ・召使部屋などを配置している。広間の階段を上がると、踊り場位置に中二階と、上がりきった二階広間の両側に寝室(Slaapkamer)を置き、街路側と中庭からそれぞれ採光が取れるようになっていた[Breuning1956:36-37]。このようなオランダから移植された住居建築とその生活習慣は、居住地が限られてる間はほとんど変化せず、ド・ハーンによれば18世紀初め頃までオランダ人居住者は海風に当たると病気になると信じ[De Haan1912:433]、海風が吹く間窓を閉め切っていたと言うから、室内は非常に暑く、不快であったろう。

このような街屋は18世紀になっても維持され、トコ・メラ(Toko Merak)は旧バタフィア市内に存する数少ない街屋建築である(図2-31)。1730年頃に総督イムホフ(Baron van Imhoff)によって建設され、17世紀に建設された街屋と比較するといくつかの変化が見受けられる[Wa111943:27-48]。第一に窓がガラスの入った上げ下げ窓となり、また開口面積が大きくなったこと。第二に軒の出が深くなったこと、第三に中庭や後庭を利用するようになり、奥行きがより深くなったことなどが目につき、それぞれ熱帯居住への適応であると考えられる。ところが、城内建物の更新はあまり進まず、このような変化は次節で述べるように郊外の住居に顕著である。

以下、バタフィアを通してみたオランダの城塞都市の街作りと居住施設建築の特徴を次のようにまとめることができるであろう。

(1) 要塞商館と城塞都市の分離。これは、VOCが自らの権益を要塞商館内で守り、力の及ばないところは自由市民を初めとする商人に担わそうという方針にのとって彼らを城塞都市に居住させた。

(2) 運河システムに基づく街作り。アムステルダムに代表されるオランダの街作りに則ったものである。

(3) VOC丸抱えの建設活動。住民を増やすために、初期にはVOCが民間の市民の居住施設まで用意した。

(4) 街屋建築。VOCは街路に沿って連続式街屋建築を建て、城塞都市内の住民に貸し与えた。奥に小さな中庭を備えていた。

(5) 均質な街並。VOCの計画の下に統一した規格で一気に建設されため、均質な景観を作り出し、それは現地民居住地とは好対照をなしていた。

3章 オランダ植民地の一戸建て井住居

前章では、商館や植民地都市の限られた居住空間での住居を取り上げ、その特徴を明らかにした。それらがほとんど現地適用していなかったが、ポルトガル支配下のゴアのように郊外居住地を持つところでは、熱帯という気候風土と、植民地社会という条件下で、本国にもない生活様式と住居が形成されつつあった。それを直接引き継いだのは、VOC下のオランダ人の活動であった。

3.1. 初期ランドホイス

バタフィアの都市住居は短期滞在の会社職員は我慢できたとしても、植民地で富と名誉を手にした富裕階層はそうではなかった。バタフィア建設からおよそ40年たった1660年代にバタフィアに滞在していたニューホフは、チリウィン河を少し遡ったところに市民がとても快適な庭園と邸宅(land-huis)を持っていると述べている。その一つ、キャプテン・バーグスの屋敷は「その周囲にはあらゆる種類のインド産の樹木が植えられ、インド風(indisch)に建てられていた」[Nieuhof1682:282]。また、ストランドウィッチの屋敷は「とても天井が高く、快適にできており,またファサードは美くしく飾られ、さらにたくさんの種類の樹木が植えられ、よく手入れされた庭園があった」[Nieuhof1682:282]。郊外の一戸建て住居は、庭園を中心に明らかにオランダ母国のものから変化しており、現地適応が始まっていた。17世紀末のこのような建物の具体的姿は不明であるが、18世紀半ば以降のものについてはラッハとブランデスが残した絵画から知ることができる。

1760年代、バタフィア城内から南下する街路が造られ、その両側のモレンフレイト(Molenvleit)地区に屋敷が立ち並び始めていた(図3-1)。1804年の首都機能のウェルトフレーデン(Weltervredeen)地区への移転にともない、さらに南方の開発が進み、多くの屋敷が街道沿いに点在するようになっていた(図3-2)。パラ邸(図3-3)やアーノルド邸(図3-4)に見られるように、街路には運河が並行しており、それぞれの屋敷は水を引き込んだりして親水性を高め、また庭にはたくさんの植物を植えていた。建物は、煉瓦造2階建てに漆喰仕上げ、桟瓦葺きとして、その後方にサービス用の付属屋を備えていた。さらに、建物や庭は左右対称に配置され、手の込んだ装飾が施され、バロック様式が大流行していた(図3-4,3-5)。ほとんどの屋敷の所有者はVOCの高官であり、在任中多額の資産を蓄え、本国から建築家を雇い、贅を尽くしたランドホイス(Lund-Huis)を建てた。

子細に眺めると、それは本国の建築を基本としながらも、いくつかの変化が見られる。まず、屋敷地には日射を遮るように住居の周りに高い植栽が配置され、またジャワの伝統的建築がパビリオンとして建設されることもあった(図3-6)。主屋建物そのものも軒が伸ばされ、庇が付加され、建物正面に半屋外の空間(ギャラリー)が誕生していた(図3-7)。さらに、さらに開口部上に覆い、カーテン、簾など、さまざまな日除けが工夫されていた。特に、主屋のファサードに増築されたヴェランダは重大な変化であり、建物の表情をまったく変えてしまうことになる。

3.2.クレルク邸

このランドホイスがどのような平面と細部をしていたのか、クレルク邸を参考にしてみてゆく。この建物はバタフィア南郊のモレンフレイト地区に第21代VOC総督クレルクが1755年に建設したもので、現在インドネシア国立公文書館として修理再利用されている。幅32メートル、奥行き71メートルの敷地のほぼ中央に主屋が置かれ、その前方は庭園、後方はサービスヤードとして使われていた(写真3-1)。主屋の両側には小さな翼屋が付き、典型的なバロック様式の建築である(写真3-2,3-4,図3-8)。当然のことながら、17世紀から18世紀にかけてのオランダに原型があったが(写真3-3)、植民地のものが圧倒的に規模が大きく、付属棟が多かった。クレルク邸では、後庭がサービスヤードであるとともにその廻りに使用人のための家屋が用意され、主屋とは歩廊で結ばれていた(図3-8)。主屋は一枚半のレンガ壁に漆喰仕上げとし、幅18メートル、奥行16メートルの総二階建てで、正方形に近い平面のため一つの寄棟屋根とすることができず、上空から分かるように三列の屋根となっている。二つの谷に溜まった雨水は、中央ホールに設けられた縦樋を通して外に排水されることになっているのが、降雨の多い熱帯モンスーン地帯では無理な作りのように思われる。

各部屋が約6メートル四方の平面に、約3.6メートルの天井高と大きく(写真3-5)、また開口部が最低二方向に取られて通気性がよく、これらは熱帯における快適室内環境を追求した結果、本国のランドホイスから変化したのであろう。変わらなかった点は、主屋の四隅に個室が、また中央に家族のための居間ホールが配置されており、オランダ本国と同じように内向きの生活様式を踏襲していた。

3.3.インデシュ化

18世紀後半、VOCの財政状況は悪化し、総督フォン・イムホフはその立て直しのために農業開発を奨励した。イムホフ自身、バタフィアから約60キロメートル南方の高原に別荘を開き、そこをバイテンゾルフ(現ボゴール)と名付けた。バタフィアからボゴールに至る街道沿いに多くの農園が開かれ、1798年ジャワがオランダ直轄植民地となるとさらにプランテーション開発が進んでいった。オランダは、1804年から一時期フランス支配下に入り、1808年親仏派の総督ダーンデルスはナポレオンばりの改革を実施した。行政拠点をバタフィア城内からモレンフレイト南方のウェルトフレーデン(Weltervredeen)地区に移し、さらに南方のスネン(Senen)に病院を新設した(図3-9)。ウェルトフレーデンにはパサールバル(Pasar Baru:新市場)という商業地、スネンには華人街がそれぞれ形成され、ジャワ在住ヨーロッパ人にとっても郊外居住は不便なものではなくなった。

バタフィア南部では多くの砂糖やコーヒーの農園が開かれ、その広大な敷地にプランテーション住居が建設された[Wall1952:61]。その中でポンド・グデ(Pondok Gede)邸が最大のものであったが、1990年代に住宅地開発のため取り壊されてしまった(写真3-6,3-7)。チリリタン・ブサール(Cililitan Besar)邸(図3-10)とチマンギス邸(Cimangis)(図3-11)は現存しており、これらの外観はまるで小山のように寄棟屋根が高く聳え、その軒廻りに広いギャラリーが廻らされている。小屋組を視察調査したところ、ギャラリーの垂木は後から継ぎ足されており、また実測図面からもギャラリーを支える柱位置が梁位置に合致せず、当初はクレルク邸と同じように内向型平面のランドホイスであったことが分かった(図3-12)。桟瓦を使っているチリリタン・ブサール邸は遅くても19世紀前半に、またモニエ瓦に葺き替えられているチマンギス邸は、19世紀末にギャラリーが付け加えられたと考えられる。ポンド・グデ邸、チリリタン・ブサール邸、チマンギス邸は、ともにギャラリーの幅は4メートルを越え、外周に列柱を配置して軒を支えている(図3-13)。一見、ジャワの伝統建築のプンドポ(pendopo)の屋根形態に似ているが,これはあくまで軒の延長によって生まれたものである。

18世紀末のVOC破産によるオランダ領東インドの成立から始まり、19世紀初頭フランス統治時代におけるダーンデルスによる交通網の整備と内陸開発、続くイギリス支配時代にはラッフルズらによるジャワ文化への親密化により、数十年間の間にジャワ在住ヨーロッパ人の目は現地の農業及び文化資源に向けられるようになった。ヨーロッパ人住居における外ギャラリーは、この政治経済状況の変化に間接的に呼応して、初めから主屋と一体に建設されるようになっていったようだ。1770年代のバイテンゾルフの農園を様子を描いたラッハの絵には、素朴に軒を伸ばしてギャラリーとした住居が紹介されている(図3-14)。ギャラリーをファサードと一体化した農園住居の最初期の1例としてグロゴル地区のパルメラ邸(Palmerak;現パルメラ警察署)があり、18世紀末にA.ハルスンク(Andries Hartsinck)がここで農園を経営していた[Heuken1983:206]。深い庇は増築であるが、当初から1階建ての主屋に2層の正面ギャラリーが付けられていた(図3-15, 写真3-14, 3-15)。中央ホールはちょうどT字型にギャラリーに直交して配置されている。このように、農園住居では正面に特に大きなギャラリーを設置することは、農園の経営の都合から必要だったのかもしれない。

19世紀に入ると、ヨーロッパ人の住居はその正面は当然のこと、敷地が許せば2面に、あるいは4面全部にギャラリーが巡らされていた。ジャワ在住ヨーロッパ人といってもさまざまな階級・階層があり、19世紀後半はそれに応じた規模と装飾のインデシュ住居が作られ、下級官吏には中央ホールを持たない単純なものがあった(図3-16,写真3-16)。

以上のように、ジャワでは18世紀末にランドホイスに外ギャラリーを付加する現地適応が始まり、19世紀前半には一体として建設されるようになった(図3-16,写真3-19)。これには当時の政治経済の変化が大きく影響しており、それは生活様式にも及んでいたはずである。バロック式ランドホイスは明らかにバタフィアに事務所を構えるオランダ人建築家がいたことを示しているが、19世紀に入ると本国流行の様式を植民地で忠実に再現するのではなく、広い室内、広い開口部、前面ギャラリーなど、現地適応を志向したように見える。そのことを考察する前に、次章ではイギリス植民地都市における一戸だけ住居の成立を見てみよう。

4章 イギリス植民地の一戸建て住居

4.1.英領インドのパラディアン・ハウス

1773年、イギリス政府が東インド会社の経営に参加するととも、インド植民地の拠点都市としてカルカッタの本格的建設事業を始めた。バタフィアの創設時との大きな違いはすでに周囲に大勢の現地住民がいたことで、イギリスは明確な居住地区分を行い、現地住民居住地に不介入の方針をとった。そうして、政府はもっぱら防御施設、行政施設、そして官吏用住居を整備すればよかった[飯塚1983:108]。単身下級官吏のためのライターズビルディング(Writers'Building)を除くと、官吏は階級に応じた規模の一戸建住居がチョウリンギー地区にあてがわれた。ヨーロッパ人商人たちも、事務所を業務地区に置くものの、自らの住まいは治安のよいチョウリンギー地区周辺に一戸建ての屋敷を建てて住んだ。そのため、ゴアやバタフィアと違って、ヨーロッパ人住民が暮らす市街地は形成されることはなかった(図4-1)。

当時、イギリス本国ではバロック様式の一つであるパラディオが隆盛期であり、公共建築の手本とされただけではなく、多くの郷紳や貴族によってカントリーハウスが建てられていた。この様式にはラスチックの基層階、ポーチコ、ギャラリー、ヴェネチア窓などの外部装置が目立ち、また表情が豊かであったが、余計な装飾は極力配されていたようだ。イギリス東インド会社は、本国政府と同じように工務担当部局を持ち、その長官職(Surveyor General)に本国の有名建築家を任命していた[Nilsson1968:101]。イギリス建築界の名門家系出身のチャールズ・ワイアットは、1784年にベンガル工兵隊に入り、1799年に総督府の設計を任された(図4-2)。このような大事業を始め、チョウリンギー地区の上級官吏住居の設計と施行は工兵技師(Royal Engineer)が担っていた(図4-3)。

18世紀末、インドの植民地経営乗り出してきたイギリスはパ高級官吏住居をパラディオ様式で建設し、あくまでイギリス的価値観を植民地にも適用しようとしていた。しかし、建設から半世紀たった1830年代の絵図を見ると(図4-4)、高級官吏の屋敷にはたくさんの樹木が生い茂り、さらに日陰を造るさまざまな装置が建物に組み込まれていることに気づかされる。列柱廊や半円形平面のギャラリーが少なくとも建物1面に付き、また開口部に簾がかかり、またその上に覆いが付き、このような住居が英領インドに広まっていた(写真4-1)。

4.2.東南アジアにおける寄棟屋根

東南アジアのペナンは、カントリートレーダー、1786年、F.ライトが現地権力から譲渡を受け、そのすぐ後に東インド会社がここを東南アジアの貿易拠点にした。二代目総督のD.フィリップは、1800年代に街から離れたところにガーデン・ハウスを建設した(図4-5)。これは彼の出身地にちなみサフォークハウスと名付けられ、4周に開放的なギャラリーが廻らされ、インドで適応したガーデン・ハウスが伝えられてきたことがわかる。ただ、屋根の形状に大きな変化が見られ、ペナン・クラブ(写真4-2)やシンガポールのコールマン自邸(写真4-3)は二段の寄棟屋根が建物全体を覆っており、19世紀半ばには中央ホールの上にモニタールーフを持つこのような屋根形態になったと考えられる。シンガポールは1819年に都市建設が始まり、1830年代に上記の建築家G.D.コールマンによって本格的な建築活動が始まる[Hancock1986:52]。彼は自邸では正面に大きなギャラリーを付けたが、その他のほとんどの建築ではポーチ程度に外部要素を抑えている。建築家としてのプライドが過度の現地適応を思いとどませたのであろう。

シンガポールは、初期の市街地とその郊外における住居はほとんど失われてしまったが、ペナンには多数残っている(図4-8)。本研究ではここで旧市街近郊に残る一戸建て住居を実測調査し、その平面と形態の特徴を分析した。初期居住地は18世紀末に港側に開かれ、ヨーロッパ人は北側海岸沿いと内陸に向かうチュリア・ストリート(Chulia Street)に沿って屋敷地を取得していった[Khoo1993:71]。興味深いのは、チュリア・ストリートとその北側を平行に走るスチュワート・レーン(Stewart Lane)では、一戸建て住居が通りの北側に、中国寺廟が南側に配置されていることで、おそらく寺廟は北方を吉とするなんらかの理由があったのであろう。

沿道の屋敷地は広く、その中央に主屋が建てられ、その後街路沿いがショップハウスによって取り囲まれたため、その存在が分かりにくくなっている(図4-9)。よく見ると、ショップハウスの間にアクセス道が取られており、現在その多くは安宿として再利用されている(写真4-5)。梹城旅社(Pin Seng Hotel)(図4-10,写真4-5,4-6)はラブ・レーン(Love Lane)に面し、当初はファサードは開放式のギャラリーであった。正面ギャラリーを入ると中央にホールが奥に伸び、その両側が部屋になっている。ホール奥に階段があり、2階も同じ平面形をしている。燕京旅社(Yen Keng Hotel)(図4-11,写真4-7)も同様に、現在は閉鎖されているが、かつては正面ギャラリーは開放されていた。空き家住居(図4-12,写真4-8,4-9)もそうで、19世紀前半に建設された一戸建て住居は共通して三列配置の平面をしており、正面をギャラリーとしているのが分かる。サフォーク・ハウスのような広大な敷地ではない場合、全周にギャラリーを廻らすことはできなかったと考えられる。

4.3.ページメントのないポーチコ

その後、19世紀末から20世紀初頭に建設された瑞士旅社(Swiss Hotel)や永安旅社(Eng Ann Hotel)は、基本平面は同じであるが、正面にポーチコが付くことがそれまでのものとは異なる。西洋建築であればこのポーチコにページメントが形作られるが、これらの場合まったく省略され(写真4-10)、しばしば中国に由来する装飾が取り付けられている(写真4-11)。このことは、一戸建ての施主がヨーロッパ人だけではなく富裕な華人に移ったことを意味するのであろう。

まとめると、パラディオ様式を基調とする住居建築が18世紀末にインドにおいて上級官吏向けに建設され、日射を遮るために外周に列柱あるいは連続アーチによるギャラリー(ヴェランダあるいはロッジア)が特徴であった。それは西洋古典建築を熱帯に適応させる工夫であり、現地建築からの影響とは考えられない。熱帯モンスーン地帯の東南アジアはベンガル湾沿岸よりもずっと降雨量が多く、寄棟屋根は降雨を建物から排除する寄棟屋根と、熱気を外に排出するモニタールーフは理にかなっていた。このように、インドから東南アジアにやってきたイギリス人の住居には現地適応の変化が見られるが、それは非常に技術的であり、現地文化を摂取することには消極的であったようだ。

5章 まとめ

旧オランダ植民地のジャワでは、18世紀後半から富裕層がより健康な土地を求めて郊外に移り住むようになり、バロック式で大邸宅を建設した。外観ははでな装飾で見栄をはるものだったが、生活自体は内部で完結し、外部から出入りする多くの召使いによって支えられていた。最初の現地適応は庭園造りに現れ、親水場と樹木によって涼をとる工夫を行った。また、農園住居では正面や4周に大きなギャラリーが増築され、外界と一体になる住居を持つようになった。これが住居におけるインデシュ(インド風)化の始まりであり、しだいに初めから主屋とギャラリーが一緒に建設されるようになり、19世紀半ばにはオランダ人下級官吏や商人の住まいとして定着した。

一方、旧イギリス領インドでは18世紀末にパラディオ式で官庁建築と上級官吏住居の建設が始まり、そこに用いられたギャラリー(ロッジア)が熱帯地域の条件下でより誇張されていった。しかしながら、正式な建築家の設計を除くと、東南アジアに広まるとともに大屋根でギャラリーまでを包む込むような形態になり、また小屋裏の熱気を逃がすために二重屋根となり、これは熱帯モンスーンという条件下での現地適応と考えられる。

南・東南アジアで大きな存在であったオランダとイギリスの植民地では、住居建築に以上のような現地適応の相違が見られる。共通点としては、内向的な住居が次第に外向的になり、主屋中央にあったホールがT字のように正面ギャラリーと一体になった。また、ギャラリー(あるいはヴェランダ)は、敷地が十分に広ければ4周に、狭い場合は正面だけに配されており、これらの性格はその後彼らの居住地となる中国と日本の外国人居留地にも伝わってゆくと考えられる。

このコロニアル式住居の中で、より簡素で現地適応の著しいものはバンガローと呼ばれていったようだ。今後の研究としては、香港、上海、長崎を中心にして、コロニアル式住居が東アジアでどのような展開をしていったのか明らかにする必要がある。

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