最終章
私の恋は
執念深い
Vol.4前編
最終章 私の恋は執念深い
1
どこからともなく声が聞こえてくる。
一定のリズムで、同じフレーズを何度も繰り返していて、お経、もしくは呪文じみていた。数人でそれを行っているのか、声はいくつか重なっていて、だから自然と重みのある響きとなっていた。
その重みが、私の中に妙な感慨を生み出す。思わず頭を下げたくなるような、敬いの心だ。
「ふるべゆらゆらとふるべ」
目を開けると、雲一つない晴天が広がっていた。
「……わぁ、綺麗」
ぼんやりと空を眺めていると、じわじわと私の自我が復帰してくるのを感じた。
「……はっ」
こんな呑気な感想を呟いている場合じゃない。
鳥橋さんとのやり取りが嘘ではないのだとしたら、千二百年以上も前にタイムスリップしたはず。
私は体を起こす。風はじっとりと湿っていて、生ぬるい。季節は夏だろうか。
「ふるべゆらゆらとふるべ」
妙な声は絶えず聞こえてくる。
私の背後には、巨大な注連縄が巻かれた大木があった。見上げても頂点が見えないほどで、天にも届きそうなほどだ。大木の周りには、荒波のような太い根っこが張り巡らされていて、なるほど私はその根と根の間にすっぽり嵌まって寝ていたらしい。
謎の呪文は大木の向こう側から聞こえてくる。恐る恐る、私は大木の陰から顔を覗かせてみた。
大木を中心に、数人ほどが扇形に広がって、先ほどの呪文を唱えているのが見えた。おそらく、この大木は私の時代で言う『御神体』のようなものなのではないだろうか。つまり神様が宿る場所。
呪文を唱える人々の中心では、男の人がでんと胡座をかいていた。山丹服を着た風貌から、蝦夷の方だとわかる。男の人の腰元に、剣のような武器が見えた。
大きな篝火台のようなものに灯った火は、不機嫌な獣の尻尾のように空気を叩いている。
私は一度顔を引っ込めた。
どうやら私は、本当に千二百年前にタイムスリップしてきたらしい。そんでもって今は、蝦夷の方々による、祈祷の最中であるらしい。
「……一度祝詞を止めてくれるか」
突然男の声の聞こえて、思わず私は息を止めた。
「木の陰に何か気配がする」
その声をきっかけに、呪文の声が止んだ。
誰かがこちらに近づいてくる気配を感じ、私はパニックを起こしかけた。
「ヤバいヤバいヤバい……」
蝦夷の方々からすれば、私は突然彼らの領域を侵犯した不審者だ。
蝦夷と大和は戦争の真っただ中。しかも言葉も通じない可能性も高い。どんな弁明も聞き入れてもらえないかもしれない。
すなわち、命の危機。
後ろを振り返らず、私は走り出した。目の前の森へと飛び込む。時刻は昼頃だろうけど、背丈の高い木々が空を覆い、私は闇に紛れた。
「……はぁ、はぁ」
あまり森の奥深くへ行っては迷ってしまう。木影から顔を出し、追手が来ていないことを確認してから、私は腰を下ろした。
「……どうすればいいんだろう」
勢いだけでこの時代に来たせいで、いったい何をすればいいかわからない。
鳥橋さんは私に、ヤマト兵の空丸さんの命を守るように言った。
「……鳥橋さんが、何の考えもなく私をここに連れてくるはずがないよね」
私は逃げてしまったけど、あの蝦夷の方は、きっと私の力になってくれるはず。だから鳥橋さんは、私をあの場所に下ろしたんだ。たぶん。
それに、私が蝦夷の方たちを怖がっていたら、かつてヤマトが蝦夷を野蛮人だと言ってわかり合おうとしなかった本質と変わらない。
「よし……」
この時代で、私一人で運命を変えることなんてできっこない。まずは先ほどの場所へ戻って、蝦夷の方々とコンタクトを取ってみよう。
引き返し、再び歩き始めた私は、だけど恐ろしい事実に前にして、早くも絶望しかけた。
「完全に迷った……」
2
森の中に道と呼べなくもない道を見つけ、私はその道をひたすら歩いた。
どれくらい歩いただろうか。木々の葉っぱから見える空は、じんわりと藍色に染まりつつあり、もう少しで日が落ちてしまいそうだった。
正直言って、ここでしゃがみこんで泣いてしまいたかった。森の中で道に迷うなんて、それだけでも生死の危機だというのに、ここは私が生きていた時代ですらない。
「……喉渇いた」
お腹だって空いた。それでも私が歩みを止めなかったのは、希望があるからだ。歩空先輩にもう一度会えるかもしれないという、強い希望が。
足を動かしながら、私は歩空先輩に再会したときの、その後のことを少し想像した。今まではこういう想像をすると、現実とのギャップに苦しむことになったけど、再会の可能性が実際にあるわけだから、思う存分想像した。
思いきり甘えるのもありだし、逆に一発ぶん殴るのもありだ。どこに行ってたんだよ、と。私の性格上、どっちもできっこないけど。
それにしても、この道を歩いて行くと、いったいどこに出るのだろう。少なくとも、先ほどの祈祷が行われていた場所には辿り着かない気がする。
次第に焦りが生じてきたけど、こういうときは頭を空っぽにして鼻歌でも唄うのが一番だ。
「ふんふふーん、ふふんふん、ふーん……ん?」
前方から、荷台で何かを運ぶような音が聞こえてきた。
ひょっとして、先ほど蝦夷の方たちだろうか。
荷台の音は次第に大きくなる。
「女の声がしたな」
「したな」
「若い女だったな」
「だったな」
大きな車輪がついた大八車を、三人の男が押してくるのが見えた。三人とも甲冑姿だ。蝦夷ではない。
おそらく、ヤマト兵だ。
「どうした? 道に迷ったのか?」
気づけば、私は男たちに囲まれていた。
「ええっと、そうですね」
「珍しい服を着てるなぁ?」
舐め回すように私を見てくる。ちなみに私は高校の制服を着用していた。
「俺たちが里まで連れていってやる。どれ、一緒に参ろうか」
男たちは三人とも、なんだかいやらしい笑みを浮かべていた。
私の本能が、この人たちについていってはいけないと警鐘を鳴らしている。
「いえ、結構です。こっちに私の家があるので……」
「そっちは川しかねえぞ」
バカしたように、男たちは笑い声を立てた。
「……それではごきげんよう」
私は小走りで男たちから逃げようとしたけど、背後から不穏な声が聞こえてきた。
「しゃーねえ。じゃ、いつものように力ずくで引っさらって、お楽しみといこう」
「よしきた!」
「任せろい!」
私は全力で走り出した。ところがすぐに追いつかれ、腕を取られた。
「ち、ちょっと、やめてください! なにするんですか!」
「なにって、なぁ?」
男はニタニタと笑う。
「聞くだけ野暮ってもんよ」
体を丸めて自分を守ろうとしたけど、強い力で腕を掴まれ、腰を屈めることさえできなかった。
「やめて……! やめろっての……!」
「ひっひっひっひー!」
私は全力で抵抗するけど、それを楽しむように男たちは笑った。
「何をしている!」
男たちが来たのとは反対の方角から声が聞こえたかと思えば、馬に乗った男の人の姿が見えた。一瞬、私を助けてくれる白馬の王子様でも現れたのかと期待したけど、その人も男たちと同じように甲冑姿だった。お仲間であるらしい。終わった。
「女に手を出すとは何事だ!」
ん?
どうやらこのヤマト兵は、先ほどの三人とは少し違うらしい。年齢は三十歳くらいだろうか。精悍な顔つきで、高貴な雰囲気が漂っていた。
「いやあ、違う違う。この女が道に迷ったというから、里まで送ってやろうって話をしてただけで……」
「嘘です! 襲われました!」
私が主張すると、高貴なる男性は下賤な男を睨みつけて黙らせた。そうして馬から下りると、私に頭を下げた。
「私の部下が失礼を申した」
もしかして、この人が鳥橋さんが言っていた、歩空先輩のご先祖様だろうか。
「……あなたは?」
「空丸だ」
やっぱりそうだった!
心の中でガッツポーズする。先輩のご先祖様が、この下賤な男たちの誰かじゃなくて良かった。
ちなみに、歩空先輩に似ているかと言われれば、まったく似ていない。さすがに何代も前のご先祖様だから、似てなくて当然だろう。
「私は、征夷大将軍 文室綿麻呂殿に仕えておるものだ」
――文室綿麻呂。
それは私にとって、決して無視できない名前だった。私の世界で消えてしまった徳丹城の城主だからだ。
「お主の名は?」
「サヤカです」
「サヤカ。早く里へ帰るのだ。ヤマトはこんなゴロツキばかりではないが、中にはこういった連中もいる」
空丸さんは男たちを睨んだ。
「さっさと食料を城に運べ! また蝦夷に襲われたらどうする!」
「へ、へい!」
空丸さんに一喝された男たちは、またガラガラと大八車を押し始めた。二度と私の前に現れないでほしい。あやうく一生のトラウマを作るところだった。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「私の部下がしたことだ。すまなかった。お詫びに里まで送ろう」
「あ、ありがとうございます!」
と言っても、私は馬に乗ったことはない。メリーゴーランドになら乗ったことあるけど。
空丸さんは早々と馬の背に乗り、私に早く乗れと言わんばかりに私を見てきた。
「この馬は気性が穏やかだ。安心して乗るがいい」
そういうことじゃないんだけどな、と思いつつも、「はあ、じゃあ」と私は馬へと近づいた。
「失礼します……」
鐙? っていうんだっけ? 馬の腹の辺りに足をかけるところがあって、とりあえずそこに足を乗せる。ぐっと力を込めて自分の体を浮き上がらせると、
「逆だ」
と空丸さんは冷たい声色で言った。
馬の腹の左側にあった鐙に右足を乗せたものだから、私はバイクで言うところのサイドカー状態だった。
「すみません、すみません!」
気を取り直して、今度は左足をかける。だけど焦ってしまって、今度はずるんと足を滑らせ尻餅をついた。
ねえマジで何やってんの私。
「焦らなくてもいい」
そんな私に、空丸さんは手を差し伸べてくれた。さすがは歩空先輩のご先祖様。人間ができている。
三回目のチャレンジでようやく乗馬に成功した私は、鞍をしっかりと掴んだ。
「では参る」
空丸さんの合図で馬が歩き始める。
どうにかなった、という安堵感と、心地よい揺れが眠りを誘うけど、私は鞍を掴み続けた。
3
「……はっ!」
しっかりと鞍を掴んでいたはずだったのに、気づけば私はだらんと両手を垂らし、おまけに空丸さんの背中にべったりと頬をつけていた。
「すみません、寝てしまいました!」
「気にすることはない。道に迷い、疲れておったのだろう」
辺りを見回すと、いつの間にか森を抜けていたようで、小高い丘の上にいた。眼下には集落があるのだけど、おそらく蝦夷の里だろう。
陽は山の背に隠れつつあり、空は遠くのほうからだんだんと橙色が滲んでいた。
「ここからは歩いて帰れるはず」
「すみません、ありがとうございます……」
私が馬から下りると、空丸さんは手綱を操り私に背を向けた。
「あ、あの……」
何の余韻もなくこの場を立ち去ろうとする空丸さんに、私は声をかけた。ほとんど見切り発車で。