1. 仏教が考えた人間
仏教は、人間についてどのように考えているのでしょうか。心はどこにあると考えたのでしょうか。お釈迦様は出家後、瞑想と苦行を行い、最終的に菩提樹の下で再度瞑想を行いました。その際、苦しみが生じる原因に気づきました。苦しみの原因は、生きる人間の心の仕組みにあると理解しました。その後、お釈迦様の教えを受け継いだ弟子たちは、次のように人間を定義しました。
人間は、肉体と精神で構成されており、それを「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」の五つの要素に分け、それを「五蘊(ごうん)」と定義しました。五蘊には、次のような機能があります。
「色」は肉体の活動を示します。
「受・想・行・識」は心の活動です。
「色」は「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根(ろっこん)と呼ばれる知覚機能に分けられると考えました。これはコンピュータで言えば、外部の変化を検知するセンサーの役割を果たします。この知覚機能が外部の変化を検知し、心が動くと説かれています。具体的なメカニズムは以下の通りです。
2. 心のメカニズム
五蘊には次のような働きがあります。
「色」(しき): 人間を構成する体や物質で、「六根」と呼ばれる「眼、耳、鼻、舌、身、意」の知覚器官を持ちます。これらの六根から常に外部の変化を検知します。
眼: 光のエネルギーの変化が入力されます。
耳: 周波数の変化を音波として入力されます。
鼻: 化学物質の揮発性成分が入力されます。
舌: 化学物質の水溶性成分が入力されます。
身: 皮膚の感じる圧力や温度が入力されます。
意: 眼、耳、鼻、舌、身からの情報もこの意の機能を通ります。
「受」(じゅ): 六根の感覚作用です。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の感覚が意識の中に取り込まれ、知覚となります。
「想」(そう): 「受」で得た情報を心の中でイメージする作用です。記憶との照合が開始されますが、この時点では知覚したものが何かはまだ漠然としています。
「行」(ぎょう): 「想」で得たイメージと記憶との照合が完了する作用です。変化が何であるかを照合します。
「識」(しき): 意識の中で判断する作用です。六根から得た感覚と自分の記憶との照合結果を踏まえて、自分の意識の中で認識されます。その結果を基に、好き、嫌い、怖い、怖くないなどの判断をし、その結果を心や体に戻します。
例えば、リンゴを眼で見たとします。リンゴは太陽の光の中で「緑」「青」の光を吸収し、「赤」を反射しています。眼はその赤の光を感じ、心に流します。心のメカニズム要素の「受」が赤い塊を感知し、その感覚が「想」に伝わり、赤いリンゴのイメージが形成されます。このイメージが「行」のプロセスを通じて過去の知識と照合され、「リンゴ」と認識されます。そして、「識」の段階でさらに知識との照合が進み、「リンゴという果物だ」と認識し、お腹が空いていれば「食べたい!」と心が動きます。お釈迦様は、このように心が働いていると悟り、このメカニズムは宗教だけでなく、哲学や科学にも大きな影響を与えました。重要なキーワードには「刹那」と「空」があります。
3. 刹那と空
刹那(せつな): 刹那とは、心の動くスピードです。仏教では「色・受・想・行・識」にはスピードがあると説かれています。「1刹那」は一説によると75分の1秒と言われています。リンゴを見て「食べたい!」と思うまでの時間は1刹那であり、私たちはこのスピードで六根が変化を検知し、心を動かしています。
空(くう): 空は仏教の難解な概念の一つで、「空っぽになる性質」を意味します。この性質を「空性(くうしょう)」と呼びます。般若心経には「五蘊皆空(ごうんかいくう)」とあり、五蘊は空っぽになる性質を持つと説かれています。コップの例で説明すると、コップは水を入れることができますが、時間が経つと水は蒸発し、コップは空になります。コップの実体は、何かを入れたまま維持することはできません。
刹那と空の関係: 五蘊も同じです。目や耳、鼻などの六根から常に情報が入ってきますが、それらは必ず空っぽになります。お釈迦様は、人間は五蘊でできており、その五蘊は六根から得た変化を常に受け取っていると考えました。そして、その情報は「色→受→想→行→識」の流れの中で刹那のスピードで処理され、その後、空っぽになります。これが基本的な心のメカニズムです。
4. お釈迦様が5つに分けた理由
お釈迦様はなぜ心のメカニズムを五つに分けて説いたのでしょうか。ここには一つの疑問があります。お釈迦様は、デカルトと同じように人間は「肉体と精神」でできていると説きました。デカルトは「二元論」の先駆者と言われます。しかし、2500年前に生まれた仏教は「一元論」を中心としています。たとえば、「梵我一如」は一元論の代表的な教えです。仏教の教えの中には、一見二律背反しているような事象が「二つあるようで実は一つ」という教えがあります。これを「而二不二(ににふに)」と呼びます。お釈迦様は、人間が肉体と精神に分かれていると説くだけでなく、さらに五つの塊「五蘊」でできていると説きました。これはお釈迦様の「方便」だったと思われます。お釈迦様は敢えて五つに分けることで、「無常」と「皆苦」の真理を分かりやすく伝え、自分とは何かを考えさせようとしたのだと思われます。見えない心の動きを自らが観察しやすくなるからです。
5. 苦しみを生むメカニズム
私たちは「刹那」のスピードで瞬時に五蘊を変化させていますが、五蘊は空っぽになる「空」の性質を持っています。そのため、一定の状態で保持されません。心が一度満足した処理を行っても、次の瞬間には心は別の状態に変わってしまいます。これは「無常」の真理に通じます。また、六根は意識、無意識に関わらず周囲の変化を受け取り、心に変化した情報を送り続けます。生きている限り、この真理を避けることはできません。心が動く限り、私たちは生じた欲求を満たそうと生活しますが、思い通りにならないことが多く、結果として苦しみが生じるのです。これが「皆苦」の原因です。
6. 達磨大師の心
達磨大師はインドの香至国の第3王子であったとされています。その後、出家し、般若多羅尊者に弟子入りしました。お釈迦様が出家した話に類似しています。達磨大師は修行に専念し、般若多羅尊者から認められ、仏教の28代目の祖師となります。般若多羅尊者から「仏教の法」のようだと言われ、「法」のサンスクリット語の「ダルマ(達磨)」と名付けられました。正式な名前は「菩提達磨」で、名前の意味は「悟りの法」です。520年頃、般若多羅尊者がこの世を去ると、達磨大師は中国の広州に渡り、南朝の梁の武帝と出会います。
禅問答 安心
少林寺に籠もって坐禅修行をしていた達磨大師のもとに、慧可という僧侶が弟子入りを願いに訪れました。慧可は元々「神光(しんこう)」と呼ばれ、儒教や道教、小乗仏教に精通した僧侶でしたが、満足できずに達磨大師を訪ねました。達磨大師はなかなか弟子入りを許可しませんでしたが、慧可は弟子入りの強い意志を示す為に刀で左腕を斬り落として、ようやく弟子入りを許可されました。以下はその時の達磨大師と慧可の問答です。
達磨面壁す、二祖雪に立つ。 臂を断じて云く、弟子未だ安からず、乞う師よ安心せしめよ。 磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為めに安ぜん。 祖云く、心を求むるに、了に不可得なり。 磨云く、汝が為に安心し畢(おわ)んぬ。 【訳】達磨大師が壁に向かって坐禅している時、禅宗の二祖となる慧可が雪の中に立ち、自分の腕を切り落として言いました。「私の心はまだ不安です。大師よ、どうか私の心を安心させてください」。達磨大師は、「その不安な心をここに持って来なさい。あなたの心を安心させましょう」。慧可は言いました。「その不安な心を探しましたが、どこにも見つかりません」。そこで、達磨大師が言いました。「これで、あなたの不安な心は取り除けたので、安心できたでしょう」。※無門関より
この問答は、安心を得るとはどういうことかを考えさせられます。地震や治安、医療、社会保障などの不安が多い時代に、安心とはこれらの課題を取り除くことだけでは得られないと感じます。仏教では、安心は内に求めるものであり、執着心を捨て、自分の心を平安に保つことが教えられています。慧可はそれを理解していたものの、不安が解消されていなかったのです。達磨大師が「その心をここに持って来なさい」と言った時、慧可は自分の悩める心を探しましたが見つかりませんでした。心とはどこにあるのか、どのようにして安心を得るのかについて、慧可は「無いものに執着していた」ことに気づかされたのです。
心は空性と刹那のメカニズムで動いているだけです。心が感じている不安は、自分自身が常にそのように心を動かしているからです。実は、心に常に留まっているものはなく自分自身が執着するものをつくっていたのです。この心のメカニズムからも仏教の真理である「無常」と「皆苦」を知る事ができますね。この禅問答は、まさに禅の教えを示すものと言えるでしょう。