私は今日、先輩に

初めて腹が立った

Vol. 前編

三章 私は今日、先輩に初めて腹が立った

私のような人間が、先輩と付き合えるなんて思ってない。だけどそれはそれ。好きな人に彼女ができた事実に、ショックを受けるのは当然の反応なわけで。

「元気出せよー」

 放課後、私と澪は緊急大判焼き会議を開催したけど、私はとても食欲が湧いてこず、というか生きる気力さえ湧かず、大判焼き会議において初めて何も買わなかった。

「まだ付き合ってるって決まったわけじゃないんだし」

 歩空先輩に関する噂は以下のとおりだ。

 先輩と同じ学年のバレー部の女子生徒が、最近先輩と一緒に帰っているらしい。しかも人目を避けるように、コソコソしているとのこと。

「……先輩が付き合ってるなら、それならそれでいいよ。元々付き合えるなんて思ってなかったし」

「いや……紗夏はそう思ってるかもしれないけど、傍から見てるぶんには、十二分に脈があったはずなんだよ。勉強の誘いだって先輩のほうからあったわけだし。それなのに、どうしてここに来て急に噂が流れてるんだろう」

「バレー部の人が、歩空先輩に告白したのかもしれないよね……」

「ええい!」

 まだ半分も残っている大判焼きを澪は口に放り込んだ。

「このまま私たちだけで話しててもしゃーない! 思い切って先輩本人に聞いてみるしかない!」

「え、マジで」

「そうするしかないっしょ!」

 それはそうだけど、この恋があっさりと終わってしまうのはイヤだった。未練がましいかもしれないけど。

「……なら私、思い切って先輩を遊びに誘ってみる。もし先輩に彼女ができたのなら、きっと断られると思う」

 そのほうが、悔いが残らないような気がした。

「私、どうしても先輩と行きたい場所があるんだよ。煙山の、ひまわりパークあるでしょ?」

「ん? ああ、あそこ! 小学校の頃に遠足で行ったとこか!」

「そう。私、どうしても先輩と行きたいんだ」

 ひまわりパークは、矢巾の煙山地方にあるひまわり畑だ。南昌山をバックに、一面咲き誇るひまわりを一望することができる。

「……先輩に断られたときは、もう諦めるよ」

 先輩のことは好きだけど、誰かの幸せを壊したいとは少しも思わなかった。

「とりあえず今日、勇気を出して先輩を誘ってみる。どうしても勇気が出なかった場合は、澪に連絡するかもしれないけど」

「……今日一緒にいようか?」

「ううん、とりあえず一人で頑張ってみる」

「そっか……うん、わかった。何かあったら、すぐ連絡して」

2

自宅に着いたのが午後七時。それからお風呂に入ってご飯を食べて、明日の準備を済ませたのが九時前。そこからようやく私は、先輩をお誘いするためのラインを作成した。書いては消し、書いては消しを繰り返し、ようやく文面が完成したのは十時過ぎ。

「送るぞ……送るぞ……」

 送信ボタンに親指を重ねるけど、すぐに離して深呼吸。それを繰り返してるうちに、私はスマホをぶん投げて、枕に顔を埋めてしまった。

『ごめん、俺彼女できたからムリだわ!』

 そんな返信を想像すると、胸が張り裂けそうになる。想像するだけでこんなに苦しいのに、実際にこんな返信が来たら、いったい私はどうなってしまうのだろう。

 でも、きっとこれが恋なのだろう。恋なんて叶わないのが普通だ。きっとみんな失恋の一つや二つ、経験してるに違いない。私だけが特別、辛いわけじゃない。

 そうやって自分を奮い立たせるけど、

「……はぁ」

 ため息ばかりが出てくる。

 

もう一度スマホを手に取って、先程作った文章を読み返す。

『よかったら七月末に、一緒にひまわりパークへいきませんか?』

 たったこれだけの文章を、どうしても送れない。

 もう一度澪に相談しようか。

 そもそも明日にしようか。 

そんなことを考えたけど、結局は同じことを繰り返すだけだ。今ここで、私が勇気を振り絞るしかない。

 十一時ぴったりになったら、ラインを送信する。そう心に決めて、私は送信ボタンに親指を添えた。

「……えい!」

 押した瞬間、名状しがたい不安と後悔に苛まれ、送信取り消しを押しそうになったけど、なんとかこらえた。

 世の中の人たちは、当たり前にこんなことをしているのだろうか。好きな人への告白なんて、できる気がしない。

「……やっぱり送らなきゃよかった」

 先輩からのラインを待つ間は、控えめに言って地獄だった。大人しく待つことなんてできない。何度も何度も、既読がつくか確認してしまう。

 送信から十分が経っても、既読はつかなかった。

 いてもたってもいられず、私は意味もなく部屋の中をうろうろとして、スマホを手にとってはため息をついた。もしかして先輩はもうお休みになられてるのだろうか。こんな状態が朝まで続くのなら死んでしまう。睡眠薬がほしい。

「……はっ!」

 ふいに、ラインの通知音が鳴る。

 ――来た。

『誘ってくれてありがとー! 七月三十一日が休みだから、その日にいこう!』

 舞い上がりそうになりながらも、妙に冷静な自分が頭の中で疑問を呈する。

 一緒に遊ぶからと言って、彼女がいないことが確定したわけではなくない?

 歩空先輩は、彼女がいても他の女子と遊ぶ人なのかもしれない。

「……どっちなんだよー」

 結局私は、朝まで悶絶することになった。

3

先輩とのひまわりパークデートに向けて、私は澪と一緒に服を買いに行った。そのときに買った麦わら帽子と黄色いワンピースはこの夏一番のお気に入りだ。ついでに美容院にも行って、憧れの髪型にもしてもらった。

 当日は早起きをして、お弁当を作った。先輩が好きだというハンバーグのサンドウィッチと、カラシのきいたたまごやき。きっと喜んでくれると思う。

 待ち合わせは矢幅駅に昼の十二時だ。一週間前の予報では雨だったけど、雲ひとつない晴天が広がっている。夜から雨が降るらしいけど、その頃にはとっくに家に帰ってるだろう。

 私は二十分前に到着し、トイレで一度髪と服を整えたあと、駅の入口で先輩を待った。ここから自転車を漕いで、ひまわりパークへ行く予定だった。

 歩空先輩をお誘いしてから今日に至るまで、結局先輩に彼女がいるかどうかはハッキリしないままだった。もし彼女さんがいるのであれば、私のほうから断りを入れたほうがいい。そうわかってはいても、本人に確かめることはできなかった。

 だから、先輩とのデートだというのに、私はちょっぴり憂鬱だった。

「……遅いな」

 待ち合わせの時間から、すでに三十分が過ぎている。寝坊なら寝坊で良いけど、先輩の身に何か起きたんじゃないかと心配になってくる。

 どうしてこんな日に限って、先輩は遅刻してくるのだろう。

 どうして何も連絡をくれないのだろう。

 やきもきしながら先輩を待っていると、ようやくラインの通知音が鳴った。すでに四十分が経っていた。

『ごめん。今日行けなくなった』

 私はしばらく呆然としたまま立ち尽くし、でも先輩の無事が確認できてよかったと、事故に遭ってなくてよかったと、そんな痛々しい励ましをしながら自転車にまたがった。

 お気に入りの麦わら帽子を深く被って、私はほんの少しだけ空を睨んだ。

 いっそ最初から雨が降っていてくれたら、こんな惨めな思いをしなくて済んだのに。

4

    結局、デートが中止になった理由は、先輩から送られてこなかった。

 自分で作ったお弁当を、私はヤケクソで胃に押し込んでから不貞寝した。だけど深くは眠れず、すぐに目が覚めてしまい、その度に先輩からのラインを確認してしまう。先輩からの返信に期待する自分がイヤになり、電源を落とした。

 浅い睡眠と中途半端な覚醒を繰り返していると、それ自体に疲れたのか、私は深い眠りについていた。

 起きたときは夕方で、部屋は薄暗い。いよいよひまわり畑デートを、本気で諦めなければいけない時間だった。私は心のどこかで、『遅くなってごめん、今からいこう!』と先輩からラインが来ることを期待していた。

 正直なことを言えば、私は今日、先輩に初めて腹が立った。何か事情があって、今日の約束がダメになったことは仕方ないと思う。でも、どうしてその理由を言ってくれないのだろう。

 やっぱり先輩には彼女がいて、私とのデートが原因で、揉めてしまったのかもしれない。

 今にして思えば、一緒に勉強をしたとき、先輩の様子は少し変だった。

 モスバーガーへ行ったとき、先輩は知り合いがいるからという理由で、外で食べることを提案した。そのときは単純に、先輩は恥ずかしいのかと思っていたけど、たぶん違う。彼女がいる先輩は、私と二人でいるところを見られたくなかったのだ。

 もしかするとあの日、先輩は彼女ができたことを私に伝えるつもりで、勉強に誘ったのかもしれない。

 なんにしたって、事情を説明してほしい。

 期待せずにスマホの電源を入れると、ほどなくしてラインの通知音が鳴った。歩空先輩ではなく、澪だった。

『やっほー! 今日はどうだった? もしかしてまだ二人でいたりして⁈』

 そういえば、澪には今日のデートが中止になったことを話していなかった。すぐに事情を話そうと思ったけど、私はまたスマホを置いた。

 今澪と話をしたら、きっと私は歩空先輩の悪口を言ってしまう。好きな人の悪口は、どんな状況でも単純に言いたくなかった。

 澪には、明日事情を話そうと思う。明日になれば、心の整理がついているだろうから。

「……行きたかったな、ひまわりパーク」

 ひまわりパークへ行ったのは、同じグループだった子たちからイジメに遭っていた頃だった。当時は、その子たちの声を聞くだけで吐き気を催す状況で、とにかく学校へいきたくなかった。でもお母さんとお父さんに迷惑をかけたくなかったから、学校を休むこともできなかった。

 今思い出しても、地獄だった。

 この町を離れて、どこか遠い学校へ転校することを夢見ていた。その学校では、なぜか私は人気者で、昼休みになるといつもみんなが私の机を囲んでくれる。町には無料で食べられるお菓子屋さんや、無料で遊べる遊園地があって、私たちは毎日そこで遊ぶ。そんなありもしない架空の町での、理想の生活の幻想を繰り返せば繰り返すほど、私はこの町が嫌いになっていった。

 そんな幻想を打ち破ってくれたのは、澪だった。忘れもしない徳丹城跡で、澪が私の味方になってくれた瞬間、現実の価値は妄想のそれをいとも簡単に凌駕した。架空の町のことなんて、どうでもよくなった。

ひまわりパークへの遠足は、ちょうどその翌日にあった。

 なだらかな稜線を描く南昌山を背景に、一面咲き誇るひまわりの光景を見たとき、私は今、世界から特別な祝福を受けているのだと思った。この世界から、自分は愛されているとさえ思えた。その感覚は、人が生きていくうえでとても大事なのだと思う。

 一連の出来事によって、私はこの町が大好きになった。ひまわり畑は簡単に見にいくことはできないけど、南昌山はいつでも私を見守ってくれる。どこにいても、大きな愛を感じることができた。

 私が先輩とひまわりパークにいきたかったのは、この感覚をほんの少しでも、先輩に味わってもらいたかったからだ。