軍事史で大論争を巻き起こした「軍事革命」とは何か

軍事史で大論争を巻き起こした「軍事革命」とは何か

軍事革命(military revolution)は、もともと軍事史の研究において議論されていた専門的トピックでした。しかし、ヨーロッパが世界の列強として躍進する上で軍事力の影響が大きかったことを考えると、近代史を理解する上でも避けては通れないトピックであり、高校世界史の教科書でも取り上げられることがあります。

一般的には16世紀以降のヨーロッパの軍隊が火器を装備するようになったことによって、戦場において騎兵が不利に、歩兵が有利に交戦できるようになった事象として理解されることが多いかもしれません。つまり、この軍事的な技術革新によって、それまで支配的地位にあった騎士階級が没落する流れが一気に加速し、中世の封建社会が解体されていく大きな要因になったと解釈されています。しかし、これは軍事革命の概念を単純化しているだけでなく、最近の研究成果を踏まえるならば、もはや正しい解釈とは言えません。

ここでは、軍事革命論争に関わる論文を集めたクリフォード・ロジャーズの著作『軍事革命論争(The Military Revolution Debates)』(1995)に収録された論文(特に第1部の内容)に沿って軍事革命とは何だったのかを解説してみたいと思います。

事の発端は1955年に歴史学者マイケル・ロバーツ(Michael Roberts)が発表した論稿「軍事革命、1560~1660(The Military Revolution ,1560-1660)」でした。

そこでロバーツは、16世紀以降に各国の軍隊が銃や火砲を装備するようになったことを背景として、(1)騎士の騎乗突撃を、戦列を組んだ弓兵、槍兵、銃兵などの歩兵が防御することを可能にした戦術的な革命、(2)軍隊の規模の数的な拡大、(3)従来よりも複雑な行軍を伴う戦略の採用、(4)増大した行政的負担に対応するための軍隊の官僚化という4つの革新的な転換が起きたと論じました。これらをまとめて名付けたのが「軍事革命」という事象です。はじめに言及した高校世界史の教科書で軍事革命を取り上げる際には、このロバーツの説の内容が基本になっています。

このロバーツの説に批判を加えたのが1976年に歴史学者ジェフリー・パーカー(Geoffrey Parker)が発表した「『軍事革命、1560~1660』は神話か?(The 'Military Revolution, 1560-1660' - A Myth?)」と題する論文でした。パーカーは軍事革命という概念の有用性を認めていますが、その認識はかなり異なったものになっています。例えば、ロバーツは16世紀にスペインと戦ったオランダ総督マウリッツ・ファン・ナッサウ(Maurits van Nassau)の下で推進された歩兵改革や、スウェーデン国王グスタフ・アドルフ(Gustavus Adolphus)の軍制改革が、軍事革命にとって重要な一歩だったことは認めています。しかし、彼らの革新はさらに前の時期から準備されていたことは、ロバーツの論文で軽視されていました。つまり、ロバーツが考えていたよりも、ヨーロッパで軍事革命が始まった時期は早かったはずだとパーカーは考えたのです。

パーカーの見解によれば、15世紀の中頃からイタリアで建設されるようになった稜堡式城郭(イタリア式築城術、星形要塞)こそが軍事革命の源流として位置づけられるべきであり、これは火砲の威力から都市や城を防衛するために設計されたまったく新しい形態の要塞でした。中世ヨーロッパの城塞で広く採用された城壁は、掩護高を高くするために、ほとんど地面に対して垂直に建設されていました。このような城壁構造は攻城砲から発射された砲弾の衝撃に対して脆弱であったため、本来の機能を果たすことができなくなりました。そこで、掩護厚を大きく増やした上で、正面に大きな傾斜を持たせた低い城壁を都市の周囲に張り巡らせる方式が考案されました。

1450年から1520年までの間にこの方式はイタリアで普及していき、従来の攻城砲の砲撃にも対抗することが可能になったのです。稜堡式城郭地域を支配する上で都市の戦略的な重要性が増し、それと同時に攻城戦は長期化するようになりました。その結果として、軍隊の維持と管理に伴う業務が複雑化したことが軍事革命の原点だったとパーカーは考えています。

その後の軍事革命の議論では、パーカーも批判の対象となっており、彼の『軍事革命(The Military Revolution;邦題:長篠合戦の世界史:ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800)』(1988)で軍事革命がヨーロッパの他の地域に対する軍事的優位を可能にしたと主張したことがヨーロッパ中心主義的であるとして問題視されたのですが、これについては後で補足します。

パーカーがイタリアの革新の重要性を主張した後でクリフォード・ロジャーズ(Clifford J. Rogers)は「百年戦争の軍事革命(The military revolutions of the Hundred Years War)」(1993)という論文を発表しました。そこでは軍事革命の発生を16世紀以降に限定して考えるべきではないというパーカーの基本的な立場に同意します。しかし、パーカーが15世紀のイタリアで生まれた築城のテクノロジーを軍事革命の源流と見る点には議論の余地があると批判を加えました。ロジャーズが軍事革命論争で成し遂げた功績は、14世紀から15世紀にかけて続いた百年戦争(1337~1453)の影響に注目したことであり、百年戦争こそが火砲が攻城戦に使われるようになったヨーロッパで最初の戦争であったと、その意義を強調しています。

ロジャーズの見解によれば、ロバーツの軍事革命の議論で注目されることになる歩兵戦闘の萌芽は百年戦争の末までに確認することができます。すでに戦場における騎兵の優位は歩兵の集団戦法によって危ういものになっていました。パーカーの議論で重視されていた火砲と築城の関係に関しても、百年戦争で攻城砲の使用が開始されるなど、注目すべき展開があったと指摘しています。ロジャーズは、これまでの軍事革命の議論を踏まえるならば、ヨーロッパで単一の軍事革命が起きたと想定するべきではなく、実際には、何度も軍事革命が発生していたと考えるべきではないかと提案しています。つまり、攻撃と防御のバランスが変化するたびに、ヨーロッパの軍隊は改革を余儀なくされたと考えることができます。そのように理解すれば、さまざまな改革の効果が時間をかけて蓄積されたことによって、ヨーロッパ各国が世界の列強として進出することができるようになったという解釈が可能になります。

ジェレミー・ブラック(Jeremy Black)が『ヨーロッパの戦争:1660~1815(European Warfare, 1660-1815)』(1994)の中で、ヨーロッパにおける最も重要な軍事革命は、1660年までに発生したのではなく、1660年から発生したと主張したことも、このような論争の経緯を踏まえると、より理解しやすくなります。ブラックが1660年から検討を開始しているのは、ロバーツが考える軍事革命が1660年に終わっているためですが、これまでの歴史学者とは異なり、ブラックはロバーツより前の時代にさかのぼるのではなく、後の時代に目を移すことでフランス革命戦争(1792~1799)・ナポレオン戦争(1804~1815)の考察を軍事革命の議論と結びつけました。

まとめ

以上の議論をまとめると、現代の研究者たちは単一の技術革新、軍制改革によって軍事革命が発生したとは考えていません。ロバーツが考えていたよりも、ヨーロッパの軍事革命の歴史は複雑であることが論争から浮き彫りになりました。今では軍事革命と呼ばれた事象や、軍事技術の発達に対する連続的な組織学習のプロセスとして理解するべきであるという視点が受け入れらています。1560年から1660年という時期に起きた変革は、それよりも前の時期に起きた変革(パーカーの説では15世紀の後半、ロジャーズの説では14世紀から15世紀の前半)と切り離して理解することは困難であり、またその後に起きた変革(ブラックの説では17世紀から18世紀)と結びつけて解釈されています。

最近の研究の動向を眺めていると、ヨーロッパ以外の地域の軍事史を軍事革命の議論と結びつけて解釈するような研究が出てきています。というのも、もともと火薬は中国で発明されたものであり、火器の開発も中国がヨーロッパに先んじて開始していました。その技術が伝播する際に、インド、中東などを経由していることを考慮する必要があります。

例えば、ジェレミー・ブラックは2007年の著作で軍事革命の影響によってヨーロッパ諸国が非ヨーロッパ諸国に対して軍事技術的に優位に立っていたという見方には根拠がなく、非ヨーロッパ諸国の軍事力を過小評価していると主張しています。ブラックの説によれば、ヨーロッパ諸国が世界各地を征服することができたのは、経済力の優越や官僚制の合理性によるところが大きかったはずです(Black, 2007)。

(この記事は「メール相談で学ぶ軍事学」で応募して頂いたご質問に対するご回答をもとに執筆しました。ご質問をお寄せいただいた応募者様に御礼を申し上げます)