第2章

私は今日、先輩に

初めて腹が立った


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三章 私は今日、先輩に初めて腹が立った(続)

4 続き

先輩はいずれ、この町を出ていく。なぜなら先輩の志望校は、『国立の医学部』だからだ。岩手の国立大学である岩手大学には、医学部は存在しない。

 先輩が県外の大学に進学したら、その地域でお医者さんになる可能性は高い。そうなれば、私と先輩の人生が、今後交わることはないと思う。

 ほんの少しだけでもいい。先輩が将来、『やっぱ岩手に帰るか』と思うきっかけを作りたかった。将来のことなんてちっともわからないけど、先輩が遠い町の人になり、私と一切関わりのない生活をすることに、今の私は耐えられない。

 だって私は先輩が大好きだから。

「……ん⁈」

 ラインの着信音が鳴る。スマホを手に取る。画面に表示された名前を見るなり、私は軽いパニックを起こした。スマホをわちゃわちゃとお手玉状態にしたあと、改めてスマホの画面を見る。

「歩空先輩……」

- 今まで先輩からライン電話が来たことはない。だから戸惑った。心の準備が必要だった。できればあと一時間ほど待ってほしい。そんなことできるわけないだろ。私は何を言っている――早く出ろ!

「も、もしもし!」

『志田ちゃん! 今日はごめん! ほんとごめん!』

 出し抜けに、先輩の大きな声が聞こえてきて、涙が出そうになった。

「先輩に、何かあったんじゃないかって、心配してましたよ」

『ちょっと色々あって! 悪いんだけど、今から少しだけ会えない?』

「え、今からですか?」

『ほんの数分でいいから! どうしても直接話したいんだ!』

 寝起きだからちょっと待ってほしい、というのが本音だったけど、私も先輩と直接話がしたかった。

「わかりました。どこへいけばいいですか?」

『歩道橋の辺りにしよう』

 徳丹城の前の歩道橋は、ちょうど私と先輩の自宅の中間地点にある。つまり最短で会える場所。

『すぐに出てこれる?』

「いけます」

 と答えながら、私は髪を手で整えた。

『ありがとう、俺もすぐ行くから』

先輩との通話を切り、急いで準備を整えてバタバタと階下へ下りると、「なにあんた、今から出てくの?」とお母さんがリビングから顔を覗かせた。

「もうお父さんも帰ってくるし、明日にしなさ……」

「大事な人に会ってくるの‼ 今会わなきゃいけないの‼」

「そ、そうですか」

 私に気圧され、思わず、といった具合にお母さんが敬語を使う。

 外へ出ると若干雨が降っていたけど、お構いなしに自転車に乗った。先輩だって自転車で来るはずだ。先輩を待たせるわけにはいかない。一心不乱に自転車を漕いだ――。

「志田ちゃん!」

 歩道橋へ到着すると、ちょうど道路を挟んだ向こう側に歩空先輩の姿が見えた。先輩は自転車を停めて、歩道橋を駆け上り始めた。私も同じように自転車を停めて、小走りで歩道橋の階段を上る。

「今日はごめん!」

 歩道橋の真ん中辺りで、歩空先輩は私に頭を下げた。

「怒ってるよな、ほんと、ほんとごめん!」

「……事情を、話してくれるんですよね?」

「体育祭のとき――」

 体育祭?

「部室が荒らされた事件があったろ?」

「ありましたねそんなこと」

 たしか、恋愛関係のもつれによる事件だったと思う。

「実はあの件、まだ解決してなかったんだよ。当事者同士ではまだ揉めててさ。そんで今日、二人が偶然鉢合わせになって、ケンカになっちゃんだよ。下手すりゃ部活動停止になると思って、俺も慌てて現場に駆けつけたんだ」

「そんなことがあったんですか……。それで、解決はしたんですか?」

「うん、じっくり話し合って、謝るところは互いに謝って、なんとか解決はした。最初からちゃんと二人の話を聞いてあげてりゃ、こんなことにならなかったんだけど……」

 先輩は悔しそうに歯噛みした。

「……正直、最初に部室を荒らしたヤツの動機が、恋愛絡みの問題だと聞いたとき、大した問題じゃないと思って、流しちゃったんだよ。たかが好きだった女子を取られたとか、取ったとか、そんなことでケンカするなんてくだらないって。でも……今はそう思わない」

 先輩は、「ふうっ」と強く息を吐いてから、私を見た。

「俺、最近好きな人ができたんだ。だから、アイツらの気持ちがわかるようになったんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、心臓を冷たい針を突かれたような痛みが走った。

「……バレー部の方ですよね?」

「え? いや、違うよ。もしかして、結のこと言ってる? アイツは俺の従兄弟だよ。さっきの件で色々と相談してたんだ。あとは……俺が好きになった子のこととかも、相談乗ってもらってて」

 先輩は照れたように笑った。

「その、あれだよ。俺が好きなのは……」先輩は、私をものすごく優しげな目で見た。「志田ちゃんだよ」

「はぁ、そうですか」

 ……え⁈

 今なんて言った⁈

「はい⁈」

「不器用だけど、一生懸命な志田ちゃんが俺は好きなんだ。自分を変えようともがく志田ちゃんを、ずっとそばで応援したい」

「…………へ?」

 脳の処理が追いつかない。頭が真っ白になって、ただ呆然とするしかなかった。

「俺が志田ちゃんをマジで好きだって思ったのは、二人で西徳田を散歩したとき。あのとき志田ちゃん、自分の影と俺の影で、手を繋いで遊んでただろ?」

「えっ!」

 思わず声を上げる。まさかバレていたとは。

「あんとき、何この子マジでかわいいって思ってさ」

「……は、は、は、は」

 もはや私は呼吸困難に陥っていた。

「恥ずかしいので、やめてください……」

「志田ちゃん、俺と付き合ってくれないか」

 ここまで言われてもまだ現実感がなく、私は答えに窮してしまった。

 本当は、先輩が好きだと言いたかった。体育祭のとき、先輩だけを撮っていたことも、学校で声をかけられると誇らしい気持ちになることも、先輩からのラインが返ってこないだけで、私はこの世の終わりのような絶望を味わうことも、全部言ってしまいたかった。

 けど、言葉にしようとすると、大きな塊が喉をつっかえた。何も言葉を返せないことがもどかしい。

「…………」

 どれくらい沈黙が続いただろうか。どうしても言葉が出てこなかった私は、代わりに大きく頷いて、もう一度頷いて、何度も何度も頷いた。

「……それは、OKってことだよな?」

「はい……」

「おいー! 何も言わないから、俺フラれるのかと思ったわ! ははは!」

 先輩は身を捩りながら笑うけど、私には笑う余裕なんてなかった。

「んじゃあ、これからよろしく」

「……はい」

 家に帰ったら、すぐに澪に報告しようと思う。澪はびっくりして絶叫するに違いない。

「急に呼び出してごめんな。送っていくよ。彼女だし」

 彼女‼

「いえ、今日は大丈夫です。お父さんがちょうど帰ってくる頃なので。先輩と一緒にいるのを見られたら、面倒なことになります」

「お父さん怖いの?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど、娘に彼氏ができたと知ったら、熱を出して寝込むと思います」

「ははは、めちゃくちゃ愛されてんだな」

 否定はしない。私は両親に愛されてるからこそ、イジメられたときに相談できなかった。

「じゃあ、今日はここで。帰ったらラインするよ。おやすみ、志田ちゃん」

 最悪の日から一変、まさか先輩と付き合えるなんて、思いもしなかった。

「おやすみなさい」

 先輩に頭を下げてから、私は歩道橋を下りた。自転車を押しながら振り返ると、まだ先輩が歩道橋の上にいて、欄干に体を預けながら、私に手を振っていた。

 私も先輩に手を振り返しながら、自転車を漕ぎ出した。まだ、自分が先輩の彼女になった実感がない。きっと明日になっても、実感は湧かないだろう。それくらい、私にとっては思いがげないことだった。

 

「志田ちゃん‼ 危ない‼」

 

 先輩の声と、目の前に大きな光が現れたのはほとんど同時だった。一瞬見えたのは大きなトラックの車体。瞬く間に私は大きな光に飲み込まれた。

 内臓と体が分断されるような、大きな衝撃が体を襲う。

 体が宙を舞う。

 視界がぐるぐると回る。

 もう一度大きな衝撃があった。

 目を開けようと思ったけど、体が言うことをきかない。

「……うぅ」

 渾身の力を込めて瞼を開くと、視界は横向きになっていた。中学生の頃から愛用しているママチャリが転がっていて、その周辺には何かの破片が散らばっていた。

 私を呼ぶ声が聞こえる。誰かが私の体を抱く。瞼を開いているはずなのに、視界が霞んでゆく。酷い耳鳴りとともに、私の意識はどんどん細くなっていった。

 どうして私の人生って、こうなっちゃうんだろう。

 私は死ぬのだろうか。

 たとえ死ぬとしても、歩空先輩のことだけは、忘れたくなかった。

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