2011年八王子千人隊供養祭チラシより
千人同心の母体は戦国時代甲斐の国にあるとされる。
武田家の中で「小人頭」と呼ばれる役職があり、9人の小人頭が30人ずつの部下を持ち、信玄の居館・主要道路の警備に当たるのが任務であった。
部下は時として「同心」と呼ばれ、これから類推し「千人同心」の呼称もこれから端を発すると考えられ、千人同心の原型は軍事集団であることが解る。
天正十年(1582年)武田氏は滅び甲斐は徳川家の支配下になった。
天正十一年(1583年)家康は、後の千人頭となる萩原ら9人を浜松に召し出し買いの国境警備を命じる。この時同心は約240名。
天正十九年(1591年)老中本多正信の命で、同心人数500名となる。
慶長五年(1600年)関東十八の代官および八王子同心の総取締大久保長安が1000人に増員。八王子千人同心が確立。
-この間、徳川家康が江戸幕府を開く―
慶応二年(1869年)千人同心を千人隊と改称。
徳川幕府崩壊とともに、八王子千人隊は解散。
多くは八王子に戻るが、千人隊の一部は徳川十六代当主家達とともに駿府に入る。
駿府へ入った一部が貫属(明治期、地方自治体に属することをいう)として、浜松勤番になり一部は百里園(現在の静岡県浜松市北区三方原町)の開拓に、一部は内野八丁谷(現在の静岡県浜松市浜北区染地台)に入植。ここから正寿院とかかわりが始まる。
当寺院に一人の武士「町田冨衛門正房」の写真が保存されている。この写真は昭和五年四月、正房の長男喜作が当寺院に奉納したもの。
墓地の一角を進んでいく。
画面中央の墓の右奥、細い階段状の道をすすみ、まもなく右手に見える。
現在もひっそりと八王子千人隊士の3名(吉野、椚、門倉)の墓が祀られている。
それ以外の十名以上が当寺院に葬られている。