12月頃開催!
参加アーティスト:飯川雄大、石黒健一、加藤翼、黒田大スケ、三原聡一郎、倉知朋之介、西松秀祐、張小船 Boat Zhang。
12月頃開催!
参加アーティスト:飯川雄大、石黒健一、加藤翼、黒田大スケ、三原聡一郎、倉知朋之介、西松秀祐、張小船 Boat Zhang。
・ギャラリートラックてなんだ?
本ギャラリーはトラックの荷台をギャラリーとして作品を展示し街中を走行するものです。ご鑑賞は、走行中のトラックを偶然目撃されるか、ウェブサイトのアーカイブをご覧いただく2つの方法をご用意しております。「走行中のトラックの荷台がギャラリーて、変なことするんやなあ」とお思いの方もおられるかと思います。たしかに現代においては、美術館のように建物の中に展示された作品を観るのが一般的な鑑賞方法であり野外展示の場合でも少なくとも作品は特定の場所にとどまっているものです。しかし、今こそ思い出してください!トラックはそもそもギャラリーであり、芸術は移動するものなのです。
陸軍の主導で生産されたトラックに展示物を乗せ全国各地で展覧会を開催した「移動展」が次第に他の表現や、全国の美術館や文化施設で順々に展示する「巡回展」へと変化していく様子は、展覧会という形式や作品を観せることを改めて考えさせるものです。ギャラリートラックはそうした歴史の最先端に位置する、最も野蛮でラディカルな展覧会の1形式であり、新型コロナウイス感染症の拡大により美術館などが機能不全に陥った中での美術界の動きに対する応答のようなものでもあります。そしてここから展覧会や作品を観せることを考え直しやり直すことがプロジェクトの一つのテーマにもなっています。ここではかなり強引に!しかも駆け足で! 否、トラックの如く!? トラックはそもそもギャラリーであり、芸術は移動するものであることを示す「ギャラリートラック前史」についてコンセプトにかえて論じていきます。
・最初のギャラリートラック?
ギャラリートラックというのはトラックに作品を載せて走行するもので、鑑賞者は走行するトラックごと作品を鑑賞することになります。ここではこのギャラリートラックの背景としてギャラリートラック前史をかなり強引に述べたいと思います。ここで扱うのは、トラックで作品を運搬し展示する取り組みについてで、トラック自体を展示の装置とするものからトラックで各地を回る展覧会まで大括りに述べていきます。黒田のいい加減な調査によると、ギャラリートラックに関する一番古い記録は、1930年9月7日の朝日新聞の「トラックで巡回展 全国農村へ衛生の宣伝」という見出しの記事です。
「内務省衛生局では農村衛生の改善について脳味噌を絞った挙句考えついたのは巡回健康展覧会 トラック1台に積載し得る程度の材料で結核及びトラホームの予防知識、寄生虫駆除、便所と飲料水の関係など極めて通俗的にだれにも一目見てわかるような標本を1組約五百円位で五組程作製して全国農村を村から村へ小学校又は公会堂等で展覧せしめ まず農民の目から衛生思想を注ぎ込もうという計画で標本の出来次第実施するはずである。」[i]
という内容のものです。芸術作品の鑑賞が目的ではなく、特定の考えを宣伝するために行われていることは無視できない重要なポイントですが、トラックに何かを載せて見せて周るという意味でギャラリートラックの原型の1つとして捉えることができます。また日本においては、そもそもトラックは軍の主導で生産が進められたものであり[ii]、第一次大戦や関東大震災からの復興によって普及したという歴史的事実に照らしても、この当時に内務省主導で初めてギャラリートラック的な取り組みが行われたことは不思議ではありません。さて、記事からは展示の方法を詳しく知ることはできませんが、当時の農村の「小学校又は公会堂等」を会場にしたということを考えると、あるいは荷台でそのまま展示物を観せるようなことがあったかもしれません。また、当時のトラック自体の珍しさや、作品と一体となって移動し展開するというインスタレーション的な性質から、いささか飛躍が過ぎますがトラックが運搬だけでなく一つの展示装置、あるいはギャラリーのような機能を果たしていたとも考えられます。展示物を各地に運んで展覧会を開くと言う点で、現代で言う「巡回展」を思い浮かべる方も多いかもしれません。詳しくは後述しますが、巡回展とギャラリートラックの始まりは思いのほか近いものだったようです。[iii]内務省が主導し軍が生産を進めたトラックが用いられている点は改めて注目しておきたいです。
・日本移動展協会
先に紹介した記事にある取り組みが、どの程度成功したのかはっきりはわかりませんが、トラックの性能の向上と社会情勢の変化の中で、トラックを使った移動展覧会が徐々に活発になっていきます。1941年には内閣情報局の外郭団体として戦時の国策プロパガンダを宣伝する団体「日本移動展協会[i]」なるものが設立され、各地で様々な移動展覧会[ii]が頻繁に開催されるようになります。当時の状況を物語るものとして、1941年12月4日の朝日新聞に「各所で移動展覧会」という見出しの記事があります。
「日本移動展覧会協会(旧称市電文化ニュース社)の移動展は、府市との共催、大蔵省、翼賛会等の後援で「貯蓄總進軍」の移動展を次の通り開く 4、5日−日比谷交差点空地 6日、7日−数寄屋橋公園、浅草公園、8日−赤坂離宮記念公園・・・・・ 以下略 」[iii]
とあり、記事からは展示の内容が大政翼賛会などの関わった戦時の国策プロパガンダであったことと、都内の各公園を会場として開催されたことがわかります。会場が公園であることからトラックの荷台などを利用したり何かに立てかけたりするなどして展示していたと考えられます。この様子を物語るものとして、1942年の写真協会による「十分間の国策案内 移動展五十三次」[iv]という日本移動展協会の取り組みを映したネガがあります。これにはトラックか三輪車と思われる車体にパネルを山積みしたものが映し出されており、多くの展示物が一同に並べられたことがわかると同時に、戦時の困窮と手段を選ばない闇雲さが窺い知れます。展示の内容は依然としてプロパガンダの宣伝であり芸術の展覧会といえるものではありませんでしたが、移動展覧会の取り組み自体には多くの芸術家が関わっていたようです。すでにあらゆる方面で芸術家の作品による積極的な戦争協力[v]が進められていましたが、ここでも同じように戦時体制という同質化の流れが次第に強くなっていく中で移動展覧会でも芸術作品の展覧会が開催されるようになります。芸術とプロパガンダ的なものとの境界線は曖昧なものだったようです。
・芸術とプロパガンダの同質化
芸術家の戦争協力に関しては既に多くの論考がありますが、日本移動展協会に関係するものとして、再び新聞から引用します。1943年5月9日の朝日新聞には「激励の絵画移動展」という見出しの記事があります。
「戦争美術を通じて全国の産業戦士青年学校生徒たちを激励慰安するため、大政翼賛会で日本移動展協会と提携「日本絵画移動展覧会」を全国各地で開催する。絵はいづれも新進作家の手になる三十二枚で、五月十日芝浦●●製作所を皮切りに順次各工場、青年学校で開かれる」[i]
記事は、新進作家の手による絵画作品を各地の軍需工場や青年学校で展示することでそこで働く学生たちを激励するという内容のもので「戦争美術」とあることから、いわゆる戦争画のような作品が展示されたと推察されます。戦争に多くの芸術家が協力したことは既に知られた話ですが、最初プロパガンダの宣伝広告として始まったものが芸術と重なり混じり合っていく過程はなかなか気味が悪いものです。美大などを卒業したての若い芸術家やデザイナーが戦地に行く代わりに「日本移動展協会」のようなところに就職し[ii]、プロパガンダのポスターなどを仕事として描いていく中で次第に作品や表現自体が戦争に絡めとられていく。この様子は、現代にも置き換えられる不気味なリアリティのある展開でとても恐ろしいものです。もっといえば、先に芸術とプロパガンダ的なものの境界線が曖昧であると書きましたが、もしかするとそれらは、そもそも同質のものなのかもしれないとさえ思えてきます。ともあれ多くの芸術家が関わった「日本移動展覧会協会」は終戦とともにその活動を終えます。今となってはその当時の活動の全容を知ることはできませんが、戦時の国策プロパガンダ装置として機能した日本移動展覧会協会がその活動の中で、移動展覧会という形式を発展させ全国に広めることに一役買った事は間違いなさそうです。協会で展示物制作などに従事していた芸術家の多くが、戦後は別の形で芸術活動を継続していきます。移動展覧会という形式も、別の形で戦後の芸術家に引き継がれていきます。
・戦後の動き
黒田のいい加減な調査によると、戦後にトラックで芸術作品を展示したという最初の記録は1953年の11月11日、京都の立命館大学で軽トラックの荷台に「わだつみ像」[i]という彫刻を載せてパレードしたという内容のものがあります[ii]。作品設置のお祝いとお披露目そして宣伝を兼ねたものとして当時の立命館大学の広小路キャンパスから市内に向けて作品を軽トラックに乗せてパレードしたそうです。このわだつみ像は戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」を刊行した日本戦没学生記念会が、彫刻家 本郷新[iii]に依頼し制作されたもので、東大の中に寄贈設置する予定だったのが、東大がこれを拒否したことで宙ぶらりんになっていたのを立命館大学が引き受けたという経緯のものです。この経緯とパレードが関係しているかは定かではありませんが、戦時プロパガンダに超超超協力した彫刻家の本郷新の手による反戦と戦没学生慰霊のための銅像が、パレードという形で戦中の移動展覧会と同じように鑑賞者のもとに出向くというのはあまりに皮肉が過ぎる気色悪さを感じないではいられません。訴える内容は変わってもその方法には大きな変化がないようです。この気色悪さ[iv]についてもいろいろ書きたいですが、これに関しては優れた論考が既にありますのでそちらに譲るとして、ここでは引き続きギャラリートラックの歴史について見ていきます。この立命館大のパレードは戦後8年目に行われたということですが私の調査が至らないだけで、おそらくこの記録以前にもトラックに作品を載せてパレードのように見せる戦中の移動展覧会のような方法の展覧会があったと推察しています。
・西宮市の取り組み
戦中の移動展覧会と近いものとしては、1956年に西宮市で開催された第7回 市民文化祭があります。西宮の北口団地内でトラックの荷台に作品を並べた街頭展覧会だったそうで展示の内容は詳しくわかりませんが、トラックに積まれたパネルなどを眺める人々の写真が残されています[v]。第7回となっているので、その7年前1949年には第1回があったかもしれず、その時もトラックを使用していた可能性があります。そうだとすると立命館の記録よりも古いものになりますが、これについては黒田のいい加減な調査は追いついておらず更なる調査の必要を感じています。この情報のソースは新聞記事ではなく、具体美術協会のアーティスト松谷武判さん[vi]が子供の頃に実際に観られたという証言を又聞きしたものがベースになっているもので、ギャラリートラックを企画していく過程でトラックと芸術作品と展覧会の関係を調査するきっかけを与えてくれた話でもあります。この取り組みが西宮市という行政主導で行われていたことは戦前の移動展覧会と通じるものがありますが、これが西宮市特有の活動だったのかあるいは他の自治体でも類似の取り組みがあったのか現時点では調べきれていません。これは私の勝手な推測ですが、戦後の物資の乏しい美術館などの整備が追いつかない中で、おそらく行政主導の似た取り組みは戦後のかなり早い時期から行われていたのではないかと思います。戦後、あらゆる場面で、考え方や頭だけを挿げ替えるだけで戦中と同じやり方が引き継がれていることを考慮すると、憶測の域を出ませんが戦後すぐは移動展覧会という仕組みはそのまま引き継がれたのではないかと思われてきます。これについては引き続き調査を行いたいと考えています。次に行政ではなく個人の芸術家の取り組みを見ていきます。
・武者修行としてのギャラリートラック
西宮で街頭展覧会が開催された同じ年1956年の一月、愛媛では田中坦三[i]という彫刻家が作品をトラックにつんで四国から東京へ向かいながら展覧会を開催していく武者修行を企てていたようです。記事は「彫刻家の武者修行 トラックで巡回展 四国から東上り計画」という見出しで始まるもので少し紹介します。
「中略− 田中さんが静かで、さまたげられることのない生活に満足する一方、刺激も、批判もない在り方に大きな不安を抱くようになった。そこで思い立ったのが、東上り巡回個展−いわば武者修行の旅だった。まず作品の数を50点に決め、4尺角から1尺角の他ミニチュア(極小作品)、工芸品なども加えることにした。田中さんは蚕室を改良したアトリエでちょうど三十点目の制作にとりかかっている。この四月にはどうやら予定通り巡回展のスタートもできる見通しという。戦争中は航空隊にいて、自動車の運転も訳はないのだが、かんじんの運転免許がないので、制作のかたわら交通法規などの勉強にも力を入れている。 田中さんの武者修行構想は、この四月松山市県民館で最初の個展を開き、徳島、神戸、大阪、東京の四カ所では正式の個人展を開く。その間日程に余裕があれば、途中の小学校やお寺、教会を借りて臨時個展を開き、自分は近くに天幕を張ってコッフェルで自炊生活をする。もし希望があれば、公園の木陰や該当の街路樹の下でも青空展を開いて、できるだけ多くの人の批評を仰ぎたいというのだ −以下略」[ii]
トラックを使った企画を考えておきながら免許がないというのは、なんとも気の抜けた牧歌的なもので親近感が湧きます。一方で記事中にも戦中との連続性が示唆されており、田中さんが何に着想を得てこうした企画を考えつかれたのか非常に気になるところです。例えばそれが、戦中の移動展覧会に着想を得たものであっても不思議はないでしょう。ところで、企画がどれくらい成功したのか、この記事からはわかりませんが田中さん自体はその後ご活躍されたようです。次に同時期の似た活動を見ていきます。
・募金として
田中さんが武者修行に出た翌年の1957年7月朝日新聞には「募金の移動美術展(二科)」という見出しの記事があります。
「車体に九州水害救援ロード美術展 と大書した自動車が27日朝11時東海道を下った。運転者は赤いアロハにメキシコ帽という派手ないでたちの二科会会友 塙賢三(39)伊賀勇高(40)両氏。昨夏、二科同人の作品を積んで同じように北海道旅行をやった人たちだが、今度は九州へと準備していた矢先に大水害。26日夜相談の結果、移動展の収益を救援資金にまわすことを決め、早速出発ということになったわけ。 用意した作品は全部で58点。「これだけあれば1会場1万円、15万円くらいまとまるだろう」と自信満々の表情で第一会場地福岡へ −以下略」[iii]
この記事には大きく写真が掲載されており、そこには派手な乗用車に乗って作品を掲げている塙、伊賀両氏[iv]が写っています。車両はトラックではなく乗用車ですが、作品点数から考えても複数台の自動車かトラックなどで移動したと考えられます。車両がトラックではなく乗用車であることや、個人としてこうした取り組みが行えるようになったのは、社会情勢の変化はもちろんのこと、道路網の発達や自動車の普及と無関係ではないでしょう。この7年後、東京オリンピックが開催され、日本のモータリゼーションがより加速していきます。それ以後は誰もが自家用車で移動する時代を迎えて、トラックで作品を運ぶ展覧会の記事は見られなくなっていきます。代わりに移動展といえば、美術館を巡回する巡回展の意味での記事が見られるようになります。戦後復興を果たし日本の景気が良くなっていく中で社会全体が豊かになり美術館などの施設が充実していく中で、移動展覧会という言葉も巡回展と同じような意味で使われるようになったのでしょう。またアーティストもトラックを展示の装置としてというよりは、作品そのものとしてや素材として扱うようになっていきます。
・移動展?巡回展?
ここで改めて移動展という言葉の使われ方について見ていきます。戦前、戦中については既に見てきた通り「移動展」というのは展示物を車両などで運搬し各地で展覧会を開催し移動していくもので、展示会場が美術館などのように展示に特化した場所ではなく、野外や本来別の目的を持った施設などで仮設的に開催される展覧会を指す言葉として使われました。その内容は、背景にある戦争の野蛮さとも通じるもので、どこへでも行ってプロパガンダを啓蒙する文化の爆弾的な性質を持ったもので、日本の隅々に国策プロパガンダを届けるものでした。「移動展」というものは内容からしても、特定の施設に収まるものではなく、弾丸の如く飛び出し炸裂する動的な性質を持ったものだといえます。美術館や文化施設が整った現代においては「移動展」という言葉よりも「巡回展」という言葉が一般的に用いられており、おそらくその意味も美術館から美術館へと巡回するという特定の拠点間を移動する展覧会というものであり、戦中の「移動展」のようにどこへでもいく意味合いはありません。現代においても「移動展」と冠された「巡回展」が開催されていますが、これらのほとんどは会場が美術館でないというだけで、整備された文化施設を巡回するものであり「巡回展」と言った方が適切だと思われます。ただし、「巡回展」が「移動展」と全く関係のない別のものかというと、そうではないと思います。社会が豊かになり美術館や文化施設が各地にできたことによりトラックで闇雲に移動する必要が無くなっただけで、その根は「移動展」と同じものだと思います。ここでは現代における「移動展」について事例を挙げることはしませんが、今も行われている「巡回展」の中にもそれを見出すことが出来るでしょう。
・ギャラリートラック
ここまで長々と強引にギャラリートラック前史を書いてきたわけですが、近代化と戦争に始まるそれは、どう考えても前向きなイメージではなく、文化の爆弾ともいうべき後ろ向きのイメージを持つものでした。書きながら「これはまずいなあ」と思ったのが正直なところです。トラックがギャラリーのようなものであり現代的な意味での巡回展と根を同じくしているということは、些か強引ではありますが少し示せた気がしますが、同時に日本における展覧会という仕組みが持つ近代的な負の遺産も引き受けてしまったという感じです。展覧会という形式を完全に否定するものではありませんが、しかし、これは無視できないものです。こうした歴史を見つめ反省し、どうしていくのか?このことが重要です。私の中でギャラリートラックは最も野蛮でラディカルな展覧会の1形式であり、新型コロナウイス感染症の拡大により美術館などが機能不全に陥った中での美術界の動きに対する応答のようなものでもあります。そしてここから展覧会や作品を観せることを考え直しやり直すことが一つのテーマにもなっています。参加してくれるアーティストはみんな面白い人たちばかりで、鑑賞すること自体を問いかける内容にもなっています。たまたまラッキーで作品が観られても、あるいは観られなくても面白く楽しい取り組みとなるように頑張っていきます。皆様のご支援をお待ちしております。
黒田 ご支援はこちら→ https://readyfor.jp/projects/kyotocityartproject2020