イッセルソン
イザーソン
ゲオルギー・サモイロヴィッチ・イッセルソン(Georgii Samoilovich Isserson, 1898年6月16日 - 1976年4月27日)はソ連の陸軍軍人である。第二次世界大戦におけるソ連軍のドクトリン、縦深作戦の研究で重要な業績を残した。
経歴
ロシア領コヴノ(現カウナス)の出身。ユダヤ人の医師の家に生まれた。1916年にペテログラード大学の法学部に入学しているが、当時は第一次世界大戦の最中だったため、1917年1月に徴兵された。その学歴から士官候補生に選抜され、9月25日に少尉に任官したものの、10月までに陸軍を退いている。詳細な経緯は明らかではない。1918年6月20日に赤軍に志願して入隊しており、当初は政治将校として新兵を募集する業務に従事していた。パルチザンを鎮圧する作戦で経験を積み、また同年に共産党に入党した影響もあり、次第に赤軍における地位は強化されていった。
1920年にモスクワの労農赤軍参謀大学校に学生として入校して本格的に軍事学の研究を開始した。1924年8月に教育課程を修了するまでの間に部隊で指揮官、参謀として勤務することもあり、モスクワを離れることもあったが、ドイツ軍の戦術について専門的に調査研究を行うことができた。卒業後はレニングラード軍管区の第40歩兵連隊に配属され、連隊の訓練校で校長に着任した。しかし、傲慢な態度だと感じた上官との関係は悪かった。1926年に軍事代表団の一員としてドイツに派遣され、ドイツ軍との連絡調整を担当することになったことが転機になった。ドイツ軍の実情を現地で調査し、また軍事史の研究にも取り組むようになった。
1929年にフルンゼ軍事大学校の教官に任命され、軍事教育の充実に取り組んだ。師団長の職を経て1936年に新たに創設された参謀大学校では学部長に就任した。第二次世界大戦が勃発した1939年に対フィンランド戦に参加した時期もあったが、間もなく教育の業務に復帰した。しかし、1941年に逮捕され、軍務を退かなければならなくなった。1955年に名誉が回復され、モスクワに戻ったが、健康は著しく損なわれた状態だった。その後も赤軍の歴史に関する研究を続けていた。モスクワにて死去。
文献案内
Harrison, Richard W. 2010. Architect of Soviet Victory in World War II: The Life and theories of G.S. Isserson. McFarland & Company.