Southeast Asian City東南アジア都市

Typology of Southeast Asian City: Spontaneous, Immigrate, Colonial and Royal Cities 東南アジアの都市:自発、移住、植民地、王宮のまち

1. はじめに 

東南アジアの都市といえば、1970年代始め人口規模が国内二位以下の都市に比べて極端に大きい首座都市(primate city)の存在が指摘されて以来、世界的建築家設計の建築や低所得者層の自発的居住地が紹介されることがあっても、その首座都市内部や地方都市において既存の街並みや都市建築がどうなっているのか、あまり話題に上らなかったように思う。しかし、そのお蔭で内外の投資家の古い都心部に対する関心が低く、最近まで割合よく街並みと建物が残されることになった。ところが、NICSという言葉に代表される80年代の経済発展によって、ここ数年は都心部の業務地区化や大型店舗化への再開発が、新交通システムとともに計画されるようになり、歴史喪失の危機意識と保存運動が急速に高まりつつある。ここでは、東南アジアの都心部がどのように形成され、現在どうなっているのか報告してみたい。

2. 植民地支配と都市

既存の街並みや都市建築について学術的関心が低かったのは、一つはその都市の成り立ちや性格が強く影響していたように思う。マラッカは15世紀前後現地王国によって建設され、その後1世紀の間繁栄を極めたが、1511年からはポルトガル、オランダ、イギリスのヨーロッパ植民地勢力に4世紀半の間支配されてしまった。このマラッカに代表されるように、都市の起源が植民地化以前の王国にあったとしても、今日目に見える部分はほとんどがヨーロッパ諸国の植民地支配の過程で作り上げられてきた。そしてこの都市遺産は、第二次世界大戦以後独立した国家にとって帝国主義とともに否定されるべきものであった。

都市住民

二つ目の理由はこの都市住民の民族性であり、彼らは植民地時代に移民してきて、経済的地位を高めた人々であった。大多数は中国からやってきた人たちで、それに少数のインド系、アラビア系、ユダヤ系、アルメニア系などの人たちがいた。バンコクのように植民地都市でなくとも、東南アジア都市の中心市街地は中国系の人々(現在は華人と呼ぶ)によって開かれてきたといってよく、その外側に伝統的権力を支える農村住民が生活していた。独立したばかりの若い国家にとって、国家的アイデンティティをこの伝統的民族文化に求めることは至極当たり前のことであり、そのため植民地支配を通して強められたコスモポリタン的な都市文化は政治と学術の二つの側面から無視されがちであった。

ガーデンシティの夢

もう一つの問題は、植民地時代後期から行われてきた都市開発の方向である。そこでは人口集中の激しい既存都心市街地をそのままにしておき、もっぱら中高所得層の公務員や会社員のために郊外に新住宅地がどんどん開発されたことである。クアラルンプールのプタリン・ジャヤや、ジャカルタのメンテンとクバヨラン・バルは、明らかにE.ハワードのガーデン・シティ構想から大きな影響を受けて作られ、曲がりくねった街路と植樹が一戸建て住宅を包み込んでいる。

すでに、1907年版『ガーデン・シティ』の中で、ハワードは「イギリスだけでなく帝国の全てをガーデン・シティで覆ってしまいたい」と述べ、またニューデリーの完成を前にして計画委員会長のG.シントンは「ガーデンという言葉をそれに相応しく適用されないかぎり、新しい都市も街(の建設)も許されるべきではない」と書き記している。帝国主義時代はガーデン・シティを建設することが現地に文明を与える一つの手段であり、その後の独立国家にとってそれは自らの都市を近代化する方法であったのかもしれない。

3. 独立後の都市問題

自発的居住地と低所得層住宅

一方、1960年代から70年代にかけて産業開発ともに工場労働者や各種都市サーヴィス業従事者が都市の空隙に自発的居住地を築き、その住環境問題が顕在化するのは当然のことであった。自発的居住地をなくすため、マレイシア政府は80年代大量の低価格住宅を建設し、最近の統計と五カ年計画報告によればこの住宅供給が低所得層の自発的居住地の解消に大いに役だったとされている。インドネシアのカンポン・インプルーブメント・プロジェクトを含めてこれらの事業の評価はさておき、既存都心市街地とそこの建物の問題は一番最後に取り残されることになった。

都心再開発:シンガポールの事例

シンガポール政府は、郊外高層公共住宅の建設によって低所得層の住宅問題をいち早く解決し、1985年からは都市再開発局(Urban Redevelopment Authority)を通して、植民地時代初期に建設されたいわゆるショップハウスの街区をチャイナタウンとして修景保存し、観光資源として再開発することにした。保存指定を受けた地区で最も古いクレタ・アエル地区では、建物を借りようとする者はマニュアルに沿って建物を修復管理することを約束しなければならない。戦前多数の日本人も進出していたブギス・ストリート一帯の修復手法はこれとは異なって、一旦すべての建物を取り壊し、外観をかつての姿に似せただけでまったく新しい材料で作り直している。ここは、20年前はその猥雑さから入って行くのも勇気が必要であったが、改修後は誰もが安心してその新しいチャイナタウン的雰囲気を楽しめるようになった。

4. 観光産業と街作り

消費型観光都市

このような国家主導の大がかりな事業が可能になったのは、植民地時代から土地は政府のものであり、その土地の利用権だけを民間が借り受けるという土地制度抜きには考えられないが、それに加えて東南アジアにおけるシンガポールの地理的・政治的好条件があげられる。香港も似たような条件を持っており、この二つの都市では購買、飲食、異国体験などの消費型の観光産業が都心部の性格を大きく決めている。この消費型の方向をさらに押し進めたのがチャイナタウンであろう。

チャイナタウン

ところで、私たち外来者は東南アジアの市街地が華人によって占められているのでチャイナタウンと呼んでしまうが、現地ではそうではない。というのは、この地域の市街地は歴史的にほとんどが彼らによって作られてきて、あえて華人街あるいはチャイナタウンという必要はなく、実際マレイシアやインドネシアではプカン(pekan)あるいコタ(kota)と言えば通じた。さらに、もし牌楼など「中華」の意味を込めたデザインを施したなら、大多数を占める周囲の他民族との間に波風を立てることになったであろう。現在であればなおさらのことである。

それが存在し得るのは、東南アジア諸国ではなく中国のプレゼンスが小さい日本や欧米である。そこではコスモポリタンから望まれる都市的サーヴィスを集中的に提供するために、中国系移民者たちは周囲の市街地から分別して広告塔のようにチャイナタウンという言葉と中国的装飾を使っている。シンガポールは東南アジアの唯一の例外であり、ここの政府は旧市街地をチャイナタウンと名づけて再開発するほど安定と自信を身に付けたのであろう。しかし、さすがに牌楼はない。

周囲の東南アジア諸国に華人問題が存在している間は、シンガポールのチャイナタウンは都市型観光の目玉として繁盛を続けるであろう。このような観光産業は、シンガポール以上に他の東南アジア諸国の場合その国家経済において重要な役割を果たしている。直接外貨が得られることは魅力的であるが、経済格差の大きい先進国向けのリゾート型観光開発は現地社会や自然環境を歪めている例が指摘されており、今後現地社会側からの視点に立った地域開発が必要なのであろう。

文化遺産型観光開発

古い市街地に結び付くのは、チェンマイやジョクジャカルタなどの文化遺産型観光開発の方向である。これらの都市は、それ自体が世界的な文化遺産と認められていたり、あるいは近隣にそのような宗教建築が存在している。そこには内外から多数の観光客の訪問が望まれるから、ジョクジャカルタのマリオボロー通りのように中心市街地を観光産業を中心にして活性化をしやすいのであろう。

このような可能性があるのが、マラッカ、パタニやホイアンなどの伝統的港市の街並みでがある。前述したように、近代国家確立時期の主要民族文化発掘の陰に隠れて政治的にも、経済的にも取り残され、かつての繁栄は失ったが、死んでしまったという印象はない。そもそもこれらの都市は、東西間の、あるいは内陸と海の間の物資の流通拠点として成立し、そして華人がもっぱらその機能を担っていたところで、近代的交通システムから取り残される運命にあったともいえる。反面、鉄道や幹線道路が入り込まなかったお陰で、幸運にも100年以上も前の街並みがそのまま生き残ることになった。

活気を失わない理由は、多くの働き手が首都や地方大都市に出て行っても、華人の祖先崇拝の伝統のために管理者に対して各地からお金が送られ、また宗祠や公司に頻繁にお参りをするからで、建物は外見上良好に維持されているようだ。つい最近ホイアンを調査する機会に恵まれたが、ヴェトナム戦争や家族の離散に会っても、一部に崩壊したものがあったが、ほとんどの建物はよく手入れされてきたことに驚いた。

ホイアンの精巧な伝統木造構法の街屋とたくさんの宗祠、マラッカの煉瓦にスタッコが塗られ、東洋と西洋の装飾の付いた街屋、さらにどちらも街路全体としてのまとまりがあり、東南アジアにおける貴重な街並みである。両都市とも平行して走る長さ2~300mぐらいの二本の街路を中心にした範囲内で、すでに一部の街屋は個人的な博物館やみやげ物として改装されており、このような所有者側の活動と行政が一体となって、保存ガイドラインの作成、衛生施設や交通路などのインフラの整備を通して街並みの保存と活性化を推進できると思う。

5. 熱帯都市居住を強化する

問題なのは、顕著な文化遺産も都市的特徴もないジャカルタ(コタ)、スマラン(プチナン)、クアラ・ルンプール、ペナン(ジョージ・タウン)、バンコック(ヤワラート)、ホーチミン(チョロン)、ハノイ(三六街)などの旧市街地である。これらは都市の中でも最も古く、今日でも人口密度が高く、繁華街となっている。しかし、近年住民の都市生活と街並みは、都心部への大資本の進出のために大きな変容を強いられつつあるように見える。このような市街地では、観光開発のためではなくこれまで以上に都市居住を強化するために自らの文化の見直しが必要なのであろう。

郊外一戸建てから都市住居へ

なぜ強化する必要があるのかは、非常に特徴的な歴史遺産の建物あるいは地区であればそれを守るということでよいのであろうが、急激な人口増加が進んでいる東南アジア諸国ではその人口をできるだけ都市住宅が吸収することが望ましいと考えるからである。それはこれまでの生活様式を急変させず、また都市の賑わいを失わせることがないだけでなく、田畑と森林を食い散らして拡大する郊外一戸建て住宅開発と違って、こちらのほうは熱帯の自然環境の崩壊を極力避けることができる。では、熱帯において既存の都市居住がどのような歴史と評価を持つものなのかを検討してみたい。

市場と仮泊地

ヨーロッパ諸国が植民地都市を建設する以前から、アジア系の人たちによって東南アジアの港市に居住地が開かれ、そこでは東西へ送られる商品とともに、その居住地で消費される農産物が取引されていた。その中心的活動をしていたのが華人商人で、彼らの家は水運に便利なように河岸に沿って連続し、また取引の場となる街路が内陸側に走っていた。そのため、街路に沿った一階部分は大きく開いた見世屋になり、そこでは薬用産物や香辛料などの割合貴重な品物が売られた。このような固定式商売の他に、街路には住民が日常消費する品々を売る路上商売や行商がいた。このようにかつてマラッカ、パタニやホイアンの華人街は、一つの市場となって日中人と物で賑わっていたのであろう。

この港市の華人の都市居住は基本的にヨーロッパ植民地都市の中でも維持されたが、大きな違いは都市の規模が格段に大きくなり、そして公的部門の維持管理のために求められる多大の労働力がここに居住するようになったことであった。さらに、プランテーション開発などのためにも労働力が海外から求められるようになり、新来者たちはまず華人街を当座の宿泊地とした。二階以上を小さく間仕切って家族ごとに、あるいは寝台ごと賃貸され、移民が最も増えた19世紀末から20世紀にかけて植民地政府から鳩小屋と比喩されるほど狭小高密で、不衛生な居住環境になった。植民地政府は上下水道を整備し、また火災に供えて背中合わせの住宅に進入路を設け、さらに一部では高層化を実現したが、抜本的解決にはならなかった。

都市住居としての評価

各国が独立し、移民を受け入れなくなり、さらにシンガポールやマレイシアのように低所得層向住宅の供給によって、上記のような都市居住の問題は一見沈静化していったかのようである。しかし、最近の調査によればシンガポールを除くと一棟をいくつかに分割して数家族が住み、依然として高密度居住が続けられているのがわかった。実際、ペナンでは二階建街屋一棟に同族25人が住む例や、また一棟を分割して4家族が生活する例が見られた。移民が急増したとき確かに住環境悪化という事態を招いたが、このような高密都市居住には近代的な居住環境評価基準では計れない、彼らにとっての便利さと快適さがあるにちがいない。

その答えの一つは歴史的に女性人口が少なかったことと、最近の女性の社会進出が盛んなことが関係しているように思える。このことが家庭内労働を極力少なくすることになり、料理、洗濯、掃除などは外部労働力に依存することになった。料理に関して最近のペナンや香港の調査によれば、割合台所が狭く、調理設備が貧弱であり、夕食を除くと食事は外部で済ますことが多い。スナック的な飲食業と、さまざまなサーヴィス業が周囲に多いのはそのためにであり、それが街路に沿って活気のある特徴的な空間を作り出している。このような都市居住は東南アジアで成立し、発展したのであろう。

第二はその街屋形態で、往来や商売空間から生活空間が物理的にも精神的にも明確に区別されており、中庭に入ると外の喧噪が嘘のようである。各部屋は中庭に対して必ず一つ以上の窓が開いており、採光と通気が計られている。さらに、歴史的市街地には三階以上

の街屋がないので、風の通りを遮ることがない。実際生活してみると、室内は一戸建ての住宅よりも涼しいように感じられた。その理由は熱帯においては光は熱であり、できるだけ建物の外部に日射が当たらないのがよく、街屋形式の場合は屋根と中庭周りが日射に晒さられるだけである。熱帯都市住居としてかなりの完成度をもっていると考えられる。

大きな欠点は、商売と住宅が一体となり大家族制に適した作りになっているので、現在の家族制度と規模に合わせて一棟をいくつかに分割賃貸した場合、奥の方に行くのにどうしても別な住戸を通らなくてならないことである。しかし、この問題は共有壁に沿って階段と通路を設けることで解決できるように思う。また、上下水道の不備の問題があり、衛生施設を中心にしたインフラの整備も急務であろう。

6. おわりに

これから都市人口の急増が見込まれるこの地域では、それを支えるべき都市居住をどのようにするのか岐路に立たされているといっていい。現在郊外にスプロールしている一戸建て住宅開発は見直すべきだし、そしてコンパクトな既存の都市居住を生活様式と住宅形式において再評価すべきであろう。文化遺産の維持には適当な観光開発は不可避であるが、東南アジアの既存市街地の中でその線で保存できるところは多くない。他の都市では一定の区画に限って保存する可能性もあるが、それにも増してその特徴的な都市居住を維持する方法を考えるべきであろう。そのためには、もう少し業務機能を取り込みながら4、5階ぐらいまで高層化するべきなのかもしれない。

すでにこのような試みはなされており、タイやマレイシアやインドネシアの都市部では依然として1、2階部分を店舗や事務所にしてそれ以上を住居にした新しいショップハウスが建設されているし、インドシアではそれ対してルコ(ruko=rumah toko)という新しい言葉が作られもしている。しかし、建物内部には空間のヒエラルキーと中庭がなくなり、冷房を施した部屋中心の閉鎖的な作りになっている。日本では近代以降都市居住の形成が不十分であったが、これから東南アジアでは過去との連続性を持った新たな街屋が形成されることに期待したい。

1.はじめに

これまで筆者は,アジアのイギリス植民地都市の形成過程とその特徴を調べてきた。19世紀初頭までインドで建設されたイギリス植民地都市は,飯塚キヨ先生が指摘するように行政地と軍営地から構成され,現地人居住地に対して積極的な関与はしなかった注1)。それに対して,1823年にT.S.ラッフルズが主導したシンガポール都市計画は現地人居住地の計画を主眼とするものであった。

この都市計画は,できるだけ多数の中国系住民を統一的景観の市街地に住まわせるために,街路の両側にアーケードの付いた連続街屋の建設を規定した。その後,同じ手法がイギリス植民地であった連邦マレイ州(現マレイシア)や香港の都市建設に導入され,さらに都市近代化を進めるシャム(現タイ王国)や民国政府下の中国,日本統治下の台湾の都市建設のモデルとなった注2)。

アジアの西洋植民地都市では,西洋人は行政官や特権的な商人たちであり,その他の大多数の生活者は現地人であった。また彼らのうち商人は僅かで,多くは港湾荷役や公共事業工事の労働者であった。そのため,現地人居住地はこれらの人達の宿泊地でもあった。彼らのほとんどは単身者であり,また移動が激しかったので,ここに飲食,金融,医療,旅行などのクィックサービスを提供する職業が集中することになった。そのために,一階を店舗あるいは事務所にして、二階以上を居住施設とした街屋建築は非常に都合のよいものであった。

ところで,かつて植民地都市であった市街地を数多く眺めてゆくと,以上のように華人(中国系住民)の居住地は植民地権力によって規則的に計画されたにも関わらず,その内部のさまざまな施設がある定まった場所を占めていることに気づかされる。その中でいつも重要な位置を占めているのが媽祖廟あるいは天后廟注3)(表1)で,おそらく華人たちはそれを中心にした独特の空間配置の手法を持っており,それが居住地建設に反映されたのであろう。

本稿では複数の居住地に共通して見られる空間配置を居住地パターンと呼ぶことにし,それがどのようなものであるのか,またどのようにして形成されてきたのか明らかにしたい。また,西洋植民地権力と関係なく,華人たちが割合自由な居住地作りを行なった所謂南洋華人街注4)や,華人たちの出身地であった中国南部沿岸の居住地とどのような相違があるのか検討する。

2.植民地都市内の華人街

筆者が最初にこの居住地パターンの存在に気付いたのは,マレイシアのマラッカとペナンであった。マラッカは14世紀末にマラッカ王国の首都として建設され、すぐに東西の交易船が立ち寄る国際港となった。このように南洋港市国家としての背景を持っていたが,今日の市街地が形成されるのは1641年にオランダが支配してからである。それとともに,かつてはマラッカ川を少し遡ったところに華人やジャワ人たちがそれぞれ居住地を築いていたが注5),しだいに中心部を華人たちだけが占めるようになった。

ランドマークとなっているのは青雲亭(Cheng Hoo Tien Temple)で,1645年に天后を奉る祠堂として建設された。興味深いのは第一にその位置で,川幅が広かった時期には川岸に面し,前の広場は河岸になっていた。第二は青雲亭の向きで,現在は建物が視野を邪魔しているが,かつては川岸の向こうの軸線上にブキット・チナ(中国丘)を望むことができた。第三は,北西方向に関帝廟といくつかの公祠があることである(図1)。16,17世紀の華人街の空間配置をまとめると,青雲亭と河岸が向かい合い,その北西方向に関帝廟と公祠が配されていた。

ペナンの場合,18世紀末にイギリス人によってマレイ半島から1キロ程離れた島の入江に居住地が開かれた。マラッカと違って,埋め立てによって海岸線が遠くなることはあったが,二百年ほど前の街路配置がそのまま残っている。19世紀を通して最も賑わっていたのが中国街(China Street)で,これは河岸と観音廟を結んでいた。観音廟は,現在は仏寺になってしまっているが,中に天后が安置されているようにもともと天后廟として建立されたものである。

その左手(南西方向)には関帝を祭った廣肇会館,さらにその向こうに氏族ごとに祖先を祭った氏堂あるいは宗祠がある。そうするとここでも,河岸と観音廟の西南方向に関帝廟と公祠が並ぶことになる(図2)。シンガポールの旧市街地は埋め立てによって初期居住地の形態は大きく崩れ,確認ができなくなっているが,同様な施設と配置はペナン設立からほぼ百年後に建設されたクアラルンプールでも繰り返されており(図3),これはイギリス植民地都市内の華人街にあって普遍的な居住地パターンと考えられる。あるいは,もともとこのような華人街が存在していたところにイギリスが植民地都市を建設したのかもしれない。実は,西洋植民地権力が進出してくる以前に,すでに多数の華人街が南シナ海沿岸に築かれており,この南洋華人街は前者とどのような違いがあるのだろうか。

3.南洋華人街---ホイアンを中心に---

南シナ海沿岸のほとんどの歴史的居住地は南海物産の集積や交換に適した場所に築かれ,現地港市権力から民族ごとに半自治権が付与されていた。最も多くの居住地を開いたのが中国系の人々たちで,これは南洋華人街と呼んだほうが相応しいであろう。中国語史料やポルトガル語史料には多数の多数の華人街が存在していたことが記されているが,その後衰退,消滅したものが多く,今日当時の姿を伝えるものは少ない。その中でインドシナ半島東海岸とボルネオ島西海岸の居住地は特異な存在である。

ベトナム中部に位置するホイアンは,17世紀末まで日本人の居住地があったことで知られているが注6),当時から居住者の大多数は華人であった。現存する古い建物は当時川岸であったチャンフー街の北側に集中しており,最近の考古学及び建築学の調査によればこれらの建築は華人によって建てられたものである注7)(図4)。その中で最古の建築は福建会館(1757年建立)であるが,前身は天后廟として1671年に創建された。建設年代だけではなく,この建築は配置においても特徴的である。まず,ほとんどの建築が街路を向いているのに対して福建会館だけ南西方向に振れており,古老によればこれは軸線上にある茶眉山から放出される気を受け止めるためだという。マラッカにおいても同様な方位観が見られたが,これらは同じ理由によるものであろう。

次に福建会館だけ街路から奥まって配されており,その正面の広い敷地はかつて河岸として機能していたことがわかる。その後川岸は土砂の堆積によって前進し,フランス植民地時代には拡張した街路の中に市場が建設され,伝統的な河岸の姿は消えてしまった。福建会館の西方には中華会館とたくさんの公祠が分布し、さらにその向こうには関帝を祭った廣肇会館がある。このようにホイアンでも天后廟と河岸の組み合わせがあり,またその西方に関帝廟と公祠がおかれているのである。

第二の特徴は,この居住地が面するトゥボン川の中に二つの中洲が見えることである。上流側のものは現在岸にくっついてしまったが,二つの中洲は青龍と白虎という中国の四神相応あるいは五行説に則ったものであろう。同じような配置はフエの初期華人街(図5)やフエの京城でも見られ、これはヴェトナムの華人街の大きな特徴である。清軍に追われて南方に落ち延びた旧明朝官吏たちが,居住地の建設に関与したのかもしれない注8)。

三つ目の特徴は仏寺の配置である。天后廟はその後仏寺に改修された事例が多いが,ホイアンでは福建会館の東側に独立した仏寺が建てられている。タイのパタニにおいても林娘廟の東側に仏寺が配置されており,文明である仏教が光明とともに東方から現れるという中華官僚思想の反映に違いない。このようにベトナム東海岸の南洋華人街は,植民地都市内のそれにはない複雑な空間配置を持っている。

これとは対照的に,ボルネオ島西部の華人街は非常に単純である。18世紀初頭に多数の客家系中国人が移住してきて,その世紀末には彼らは半独立王国を樹立したことが知られている。同時代のオランダ人の地図には川に沿ってムンパワ,スンガイ・プニュやモンテラドなど多数の居住地の名前が見え,上流から産する森林・鉱山資源を集めて輸出し,とてもに繁栄していた。ところが今日そこを訪ねてみると,川岸に沿って十数戸の家屋が建ち並ぶ程度の小村か(図6),場合によっては消え去ってしまっている。

ボルネオ島西部では,内陸の物産が商品として注目されると集積基地として一気に居住地が出現し,またその枯渇とともに急速に消滅する,とても栄枯衰勢が激しいところなのであろう。居住地形成のフロンティアといえるかもしれない。そのためここでは南洋華人街が今でも再生産されており,その原型を見いだすことができる。すなわち,河岸と天后廟を東に置いて,西方にいくつかの家屋が並び,一番外れに土地公が置かれている。

このような単純な居住地形態は,香港や台湾などの中国南部の離島にも見られ(図7),これが南洋華人街の原型なのかもしれない。ボルネオ島西海岸の南洋華人街と異なるところは,その居住地は廟によって永続性を保障されていることである。というのは,人々は居住地とともに媽祖あるいは天后廟を築くと,国家の承認を得るために寄進し,代わりに皇帝から鐘が贈られた。これによって住民たちは,居住地を勝手に移動,消滅させることはできなかった注9)。媽祖あるいは天后はもともと土着信仰であったにもかからわず,5月の天后誕生日前後には京劇団が集落を巡回し,これは辺境の住民に中華のアイデンティティを擦り込ませる手段であったのだろう。では,この信仰の発祥の地であり,中心地であった福建・広東省沿岸の都市はどうなのであろう。

4.福建・広東省沿岸の都市---城市と河岸部---

この地方の都市は,今世紀初頭の民国政府によって都市近代化事業が実施され,また文化大革命期に道教や土着信仰の施設が取り壊され,さらに近年開放政策によって急速に都市再開発がすすみ,伝統的な居住地形態を調べるのが難しくなってきている。その中で福建省の泉州は例外で,つい最近まで台湾との戦時体制によって経済開発が凍結されてきた。この都市は,かつてアラビア語資料にザイトンと書き記されていたように,元代から清代初めまで市舶司が置かれ,外国貿易船の入港地として栄え,城外には蕃坊(外国人居住地)が築かれていた注10)。

今日,泉州の市街地は二つの部分から成り立っており,一つはかつて城壁で囲まれていた四角形部分である。これは中国の典型的城市であり,清代までここに行政機関が集中し,主に官吏たちが生活していた。ところが古地図を見ると,城外の川岸の近くにも居住地が広がっており,ここに大多数の商人,職工,労働者たちが住んでいたことがわかる。最も賑わったのが聚寳街で,かつて南海物産をはじめとする各地からの商品と人で溢れかえりマルコポーロなどの外国人を驚嘆させた。

聚寳街は,かつて河岸と天后宮(図8)を結んでいた。この天后宮は1196年に創建され,現存する最古の媽祖・天后廟である。いまだ人々の篤い信仰を集めており,この文化的価値のおかげで文化大革命の嵐をくぐり抜けることができたにちがいない。また,宮の西側には,地名から土地公があったことがわかる。清代に入ると市舶司が福州市に移され,そのおかげで泉州の市街地は割合古い姿のままで残ることになったのであろう。公祠は,今日大家族制度の崩壊によって増改築が著しいが,市街地の西方に多数あったといわれている。

福州もまた城市と河岸部から成り立っており,明代までこの二つは連続していたが,その後川岸の蛇行の変化とともに河岸部が離れていった注11)。城市は四神相応や『周礼』に則り,左右前方には青龍と白虎に見立てた丘があり,また川が北西から東の方向に流れ,さらに真南に小山を望むことができる。城市が典型的な中国的都市計画を色濃く残しているのに対して,河岸部は再開発が著しく進んでいる。古地図を見ると川岸近くに少なくとも相離れた二つの天后廟があったことがわかるが,1994年時点ではそれぞれ家具屋と石灰工場に改修されていた。それでも,その周囲にかつて河岸と天后廟を中心にした居住地パターンが存在していたことを確認することができる(図9)。

広東省の汕頭や広州も,福州と同じように今世紀になってから都市の変容は著しい。汕頭では民国政府期の都市近代化事業によって街路配置が変わってしまったが,今でも天后廟は市街地中心部に現存している。広東省の佛山は周囲を河川に囲まれ,かつては13の舗(区域)に分かれ,古地図によれば少なくともその6つにそれぞれ天后廟があった(図10)。このように,中国南部の沿岸都市には伝統的な城市とは別にもう一つの居住地があり,そこは基本的に河岸,天后廟,土地公の三つによって実体化されていた。

中国南部の沿岸都市では一つの居住地に異なる廟を祭ることはなかったが,南洋華人街や植民地都市内華人街では普通に行なわれていた。関帝廟が西側に建てられ,廣肇会館と別名で呼ばれているように,広東省でも広州から少し内陸に入った慶肇出身者が寄進した。彼らは漁業や貿易というよりも職工業や商売に従事したので,この廟に自らの商売繁盛を祈願した。二つの異なる廟が存在するのは,中国本土で守られていた規範が南洋港市国家や西洋植民地権力の下で崩れてしまったためだと考えられる。また近代になって,諸外国に築かれた所謂チャイナタウンに媽祖/天后廟と関帝廟が併存するのものそのためであろう。

ところで,城市と河岸部は居住地形態だけではなく,住居形式でも異なっていた。城市が中央に中庭を持つ四合院形式によって占められているのに対して,河岸部では間口が狭く奥に深い建物が連続していた。一階の街路部分は店舗や工作場となっており,これは南洋港市の華人街に普通に見られるものである。このように,中国南部の沿岸都市の河岸部は,その居住地パターンと住居形式において南シナ海沿岸の華人街と結ばれていた。

5.華人街の居住地パターン

この居住地パターンの由来と形成過程を整理してみよう。元・宋代に南シナ海を経てインド・アラビアと中国が結ばれ,人と物資が移動するようになった。媽祖の由来から分かるように,この活動の一旦を担うように福建省沿岸の人々は,沿岸近海からしだいに南方へと漁業や交易を拡大していった。貴重な南海物産を求めて遠方に出向くと,貿易風のために船団は往復に一年を要することになった。そうすると,現地に品物を集めて保管しておく人員と貯蔵施設が必要となり,仮泊地が築かれた

生業のための施設だけではなく,彼らは精神的な支えになるものも必要とした。中国南部では船乗りたちは安全に航海できるように媽祖あるいは天后を,また季節風をはじめとする自然のサイクルが毎年順調に繰り返すように五行説や風水説を信仰していた。これらは航海術だけではなく居住地建設にも関わるもので,乗組員に居住地や廟の立地を看る者がいたとしても不思議ではない。また,船に媽祖あるは天后の像を祭っていたから,仮泊地であってもすぐに廟を建設したに違いない。廟は必ずしも南面する必要はなく,基本的に河岸を見下ろす位置に作られた。そうすれば,人は港に出入りするたびに廟を目にすることができた。河岸と廟の間は広くとられ,そこは市場となった。

貴重な商品は河岸から直接荷下ろしできるように,川岸に沿って倉庫等が建てられた。すると裏側には小道が形成され,定住者が増加するに従ってこの小道が生活路となり,そこに面して店舗や事務所が並んでいった。さらに,街路の西端に居住地の安寧を祈って土地公を祭った。南洋に後にやってきた広東人たちは,彼らの主神である関帝を媽祖あるいは天后廟の対の位置に建立した。関帝は商売繁盛の神であり,この前庭も市場として利用された。このようにして華人街が形成されていったに違いない(図11)。

6.まとめ

もう一度南シナ海沿岸の都市を眺めてみると,起源が港市国家であれ西洋植民地都市であれ,歴史的市街地部分には共通した居住地パターンを認めることができる。それは中国南部から移民してきた人々が媽祖/天后に対する信仰を基本にしながら,生業に適した居住地を創造してきた結果であった(表2)。この事実は信仰施設が居住地作りにとって必須といえるほど重要なものであることを教えてくれ,昨今日本でも進んでいる多民族居住に大きな示唆を与えてくれる。

謝辞

広範な南シナ海沿岸の居住地調査は,1993年と1995年に住宅総合研究財団から,また香港と台湾の離島の調査には1996年に国際交流基金からそれぞれ資金援助を受けた。ここに記して謝意を表したい。

参考文献 

1) 飯塚キヨ『インドにおける植民都市の空間構成』大明堂,1985 年

2) 拙 稿『シンガポール都市計画とショップハウス 東南アジア の植民地都市とその建築様式に関する研究その1』日本建築学 会計画系論文報告集413号,pp.161-172

拙 稿『連続歩廊の系譜東南アジアの植民地都市とその建築様 式に関する研究 その2』日本建築学会計画系論文報告集458 号,pp.145-153

3) Purcell, Victor "Chinese in South-east Asia", Oxford University Press, 1952

4) Whatly, Paul, ed. "Malacca", University Malaya Press, 1985

5) 媽祖とは,宋代の西暦960年に蒲田の賢良港の林家に生まれた 女性で,幼いときからシャーマン的能力によって船舶の海難事 故の予知を行ない,28歳のときには眉洲島で昇天した。これ以 後航海安全の神として人々の信仰を集め,福建人の漁業や交易 活動の発展とともに各地に媽祖信仰が広まっていった。さら に,中央に認められるようになると,媽祖から天后や天妃と改 名された。マカオの地名は媽閣に由来するといわれている。沖 縄にも同じようなウナリガミ信仰があり,南シナ海沿岸には古 くから航海安全を祈願する女神信仰があったと考えられてい る。詳しくは,肖一平編『海神天后的史跡初探』1988年,及び 曾昭旋『天后的奇跡』1991年を参照。また沖縄の事例について は,野口鉄郎「那覇久米村の天妃廟」『南島史学』25,26, 1984年を参照。

6) 岩生成一『南洋日本町の研究』岩波書店,1966年

小倉貞男『朱印船時代の日本人』中央公論社,1989年

7) 古田元夫編『海のシルクロードとベトナム』穂高書店,1993年

8) 昭和女子大学国際文化センター編『ホイアンの総合的調査』昭 和女子大学,1995年,pp.34-38

9) 濱下武志『近代中国の国際的契機』東京大学出版,1990年

10) 杜仙洲編『泉州古建築』,1990年

黄世清「泉州民居的演変発展」『福建建築』,1992年, pp.13-16

11) 鄭力鵬「福州城建発展史連載(続)」『福建建築』,1993 年,pp.12-23

12) 泉田英雄他『国際都市形成に関する調査(国土庁委託調 査)』財)ベターリビング,1993年