第1章

想えば想うほど、

私の恋は遠ざかる


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1章 想えば想うほど、私の恋は遠ざかる

約千二百年後 岩手 矢巾【続き】

 歩空先輩のためなら、もちろん協力したい。でも、どうやったってあの写真を歩空先輩に見せるわけにはいかない。だから断るしかない。断るしかないのだけど、奇跡的に生まれかけている歩空先輩との繋がりが、ここで途切れてしまうのはやっぱりイヤで、私はただ曖昧に笑うしかなかった。

 私の沈黙を、先輩は否定と捉えたのだろうか。

「……まあ」苦笑いしながら、先輩は頭を掻いた。「何か事情があって、見せられないっていうなら仕方ない。けど、もしも協力してくれるんなら、写真を送って欲しいな」

 先輩はポケットからスマホを取り出した。

「俺のライン、教えとく」

「わ、わかりました」

 私もポケットからスマホを取り出した。その手が震えていて、必死に震えを止めようと思ったけど、結局は先輩のラインIDをQRコードで読み取り終わるまで、震えは止まらなかった。

 私の手の震えを、先輩は何と捉えただろう。

「あー、急にごめんね。びっくりしたよね」

 先輩は、私が先輩を怖がっていると受け取ったみたいだった。

「んじゃあ、よろしく」

 と言って先輩は背を向けた。

「あ……」

 勘違いされたまま、先輩がこの場を後にしてしまう。

 それがどうしてもイヤだった。

 私は先輩を、怖いだなんて思ってない。

「あの、先輩……!」

「ん?」

「最後のリレー、めっちゃかっこよかったです!」

「え?」

 突然の私からの賛辞に、先輩は面食らったように呆けた。

 でもすぐに破顔して、

「はは、ありがとね」

 少し照れくさそうに、笑った。

 私、何言ってんの……?

 歩空先輩に関われば、私はどうにも自分らしからぬ行動に走る傾向があるらしい。

「やるじゃん紗夏」

 私の顔は、とんでもなく熱かった。 

 私と澪は矢巾中学の出身で、家はまあまあ近い。小学校のときから互いの家に泊まり合っていて、中学二年生のときなんてほとんど毎週末はどちらかの家に泊まりに行っていたくらいだ。

 今日、澪が泊まりに来るのはずいぶんと久しぶりだった。泊まりに来たというよりも、私がムリを言って澪を家に泊めた。明日も学校だというのに。

「うーわ。こりゃすげえわ」

 お父さんからお下がりでもらったノートパソコンに、私が体育祭で撮影した写真をずらりと表示すると、澪は若干引いた笑みを浮かべた。

「あの紗夏が、まさかこんなに誰かを好きになるなんてびっくりだわ」

「……私も、まさか人を好きになるなんて思わなかったよ」

 恋愛に関して、私には一つトラウマがある。

 小学校の修学旅行の夜、深夜の謎テンションで暴露大会が始まった。それぞれが好きな人を打ち明ける、というような内容だったわけだけど、私には好きな人どころか気になる人もいなかった。だからそれを正直に話したところ、総スカンを食らった。『はぁ〜? なにコイツ、マジないわー』みたいな視線を四方八方から送られたとき、みんなの楽しい雰囲気を壊してしまったのを察して、咄嗟に、好きでもない男子の名前を言ってしまった。

 私は自分を貫き通すことができない。

 いつだって人の顔色を窺ってしまう。

 誰かと揉め事を起こすのは大嫌いで、揉めるくらいなら自分を犠牲にするのが当たり前。

 常に注目を浴びないよう、集団の中では気配を消しながら生活している。

 修学旅行の夜に起きた事件は、自分のダメなところが凝縮されたような事件だった。

 結末は最悪も最悪。多くの暴露大会がおそらくそうであるように、私の暴露内容は外部へと流出した。『紗夏ちゃん、○○のこと好きなの?』と暴露大会に参加していなかった女子に突然聞かれたとき、愕然とした。

 それだけならまだしも、だ。

『お前、俺のこと好きなの? 別に、付き合ってやってもいいけど』

 好きでもない男子から偉そうに言われた瞬間、あまりの嫌悪感で過呼吸になった(誇張ではなくほんとに)。

 この事件がきっかけで、私は恋愛にまつわるすべてを嫌いになってしまった。

「……先輩にはこの写真、やっぱり絶対見せられない。ストーカーだと思われる」

「普通にストーカーだろうがよ……」

 と澪が呟いた気がしたけど、私は聞こえないふりをした。

「私、どうしたらいいんだろう」

「まあとりあえずさ、先輩にライン送っておこうぜ」

「え? マジで言ってる?」

 思わずスマホを抱きしめる。今私のスマホに歩空先輩の連絡先が入っていると思うと、家宝のように思えた。

「ただ自己紹介するだけ。『紗夏です! よろしくおねがいします!』って」

 いやいや。

「それがきっかけで、『歩空です! 写真待ってます!』って催促が来たらマズいよ」

「んー、だったらラインスタンプで最初の挨拶しなよ。そしたら相手もラインスタンプで返してくれるから」

「私ろくなスタンプ持ってないよ」

「かわいい猫のやつ、持ってたでしょ? 『よろしくにゃーん』のやつ」

「そんなの送ったら、『ああコイツ、俺のことなめてんな。ブロックしよ』ってならないかな」

「ならねーよ! スタンプってそういうもんだから!」

 澪がキレた。

「いいからさっさと送れ!」

「……わかった。じゃあスタンプ送るね……でもちょっと待って」

「ぐあぁああ!」

 澪は苛立った様子で髪をかきむしった。

 考えすぎな私に、こうして澪が腹を立てるのはいつものことだ。

「今度はなんだよ!」

「私がスタンプを送って、先輩からスタンプで返信があるとしても、『早く写真送れボケカス』みたいなスタンプが返ってくるかもしれないよね? そしたらなんて返せばいい?」

「まずそんなスタンプねーから! ねーよ!」

「あと、そもそもの話になるけどさ、今ここでラインで挨拶する意味ある?」

「そう思うなら最初にそれ聞けよ!」

 意味もなくラインを送信するのは、悪手な気がしてならない。私は先輩のラインIDを知ってるけど、先輩は私のラインIDを知らない。だから私が何も送らないでおけば、歩空先輩から写真の催促がくることはないわけで。

「先輩はさ、部室が荒らされた事件を本気で解決したいと思ってるわけじゃん? そのために紗夏を頼ってきたわけだけど、それは手段の一つでしかないんだよ。もっとわかりやすく言えば、先輩は色んな人に協力をお願いしてると思うんだ」

「あー、うんうん……それで?」

「もしかすると、この事件は数日後……いや、下手したら明日には解決してしまうかもしれないの」

 それならそれでいいのでは⁈

「だったら、なおさら今ここで連絡するべきじゃないじゃん」

「違う違う。すぐに解決しちゃうからこそ、先輩には『協力する意思』を見せておくべきなの。このまま紗夏が何の連絡もしないうちに事件が解決したら、紗夏の印象は、『事件解決に何も協力してくれなかった人』で終わっちゃう。でも意思だけでも示しておけば、『事件解決に協力してくれたうちの一人』って印象になる」

「……一理ある……かも」

「でしょ?」

「じゃあ私は、『諸事情があって遅れますが、必ずお写真を提供します』って送るべき?」

「そうするべき! だからまずは挨拶だけしておこう!」

「なるほど……でも」

「でももクソもねー!」

「ちょっと後ろめたい気持ちがあるんだよ。写真を見せるつもりがないのに、写真を提供するって歩空先輩に言うってことは……つまり私は、歩空先輩に嘘をつくってことだよね?」

「……あ。うん。まあ、それはそう」

「私、先輩を騙すような真似したくない」

 私が正直な気持ちを告げると、「ごめん」と澪は小さな声で謝った。

「……嘘なんかつきたくないよね。ちょっと紗夏の気持ちを考えないで喋っちゃった! 今の忘れて!」

「いいのいいの。澪が私のためを思って言ってくれてるのわかってるから」

 私は行動力がないから、澪がいてくれないと何もできない。

「じゃあどうすっかなー。せっかく先輩と繋がりができたのに、ここで何もしないってのももったいないわけじゃん?」

「うん……。私、ちょっと思いついたことがあるんだけど、聞いてもらっていい?」

「お? なに?」

 ずらりと並べられた写真を眺めているうちに、とあるアイデアが浮かんできた。

「いっそのこと、私たちで部室を荒らした犯人を特定するっていうのはどうかな」」

「あー、なるほど! 私たちの手元には、三百枚以上の写真があるしね!」

「うん。とりあえずさ、二人で写真を全部見てみようよ。それで何もわからなかったら、そのときは先輩に、『申し訳ないですけど、写真は見せられません』って私は正直に言う」

「よしわかった! こうなったら、意地でも犯人を私たちで見つけてやろっか!」

 澪は前のめりになって、パソコンの画面を眺め始めた。

あーだこーだと言いながら、二人で写真を眺め続けること三時間。時刻はすでに零時を回っている。

「残り五十枚弱か……」

 ここまで、手がかりとなるようなものは何一つない。わかったことは、歩空先輩はマジでカッコいい、ということくらいだ。まあもとからわかっていたことだけど。

「……ん? ねえ、紗夏、ちょっとこれ見て」

「ああ、これか。うん、先輩かっこいいよね」

「そうじゃねーわ」

 画面に表示された画像は、バレーの試合に参加した先輩を写したものだった。

「ほら、この人たち」

 澪の指さす先には男子生徒が二人写っていて、バレーの試合を観戦している。一人は大きな黒縁メガネが、もう一人はもじゃもじゃのパーマヘアが特徴的だった。

「この人たちが着てるクラT、どのクラTとも違くない?」

 体育祭では、ユニフォーム代わりにそれぞれのクラスが用意したTシャツ――いわゆるクラスTシャツだ――を着るのだけど、この二人のクラスTシャツはどこのクラスにも該当しないものだった。まあ、中にはクラTを着ないで、サッカーのユニフォームを着ていた人もいたのだけど、さすがに存在しないはずの謎のクラTを着ているのは不可解だった。

「言われてみればたしかに、このクラT着てるのこの人たちだけだね」

「でしょ! もしかして、他校の生徒なんじゃない?」

「クラT着て、紛れてたってこと?」

 もしそうだとするなら、部室荒らしの犯人である可能性は十分にあると思う。

「あ! 次の写真と、その次の写真も見て!」

 私は同じ画角で数枚撮っていたのだけど、次の写真では二人の男子生徒のうち黒縁メガネの男子が、カメラ目線になっていた。そしてさらに次の写真では、二人は不自然なほど深く顔を伏せていた。私がカメラを撮っていることに気づき、顔を隠したかのように見えなくもない。

 でも仮にこの人たちが犯人だとして、どうして呑気にバレーなんか観戦してるのだろう。目的がバスケ部の部室を荒らすことならば、目的を果たしてさっさと退散するのが得策だ。

「絶対この人たちが犯人だよ! 早くこの写真、先輩に送ろう!」

「犯人かどうかはわからないけど、少しでも情報がほしい先輩には送ってあげたほういいよね……でもさ」

「なんだよ!」

「こんな夜中に写真送ったら、非常識なやつだって思われるかもしれ……」

「いいからさっさと送れ!」

 澪に気圧され、私は急いで先輩へ送るラインを作成した。

「こんな感じでどうかな?」

「見せて」

『夜分遅くに申し訳ございません。昨日お話をいただいておりました件ですが、私が撮影した写真に不可解な人物が映されておりましたので、取り急ぎご報告させていただきます。ご確認のほど、よろしくお願い申し上げます 志田』

「文面ジジイか! ビジネスメールかよ!」

 澪が私のスマホを奪う。素早くフリック入力をしながら、ラインの添削をし始めた。

「これで送りな!」

 澪が作ったラインの文面を見てみる。

『紗夏です。この人たち怪しくないですか?』

「え? これだけ?」

「そう! あとは相手の反応を見て返す! おけ?」

「わかった……じゃあ送るよ?」

「うん、早く」

「ほんとに送るよ?」

「早くしろってんだよ」

「ああ……緊張する……」

「早くしないと先輩寝ちゃうよ!」

「……わかった。送る」

 一度深呼吸をしたあとで、意を決して先輩にラインを送信した。

「……ふぅ。送った」

 たかだか送信ボタンをタップしただけなのに、どっと疲れてしまった。

「とりあえずさ、先輩からの返信を三十分くらい待ってみて、返信ないようなら今日は寝ようか」

「そうしたいけど、眠れそうにないよ……って、もう返信きたんだけど⁈」

「マジ⁈ 見せて見せて!」

 私と澪は互いのおでこをくっつけながらスマホを覗いた。

『わざわざありがとう! けど、この人たちは違うよ』

 先輩からの返信を確認するなり、私と澪は顔を見合わせた。

 どうして先輩は、この人たちの仕業じゃないとわかったのだろう?

『悪いんだけど』

 先輩から追加で返信がきた。

『部室が荒らされた件、もう解決したんだ』

先輩とラインのやり取りがあってから、二週間が経った。

 あれ以来、私は先輩と一度もラインのやり取りをしていない。澪には何度となく、『なんでもいいから送りなよ!』と急かされたものの、もし返信がなかったらどうしよう、とか、既読にならなかったらどうしよう、とか、そんなネガティブなことばかり考えてしまって、結局一度も送信できなかった。想いがあればこそ、怖くて何もできなくなる。想えば想うほどに、私の恋は遠ざかってゆく。いっそ、相手のことをそこそこ好きであるほうが、恋はうまくいくものではないかと、そんな気さえしてくる。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「……うそ」

 ため息ばかりの日々に、さらなる追い打ちをかける事件が起きたのは六月下旬。

「ヤバ……」

 私の憂鬱の原因は、数学のテスト結果だった。

 中学の頃から数学が苦手だった私は、高校入学早々、数学の授業についていけなくなった。黒板を見て、アラビア語かな? と思うこともしばしば。

 このままじゃ大変なことになる、とわかっていながらも、授業についていけないのは私だけじゃないはず、と現実逃避してきた。

 その結果が、今私の目の前にある二十三点の答案用紙だった。

 ちなみに百点満点のテストで、平均点は六十三点らしい。ヤバい。

「いいかー、必ずテスト直しをしろよー。ちなみに最高点は百点。最低点は二十三点だった」

 それを聞いた瞬間、大判焼き会議の開催を決めた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「ほんとにヤバいんだけど。ねえどうしよう」

「どうしてこんなことになるまで放っておいたんだよ……」

 さすがの澪も、私の答案用紙を見て驚愕していた。

「中学の頃、紗夏めっちゃ成績よかったのにね」

「いや昔から数学は苦手だよ」

「どうせあれでしょ。先輩のことばっかり考えて、勉強が手につかないんでしょ?」

「……そんなことはないけど」

 まあ、実を言えばそんなところだ。数学だけじゃなく、他の教科も手についてない状態だ。

「ちなみに澪は何点だったの?」

「私? 私は三十八点だったよ」

 私も私だけど、澪も澪じゃん。

「あ、ちょうどいい機会だから、今日はやはぱーくで勉強しよっか」

 やはぱーくとは、図書館や学習スペースが設けられた複合施設だ。他には子育て支援センターや、キッチンスタジオなんかもあるらしい。

「実は今日さ、中学のときの先輩から、歩空先輩のこと色々聞けたんだよ。先輩、部活終わりに、たまにやはぱーくで勉強してるらしいよ」

 部活のあとに家に帰らず勉強するなんて、すごい根性だ。

「先輩って、学年模試一位らしいよ? 医学部志望なんだって!」

「え⁈ 嘘⁈」

 なんだか、私の恋がまた遠ざかった気がした。かっこいいのに運動神経もよくて、そのうえ頭がいいなんて、雲の上の存在じゃないか。

「先輩が今日来るかはわからないけど、何にしたって私たち勉強しなきゃいけないから、行ってみようよ」

やはぱーくの二階には学習スペースがあって、私たちと同じ高校の子たちだけでなく、他校の生徒たち、それに中学生や大学生が勉強していた。

 私と澪は二人がけのテーブル席について、あーだこーだと言いながら、テストの直しを始めたわけだけど、三十分も経つとすっかり飽きてしまった。

 開き直るわけじゃないけど、私と澪に集中力があるのなら、こんな点数は最初から取っていないって話だ。

「あ、そういえばさ、バスケ部の部室が荒らされた事件のこと、なにか聞いた?」

「いや、聞いてないよ」

 そもそも私は澪くらいしか話す友だちがいないから、澪以外に情報源がない。

「あれって」澪は声を潜めて言う。「恋愛絡みの事件だったらしいよ。しかも略奪愛」

「え、えぇ……?」

 澪によれば、こういうことらしい。

 すべてのきっかけは、二年生の男子バスケ部員――山屋さんという方――が、インハイ予選で他校の女子を好きになったことだ。山屋さんは猛アプローチをかけ、意中の女子と結果的に付き合うことになった。けど、なんとその女子には彼氏がいたらしい。

「その女子は彼氏と別れて山屋さんと付き合ったらしいんだけど、ここからがやべーんだよ。その彼氏、ウチの高校にいたんだって」

 つまり、当事者である彼女は他校だけど、元カレと今カレが同じ高校にいるってことか。

「体育祭のときに、山屋さんたちバスケ部と元カレが揉めたらしくて、元カレがその腹いせに部室を荒らしたらしいんだよ」

「そういうことだったんだ……」

 じゃあやっぱり、私と澪が見つけた二人組は、この話とは一切関係なかったみたいだ。

「私たちが見つけたあの二人は、何だったんだろうね?」

 大きなメガネともじゃもじゃヘアが特徴的だった二人を、私は校内で一度も見かけていない。

「んー、まあ、好きな子がウチの高校にいて、その子を見るために紛れ込んでたんじゃない?」

「二人とも久しぶり!」

 突然、聞き覚えのある声がして、私の背筋が自然と伸びた。

「あ、歩空先輩、お久しぶりですね」

 何も言葉を返せない私に代わって、澪が挨拶を返した。

「この前はわざわざありがとね!」

「いえいえ、私は何もしてませんよ!」

 澪はそう返して、歩空先輩の視線を誘導するように私を見た。

「先輩の役に立ちたいって、紗夏が」

 恥ずかしいから、そんなこと言わなくていいのに!

「そっか、志田ちゃん、ありがとね」

「あ、あ、あ、いえ……」

 ぎ、ぎ、ぎ、と錆び付いたネジ回しのように私は首を捻って、先輩のほうをぼんやりと見た。顔までは正視できない。

「今度何かお礼するよ」

「なら、紗夏に数学教えてあげてもらえませんか? 紗夏、ほんと苦手で!」

 澪がすかさず口を挟む。

「数学か。俺で教えられる内容なら、いくらでも教えるよ」

 そう言って、先輩は私の隣の椅子を引いた。

 え? 今ここで教えてくれるってこと⁈ 心の準備ができてないんですが!

「それじゃあ、私は塾があるんで帰りやす!」

 澪はバタバタとリュックに教科書類を詰めて、素早く立ち上がった。ちなみに澪は塾になんて通ってない。仮に通ってて三十八点なら、その塾は辞めたほうがいい。

「じゃ先輩! 紗夏のこと、よろしくお願いしますね! じゃね、紗夏!」

 こちらが言葉を挟む隙を一切与えず、澪はこの場から去っていった。

 結果、私と先輩は隣り合わせに座ったまま残される。

 私は気まずくて仕方なかったけど、歩空先輩はあまり気にしている様子はなく、「それで、どこがわからないの?」と訊いてきた。好き。

「実はこの前、二次関数のテストがあったんですけど……」

 私は点数の部分を折り曲げた答案用紙を先輩に見せた。

「結構派手に間違ってんね。はは、これだとたぶん、基本的な部分がわかってないんじゃないか」

「たぶん、そうだと思います……」

「二次関数は、頂点とグラフの概形が大事なんだけどさ」

 先輩はバッグからノートと筆箱を取り出した。ノートを広げ、足を組み、シャーペンのお尻をカチカチと鳴らして芯を出す。そんななんでもない動作を、私は夢心地で眺めていた。

「グラフの概形を描いたら、頂点の座標を出す。座標を出すためには何が必要かわかる?」

 さすがにそれくらいはわかる。

「……平方完成、ですかね」

「おお、ちゃんとわかってるじゃん」

 先輩は、わざわざ私の顔を見て褒めてくれた。嬉しいけど、こんな近くで私の顔を見ないでほしい。産毛とか生えてないか心配で心配で気が気じゃない。こんなことになるなら、一度顔を鏡で見ておけばよかった。

「じゃあこの問題、まずは頂点から出してみようか」

「……はい、わかりました」

 まさか今日、先輩に勉強を教えてもらえるだなんて思いもしなかった。澪に後で死ぬほど感謝しよう。今となっては、テストが二十三点でよかったと思える。いやよくはない。ちゃんと勉強しよう。

 まあなんにせよ、私は一生分の運を使い果たしてしまった気がする。

 心臓はバクバクと鳴り続け、たまに呼吸の仕方さえ忘れてしまうほど私は緊張していたけど、これまでの人生で経験したことのない高揚感と幸福感を味わっていた。

 それなのに――。

 どうしてこんなときに限って、『コイツ』が現れるのだろう。

「うわー、根暗女がいる」

 その顔を見るなり、腹の奥底から嫌悪感が湧き上がってきた。 

修学旅行のとき、深夜の暴露大会があった。みんなで好きな人を言い合うというものだったけど、私は本当に好きな人がいなくて、隣の席という理由だけで『三森優』の名前を出した。

 自意識過剰な部分がある三森は、『紗夏って俺のこと好きなんだよ』と周囲に言いふらし、その都度私は否定したものの、三森は聞く耳を持たなかった。どんなに私が否定しても、いつまでもいつまでも私が好きだと勘違いし続けて、中学三年生の夏頃にも、『別に付き合ってやってもいい』みたいなことを言ってきた。

 そのときにはさすがに、私はハッキリと断った。『好きじゃない』、『付き合うつもりはない』と。

 私の行動は、自意識過剰な三森のプライドを、大いに傷つけてしまったのだろう。三森は私を逆恨みするようになり、『ブス』だの『根暗』だの、私に聞こえるような声で言ってくるようになった。

 別の高校に進学し、ようやく三森の嫌がらせから解放されたのに、どうしてこんな日に限って三森に会うのだろう。

「アイツ、昔から男たらしなんだよ」

 三森は、一緒にいる友だちに私の悪口を言っていた。私を傷つけたいのではなく、私の隣にいる歩空先輩に聞かせたいのだ。私の印象を悪くさせるために。

「コロコロ好きな相手が変わるヤツでさ」

 三森の声だけがフロアに響く。他の勉強している子たちの視線が、私に集中しているのがなんとなくわかった。

「また違う男といるし」

 私がこうやって異性と二人でいることなど、今までの人生で一度もなかった。だから本気で悔しかった。

 ほんと、どうして私の人生ってこうなってしまうんだろう。

 私は先輩の顔をまともに見られなかった。もしかしたら私を、ゴミを見るような目で見ているのではないかと思って。

「――なあ」

 先輩の声が聞こえたかと思うと、隣で先輩が立ち上がる気配があった。

 そのまま先輩は三森へ向かって歩き始めた。三森はコソコソと逃げようとするけど、先輩は三森の腕を掴んだ。

「な、なに……?」

「なんか言いたいことあるなら、ハッキリ言えよ」

「あ、いや……別に」

「別にってことないだろ? 志田ちゃんのこと、なんか言ってたよな?」

「え? 言ってたかなあ」

 三森は白を切るらしい。率直に、ダサいなと思った。

「俺が聞いてやるから、言いたいことあるなら言えよ」

「……いやいや別に」

「だったら二度と言うなよ」

 歩空先輩が腕を離すと、三森は脇目も振らずに逃げていった。

 先輩の行動は、正直言って意外だった。びっくりしてさえいる。いつも優しそうに微笑んでいる先輩だから、他人とあまり衝突したがらないようなイメージを、勝手に持っていた。

「……せ、先輩。ありがとうございました」

「いやあ、ははは。勝手なことしてごめん。彼は、アレだね、うん……色々問題がありそうだな」

「……はい。中学のときから、ずっと迷惑してたんです」

「うん、なんかそんな感じしたんだよ」

 先輩は苦笑し、

「で、さっきの問題だけどさ、志田ちゃん全然理解してないね」

 すぐにテストの直しを再開した。そんな振る舞いも、カッコいいなと思った。

「一回、俺の言ったとおりにやってみてくれる?」

「……はい。わかりました」

 先輩の言ったとおりにしていれば、きっとすべてがうまくいく。そんな気がした。だから安心して、私はこの人を好きになればいい。

 そんな風に思った。

2章 ワタリドリノスバコって知ってます?

やはぱーくでの一件(三森事変)を、私はことあるごとに澪に話していて、だけど、『何回その話すんだよ!』とウザがられてきたから、最近では控えるようにしている。

 三森事変が起きる遥か以前から、私は先輩を好きで好きでたまらない状態ではあったものの、まさか、さらにその上の状態があるとは思いもしなかった。いったい私は、どこまで先輩を好きになってしまうのだろう。

 けど、恋に現を抜かしていられるほど、高校生活は甘くない。

「……ヤダなー」

 やはぱーくの一件から一週間が経った月曜日。私は数学の課題の再提出を命じられていた。

 昼休みに数学の課題を持って、職員室へと向かう。できれば先生と顔を合わせたくなかったけど、不運なことに先生の姿はちゃんとあった。なにやら憮然とした表情で、何か作業をしている。テストの採点でもしているのだろうか。

「……はぁ」

 何か説教されたらヤダなあ。

 前回のテストは最下位。そのうえ課題も再提出。当然、私は先生から目をつけられているだろう。

 陰鬱とした気持ちのまま先生のもとへと向かう。けど、ふいに先生が立ち上がった。その手にはコーヒーカップらしきものが見える。おそらくコーヒーを淹れにいくのだろう。

 ――今だ!

 先生の机に課題を置き、素早く踵を返す。忍びのごとく体勢を低くし、足音を立てず出口へと向かった。

「志田ちゃん!」

 そんな私に、何者かが声をかけてきた。しかも、いらんほど大きな声で。とても聞こえないふりをできるような声量ではなかった。

「なにやってんのー?」

 私に声をかけてきたのは、わかっていたけど歩空先輩だった。

「……ちょっと用がありまして」

 と私は小声で答える。

「俺、先生に呼び出し食らっちゃってさ。さっきまで怒られてたんだよ、ははは」

 先輩はヘラヘラと笑いながら言う。どんな理由で怒られたのか存じ上げないけど、怒られたという割には反省している様子は皆無だった。

「ふふ」

 先輩らしくて、思わず私は笑ってしまった。

「おい志田!」

 数学の先生の声が響き渡る。振り返ると、先生が私の課題を掲げていた。

「黙っておいていくなよ!」

「す、すみません」

「こういうとこだぞ!」

「すみません、すみません……」

 平謝りしながら職員室を後にする。

「なんかごめん、俺がでかい声で志田ちゃんの名前呼んじゃったせいで」

「いえいえ……」

 コソコソと逃げた私が悪い。先輩もちょっとだけ悪いけど。

「先輩は、どうして怒られてたんですか?」

「授業中にさ、自転車の鍵についてるキーチェーンに、指を突っ込んでくるくる回してたんだよ。そしたら指からすっぽ抜けて、窓の外に飛んでってさ。それ見てた後ろの席のやつが爆笑したせいで、なぜか俺が怒られた」

 なぜか、とは?

「今から鍵探しにいこうと思うんだけど、手伝ってもらえない?」

 ――それってつまり、校内デートのお誘い⁈

 たぶん違う気がするけど、断る理由なんてない。私でもよければ火の中だろうが水の中だろうが、どこへでもお供します! と答えたい気持ちを抑えて、

「お困りなら、はい」

 と冷静に返した。

「助かるー」

 私と先輩は外履きに履き替えて、校舎の外へと出た。自転車の鍵はグラウンドに向けてぶん投げてしまったらしいから、そのままグラウンドへと向かう。

「たぶんこの辺だと思うんだよな」

 地面を眺めつつ、私と先輩はうろちょろとその辺を歩き回った。

「あっれー? すぐに見つかると思ったんだけどなぁ。もしかして誰かに拾われて、届いてるかもな」

「それならいいですけど……カラスが持っていったりしてたら大変ですね。たとえばこの近くで銀行強盗みたいな凶悪な事件が起きたとして、その場所に偶然カラスが先輩の鍵を落としたりでもしてたら、先輩が犯人にされてしまう可能性もあります」

「ないよ⁈ ちょっと考え過ぎじゃない?」

 おっと。私の悪いクセが出てしまった。たびたび私は、話を極端に悪いほうへと考えがちだ。

「……お、あったあった!」

 先輩は腰を屈め、何かを拾い上げると、ニカっと歯を見せて笑った。無事に見つかったようで、先輩はキーチェーンに指を通してくるくると回した。そんなことするから失くすってのに。でもそんな無邪気な先輩が好き。

「あ、そういえばさ」

「はい、なんですか?」

「俺と初めて出会ったとき、志田ちゃん何か探してなかった?」

「……」

 先輩との出会いは、できれば思い出したくない。七転八倒の黒歴史だから。

「あのとき志田ちゃん、何してたの?」

「……先輩、私と出会ったときのこと、覚えてたんですね」

「忘れるわけないじゃん」

 そう言って先輩は、吹き出すように笑った。

「学校見学のときだよな」

「……そうですね」

 一年ほど前、私は澪と高校見学へと行った。

「で、あのとき、何してたの?」

「……その話をしたら、きっと幼稚な人間だと思われます」

「思わないよ。俺なんか、小学生みたいな理由で怒られたばっかだし」

 たしかに。それはそう。

「じゃあ、笑わないで聞いてくださいね?」

「わかってるって。ははは」

 もう笑ってるじゃん……。

「先輩って、都市伝説とか信じる人ですか?」

「都市伝説? 信じる信じる。怖い話とかめっちゃ好きだよ俺」

「そうなんですか? それなら、『ワタリドリノスバコ』って知ってます?」

「あー、聞いたことあるわ。結構有名な都市伝説だったよな? 俺が聞いたときは、たしか小学生の頃だったと思うけど……」

「どんな願いも叶える鳥がいるっていう都市伝説です。その鳥は世界中を旅していて、滞在した先々で人々の願いを叶えるんですって」

 曰く、スバコは人の往来が多い場所にある。

 曰く、スバコは高い場所にある。

 曰く、町のシンボルが渡り鳥の町にのみ、ワタリドリは出現する。

 曰く、ワタリドリは現実に起こり得ることだけを叶える。

 曰く、スバコの場所が特定されると、ワタリドリは次の場所へ飛び立ってゆく。

「矢巾の都市伝説っていうよりは、世界の都市伝説って言ったほうがいいですかね。それで、スバコがたまたま、今は矢巾にあるみたいで。ワタリドリは、町のシンボルが渡り鳥の町だけを渡ってゆくらしいんです」

「……え? 矢巾町のシンボルって、たしかカッコウじゃなかった?」

「そうですよ。カッコウって、渡り鳥なんです」

「え、そうなの⁈ 初めて知った!」

 別名、閑古鳥。春になると南方から渡ってくることから、春の訪れを告げる鳥だと言われている。

「噂によると、ワタリドリノスバコを専門に狙う、ハンターみたいな存在もいるらしくて」

「あ、思い出した。俺が小学校の時にテレビで都市伝説の特集を観たときも、ハンターのこと言ってたな」先輩は目を細めた。「それで、そのワタリドリがどうしたの?」

「あの日、学校見学の後、澪と一緒に校舎を出ました。そのとき、私たちは見たこともないくらい美しい鳥を見かけたんです」

 羽が鮮やかな青色の鳥だった。

「それを見た瞬間、『都市伝説のやーつ!』と、澪が大興奮しまして、後を追いかけ始めたんです」

 青い鳥は校舎の上空を飛んでいた。

「なるほどね。その鳥を夢中になって追いかけるうちに」と言って、先輩は吹き出した。「ふふ、俺にぶつかったってわけか」

「そうなんです……」

 ほんとに惚れ惚れするようなタックルだった。

 でも先輩は私を受け止めて、『大丈夫?』と心配までしてくれた。先輩と目が目が合った瞬間、私は呆気なく恋に落ちた。今でも私は、あのとき抱きしめられた感触を、しっかりと覚えている。抱きしめられたというより、受け止められただけだけど。

「で、結局その鳥は見つかったの?」

「……結果から言えば、見つかりました」

「え、マジで⁈」

「ただ……その鳥は、ワタリドリじゃなかったんです。この近所で逃げ出した、オウムだってことが後にわかって」

「オウム?」

 とオウム返しにしたあと、

「はっはははは!」

 笑わない約束だったのに、何の遠慮もなく先輩は爆笑していた。まあ別にいいけどさ。

「笑わせてもらったお返しに、俺が知ってるとっておきの都市伝説を教えるよ。信じるか信じないかは志田ちゃん次第だけど」

「え、ほんとですか? ぜひぜひ! きっと澪が喜びます!」

「じゃあ、話ながら戻ろうか」

「はい!」

 私と先輩は、ゆっくりと校舎へと歩きだす。乾燥したグラウンドを歩くと、靴の下でジャリジャリと音を立てた。校舎から誰かの笑い声が聞こえてくる。少しでも先輩の話がよく聞こえるように、私は先輩のすぐ後ろを歩いた。背後霊みたいになっているけど、さすがに並んで歩くのはおこがましい。

「男の子と、その父親と母親の話だ。一人っ子だった男の子は、両親にすごく可愛がられてた。でも男の子に弟が生まれたことで、男の子の生活はガラッと変わってしまった。両親が、弟ばかりを可愛がるようになったんだ。特に母親の弟への愛情は深く、自分には見向きもしてくれない。次第に男の子は、弟に対して強い嫉妬心を抱くようになった。男の子は母親が大好きだったんだな。お母さんを独り占めにして、幸せそうにおっぱいばっかり飲んでいる弟が悪くて仕方ない。そこで、男の子は弟へ復讐をすることにした」

 先輩の口から平気でおっぱいなんて単語が飛び出してきて、私は大いに狼狽えてしまった。

「……ふ、復讐って、いったい何をしたんですか?」

「弟を殺害するために、母親が寝てる間に乳首に毒を塗ったんだよ。ところがその翌日、不可解なことが起きた」

 先輩は至極真面目な顔をして言った。

「なぜか隣の家のお父さんが死んだんだ」

「は?」

 チャイムが鳴った。

先輩は変な人だ。

 私へ散々嫌がらせをしてきた三森に啖呵を切ったかと思えば、最低すぎる下ネタを話してきたりもする。

 そんな先輩に、私が少しも幻滅せず、どころか好意的にさえ思えるのは、先輩の『フラットさ』とでも言えばいいだろうか、着飾らない素直な人間性が好きだからだ。

 いつも他人の顔色を窺って、目立たないように生きている私とは違う。

 先輩は自由で、だけど自分の芯をしっかり持っている人だ。部活で問題が起きれば率先して解決し、誰かが困っていれば迷わずに助ける。自分が面白いと思った話は、たとえ下ネタで相手が女子だろうと、関係なく話す。

 先輩を知れば知るほど、私はさらに夢中になってゆく。もっと知りたいと思うし、近づきたいと思う。

 最近ではラインで世間話をすることもあったし、学校で会えば話もした。以前の状況では、考えられないくらい私と先輩の距離は近くなったと言える。

 澪は、私と歩空先輩のやり取りを聞くたび、意味もなく騒ぎ立てていた。「んだよさっさと付き合えよ!」だの「なんで先輩、そこでもっとこう、ガッといかないかなあ!」だの、呆れるほど勝手なやじを宣って、第三者視線を存分に楽しんでいるようだった。

 そういえば、最近先輩と多くのやり取りをする中で、知ったことがいくつかある。

 先輩は高校に上がるタイミングで、矢巾町に引っ越してきたらしい。なんでも、お父さんは岩手医科大学附属病院に勤務するお医者さんで、二年前、この矢巾に家を建てたとのことだった。

 ちなみに、この話を聞いたときも、澪は大騒ぎしていた。玉の輿がどうのこうの言って、「紗夏このままいけばプリンセスじゃん!」とか、心底わけのわからないことを言っていた。王族に嫁ぐわけでも、そもそも先輩と付き合っているわけでもないのに。

 

◇ ◇ ◇

 

『今度の日曜、一緒に勉強しない?』

 先輩からそんな誘いがあったのは、次の週からテスト期間に入るタイミングだった。普段、土日は部活動で忙しい先輩だけど、テスト期間中は部活動がいったん停止する。その貴重な完全オフ日を、先輩は私に使ってくれるというのだ。

 このお誘いラインを、私は百回くらい見直した。何かの見間違いかと思って。おまけにスクショまで撮って、ロック画面に設定していたけども、それはさすがにキモすぎるからやめた。それくらいの冷静さがまだ私はある。

 普段は会わない休みの日に会うということは、つまり私と先輩は私服で会うということだ。

 先輩は、どんな格好で来るのだろう。普段とは違う先輩の姿を見れるのはとてもとても楽しみだ。

 前日の夜、私は己を着せ替え人形と化して、何時間もかけて服選びに没頭した。審議に審議を重ねて、よしこの服でいこう――と決まりかけたけど、これでは気合が入りすぎているのではないかと立ち返り、結局スタートラインに戻ってしまった二十三時。

 山積みとなった服を前に呆然としていると、

『俺明日制服でいくわ』

 と先輩からラインが飛んできて、だったらもっと早く言ってよ! と思わず心の中でツッコんでしまうのだった。

そんなこんなで日曜日、私たちは我らがやはぱーくでお昼すぎに待ち合わせをした。

 今か今かと待ちわびてはいるものの、あまりキョロキョロとしていては、品がないと思われるかもしれない。私は澄ました顔を作り、じっと先輩を待っていた。

「おー、志田ちゃんお待たせー」

 チンタラチンタラと、自転車を漕いでくる先輩が、気の抜けた感じで私に手を振る。私は胸の前で小さく手を振ってそれに応えた。

「おつかれさまです」

「ういー。メシ食った?」

「食べてませんよ」

 お昼から会うということで、ちゃんと私はお昼ごはんを食べる可能性を考慮して、お腹を空にしてきた。

「んじゃあ、モスバーガーいかね?」

 最近の先輩は、私への言葉遣いが若干フランクになっていた。もちろんそれをイヤだと思ったことは一度もない。むしろ、先輩に馴れ馴れしくされるたび、私の心はキュンとしてしまう。雑に扱われるとなぜか嬉しくなる。そんな自分を、ちゃんとキモいと思える自我だってまだ私にはある。

「いいですよ。私もモス大好きです。ちょっと高いですけど」

「それな! でも俺今日、小遣いもらったばかりだから奢るよ」

「え、いや、いいですよ」

 そんな会話をしながら、私と先輩は医大通りをゆっくりと自転車で走った。

「勝手なイメージですけど、先輩ってお小遣いすぐに使ってしまいそうですね」

「そのイメージで合ってるよ。一ヶ月のうちの二十五日は金欠だもん」

「ほとんどじゃないですか」

「志田ちゃんはお金の管理とかちゃんとしてそうだよね」

「そうですね。子供の頃からお年玉、私はすべて貯金してます。常に不安を抱えてる人間なので」

 年々増えてゆく預金残高を見て、一人悦に入るような性格だ。

 モスバーガーの駐輪場に自転車を停めて、店内へ入る。客席を見回し、どこの席に座ろうかと思案していると、

「せっかくだから、外で食べない?」

 と先輩が提案してきた。

「外ですか? まあ、いいですけど……」

 どうしてわざわざ外で食べるのかと疑問に思ったけど、

「ごめん、知り合いがいるんだ」

 どうもそういうことらしい。改めて店内を見回すと、私たちの高校の制服を着た三人組の男子が、テーブル席でテキストを広げていた。

「悪いけど、俺のぶん買っておいてもらえる? 俺モスバーガー。あ、セットでね。飲み物は烏龍茶で」

 先輩は早口にそう告げると、私にお金を渡してさっさと店外へと出てしまった。

「……ふうん?」

 先輩は、女子(私)と一緒にいるところを、知り合いに見られるのが恥ずかしいらしい。私も知り合いに見られるのは恥ずかしくはあるけど、先輩はそういうことを気にする人ではないと、勝手に思っていた。

「ごめんごめん」

 店外に出ると、少し離れたところで先輩が、申し訳なさそうな顔をして私を待っていた。

「いえ、全然。そんなことより、どこで食べます? 一応近くに公園がありますけど」

「公園かぁ」

 外で食べようと言い出したのは先輩なのに、公園で食べるのは気乗りしないらしい。

「あ、そうだ。『徳丹城』で食べない?」

「いいですよ」

 私たちが住む矢巾町の、西徳田には徳丹城と呼ばれる城の史跡がある。

 国道沿いを花巻方面へ走ると歩道橋があり、その歩道橋の先に見晴らしの良い原っぱが広がっている。何を隠そう、そこが我らが徳丹城跡だった。何もない場所と言えば何もない場所ではあるけど、ここに大きな城柵があったと思うと、一種の神聖さを感じられる。徳丹城跡と隣接して私が通っていた徳田小学校があり、だから徳丹城跡は子供の頃から馴染みのある場所だった。

「この『切り株』に座って食べよっか」

 徳丹城跡には、見た目が切り株のようなものが点在している。当時、外郭は丸太によって囲まれていたらしいのだけど、この切り株はそれを復元したものであるらしい。

 先輩に倣い、便宜的に切り株と呼ぶけど、切り株と切り株の間隔は歩幅にしてだいたい三歩ほど離れている。すべて等間隔に並んでいるわけではなく、間隔が短い部分もある。どうせ一緒に座るのなら、できるだけ間隔が狭いところに座ってほしいなと思ったけど、よりにもよって先輩は、一番間隔が広い切り株に腰掛けた。私の気も知らずに。思わず、ため息を吐いてしまった。

「えっと、どうかした?」

「へ? あ、いえいえ、なんでもないですよ!」

 私はいったい、どんな顔をして先輩を見ていたのだろう。恨めしげな表情をしていたのかもしれない。

「それにしても、心が落ち着く場所ですよね」

 誤魔化すように、私は意識的に明るい声で言った。

「私、この近所に住んでるので、昔よくここで遊んだんです」

「へえ、そうなんだ。やっぱり澪ちゃんと?」

 先輩は紙袋からハンバーガーを取り出すと、早速包装を解き始めた。私はバッグからハンカチタオルを取り出し、それを膝に敷いてから、ハンバーガーを取り出した。

「そうですね。私は昔から澪とばっかり遊んでます」

 先輩には、澪は私の幼馴染だと話してある。

「澪ちゃんとはいつから仲良いの?」

「小学校三年生のときです。同じクラスになったことがきっかけで」

「高校まで同じなんだから、相当仲いいよな」

「そうなんですけど、でも元々は別の高校に行く予定だったんです」

 私はもう少し偏差値の高い高校が志望校だった。

「学力的には、ほぼ受かるような状態だったんですけど、私ってものすごく臆病なんです。それで確実に合格できる高校を受験したんです。ちなみに澪はまったくの逆で、ほとんど合格可能性がないまま、ウチの高校を受験したんですよ。最後の二ヶ月くらいで、とんでもない追い上げをして。周囲に何度説得されても、『私はあの青い制服を着るんだ!』って」

「ははは、すげえ根性」

「そうですね。私は澪なら合格できると信じてました。ちなみに先輩は、どうしてウチの高校を受験したんですか?」

「そりゃあ、家が近いからだよ」

「……え? それだけですか?」

「それだけ。通学に時間かけるの、めんどうくさいじゃん。けど、親には子供の頃から、『最低でも一高』って言われて育ってきたから、猛烈に反対されたよ」

「どうやってご両親を説得したんですか?」

「絶対に国立の医学部に、現役で合格しますって」

「……わあ、すごいです」

 数学でビリを取る私とは、あまりにも住んでいる世界が違う。

「ところで、さっきの話に戻るけど、もしかして志田ちゃんは落ちるのが怖かったんじゃなくて、澪ちゃんと離れるのが怖かったから、澪ちゃんと同じ高校を受けたんじゃないの?」

「そんなことは……ないとは思うんですけどね」

 あまり意識したことはなかったけど、深層心理ではそんなことを思っていたのかもしれない。もちろん、先輩がいるこの高校に進学したいという気持ちもあるにはあった。

 けど、やっぱり最たる理由は、単純に私が臆病だったからだ。

 子供の頃から、いつも人の目ばかりを気にして生きてきた。小学校の頃は、上手くいかないことばかりで、よくこの場所で泣いていた。

「……懐かしいな」

 徳丹城には、忘れられない思い出がある。その思い出を、なぜだか無性に話したくなった。

「昔は、私と澪を含めた五人グループだったんです。小学校四年生の頃まで。でもあるとき急に、私はそのグループから追い出されたんです」

「何がきっかけで?」

「きっかけなんて、あってないようなものなんです。女子ってそういうところあるんですよ。わかります?」

「いやわかんねー」

 と先輩は苦笑しつつ、ハンバーガーにかぶりつく。口元にソースがべったりついているけど、まったく気にする様子はなかった。

 だけど、その先輩のお気楽な雰囲気は、少し重い話をする私にとってはありがたかった。

「グループの中に気が強い子がいて。その子が急に、私に攻撃してくるようになったんです。『紗夏ちゃんきらーい』みたいな感じで。だから私は、そのグループと距離を取って生活するようになったんです」

 良い子ぶってるだの、ダサいだの、毎日のように言われた。それだけならまだしも、急に突き飛ばされて、笑いものにされたりもした。

「私のお道具箱が失くなって、辺りをキョロキョロと見回すと、その子たちがこっちを見て笑っていたり。そんなこともありました」

 私は学校が終わると、学校に隣接していた徳丹城跡へ行った。家に帰って泣いてしまうと、お母さんとお父さんが心配する。だから私は木の陰にうずくまり、気が済むまで泣いた。泣いた跡が残らないように、最後は学校に戻り、顔を洗ってから家に帰った。

「……あの日の放課後も、私は徳丹城で泣いていました。そうしたら、澪の声が聞こえてきたんです。『おーい! 紗夏ー! 一緒に帰ろー!』って。振り返ると、髪がぐちゃぐちゃで、おまけに唇から血を流した澪がいたんです」

「ははは」

 先輩は何か納得するように、頷きながら笑った。

「澪ちゃん、その子たちと戦ったんだ」

「そうなんです」

 澪は、私を理不尽にイジメる子と、取っ組み合いのケンカをしたらしい。

「澪は、ごめんね、ごめんね、って、私に謝ってきました。自分もイジめられるのが怖くて、助けられなかったって。次の日から澪も一緒にグループを抜けてくれて、それからはずっと二人でいます」

 あのときから私は、澪を心から信頼している。たとえ何があっても、澪を一生の友だちだと決めた。

「私は友達が多くはないんですけど、澪だけいれば十分だなって思うんですよね」

「良い話だなぁ……」

 先輩は遠くの空を眺めながら、しみじみと言う。先輩の視線の先には、美しく聳える南昌山があった。まるで私たちを優しく見守るような佇まいで、雄大というよりも、包容力に溢れている。

 あのときもそうだった。私が泣きじゃくりながら澪にお礼を言ったとき、夕日を背にした南昌山は、温かく金色に輝きながら、私たちを見守っていた。

「今の話を聞いて、一つ確信したことがある。やっぱりこの場所は、『友愛の場所』なんだなって」

「友愛の場所?」

 澪が私のために戦ってくれた過去も相まって、徳丹城は友愛というよりも、むしろ戦いのイメージがある。

「徳丹城に、友愛のイメージはないですけどね」

 大和朝廷と蝦夷の戦いは、本で読んだことがあった。征夷大将軍の坂上田村麻呂と、東北の英雄アテルイの戦い。戦いを終わらすためにアテルイは投降したけど、朝廷に裏切られて処刑されてしまう。

 その後、朝廷は蝦夷を制圧するため、志波城を造った。

「志波城が崩壊したのをきっかけに、移城されたのが徳丹城でしたよね?」

「そうそう。ちなみに、なんで志波城が崩壊したかは知ってる?」

「……えーっと、なんでしたっけ?」

「じゃあそれは宿題ね。ちゃんと自分で調べておいて」

 そんなこと言って、先輩も忘れちゃったんじゃないの?

「徳丹城が、志波城の代わりに造られたものなら、目的は蝦夷の制圧ですよね? どうしてそれが、友愛の場所ってイメージになるんですか?」

「徳丹城は、確かに志波城の代わりに建てられたものだけど、そもそも造りが違うんだよ。志波城は蝦夷と戦争するための、いわば軍事施設であって、戦争の最前線だった。けど、徳丹城は軍事施設っていうより、政庁のような役割を果たしてたらしいんだ。きっと城主である文室綿麻呂は、最初から蝦夷と激しく戦う気はなかったんじゃないかな。それまで大和朝廷は蝦夷を人間だと認めず、野蛮な動物扱いしてきたわけだけど、綿麻呂は蝦夷を同じ人間だと認め、尊重したからこそ、平定できたんじゃないかと思うんだ。ようするに、蝦夷を力ずくで制圧するためじゃなくて、蝦夷と共存するために造られた城。それが徳丹城だ」

「だから友愛の場所……ですか」

 改めて私は徳丹城跡を見渡してみる。何もない、長閑な場所だ。でも私にとっては大切な思い出の場所。

 歩空先輩の言葉を借りれば、友愛の場所だ。

「さてと、メシも食ったしそろそろいくか」

 先輩が立ち上がる。先輩の話を夢中で聞いていた私は、一口残っていたハンバーガーを口に放り込んだ。

「それとも、まだ飲み物も残っているし、この辺りを散歩でもしてみる?」

「したいです! この辺り、田んぼばかりであまりおもしろくないかもしれないですけど……」

「全然いいよ。むしろ、今はそういう場所を歩きたい」

 私は先輩と、見晴らしだけが良い田んぼ道を歩いた。

 まだ六月だというのに、日差しは夏の真似事をして、畦道の向こうは陽炎でゆらゆらと揺れている。時折風が吹くと先輩は目をつむって、一時の涼しさに微睡んでいた。私はその横顔を何度も盗み見る。何度見ても、先輩の横顔は飽きることはなかった。いつまでも見ていたいと思った。

 もうすぐ、夏が来る。

 夏が来たら、私は先輩と行きたい場所があった。

「あの、先輩」

「ん? どした?」

「えっと……」

 今の私では、とてもお誘いすることはできない。そんな勇気はどこにもなかった。

 変わりたいな、と思う。できれば夏が来る前に。

「俺に、何か訊きたいことでもあるの?」

「……好きな食べ物ってなんですか?」

「ハンバーグが挟んであるサンドウィッチと、カラシのきいた卵焼き」

 先輩は即答した。

「変わった食べ物がお好きなんですね。まあ先輩らしいですけど」

 振り返ってみると、私と先輩の影が並んで映っていた。その光景を見るなり、ふいにとある悪戯を思いついた。

 私の左手の影と先輩の右手の影を、重ね合わせてみる。まるで手を繋いで歩いてるみたいだ。

 あまり後ろを振り返ると、悪戯が先輩にバレてしまう気がしたけど、嬉しくて、何度も振り返ってしまう。

 いつか影ではなくて、本当に先輩と手を繋ぐことができたら、どれだけ幸せだろう。

「なに笑ってんの?」

「いえ、別に」

「楽しそうだね」

「はい、とっても」

 自分の気持ちを隠せなくて、思わずそう答えてしまった。

 

 先輩に彼女ができたと聞いたのは、この日から一週間が経った頃だった。

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