揺れるトラックの向かう先には 文・勝冶真美(京都芸術センタープログラムディレクター)

美術家、黒田大スケのコロナ禍での新たなプロジェクト「ギャラリートラック」は、その名の通り、軽トラックの荷台をギャラリーと見立て、そこで様々なアーティストが作品を展示し、街中を走行する、というものだ。鑑賞方法は偶然に街中を走行するトラックを見かけるか(鑑賞のために停車はしない)、リアルタイムあるいはアーカイブで配信される映像をみるかのどちらかとなる。


この原稿を書いている今も尚、緊急事態宣言の発出によって休館を続ける美術館も多い。この一年以上、新型コロナウイルスと政府の対応策に翻弄される美術館は、作品を展示し公開するという本来の役割を十分に担うことができていない。そんな中で黒田が発案したギャラリートラックは、感染リスクなく鑑賞が可能な新たな展覧会の一形式として、2020年12月〜2021年2月に京都で、2021年4月に広島で実施している。新型コロナウイルスがわたしたちに突如もたらした停滞と戸惑いの日々の中で生み出された、ギャラリートラックというこの捉えがたい試みを、私自身の鑑賞体験を起点に記したい。


鑑賞へのルートが複数設定されているのがこのギャラリートラックの特徴である。私自身は、本展の全ての回を配信で視聴した。配信では画面はいくつかに分割されており、複数のアングルでカメラが荷台に載る作品を映し出している。さらにアーティスト本人と、聞き役となる黒田も映り、作品が走行する様子を解説したり、黒田からアーティストへのインタビューなどが行われたりするなど、複雑な構成を有する。殆どの場合流れゆく景色が背景に映り込むため、背景と作品は同時に鑑賞することになる。作品を見ているつもりが、気が付くと「山が多いところだな」とか「だいぶ暗くなってきたな」とか考え始めてしまい、背景に目がいく時間と作品を見る時間は半々くらいだったかもしれない。京都の回ではあまり感じなかったが、広島で行われた3回は、どこを走行するのかが慎重に選択された様子が伺え、後藤靖香の回では、布に描かれた靉光が、向かい風を受けながら山々を駆け抜け街へ繰り出すように映像上で画面が構成され、まるで彼の人生の一シーンと重なるようだった。牡蠣の養殖で使われるホタテ貝を用いた採苗器を石膏で制作した迎英里子の回ではトラックごと実際に牡蠣の養殖が見られる瀬戸内海をフェリーで渡っていったり、黒田の回では鯉のぼりを用いた作品越しに、広島を代表する河川太田川が望めたりと作品に関連付けたルートが選択され、移り変わる景色が作品への想像を一層掻き立てる役割を担っていた。


 背景についてことさら言及したのは、それなしに映像に映る作品を見ることができないという状況を新鮮に感じたからだ。ここでは、作品とそれ以外のものを分離することはできず、個別のアーティストの作品とギャラリートラックがもたらす状況が渾然一体となっている。さらに特殊さで言えば、静止した状態すら現れることはない。トラックが常に動いているからだ。揺れる作品は多くあるかもしれないが、揺れるギャラリーは聞いたことがない。この「ハコが揺れる」という特殊状況が実験的な試みをアーティストに促していた。西松秀祐、石黒健一、三原聡一郎など、トラックの揺れるエネルギーを別のエネルギーに変換して作品に取り込むアーティストが多く見られたことも本展の大きな特徴と言えるだろう。


私は残念ながら実物のギャラリートラックを見ることは叶わなかったが、ギャラリーが外に飛び出し街中で展示をするというコンセプトであるからには、配信だけではなく実物を、特に普段ギャラリーを訪れる習慣のない人々がギャラリートラックを目撃し作品を鑑賞することも企図されているはずだ。ただ実際には、信号以外では停まることなく走り抜けるトラックを見つけることは困難であり、且つ大々的広報されているというわけではないので、街中でそれを見ても展覧会だと結びつく人は少ないだろう。展示された作品の多くがいわゆる一般的に分かりやすい美術作品ではなかったこともある。出展作家のひとり、迎英里子も配信中のトークで「(ギャラリートラックは)鑑賞者があまりにも不特定で、もしかしたらいないくらいのレベルかもしれなくて、このフォードバックが全くないっていう状況ってなかなかない」と参加しての感想を語っている。そういったことからも、実際に鑑賞したのは配信を経由した視聴者がほとんどだったのではないかと、視聴中は感じていた。しかしながら、改めて考えてみると一体鑑賞とは何だろうか。例えば誰の作品であるか知る由なく、もといそれが芸術作品の展示であるという認識すらもないままに、ただその場でそのものを見た人にとって、それは「鑑賞」とはならないのだろうか。黒田があらかじめ提示したギャラリートラックの「野蛮さ」への問いはここにあるかもしれない。美術館やギャラリーといった場からだけではなく、コンテクストからも切り離してみる仮置きの場としてのギャラリートラックは、美術がどのように社会に存在可能かという問いを突きつけている。


黒田はギャラリートラックの前史として「移動展」や現代における巡回展を引用したが、それらは移動を経た後の作品を見るためのものであった。作品があちらからこちらへと持ち運ばれ、各地で展示する。その営みはやがて現代における鑑賞のためのインフラとなった。それに対し黒田のギャラリートラックは、移動している状態それ自体を見るものであり、実は全く異なるものなのかもしれない。近年ではリサーチベースドアートやソーシャリーエンゲージドアートなど作品のレベルでは多様な形式が見られるようになっている一方で、展覧会の形式における変化はそれよりも緩慢だ。そんな中でギャラリートラックは、作品が、ではなく展覧会そのものが移動しているという、新しい鑑賞体験なのではないか。展覧会が動いている、それは、展覧会の動態化とも言えるだろうか。

5月14日からは広島のアートギャラリーミヤウチでこれまでの取り組みをまとめた展覧会「横目にみれば-ギャラリートラックの鑑賞・記録をめぐる展覧会」が開催されている。一連のプロジェクトのアーカイブ展として、記録映像や荷台に載っていた作品が展示されているという。そういえば、鑑賞方法をさらに細分化すれば、配信にもさらにリアルタイム配信とアーカイブ配信があり、私も半分ほどをリアルタイムで、半分ほどをアーカイブで鑑賞した。近年特に、現代美術の分野においてアーカイブへの注目が高まっていたが、コロナ禍を経て今後アーカイブの概念は新しいフェーズに入るのではないかという気がしている。それは今回のギャラリートラック鑑賞の後その思いがますます強まった。


生成された瞬間にアーカイブともなっていく映像というメディアの特性や、リアルタイム配信であっても物理的に必ず発生するタイムラグ。同時性という意味合いでは、生ものとアーカイブの差異は緩やかに消失していくような未来がくるのかもしれない。さらにギャラリートラックでは、作品や展覧会が指し示すものの輪郭が極めて曖昧であるがゆえに、既存の形式ではできなかったような、複数の切り口から作品や展覧会を提示することも可能となる。リアルからアーカイブへ、移動から展示へ、シームレスな活動体として、ギャラリートラックは、私たちにこれからの展覧会について新たな視座を与えてくれている。


勝冶真美(かつや・まみ)

1982年広島市生まれ。京都芸術センタープログラムディレクター。広島市立大学国際学部卒業。京都芸術センターアートコーディネーター等を経て、現職。展覧会やアーティスト・イン・レジデンスを中心に、企画やコーディネートを行う。近年企画した主な展覧会に「影を射す光-三嶽伊紗+守屋友樹」(京都芸術センター、2020年)、「The Instrument Builders Project Kyoto: Circulating Echo」(共同企画、京都芸術センター、2018年)ほか。