第3章
私の世界に
徳丹城はない
Vol.13前編
第3章 私の世界に徳丹城はない
1
なぜかアラームが鳴る直前に起きることがある。スマホを手に取ると、アラームが鳴る一分前だった。
この現象の名前は知らないけど、これを得と感じるか損と感じるかはその人次第だろう。ちなみに私は損だと感じる人間だ。だって本当はあと一分寝ていられたのだから。
ちなみに澪は得と感じる人間だそうだ。理由は、アラームに眠りを阻害されずに済むからだそうで。
「……え⁈」
思わず跳ね起きる。
「え⁈ え⁈ え⁈」
手や腕、それにTシャツをめくってお腹を見てみる。
私は昨日、車に轢かれた。
それなのに、体のどこを見ても傷ひとつなかった。
そもそも、私はいったいどうやって家まで帰ってきたのだろう?
「お母さーん‼」
叫びながら階段を駆け下りる。
「なによ」
台所に立つお母さんが、怪訝な目つきで私を見る。
「私、昨日どうやって帰ってきた⁈」
「ん?」
お母さんは小首をかしげた。
「あんた、昨日どこにも出かけてないでしょ」
「何言ってんの、昨日の夜、私出かけたじゃん! 大事な人に会ってくるって! そしたらお母さん、そうですかって……」
「ぷぷ」
お母さんはなぜか吹き出した。
「いつまで寝ぼけてんの。ほら、早く準備しなさい」
「なんで覚えてないの⁈」
「いいから、さっさと着替えてきなさい」
どうして、お母さんは昨日のことを覚えてないのだろう。
「……どういうこと?」
何か、得体の知れない事態に直面しているような気がした。
私は部屋に戻って、すぐにスマホを取った。こういうとき、私が頼る相手は一人しかいない。
「もしもし⁈ 澪⁈」
『なーにー』
澪の寝ぼけた声が返ってくる。
『どったの、こんな朝早くに』
「私、昨日交通事故に遭ったんだけど、何か聞いてない⁈」
『……ええ⁈ 事故⁈ き、聞いてないよ! 昨日の何時に事故ったの⁈』
「夜! 澪に言ってなかったんだけど、実は昨日、デートが中止になって! でも夜から会ったんだ!」
『ちょっと待って! デートってなに⁈』
「ひまわりパークのやつに決まってるじゃん!」
私が答えると、なぜか澪は黙った。
「ねえ澪、聞いてる?」
『……うん。あのさ、私もしかしたら紗夏の話、どこかで聞きそびれちゃったのかわかんないけど、デートの話、初めて聞いたよ?』
「……え」
ゾッとした。背筋がぞわぞわとして、ねっとりとしたイヤな汗がこめかみを流れた。
私が歩空先輩とひまわりパークにいく話は、何度も澪と話している。それどころか、デートのための服を一緒に買いに行った。デート当日だって、澪は私にラインくれた。なのに、どうして覚えていないのだろう。
澪も、お母さんも変だ。
いや、もしかすると――。
「私がおかしくなったのかも……」
『紗夏、ちょっと大丈夫⁈ 変な夢でも見たの⁈』
あれが夢? そんなわけない。私は車に轢かれたときの感触を、生々しく覚えている。
でも実際、私の体は傷ひとつない。
ってことは夢?
私が歩空先輩から告白されたのも、彼女になれたことも、全部夢?
「ごめん、あとでかけ直す!」
私は澪との通話を切り、すぐに制服に着替えた。
もし昨日の出来事が現実に起きたことだったのなら、事故の痕跡が残っているはずだ。
私は再び階段を駆け下り、家を飛び出した。家の脇に置いてある自転車を見た瞬間、息が止まりそうになった。
事故に遭ったはずなのに、私の体と同様、自転車は無傷だった。
「なにが起きてるんだよ……!」
恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、私は自転車を漕ぎ出した。
いつだったか先輩と一緒に歩いた田んぼに囲まれた道を走る。私の影と先輩の影が手を繋いだ道。先輩が私を、好きになってくれた道だ。あの出来事すらも、夢だったというのだろうか――。
「…………」
視界が開けた瞬間、頭が真っ白になった。
そこにあるはずのものがなかったから。
事故の痕跡どころの話じゃなかった。
徳丹城が、なかった。
徳丹城跡があった場所は、古ぼけた商店街になっていた。
とても理解しがたい光景を前にして、嘔吐が止まらなくなった。人生で味わったことのない、強いストレスを体が感じているのだろう。
いったい、どこからおかしくなった?
昨日の出来事どころか、徳丹城の存在すらすべて夢だったとするなら、私と歩空先輩との関係は?
私はスマホを手に取った。手の震えが止まらず、左手で強く右腕を掴んだ。
「ない……! ない! ない! ない!」
スマホのどこにも、先輩の名前がなかった。
まさか――。
私は再び自転車を漕いだ。私が向かう先は学校だ。
自転車を漕ぎながら、先輩との思い出を回想した。初めて会ったとき、私は先輩に強烈なタックルをお見舞いしてしまったこと。体育祭で三百枚以上の写真を撮ったこと。ウザ絡みしてくる三森から先輩が守ってくれたこと。自転車の鍵を一緒に探したこと。そのときに先輩が最低な下ネタを語ったこと。一緒に徳丹城跡でハンバーガーを食べたこと。
先輩が私を、好きだと言ってくれたこと。
それらの思い出はたしかに私の胸の中にある。夢であるわけがない。
自転車を玄関の前に乗り捨て、土足のまま校舎へと入る。
先輩の下駄箱。
先輩の教室。
バスケ部の部室。
「ない……! ない……‼」
どこを探しても、歩空先輩に関するものはどこにもなかった。
2
徳丹城と先輩が消えてからは、先輩との思い出を反芻する、ただそれだけの命だった。
過ぎてゆく時間を、ただ傍観していた。無気力を隠す気力さえなく、何の努力もしないまま、私の高校生活は終わろうとしている。
努力したところで、また同じことが起きるとも限らない。だから何をするにも気力がなんて湧かなかった。私はこの世界を、まったくと言っていいほど信用していなかった。私はきっと、この世界に嫌われている。バカにされているとさえ思えた。
澪は私が精神病に罹ったと思い、何度も通院を勧めてきた。それがイヤで、次第に澪とも疎遠になってしまった。あれだけ一緒にいたのに、今では廊下ですれ違っても、挨拶はおろか目が合うこともない。
結局、歩空先輩はこの世界のどこにもいなかった。というより、最初から存在していないことにされていた。
この二年とちょっとの期間、私は何度か先輩の夢を見た。先輩が私を迎えに来てくれる夢だ。
『志田ちゃん! 俺たちの世界に帰ろう!』
そういって、先輩は私を抱きしめてくれる。私は大泣きしながら、先輩を抱きしめ返すのだ。
『どこにいってたんですか!』
『ごめんごめん、悪かったよ。ははは』
先輩はあの頃のように無邪気に笑う。そうして私を優しく抱きしめて、髪を撫でてくれた。
夢から覚めた直後は、いつも現実と夢がごちゃごちゃになっていた。何が夢で、何が現実かわからない。じわじわと現実が侵食してくると、それを体が拒否して、泣き叫んでしまう。そんな日は学校を休んで、ただひたすら泣くだけだった。
一度、先輩の後ろ姿によく似た人を見かけたことがある。その瞬間の、胸の高鳴りを今でも覚えている。期待してはいけない、と思いながらも、私は無我夢中でその人を追いかけた。
人違いだったとわかったとき、世界に見放された感覚があった。一歩も動けず、自分が涙を流していることにさえ気づけなかった。諦めろ、と誰かに言われた気がした。
それでも私は、未だに先輩を探し続けている。きっとこの先も、ここに住んでいる限り、私は先輩を探し続けてしまうだろう。だから高校卒業後はこの町を出ていくことにした。名前を書けば受かるような大学に進学し、知らない町で私は長い長い余生を過ごすつもりだ。
澪の言うように、私は精神疾患に罹っている可能性もある。でも、今はそれならそれで、別に良いと割り切っている。あの夏までの人生が、すべて私の妄想や幻だったとしても、歩空先輩への想いだけは本物だ。
『紗夏に会わせたい人がいる』
澪からそんなラインが来たのは、二月の中頃のことだった。
3
外は雪が降っていた。羽毛のような雪が、風に揺れることもなく一直線に落ちてきている。
待ち合わせ場所は岩手医科大学附属病院と、道路を挟んで向かい側にあるカフェだった。
岩手医大病院には、歩空先輩のお父さんが勤めていた。でも調べてみても『相去』姓のお医者さんはいなくて、つまりこの世界には歩空先輩はおろか、家族さえも存在していなかった。
病院前の通りは、オレンジ色の光が灯る街灯が並んでいる。雪に街灯の明かりがにじみ、その背後には荘厳なお城のように病院がそびえていた。
幻想的でさえあるその光景を、素直に美しいと思えない自分がいる。
なぜならこの町には、本物の城が存在していたのだから。
友愛の場所。
いつか私の大切な人が、あの城跡をそんな風に呼んだ。
あの場所が失くなってしまったから、私と澪の関係も変わったのだろうか。
待ち合わせ場所へ到着し、店の外で傘の雪を払い落とした。店内を覗いてみると、テーブル席に澪の姿が見えた。私が知らない、ピンク色のニット帽を被っている。昔は澪の服を、全部把握していたのに。
澪と対面して、二人の男性がこちらに背を向けながら座っている。大学生くらいの年齢だろうか。
「おーい!」
私に気づいた澪が手を振る。それに続いて、男性二人がこちらに振り返った。
――ん⁈
私は、この人たちをおそらく知っている。でも、どこで会ったのかは覚えていない。
一人は大きな黒縁メガネが特徴の優しそうな男性で、もう一人は鳥の巣みたいなもじゃもじゃヘアが特徴の男性だった。
「紗夏、来てくれてありがとう」
「ううん……」
「志田さん、初めまして」
メガネの男性が立ち上がって、愛想よく私に挨拶をした。パーマの男性は座ったまま、私に微かに頷いて見せた。
「僕たちは、医大に通う学生でして、ミステリー研究サークルに所属してます」
澪は昔から都市伝説の類が好きだから、その関係でこの二人と知り合ったのだろう。
「僕が北島で、彼は鳥橋です」
「どうも」
鳥橋さんは、ほとんど口を動かさずに言った。
北島さんは取り繕うように、「ああ、気を悪くしたらすみません」と言った。
「彼は人見知りというか、人と話すのが苦手なんです。別に怒ってるわけじゃないので、安心してください」
「そうですか……」
別に、鳥橋さんの愛想が悪かろうが、どうでもいい話だった。
「ま、とりあえず座って!」
澪に促され、私は澪の隣に腰を落ち着かせた。
「紗夏、先に謝っておくね。紗夏のこと、色々とこの人たちには喋ってあるの。ごめん」
「いや、別にいいよ」
私にとってはただの事実だし。
「実を言いますと」北島さんは神妙な顔つきで指を組んだ。「紗夏さんの身に何が起きたのか、わかったかもしれないんです。あなたと彼を、もう一度会わせる方法も」
出し抜けに、北島さんはそんなことを口にした。
「彼って……」
「相去歩空さんですよ」
そんな展開は、まったく予期していなかった。