最終章

私の恋は

執念深い


Vol.4後編

最終章は公開前です

最終章 私の恋は執念深い(完)

3(続)

「どうした」

 自分で声をかけておきながら、言葉が思いつかない。でも何か言うべきだろう。私は、この人の運命を変えに来たのだから。

「どうか、命を大事になさってください」

 こんなことで世界が大きく変わる気はしないけど、伝えられずにはいられなかった。

「なぜ私の心配などする」

「蝦夷だとか、ヤマトだとか、そんなことは関係ありません。同じ人同士なのに、殺し合うなんて、そんなの悲しすぎますから……」

「そうだな。おぬしのような考えを、皆が持っていればいいのだが」

「……蝦夷とヤマトは、戦う運命にあるんですか?」

「綿麻呂殿は、蝦夷とは極力戦わずに、平定したいと考えておる。だが、我らと蝦夷の間には大きな溝がある」

 そりゃそうだろ、と思わず言いたくなった。

 侵略したのはヤマトで、おまけにヤマトは英雄のアテルイとモレを処刑している。そんな状況で、蝦夷たちがヤマトに従うはずがない。

「私の命は、綿麻呂様に預けておる。綿麻呂様に危険が及べば、喜んで命を差し出すつもりだ」

 ってことは、綿麻呂さんに危機が及ぶ事態は、すなわち空丸さんの危機でもあるってこと?

 結局のところ、ようは蝦夷とヤマトが戦わなければ、文室綿麻呂さんも空丸さんも、命を落とすことはない。蝦夷とヤマトがわかり合い、平和な終戦を迎えることができれば、きっと徳丹城は復活するし、なにより歩空先輩にも会えるのだろう。

 とはいっても、いったい私に何ができる?

 少なくとも、ここで空丸さんと簡単に別れるわけにはいかない。

「空丸さん、もう一度、お会いしてもらえませんか? ヤマトと蝦夷の互いの平和のために協力し合いたいんです」

「……」

 空丸さんは、すぐには返事をしなかった。私が信頼に足る人間かどうか、思案しているのだろうか。

「おぬしは、蝦夷なのか? それとも物部か?」

 物部とは、陸奥――私の世界で言う東北――で生活する、元はヤマトの人たちだ。物部は、蝦夷とヤマトの間を取り持っていたと史実にある。

「おぬしが着ておる服は、蝦夷でも物部のものとも違う。ましてヤマトのものでもない」

「私は……」

 正直に話すべきだろうか。ずっと遠い未来から、あなたの命を守りに来たんです、と。ようするにターミ○ーター2と同じ展開です、と。だけどこの時代に『未来』って言葉があるかわからないし、ターミ○ーター2に至っては確実に存在しない。

 私が返答に困っていると、

「まあ、よい」

 と空丸さんは呟き、小さく頷いた。

「三日後の日没後、この場所で――」

 空丸さんが言いかけたところで、

「こんなところで何してんだ空丸」

 どこからともなく男の人の声が聞こえた。と思えば、目にも止まらぬ速さで茂みから影が出てきて、即座に空丸さんの背後を取った。

 影の正体は二十代前半と思われる男性で、祈祷の際に見かけた蝦夷だった。

「女を攫うつもりか?」

「イカコ、私は道に迷っていたこやつを送り届けただけだ」

 蝦夷の男性は、イカコという名前らしい。それと今さらだけど、二人は顔見知りであるらしかった。

「攫うつもりなら、やめておいたほうが身のためだぜ? 何しろこのお方は――」

 イカコさんは、なぜか悦に入ったように笑った。

「――アラハバキの使いだからな」

 えっと、すみません。全然違うんですけど。何がどうなって、私がアラハバキの使いってことになったんだろう。

 ちなみにアラハバキとは、東北に伝承される謎の神様だ。蝦夷の神と呼ばれることもあったと思う。

「おぬしは神の使いだったのか……?」

 違う、と言いたいところだったけど、よくよく考えてみれば、私は鳥橋さんの使いではある。北島さんは鳥橋さんを『時間の神様』と呼んでいたから、あながち間違いではないわけで……。

「……そうですね」

 嘘はつけない私がそう答えると、空丸さんは若干の動揺を眉間に示しながらも、何か腑に落ちたように頷いた。

「つまり、そうか。アラハバキもまたヤマトと蝦夷の調和を望んでおるのだな」

「おい空丸! 気安く話してんじゃねえぞ! 用が済んだなら、さっさと立ち去れ!」

「あ、あの……」

 何か誤解が生じてるみたいだから、ここは私が釈明するべきだろう。

「空丸さんは、道に迷った私を送り届けてくれただけなんです」

「えぇ⁈ そうであったのか⁈」

 と蝦夷の男性は頓狂な声を上げる。

「先ほどからそう言っておるだろう……」

 空丸さんは呆れた様子で言う。

 どうも蝦夷の男性は、人の話を聞かない傾向にあるらしい。

「それだけじゃありません! 私がヤマト兵に襲われてたところを、助けてくださったんです!」

 と弁解した直後、私はいらんことを喋ったとすぐに気づいたけど、もう遅かった。

「おのれヤマトぉおお……‼」

 イカコさんは腰元の剣を抜き、切っ先を空丸さんに向けた。それを見るなり、空丸さんは馬へと飛び乗った。

 ああ、せっかく歩空先輩の曾々々々々々々々……おじいさんに会えたのに。

「いやあ、無事で良かった!」

 イカコさんは満面の笑みを私に向けた。

「おぬしの姿が見えなくなってから、ずいぶんと探したのだ」

 神木の裏にいた私を、イカコさんは追いかけてきていたのか。

「我が名はイカコ」

 イカコ。そう言えば聞いたことある。たしか、アテルイ亡きあと、蝦夷を率いたリーダーだ。

「我らを勝利に導くため、アラハバキは使いを寄こした! そうであるな⁈」

「……ちょっと違いますけど」

 私は答えるけど、人の話を聞かない傾向にあるイカコさんは、

「では早速、我らの里に案内する!」

 高らかに言って、歩き出した。

 まるでVIP待遇がごとく、警護されつつ蝦夷の里へと連れて来られた私は、里で一番大きな住居へと案内された。構造はいわゆる堅穴式住居だ。

「えれえ美人だど!」

「あんや天女だ!」

「綺麗な着物着てらなぁ」

「押すな! だから押すなって!」

「俺にも見せろ!」

 アラハバキの使いをひと目見ようと、入り口に里人たちが押し寄せ、小競り合いさえ起きていた。

 住居の中では、優しそうなおばあちゃんが私を待っていた。

 私はそのおばあちゃんと向き合う形で座り、イカコさんはおばあちゃんの隣に座った。おばあちゃんの隣にもう一人、大柄の男性が座って、「我が名はハジだ」と簡単に自己紹介した。

「ハジは我の幼なじみで、里で一番ケンカが強い」

 ハジさんは腕組みをしながら、「うむ」と頷いた。

「あ、申し遅れましたが、サヤカです」

「サヤカ殿、遠い遠いところから、よう来なすった」

 ゆったりとした口調で、おばあちゃんが私に語りかける。

「ワシはヌイじゃ」

「サヤカ殿、婆っちゃは星を読むことができるんだ」

 イカコさんが説明する。

「サヤカ殿が来るのを、婆っちゃは予め星に教えてもらっていたんだ」

 今で言う、占星術のようなものだろうか。

「ずいぶんと苦しんだようじゃのう」

「……え?」

 ヌイさんは、まるで私の事情をすべて知ってるかのように、労いの言葉をかけてきた。

「まだもう少し、苦しむかもしれぬ。じゃが、それも覚悟の上で来たんじゃろ?」

 やっぱり、ヌイさんは私のことを知ってるみたいだった。

「サヤカ殿は」とイカコさんは、うずうずした様子で話に割って入った。「我らを助けるために天から来てくれたのだろう?」

 蝦夷を助けるため、というわけではないけど、蝦夷とヤマトの戦いを回避すれば、空丸さんの命を守ることができる。だから広義の意味で、イカコさんの話に相違はなかった。

「そうですね、はい」

「やはりそうか! サヤカ殿も知ってのとおり、ヤマトは大きな城を築き、我ら陸奥の民を制圧しようとしている」

 城とは、私の世界でいう志波城のことだろう。

「ヤマトのヤツらをこの地から追い払いたいが、真正面から戦っても勝ち目はない。だから我らはヤツらの食料を狙っておる」

 イカコさんたちは、志和城へ食料を運ぶ者たちを襲撃しているのだという。俗に言う、兵糧攻めというものだろう。

「これによってヤマトの連中を弱らせ、一気に城を襲撃するつもりだ。襲撃すると言っても、我らが襲撃するわけではない」

「ん? どういう意味ですか?」

「我には秘策があるのだ。まあ、それは後で話すとして、今は別の話だ」

 イカコさんはもったいぶった言い方をした。

「先も言ったとおり、我らはヤマトの食料を狙っておる。しかし最近はヤマトたちに警戒され、思うように食料を奪えずにいるのだ。そこで!」

 イカコさんはパンと手を叩いた。

「アラハバキの使いであるサヤカ殿に、知恵を借りたいのだ! どうすればヤマトの連中から食料を奪うことができるか!」

 鼻息荒く語るイカコさんに続いて、

「我らは余計な犠牲は出したくない。ヤマトの者を驚かせた隙に、食料を奪えればいいのだが」

 ハジさんが落ち着いた声で補足した。

「土に穴を掘って隠れたり、木の上から襲ったりしたが、今じゃヤマトの連中はそんなことでは驚かぬ! サヤカ殿、どうか知恵を!」

「え、えぇ……?」

 そんなこと言われても困るよ。ただの女子高生に、襲撃の知恵などあるはずがない。

 いやでも、私が令和の女子高生だからこそ、この時代の人々には思いつかないような作戦を思いつけるかもしれない。

 私の時代には、いわゆる『ドッキリ』と呼ばれるテレビ番組や動画が多く存在している。その中にヒントがあるような気がして、私は過去に自分が視聴したドッキリを思い出した。

「あ、ゾンビはどうですか⁈」

 ドッキリの定番中の定番だけど、この時代にはないかもしれない。

「サヤカ殿、ゾンビとはいったい?」

 おぅ……。この時代に、ゾンビなんて言葉が存在するわけがなかった。

「死んだ人の真似をすれば、きっと驚くと思うんです」

「ああ、そういうことであるか!」

 イカコさんは勘が鋭いらしく、私の説明で理解してくれたようだった。対してハジさんは、小難しい顔をして首をかしげている。

「イカコ、我にもわかるように説明してくれ」

「ヤマト兵に殺された死者を装って、ヤマトの前に現れるってことだ。たとえばこんな風に」

 イカコさんはべろんと舌を出して、おまけに白目を剥いて、「ヤマトぉ〜……ヤマト憎し〜……」とうめき声を出す。そんなイカコさんを見て、「ガッハッハ!」とハジさんが大笑いした。

 ――イカコさん、なんとなく澪に似てる。

 剽軽で快活なイカコさんに、私は澪を重ね合わせてしまったのだけど、まさか澪のご先祖様だったりして――と勝手な想像するのは、タイムスリッパーの特権である。

「顔を墨で黒く塗ったり、赤い実を潰して血に似せれば、もっと死者のようになると思います」

「それは面白い!」

 イカコさんは膝を叩いて立ち上がった。

「我ら『ゾンビ』になり、ヤマトたちから食料を奪うのだ!」

早いもので、私がタイムスリップしてから三日が経った。

 蝦夷の里でしばらくお世話になることになった私は、仮の住まいを与えられた。一応、神の使いと扱われているため、丁重なおもてなしを受けている。入り口には見張りの人もいるし、服の替え(綺麗な刺繍が施された山丹服!)もたくさんあるし、ご飯も質素ながらお腹いっぱい食べさせていただいている。おまけに、入り口には常に見張りがいてくれるから、夜も安心して眠れていた。何か困ったことがあれば、どんなことでも言ってくれとイカコさんにも言われているけど、ここまでの扱いを受けておきながら文句など言えるはずもない。浄水されていない飲み水で体を壊さないか心配だったけど、案外平気だった。

 だけどこういうのは、体の抵抗力が落ちたときにガタッと体調が崩れると相場は決まっている。抗生物質もないわけだから、下手をしたら死ぬことだってあり得る。あまり長居はできない。早く運命を変えて、元の世界に戻らなくては。

 おそらく、私が運命を変える鍵は、イカコさんの言う『秘策』にある気がする。

 イカコさんは秘策を用いて、蝦夷とヤマトの戦争を終わらせようとしているわけだけど、その秘策によって、空丸さんは命を落としてしまうのではないかと私は予想している。

 それを回避するには、イカコさんが秘策の執行を取りやめるのが一番手っ取り早い。

 だけど現状、私はまだ秘策の正体すらわかってない。何度かイカコさんに訊いてみようと思ったのだけど、イカコさんは多忙な人で、ほとんど里にいない。いたとしても、他の里からの来訪者と長時間話していたりして、イカコさんと話せる状況ではなかった。ようやく隙を見つけて秘策について訊いてみるも、「話せば長くなる」とはぐらかせる始末だった。

 結局、秘策は謎のままになっているわけだけど、さらにもう一つ大きな謎を私は抱えている。

 徳丹城の消失についてだ。

 なぜ私の世界から、徳丹城が消えてしまったのだろう。

 私がタイムスリップしてからの三日間、私は改めてこの件をじっくりと考えてみた。なぜなら暇だったからだ。

 もしかすると、徳丹城の消失に関係しているのは空丸さんの死ではなく、城主である綿麻呂さんの死なのかもしれない――というのが私が出した見解だ。

 綿麻呂さんが蝦夷との戦いの中で命を落とす世界線では、徳丹城は誕生しない。綿麻呂さんが命を落とすということは、空丸さんも命を落とす可能性が高い。つまり歩空先輩も消失する。一応、理に適っていると思う。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 タイムスリッパー生活三日目は、私考案の『ゾンビドッキリ作戦』が、ついに実施される日だった。おまけに日没後は、空丸さんと会う約束をしている。

 朝から、里の女性たちが中心となって、男性たちの顔に死者のメイクが施された。それだけではなく、服も着古したものを着用してもらい、さながら蝦夷たちはゾンビ集団へと変貌。一種、お祭りのような雰囲気に包まれ、そこかしこで笑い声が聞こえていた。

 これで大きく運命が変わってしまったらどうしよう。元の世界に戻ったあと、妙な奇祭が生まれてたりして。

「ほらほらあんたたち、あんまり笑うとせっかく付けた砂が取れてしまうじゃないの」

 里人のメイクを率先して行ったのは、ユキさんという女性の方だった。年齢は三十代後半くらいだろうか。

「いつまで経ってもあんたらは子供だねえ。直してやるから、そのままじっとしてな」

 男勝りな性格で、言いたいことはハッキリと言う。そんなユキさんに、男の人たちは何も言い返せないみたいだった。

「だっはっはっは!」

 自分で施したメイクを見て、愉快そうにユキさんは笑った。

「こんなに笑ったのはいつぶりだろう。サヤカ殿のおかげだ」

「いえ、そんな……」

「さて、ちょっと休憩しようか」

 私とユキさんは柔らかな草の上に腰を下ろした。

「里が死人だらけだよ、だっはっは!」

 と笑うユキさんは、だけど急に寂しげに笑った。

「……いっそのこと、本当に死者が蘇ればいいのに」

 その言葉の響きから、ユキさんはきっと、大事な人を亡くした経験があるのだと思った。

「ニサカって男がいた。だらしがない男だったけど、誰よりも狩りが上手くてね。その腕を買われて、ニサカはアテルイのもとでヤマトと戦った。でも、ニサカが里に帰ってくることはなかった。帰ってきたのは、血がついた服だけだ。胸の辺りに、矢が刺さったような穴が空いていた。その服を見るたび、ニサカが受けた苦痛が私に伝わってくる」

 ユキさんは胸を押さえた。きっと、ニサカさんはユキさんの恋人だったのだろう。

「その苦痛を、そっくりそのままヤマトへ返したい」

 ユキさんの話を聞いていると、ヤマトとの平和的解決は、難しい問題なのだと気づかされた。

「……ユキさんは、ヤマトを恨んでるんですね」

「ヤマトへの憎しみが消えることはない。だけど、イカコの秘策さえ上手くいけば、私の恨みも少しは晴れるよ。もしかしたら、アイツのことだって、綺麗さっぱり忘れられるかもしれない」

 イカコさんの秘策とやらは、恋人を失った恨みや悲しみが、消えてしまうほどすごいものであるらしい。

「イカコさんって、どんな人なんですか?」

「子供の頃は体も小さくて、いつもハジにケンカで負けて泣いてた。だけどハジが困ったときには、必ず助けてやっていた。仲間思いなんだよ」

 やっぱり澪みたいだな、と私は思った。そう思うと、急に澪が恋しくなってきた。

 また二人で大判焼き会議ができればいいな。

「おーい、そろそろ集まってくれ‼」

 イカコさんが里の中央で大声を張り上げ、私たちはイカコさんのもとへと集合した。

 イカコさんは死者のメイクを施した里の男たちを見て、「こりゃいい!」と歓喜の声を上げた。

「こうやって見ると、ほんとに死者が蘇ってきたみたいだ。ヤマトのヤツら、きっと慌てふためくだろうな」

 メイクを施された里人は、イカコさんやハジさんも含んで十五人ほどだ。

「それじゃあ四人から五人に分かれて、俺が指定する場所に向かってくれ。ヤマト兵が食料を運んでるのを見つけたら、思う存分驚かせてやるんだ。そんでもって食料を頂戴して逃げてきてくれ。無駄な戦闘は禁止だ。貴重な戦力を失うわけにはいかない」

 そう言って、イカコさんは地図らしきものを広げた。

里の女性たちと川で洗濯をして、集落へ戻って夕ご飯の準備を手伝っていると、いくつかのグループに分かれていたゾンビ軍団のうち、一つが無事に帰還した。イカコさんの幼馴染、ハジさんを中心にしたグループだ。

 私考案の作戦だったわけだから、その戦果が気になるところではあったけど、どうにも様子がおかしい。皆険しい顔をして、ヒソヒソと何かを話している。

 それから間もなく、イカコさんのグループも帰ってきたのだけど、その直後に事件が起きた。

「イカコ、これはいったいどういうことだ!」

 イカコさんが帰ってくるなり、ハジさんはイカコさんに詰め寄った。

「なぜこちらの作戦が相手に筒抜けになっておるのだ!」

 え? 筒抜け?

 それはつまり、私たちのゾンビ作戦を、ヤマト側が予め知っていたってこと?

「我にもわからぬ!」

 心配した里人たちがイカコさんとハジさんを囲むと、イカコさんは皆を見渡してから、苦笑いを浮かべた。

「あー、残念だが今回は失敗だった」

 何が起きたのか、と里人たちから口々に問われると、

「ヤマトは俺たちが、死者に扮して驚かせる算段を立てていたことを、どういうわけか知っていた」

 どよめきが走る。

「イカコ、はっきり言うがいい。我らの中に、裏切り者がいると」

 さらに大きなどよめきが走ったあと――どうしてだろう。里人たちが、チラチラと私を見てきた。

 どうやら私は、ヤマトのスパイだと疑いをかけられているみたいだった。

「我は、サヤカ殿はヤマトの人間だと疑っておる」

「めったなことを言うな!」

 イカコさんがハジさんの肩を掴み、ぐいっと引いた。

「サヤカ殿は、祈祷ともに神木に下りてきたのだ! アラハバキの使いに来まっておる! 婆っちゃだって、神の使いが下りてくると予言していただろう! それを忘れるな! それともハジは、婆っちゃまでヤマトの回し者だっていうのかよ!」

「婆っちゃは元々ヤマトの人間だ。それを忘れてはいけない」

 そうだったの? ってことは、ヌイさんは蝦夷ではなく物部なのだろうか。

「イカコだって、サヤカ殿がヤマトの回し者ではないかと疑っていたはずだ。だからサヤカ殿には秘策の内容を話してないのだろう」

「違う!」

「見張りをつけていたのも、サヤカ殿を守るためではなく、サヤカ殿の行動を見ておくためだ」

「違うと言っておるだろ!」

「ええい! やかましい!」

 女性の声が響いた。

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあと男のくせに騒ぐな。わらしべでもあるまい」

 イカコさんとハジさんを一喝したのは、ユキさんだった。

「サヤカ殿は無関係だよ」

「なぜそう言い切れる」

「だって――」

 ユキさんは、なんでもないことのように言った。

「――ヤマトに今回の作戦を告げ口したのは、私だからだ」

ヤマトとの戦争で、ユキさんは愛した人を失っている。だからヤマトに、ユキさんは強い恨みを抱いていると言っていた。

 それなのに、どうしてユキさんがヤマトに味方するような真似をしたのだろう。

「わけを話してくれるのか?」

 イカコさんが訊くと、

「ああ。最初から話すつもりでいた」

 ユキさんは淀みなく答えた。

「皆も知ってのとおり、私はヤマトにニサカを殺された。今でも私はニサカを愛しているし、ヤマトを許せない。一人残らず、死に追いやりたいと思っている」

「だったらどうして……」

「今、まさしく言っただろ。私はヤマトを一人残らず、死に追いやりたいと」

「あ、まさか……!」

「私はヤマトに寝返ったフリをした。私が知っていることを、すべて話すと言ってある。だから今回の件についても話した。だが、私は一番重要なことを話していない」

「秘策について、か」

「そうだ。私は、なんとしてもイカコに、秘策を成功させてほしいと思っている。だが、ヤマトに我らの動きを怪しまれれば、失敗に終わるだろう」

 ようするに、ユキさんは二重スパイとなったわけか。本当の情報をヤマトに渡すことで信頼を勝ち取り、本当に伏せておきたいことを隠した。

「勝手なことをしてすまなかった。サヤカ殿にも、迷惑をかけた」

 頭を下げたあと、ユキさんは私たちに背を向けた。

「私は……ヤマトを一人残らず、殺してやりたいんだ」

「ハジの無礼を許してくれ! この通りだ!」

「そんなことしないでください!」

 あの一件のあと、私はイカコさんに土下座をされた。地面に額が埋まるくらいの土下座だった。

「アイツは、我に代わって悪者になってくれたのだ!」

「わかってますよ」

 ああいう汚れ仕事ができるからこそ、イカコさんはハジさんを一番に信頼しているのだろう。

「……お二人の仲は大丈夫なんですか?」

「心配ない。これまでハジとは星の数ほどケンカをしてきたが、翌日にはお互い忘れておる。昔からそういう仲なのだ」

 それを聞いて安心した。

「幼い頃、誤ってハジを悪臭漂う泥沼に突き落としてしまったことがあった。そのときばかりはハジも烈火のごとく怒り、我と二度と口をきかぬと言ってな。しかし翌日、我らは普段と変わらず一緒に遊んだ。そうして我はまた泥沼にハジを突き落としてしまった」

 何の話だよ。仲直りの話だと思って聞いてたのに。

「ハジは他人に厳しいが、他人を許すこともできる。中々できることではない」

 許すこと、か。

 たしかに、許すという行為は難しい。ときに屈辱的に感じたり、損をした気持ちにさせるものだ。

「……ユキさん、心配ですね」

「そうだな。三十年以上も続く戦さだ。皆が皆、ヤマトへ大きな怒りと憎しみを抱いておる」

 イカコさんの言うとおりだ。平和的解決なんて、土台無理なような気がした。

「あ」

 そういえば、許すで思い出した。

「あのー……、実は一つ、イカコさんに許してほしいことがあるんですけど」

「ん? なんだ」

「今から私、空丸さんに会ってきます」

「なにゆえ?」

「ヤマトと蝦夷の今後について、話がしたいんです」

「サヤカ殿が我らの平和のために、ヤマト兵と話をしたいというのならば、止める道理はない。しかし、一人では心配だ。空丸は、信用に足る男なのだろうか」

「大丈夫です。それは……私が神の使いだからわかってます」

 ほんの少しだけ、私は嘘をついた。

「サヤカ殿の言葉でも、ヤマトだけは信用できん」

 イカコさんの声が、ワントーン低くなった。

「特に、坂上田村麻呂。あの男だけは許せん。田村麻呂は、アテルイとモレの命は奪わぬと言った。だが実際はどうだ。処刑されたではないか」

「そうですけど……。でも田村麻呂さんは、二人を蝦夷の先導者にしてほしいと、助命をお願いしたんです」

 それは歴史上、有名な話だった。

「田村麻呂が助命を懇願しようが、そうでなかろうが、アテルイとモレは処刑された。男と男の約束を破った田村麻呂を、我は許すつもりはない」

 イカコさんは、許すことの大切さを知っている。そのイカコさんが、『許すつもりはない』と言っているのだから、相当腹に据えかねているのだろう。

「この機会に、もう一つ聞いておきたいんですけど」

「なんだ」

「秘策です。城とヤマト兵を、一気に壊滅させる秘策って、いったいなんなんですか?」

「その前に……空丸との約束はいつだ?」

「えーっと、日没です」

「そろそろではないか」

 ふと気づけば、陽が落ちかけている。

 仕方ない。秘策については、また今度訊いてみよう。

 松明に火を灯してもらって、私は里から一キロほど離れた場所にある丘へと歩きだした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 空丸さんはちゃんと約束の場所にいて、静かに私を待っていた。

「来てくださって、ありがとうございます」

「気にするな。それより、取り急ぎ伝えておきたいことがある。私の部下、火蛾に関することだ」

 私を襲った下賤な男か。

「火蛾は此度の戦さで手柄を立て、褒美を取ろうと張り切っておった。だが、思うような手柄が立てられず、毎日苛立った様子だ。火蛾の性格を考えれば、鬱憤晴らしに蝦夷を襲うかもしれぬ。警戒してくれ」

「わかりました。イカコさんに伝えます」

「ここへ来ることは、イカコへ伝えておったのか」

「……はい。正直に話しましたが……いけませんでしたか?」

「いや。むしろ好都合だ」

 空丸さんは甲冑の隙間に手を差し入れた。

「これを、イカコへ渡してほしい」

 私が空丸さんから手渡されたものは、手紙のようだった

「綿麻呂からだ」

「綿麻呂さんから……?」

 いったい何が書かれているのだろう。気になり過ぎる。

「サヤカは私に、ヤマトと蝦夷の互いの平和のために協力し合いたいと言っていたが、おそらくその必要はなくなる」

「え⁈ どういう意味ですか?」

「直にわかる」

 そう言うと、空丸さんは馬に跨がった。

「さらばだ」

「ち、ちょっと、空丸さん!」

 もっと色々と話がしたい。というか、この手紙の内容を、せめて私に説明してほしい。

 しかし私の願いもむなしく、空丸さんはあっという間に夕闇へと消えていった。

「空丸さん、どうかご無事で‼」

どうにも、イカコさんの様子がおかしい。

 きっかけは空丸さんから預かった手紙を、イカコさんに手渡した辺りからだ。

 それまでは毎日忙しそうにしていたのに、最近ではずっと家に引きこもっている。たまに見かけても思い詰めたような顔をして、周囲への反応も薄い。

 イカコさんが何に悩んでいるのか、ハジさんですらわからないらしい。

「何を訊いても、『今は言えぬ』、としか答えない。イカコが自分から語るのを、待つしかなかろう」

 幼なじみのハジさんが言うのだから、黙って待つしかないのだろう。

 だから私たちはひたすら待った。イカコさんが答えを出すまで。

「今日、みなに話がある」

 イカコさんから集落中央にある広間への召集がかかった。

 空丸さんに手紙を渡されてから、三日後のことだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 広間では火が焚かれ、里人たちの顔に炎の陰影がゆらりゆらりと映っている。

 広間の中央には一メートルほどの壇上が用意され、そこにイカコさんが乗った。

「伝えてあったとおり、みなに大事な話がある」

 イカコさんは、空丸から渡されていた手紙を広げた。

「文室綿麻呂からの手紙だ。内容は……」

 内容は?

「和議についてだ。綿麻呂から、和議を結びたいと申し出があった。余人を交えず、我と話がしたいと」

「和議だと⁈ それでアテルイとモレは処刑されたではないか!」

 いの一番に反応したのはハジさんだった。

「こんなの騙打ちに決まっておる! 綿麻呂は田村麻呂の部下だった男だ。絶対に信用などできぬ!」

 そうだそうだ、と里人たちが続く。

「イカコ!」

 よく通る声でその名を呼んだのは、ユキさんだった。

「和議を結ばなくたって、私たちはこの戦いに勝てる。そうだろ? 秘策を使えば、城もろとも多くのヤマト兵を葬ることができる」

 ユキさんが言うと、さらに士気は上がり、里人は口々にヤマトを罵った。

 だけど、その中心にいるイカコさんだけは、ずっと遠い空を見つめたまま、何か考え事をしている様子だった。

「……イカコ。もしかして、和議を結ぶつもり?」

 ユキさんに問われたイカコさんは、どこか吹っ切れたように嘆息した。

「そのつもりだ。我はヤマトとの和議に応じる」

「……なっ!」

 返答を訊くなり、ユキさんはイカコさんの服を掴んだ。

「どうして秘策を使わないんだよ! 何がなんでも使え! やってくれ……ッ! お願いだから、一人でも多くのヤマト兵を殺してくれよ……ッ!」

 イカコさんの服が千切れるくらいに、ユキさんはイカコさんを揺さぶった。

「私は、死んだニサカに何もしてやれなかった……。だから私は墓の前で約束したんだよ、必ず仇を取るって……」

 冷たい隙間風のような、ユキさんの泣き声が木霊する。

「いったい何のために準備してきたんだ……ッ!」

「イカコ、我もユキと同じ意見だ。秘策を使うべきだ」

「ああ……」

 空返事をしたあと、イカコさんは私たちを見回した。

「この数日、ずっと考えていた。どうすればいいか。どうするべきか。率直な気持ちを話せば、我はヤマトの城を崩壊させ、勝利を上げたい。だが、それで本当の平和は訪れるだろうか。我らが秘策を持って城もろともヤマト兵を死に追いやれば、五年の平和は約束されるだろう。しかしたったの五年だ。我々は、命あるかぎり朝廷と戦い続けなければならぬ。そんなのは本当の平和とは言えぬだろう。我は陸奥を、五年ではなく、二百年平和が続く地にしたい。だから――今から言うことを、心して聞いてくれ‼」

 魂の叫び、とでも言うべきイカコさんの声が、私たちを圧倒した。

「我らの地に蔓延る恨みや悲しみや怒りは、いつか、誰かが飲み込まなければ断ち切れぬ! それが今で、我らなのだ!」

 風が吹いたのだろうか。炎がごぅごぅと音を立てながら舞い上がった。

「恨みや悲しみや怒りは、晴らすものにあらず。忘れてゆくものだ。だが、愛情や友情や慈愛は、決して忘れてはならぬもの」

 イカコさんの言葉には熱がある。だから言葉を介して感情まで伝わってくる。

「我らは勇敢であるが蛮族ではない。自然を慈しみ、人を愛し、そして誇りを持って人の罪を許そう」

 今イカコさんが言った言葉は、そのまま東北の人々の気質に繋がっているような気がした。

「ユキ」

 イカコさんは、いつの間にか頽れていたユキさんの背中を撫でた。

「ニサカの願いは敵討ちでない。ユキが、平和に暮らしてゆくことだ」

「うぅ……うぅ……」

 この頃になると、イカコさんの決断に異を唱える人は誰もいなかった。まるで新しい命を吹き込まれたかのように、顔つきが変わっている。

「綿麻呂との約束の場所は志波城近くにある、大きな岩だ。そこで我は文室綿麻呂と和議を結ぶ。皆、心配しないでくれ。我らには、アラハバキのご加護がある。すべてが上手くいくはずだ」

 すべて上手くいく――。

 思わず私は空を見上げる。

『キミが運命を変えたのを察知したら、俺は三年前の夏まで時間を進める』

 まだ、何も起きない。

 鳥橋さんが現れる気配はなかった。

 つまり私はまだ、運命を変えられていない。

 イヤな予感がする。

 和議を結ぶのではなく、秘策を使うほうが、私にとっては正しい未来なの?

「今まで準備してきた秘策については、ゆっくりと片付けていけばいい」

「あ、あの、私まだ、秘策について何も聞かされてませんでしたが……」

「ああ、そういえば、サヤカ殿にはまだ打ち明けていなかった。もったいぶってしまって申し訳ない。実を言うと――」

 イカコさんは、懇切丁寧に秘策の内容を説明してくれた。

 内容を聞いた私は、愕然とした。

 それは明らかに、私にとっての『正解』だった。

 なぜなら秘策とは、志波城から徳丹城に移された理由、そのものだったから。

 歩空先輩にもう一度会うなら、今ここで未来を変えるしかない。

 和議を結ぶのではなく、秘策を使う未来に。

 でも、そんなことできるわけがない。イカコさんのような演説をして、人の心を動かすことなど到底無理だ。

 たとえできたとしても、秘策を使えば多くのヤマト兵が死ぬ。見方を変えれば、私のせいで多くの人が死んでしまうのだ。そんな大きなものを背負えるはずがない。

10

結局、私がこの時代で過ごした一週間は、なんだったのだろう。

「どうすればよかったんだよ……」

 答えがわかったところで、私にはどうすることもできない。

 まったくと言っていいほど眠れず、時刻はおそらく午前二時を回った頃ではないだろうか。

 私は起き出して外へ出た。明かりの存在しない世界では、月明かりは異様な明るさを湛えている。

 あの丘に上って、私は足を投げ出して座った。

「わあ……」

 満天の星空が、私の頭上いっぱいに広がっている。もやもやした気持ちが、ほんの一瞬だけ晴れたような気がした。

「眠れないのかい」

 その声に振り返ると、ヌイさんの姿があった。

「うわぁ、びっくりしたぁ……!」

 まさか先客がいたとは。

「ヌイさん、星を読んでいたんですか?」

「そうじゃよ。星はワシに、色んなことを教えてくれる」

「たとえば、どんなことですか?」

「明日の天気じゃな。明日は、大雨になるようじゃな」

「え? 雲一つありませんけど」

「今はまだ見えてないだけじゃな」

 そうなのだろうか。とても雨が降るようには思えないけど。

「ところで、小耳に挟んだんですけど、ヌイさんは元々蝦夷ではなく、ヤマトの方だったんですか?」

「そうじゃよ。物部としてこの地に来た」

「どうして蝦夷たちと一緒に生活するようになったんです?」

「蝦夷と結婚したからじゃ」

「そうだったんですか……」

 ヌイさんも、かつては誰かを好きになった。そして自分の生活を捨ててまで嫁いできた。そう思うと、私が抱えている問題を話しても、笑われないような気がした。

「サヤカ殿は、どうやら迷っておるようじゃな」

「……そうですね。はい」

 どうせもう運命を変えられないなら、ヌイさんにすべてを打ち明けてしまいたかった。

 私は神の使いではあっても、蝦夷を助けるために来たわけではないことや、特別な力などないことを。

「実は私……」

「どんなときでも、自分を見失ってはいけないよ」

 ヌイさんは私の言葉を優しく遮った。まるで私に、まだ諦めるなと言っているみたいに。

「サヤカ殿は、この世界に何をしにきたのじゃ」

「それは……」

 私の目的はただ一つ。歩空先輩と、もう一度会うためだ。

「人は、多くのことはできん。じゃから、自分の目的に向かって進めばええ」

「……でも、私の身勝手な行動で、誰かの幸せを奪うのも怖いんです」

 私が独断で、秘策を実行する手もある。だけどそれによって生じる責任を、私は負うことはできない。人を殺してまで、歩空先輩に会おうとは思わなかった。

「……ヌイさん、ごめんなさい」

 堪えきれず、私は泣き出してしまった。

「私は好きな人に会いたくて、この世界に来たんです……! 皆さんを助けたいとか、そういう気持ちではなくて……」

「ええんじゃよ。サヤカ殿はその思いを貫けばええんじゃ」

「でも……」

「星空は、どうして綺麗じゃと思う? それぞれが輝いておるからじゃ。他の星に遠慮することもなく、自らが輝いておるから、こんなにも綺麗なのじゃ」

 私は星空を見上げる。私の世界では、とても拝めないような光景だ。

「イカコは、新たな蝦夷の長として、アテルイ亡き後必死に頑張っておる。ハジもイカコを支えようと、イカコにはできないことをやってのけている。ユキは溢れんばかりの恨みを、飲み込もうと決意した。誰も他人の代わりなどできん」

「……はい」

「皆が皆、自分がすべきことを全うしておる。それは決して自分勝手なことではない。他人を信用しているからこそできることなのじゃ」

 私はたぶん、自分がやるべきことを全うできていない。

「サヤカ殿は、おそらく他人を信じられないのじゃ。だから他人の顔色を窺ってしまう」

 まさに私だ。私はいつも、他人の顔色ばかり窺ってしまう。

 私は今までそれを、『自分に自信がないから』だと思っていた。でも、実際は違うのかもしれない。

『この人は私を嫌いかもしれない』とか、『この人は私に迷惑しているかもしれない』とか、そんなことをいつも考えて行動してきた。相手のことを疑うことが、当たり前になっていた。

「サヤカ殿は信じる心が欠けておる。だから何も決断ができないんじゃ」

 イカコさんが出した答えが間違えているはずがない。何度この世界をやり直したとしても、きっとイカコさんは同じ決断をするだろう。だってあれだけ考えて考えて、考え尽くして出した答えだもの。

 徳丹城が存在する世界でも、存在しない世界でも、イカコさんが出した答えは同じに決まってる。

 人を信じるとは、こういうことなんだ。ようやくわかった。

「……やっと、わかりました」

 もう私は疑わない。

 自分がしなければいけないことだけに集中する。

「蝦夷とヤマトの問題は、イカコさんと綿麻呂さんに任せます。私は好きな人に再会するために、自分ができることをします」

 私がそう言うと、ヌイさんはにっこり笑って頷いて、私の手を取った。しわしわの手で、私の手のひらを撫でてくれる。しわくちゃで、がさがさしていたけど、とても心地がよかった。

「私、ヌイさんのこと、絶対忘れません」

「ワシも忘れんよ。どこにいても、どれだけ離れていても、見守っておるからの」

 私は目に焼き付けるように、満点の星空を眺めた。星の瞬きに呼応するように、私の心がじんじんと熱くなるのを感じた。

11

私はムリを言って、イカコさんに同行させてもらった。イカコさんとハジさん、そして私の三人だけで、綿麻呂さんとの約束の場所へ出向いた。

 辺りは背丈の低い草が生茂っていて、少し離れたところには大きなお城――志波城が見える。

「婆っちゃが言ってたとおり、降ってきたな」

 最初は針のような雨だったのに、いつしか鉛玉のような雨に変わっていた。

「綿麻呂はまだ来ていないようだな」

 辺りの気配を伺いながら、私たちは大きな大きな岩へと近づいてゆく。高さ五メートルもあるだろうか。巨大な岩だ。

 ――ん?

 誰もいないと思っていた岩の陰から、人影が出てきた。人影は二つ。一人は空丸さんで、もう片方は四十代くらいの男性だった。狩衣姿のその男性は、無骨な武人の雰囲気がありながらも気品があった。

 おそらく、文室綿麻呂さんで間違いないだろう。

「イカコ、よく来てくれた」

 綿麻呂さんは、口もとに微かな笑みを浮かべた。だけど眼光は寒気がするほど鋭くて、征夷大将軍の『格』のようなものをまざまざと見せつけられたような気がした。

「礼を言うぞ」

「……連れてきたのは空丸だけか。余人を交えず我と話したいとは、本当だったみたいだな」

「無論」

 と短く答えた綿麻呂さんに、イカコさんは挑むような目つきで応えた。

「お前も今や征夷大将軍か。つまり田村麻呂と同じ地位まで上り詰めたわけだ」

「その田村麻呂様は」空丸さんが毅然とした態度で言う。「綿麻呂様を送り出すとき、こうおっしゃられた。宝亀五年の昔から数えれば、三十八年の長きに渡り、ヤマトと蝦夷は戦い続けてきた。なんとしてでもこの戦いに終止符を打ってほしい、さもなくば蝦夷にも、そしてヤマトにも未来はないと」

「攻めてくるのはいつもヤマトのほうだろう」

「その通りだ。だからできる限り、そちらの望みに沿い、和議を結びたい」

 私はイカコさんたちのやり取りを眺めながらも、周囲に注意を払い続けた。

 私の目的は、あくまで空丸さんの無事を確保すること。そのことに集中しなければいけない。

 ――ん?

 茂みの陰に、何かがキラリと光るのが見えた。なんだろう。目を凝らしてみた私は――。

 思わず、ぞっとした。

 光って見えたものの正体は、瞳だった。

 しかも動物のものではない。

 人間の目――。

「誰かそこにいます‼」

 私は叫んだ。

 その瞬間、雄叫びのような声が轟いた。

「イカコ! その首もらった!」

 草むらから、突然人影が飛び出してきた。

 一週間前に私を襲った下賤な男――火蛾だ。

 火蛾はイカコさん目がけて切っ先を向け、突っ込んでくる。

 だがイカコさんは瞬時に反応し、腰元から剣を抜いて応戦。骨を軋ませるような、刃と刃がぶつかる音が轟く。

「おぬしでは相手にならぬな!」

 さすがは蝦夷の長だ。イカコさんは容易く火蛾の刃を跳ね返すと、素早く前蹴りを食らわせた。火蛾はバランスを崩して泥へと突っ込んだ。

「サヤカ殿! よくぞ気づいた! さすがはアラハバキの使い!」

 これできっと、未来は変わった。

 空丸さんの命の危機は、おそらく火蛾の奇襲に起因したものだったのだろう。それを防げたのだから、未来は変わるはず。

 それなのに、未だ時間は進まなかった。

 ここまでして、まだ運命は変わっていないというのだろうか。

「どうして……? なんで……?」

 思わず天を仰ぐ。

 灰色の雨が空を不安色に染めている。

 鉛玉のように固い雨が、絶えず地面を穿ち続ける。雨粒が土を崩し、泥水へと変わってゆく。一帯は、まるで泥が沸騰しているかのように、泡ぶくが吐き出され続けていた。

 一度降り出した雨は、際限がなかった。まるで人の怒りのように。

「おのれ綿麻呂ぉおおお!」

 ハジさんの影が私の視界を横切った。

 灰色の空に、空を切り裂くような巨大な稲妻が映る。直後、まるで空が割れて、その破片がバラバラに砕かれたかのように、迅雷の音が響き渡った。

「また我らを騙したな!」

 ハジさんが綿麻呂さん目掛けて走り出す。

「誤解だ! 私の与り知らぬこと!」

「綿麻呂様……!」

 綿麻呂さんを守るように、空丸さんがハジさんに立ちはだかる。その光景を見るなり、最悪の未来が頭を過ぎった。空丸さんが、怒り狂ったハジさんに斬られて命を落としてしまう未来。

「空丸‼ どけ‼」

「命に代えてでも綿麻呂様をお守りする!」

「やめて――」

 雨や風や雷に遮られ、私の声は誰にも届かない。

 私は走る。泥濘に足を取られながらも、必死に足を動かした。

「お願いだからやめて――」

 雨と涙と悲しみに満ちたこの物語を、いったい誰が初恋の物語だと信じるだろう。

 私の初恋は執念深い。なにしろ、私は歩空先輩にもう一度会うために、私の肉体と魂は千二百年もの時を超えたのだから。

 永遠の愛なんてない。そんなことは私だってわかってる。綺麗事や美談になんて興味ない。たとえ惨めにフラれたっていい。

 人はいつか死ぬ。だから全力で生きる。だったら、いつかフラれるからこそ全力で恋をしたって何の恥でもない。

 とにかく私は歩空先輩に会いたい。ただそれだけだ。

「死ねぇえええ!」

 ハジさんが高く高く跳躍し、頭上に剣を構えた。

 あとどれだけもがいたら、私は歩空先輩に会えるのだろう。

 私の人生が大きく動き出したのは、高校二年生の六月。

 笑ってしまうほど愚かな事件を起こした、体育祭がきっかけだった。

 思い出すと、笑えてくる。

 数秒後に私を襲うだろう痛みに備えて、私は思いきり笑った。

 なんて愚かで、愛しい初恋なのだろう。

 私は空丸さんを庇うように、ハジさんに背を向けた。

「うぅ……っ」

 直後、私の背中に燃えるような痛みが走った。前のめりに倒れる私を、空丸さんが受け止める。

「サヤカ!」

「なんてことだ――」

 

「もう誰も私の恋の邪魔をするな……‼」

 

 なんだかやっと、私は言いたいことを言えた気がする。

「空丸さん……私から、お願いがあります」

「それ以上喋ってはならぬ!」

 私は空丸さんの言葉を無視して続けた。

「空丸さん、どうか、生きてください……」

「なぜそこまでして私を……」

「あなたの遠い遠い子孫に、私は命を救われたんです……。私は明日の明日の、ずっと明日から来たんです……信じてもらえないと思いますけど……」

「信じるとも……!」

 その言葉を聞くなり、体から力が抜けていった。相当に気を張っていたらしい。

 私は目をつむった。

「綿麻呂、和議の条件を我から言い渡す」

 イカコさんの声が聞こえてくる。

「征伐軍を引き上げさせろ」

「当然の要求だな」

「ただし、今すぐにだ。もう直、志波城は崩壊する」

「……ん? 何を言っておる?」

「我らは前々から、雫石川に堰を設けて流れを止めておる。一気に放流すれば川は氾濫し、間違いなく志波城は崩壊する」

 歴史上、志波城は雫石川の氾濫によって崩壊した。それがまさか、イカコさんたちの秘策だとは思いもしなかった。

「早く撤退させないと多くの犠牲者が出るぞ」

「なぜそれを私に打ち明けた? 黙っていれば、蝦夷は我らに勝てたではないか」

「あくまで我らの目的は和議を結ぶことだ」

「……そうか。イカコ、礼を言うぞ。二万の兵を無駄にせずに済んだのだからな」

「では早速、恩を返してもらう。都へ帰ったら、帝にこれ以上の征伐は行わない、蝦夷との戦さは終わった、と宣言させろ」

「わかった。もう二度と陸奥には手を出さぬと約束させる」

「必ずだぞ」

「必ずだ。この命に代えても、必ず」

 意識が徐々に薄れてゆく。

「死んではならぬ……!」

 空丸さんの声が、ずいぶん遠いところから聞こえた。

 

 ねえ先輩。

 私、頑張ったよ。

 ただ先輩に会いたいって想いだけで、千年以上も昔に来たんだ。

 もしももう一度会えるなら、私のことを褒めてほしい。

 ……ううん。褒めてくれなくてもいい。

 また私に、くだらない話をしてほしい。

 西徳田のなんでもない道を、今度は手を繋いで歩いてほしい。

 そして今度こそ、一緒にひまわり畑を見てほしい。

 もしかしたら、世界は変わらないかもしれなくて、私は先輩に会えないかもしれない。

 それでも私は、もう投げやりにならず、自分の人生を大事にしようと思うんだ。

 私の高校生活は、澪や両親に多くの迷惑をかけて終わってしまった。私を愛してくれる人たちに、恩返しをしなければいけないと思う。

 自らの力で、もう一度立ち上がりたい。

『不器用だけど、一生懸命な志田ちゃんが俺は好きなんだ。自分を変えようともがく志田ちゃんを、ずっとそばで応援したい』

 私が自分を変えようとすればするほど、きっと私はすぐそばに先輩を感じることができる。

 たとえもう二度と会えなくても、私を見守っててね。

 私、絶対絶対頑張るから。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「…………ん」

 長い夢を見ていた気がする。

 目を開けると、私の眼下を車が流れてゆくのが見えた。

 私はあの歩道橋にいて、欄干に両手を乗せていた。

「帰ってきた……」

 それに気づくと同時、瞬時に私は振り返った。

「ああ……」

 なんて懐かしい。そして、なんて美しいのだろう。

 鮮やかな夕陽が広がる、徳丹城跡が見えた。

 徳丹城は無事に戻ってきた。

 あとは――。

 

「志田ちゃん‼」

 

 その声を、私はどれだけ待ちわびたことか。

「志田ちゃん、今日はほんとにごめん‼」

 歩道橋を駆け上ってきたのは、相去歩空その人だった。

「……先輩」

「……志田ちゃん、泣いてるの?」

 もう、言葉なんていらないと思った。

「先輩……‼」

 私は先輩の胸に飛び込んだ。

「ちょちょちょ、なに、どうしたの⁈」

「ずっと……! ずっと探してました……!」

 話したいことは山ほどある。

 だけど今は先輩の腕の中で、夢のような時間をたっぷりと味わいたかった。

 まるで先輩は何かを察したかのように、黙って私を抱きしめてくれる。

「……先輩、突然すみません」

 私は顔を埋めながら言う。

「……いや、いいよ」

 いったい、どれくらいそうしていただろう。

 ふと、私は自分が車に轢れたことを思い出し、道路のほうに目をやった。

 ちょうど、蛇行運転をしたトラックが、こちらに走ってくるのが見えた。そのトラックは歩道に乗り上げて停止する。後続の車が、クラクションを鳴らしながら急ブレーキをかけた。

「なんだあれ危ねえな! でも良かった、巻き込まれなくて」

 ああ、やっとだ。

 これで私自身の無事も確保できたかと思うと、急に全身の力が抜けた。

エピローグ

私の世界に、無事に歩空先輩と徳丹城が帰ってきたから、一年と半年が過ぎた。

 元の世界にすっかり元通りになったかと言えば、微妙に違う部分がある。

 私が元いた世界では、存在していない祭りが増えた。顔に墨を塗って無病息災を願う奇祭だけど、私は無関係だ。たぶん。

 もちろんほとんどのものが変わってなくて、幼馴染の澪は相変わらずだ。矢巾町で毎年行われるちゃぶ台返し世界大会に出場し、ハゲ頭のズラを被って盛大にちゃぶ台を返していた。そんでもって優勝までしたものだから、澪は現役の世界チャンピオンだった。

 私と先輩は、まあ順調と言えば順調だけど、たまにケンカをしたりもする。いくら千二百年もの時間を遡ってまで叶えた恋だとはいえ、ムカつくときはムカつく。

「志波城が崩壊したあと、綿麻呂は生き残った兵と都へ帰った。和議の報告を受けた嵯峨天皇は戦争の停止を宣言。それで、三十八年にも及ぶヤマトと蝦夷の戦いは終わったってわけだよ」

 受験生となった先輩は、一週間後にセンター試験を控えている。それなのに、夜の七時を過ぎたあたりで、『勉強飽きた。ちょっと話そうぜ』と私にラインを送ってきて、当然私は、『勉強しろ』と返したけど、『会ってくれないなら勉強しない』などとふざけた返答をしてきた。

 それで私は、最短で会える歩道橋で、こうして先輩と会っているってわけだ。

「朝廷の記録には『中外無事』って書いてあんだけど、つまりはヤマトの内も外も平和だって意味。それから二百年以上、陸奥は大きな戦さと無縁に過ごした。この徳丹城は最後の城柵で、綿麻呂は最後の征夷大将軍となったわけだ。いわば徳丹城は、蝦夷とヤマトの友愛の象徴だな」

「ねえ歩空、徳丹城の話はわかったから、早く帰って勉強しよう」

「相変わらず紗夏は心配性だな」

「歩空が楽観的すぎるだけだから!」

 センター試験まで、あと何日だと思ってるんだよ。

「にしても高校生活、あっという間だったなぁ。ほんとに楽しかった。なんか俺、ずっと笑ってた気がする」

「いや実際にずっと笑ってたよ?」

 私の記憶の中で、歩空はいつも笑っている。

「あとは大学に合格するだけなんだから、あともう少し、頑張ってよ」

 スマホを取り出し時間を確認する。私の吐く息は、スマホの光に当てられてぼんやりと光る。ちなみに、私のスマホのロック画面は、ひまわり畑を背景に笑う先輩だ。去年の夏に、撮ったものだった。

「もう八時だよ? 早く帰って勉強しないと」

「それはもちろんわかってるんだけど……受験前に、どうしても紗夏に言っておきたいことがあってさ」

「……え? なに」

 改まった言い方をするから、思わず私は身構えてしまった。

「今から俺が言うことは、荒唐無稽も荒唐無稽で、そんなに真面目に聞かなくてもいい話だ」

 なにそれ。

「そんな話を、わざわざ受験の一週間前にするの?」

 いったい何を考えてんのさ。

 先輩は、雪が降り積もった徳丹城跡を視線に据えた。

「徳丹城って、紗夏にとっては特別な場所じゃん? 澪ちゃんと親友になった場所だし、俺が紗夏を好きになるきっかけになった場所だし、何より俺たちが付き合った場所だ」

 厳密に言えば、先輩が私を好きになったのは徳丹城近くのあぜ道だし、付き合ったのはこの歩道橋だ。

「紗夏にとって特別なこの場所を、俺はもっと好きになりたいと思ってさ、個人的に色々と調べてたんだ。そしたら、面白いことがわかった」

「ふうん?」

「蝦夷とヤマトが争っていた頃、アラハバキの使いが現れて、蝦夷とヤマトの仲を取り持ったって伝説がある。そのアラハバキの使いは女性の姿をしていて、青い衣を身に纏っていたらしい」

 ――まさかこれって私のことじゃない!?

 狼狽えるわけにはいかないから、「へ、へえ」と私は平静を装って答えた。

「それとさ、俺の家には代々、こういう言い伝えがある。未来から来た少女が、俺の遠いご先祖様を救ったって。その少女も、青い衣を着てたらしい」

 きっと空丸さんだ。空丸さんが、自分の子供から子供へ、私に命を救ってもらったことを、伝えていったのだろう。

「俺はこの二人が、同一人物なんじゃないかと思うんだ。つまり、未来から来た少女は、何かの手違いでアラハバキの使いだと勘違いされたんじゃないかって」

「お、面白い話だね!」

「それと俺は、とある都市伝説についても調べた。紗夏も知ってる、ワタリドリノスバコだ」

「へ、へえ?」

「岩手医大生に、北島さんっていう、ワタリドリノスバコを研究している人がいて、その人から話を聞いてさ」

「……え⁈」

 まさか私の与知らないところで、北島さんと先輩が会っていたとは……。

「北島さんの話を聞いたあと、俺は大胆な予想を立てた。あの日――俺たちが付き合った日、蛇行したトラックが歩道に乗り上げたよな? 運が悪かったら、俺たちは事故に遭っていたかもしれない。なのに紗夏は、あのトラックを見てびっくりしてたっていうよりも、安堵してるように見えた」

「……そうだったかな」

「仮に紗夏が俺の目の前でトラックに轢かれて死んでいたら、間違いなく俺はこう願う。『どうか神様、紗夏を生き返らせてください』って。もしもワタリドリが近くにいたのなら、その願いを叶えてくれたかもしれないよな。でもワタリドリは現実に起こりえることしか叶えない。だから、ワタリドリは俺を消したんじゃないかと思う。最初から俺が存在しない世界なら、紗夏は死ぬことはないから。まあ、この結論を出したのは、北島さんなんだけどさ」

「……話が荒唐無稽すぎるよ」

「自分でもそう思うよ。でもさ、俺はどうしても引っかかることがあるんだ。俺と紗夏が付き合った日、紗夏は俺に会うなり、『ずっと探してた』って言ったよな」

「……もう、覚えてないよ」

 思わず目を背ける。どんな顔をしてこの話を聞いたらいいか、私にはわからなかった。

「俺はアラハバキの使いと、俺のご先祖様を救ってくれた少女は、同一人物じゃないかと思ってる。っていうか――」

 歩空は私を、真っ直ぐな眼差しで見据える。その目に、涙が浮かんでいるように見えた。

「――それって、紗夏なんじゃないかな」

 言葉を失い、私は唾を飲み込んだ。

「紗夏は俺にもう一度会うために、千年以上の時を超えて、未来を変えてくれたんじゃないかなって。青い服はきっと、高校の制服だったんだと思う」

 まさか先輩が、ここまで気づいているとは少しも思わなかった。

 嬉しいような、悲しいような、不思議な気持ちが溢れてきて、胸が苦しくなった。自分でも、自分がどんな感情を抱いているのか、よくわからなかった。

「……そんなわけないじゃん」

 私が返すと、「そうだよな、はは」と笑った。

「いやあごめん、俺の妄想話に付き合わせちゃって。受験勉強のし過ぎて、ちょっとおかしくなってたのかな。今のは忘れてくれ」

 先輩は、白黒をハッキリさせるつもりはないらしい。

「……わかった」

 本当のことを言うべきか、言わないべきか、私は大いに迷ったけど、やっぱり言わないことにした。なんだか恩着せがましい気がして。それにこの先、先輩が私に対して、必要以上に恩を感じるのはイヤだったから。命の恩人じゃなくて、私は先輩の彼女でいたかった。

「……でも、面白い話だと思ったよ。小説にしたら、売れるかもね」

「マジ⁈ よっしゃ、家に帰って早速書いてみよ!」

「勉強は⁈ 勉強しろ⁈」

「おっと、そうだった。ははは」

 まあ先輩だったら、きっと受かるんだろうけど。

 私は誰よりもそばで、先輩の頑張りを見てきた。だから私は、先輩の合格を少しも疑ってはいない。

「それじゃあ最後に、ちょっとだけ未来の話をいいか?」

「未来?」

 私が訊ねると、歩空はゆっくりと頷いた。

「俺は医学部に合格する。そしたら俺と紗夏は遠距離恋愛になる。でも紗夏は一年後、俺と同じ大学の文学部を受験して、合格する。お互い大学を卒業後は、岩手に戻ってくる。互いに充実した生活を送るけど、きっといくつもの困難が待ち受けてると思う。そんなとき、俺は紗夏の力になりたいし、紗夏は俺の力になってほしい。そうやっていつまでも、二人で幸せに暮らしていけますように」

 そう言って、歩空はパンっと両手を合わせて、目をつむった。

「いや願い事だったの⁈」

「だって俺、この場所にワタリドリノスバコがあるって予想してるから」

「……はっ!」

 思わず、私は口に手を当てた。

 私の願いを叶えてくれたワタリドリは、今はもう別の場所へ飛んでいったとばかり思っていた。

 でも、それは『前の世界の話』だ。

 この世界では、ワタリドリノスバコはまだ矢巾にある――。

「これが俺の、恩返しだよ」

 その言葉で理解する。やっぱり先輩は、私が時を遡ったと確信していたんだ。

「ありがとうな」

「……ううん。だって、会いたかったから」

 ただ、それだけだった。本当にそれだけの理由で、私は世界を変えてしまった。

 私と歩空は自然と徳丹城跡に目を向ける。

 こんな夜に、一羽の鳥が高々と飛んでゆく。

 見上げた空に、星が爛々と輝いている。

「歩空の言うように、歩空は私を助けたし、私は歩空を助けたんだよ」

 きっとこれから先も。

(完)

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