美術批評の岩垂なつきさんのレビューを2本掲載しています。

京都のギャラリートラック開催時のものと、広島のギャラリートラック終了後のレビューです。

順に掲載してあります。ご覧ください。

2021年6月16日更新


ギャラリートラックとは何だったか 文・岩垂なつき


京都、広島を舞台にしたこの「ギャラリートラック」はアーティストの黒田大スケによって企画されたアートプロジェクトであり、京都では飯川雄大、石黒健一、加藤翼、黒田大スケ、三原聡一郎、倉知朋之介、西松秀祐、張小船Boat Zhangの8人、広島では黒田大スケ、後藤靖香、迎英里子の3人が軽トラックの荷台の上で作品の発表を行った。本プロジェクトは黒田によれば「コロナ禍における新たな鑑賞体験を問う」試みである。人を密集させてはならないため、事前に告知を行うこともなければ、トラックは任意の場所に留まることもない。したがって、展示を見る手段としては、街中で偶然出会うか、オンライン配信での実況を見るか、の2点である。しかしオンライン配信は黒田またはプロジェクトのSNSで発信される情報を拾えなければリアルタイムで鑑賞することはできない。そして配信では走行中のトラックを断片的にしか映し出していないため、そこから全容をつかむことは困難である。この完全に偶然性に依拠した、第3者が鑑賞するための配慮のなされていない発表形式は、まさに黒田の言葉を借りれば「ラディカルで野蛮」であった。10人のアーティストが各々の展示を終了した今、本プロジェクトは果たして美術のコンテクストの中でどのような意味を持ちうるのであろうか。そして今後、何をもたらすのであろうか。本論では現時点での解を導きたい。


本プロジェクトの功績の一つとして挙げられるのは、作品鑑賞という行為を、美術館やギャラリーという既成の枠組みから解放し、「体験」として純粋化させたことである。通常、私たちはある対象を見るとき、それが提示されている状況や形式に依拠したフィルターを通してその意味を理解している。作品は美術館やギャラリーという場にあるからこそ、「作品」という役割をもち、その意味についての思索を促すのである。展示会場にある温湿度計を美術作品と間違えるという話はたびたび聞かれるが、それほどまでにこの枠組みは対象と対峙する上で、強い影響を持つのである。しかし、このギャラリートラックに関していえば、オンライン配信を除けば、各作家の個展を「作品」として捉えるための手掛かりは全くと言っていいほど存在しない。荷台に作品を載せるトラックは、無防備に日常を送る人々の前に偶発的に表れ、「得体のしれない何か」としての過ぎ去るのである。それは作品というより、一つの現象といえるかもしれない。


故に、ギャラリートラックはあらゆる思考のフィルターを超えた生の体験として知覚される。美術館やギャラリーという既成の枠組みから引きはがされ、突如目の前を通り過ぎる対象を身にした時、私たちはそれについて考えることなど困難であり、まずは自らの五感を活用して感覚するしかないのである。京都での発表時、参加作家の一人である三原総一郎は、本プロジェクトのこのような特性を踏まえたうえで、道行く人に「体験」としてダイレクトに知覚される発表を試みた。彼は、トラックの荷台に自ら乗りこみ、ほうじ茶を煎りながら、芋を焼いたのである。トラックに乗った男性が香ばしい香りを漂わせながら移動する様子はいかにも異様であり、遭遇した人は「美術作品」であるとは夢にも思わないだろう。しかし、突如視覚のみならず嗅覚を刺激されるゆえに、身体に作用する体験として確かな印象を残すのである。このように本プロジェクトは私たちの「美術なるもの」に対するフィルターを取り払い、表現の純粋なありように対峙する体験を創出したといえる。


そして作品を既成の枠組みから切り離し、体験として純粋化させたことは、作品と鑑賞者の関係性にも変化をもたらした。現代の美術館という場において、作品と鑑賞者は共に依存的な関係にある。鑑賞者が対象を見るとき、美術館やギャラリーを前提として成立する「作品」という形式に依存するということは先に述べたが、作品も同時に鑑賞者の視線に依存しているのである。現代美術の歴史をたどってみれば、1917年の第1回アメリカ独立美術美術協会展に「現代美術の父」マルセル・デュシャンが便器を送り付けた1。そこで示したことの一つは、ある対象を美術作品として成立させるのは、アーティストの手技ではなく、対象がたとえ既製品であっても、それを選び、新たな意味を持って提示するその判断にあるということである2。しかし、このウィットに富んだ試みによって、以降の美術作品は展示場所を前提とした表現を加速させていったのではないだろうか。なぜなら、デュシャンについてのこの解釈は、便器を《泉》として提示した場所が「美術展」であり、人々がそこを「作品」が設置される場として認識しているからこそ成立したものだからである。そして日常性をはぎとり、対象を作品化するこの仕組みは、事物の「観念」そのものに向き合う機会を与えるコンセプチュアル・アート、既成のイメージを日常から切り離して人々に再考を促すポップ・アートなど、その後の現代美術の発展へと引き継がれていったのである。


しかし、ギャラリートラックについていえば、アーティストが意識すべき鑑賞者の視線というものは存在しない。それが果たして鑑賞されるか否かは、偶然性に委ねられているからである。企画者の黒田は、2020年の12月から2021年の1月に行った京都でのプロジェクト実施のラストで、《カメラオブスタチュー》と題した作品を発表した。本作は銅像の視点をピンホールカメラの原理を応用して可視化するものであり、銅像から見える景色はスキャナカメラによって映し出される。そこでは目撃者の無防備な態度が露わなものとなり、作品を「見せる」こと、そして「見る」ことについての黒田の問いが表れたものであったといえる。デュシャンの《泉》は、もしもそれが路上にあったとすれば、単なる「便器」としか認識されないだろう。ギャラリートラックの発表においても、アーティストの「個展」はガラクタを積んだ単なるトラックとしてしか認知されないかもしれない。したがってこの試みは、美術館やギャラリー等、特定の場で醸成されてきた、作品と鑑賞者の共依存的な関係を終わりにしたといえる。本プロジェクトにおいて、作品と鑑賞者は、ある種異なった次元に独立して存在しているのである。いつも通りの日常を送る人がトラックに遭遇すること

は、二つの次元が意図せずして交わる瞬間なのだ。そしてその人の意識の中にどれほどのインパクトを持って入り込むことができるかが、その表現の芸術的効果になりうるのである。


ここで本プロジェクトについて、ある仮説を立てたい。ギャラリートラックというプロジェクトは、黒田大スケによる、既存の「美術」という形式に対するある種の皮肉ではなかったかと。新型コロナウィルスの拡大は、これまで社会で成り立っていたあらゆるシステムに変化をもたらした。美術において、これまでの「見せる」「見る」関係性が場に依存しており、身体的にその場に赴くことができなければ、表現自体成立しえない危うさを持つものであることを浮き彫りにしたのである。どんなに素晴らしい作品であっても、走行中のトラックの上では表現が成立しない可能性がある。黒田のシニカルな視点は、2021年の4月下旬に行われた広島でのプロジェクト実施のラストの発表でも感じ取ることができた。なぜなら黒田が彼の個展で荷台に展示したのは「こいのぼり」だったからである。端午の節句に近い時期に、色とりどりのこいのぼりをはためかせて走行することは、道端の人々にとって体験として入り込みやすく、単純な楽しみを与えたのではないだろうか。もちろん、背後には広島が球団「カープ」(和訳は「鯉」)の本拠地であることや黒田の学生時代の取り組みも踏まえたコンセプトがあるが、これまでに本プロジェクトの中で実施されたどの個展よりも、「作品」として見せることに無関心であるように思えた。


現代の日本において、コロナ禍にあるか否かに関わらず、「美術」と呼ばれるものはどれほど人を引き付けることができるのであろうか。美術館ないしやギャラリー、そして芸術祭などあらゆる「作品」を展示する場で、アーティストも、鑑賞者も、表現によって心を動かし、動かされることに果たして真摯に向き合っているのだろうか。この点で、ギャラリートラックはこれまでの形式に慣れ親しんだアーティストと鑑賞者を試すものであったといえる。本プロジェクトは、作品展示を体験として純粋化させることによって、表現の実践に新たなステージを与えた。もしもの未来、このギャラリートラックが、発表形式のひとつのスタンダードになると考えると面白い。アーティストたちは、無防備に道を歩く人の目を引きつけ、そこから思索を促すという難解な課題に応えるため、趣向を凝らして彼らの表現を提示していくだろう。それはともすれば、これまでにない豊かさを持った新たな芸術を生み出す契機となるかもしれない。本プロジェクトの今後の可能性に期待したい。



1 平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』(河出書房新社、2018年)67ページ参照。

2 平芳、前掲書、91ページ。

平芳は本書籍において、デュシャンのレディメイドの解釈を5つに分けて説明している。その中のTYPE C-1「概念としてのアートを発生させる装置」では「・・・ひとつの便器がアート作品なのではなく、デュシャンが男性用小便器をアートと判断したこと、そしてそれを《泉》と命名したことがアート作品ということになる」と述べられている。







2021年1月15日更新



・鑑賞体験の「リアル」―ギャラリートラックを参照して 文・岩垂なつき



「ギャラリートラック」はアーティストの黒田大スケによって京都を舞台に企画されたアートプロジェクトであり、8名の参加作家(飯川雄大、石黒健一、加藤翼、黒田大スケ、三原聡一郎、倉知朋之介、西松秀祐、張小船 Boat Zhang)がそれぞれ市内を移動し続ける軽トラックの荷台で作品を発表するというものである。本プロジェクトは黒田によれば「コロナ禍におけるあらたな鑑賞体験を問う」実験的な取り組みであり、感染拡大を防ぐために人を集めてはならず、そのため事前に予告することもなければ、トラックをどこかに駐車して、そこで作品を見せるということもない。オンラインでのライブ配信と、アーカイブ記録としてウェブ上に掲載されるものの、実際に走っているトラックに載せられた作品の鑑賞を行うためには、街中を出歩いている 際に偶然出会うほか、方法はない。この完全に偶然性に依拠した発表の形式はゲリラ的で、いささか乱暴であり、黒田の言葉を借りれば「ラディカルで野蛮」である。しかし、美術館やギャラリーは入場制限、オンラインビューイングなど苦肉の策として 鑑賞の在り方を制限せざるを得ない状況にあるなかで、新たな鑑賞体験の「リアル」 を創出したといえるのではないだろうか。

本プロジェクトにおいて、私たちが体験しうる「リアル」は三つの視点から成る。 まず一つ目は、文字通りその作品が存在する場で直接的にそれを知覚するということ である。多くの文化施設では、360°カメラで撮影したインスタレーションビューをウェブ上に掲載したり、学芸員やスタッフによる解説動画等をSNS上に掲載するなど、 オンラインにおける鑑賞の可能性を探っている。しかし、これらの策はあくまで「リアル」な体験の代替物でしかなく、現物にこれまでのように対峙できないことを浮き彫りにして見せる。その点で、ギャラリートラックは人を密集させないという目的を 果たしつつ、展示そのものを対面でみることができるという「リアル」な体験を創出した。そして、トラックの荷台に乗せられた作品はこれまでの既成の展示空間での体験を前提に制作されたものではなく、この移動型の展示形式に依拠する形のものであり、代替物ではない確立したオリジナルな体験をそこに現出させている。


二つ目は、美術館やギャラリーという既存の展示の枠組みから作品、そして鑑賞者 を開放したことである。美術館ないしはギャラリーは、造形物を美術作品として扱 い、その歴史的あるいは市場的価値を担保する枠組みである。言い換えれば、私たちは美術館やギャラリーに造形物が展示されていることによって、それを美術作品として認識するのである。例えば 2013 年にバンクシーが路上で行ったとあるアートプロ ジェクトでは、作家はニューヨークのセントラルパークの路上に屋台を設置し、そこで作品の販売をおこなった。しかしほとんど見向きもされず、日本円にして一日数万 円を売り上げただけであったという*1。このように私たちは作品と対峙するとき、それが提示される形式に依存したフィルターを通してその意味を理解している。しかし、ギャラリートラックにおける展示では、なんの予告もないまま、偶発的に「何か」が 目の前を通り過ぎる。そしてそれらは美術作品であるということすら不明瞭であり、 それ故に思考のフィルターを超えて、ただ純粋な「体験」として認知されるのである。本プロジェクトは私たちの美術に対するあらゆるフィルターをはぎとり、作品の 「リアル」なありように対峙する体験を創出したといえる。

三つ目は、その鑑賞体験が非日常的なものではなく、日常と並行にある存在として 認識されるということである。人は美術作品を鑑賞しようというときに、美術館やギャラリー、あるいはアートイベントの会場といった、特定の場所に赴き、非日常的な 体験としてそれらを能動的に行う。しかし、本プロジェクトにおいてはトラックが自 ら赴き、日常生活を送る人々の目の前に突如として現れる。展示会場が不動のものとしてある場合、鑑賞体験は完全に日常とは断絶された異世界のものとして認識されるが、トラックはぬるりと日常の中に入り込み、私たちの意識に揺さぶりをかける。ここでは作品は異世界の非現実的出来事ではなく、確実に目の前で起こっている「現 実」すなわち「リアル」なものとして体験せられるのである。また、このように日常に芸術的なものを組み込もうとするとする取り組みは、その一過性も含め、1960 年代 初頭の芸術的動向であるフルクサスとも関連性を見いだせる。しかし、例えばフルクサスにおける表現形式の一つでもあった「ハプニング」がある場所で一定の時間パフォーマンスを行うのに対し、ギャラリートラックはどこにもとどまらず(黒田によれば「着弾」せず)、私たちの日常のタイムラインを崩すことはなく、並行してそこに 存在する。フルクサスは日常と遊び、交わるものであるが、この点でギャラリートラ ックは「非接触的」ともいえる。触れることはない、しかし、確実に私たちの日常と 共にある「リアル」な芸術体験として存在しうるのである。


このような社会状況にあって、私たちがリーチできる鑑賞体験の「リアル」とは何か。発達するオンラインの世界も未だ、これまでの実体験の代替物としてしか機能していないなか、この問いは継続している。ギャラリートラックにおける鑑賞体験は、 偶発的で一過性のものであるがゆえに、美術館やギャラリーなどの事前に情報を得たうえでじっくりと作品と対峙できる枠組みと比較すれば、作品理解の深さは制限され てしまうかもしれない。しかし、このゲリラ的な取り組みによって、作品はこれまでに依存していた発表形式を離れ、体験そのものとして、日常の中にその姿を表出させ ることに成功したのである。本プロジェクトは今後の発表形式を模索する中での実験的な取り組みではあったが、確実に鑑賞体験の「リアル」について新たな可能性を提示したのである。



*1 The Gardian “Banksy sells original works worth a fortune for £38 each in New York booth” https://www.theguardian.com/artanddesign/2013/oct/14/banksy-sells-original- paintings-new-york-booth(最終検索日 2020/12/29)



岩垂なつき(美術批評)

1990年長野県松本市生まれ。2015年東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了(美学)。修士論文の研究テーマは「ジェフ・クーンズ作品における大衆的モチーフの役割と変化」。ヴァンジ彫刻庭園美術館の学芸員を経て、2017年より都内文化施設の広報・企画等に従事。その傍ら、美術批評執筆・展示企画等を行う。