Indian Surveyインド測量事業

Surveying in British Indiaインド亜大陸の測量事業

地球を測る

測量は、日本では建設活動に付随した技能の一つと見られがちであるが、西欧では立派な個人の職能となっている。イギリスの測量士協会はロンドン中心街の一角にでんと事務局を置いており、その権威の大きさを思い知らされる。天文学や数学と同じようにもともと個人の関心と才能によって発展し、1707年ニュートンは地球の正確な大きさと形状を明らかにするため、子午線の長さの実測を計画していた。彼はこれを実現することはできなかったが、死後1735年に南アメリカでフランス人のコンダミンとボーガー(Condamine & Bouguer)が、また1838年にラップランドでマーピチウス(Maupertius)が子午線の測量に挑戦した。

これに用いられたのが三角水準測量(Trigonometrical Survey)で、地表面に凹凸があっても、測点間の距離を鉛直角で補正することで水平距離を導き出すことができる。実際は光の屈折率などで誤差が生じやすいので、三角測量と天体観測を併用して精度を確認しながら進める。地球の緯度の一度分だけ測れば、その長さに360を掛け合わせれば子午線の距離がでそうなものであるが、地球が正確な球ではないため測量士たちは緯度の異なるところで測定しなければならなかった。

イギリスでは、1745年スコットランドのジャコバイトの反乱後、ワトソン将軍(General Watson)がハイランド地方で子午線測量を開始し、その後ロイ将軍(General Roy)とムージ大佐(Colonel Mudge)に受け継がれて緯度4度弱の円弧の長さを測量した。今日では航空写真や衛星画像を用いることができるが、当時は長さを測るためには重いチェーンを使っており、またテオドライトも今日ほど小形ではなかったので、これらの機器を持ち運び、設置するために大変な労力を要したであろう。測量士の権威が高かったのもうなずける。

このような人海戦術で、最長の子午線測量が行なわれた土地はインドである。この事業を始めたのがウィリアム・ラムトン(William Lambton)で、彼の死後ジョージ・エベレスト(George Everest)が後を継いで完了した。この測量士エベレストがエベレスト山の由来になっている。当時インドでは、イギリス東インド会社が南インドの大王国であるマラータと戦いを繰り広げており、地理情報の把握のために測量技術者が大変活躍していた。その代表者がコーリン・マッケンジー(Colin Mackenzie)で、1783年かマラータ領土を広範に探検し、地形測量を行なった。

彼が実施した測量の記録と、収集したインド文献及び古美術品は今日重要な南インド研究資料となっている。彼は古代遺跡も多数発見し、インド考古学研究の先駆者の一人でもある。

マッケンジーが地理情報の収集にインド亜大陸からジャワ島まで広く駆けずり回ったのに対して、ラムトンは同じ東インド会社の軍事技術者でありながら子午線測量に一生を捧げた。彼はマラータ戦争に従軍した際、インド亜大陸の大きさにいたく感激し、マドラスに帰還すると長大な円弧測量の事業を総督に進言することになった。彼はもともと数学や測量が非常に得意で、この提案も彼の個人的関心から出てきたものであった。しかし、それによって航海術や植民地支配にとっても有効な情報が得られ、さらにインド全土の測量の基礎となるであろうと、1800年総督はこの事業を全面支援することにした。

マドラスには1786年に天文観測所が開設され、初代天文学者のマイケル・トッピング(Michael Topping)が1792年に天体観測に基づいて敷地内に測地基準点(Geodetic Position)を設置した。これがインド最初の測量原点で、グリニッジに次ぐ二次子午線としてインド測量の出発点となった。天文観測所は現在マドラス気象台となり、事務所の後ろにインド測量の記念碑が残されている。写真の中で石柱の姿をしているのがその測量原点で、トッピングが設計したと言われている。

高さ約4m、底部直径約1m、頂部直径約60cmとずんぐりした形をしており、柱頭に十字が刻まれたスラブが載っている。表面には、タミール語、テルグゥ語、ウルドゥ語、そして英語で、これがインド測量の出発点であることが刻印されている。簡単にはスラブをいたずらできないようになっており、見る人に高い安定感と信頼感を与えるが、正直なところ始めて見に行った時その異様な姿に驚いた。

植民地時代インドの測量事業をまとめたクレメンツ・マーカムの著書によれば、この原点の経度は何度も訂正され、ラムトンは北緯13度4分3秒0.5、東経80度14分54秒20と測定したが、1831年に三代目の天文学者となったテーラーは新しい観測機器を使って天体観測を始め、東経位置を80度14分19.5秒に改めた。

さて、子午線測量のために早速ラムトンは東インド会社の軍事技師の中から有能なスタッフを集めた。問題は測量機器であった。彼がやっと手に入れたのは、フランス艦船から頂戴した三フィートのテオドライト、マカートニー訪中使節団が中国皇帝から受け取りを拒否された100フィートのチェーン、そしてカルカッタの天文学者ディンワイディから譲り受けた天頂儀であった。チェーンは40本に折り畳めるようになっており、2フィート半の一本のチェーンの表面に荒く目盛りが刻まれていた。この三つの測量機器は、1802年にラムトンがマドラスの測量原点から出発して、1830年に大円弧測量事業が完了するまで使われた。

マーカムによれば、彼は次のような手順で三角測量を実施していった。第一に、三角形の底辺となるベースラインのための場所を選定した。そして、その長さを三角水準測量を用いてできるだけ正確に測定した。第二に、基線を一辺とし、できるだけ正三角形に近い形を作り出す位置に三角点を配置した。そして、測点を結ぶ線と基線が作り出す角度を計り、基線を延長しながら三角形の連続を作り出していった。第三は、距離を三角形の定理から求め、また天文観測で緯度と経度の位置を測定して、基線の長さを確認していった。

ラムトンは、ドラス周辺で以上のような三角測量を試行した後、インド半島を横断してマラバール海岸まで達し、1806年からは念願のバンガロールから真南のコモリン岬へと「大円弧」の基線の三角測量を始めた。これは1808年に一応完了し、1度34分56秒の子午線円弧を測定した。1811年には「大円弧」を真北のヒマラヤに向けて延長することにした。ラムトンが64歳の時であった。

この事業のすばらしさが学会と政府に認められたのは十年以上も後で、1817年になってやっと王立協会は彼をフェローに任命し、また1818年カルカッタ最高総督府は「インド大三角測量事業」に格上げし、新たな予算と人員を付加した。この時、主任助手として雇われたのがエベレストであった。1823年、ラムトンが70歳で亡くなった後は、エベレストがこの測量事業を推し進め、最終的に15度57分40秒の子午線円弧を測量した。これは人間が地上で測量した距離としては最長ではなかろうか。そして、最終的にラムトンとエベレストが作った子午線測量網は、すでに各地で部分的に行なわれていた測量と融合され、三角測量網がインド全域をカバーすることになった。

イギリス植民地時代のインドで、このように半世紀近くに渡って気の遠くなるような測量事業が遂行されたのは、直接的には効果的な行政支配のためであったが、測量自体が土地を数値と図式で掌握してしまうという性格を持っているからであろう。そして正確に作成された地図は、支配者にとって支配の重要なシンボルとなったに違いない。

もう一度マドラスの測量原点に話を戻すと、ラムトンらが大変な苦心をしてその緯度と経度を測定したが、柱には「ラムトンが測定した地点は、現在の柱の位置から南に6フィート、西に1フィートずれていた」と英文で新しく彫られている。数年に及ぶ天体観測に基づいた天体測量でも、昨今のリモートセンシングの技術を借りれば容易に正確な位置を決定することができる。しかし、正確さでは負けるが、かつてラムトンやエベレストがやっていたように地上をさまざまな障害に出合いながら歩き回るのも、今日ではより意味のあることなのかもしれない。