第1章

想えば想うほど、

私の恋は遠ざかる


Vol.1 はじめから読む

プロローグ

 鉛玉のように固い雨が、絶えず地面を穿ち続ける。雨粒が土を崩し、泥水へと変わってゆく。一帯は、まるで泥が沸騰しているかのように、泡ぶくが吐き出され続けていた。

 煙る視界の中、剣を構えた黒い影が横切る。

「おのれ綿麻呂ぉおおお!」

 灰色の空に、空を切り裂くような巨大な稲妻が映る。直後、まるで空が割れて、その破片がバラバラに砕かれたかのように、迅雷の音が響き渡った。

「また我らを騙したな!」

 一度降り出した雨は、際限がなかった。まるで人の怒りのように。

「やめて――」

 雨や風や雷に遮られ、私の声は誰にも届かない。

 私は走り出す。泥濘に足を取られながらも、必死に足を動かした。

 雨と涙と悲しみに満ちたこの物語を、いったい誰が初恋の物語だと信じるだろう。

 私の初恋は執念深い。相去歩空先輩にもう一度会うために、私の肉体は千二百年もの時を超えたのだから。

「お願い――」

 あとどれだけもがいたら、私は歩空先輩に会えるのだろう。

 私の人生が、大きく動き出したのは高校一年生の六月。

 笑ってしまうほど愚かな事件を起こした、体育祭がきっかけだった。

1 約千二百年後 岩手 矢巾

 普段、私は理性よりも感情が上回ることはない。

 体育祭や文化祭などで、周囲が我を忘れてはしゃぐ中、漫然と立ち尽くしているのが私という存在で、常に誰かに監視されてるような息苦しさを抱いて生きている。

 目立たないように。

 誰かと揉めないように。

 輪を乱さないように。

 そうやって生きてきたのが私だ。

 そんな私が、人生で初めて『タガが外れる』という現象を体験したのは、想いを寄せる歩空先輩のせいだった。

歩空先輩はバスケ部のキャプテンで、いわゆる愛されキャラと呼ばれるお人だった。

 何かイベント事があると、「歩空いけ!」と周囲から煽られて、ステージに上げられる。そんでもって、「なんか面白いことやれ!」と無茶ブリをされ、大スベリしてしまう。それが歩空先輩だった。

先輩はみんなに愛されていて、いつも誰かとゲラゲラ笑っている。カッコいいというよりは、面白い人のイメージがあった。

 そのイメージが、体育祭のときに一変した。

 ウチの高校はスポーツ科があるせいで、体育祭ではスポーツ科が無双する。にもかかわらず、普通科の歩空先輩は獅子奮迅、八面六臂の大活躍を見せて、クラスを総合三位に導いた。特にリレーのときなんて、アンカーで走った歩空先輩は次々と相手を抜き去り、あまりのカッコよさに私は気絶しかけた。

 一応写真部である私は、堂々と先輩の写真を撮った。先輩だけを撮っているのが周囲にバレないように、数枚だけ。

 でも歩空先輩があまりにも眩しくて、涙が出るほどカッコよくて、あともう一枚だけ、もう一枚だけ――と未練がましく撮っているうちに、もうどうにでもなれ、とヤケを起こした。結局私は、三百枚以上の写真を撮ってしまった。

 あんだけ写真をバシャバシャ撮ったわけだから、先輩にバレてないわけがない。家に帰ったあと、私は強烈な自己嫌悪に陥った。先輩は私を気持ち悪いと思っただろうし、周囲の子たちもドン引きしていたに違いない。

「いやー、まさかあの紗夏が我を忘れて暴走するなんてびっくりだよ! わはは!」

 体育祭の振替休日を経た翌日、私は澪と校門で待ち合わせをした。

 澪とは小学校からの仲で、いわゆる幼馴染だった。

「ま、とりあえず大判焼き会議しようぜ」

私たちが通う高校の最寄りの駅、矢幅駅のすぐ目の前には『ヤハバル』と呼ばれる小さな屋台村がある。その中の一軒に、私たちのお気に入りの大判焼きのお店があった。大小含め何か問題が起きると、私たちは大判焼きを食べながら会議をする。それが中学生の頃からの習わしだった。

「今日はどうしよっかなー」

 ここの大判焼きは、あんこやカスタードなどのオーソドックスなものだけじゃなくて、分厚いベーコンやキムチーズなどのメニューもあり、電車を待つ高校生や大学生に大人気となっている。

 私と澪はお目当ての大判焼きを購入して、街路樹を囲む円形のベンチに腰掛けた。

 澪はお気に入りのキムチーズを頬張ると、「ういー、うめえな」とおっさんみたいに唸った。

この幼馴染は顔もお人形さんみたいに整っているし、髪色は天然の栗色だし、黙ってさえいればだいぶかわいいとは思う。だけど自他ともに認める落ち着きのなさが玉に瑕だ。この前二人でフードコートに行ったときには、ポテトの早食い選手権を突如始めて(私は参加していない)、勝手に喉の奥にポテトを突き刺し、『ごはぁ……っ!』と一人で悶え苦しんでいた。ちなみに私は、そんな澪を見て死ぬほど笑った。

「……ねえ澪、どうしよう。私が写真撮りまくったこと、絶対先輩にバレてるよ」

「こうなった以上は、悩んでたって仕方ないっしょ。いっそ先輩に話しかけてみなって」

「いやいやいや! そんなの絶対ムリだから!」

「ピンチをチャンスに変えるんだよ!『こんにちは先輩! 私、写真を撮るのが趣味なんですけど、体育祭のとき、たまたま、もうほんとに偶然、先輩がよく撮れた写真があったんです! 今度お渡ししてもいいですか?』って声かけるの! どう? いいんじゃない?」

「……いやムリだよ」

「なんでよ」

「だって私が撮った写真、たまたま先輩が撮れたっていうような写真、一枚もないもん。全部ど真ん中で写ってる」

 明らかに歩空先輩を写しました、ってな具合の写真しかない。

「ほんなら、『私、写真部です! 色んな人の写真を撮るのが趣味です! 先輩のも一枚撮らせていただきました! 今度お渡ししてもいいですか?』これでどうよ!」

「……それもちょっとムリかな」

「なんでだよ!」

「色んな人の写真を撮る趣味っておかしくない? キモい、とか、変な子だな、って勘違いされたらイヤだよ」

「考えすぎだよ!」

「……そうかな」

「ちなみに紗夏は、体育祭で歩空先輩の写真、何枚撮ったの?」

「えっと、三百枚以上……」

「そもそもキモいし変な子だろうがよ!」

 と澪はヒドいことを言うけど、紛うことなき事実だった。

「ねえ澪、私が今日相談したいのは、先輩との進展についてじゃないの。私が写真を撮りまくってたことが、おそらく先輩にバレたってことを相談したいんだよ」

「だーかーら! んなこと気にしてたってしょうがないじゃん!」

「……気にしちゃうよ」

「てかさあ、紗夏は私に相談したいんじゃなくて、単純に慰めてほしいだけなんじゃない?」

「……うん!」

「慰めてほしいだけかーい!」

 澪のツッコミが初夏の夕暮れに響き渡る。

「なんでピンチをチャンスに変えないかなあ!」

 私は恋愛にちょっとしたトラウマがあり、だから初恋が遅かった。十五年の沈黙を破り、ついに恋をした私に、澪は何かをしてあげたくてもどかしいのだろう。

 ちなみに澪は人並みに恋愛経験がある。

「私は別に、歩空先輩と仲良くなりたくないわけじゃないんだよ」

「素直じゃねーなぁ! ほんとは歩空先輩と付き合いたいくせに〜」

「違うよ」

 私なんかが、先輩と付き合えるわけないっての。

「じゃあ正直に言ってね?」

「なにを?」

 と私が聞き返すと、澪は悪戯を企む子供のような笑みを浮かべた。

「紗夏は先輩とキスすること、一回も想像したことない?」

「……は、はあ? ないよ。あるわけないじゃん、やだなあもう、何言い出すのマジで、ああ意味わかんない」

 冷静を装って言い返したつもりだったけど、たぶん私はわかりやすく動揺していたのだろう。

「うははははは!」

 澪は手を叩きながら愉快そうに笑った。

「なんかムカつく……」

「まあ紗夏のことだから、自分なんかが先輩と付き合えるわけないって思ってるかもしれないけど」

 ――さすが幼馴染。的確に私の心情を理解している。

「そんなの関係ないから。大事なのは相手じゃなくて、紗夏自身で――」

 澪の視線が私の背後に向く。一瞬狼狽えたような表情を見せたあとで、口もとに手を当て、私にぐっと顔を近づけてきた。

「歩空先輩がいるんだけど」

「え⁈ うそぉ!」

「なんか私たちに用があるみたいだよ。こっち見ながら、向かってきてる」

「なんでなんでなんで」

「いやわかんない」

「写真撮ったこと、やっぱりバレてたんだ……」

 終わった。きっと私は盗撮魔として軽蔑されている。

 背後から足音が聞こえてくる。私の心臓の鼓動が早くなる。足音がすぐ真後ろで止まると、心臓は私の口から飛び出さんばかりに早鐘を打った。

「二人とも久しぶりー。俺のこと覚えてる?」

 歩空先輩の声だ。声の感じから、特段怒っている様子は感じられなかった。けど、腹のうちはわからない。実際は烈火のごとく怒ってる可能性もある。

「もちろん覚えてますよ。ね、紗夏」

「う、うん」

 先輩と話をしたのは、かれこれ一年くらい前の話だった。ほんの一瞬だけ、先輩が私を覚えてくれていたことを嬉しく思ったけど、喜んで良い場面じゃない。

「はは、そりゃよかったよ。で、早速なんだけど、ちょっと志田ちゃんにお願いがあって」

 志田ちゃんとは、私のことだ。私の本名は志田紗夏という。

「わ、私に……ですか?」

 さすがにこの状況で先輩に背中を向けているのはどうかと思い、私はゆっくりと振り返った。

「おう志田ちゃん、久しぶりだね」

 歩空先輩が、軽く手を上げて微笑んでいた。たまらず胸がきゅうっと苦しくなる。

 いつも優しそうに微笑む先輩の目は糸のように細い。可愛らしい八重歯が特徴的で、どこか小動物っぽい愛嬌がある。

「私に、どんなご用ですか?」

「志田ちゃん、体育祭のときめちゃくちゃ写真撮ってたじゃん?」

 ほらきた! やっぱバレてるよね――ッ!

「志田ちゃんって写真部だったんだ」

「あ、う、いえい」

 動揺した挙げ句、変な返答になってしまった。何がイエイだ。めちゃくちゃ陽気な人間だと思われたかもしれない。どうしよう。

「もしかしたら、もう聞いてるかもしれないけど、体育祭の日、バスケ部の部室が荒らされる事件が起きたんだよ。バスケ部の部室だけ」

 え?

「……そうなんですか?」

「うん。部室の鍵が壊されててさ、中がぐちゃぐちゃに荒らされてた」

 まだ話が見えてこない。どうしてその話と、私が写真を撮りまくっていた話が繋がるのだろう。

「色んな人に聞き込みしてるんだけど、ほとんど情報が出てこなくてさ、誰の仕業なのかまったくわからない。どうすっかなーって思ってたところで、ふと思い出したんだよ。志田ちゃんが体育祭のときにいっぱい写真撮ってたこと。だから撮った写真の中に、何か事件解決の手がかりとなるようなもんが写ってないかと思ったんだ。もしよかったら、志田ちゃんが撮った写真、俺に一通り見せてくれないかな」

「……あ、なるほど」

 いやムリムリムリ‼ 絶っ対ムリ‼ なにせあなたしか写ってませんから! 見せたら部室荒らしとは別の事件が起きてしまいますから!

「俺、実はバスケ部のキャプテンなんだけどさ」

 もちろん知ってます。

「キャプテンとして、バスケ部に起きた問題を、このまま放置するのはイヤなんだ。だから頼むよ、協力してほしい」