私の世界に

徳丹城はない


Vol.1前編

第3章 私の世界に徳丹城はない

なぜかアラームが鳴る直前に起きることがある。スマホを手に取ると、アラームが鳴る一分前だった。

 この現象の名前は知らないけど、これを得と感じるか損と感じるかはその人次第だろう。ちなみに私は損だと感じる人間だ。だって本当はあと一分寝ていられたのだから。

 ちなみに澪は得と感じる人間だそうだ。理由は、アラームに眠りを阻害されずに済むからだそうで。

「……え⁈」

 思わず跳ね起きる。

「え⁈ え⁈ え⁈」

 手や腕、それにTシャツをめくってお腹を見てみる。

 私は昨日、車に轢かれた。

 それなのに、体のどこを見ても傷ひとつなかった。

 そもそも、私はいったいどうやって家まで帰ってきたのだろう?

「お母さーん‼」

 叫びながら階段を駆け下りる。

「なによ」

 台所に立つお母さんが、怪訝な目つきで私を見る。

「私、昨日どうやって帰ってきた⁈」

「ん?」

 お母さんは小首をかしげた。

「あんた、昨日どこにも出かけてないでしょ」

「何言ってんの、昨日の夜、私出かけたじゃん! 大事な人に会ってくるって! そしたらお母さん、そうですかって……」

「ぷぷ」

 お母さんはなぜか吹き出した。

「いつまで寝ぼけてんの。ほら、早く準備しなさい」

「なんで覚えてないの⁈」

「いいから、さっさと着替えてきなさい」

 どうして、お母さんは昨日のことを覚えてないのだろう。

「……どういうこと?」

 何か、得体の知れない事態に直面しているような気がした。

 私は部屋に戻って、すぐにスマホを取った。こういうとき、私が頼る相手は一人しかいない。

「もしもし⁈ 澪⁈」

『なーにー』

 澪の寝ぼけた声が返ってくる。

『どったの、こんな朝早くに』

「私、昨日交通事故に遭ったんだけど、何か聞いてない⁈」

『……ええ⁈ 事故⁈ き、聞いてないよ! 昨日の何時に事故ったの⁈』

「夜! 澪に言ってなかったんだけど、実は昨日、デートが中止になって! でも夜から会ったんだ!」

『ちょっと待って! デートってなに⁈』

「ひまわりパークのやつに決まってるじゃん!」

 私が答えると、なぜか澪は黙った。

「ねえ澪、聞いてる?」

『……うん。あのさ、私もしかしたら紗夏の話、どこかで聞きそびれちゃったのかわかんないけど、デートの話、初めて聞いたよ?』

「……え」

 ゾッとした。背筋がぞわぞわとして、ねっとりとしたイヤな汗がこめかみを流れた。

 私が歩空先輩とひまわりパークにいく話は、何度も澪と話している。それどころか、デートのための服を一緒に買いに行った。デート当日だって、澪は私にラインくれた。なのに、どうして覚えていないのだろう。

 澪も、お母さんも変だ。

 いや、もしかすると――。

「私がおかしくなったのかも……」

『紗夏、ちょっと大丈夫⁈ 変な夢でも見たの⁈』

 あれが夢? そんなわけない。私は車に轢かれたときの感触を、生々しく覚えている。

 でも実際、私の体は傷ひとつない。

 ってことは夢?

 私が歩空先輩から告白されたのも、彼女になれたことも、全部夢?

「ごめん、あとでかけ直す!」

 私は澪との通話を切り、すぐに制服に着替えた。

 もし昨日の出来事が現実に起きたことだったのなら、事故の痕跡が残っているはずだ。

 私は再び階段を駆け下り、家を飛び出した。家の脇に置いてある自転車を見た瞬間、息が止まりそうになった。

 事故に遭ったはずなのに、私の体と同様、自転車は無傷だった。

「なにが起きてるんだよ……!」

 恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、私は自転車を漕ぎ出した。

 いつだったか先輩と一緒に歩いた田んぼに囲まれた道を走る。私の影と先輩の影が手を繋いだ道。先輩が私を、好きになってくれた道だ。あの出来事すらも、夢だったというのだろうか――。

「…………」

視界が開けた瞬間、頭が真っ白になった。

 そこにあるはずのものがなかったから。

 事故の痕跡どころの話じゃなかった。

 徳丹城が、なかった。 

徳丹城跡があった場所は、古ぼけた商店街になっていた。

 とても理解しがたい光景を前にして、嘔吐が止まらなくなった。人生で味わったことのない、強いストレスを体が感じているのだろう。

 いったい、どこからおかしくなった?

 昨日の出来事どころか、徳丹城の存在すらすべて夢だったとするなら、私と歩空先輩との関係は?

 私はスマホを手に取った。手の震えが止まらず、左手で強く右腕を掴んだ。

「ない……! ない! ない! ない!」

 スマホのどこにも、先輩の名前がなかった。

 まさか――。

 

 私は再び自転車を漕いだ。私が向かう先は学校だ。

 自転車を漕ぎながら、先輩との思い出を回想した。初めて会ったとき、私は先輩に強烈なタックルをお見舞いしてしまったこと。体育祭で三百枚以上の写真を撮ったこと。ウザ絡みしてくる三森から先輩が守ってくれたこと。自転車の鍵を一緒に探したこと。そのときに先輩が最低な下ネタを語ったこと。一緒に徳丹城跡でハンバーガーを食べたこと。

 先輩が私を、好きだと言ってくれたこと。

 それらの思い出はたしかに私の胸の中にある。夢であるわけがない。

 自転車を玄関の前に乗り捨て、土足のまま校舎へと入る。

 先輩の下駄箱。

 先輩の教室。

 バスケ部の部室。

「ない……! ない……‼」

 どこを探しても、歩空先輩に関するものはどこにもなかった。

徳丹城と先輩が消えてからは、先輩との思い出を反芻する、ただそれだけの命だった。

 過ぎてゆく時間を、ただ傍観していた。無気力を隠す気力さえなく、何の努力もしないまま、私の高校生活は終わろうとしている。

 努力したところで、また同じことが起きるとも限らない。だから何をするにも気力がなんて湧かなかった。私はこの世界を、まったくと言っていいほど信用していなかった。私はきっと、この世界に嫌われている。バカにされているとさえ思えた。

 澪は私が精神病に罹ったと思い、何度も通院を勧めてきた。それがイヤで、次第に澪とも疎遠になってしまった。あれだけ一緒にいたのに、今では廊下ですれ違っても、挨拶はおろか目が合うこともない。

 結局、歩空先輩はこの世界のどこにもいなかった。というより、最初から存在していないことにされていた。

 この二年とちょっとの期間、私は何度か先輩の夢を見た。先輩が私を迎えに来てくれる夢だ。

『志田ちゃん! 俺たちの世界に帰ろう!』

 そういって、先輩は私を抱きしめてくれる。私は大泣きしながら、先輩を抱きしめ返すのだ。

『どこにいってたんですか!』

『ごめんごめん、悪かったよ。ははは』

 先輩はあの頃のように無邪気に笑う。そうして私を優しく抱きしめて、髪を撫でてくれた。

 夢から覚めた直後は、いつも現実と夢がごちゃごちゃになっていた。何が夢で、何が現実かわからない。じわじわと現実が侵食してくると、それを体が拒否して、泣き叫んでしまう。そんな日は学校を休んで、ただひたすら泣くだけだった。

 一度、先輩の後ろ姿によく似た人を見かけたことがある。その瞬間の、胸の高鳴りを今でも覚えている。期待してはいけない、と思いながらも、私は無我夢中でその人を追いかけた。

 人違いだったとわかったとき、世界に見放された感覚があった。一歩も動けず、自分が涙を流していることにさえ気づけなかった。諦めろ、と誰かに言われた気がした。

 それでも私は、未だに先輩を探し続けている。きっとこの先も、ここに住んでいる限り、私は先輩を探し続けてしまうだろう。だから高校卒業後はこの町を出ていくことにした。名前を書けば受かるような大学に進学し、知らない町で私は長い長い余生を過ごすつもりだ。

 澪の言うように、私は精神疾患に罹っている可能性もある。でも、今はそれならそれで、別に良いと割り切っている。あの夏までの人生が、すべて私の妄想や幻だったとしても、歩空先輩への想いだけは本物だ。

『紗夏に会わせたい人がいる』

 澪からそんなラインが来たのは、二月の中頃のことだった。

外は雪が降っていた。羽毛のような雪が、風に揺れることもなく一直線に落ちてきている。

 待ち合わせ場所は岩手医科大学附属病院と、道路を挟んで向かい側にあるカフェだった。

 岩手医大病院には、歩空先輩のお父さんが勤めていた。でも調べてみても『相去』姓のお医者さんはいなくて、つまりこの世界には歩空先輩はおろか、家族さえも存在していなかった。

 病院前の通りは、オレンジ色の光が灯る街灯が並んでいる。雪に街灯の明かりがにじみ、その背後には荘厳なお城のように病院がそびえていた。

 幻想的でさえあるその光景を、素直に美しいと思えない自分がいる。

 なぜならこの町には、本物の城が存在していたのだから。

 友愛の場所。

 いつか私の大切な人が、あの城跡をそんな風に呼んだ。

 あの場所が失くなってしまったから、私と澪の関係も変わったのだろうか。

 

 待ち合わせ場所へ到着し、店の外で傘の雪を払い落とした。店内を覗いてみると、テーブル席に澪の姿が見えた。私が知らない、ピンク色のニット帽を被っている。昔は澪の服を、全部把握していたのに。

 澪と対面して、二人の男性がこちらに背を向けながら座っている。大学生くらいの年齢だろうか。

「おーい!」

 私に気づいた澪が手を振る。それに続いて、男性二人がこちらに振り返った。

 ――ん⁈

 私は、この人たちをおそらく知っている。でも、どこで会ったのかは覚えていない。

 一人は大きな黒縁メガネが特徴の優しそうな男性で、もう一人は鳥の巣みたいなもじゃもじゃヘアが特徴の男性だった。

「紗夏、来てくれてありがとう」

「ううん……」

「志田さん、初めまして」

 メガネの男性が立ち上がって、愛想よく私に挨拶をした。パーマの男性は座ったまま、私に微かに頷いて見せた。

「僕たちは、医大に通う学生でして、ミステリー研究サークルに所属してます」

 澪は昔から都市伝説の類が好きだから、その関係でこの二人と知り合ったのだろう。

「僕が北島で、彼は鳥橋です」

「どうも」

 鳥橋さんは、ほとんど口を動かさずに言った。

 北島さんは取り繕うように、「ああ、気を悪くしたらすみません」と言った。

「彼は人見知りというか、人と話すのが苦手なんです。別に怒ってるわけじゃないので、安心してください」

「そうですか……」

 別に、鳥橋さんの愛想が悪かろうが、どうでもいい話だった。

「ま、とりあえず座って!」

 澪に促され、私は澪の隣に腰を落ち着かせた。

「紗夏、先に謝っておくね。紗夏のこと、色々とこの人たちには喋ってあるの。ごめん」

「いや、別にいいよ」

 私にとってはただの事実だし。

「実を言いますと」北島さんは神妙な顔つきで指を組んだ。「紗夏さんの身に何が起きたのか、わかったかもしれないんです。あなたと彼を、もう一度会わせる方法も」

 出し抜けに、北島さんはそんなことを口にした。

「彼って……」

「相去歩空さんですよ」

 そんな展開は、まったく予期していなかった。