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テーマ自由(日常の「たわいもない」こと) 400字程度 写真添付 ニックネーム
宛先 oujhokkaido.gakuyukai@gmail.com
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田無神社で参拝
新宿駅からJR線で高田馬場まで行き、西武線に乗り換えて、竜神様を祀っている田無神社に行きました。田無駅で下車し、駅の案内窓口で神社までの行き方を聞くと、地図を書いた紙を渡されました。行く人がいるのかと思っていましたが、神社では参拝者が次々と訪れます。境内の雰囲気が、フィリピンに行くと毎回立ち寄る教会の聖堂に似ています。
その教会は大きな聖堂の隣に、皆がお祈りをしている小さな聖堂があります。田無神社にも参拝者が次々と訪れ、祈りをささげ、教会の聖堂でも同様に祈りをささげています。祈る人がいる所に神は降りてくるのだと気が付きました。私も家でお祈りをすると、神様が下りてくるのではないかと考え、中断していた祈りを再開しました。
円山公園の原始林の中に、標高225メートルの円山がある。 初心者でも往復2時間半ほどで登れる親しみやすい山だ。麓の太子堂がこの山を守り、そこには真言宗の祖・弘法大師(空海)が祀られている。新緑の5月には、山開きの法要も行われる。
四国八十八カ所は、弘法大師ゆかりの霊場として知られる。その信仰が札幌の円山にも伝えられ、登山道には一番から八十八番までの石仏が並んでいる。お地蔵さんは一体ごとに表情が異なり、その顔を眺めながらゆっくり歩いていると、いつしか心の雑念も薄れていく。
そして頂上に立つと、そこには札幌の街並みが一望のもとに広がっていた。
花園神社で出会った人
5月に娘と二人で東京に行き、宿泊したホテルが新宿でしたので、近所にある芸能の神様を祀っている花園神社に参拝に行きました。娘は小中学生のころ札幌子供ミュージカル育成会で歌のお稽古をしていましたので、その時の経験が親子共々土台つくりになり、今でも役に立っていますので、神様にお礼をしに行ったのです。静かに参拝するはずでしたが、お祭りをしていて、お神輿が神社から出るところを見られました。しかも隣には『五体不満足』の著者、乙武さんがいました。乙武さんは何にでも挑戦する人なので、励みになります。話をしていると、なんでも受けますよという懐の広さを感じました。乙武さんが使っている車いすはコンパクトで機動性がいいように感じました。こうしてお祭りを見られて乙武さんに会えたのも、神様が引き合わせてくださったのでしょう。
JR根室駅:日本最東端駅の変遷
2025年(令和7年)3月15日より、日本最東端駅はJR東根室駅の廃止で、JR根室駅になった。これは、実に96年ぶりのことである。鉄道省の時に設置された根室駅から現在まで、日本最東端駅はどのように変わったのか。私はその歴史を調べたところ、興味深いことがわかった。
1921年(大正10年)8月5日、鉄道省根室本線の西和田駅より東への延伸で、根室駅が開業した。この時点で、日本最東端駅は根室駅であった。8年後の1929年(昭和4年)10月16日より、根室拓殖鉄道が根室駅(JR根室駅とは別の場所)から歯舞駅まで開業。これに伴い、最東端は歯舞駅になった。ちなみに、歯舞駅は戦前戦後を通じての、最東端駅である。
戦後になり、1959年(昭和34年)6月20日、根室拓殖鉄道が廃止になり、国鉄根室駅からの貨物支線である国鉄根室港駅(貨物専用の駅で乗客の利用不可)が、最東端になった。そして2年後の1961年(昭和36年)9月1日、国鉄東根室駅の開業に伴い、東根室駅が約64年間に亘って、最東端駅になった。この間、根室港駅は1965年(昭和40年)10月1日に廃止。
こうしてみると、日本最東端駅の変遷が激しく変わったことがわかる。
カーテンを開けると「大学村の森」、眼下に「成墾記念碑」。
通称「大学村」に住んで30年余り、不便だが気にいっている。
北大第三農場跡に森と北大官舎が残っている。
大学村の森にはハルニレの大木と野草が生息する。
「成墾記念碑」には農地を開墾した小作人53名が刻まれてる。
森の中はウオーキングロードが有り歩きやすい。大学の森を守る会の人と話した。最近、エゾリス3匹中1匹が交通事故死したと落胆。
最近カラスが北大キヤンパスからやって来るのでおびえているとのこと。
私は大学村から北大キヤンパスへ。
「大学の湯」銭湯が森と隣接して、時々利用、良い風呂。守る会に誘われましたが、朝6時~7時の活動の為に断念。
機会があれば、森を歩いて、過去の北大農場を感じるのも良いのでは。
故郷の群馬へ、中学校の同窓会に出席するため帰省しました。地元に残った幹事さんたちのおかげで4年ごとに続いてきた会ですが、今回はコロナ禍もあり9年ぶりの開催です。もう60年以上前のことになりますが、当時は一学年7クラスもある時代。同級生の顔を見ても、すぐには名前や記憶が結びつかず、「同じクラスだった」「家が近所だった」という断片的な記憶をたどるばかりでした。もっとも、18歳で北海道へ渡り、すっかり道産子の暮らしに馴染んだ今では、自分の記憶そのものも曖昧になっている気がします。同窓会では昔話に花が咲きますが、不思議なことに、都合の悪いことはきれいに忘れている自分がいます。人の記憶とは実に曖昧で、都合よくできているものだと改めて感じました。
木造二階建ての懐かしい校舎はもうありませんが、故郷の山や川の風景は昔のままでした。幹事の「次は“あちら”で会うかもな」という冗談に笑い合いながら、少しだけ記憶を“アップデート”して帰ってきました。
JR東根室駅:64年の歴史に幕
2025年(令和7年)3月15日、JR北海道のダイヤ改正で、鉄道路線の廃止は無かったが、利用者の減少で5つの駅が廃止となった。その中に、JR花咲線のJR東根室駅も含まれていた。
東根室駅は1961年(昭和36年)2月1日に開業。駅舎が無く、根室方面に向かって右側に、1面1式の単式ホームが設けられていた無人駅。駅の1日のダイヤは、厚岸・釧路方面(上り線)が5本の根室方面(下り線)が6本で、上下線とも快速列車が停車。この駅の大きな特徴は、「日本最東端の駅 東経145°35′50″ 北緯43°19′25″」の看板があることだった。
私は廃止前に東根室駅を訪れた。時間のことを考慮して、東根室から根室までの往復を利用した。東根室駅から乗ったので、JR根室駅前から根室市立光洋中学校前(東根室駅最寄りのバス停留所)まで根室交通バスに乗った。
廃止に伴い、駅ホームと「日本最東端の駅」の看板が撤去。2026年(令和8年)3月30日、「在りし日の東根室駅」の看板が新しく設置され、かつての日本最東端の駅跡に64年間の記憶を伝える。
Spring ephemeral (スプリング・エフェメラル)とは、雪解け直後の春先の短い期間だけ姿を見せる植物や昆虫たちの愛称で、「エフェメラル」は直訳すると「はかないもの」「つかの間の命」という意味がある。
4月から5月の北大の構内に咲く野花が、まさにそれである。カタクリ、スノードロップ、エゾエンゴサク、キバナノアマナ、ニリンソウ、などなど。早春の構内に、一斉に花を咲かせて、まもなく姿を消してしまう可憐な小さな花々。そう、妖精たちである。
半年近く雪に閉ざされていた冬が終わり、ようやく春が訪れた。その喜びが、今、北大構内のあちこちにあふれている。春の陽ざしの中で、すべてがのびのびとうれしそうに息づいている。やっと、春になったのだ。
今年もまた放送大学の新学期がやってきた。僕が日常使う通学ルートは大学農場の一本道を通る最短コース。この時期、農場では地上からも空からもヒバリのさえずりが聴こえてくる。
このさえずりを聴いていると、かつて都立高校の生徒だったとき、古典の授業で習った『万葉集』の中の一首を思い出す。教えてくれたのは、通称ミヨちゃんと生徒たちから呼ばれていたおばさん先生だった。大伴家持の「春愁三首」のうちの一首である。
うらうらに照れる春日にひばり上がり
こころ悲しもひとりしおもえば
古代歌謡の特色である集団性・口承性を受け継ぎつつ、しだいに個の自覚をみるようになっていった万葉和歌は、四世紀余を経て、この歌にみられるような、明るさゆえの哀しみという、今の僕たちにも容易に理解できる、近代性といっても良い境地へと達した。当時の家持の心を占めていたのは、藤原氏の台頭により、その立場を弱めていくかつての名門大伴氏の長としての苦悩と孤独感だろうか。家持の歌は、「万葉の終わり」を締めくくる哀しい歌々なのであった。
豊平区の寒地土木研究所に植えられているチシマザクラが今、満開である。構内を流れる精進川の両岸に200本ほどが、並木になっている。
昭和59年に浜中町霧多布から苗木を取寄せて、植樹したものだという。北海道や千島列島など寒冷地に分布している。北大の宮部金吾先生の命名で、別名エトロフザクラとも呼ばれる。木の丈が低く、目線の高さで花を観ることができる。咲き始めは薄紅色をしているが、満開になるに従い白い色になる。そして散り際にまた紅くなり、色の変化を楽しめる。円山公園の山桜などとも、少し雰囲気が違うように感ずる。
サクラの中で強い耐寒性を持ち、5月の中旬から咲き始め「日本一遅く咲く桜」といわれるが、今年の開花は早い。これも温暖化の異常気象の影響だろうか。
JR留萌本線:留萌・羽幌方面最後の鉄路
JR留萌本線最終営業日の2026年(令和8年)3月31日、私は深川~石狩沼田の往復列車に乗った。車内は沿線住民や全国から集まった鉄道ファンで、満員状態であった。途中の北一已、秩父別、北秩父別の駅前にも多くの人が駆けつけ、名残を惜しんだ。
留萌本線は1910年(明治43年)11月23日、深川と留萌の区間で開業、1921年(大正10年)11月5日、留萌から増毛まで延伸した。さらに1958年(昭和33年)10月18日、留萌から日本海側の羽幌方面を経て幌延まで鉄路が延長したことで、羽幌線が誕生した。二つの路線は札幌からの急行列車が運行するなどして利用客も多かったが、赤字を理由に1987年(昭和62年)3月30日、羽幌線が廃線。その後、2016年(平成28年)12月5日に増毛~留萌、2023年(令和5年)3月31日に留萌~石狩沼田が順次廃止。そして、深川~石狩沼田が無くなり、約116年に及ぶ留萌本線の歴史が終わった。
北海道の地図から留萌・羽幌方面の鉄路がすべて無くなったことを、私は残念に思う。
毎年この季節になると、学習センターの学生控室から眺める北大の風景に、あらためて木々の生命力の不思議を感じます。冬の間、あれほど見事に「丸坊主」になっていた木々が、春になるとまるで合図でもあったかのように一斉に芽吹き、やがて全身を覆うほどの葉を茂らせます。ついこの前まで裸だった枝が、気がつけば豊かな緑に包まれているのです。
北大構内は、そうした木々に囲まれた緑あふれる場所です。なかでも北大の象徴とされるエルムの木は、堂々とした姿でキャンパスに立ち続けています。今年、北大は創基150周年を迎えます。その長い年月のあいだ、季節を繰り返しながら、学生や研究者の歩みを静かに見つめてきたのも、こうした木々なのだと思うと、ふと感慨深い気持ちになります。
群馬県の片田舎で育った私が、初めてクラシック音楽に触れたのは中学一年生の時でした。学校行事として体育館で開かれた、群馬交響楽団の演奏会です。その時は、特別に感動したという記憶はありません。しかし今思えば、地方の子どもが生のオーケストラ演奏を聴けたのは、とても恵まれたことだったのかもしれません。
当時の群馬交響楽団は、県内各地を巡回して演奏活動を続けていました。その歩みは、戦後の楽団活動を描いた映画『ここに泉あり』にも紹介されています。
そんな昔の記憶を思い出したのは、先日、弦楽ユニット「石田組」の演奏会に出かけたからです。クラシックを中心にしながら、親しみやすい曲も交えた構成で、今回も期待以上の素晴らしい演奏でした。会場は、札幌が誇るコンサートホール「キタラ」。音響の良さで知られるホールで聴く弦の響きは格別です。
体育館で聴いたあの日から半世紀以上。気がつけば、クラシック音楽との付き合いは長く続いていました。